荒木素白は書の名

2017年09月13日 18:22

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 22:54:40.59 ID:Mgtr1m2r
荒木素白は書の名、家名は光辰。通称は三次、のちに内膳。母は桂氏。
九歳で福山藩主水野勝成に仕えるが、十九歳のとき同僚と争論して去り、伊勢に赴き津の藤堂高虎に仕える。
高虎、勝成のために酒餞を設ける。素白は給仕周旋する。
勝成恚りてこれを高虎に言う。高虎肯んせす。
素白去りて京師にいく。勝成怒りて国に入るを禁じる。
数年後、素白は鞆の浦にやってきて告首罪を請う。勝成はなだめて京師に帰した。
素白剃髪して禪を霊隠寺一絲に問い名を虚空素白と改める。
勝成に再び召し抱えられて月棒を貰う。勝成勝俊が亡くなったあとで辞去。
高虎の嗣子が招くが辞退。
素白は書を好み藤木敦直を師としてその名は高し。上代風の中興。書体三跡の室に入るという。後水尾天皇は召しだして扇と色紙に書かせて、おおいにこれを悦ぶ。
晩年力老いて病むにおよび大納言藤原弘資を遣わして慰問する。使者絶えず。貞享二年春死ぬ。年齢八十六歳。七男一女あり。(野史、名家全書)
大日本人名辭書

頑張って翻訳してみた。
勝成と高虎って仲良さそうだね。



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河村の才知

2017年07月01日 15:06

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 09:35:57.74 ID:or08M729
加藤左馬助嘉明が伊予の松山にあった時、藤堂和泉守高虎は今治に在城していた。
松山の枝城には、嘉明の弟・主馬が置かれていた。これは今治領との境目であった。

ところが、この境目において在地の争いがあり、高虎の領分の百姓が、主馬支配下の百姓に
殺される、という事件が起きた。

高虎は堪忍致せぬ事態であるから、主馬の所へ軍勢にて押し掛け城を踏み潰すとの噂もっぱらとなり、これが
飛脚により嘉明に伝えられた。これを聞いた嘉明は扇子を手に持ちながら
「さればこそ 人かよいけり あさぢはら」
という歌の上の句を2,3度唱え、暫く黙っていたが

「今、弟を人に殺されて堪忍することは出来ない。今後どうなろうとも、是非出陣して
高虎を討ち果たすべし!未だ主馬が死なぬうちに後責め致すべし!」

そう言って即座に陣触れし、その夜の五つ(午後8時ころ)出勢と決め、諸士ひしめいた。
老臣たちも黙ってこれに従った。

しかし、河村権七といい、彼はこの頃まだ若年で、家老の列に入っていたが末座に控えていたが、
彼が進み出て四方に主張した

「今少し、後思慮なされるべきです!何故ならば、今から出陣いたしましても、高虎の勢が
主馬様の所を攻撃するのに間に合いません。また噂だけで実際に藤堂勢の出勢がなければ、我らが
陣触れして出撃する意味もなく、かえって公儀を軽んじて私の軍を起こしたとの批判も受けるでしょう。
特に藤堂は公儀において重んじられていますから、何を企んで我等に対し手段を致すか、はかりかねます、
今少し実否を正して、その後に後出勢なさるべきです!」

これに嘉明も屈し、その夜の出勢は中止となった。二時(約4時間)ばかりを経て注進があったが、
藤堂の出陣は噂だけで実際に軍が動く様子はない、との事であった。河村の才知が功を奏したのである。

その後、藤堂高虎は公儀に対し「加藤嘉明は境目の紛争で我儘をいたし、陣触れまで行った」事を、
数通の実例を上げ申し上げたため、嘉明の立場は難しいものとなり、身上破却に至る寸前まで行ったが、
様々に弁明し別状無かったという。

(士談)


藤堂高虎遺訓ニ百ヶ条で、よくわからないもの

2017年06月08日 17:30

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 23:09:04.55 ID:wSC6ug/z
藤堂高虎遺訓ニ百ヶ条で、よくわからないものをまとめてみた

十、合戦道具で柿色はよくない。紺色が良い。色々あるが書付にするほどのことでもない。

七十六、不用心な道中を通る時は錐を拵え持っておくと良い。色々徳がある。
     錐の拵え方に心持ちがある。

七十八、刀の下緒は長いのをつけよう。仮初にも短くてはいけない。

百五十七、仮初に刀を持って出るときでも、左手で持つよりも、右手で持ったほうが徳が多いと口伝されている。

百五十八、少し歪んだ刀は、手洗いに綺麗な水を入れ、刀の柄に縄をつけ、切っ先を下にして逆さまに釣り、
      水鏡に映せば必ず治るものである。

百八十三、鮫鞘を好んではならない。

百五十九、追撃している者を馬上から斬りつける時、あぶみの踏み方がある。

藤堂高虎遺訓ニ百ヶ条)

同時代だと理解できたんだろうか



844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 02:01:42.02 ID:9FNpujTF
>840

戦場での視認性の問題かな。柿色や茶色系統では目立たないとか。
七十六
刀以外の、気楽に使える何かしらの得物をもって用心しろという事かな。
杖や棒でも良いような気がする中、何故錐をお薦めされているのは分りませんが。
七十八
何かを結んだり縛ったりする紐としても使えるようにという事かと。
「こんなこともあろうかと」の精神ですね。
百五十七
とっさの際には左手にある刀を抜くより右手の刀を鞘ごと振り回したほうが色々早い、という事かも。
高虎公の膂力があっての事かもしれませんが。
百五十八
刀を吊るす事で自重によって歪みが矯正される、とか?
良くはわからないですが、ともかく道具の手入れは欠かすなよという注意かと。
百八十三
鞘を飾る余裕があるなら別の事に使え、という贅沢嗜好への戒めかと。
百五十九
鐙できちんと体を支えてないと勢い余って落馬する事もありそう。

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 02:59:47.96 ID:6Vf15pDY
>>840
高虎の遺訓は1664年に大神朝臣惟直って
大友家から藤堂家臣になった佐伯(大神)惟定の血筋の人物が
書き残してるんだよな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 06:13:57.05 ID:q5O1cTh1
遺訓の数にワラタ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 09:18:53.21 ID:nYIjRBij
>>840
10当時、柿渋染めは怪我をした時に血が止まりにくいという説があった。
一方紺染めには虫よけの効果がある。

158刀は多少曲がっても、復元力が残っていると真っすぐに戻る場合があるので
ダメ元でも釣るしておくのは理に適ってる。水鏡に映すのは迷信の一種。

183鮫鞘は高いし、湿気の多い時期になるときつく締まるので、とっさに抜きにくいという欠点がある。

藤堂氏蔦の紋の事

2017年04月02日 16:47

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/01(土) 18:43:32.14 ID:qX4dJN8d
藤堂氏蔦の紋の事

津侯藤堂氏の先祖は多賀氏に縁があるので、家紋にほおずきを用いるという。
今用いているものは蔦の紋だ。
豊臣太閤から桐の紋を賜ったが、憚って花をとり葉ばかりをつけたので、
蔦のようになったものである。
実は藤堂氏の紋は蔦ではないとのことだ。

(甲子夜話)


この八十島は

2017年02月11日 17:06

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 03:22:48.92 ID:9KjJhSaN
藤堂和泉守(高虎)一代の事を書いた巻物を大献院様(徳川家光)の御前で誰に
読ませなさるべきかとのことになった時、

酒井讃州(忠勝)は「ここに道春(林羅山)がおります」との事だったが、和泉守は、

「私めの一代の大事のことを書いた物ですから、道春などは如何なものでしょうか。
始終を存じている者に、読ませたく存じます。私の家来の八十島助左衛門を召し
連れておりますが、如何でしょうか?」

とのことであった。そこで阿部豊州(忠秋)が挨拶して、八十島を御前へ召し出し、
巻物を読ませなさったのであった。

この八十島は石田治部少輔(三成)の右筆だった。太閤逝去のことを石田方から
源君(徳川家康)へ申し上げた時、そのために遣わした者である。

後に和泉守の家来となり、法体の後に道壽と願い申した。その子もまた助左衛門
と称した。

――『武功雑記』



615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 10:10:50.18 ID:C0rHEjqo
関ヶ原であの鬼島津を激怒させた人物だな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 21:09:17.19 ID:Ef6mH3qv
>>614
俺が家光だったら、三成に身近に仕えた奴が来たら
僅か佐和山19万石の身分で西軍を取り仕切ってた
石田三成はどのような人物だったか直接聞きたいわ
高虎の出世自慢話なんかよりもな

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:12:11.42 ID:nMor2Kps
>>618
真面目な話、当時は正軍首脳部に参画していた人間もまだ生きていたのだから、石田三成
どういう立場だったかなんて、自明の理だったと思うぞ。

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:25:57.30 ID:24fLrA8I
七将に狙われて家康に匿ってもらったヘタレです

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 11:35:04.27 ID:vMpwbjHL
それデマだってな

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 13:09:17.50 ID:PNwm5RpP
伏見の徳川屋敷に逃げ込んだ話の出典がわかれば、このスレに収録してもいいかもね

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 16:32:28.50 ID:V4JJPw4p
結果的には圧勝で終わったように思われてる関ケ原だが
秀忠遅参で内心かなり焦ってたろ糞漏らし

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 21:02:48.98 ID:WwSHWUY/
>>623
昨今は関ヶ原の決戦に関しては、もう何がどうなっても東軍の勝ち、といった感じだな。

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:35.16 ID:PNwm5RpP
関ヶ原って、小松山に立てこもった小早川秀秋救援のための後詰決戦だったんじゃないの?

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:57.03 ID:eMYpu3XQ
いくらなんでも楽勝って事はないという感じで改めて研究した結果
以前よりも西軍がどうしようもなかった事が判明してより可能性がなくなるというオチ
悲しいなぁ

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:23:30.24 ID:1F6Bnp81
>>626
吉川の位置が悪い

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 14:49:27.23 ID:6cpqPOvC
>>628
今では毛利の東軍への寝返りは、毛利輝元自身の指示だったという
説まで出ている。

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 15:23:18.87 ID:JiWMRDCO
岐阜城陥落の時点で負けを見越して生き残る為に動いてるしな

脇坂氏之先、裏切叛逆に非ざる事

2017年01月21日 10:28

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 00:58:12.25 ID:WWUVYInV
脇坂氏之先、裏切叛逆に非ざる事

 予は若年の頃は脇坂氏〔竜野侯〕の先祖が関ヶ原で裏切ったことは反逆ではないかと思っていた。
しかし中年の時にかの侯の画工外内(トノウチ)某と懇意になったおりに、
彼の口から
「侯の家には、関ヶ原の陣のときに予め神祖から裏切りを仰せられた御自筆の御書がありまして、
かの家では至重の物として、年々虫干しには出して主人から諸役人までもそれお拝見しておられます。」
との話がでた。
若年の頃に心得たことは違っていたのだとと、老後になって思い出した。
そこで諸書を引いてなお証拠とする。

 『藩翰譜』によると、
「安元〔淡路守〕の父〔中務少輔安治〕が代わりに軍勢を引率し奥州へ向かった。
上方に軍がまた起こり道路を塞いでいたので近江路から引き返し、
東国〔神祖の御坐所の小山〕に使いを送らせ、山岡道阿弥入道に取り次いでもらった。
父子共に西におり、そこで裏切りましょうと申したので、
神祖は御消息を与えてその志を感じられた。
関ヶ原の合戦の時父子共に敵を破って御陣に参り、また佐和山の城を攻め落とした。」

 『武家事紀〔山鹿素行著〕』によると
「安治は、朝鮮征伐のときも船手運送の自由を司り、後には加羅嶋の番船を乗っ取り、
秀吉から感書を貰った。
関ヶ原役に逆徒に与したが、後に藤堂高虎に取り次いでもらって裏切りのことを告げた。
これから本領を安堵した。」
この書の『戦略』の項には
藤堂高虎は脇坂や朽木等の裏切る気持ちがあるとかねて知っていたので、北国勢の方へ出向かった。〔中略〕
秀秋は〔これも裏切りである〕が大軍なのでこれを相手にはせず、
北国勢の軍と入れ替えながら戦い、京極高政以下の彼らと手向かっている味方を妨げていたところに、
脇坂小川赤座朽木が一同に裏切ったので北国勢は立足もできず敗北した。」

 『国史〔渋井孝徳著〕』には
「安治は会津の役では子の安元に軍を従わせたが、三成の謀反に出会い道が通れなかった。
大津侯に従って敦賀に行った。山岡景仲、藤堂高虎に書を遣わし、全く背叛するつもりはないと言った。
大谷吉継は秀秋が変を起こさないか疑い、
安治、朽木元綱、小川祐忠を松尾の東に移して秀秋に備えた。
しかし安治等の謀は知らなかったので秀秋は吉継に打って出た。
二戦二敗し安治等のためにすきをつかれ吉継は死んだ。
その勢いのまま大勢の軍を攻めた。それはまるで河口を絶つ板のようであった。
十年後に大洲に封を移した。明年、家を江戸に移した。」

これらの文によれば、今の鴻臚中書(寺社奉行・中務大輔/脇坂安董のこと)の
国家に媚びる体の寺政も、祖先の志を継ぐものであろう。

(甲子夜話三篇)



江戸御城は、道灌のみに非ず。高虎縄張の事併道灌風流、桜楓の事

2016年12月09日 09:19

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/08(木) 22:25:27.26 ID:J91C5wri
江戸御城は、道灌のみに非ず。高虎縄張の事併道灌風流、桜楓の事

 ある人が語るには、
江戸の御城は、初めは太田道灌が興したというので今は何事も道灌に帰しているようだが、
道灌が築いたのは今の西の丸で、御本丸は藤堂高虎と諮られて御新築されたという。
よって『駿府政事録』には、"新城"とあるのだそうだ。

 また道灌も流石は風流人であって、
今の桜田という辺りには多く桜を、今の紅葉山という地には楓樹を植えて、
春秋の詠を専らとしていたという。
今増上寺の門前に流れている小川を桜川と呼ぶのも、その源泉は桜田から出ているので、
その年からこう言っているのだという。

 この事を林老(述斎)が聞くと
「桜楓のことは同意しない。桜田はもとから村の名で桜を植えたからではない。
御城外の桜田から今の桜田町まで行程はかなりある。
その年にどうして一年間で花木を植えることができようか。
また紅葉山は駿府に有った名を移されたものである。」
と話された。

(甲子夜話続編)

松浦静山の頃には、かなりの誤伝が広まっているのだと思われます



398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/09(金) 22:52:45.81 ID:8ZfVzv1H
>>392
昔から道灌すげーと思われていたんだな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 00:02:16.10 ID:mqM9v91Y
道灌「この城どうかんならねえか?」
家康「家、やすいなら買おう」
と庶民には思われてた説

401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/10(土) 00:18:49.26 ID:6eJna+f9
>>400
        シャカ
      [二] シャカ
  ロ=== (´・ω・)
  (::) ( >on o θ
日[二二] と_){三}


        ス...
      [二]
  ロ=== (´・ω・)(
  (::) ( >oy>o )
日[二二] と_)_){三}

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 10:55:42.83 ID:BHAJeKED
世紀末荒野だった戦国の関東平野で
歌詠みまくって風流も競い合ってたってのがまた不思議

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/10(土) 19:47:48.65 ID:J3N68zoo
北条家も風流なイメージ持ってる

藤堂和泉守を敵味方惡之歟

2016年11月19日 14:23

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/19(土) 00:10:42.32 ID:QQzb0Sra
(慶長19年12月、大坂冬の陣の時、)14日卯辰刻より、また雨。晩から
風は激しく、寒さは甚だしかった。

藤堂和泉守(高虎)を敵も味方も憎んだのであろうか。色々な悪口をある時
は言い掛け、ある時は矢文を射ていた。件の矢文は他の陣に来たとしても、
藤堂の陣へとこれを送ったという。

(藤堂和泉守を敵味方惡之歟、色々の惡口を或時呼、或時矢文を射ける、
件矢文餘陣に来とも、藤堂陣に送之と云々)

――『当代記』



323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/19(土) 04:38:09.49 ID:EgHEZ3Hh
裏切りものだからかな?

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/19(土) 17:54:19.84 ID:Qu1Fqqy3
>件の矢文は他の陣に来たとしても、藤堂の陣へとこれを送ったという。

ちょw

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/19(土) 18:22:16.97 ID:yU1LQAy1
>>322
冬の陣の時で藤堂家の付近の陣だと伊達家と松平忠直かな

藤堂高虎の遺訓よりいくつか

2016年07月29日 14:13

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 13:12:49.61 ID:mXIkhx0i
四六 自分の知らない芸を嫌うという者が多い。逆に自分の得意な芸能はもてはやす。
   これは道理に合わないことだ。それぞれの好き好きではないか。

四九 総じて、落ち目の人を救うことが大切である。

七二 宿を発つ時、一人を後に残して座敷その他を見まわってから出るべきだ。必ず道具を
   忘れていることがあるからだ。

七六 不用心な道中を通る時は、錐をこしらえ持つべきである。色々と便利だ。錐のこしらえ方に
   心得が有る。

七九 人をしとめる時は、その前に言葉をかけてはならない。刀を打ち付けるのと同時に言葉をかけよ。

八一 負け戦の時は、豆板銀壱歩を飲み込むべし。強盗によって身ぐるみ剥がされてもその後大便と
   ともに出てくるのだ。ただしその飲み方については口伝がある。

一〇〇 人の好む芸能や道具について貶してはならない。それぞれ好き好きなのだから。

一〇一 碁や将棋で人に助言をしてはならない。慎むべし。

一二二 若いうちはどんな芸でも習うべきだ、捨てるのは簡単である。盗人のやり方だって習えば、
    盗まれない用心のためになるのだし。

一二七 得な事ばかりを好んでも、損をすることがある。しかしわけもなく損を好むのは間が抜けているし、
    得をする道があるのなら得をするに越したことはない。だからといって吝いばかりでは世の中
    成り立たない。損することが不可避なときに損を厭ってはならない。その時々の状況による。

一二八 常に運が悪くても我慢すべきだ。…などというが、それも状況による。我慢することばかり
    心得ていてもよくないぞ。

一三〇 人に物を言うのに繰り返しくどくど言ってはならない。聞き苦しい。

一三七 人に喜ぶべきことがあれば、自分で見舞いに行っても人を遣わしても良いので祝福の意を伝えよう。
    人の喜びを喜んで、後悔の有るわけがない。

一七一 もし止むを得ず家来を手討ちにする時は、一刀打ち付けたならば続けて二つ三つと討つべきだ。
    一刀にて様子を見てはならない。切れてない時は逆襲され自分が負傷するからである。
    よく心得ておくように。

(高山公遺訓ニ百ヶ条)

藤堂高虎の遺訓より、現代でも役に立ちそうなものをいくつか




6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 13:32:52.54 ID:jqlE2XOh
現代でも使う「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とかもあるな

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 13:52:47.11 ID:7N19GxjF
嘉明辺りに自分の好きな芸能でも馬鹿にされたのかな

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 14:03:03.58 ID:FHMGljol
>>4
八一下手すりゃしにそうw

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 17:56:57.04 ID:VN/z4dJA
>>4
七九はあまり役立てたくないですねw

高虎さんは死ぬ間際に200条も遺訓を口述したのでしょうかw

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 18:03:49.67 ID:mXIkhx0i
>>11
『高山公遺訓ニ百ヶ条』は、高虎の死後、その側近くに使えていた太神朝臣(佐伯?)惟直という家臣が、
生前高虎が言っていたことを編纂したものだそうです。

【家来常々召仕様之事】(けらい、つねづねめしつかいようのこと)

2016年07月27日 19:30

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 20:10:27.63 ID:v2CYyG+/
【家来常々召仕様之事】(けらい、つねづねめしつかいようのこと)

十一 家来には先ず情けをかけ、諸事失敗が有っても見逃すことが肝要である。その結果として
   大それたことが有った時は、自分の不運とすべきである。
   処罰をする時は理非をもってすべきだ。しかし助けても良い理由があれば、その点について
   よく考えよ。切るのは遅くても良いのだ。

十三 人の中傷を聞くべきではない。横目(監視)は災いのもとである。例え告げ口をいう人がいても、
   それをいう人と言われる人との間では常のように接し、何事も聞かなかったように振る舞うべきである。

十四 召し使うものに良い者も悪い者も無い。それぞれの得意な面を見出し、それぞれ適した場所に使えば
   人に屑は無いのだ。であるのに、出来無い事を申し付けるから埒が明かず、結局腹を立てるのである。
   これは主人に人を見る目が無いからなのだ。

十五 家来と言っても、異なる意見があるなら詳しく聞くべきだ。世間の評判を聞くことと同じである。
   よく聞き届け、自身で考えて、的確なところは用い、そうでない所は捨てればいい。
   主人によっては、家来が異見を言うのを推参であると機嫌を悪くする者がある。
   これは天下一の悪人である。
   本当に主人のためにならない者は陰で指をさして他の家来に語る者である。このような事は
   自分自身にとっても家来にとっても不本意な状況である。
   常に情け深い主人は家来の名を言い立てず、他の家来は、主人の作法のことを尋ねられても
   語らない。主人の心持ちが肝要なのである。

十七 すべて人間たるもの、上下ともに心正しくし律儀にして、一言半句も嘘を言うべきではなく、
   人を疑ってもならない。
   ただし、世間話などには嘘が混じっていても構わないが、これも、人の害になることは言うべきではない。


二十二 主人に物を見る目が無いというのは必ず災いが多い。よく奉公する者に気が付かず、当座のへつらいに
    喜んで録を与え親しむような事をするから、良き奉公人は気を変え暇を取るのだ。これは主人が
    悪いからである。当座にへつらうような者は下劣な者である。

(高山公遺訓ニ百ヶ条)


藤堂高虎の遺訓より、家来の召し使い方についていくつか




987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 23:22:02.54 ID:I+zFuU/G
>>985
家康と気が合うのも判るような気がする。

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/27(水) 07:20:38.42 ID:+jAUqd1W
>>985 戦国の転職王・藤堂高虎が言うのだから、
要するに、藤堂高虎が上司を次々に変えたのは、上司が悪いから
と本人は言いたいわけだな。
おっと、悪口を言ってしまった。

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/27(水) 07:24:05.73 ID:+jAUqd1W
>>985はカーネギーの「人を動かす」という名著の内容と
似ているものがある。
部下を動かすときの心得は、悪口を言わないとか、名前を馬鹿にしないとか(自分の名とは誇り高い
ものである)、○○してはいけない、というのがいくつも列記されていて実現は難しいけどな。
と、また悪口を言う俺は人使いが全然できない。

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/27(水) 13:39:33.08 ID:dJYVM1fJ
>>985
現代でも充分通用するなぁ。

古兜に鉛痕ある事

2016年07月15日 15:43

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 23:27:58.79 ID:MlRhcbH5
古兜に鉛痕ある事

前に赤穂侯の祖〔森三左衛門可成〕、仁正寺の祖〔市橋下総守長勝〕との兜に銃鉛の痕があることを言った。
後に聞くと津侯〔藤堂氏〕の祖高虎、大阪陣のとき着られていた兜をその家に伝わっている。
形は出っ張っていて、その高さは一尺を超えている。
目立つ兜であるが、鉢に鉛が二つ当たった痕がある。
一つは鉛弾がゆがんであるという。
かの侯の臣が正しく見た話である。

(甲子夜話)



864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/15(金) 07:06:25.47 ID:wNqh77gK
出来上がった兜や鎧は、鉄砲で試しに撃って強度を確認することがあり、
その痕が残っているものが現存している。
でも実際の戦いで撃たれた痕だということにしといた方が、当時としても語られ易いだろうねえ。

遠距離からの弾なら跳ね返すこともあるので、しかし100m先から鎧兜に試し射ちしても
狙った真ん中に思うように当たらないので、わきっちょの不自然な場所に弾痕が残ったりする。
かといって近づいて撃つと容易に貫通してしまう。

桑名弥次兵衛は、長宗我部耳目の臣であった

2016年07月04日 18:41

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 21:02:44.48 ID:mNniwc6S
桑名弥次兵衛貞敬は、元は長宗我部耳目の臣であったが、関ヶ原の後浪人していたのを、
武勇のほまれが有ったので藤堂高虎が招き物頭とした。

大坂の陣が起こると、長宗我部盛親は家臣の山崎与助に命じて再三にわたって桑名を招いたが、
桑名はそれに従わず、

「盛親公は先主です。恩を被ること厚かったといっても、私もまた、度々の戦功をいたして
それを謝する所ありました。
一方、現在の主人より恩を被ることも、また莫大です。その上近年天下治平にして合戦無く、そのため
新主への奉公は未だ勤まっていません。
ですので、お招きに従うことは出来ません。

ただし、私を招いて頂いたこと、世に忝なく存ずる所です。
ですので、御陣と見れば一番に駆け入って、討ち死にいたしましょう。
これはそちらと敵対を為すに似ていますが、物頭をも仕る私が御手にかかり討ち死にすれば、
御武辺の飾りともなるでしょう。
また、現在の主人に対しても、死を以って恩に報いるという道に叶います。
であるため、今、お召に応じることは出来ませんが、どうぞ死後をご覧下さるべし。」

そう返答したという。

(慶元記)



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 21:23:43.43 ID:br89QJVi
吉成の別名で貞敬なんてあったっけ?

これも人煙のため

2016年05月21日 14:49

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 23:41:45.80 ID:S7g6JhYO
 一学(市川一学)の兵書講義のとき予(松浦静山)は
「かつて浪花茶臼山の行って所々を眺めたが、御城とは近いように思われた」

と話しをしたら、一学は受けて以下の話をなされた。

「それがしもかつて遠遊したとき見ましたが、それに同じく思われました。
古人が伝え聞くには、この御陣のとき、茶臼山から真田丸までの間は三十丁余のつもりで御陣を構えたが、
実は十八丁であったそうです。そのときは人煙が覆って暗かったので、このような近いところも遠く見えたといいます。

 また長宗我部が守った所から、藤堂の陣までは、二十丁ばかりというが、実は六丁であったといいます。
これも人煙のためであったといいます。

 また冬の御陣のときは、城内を外堀の向かいから望むと、立て連ねていた旗幟の紋が、うちかすんで鮮やかでなかったといいます。
これも人煙がたってそうなったとのことです。
 夏御陣のときは、旗幟の紋が行燈の傍らの物を見るようによく見分けることができたそうです。
これはそのとき人気が一つでなかったためだそうです。」
(甲子夜話)

距離の測り間違えってけっこう致命的なような



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 00:02:11.96 ID:PiBkDXt/
霧のせいで時間を計り間違えるとより悲惨
と相手方の又兵衛さんが

原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸に

2015年12月18日 17:02

104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/17(木) 23:27:45.86 ID:N9WvyaUM
原田角之丞は土佐の武士で、大坂冬の陣の時は藤堂高虎の郎党小林伊豆の配下だったが、
元は長宗我部家の譜代の臣であったことから、夏の陣では旧主盛親の下に馳せ参じて戦った。
そして首級一つを挙げただけでなく、長宗我部勢が撤退する際には道路の木戸を打ち破って、
置き捨ててあった玉薬の箱を拾い上げ、それを肩に担いで悠々と城中に引き上げてくるという武勇を見せたのである。

大石内蔵助良勝とその弟の信云は、進藤利英(近衛家家臣、内蔵助の妻の弟)から彼の武功を聞き、
浅野内匠頭長直の耳に入れた。
その結果、角之丞は寛永14年に食禄五百石、足軽頭として浅野家に招かれることになった。
さらにその5~6年後には利英の娘・世牟を娶ることになる。

原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸の町に、亡き主君の仇の首級をくくりつけた槍を高々と掲げ、
同志たちとともに泉岳寺を目指す男の姿があった。
赤穂義士・潮田(うしおだ)又之丞高教。角之丞の孫にあたる人物である。
(大石家外戚枝葉伝)



藤堂高虎と「鶴の飛来地」

2015年09月22日 17:48

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/21(月) 23:36:23.53 ID:SmBOY1gg
藤堂高虎と「鶴の飛来地」

藤堂高虎が日光東照宮造営の労を賞されて賜った、伊勢田丸城5万石。
これを紀伊国に差し出したのには、理由があった。

徳川家康の死後、家康10男の頼宣は駿府から紀伊への移封をしぶっていた。
江戸から遠いじゃん、とは言えない。
「私は幼少より太神君に従って、心行くまで狩りを楽しんだものだ。
しかし、紀伊には鶴はいないというではないか。
無理な願いではあるが、改めて大坂をいただけぬものか・・・」

それを耳にした高虎は、頼宣が命に背くことを危ぶんだ。
そして頼宣のもとに行って諭したのである。
「大坂は豊臣氏君臣が焼け死んだ土地。いまだその怒気は消えておりません。
どうして尊い本家の身を不祥の地に置けましょうか。

さて、狩りですが。
かつて私も粉河におりましたが、確かに紀伊国に鶴は少ない。
しかし、我が所領の伊勢半国に鶴は多くやって来ます。
よろしければ国の原野すべてを庭園として指し出しましょう。」

この説得をもって頼宣は承服し、伊勢田丸城5万石は紀伊領となったのである。

「なあに、私は猟を好まない。
もともと鶴の飛来地などは、私にとって無駄なものに過ぎんのだよ。」
と言っていた高虎は、替地として山城・大和国5万石を得るに至った。
                                『聿修録』



729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/21(月) 23:39:51.00 ID:KbCyzEqE
ちゃっかり良い所もらってるなw

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 00:28:29.71 ID:0y7reYH/
山城・大和国5万石って石高よりもいろいろ貴重だろw

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 01:43:16.21 ID:uciuCRwV
>>730
IDワロタ
神君loveなのに家康が好んだ狩りを好かないとは意外

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 09:01:44.65 ID:81alq7hE
原野(5万石)

一国兼光

2015年03月15日 16:26

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 00:30:12.10 ID:fqXGeGvU
一国兼光

紀州の徳川頼宣が、土佐国山内土佐守(忠義)の愛蔵している兼光が、世に名高い大業物であると
云うのを聞き伝えて、ある時藤堂高虎に対し頼んだ。
「土佐守の兼光を所望してもらえないだろうか」


高虎は承知し、早速山内忠義を訪ねて、紀伊大納言所望の件を話した。
すると忠義は、元来非常に気性の激しい人でもあったので、大いに反発した

「以ての外のことです!あれは我ら秘蔵第一の刀、進上などは思いもよらぬ!」

そのけんもほろろの態度に高虎も少し腹を立て言い返した

「左様に仰せられても、もし将軍家より御所望と有れば差し上げぬはずはないではないか。」

ところが忠義
「例え将軍の命であっても、あの兼光は差し上げ申さぬ!土佐一国に変えても嫌でござる!」

そう言い切った。これには高虎も呆れ返って二の句も付けず辞して帰った。

ところが、この話が評判となり、土州公の「一国兼光」と呼ばれ、一層名高いものに成ったという。
忠義が国に変えてもと言っただけはあって、この兼光は無双の上作であるそうだ。

(古今名家珍談奇談逸話集)



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 04:13:35.51 ID:5ay60gPF
なぜ刀剣話には高虎がよくでてくるんだろう?

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 10:03:04.03 ID:+1AuPQV/
>>733
想像してみろよ。全身切り傷だらけで指が何本か無い身長190cmの大男が
「おう、山内の。紀伊とこの若がお前ぇの持っとる兼光欲しい言うてのお。
何とかならんかのう。」なんて言って来たらどうする?

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 16:52:32.53 ID:e+wSdY8Z
ちびりながら差し出す

水田長光

2015年03月14日 16:13

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/13(金) 19:06:54.01 ID:SJaR7R4M
水田長光

立花宗茂は、長光の名刀を二振所持していた、一つは父である高橋紹運より贈られたもので、
これは宗茂が死去するまで身に帯びていた。
もう一刀は水田長光といった。

文禄年間の朝鮮の役の折の事、宗茂の家臣に風斗就澄と言う者があったが、彼が敵十余人に囲まれ、
五人を斬り斃したがそこで刀が折れ、脇差でまた一人を斬りその場を切り抜けた。
宗茂はこの奮戦を見て感服し、風斗にこの、水田長光を与えた。

その後、船軍があった時、一人の敵が船から海へ飛び込み逃げようとしたのを、風斗は船中から
その腰を斬った。敵は海に入り少し泳いでいたが、そのうちに二つになって死んだ。
また、死骸を二つ重ねて斬った所、一撃で四つになった。
それほど鋭利な刀であって、風斗も秘蔵していた。

ところが慶長五年の関ヶ原の戦いによって、宗茂は西軍に与していたため柳川の領地を召され
牢人と成った。為に風斗就澄も、摂津の片田舎に隠遁した。

そこに、藤堂高虎が使いを寄越した。『長光の刀を私に贈れば、千石を与えよう』との申し入れであった。
しかし風斗は
「この刀は、主君手ずから賜った物です。たとえ一万石下さるとも、お断りいたします。」
と、これを辞した。

その後、宗茂は棚倉一万石で大名に復帰し、続いて柳川の旧領十万石を賜った。
そのため風斗も直ぐに江戸に赴き、宗茂に面会した。
この時宗茂は風斗に「水田の刀は今も所持しているか?」と聞いた。
風斗は水田長光を取り出して見せ
「私がもし利欲のためにこの刀を失えば、再び今日の拝顔も無かったでしょう。」
そう、涙ながらに申し上げたという。

(刀剣談)



718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 07:35:26.22 ID:ytOcIGjf
>>717
少し泳いでから2つに切れるって、南斗水鳥拳みたいな感じか

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 08:09:38.55 ID:qzi+CGtZ
森長可「てめぇらの血は何色だぁー!!」

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 10:25:43.97 ID:kfrRa2Oi
水野勝成「ヒャッハー!名刀だぜ!」

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 10:56:50.34 ID:zURkGJU+
リアル北斗の拳だからいやだよ戦国時代

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 11:11:34.32 ID:+GY/xPYT
名刀、名槍には命名の由来になった逸話があって楽しいね

人間無骨とか三十六歌仙とか圧し切長谷部とか...

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 11:55:19.47 ID:0jczleXd
立花宗茂が所持していたとされる刀剣って
剣・長光
笈切兼光
波遊ぎ兼光
劔切貞宗
粟田口則国
菊御作
豊後正宗
とか色々あるけど、水田長光は知らなかったな
波遊ぎ兼光も似た話だったと思うけど

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 15:02:18.03 ID:kfrRa2Oi
三歳さんもたくさん持ってるな。手打ち関連の名前が多すぎるがw

伊達政宗と振分髪

2015年03月13日 18:40

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/12(木) 19:36:31.33 ID:6y40Dycp
振分髪


北国の雄、伊達政宗がある日江戸城本丸に登城した時、同席した藤堂高虎が政宗に向かって
「あなたの帯びている短刀は、やはり正宗の作でしょうか」
と尋ねた。政宗は
「その通りです。」
と答えたが、その日帰邸すると、直ぐ重臣を呼んだ。


「今日、殿中において私が帯びている短刀を『正宗でござるか?』と聞かれたので、
そうでないとも言えず、『仰せの通り』と返事をしたが、実はお前たちも知っての通り、
我家に正宗の脇差は無い。しかしこのように大国を領する私の持ち物として、人々は脇差も
正宗と思っているものらしい。今後、もし『拝見を』などと言われては、赤面せねばならぬ。

それで、私は秘蔵の正宗の刀を脇差に直そうと思う。早速鍛冶の者を呼び寄せてもらいたい。」

そう命じ、呼び出された鍛冶の者は改めて政宗からその言いつけを聞くと

「正宗の御刀は天下に数の定まったものでございます。むざとお切り捨てを遊ばすのは
勿体無いことと存じます。」

そう言って嘆き止めた。同時に家臣の者達も様々に諌めたが、政宗は承知しない。
そこで余儀なく、鍛冶の者も拝承して刀を脇差に直した。そしてその脇差に「振分髪」という
銘を入れて差し出した。政宗はその銘を見ると、「これはどういう意味か」と尋ねた。
鍛冶の者が答えて

「在原朝臣(業平)の歌にある『くらべこし振り分け髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき』 
(長さくらべしていたわたしの振り分け髪も肩から下がるほどになりました。あなたのために髪を上げましょう)
という歌の意味でございます。」

そう答えたので、政宗はじめ人々、優にやさしいその心にいたく感じ、その後、
「振分髪」の脇差と云い、伊達家の名器として尊ばれた。

(古今名家珍談奇談逸話集)

文化財クラッシャー政宗、正宗編・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1136.html

↑ここに既出ですが相手が高虎と異なっていたり細部も詳しいので。




565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/13(金) 10:10:09.32 ID:wKHZdu2t
>>559
自分で作って正宗の作だと言い張れば....。いや、なんでもない

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 10:26:13.51 ID:+GY/xPYT
高虎「政宗だから正宗佩刀してるのかと駄洒落で言ったのに」

大和郡山城明け渡し

2015年01月22日 18:43

583 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:33:21.89 ID:arHxozrM
太閤秀吉が逝去し、その後慶長五年(1600)、関ヶ原の逆乱の時、大和郡山城の増田長盛は、
西軍方であったため、関ヶ原の後詰として江州水口まで出陣した所で、関ヶ原において西軍が敗北したとの
知らせを受けた。そこで彼の地に留まっていた所に、徳川家康からは彼を討ち果たせとの上意があったものの、
様々に詫び言を申し上げ、法体となって高野山へと登った。

この増田長盛が大阪から出陣する時、郡山の城は大事の場所であると、自分に従う馬上の者達千騎のうち、
七百騎を郡山に残し、家老分の者達も大部分は残し置き、関ヶ原へは馬上の者三百騎を従えて出陣した。
増田長盛がこのように、知行と比べて人数多く従えていたのは、所領の大和郡山二十万石に加え、
紀伊和泉大和の代官職をも兼ねていた為だということである。

さて、関ヶ原で西軍が敗北すると、留守の郡山では、増田長盛は水口から高野山へと登った、
又は切腹した、あるいは討ち果たされた、遠流されたなど、様々に取り沙汰された。
そして郡山にも東軍の軍勢がまもなく押し寄せるという時、大和の国中の百姓たちは、牢人していた
かつての国侍を大将として一揆を起こし、郡山に押し寄せ、町口の端々に放火などし、あるいは乱取り(略奪)を
行った。
これに、留守居の家老たちは慌てふためき静めることが出来ずに居た。

これより以前、渡辺勘兵衛は(了)は牢人していて、秀吉の直臣に成ることを望んでいたが、それを
増田長盛が聞き、「秀吉公には時節を見て召し出して頂けるよう取り持つので、先ずは我が方に参られよ」
と声をかけ、そのため郡山に参り客分として、一万俵の合力を受け三の曲輪の中に居住していた。
それ故、大和領内の仕置などには関わっていなかったのであるが、このような緊急事態に、勘兵衛は
家老たちの所に行くと言った。

「このような混乱した事態は以ての外である、急ぎ方針を決定し、覚悟を決めなければならない。」

しかし家老たち
「このように乱れ、家中さえ治まりかねている有り様です。まして郷中などの事はどうしようもありません。」

「各々が支配が難しいというのであれば、私を物主として、その指図通りに従っていただきたい!」

家老たちはこのような状況であったので、ともかくもあなたの指図次第にすると彼に従った。
そうして勘兵衛は先ず、東軍が押し寄せてくるのも間もなくであろうからと、籠城することに決め、
諸士の妻子を人質に出させこれを本丸に入れ置いた。それから軍勢を二、三百人ほど用意し、
在所の村々にこれを派遣し、一揆の頭目達を召し捕り、あるいは首を刎ね、郡山の五町目という所で
獄門に掛けた。この処置によって国中はおおかた静まった。

さて、籠城の評議において、持ち口の手分けをしていた時、各々は「外曲輪は捨てて、二、三の曲輪にて
敵を迎えましょう」と意見した。しかし勘兵衛は承知せず「外曲輪にて先ず敵を迎えて様子を見、その上で
内曲輪に籠もるべきである。」と発言し、評議もこれに決まった。

郡山城攻めの軍勢には、筒井伊賀守(定次)、藤堂和泉守(高虎)、その他2,3の将が仰せ付けられた。
彼らは郡山から五里北の、山城国玉水という所まで来ると、そこから使者を以って城を自分たちに
明け渡すよう申し付けた。これに対し、渡辺勘兵衛以下家老たちはこう返答した。

『右衛門尉(増田長盛)の事ですが、今回の事について、一命御赦免あって高野山に登ったとは聞いておりますが、
右衛門尉からわれら留守居に対して、何事も申し越しては来ておりません。それが無いのに城を明け渡す事は
出来ませんので、右衛門尉から申し越しが来る前に慌てて我らが領内に押し入られるのは、どうかご無用に
なされますように。』

そして持ち口を固め、堅固に籠城の準備をした。
これを見た筒井定次は増田長盛の家老たちに、返り忠をいたして城を明け渡すよう申し越したが、それには
返事も出さず、使者を追い返し、『重ねてこのようなことを仰せ越した場合は使者を討ち捨てる!』と返答した。

584 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:34:36.29 ID:arHxozrM
これに対し定次は、大和国はかつて筒井家の領国であったので、策を練り地下人などを組織し、夜間郡山に
押し入り乱取り、放火などをさせた所、渡辺勘兵衛は早速聞きつけ。人数二、三百で出撃し、郷人四、五十人も
討ち取り、あるいは搦め捕り、皆首を斬り獄門に掛けた。
その後は堅固に持ち固めたため、寄せ手の衆もうかつに手出しすること出来ず、これをどうにかするよう
増田長盛に申し遣わされた。このため、長盛は高田小左衛門という出頭の者を郡山に差し寄越し

『城を相違なく明け渡すこと。これまでの仕方、祝着である。』

と、渡辺勘兵衛には自筆の墨付を与えた。そして評議で城を明け渡すことに決し、寄せ手の衆に使者を以って
伝えた

「城は明け渡します。しかしながら城内には諸道具、金銀など多くありますので、お請取の時は、先ず番所に
置かれている御人数で諸道具、金銀等を受け取りに来られ、役人だけ城にお入りになって、その上で
紙面を以って道具、金銀を改めて頂いて渡し、そして城も明け渡しましょう。
尤もこの時、我々も城に残すのは役人だけで、他の人数は皆城外へと払い出しておきます。」

寄せ手もこれに同意し、郡山城の諸士は大安寺という伽藍跡へと移動し、家老たちも城を出てそこへと合流した。
これは渡辺勘兵衛がかたく命じたことであったが、勘兵衛自身はどういうことか、その屋敷に鎧武者を百人ばかり
も棒を持たせて隠し置いていた。

さて、寄せ手の軍勢が町口に留まり、番所に諸道具受け取りの人数が向かい、そこで門々の鍵が渡され、
それが開かれると、多くの雑人たちが本丸へと押し寄せて諸道具金銀の乱取りを始めた。

この様子を見た勘兵衛は「沙汰の限りである!」と言って彼の屋敷に隠し置いた人数を出し、門々の鍵を押さえて
取り返し、城に入った者たちを皆追い出し門を閉じ、寄せ手の大将衆に使いを立て
「始めの約束と違いかくの如き有り様である!この上は城を明け渡すことは出来ない!」
と申し渡し、先に大安寺跡に退かせておいた人数を呼び返し、寄せ手と戦闘する準備をした。
これに対し藤堂高虎より扱いが入り

「この体たらく、我々は少しも認知していない事である。とにかく、その方の望み通りにするので、
城の明け渡しをするように。」

そう申し遣わしたものの、勘兵衛は納得せず、もはや戦端を開こうという体になったため、再三扱いを入れ、
その間に南都興福寺の門跡である大乗院殿を頼み、彼により扱いを入れた所、「大乗院殿の御扱いであれば、
先の約束を毛頭も相違無いよう仰せ付けられ、お請取に成るでしょう。」とこれを受け入れ、
大将衆もまた、何れもその通りに申し付けたので、作法良く書道具金銀等紙面を以って改め請取渡し、
その上で城の請取をした。その時渡辺勘兵衛は、終始物主として城方の者たちを指導した。
彼が一人で指導する様子を藤堂高虎は感心し、後で自分の知行の十分の一を与える約束で召抱えた。

(大和記)

大和郡山城明け渡しについての逸話である。



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 21:51:13.71 ID:uMHudFVt
その後高虎から奉公構が出されるとは夢にも思わない勘兵衛だった

盥(たらい)に乗ってでも

2014年11月20日 17:51

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 09:08:37.14 ID:l80z4riQ
太閤は、高麗(朝鮮)の者どもが船を出して日本船の邪魔をしているというので、九鬼大隅守、藤堂佐渡守、加藤左馬之助(嘉明)、脇坂中務、
久留島(来島)らに退治を命じた。
そこで佐渡守の屋敷へ皆が集って協議していると、左馬之助がやってきて「なんで知らせてくれなかったんだよ!」と言った。
皆は「ここは安宅(大型船)を持ってるやつだけで協議してんだよ。お前は安宅を持ってないんだから教えなかったのは当然だろ。」と口々に言ったので
左馬之助は腹を立て、「安宅なんてなくても皆の集まりには盥(たらい)に乗ってでも参上する!」と言って帰って行った。

『弾塚助之進征韓紀聞』
引用元は参謀本部編「日本戦史 朝鮮の役」




843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:05:03.82 ID:bUh9RFbh
涙の捨てせりふ(´;ω;`)

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:07:24.44 ID:7AfqQ5uK
ジミだ。タライっていうのがさらにジミ度アップ。

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:33:40.62 ID:fPrFgDdN
地味どころかシジミですな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:42:02.61 ID:V1V66d1R
蜆は栄養価が高いんだぞ!

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 11:30:42.57 ID:w54PN1cb
ジミーの意志は彦左が引き継いだ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 12:29:05.45 ID:4HaHXYef
やべ、ニコニコにある大公開時代のサントラ動画思い出した
あれにちょうど海に乗り出すたらいがあったわw

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 22:37:07.07 ID:Y5ydmYUj
協議の場へ盥に乗って現れるのかと思った

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/20(木) 00:43:02.71 ID:nN8A1gZk
八丈島より泳いで参った!

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 13:50:31.42 ID:WiXHrUYD
>>842
ちなみに「日本戦史」でその逸話には「加藤嘉明の気概」ってタイトルがつけられてるから
つまり、やる気を見せた、いい話という扱いなのだ

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 23:17:54.78 ID:jRwsxZfR
タライで出陣とかよっぽどの気概が無いと出来ないしな

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 23:40:42.82 ID:JvCl2kZo
別にキチガイにだって出来るだろ