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あたらよい武士を失ったものだ

2022年09月22日 17:10

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/22(木) 00:11:38.00 ID:lW/Xp3Cx
「薩藩旧伝集」から大山三次の切腹
(彼を主人公とした海音寺潮五郎の短編小説「かたみの月」では大山巌の先祖・大山稲次の弟としている)

大山三次殿が江戸で何人も斬り殺したそうだ。
白昼の出来事であったため、ある御大名の長屋から「どこの者であろうか?」と見ていたところ、下手人が薩摩屋敷に入って行ったという。
薩摩の大山三次であると取り沙汰されたため、中納言様(島津忠恒)に対してある大名が
「貴殿のところに大山三次と申すものはいないだろうか?」と尋ねた。
中納言様が「どういうわけで尋ねられるのか?」とおっしゃると
大名は「その者が何人も斬り殺したそうである」と答えた。
中納言様は「そのような者はおりません」とお返事なさった。
そこでいそいで大山三次を大廻り船(貨物船)で薩摩に下そうということになった。
しかし命じられた大山三次は「理由もないのに武士たる者が大廻り船で下れましょうか。一分が立ちません」と申して切腹してしまった。
これを聞こしめした中納言様は「さても惜しいことだ。理由をきちんと申し聞かせたならば、切腹しなかったであろうに。
あたらよい武士を失ったものだ。」と御悔やみなさったそうだ。



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/22(木) 06:03:12.52 ID:WzSRaShL
これがほんとの殺人(薩人)犯

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/22(木) 09:58:10.93 ID:Djvvw+O2
2点
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島津中書の死について

2022年05月07日 14:52

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/06(金) 22:31:17.36 ID:Oy1vWUUb
薩藩旧伝集」から島津中書(島津豊久)の死について

後醍院宗重の供のものの一人が、関ヶ原で宗重に遅れ敵中に包囲された。
そこで島津中書(豊久)が討ち死にし槍玉にあげられたのを見届け、その後しばらくして帰国した。
長命であったため宗重の孫たちの子守りをしていた時分、後醍院屋敷から頭殿の踊りを見ようと川上村に行った。
(原注:今では小山田村で踊りを行っているが昔は川上村で行っていた)
蹴合踊りの時には眼の色を変え、
「中書様がお討死にされ、槍玉に上げられ、猩猩緋の御陣羽織がさっさんに裂けた時はまさにこのようであった。
よく見ておきなさい。そして老夫がこう言ったことを覚えていてください」
と、宗重の孫を抱えて跳ねながら言ったという。
なお慶長六、七年(関ヶ原の翌年、翌々年)の頃、押川強兵衛(公近、浜田経重の娘婿で武勇の持ち主)を三虚空蔵参りの名目で中書様の行方を尋ねさせたが、
三年経っても不明だったため帰国したということだ。



後醍院宗重の息子たち

2022年05月06日 18:13

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/05(木) 22:36:45.19 ID:2DXCFnUB
薩藩旧伝集」には後醍院が伊勢路を選んだ理由について
「いつも箱に入れて持っていた大黒様が伊勢路を向いていたから」
という話もある

薩藩旧伝集」より後醍院宗重の息子たち
後醍院喜兵衛、入道して淡斎は文禄の役後から島津家に仕えていた。
(相良→島津→佐々→小西→島津のようだが)
惟新様(義弘)が帖佐建昌の城下、餅井田原で鷹狩を遊ばされた時、田舎馬に乗ったみすぼらしい老人に行き当たった。
老人は殿様を見るなり馬から飛び降りおそばに参ったが、
惟新様はことのほか丁寧にご挨拶あそばされた。
老人も「御機嫌を伺いに参ろうと思っておりましたが、こうしてお目にかかれるとは」と申し上げると
惟新様は「帰る時はまたこちらに寄ろうぞ」と御意を示された。
淡斎の嫡男、高橋少三郎はそのとき惟新様のお供をしていたが、お側の衆にこの老人の名を尋ねたところ、
浜田民部左衛門入道英臨(浜田経重)である、と答えられた。
その時、少三郎は興の醒めた顔でいたが、帰宅したのち父の淡斎に対して
少三郎「かくかくというわけで、みすぼらしい身なりをした老人は太閤様にまで名が轟いていた、武辺者の浜田栄臨でありました。
あれほどの武辺者でもあのような暮らしぶりでは、我々の暮らしぶりでは御当家にとって恥といえ、とうてい出世の見込みはないでしょう。
上方へ奉公に出たいと思います」と言うと
淡斎「何事もそなたの了簡次第である」
とのことだったので、少三郎は因幡鳥取に召し抱えられたと言うことだ。
なお淡斎の次男、蔵之介はというと謡(うたい)数寄で夜が白むまで謡を唄っていたため、淡斎は
「武辺者の子がかように遊芸にこるとは、なんと口惜しいことよ。
殿様(島津忠恒)は能が数寄なので、万一謡のせいでそばに召し加えられるようなことがあってはかえって迷惑だ」
と申したということだ。

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/05(木) 22:39:45.94 ID:2DXCFnUB
そんな蔵之介であったが、
慶長五年の関ヶ原合戦から六年目、惟新様七十歳の時、吉野で御馬追が行われることになった。
特別に二才(にせ)衆には異様の姿でまかり出ることが許されたため、鹿児島の二才衆がおもいおもいの格好で馬に乗りまかり出る中、
後醍院蔵之介だけは野袴で馬にも乗らずに出てきた。
二才衆は「あの髪と身なりをみろよ」と皆々笑った。
さて吉野で本礼落とし(競馬?)の時、蔵之介は袂から食べ物を取り出し馬に食わせ、さっと馬に飛び乗り二つ三つうちこむと真っ先に駆け出した。
その時「さてもさても淡斎の子だけはある」と皆々が申した。
惟新様も本礼落としをなさったそうだ。



後醍院宗重、関ヶ原にて

2022年05月05日 18:30

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/04(水) 21:24:12.40 ID:/7YhvoxA
薩藩旧伝集」から
後醍院宗重、関ヶ原にて

・惟新様(島津義弘)は、関ヶ原合戦で味方が敗軍いたしたため御戦死を決意なされた。
しかしいろいろ諌め申し上げて、落ち延びることになった。
しかしどの方角に落ち延びたら良かろうとなった時、後醍院喜兵衛宗重が申し上げたことには
「おっつけ、内府公(家康)は陣場を移動されるでしょうから、その陣頭を突っ切って伊勢路へ落ち延びるべきかと思います」
その言葉にたがわず、内府公は陣場を大谷刑部殿の陣場に移動し始めたので、その陣頭を突っ切って、伊勢路へ落ち延びることができたということだ。

・惟新公が関ヶ原から落ち延びる時、城中の敵にむかって後醍院喜兵衛は
「島津兵庫頭(義弘)、ただいままかり通る!」と声高に申し上げた。
惟新様をはじめみなが「そのようなことを申すな!」と言ったところ
喜兵衛「このようにいえば、皆必死になるので強みが増すでしょう」と答えたということだ。
これについては後醍院ではなく薬丸壱岐(兼成)が言ったという説もある。
それによれば薬丸壱岐殿は伊賀上野の敵城下にて「兵庫頭ただいままかり通る!」と声高に申したため、
「壱岐は厄介者だから後からついてこい」と言われてしまい、列から追い出され、後からついていくことになったという。
上野城ならば敵も少し出てきて戦ったことだろう。

後半は似た話が前に出ていた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4775.html
1600年、伊賀山中にて



後醍院喜兵衛の話

2022年05月03日 16:00

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/03(火) 09:46:10.21 ID:rJTBUjzh
「薩藩旧伝集」「薩州旧伝集」より関ヶ原の島津退き口で活躍した後醍院喜兵衛(後醍院宗重)の話

・江戸で火事があった時、薩摩の衆も大勢火消しのために働いた。
みなが火事の風下にまわって作業しているのを見た後醍院喜兵衛は
「おのおの、そこは風下である。風の脇で火を消されよ」と言うと
みなは「弱気なことを言うやつめ、さあ火消し壺になれ、焼け死ね、焼け死ね!」と言いながら消した。
消火がおわり、誰も怪我したものはなかったが
喜兵衛が言うことには「あんな火事で一命を捨てさせてはならぬと思ってああ申したが、逆効果であった。
もっと言葉に気をつけるべきであった」

ある時、喜兵衛が下人に慮外があったため長刀で斬り殺した。
ある人が「下人を殺すのに長道具など使うとは大袈裟な、刀を使えばいいものを」
と言ったところ、
喜兵衛「刀を使って万一怪我をしてはなりませんから長道具を使いました。
戦場ではさすがに下人を相手に長道具や飛び道具などは用いませんよ」と言った。

ある時、家に立て籠っている者がいて、喜兵衛に捕縛が命じられた。
喜兵衛主従はみな具足を着用し押し入って捕縛した。
人々「鎧など着るとは臆病者だ」と非難したが
喜兵衛「このような立て篭もり程度で、万一し損じて怪我をしてはいけませんからな」と答えた。



山本義純の事

2022年05月02日 21:11

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/02(月) 16:15:00.81 ID:vAHEkKsE
上記の「薩州旧伝集」の元となった?「薩藩旧伝集」(1908-1909年に発刊された「薩藩叢書」に収められている)の巻二には
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13210.html
関ヶ原で島津義弘の身代わりとなった長寿院盛淳(阿多盛淳)を討った者として

慶長五年九月十五日関ヶ原敗軍、義弘公も必死におきわまりあそばされ、取って返したまうを、
阿多盛淳長寿、公の鎧をひかえ
「大将軽々しく命は捨てぬ者たり、御旗と御名乗り賜り候え、私御命に代わりもうすべく。落ちさせたまえ」と諌め奉る
「島津義弘討死」と名乗り一戦して松倉豊後重政の家臣、山本七助義純に討たれもうされけるとなり

と、松倉重政の家臣の山本義純の名前が挙がっている

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/02(月) 16:19:15.43 ID:vAHEkKsE
「朝野雑載」ではこの山本義純は以下のように書かれている

新羅三郎義光の三世、遠江守兼左兵衛尉義定(安田義定?源義経と同名の山本義経の父親の山本義定は義光の孫で別人)より十九世の孫、
山本左京進義里は江州浅井郡山本郷に居住し、代々佐々木京極に仕えていた。
のちに佐々木六角の家臣となったが、天正十年(1582年)六月三日に明智光秀の兵が江州観音寺城を攻めた時に義里は討死した。
(本能寺の変と観音寺城の戦いを混同?)
義里の息子、山本七助義純は永禄十一年(1568年、観音寺城の戦いの年)に江州甲賀に澤田氏を母として誕生した。
義純は幼少だったので大和の松倉豊後守重政に仕え、重政の主人の筒井順慶が松永久秀と合戦した時には毎度戦功をあらわした。
(松永久秀が死んだのは天正五年(1577年))
中でも天正十二年(1584年)に筒井伊賀守(定次)の手に属し、伊賀国獺瀬城に一番乗りを果たした。
城の陥落後、秀吉公は豊後守に感状を賜り、豊後守は七助(義純)に刀を授けた。
また関ヶ原御陣では島津兵庫入道惟新(義弘)の家臣、阿多盛淳入道長寿の首を取った。
この合戦後、七助は豊後守の下知を受け、主人の妻が島左近の娘であったゆえ島左近の家に置かれていたのを、智計を巡らせて取り返したという。忠節莫大であった。

内容もそうだが、六角や澤田の苗字が出てくると、沢田源内の偽書出典ではないか気になる。

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/02(月) 16:25:01.52 ID:vAHEkKsE
なお、湯浅常山「常山紀談」の「山本権兵衛、功名のこと」
では山本義純の息子とされる山本義安について

松倉豊後守重政、後藤又兵衛の陣を切り崩す。
松倉が士、山本権兵衛義安、十八歳にて槍を合わせ首を取りける隙に槍を敵に取られたり。
その槍じるし、敵の中に見えしかば、
「今はこれまでなり、討死せん」といい捨て敵の中へ入り槍を取り返し、その槍にてまた敵を突き伏せ、首を取りて帰りけり

とその勇猛ぶりが描かれている