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押川強兵衛の話

2022年05月09日 17:29

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/09(月) 16:03:41.70 ID:AbK5L8LX
「薩州旧伝集」から押川強兵衛(押川公近、浜田経重の娘婿)の話

あるとき、押川強兵衛はじめ多くの者が疲労のために野外でしばらく寝ることにした。
番をしていた者が寝ている者の陰嚢を探ったところ、たいていは縮みこんでいた。
強兵衛は高いびきをかいて寝ていたが、「強兵衛は剛強の人だからどんなものだろう」と探ったところ、硬くなってなかったため
さすがは勇強の人である、と感心したということだ

なお薩摩藩「本藩人物志」によれば押川公近の活躍として
関ヶ原後に伊吹山に島津兵二百人で籠り、公近と浜田主水(浜田経重の息子)が食糧を確保して皆に配った。
そののち石田三成からもらった黄金を隠して落ち延びようとしたところを捕らえられたが、島津と親しい山口直友により救助され、大小の刀を貰った。
そしてこっそり直友の屋敷から丸腰で出立し、隠していた黄金を取った後、疲労のため道端のお堂で眠った。
睡眠中、鰐口の音に気づき起きると、大脇差の男が斬りかかってきたため、その刀を奪い、男の首を切り落とし、京都に行き近衛様の屋敷に駆け込んだ。
帰国後、三虚空蔵参りの名目で島津豊久の行方や諸国情勢を探った。
そののち帰国後、桐野九郎左衛門(桐野利秋の先祖)の案内で平田増宗(琉球征伐の副将)を上意に従い暗殺した。
といったことが書かれている



179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/09(月) 17:06:39.50 ID:AbK5L8LX
最初読んだ時、「鰐口の音」は刀を抜いた時の「鯉口の音」とか「鍔の音」の間違いかと思ったけど
目を覚ますほどの音はしないから、お寺のお堂だし「鰐口の音」でいいはず
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浜田経重の話

2022年05月08日 16:59

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/08(日) 00:48:29.51 ID:xEsd93HH
薩摩藩「本藩人物志」「薩州旧伝集」から>>170の浜田経重の話

「本藩人物志」の浜田民部左衛門経重入道栄臨の記述
村田越前守経定(村田銃の開発者、村田経芳の祖先だろうか?)の附衆であったが軍功抜群のゆえ、竜伯公(島津義久)が鹿児島に召された。
秀吉公が九州に出陣された時は台聴に達し、お目見えが許され、御手槍を下賜された。
(原注:金房正次(政次?)作で一尺二寸。子孫に伝来されている)
知行五百石を拝領するよつ仰せつかったが、一年で竜伯公に返上した。
慶長十六年の竜伯公御逝去の時には殉死した十五人の一人となった。
辞世の句
二つなき、命を君に奉る こころのうちは、澄める月かな
もののふの取り伝へたる梓弓 君にひかるる、後の世までも

村田越前守の配下の時は城攻めの際、敵中や城中に忍び行って武功をあげた。
貴久公、義久公の御代まで出陣し、ことに忍びの武功があった。

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/08(日) 00:51:23.78 ID:xEsd93HH
「薩州旧伝集」の浜田経重の話
浜田民部左衛門は吉野を通った時、猪に出くわしたので木に登って通り過ぎるのを待った。
そこへ二才衆が通りかかって猪を取り押さえ
「民部左衛門殿ほどの方がなぜそのような卑怯の真似をなさるのですか?」と笑った。
民部左衛門「この身は御用のためにあるので、猪などを取り押さえる際に怪我をしては残念ですからな」
と答えたという。

ある人が浜田民部左衛門の刀を拝見したいと言ってきたので差し出したところ、抜こうとしたが抜けなかった。
民部左衛門が自分で抜いてみると赤錆だらけだったので
ある人「これではいざという時役に立ちますまい」
と笑ったところ
民部左衛門「そうですね。しかし戦というものは急には起きないものです。数十日の間がありますのでそのうちに研ぎましょう。
それに武士というものは喧嘩などしないものです。万一刀が必要なことがあれば、わたしは相手を鞘のまま叩き殺しましょう。
あなたは研いでいた方がいいでしょうが」
と答えたため、相手は閉口してしまったという。



175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/08(日) 12:49:48.35 ID:bHdxuNpE
村田銃といえばゴールデンカムイでマタギが使ってたっけ

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/08(日) 20:01:35.59 ID:MyNSl0Sh
>>174
あんまり薩摩の人っぽくない性格してらっしゃる

後醍院喜兵衛の話

2022年05月03日 16:00

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/03(火) 09:46:10.21 ID:rJTBUjzh
「薩藩旧伝集」「薩州旧伝集」より関ヶ原の島津退き口で活躍した後醍院喜兵衛(後醍院宗重)の話

・江戸で火事があった時、薩摩の衆も大勢火消しのために働いた。
みなが火事の風下にまわって作業しているのを見た後醍院喜兵衛は
「おのおの、そこは風下である。風の脇で火を消されよ」と言うと
みなは「弱気なことを言うやつめ、さあ火消し壺になれ、焼け死ね、焼け死ね!」と言いながら消した。
消火がおわり、誰も怪我したものはなかったが
喜兵衛が言うことには「あんな火事で一命を捨てさせてはならぬと思ってああ申したが、逆効果であった。
もっと言葉に気をつけるべきであった」

ある時、喜兵衛が下人に慮外があったため長刀で斬り殺した。
ある人が「下人を殺すのに長道具など使うとは大袈裟な、刀を使えばいいものを」
と言ったところ、
喜兵衛「刀を使って万一怪我をしてはなりませんから長道具を使いました。
戦場ではさすがに下人を相手に長道具や飛び道具などは用いませんよ」と言った。

ある時、家に立て籠っている者がいて、喜兵衛に捕縛が命じられた。
喜兵衛主従はみな具足を着用し押し入って捕縛した。
人々「鎧など着るとは臆病者だ」と非難したが
喜兵衛「このような立て篭もり程度で、万一し損じて怪我をしてはいけませんからな」と答えた。