fc2ブログ

弁慶堀

2022年08月28日 15:40

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/28(日) 13:29:50.38 ID:yhd8x8KM
江戸城、西御丸の外堀を弁慶堀と呼ぶのは、慶長五年、関ヶ原合戦の後に、上方衆では藤堂高虎
関東衆では伊達政宗の両人が頭取となり、江戸に屋敷地を拝領仕りたい旨を願われた。

家康公はこれを聞き召され、「各々大阪に屋敷有れば、当地にては無用の事なり。」と仰せになられたものの、
たって願われたために、外桜田辺り(今の大名小路の場所である)にて、東国西国の大名、加藤清正を始め、
黒田、鍋島、毛利、島津、伊達、上杉、浅野、南部、亀井、仙石、相馬、水谷、秋田、土方、その他の衆
(前田は芳春院江戸下向の時、秀忠公より御城大手先に於いて下されていた。また浅野幸長は弾正長政に
先立って、桜田霞ヶ関という所を拝領した故に、これを上屋敷となし、老父弾正隠居所に仕りたいと
願ったために、別に屋敷を下されたという)
御当家(徳川家)への御奉公始めとして、東西の諸侯による打ち込みの御堀普請が行われた。
これは東西の武蔵坊と言える心で行ったので、下々はこの堀を「弁慶堀」と申し習わした。

この頃、御堀はようやく幅十間(約18メートル)あまりであったのだが、屋敷拝領の諸侯よりの
願いを以て、堀の土を揚げ方々へ引取り、地上げに用いたため、現代のように御堀も広くなり、
底も深くなったという。

新東鑑



スポンサーサイト



白餅と黒餅

2021年12月17日 18:29

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 18:26:41.74 ID:7+jAGShj
白餅と黒餅

秀吉は信長に抜擢され足軽を預かるようになると衣服の紋に「白餅」を用いはじめた。
信長がわけを聞くと「城持ち、になりたいためでございます」と答えたが
自分でさえまだ尾張一国なのに、と信長は不機嫌になった。
数日後、秀吉の紋は「黒餅」に変わっていた。
信長は「石(こく)持ち」という謎だな、と上機嫌になり秀吉にすぐ十石加増した。

歴史作家の澤田ふじ子氏によれば、江戸初期の「適斎随筆」に書かれている逸話だそうだが「適斎随筆」の詳細は不明

ついでにネットで検索したら

藤堂高虎が黒餅を旗印にしていたところ
仲の悪い黒田長政に「俺のとことかぶってややこしい!」
と言われたため
藤堂高虎「なら黒餅(石持ち)より白餅(城持ち)の方がいいから白餅に変えてやろう」
と白餅に変えたという、講談「出世の白餅」の餅屋ががっかりするような出典不明の話もあった。



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 21:37:36.93 ID:UUw8tWgt
白餅はわかるけど黒餅って何なんだ?
餅が黒かったらカビてるだろ

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 22:07:26.60 ID:yDRGO4iN
単純に、円形の事を同じ丸い形から餅と言い表しただけの話。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 22:57:51.50 ID:pn8mPHv+
白餅黒餅というのが赤福にあった。当時と同じかは知らん。

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 23:09:07.02 ID:CFbom2Iz
白い餅は餅ではないと公孫龍があの世から

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 00:13:14.27 ID:ANtCCoBN
キングダム読者「趙の将軍かな?」

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 04:40:33.74 ID:U7XXEJRe
そもそも丸い紋であるところの餅紋を白抜きしたか黒塗りしたかの違いでしかないからな

味方千騎の強みとは

2021年10月07日 16:23

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/06(水) 21:13:25.39 ID:1w+xW3ed
天正17年(1589)、正規(生駒親正)は大坂在勤の時に予州今治の城主、
藤堂佐渡守高虎と御対談あって申されるには「今度、今治に御帰路の時に我が
高松へ御立ち寄りになって、城地を御見分してくだされ」と申された。

高虎は申されて「もちろん私も参るつもりだが、幸いにも黒田如水が近日中に
中津へ帰られる。時を合わせて同道仕り、如水に見分して頂けるように相談し
ましょう。この人は城取り功者で諸方の城々はおおかた如水の見分で相調った
のです」と仰せられた。

これに正規は喜び申され先立って高松へ下着し給い、西浜東浜の間に仮屋形を
造り待ち給う。程なく両将御下着なさり高松の地を見分なされた。

如水は仰せられて「これは究竟の城地です。富貴繁昌ともに備わって要害良く、
諸方の船路は便を得て、国主の居城に合った地形です」と誉め給う。正規は申
されて「西の山が程近いのだが、どうでしょうか」と御尋ねになった。

これに如水は仰せられて「この山なくてはこの所で城取りは成り難いでしょう。
この山があって西を塞ぎ、寄口は南一方になるため要害に良い。

特に山は険阻で人馬の足場がなく、北は海岸に入って海深く、山の根は潮汐の
差し引きあって敵人は留まることができない。東は遠干潟で川入あって敵人は
留まりがたい。南一方を防ぐだけである。

味方千騎の強みとは、この山のことである」とのことだった。このため正規は
安堵してこの場所を城地に定められたのだという。

――『南海通記



651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/07(木) 11:04:26.13 ID:lP6gqeTD
>>650
弱点あっても後々のことを考えて言わなさそう

今治城と木山音頭によいやな節

2021年09月03日 16:02

498 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 23:46:09.20 ID:Sn0YtVyX
今治城と木山音頭によいやな節

悪い話スレに投下した今治城築城の逸話シリーズその3(ラスト)

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦功により、宇和島七万石より二十万三千石に加増された藤堂高虎が築いた今治城。
慶長七年(1602年)に築城開始となったこの城は多くの人の努力と(たまに悪知恵)幾多の犠牲により僅か2年後の
慶長九年(1604年)に完成した。

築城奉行の藤堂家新参・渡辺勘兵衛と共に普請奉行として活躍したのが地元今治の無足人・木山六之丞である。

木山が現場監督として、作業員たちの士気を鼓舞するために歌わせたのが今治に今も盆踊りなどとして残る木山音頭であった。

    木山音頭と申するものは 手拍子 足拍子 太鼓の拍子
    伊予の今治 みすかの城を 築き上げたる その名も高い
    木山六之丞はなぜ色黒い 笠がこまいか 横日がさすか
    笠はこまない 横日もささぬ 色の黒いは こりゃ生まれつき(以下略)

この歌が示す通り、木山六之丞は肌が色黒な人物で自らの風体をネタに周りを笑わせることができる
快活な人物だったようである。

木山六之丞(個人的)イメージ図
https://i.imgur.com/ZOHfdEz.jpg
現場で音頭取って踊る木山六之丞のイメージgif
https://i.imgur.com/VUvK5HM.gif

これでは普請奉行というより不審奉行といった体であるが、とにもかくにも彼の作った作業歌によって鼓舞された
今治城の築城現場は笑顔の絶えないアットホームな職場として機能し、施工期間を大幅に短縮できた(かどうかは知らん)。

だが、彼が今治築城の際に作った作業歌は木山音頭(八木節系)ともう一つ、よいやな節(追分節系)があるとされ、
各種作業や休憩時などに歌われたのだという。

今治城が完成したのちの木山の行方は諸説ある。藤堂高虎がのちに転封で伊賀上野へと移った際の家臣団にも
この時、今治に残った藤堂高吉の家臣団の中にもその名は見えないため、近年までは悪い話の方に書いた
石屋の頭領・小田治衛門の10名の部下たちの様に殺害されたのではないかと考えられていたという。

下記参考サイトの今治おもしろ百科の方では高虎の転封に伴い城勤めを辞めて朝倉村の古谷で寺子屋を開いて
元和元年(1615年)に亡くなったとされている。

また、下記参考サイトの最下段のリンク先では、
『愛媛の民謡』という本の中には
「慶長13年(1608年)、本山六之丞が藤堂高虎とともに伊勢の安濃津に移り、築城の際に広めたよいやな節が伊勢音頭の母体になった
と、今治地方では伝えられている。」と記載されているとのことである。

藤堂高虎についていったのかついていってないのかどっちやねん?とツッコみたくなるが、いずれにせよ
彼の作った作業歌 は今治築城の苦楽を共にした民や武士たちによって後世に受け継がれ、現代の今治市においても
市民から愛され歌い踊り続けられているのである。

参考サイト
今治おもしろ百科 家臣・木山六之丞(似顔絵が雑スギィ!)
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/doinaka/hyakka/takatora/0078.html
レファレンス協同データベース 今治築城音頭(木山音頭)について知りたい。
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000101169
6 木山音頭(八木節系)・よいやな節(追分節系)
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/20/view/2944
7 地方色豊かな音楽を、郷土文化として定着させよう
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/20/view/2945

木山音頭
https://www.youtube.com/watch?v=wT4oNkhGXPw

499 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 23:51:43.94 ID:Sn0YtVyX
余談として
日本の城一覧で見る|日本の名城の観光ガイド日本全国に存在する城を一覧で紹介!日本の城の観光ガイド
https://www.kyosei-tairyu.jp/nihonn-shiro/meijou/imabarijou.html

こちらによると今治城築城の際に石垣用の石を持ってきたら米と交換するというお触れを出したのは
木山六之丞であったとされている。

今治城の石集め
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13147.html


治衛門と今治城

2021年09月02日 18:26

5 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 00:00:46.70 ID:Sn0YtVyX
治衛門と今治城

前スレのラストに投じた今治城築城の逸話シリーズその2
下記参考サイトより抜粋。
今治城(別に吹揚城、美須賀城ともいいます。)は、慶長五年(1600)関ヶ原の戦功により、
宇和島七万石より二十万三千石に加増された天下の名将藤堂高虎が築いたものです。
この当時の城は、丘陵を利用して築いたものが普通でしたが、今治城は、台湾にオランダ人が築いた
ゼーランジャ(開国城)用式を取り入れたものともいわれ、海岸近くに平城を造り、三重の堀をめぐらし、
海水を導入した当時としては最新式の珍しいものといわれています。
本丸の天守閣についても、五層の立派なものが健造されていたようです。
(藤堂家の記録をもとに編集された『宗国史』と言う書物に書かれています。)

─慶長七年(1602)六月から、同九年(1604)九月まで、二年三か月とわりと早い年月で築城されています。─
(ここまで抜粋)

さて、この今治城が完成に至るまでの陰の功労者として石屋、小田治衛門等石工左官の者ら十二名の
存在が挙げられるという。

治衛門は豊臣秀吉の大坂城の築城の際に石垣づくりの人夫として働いて石垣づくりの技術を身に着け、
のちには西条(愛媛県西条市)の禎瑞の干拓にも貢献したという。

この功績を認められて今治城の石組みを任された治衛門と十一名の石工左官の者らであったが、
治衛門は彼らの頭領として相談を受け、城の抜け道の工事にあたった。

しかし、古今東西よりこうした城の秘密に関わる部分というのは城主と一部の人間だけの極秘情報であり、
今治城が完成を見る時、それは即ちこの抜け道の造成にあたった治衛門達が秘密の口封じのために命を
奪われる時でもあった。

治衛門ともう一人の某を除く十名の石工左官達は城の完成と時を同じくして捕らえられ、即刻処刑されてしまったという。
このことを事前に知った治衛門と某は竹で筏を組むと夜に蒼社川よりこの筏に乗って海に出、すんでのところで
難を逃れて大島(今治市の沖合)に逃れ、治衛門は同島宮窪町の余所国にある念仏山に隠れ住み、そこで処刑された十名を
弔って余生を過ごしたという。

大島の余所国には鐘撞堂という地名が残っており治衛門によって築かれたという素晴らしい組み方の石垣が残っており、
そこは治衛門の住居跡ではないかといわれている。
また、余所国に御新田踊りという踊りが今も残っているが、これは治衛門が伝え広めたかは定かではないが、一説には今治城で処刑された
十名を弔うためのものではないかとも言われているという。

処刑された十名の塚の所在はいろいろ言われているもののはっきりとした場所は定かではないが、
今治市に在住の小田通俊氏は、治衛門の十七代目の直系であるといわれ、余所国の大島石材工業株式会社の
小田満氏も治衛門の子孫に当たるという。

参考サイト:今治地方の伝説集 今治市商工会(逸話63)
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#ryuumonzanzyousyu
四国の瀬戸内側では、丸亀城にも石垣を組んだ人物が攻略法を熟知していたために井戸に落とされて
殺されたという逸話があったりするけど、こういう秘密に携わる下っ端の立場にあたる人々は何時の世も
吹けば飛ぶような命の軽さだったのだなと何かシンミリした今日この頃・・・。

生駒親正の丸亀城の石垣・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-701.html

6 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 00:22:35.48 ID:Sn0YtVyX
補足情報

石屋治衛門伝説!
http://murakamitakeyoshi.blog122.fc2.com/blog-entry-3365.html

今治城と蒼社川、大島念仏山の地理関係
https://i.imgur.com/W0UDSHK.jpg
W0UDSHK.jpg

7 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 00:47:00.27 ID:Sn0YtVyX
戦国時代の逸話とは別だけど、今治市と言えば老舗焼き鳥屋の五味鳥がおすすめ

https://i.imgur.com/vwXjEXm.jpg
https://i.imgur.com/2ad0W75.jpg
https://i.imgur.com/mz87knh.jpg

旨ぇんだこれが。コロナ落ち着いたらまた行きたいなぁ。
チラ裏すまそ

8 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/02(木) 06:16:13.42 ID:Sn0YtVyX
さらに余談:今治の焼き鳥の由来
https://i.imgur.com/inSkDrO.jpg



今治城の石集め

2021年09月01日 15:14

997 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/31(火) 23:04:19.68 ID:f6XXyc02
今治城の石集め

関ヶ原の合戦の戦功で宇和島8万石に今治12万石を加増された藤堂高虎であったが、
従弟の藤堂良勝を板島丸串城(宇和島城の旧名)の城代に任じ、自身は今治へ居を移すと
慶長7年(1602年)より渡辺勘兵衛を築城奉行、現地の武士である木山六之丞を普請奉行
として今治城の築城を開始した。

この時、最も苦労したのが石垣づくりのための石材集めとその搬入であったという。
これに対し藤堂高虎は一計を思いつく。

「石を持ってくれば米と交換する」

こうお触れを出したことで、人々は船や生竹で編んだ筏に沢山の大石を積んであちこちから築城現場へと
持ち込んだ。高虎はある程度の石が集まったのを見計らうと

「石はもういらね。捨てるのも構わぬが海中へ捨てられては船の航行に邪魔となるから捨てるな。さもなくば持ち帰れ。」

こう命じた。船頭たちは持って帰るに持って帰れず、仕方なく海岸に石を積み上げ放棄して各々帰っていった。

さて、船頭たちが居なくなったのを見計らった今治築城班はさっそく捨てられた石を城づくりに活用し、彼らの努力と
石を運んできた船頭たちの献身もあって今治城は着工からわずか2年で完成を見たという。

さて、この逸話であるが福島正則が慶長7年(1603)年から築城を開始した海に面する今治城と似た構造の広島の小方城(亀居城)
にも全く同じ逸話がある。
自分が3年ほど前に投稿したので藤堂高虎にも全く同じ逸話があったので驚いたのだが、隣国の大名で徳川寄りでもあるし、
ひょっとしたらこの今治城の成功体験を藤堂高虎公が福島正則公とシェアしたのかもしれない?

福島正則「石一個に対し米一俵差出候」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11124.html
大竹市歴史研究会(亀居城)
http://otake-history.halfmoon.jp/localhistory/ogata/亀居城/

参考サイト:今治地方の伝説集 今治市商工会(逸話96)
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#ryuumonzanzyousyu



今も親しく語らい合う仲である

2021年03月04日 18:19

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/04(木) 14:22:47.53 ID:835zJEu+
長宗我部の家人に、廿牧勘解由という武功の人があった。この人が人に語ったことによると

「大阪八尾にて、藤堂殿と長宗我部殿が戦ったが、朝の合戦の時に私も似合いの高名などしたものの、
後の合戦に味方打ち負けて、私も鑓を引き退いた。
この時、和泉守殿の母衣頭に名村岩石見という武功の者、私を見かけ、「返して勝負をせよ!」と
罵った。しかし「駆け引きは時によるべし。おのれのくそを喰らえ!」と言って退いた。

その折ふし、私の妹婿である伊尾木権兵衛という者が、「影湯殿、私もここに居る。返し合わせて
勝負しましょう。」と言ったため、鑓の準備をして二人共に引き返した。

その時、敵である石見はどう思ったのか、または功者であったためだろうか、南の方にゆく落人があり
さしかかって勝負すると見えた。その落人は、何の何某と申したが、その名も忘れた。
彼は終にそこで討たれた。
私たちはほど近くに在ったので、助け合わせたいと思ったが、敵は大勢に見えたため退散した。」
と言った。

堀伊織という人、これも藤堂にて母衣を預かる人であるが、ある時私に
「其の方は、今はいかなる浪人衆と話すのか」
と尋ねられ、廿牧勘解由の事を言って、彼が物語した内容を語った所、横手を打って
「さてもその事は、石見がいつも語っていて、「私に糞を食わせて退きし者があった。」と言っていたが、
誠であったのだな。その人を呼ぶことなるまいか。」

そう言われたので、「やすき事なり。」と廿牧を呼びにやって、石見と伊織と、勘解由と私の四人にて、
かの時のことを語った。笑い話と成り、
「偽りが無ければ、互いに物語しあえるものである。」などと言って、酒など飲んで立ち別れた。
これを交わりの初めとして、何れも親しくなった。

伊織の子供は、松平越前守殿の元に二人ある。今も親しく語らい合う仲である。

備前老人物語



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/04(木) 17:31:47.95 ID:Dp28Kb2/
八尾の戦いというと
元長宗我部家臣で改易ののちに藤堂家臣となった桑名弥次兵衛吉成の
旧主と戦うのに忍びず、一人突撃して戦死した話が印象的

『秀頼』と焼き印を

2020年09月20日 17:48

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/20(日) 12:03:46.31 ID:u8VnV0o8
慶長十九年十一月二十五日

(大阪冬の陣の最中)城中の下臈の者が、浅野但馬守(長晟)の手に走り入った。
この者を大御所(徳川家康)が御前に召され、参上すると彼に城中の様子を問われた。
かの者は申して曰く

「藤堂和泉守(高虎)、浅野但馬守以下、各々秀頼に音信を致している。」

これに対し家康は「偽を申している。」として、彼の額に『秀頼』と焼き印をして城中に追い返した。

当代記



『駿府記』から権現様の老いてなお元気な話や怪奇話、珍しい贈答品の話(悪い話を含む)

2020年08月18日 18:42

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/18(火) 18:23:32.60 ID:rP7c6Hcr
駿府記』から権現様の老いてなお元気な話や怪奇話、珍しい贈答品の話(悪い話を含む)
慶長16年
8月13日、朝、御浅間に出られ、鉄砲を放たれた。的を2町より遠くに置かれ、的に5度も当たった。近侍の者はみな、当たらなかった。
午刻に前殿の櫓の上に鳶が止まっていた。鉄砲を放たれ、3発とも当たった。鳶2羽を撃ち落とし、1羽は足を撃たれて飛び去っていった。距離は50間だったという
(江戸在府中の)9月19日、海上に白鳥が多いことを大御所が聞こし召され、鉄砲の上手な家臣を数人召し連れ出御されたが、風波が悪く、お船が揺れ動き、照準が定まらないので還御された
慶長17年
2月3日、遠州堺川にて鹿狩り。およそ5、6千人を引き連れ、大御所は鉄砲の巧みな者数十人を供にして撃たせた。イノシシ2、30頭を捕獲した。大雨が降ってきたので狩りを中止し、浜松に到着した
12月20日、「寒食」(古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと)として麺料理を出したところ、お気に召さなかった。与安法印が策を練り、ショウガ汁を多くして麺を柔らかくしたところ、ご機嫌が直った
同月26日、藤堂高虎細川忠利がお目見え、島津忠恒は「焼酒(アハモリ、琉球酒)」2壺と砂糖5桶を献上した
慶長18年11月18日、鷹狩り。路地において百姓が目安を差し出したので、代官深津八九郎と百姓を御前において対決させ(遂対決)、直に訴えを聞いた。すこぶる代官に私曲があったのですぐに代官の職を召し上げた(24日にも目安あり)
慶長19年4月5日、駿府面前の浜で亀に似た肴が引き揚げられた。漁師が20人あまりで担いで持ってきた。背中は黒く亀甲のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三つ叉になっており、大きなひれがあり、腹の色はぶちだった。諸人がこれを見た

12月、このたび、平野の御殿を阿部正次が普請したところ、小壺1個が出土した。壺の中には黄金30両、「金具」9塊、南鐐(美しい銀)100両が入っていた。伊丹康勝が持ってきて語るには「5、60年前に埋めたものではないでしょうか」。発掘された金は阿部が賜った

慶長20年11月10日、大御所は越谷に渡御されたが、お鷹場に水が溜まっており、鷹狩りはなされなかった。このため代官が勘気を被った
12月9日、引き続き中原に逗留。御小人頭の稲垣権右衛門を誅殺した。鷹狩りのときに御鷹を損じたからである



450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 11:45:50.55 ID:SM/T+GPd
>背中は黒く亀甲のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三つ叉になっており、大きなひれがあり
マンボウか何かだったのかな

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 12:57:48.29 ID:ChT2jncQ
家康は大将は自ら戦うものではないとか言ってたと思うが、鉄砲が上手かったというのはほんとなのかね?
とこで学んだんだ?

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/20(木) 00:06:44.13 ID:gTXp9QmS
>>451
一揆の頃は自らノリノリで戦ってたよ。人手不足だったんだろうけど
鬼武蔵を打ち取る鉄砲の名人もいるし
教える人はごろごろいたんだろ。

藤堂家の大阪夏の陣

2020年01月08日 16:51

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 02:03:41.49 ID:EdAeePYM
明夏陣、大阪より京都を焼き払うという風聞が有り、大阪から京都への通路を防衛するため、
和泉様(藤堂高虎)は諸勢にさきがけて四月四日に淀に御着陣され、同二十五日まで淀に御在陣。
その間、淀城の御普請を仰せ付けになった。

権現様(徳川家康)、台徳院様(徳川秀忠)が京伏見へ着座成されたため、淀を四月二十六日に
御陣替えになり、五月五日に千塚に御着陣になった。

五月六日、八尾表に、木村長門守(重成)、長宗我部(盛親)の人数、約一万二千が打ち出た。
和泉様の左備は長宗我部の隊と戦い、終日の働きの末、ついに長宗我部は敗軍し大阪へと追い込めた。
この戦いで藤堂仁右衛門、藤堂勘解由、桑名彌次兵衛、山岡兵部、その他、侍数多討ち死にした、
右備は長宗我部の先手の者に木村長門守人数が加わった部隊と戦い、この戦いで首級数多討ち取った。
我が方においても、藤堂新七、藤堂玄蕃、その他、侍多く討ち死にした。
その夜はその場所、八尾に陣所を据えられた。

六日の合戦で御家中の物頭、その他侍数多討ち死にし、終日の戦のため人馬は疲れ切っていたので、
翌七日の御先手は、新手の人持ち衆へ仰せ付けられるようにと、両上様(家康、秀忠)に和泉様より
六日の晩にお理を仰せ上げられたため、七日は越前宰相(松平忠直)、加賀筑前殿(前田利常)を御先手に
仰せ付けられた。

七日には、敵味方ともに人数を打ち立て互いに鉄砲を撃たせていた。そのような中、台徳院様が御供四、五騎を
召し連れ和泉様の御陣所へ御成になり、戦の御手立てに関する御談合をなされ、御本陣へと帰られた。
その後、惣懸り(総攻撃)という事となり、御家中衆も殊の外稼ぎ、首数数多討ち取った。

両日の首数、都合三千七百七十三を討ち取った。

(藤堂家覺書)

藤堂家の大阪夏の陣について



彼の十の指を切り、額に丸の中に”秀頼”と書いた焼印を当てて

2020年01月07日 15:14

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/07(火) 11:17:33.65 ID:TMu6ehAY
大阪冬の陣で、大阪城を取り囲んでいる最中、城中よりのそくたく(属託:報酬を払って依頼すること)にて、
秀頼公より和泉様(藤堂高虎)の元へ御書状を、吉河瀬兵衛と申す者が持ち参った。
和泉様はこれを直ぐに権現様(徳川家康)の元に持ち参った。その書状には

『最前より約束の如く、東の人数を引き出した事、秀頼公は御感に思召して居られる。うしろぎり(寝返り)の
手立が肝要である。御褒美の儀は望み次第である。』

このように書かれていた。権現様はこれを見ると
「良き臣下を討ち果たさせるための、こういった調略は昔から大唐にも日本にもあったものだ。
和泉については、昔からその心を知っている。別心などはありえない。彼は一筋に私の為を考えている。
だからこそ、彼を討ち果たさせるため調略を仕掛けたのであろう。」

そうお考えに成り、この書状を持ち来た瀬兵衛についへ和泉様へ
「彼の十の指を切り、額に丸の中に”秀頼”と書いた焼印を当てて城中に追い返すように。」
との御意を仰せになった。和泉様はその御錠の通りに仰せ付け、大野主馬持口であるせんばの門前まで
送り遣わせた。

(藤堂家覺書)

藤堂高虎に対する大阪方の調略について。



734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 09:15:27.34 ID:wuaUlWLR
秀頼焼印は夏の陣まで活躍してそう

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 13:20:37.67 ID:9coiYBvL
>>733
あの時代に指10本切るって酷いな、その後どうなったんだろう…。

その用意をしている内に、和睦となった

2020年01月06日 17:21

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 23:32:00.28 ID:Np6vwiTb
慶長十九年、大阪陣の刻、和泉様(藤堂高虎)は先手をお受け取りに成り、諸勢の動向に御かまいなく
河内の国府へ十月二十六日に御討ち出られ、それより次第次第に陣替えがあり、和泉様の仕寄場は
天王寺口で、これに対する城中黒川の持口は大野主馬(治房)、矢倉は木村長門守(重成)の持口であった。

この場所は大阪城惣構の近くで、築山を築き井楼を上げ、火矢、鉄砲、石火矢を油断なく昼夜撃たせた。
このため木村長門守の持口である矢倉は打ち破られ、大阪城の人々がそこから出入りする事は出来なくなった。
また、金掘を入れ、堀きわまで掘りつけた。その上竹束も堀きわまで七間(13メートル弱)まで付け寄せた。

極月(十二月)二十日の夜、堀の中に設置されていた柵を引き取るようにと和泉様が仰せ付けられ、
その用意をしている内に、和睦となった。

(藤堂家覺書)

藤堂家の覚書にある大阪冬の陣の記録。大阪城惣構の中への突撃準備が整うまさに直前に和睦がなされたと
ありますね。



489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 23:55:38.58 ID:10v8Qglc
お話なんかじゃ攻めあぐねての和睦ってテイストにされやすいけど
実際はもう落城のボーダーラインぎりぎりね

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 00:23:26.10 ID:vGqvWph/
真田丸に仕掛けて大敗北した後は、にらみ合い &大砲撃ちまくりというのが通説だけど、
当然、ただにらんでいるだけじゃないわな。

和泉様御鑓先の敵は

2020年01月04日 16:33

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 14:14:49.52 ID:zP+MkFWP
権現様(徳川家康)は九月十四日の昼時分に赤坂にお着きに成り、先手の上方衆はその夜、青野ケ原へ出て
野陣をし、翌十五日の未明に、いずれも青野ヶ原を御立ちになって関ヶ原へ出られた。
この行程で、藤堂新七郎は先手にまぎれ参り、朝駆けで取った首を取り出して本陣へと向かった。
これは諸手の一番首であったので、権現様へ高橋金右衛門が持って御上げした。

その後、和泉様(藤堂高虎)御鑓先の敵は、大谷刑部少輔(吉継)、脇坂中務(安治)、小川土佐(祐忠)、
平塚因幡(為広)の四人あったが、脇坂中務と小川土佐は和泉様才覚にて裏切りを仕り、大谷刑部少輔人数と
一戦した。刑部少輔家臣の湯浅五助と申す母衣の者を、藤堂仁右衛門が討ち取った。その他敵を数多討ち取った。

そして藤堂玄蕃が討ち死にし、そのほか御家中の者達も多く討ち死にした。権現様衆の村越兵庫殿もここで
討ち死にした。

権現様はこの働きを御忠節に思し召され、後帰陣後、後褒美として伊予半国を拝領に成り、和泉様の所領は
都合二十万三千石となった。

(藤堂家覺書)

関ヶ原に関する藤堂家の記録



479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 14:30:04.66 ID:m4Y0etBc
便乗した朽木は残り
藤堂にあらかじめ内通していた小川は改易とは

藤堂高虎『遺訓二百ヶ条』、人斬り実践編

2019年09月16日 16:12

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/16(月) 00:22:30.66 ID:5o8unsTp
藤堂高虎『遺訓二百ヶ条』、人斬り実践編

一五二
必ず人を打ち果たさねばならぬ時は、一尺あまりのはみだし鍔の脇差で突くべきである。そして刃を上にして突くべきだ。鍔がない
場合は血糊で滑ることが有る。ただし柄は巻いてあるのが良い。必ず刃を下にしてはならない。動きの素早い者には押さえられる
ことが有る。斬るというのは場合による。必ず討ち果たす必要が有る時、突けば尽き損なうという事はないが、斬る時は切り損なう
ことが多い。
(大事の仕者の時は壱尺に少余るはみ出し鍔の脇指にて突くへし。刃を上にして突きかへるべし。鍔の無はのりにてすべる
事あり。但柄は巻たる可然。必刃を下へすべからず。はやき者はおさゆる事あり。必切ル事は折によるべし。大事の仕者は突につき
そこなひはなし。切には脇そこなひ多かるべし。)

一五三
刀の大小の柄は、皮より糸巻きのほうが良いという人がいる。皮は血糊がかかると滑るが、糸巻きは滑らないという。しかしどちらが
悪いとも言い難い。とにかく、柄はどちらであっても古くあかじみているものでは血がかかると滑るであろう。昔は皮の柄ばかりであったが、
それで数度の用にたった。である以上皮の柄が滑ると決まったものではない。
(大小の柄皮より糸巻よきという人あり。皮はのりかかりすへるという。糸巻はすべらずといふ。何れ悪敷といひがたし。兎角柄は
いずれにても古くあかしみたるは血かかりすべらんと思はるる也。昔は皮柄斗なれ共数度の用に立来る。然上は皮柄すべるとも
きはまるべからすとなり。)

一六八
鑓長刀で人を突く時は、そのまま突くと同時に、鑓であっても長刀であっても捨ててしまえば、突かれた者は倒れるものである。
そして倒れた時に石突を足で踏みつければ、起き上がることができなくなる。うかつに突いた鑓を持ったままで居ると、相手に
手繰り寄せられることが有る。鎌鑓や十文字鑓はまた格別である。
(鑓長刀にて人を突時は其侭突込と一度に鑓にても長刀にても捨候へは突れたる者倒るる物なり。倒れたる時石突を足にて
ふまへ候へは起き上り兼る物なり。うかと突込たる鑓長刀持て居れはたぐり寄事あり。鎌鑓、十文字は格別なり。)

一七一
もしやむを得ず家来を手打ちにする時は、一刀を打ち付けたならば、続けて二つも三つも打つべきである。一刀で様子を見ては
いけない。もし切れていない時は反撃され自分が怪我を負う事が多い。よく心得るべし。
(もし是無非無にて家来手打ちにするとも、一刀打付たらは二ツも三ツも続けて討へし。一刀にて不可見手廻る歟。不切時は
必手負数度多し。能可心得。)

一八〇
敵を組み伏せて首を落とす時は切ってはならない。刀であっても脇指であっても、切っ先を左手で押さえて、擦り落とすべきである。
早業によい。
(組伏て首落す時は切べからす。刀にても脇指にても切先を左の手に取りすり落すへし。早業に能なり。)



402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/16(月) 09:13:38.88 ID:GLcy2izj
>>401
生々しくてすげーリアルだ、当事者だから当たり前だけど…

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/16(月) 10:31:30.75 ID:sTJYIEYO
剣道やってる人も竹刀の持つところが垢まみれだと滑るとかあるの?

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/16(月) 11:52:17.33 ID:C4HOaIOB
>>401
怖い
こんなのが200もあるのか

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/16(月) 14:03:13.19 ID:zAldsUz/
三尺手ぬぐいの便利な使い方も10以上あった気がする

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/18(水) 12:32:10.52 ID:MqXkTdA+
>>403
そうなる前に変えます

津候の念珠

2019年05月23日 17:10

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/23(木) 12:29:39.50 ID:ytMhFP3J
聞いた所によると、津候(藤堂氏)の乗輿の中には天台宗の念珠が入れてあるのだという。
これは藤堂家の元祖である高虎が天海僧正の弟子と成ったため、代々この如しと云う。
また岡崎候(本多氏)の乗輿にも、浄土宗の輪数珠が入っており、これももその元祖忠勝の
遺命によって、代々そのようにしているのだとか。

現代は燈明寺という寺よりこれを調進するのだという。

(甲子夜話)



藤堂高虎『転職について』

2019年05月05日 17:31

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 20:51:11.78 ID:FUyCS7j+
三八 新参の者は古参の者によくその家の作法を尋ね、その通りに守るように。家によって作法の
   違うことも有る。しかしながら善の道はどこに行っても同じであり、自身が身の行いを正しく
   していても、留まり難い時はそこが悪い家であると心得、立ち去るべきである。長居は悪事の
   基となるからである。

三九 古参の者にとって主人を尊ぶというのは、具体的には新参の者を引き立て、知らない事は
   言い教え、家の作法を守らせ長く務まるようにする事である。
   どんな古参であっても、我儘を朝夕に新参者に異見しても聞き入れるわけがない。
   新参の者に悪事が多い時は、古参の者が悪人であるからだと考えるべきだ。古参の者こそ
   作法が第一なのである。これは家老に続いて、よく心得るべきである。

四〇 数年に渡って、昼夜奉公を尽くしてもそれに気が付かないような主人であれば、たとえ譜代であっても
   暇を取るべきである。そのような環境でうつらうつらと暮らすことは意味がない。
   しかし不遇であっても主人が情け深く理非正しい人物なのであれば、なりふり構わず働いて、
   譜代の主人なのだからと、情を以て考え直し、留まるべきであろう。

藤堂高虎遺訓二百ヶ条)

藤堂高虎遺訓の中から、転職についてのお話


調略を討ち果たす

2018年01月21日 17:40

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/20(土) 20:36:47.37 ID:0TMGCboN
大阪冬の陣の折、幕府の軍勢が大阪城を包囲している最中、幕府方によって捕縛された
吉河瀬兵衛と言う者が、豊臣秀頼から藤堂高虎への書状を持参していた。

それはすぐに徳川家康の元へ届けられたが、その書状にはこのように書いてあった

『最前より約束のごとく、東(幕府方)人数引き出し候事、秀頼公御感に思し召し候。
いよいよ、後ろぎり(裏切り)の手立て肝要に候。御褒美の儀は、望み次第たるべきと
おおせ遊ばせ候。』

これを読んだ家康は言った

「良き臣下を討ち果たさせるための、昔からこういった調略は、大唐にも日本にもあった。
和泉(高虎)の心は、昔からよく知っている。別心などあるわけがない。ただ一筋に、
我らのためを考えてくれている。
従ってこれは、討ち果たすべき調略である。」

そう考え
「かの瀬兵衛を和泉に引き渡しこう言え、彼の十本の指をすべて切り、額に秀頼と書いた
焼印を当てて、城中に追い返すように、と。」

吉河瀬兵衛を引き渡された高虎は、家康に言われたとおりにせよと命じ、瀬兵衛は
大野主馬の持ち口であるせんばの門前へ送り遣わされた。

(藤堂家覚書)



491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/20(土) 21:48:33.65 ID:RKYI0gsk
裏切りが真実ならこうするぞ!という脅しか

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/20(土) 21:54:13.27 ID:x2e4wzOq
葵でもそのようなくだりがあったな

そして、高虎さんは夏の陣で無茶をするんだよな…

荒木素白は書の名

2017年09月13日 18:22

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 22:54:40.59 ID:Mgtr1m2r
荒木素白は書の名、家名は光辰。通称は三次、のちに内膳。母は桂氏。
九歳で福山藩主水野勝成に仕えるが、十九歳のとき同僚と争論して去り、伊勢に赴き津の藤堂高虎に仕える。
高虎、勝成のために酒餞を設ける。素白は給仕周旋する。
勝成恚りてこれを高虎に言う。高虎肯んせす。
素白去りて京師にいく。勝成怒りて国に入るを禁じる。
数年後、素白は鞆の浦にやってきて告首罪を請う。勝成はなだめて京師に帰した。
素白剃髪して禪を霊隠寺一絲に問い名を虚空素白と改める。
勝成に再び召し抱えられて月棒を貰う。勝成勝俊が亡くなったあとで辞去。
高虎の嗣子が招くが辞退。
素白は書を好み藤木敦直を師としてその名は高し。上代風の中興。書体三跡の室に入るという。後水尾天皇は召しだして扇と色紙に書かせて、おおいにこれを悦ぶ。
晩年力老いて病むにおよび大納言藤原弘資を遣わして慰問する。使者絶えず。貞享二年春死ぬ。年齢八十六歳。七男一女あり。(野史、名家全書)
大日本人名辭書

頑張って翻訳してみた。
勝成と高虎って仲良さそうだね。



河村の才知

2017年07月01日 15:06

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 09:35:57.74 ID:or08M729
加藤左馬助嘉明が伊予の松山にあった時、藤堂和泉守高虎は今治に在城していた。
松山の枝城には、嘉明の弟・主馬が置かれていた。これは今治領との境目であった。

ところが、この境目において在地の争いがあり、高虎の領分の百姓が、主馬支配下の百姓に
殺される、という事件が起きた。

高虎は堪忍致せぬ事態であるから、主馬の所へ軍勢にて押し掛け城を踏み潰すとの噂もっぱらとなり、これが
飛脚により嘉明に伝えられた。これを聞いた嘉明は扇子を手に持ちながら
「さればこそ 人かよいけり あさぢはら」
という歌の上の句を2,3度唱え、暫く黙っていたが

「今、弟を人に殺されて堪忍することは出来ない。今後どうなろうとも、是非出陣して
高虎を討ち果たすべし!未だ主馬が死なぬうちに後責め致すべし!」

そう言って即座に陣触れし、その夜の五つ(午後8時ころ)出勢と決め、諸士ひしめいた。
老臣たちも黙ってこれに従った。

しかし、河村権七といい、彼はこの頃まだ若年で、家老の列に入っていたが末座に控えていたが、
彼が進み出て四方に主張した

「今少し、後思慮なされるべきです!何故ならば、今から出陣いたしましても、高虎の勢が
主馬様の所を攻撃するのに間に合いません。また噂だけで実際に藤堂勢の出勢がなければ、我らが
陣触れして出撃する意味もなく、かえって公儀を軽んじて私の軍を起こしたとの批判も受けるでしょう。
特に藤堂は公儀において重んじられていますから、何を企んで我等に対し手段を致すか、はかりかねます、
今少し実否を正して、その後に後出勢なさるべきです!」

これに嘉明も屈し、その夜の出勢は中止となった。二時(約4時間)ばかりを経て注進があったが、
藤堂の出陣は噂だけで実際に軍が動く様子はない、との事であった。河村の才知が功を奏したのである。

その後、藤堂高虎は公儀に対し「加藤嘉明は境目の紛争で我儘をいたし、陣触れまで行った」事を、
数通の実例を上げ申し上げたため、嘉明の立場は難しいものとなり、身上破却に至る寸前まで行ったが、
様々に弁明し別状無かったという。

(士談)


藤堂高虎遺訓ニ百ヶ条で、よくわからないもの

2017年06月08日 17:30

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 23:09:04.55 ID:wSC6ug/z
藤堂高虎遺訓ニ百ヶ条で、よくわからないものをまとめてみた

十、合戦道具で柿色はよくない。紺色が良い。色々あるが書付にするほどのことでもない。

七十六、不用心な道中を通る時は錐を拵え持っておくと良い。色々徳がある。
     錐の拵え方に心持ちがある。

七十八、刀の下緒は長いのをつけよう。仮初にも短くてはいけない。

百五十七、仮初に刀を持って出るときでも、左手で持つよりも、右手で持ったほうが徳が多いと口伝されている。

百五十八、少し歪んだ刀は、手洗いに綺麗な水を入れ、刀の柄に縄をつけ、切っ先を下にして逆さまに釣り、
      水鏡に映せば必ず治るものである。

百八十三、鮫鞘を好んではならない。

百五十九、追撃している者を馬上から斬りつける時、あぶみの踏み方がある。

藤堂高虎遺訓ニ百ヶ条)

同時代だと理解できたんだろうか



844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 02:01:42.02 ID:9FNpujTF
>840

戦場での視認性の問題かな。柿色や茶色系統では目立たないとか。
七十六
刀以外の、気楽に使える何かしらの得物をもって用心しろという事かな。
杖や棒でも良いような気がする中、何故錐をお薦めされているのは分りませんが。
七十八
何かを結んだり縛ったりする紐としても使えるようにという事かと。
「こんなこともあろうかと」の精神ですね。
百五十七
とっさの際には左手にある刀を抜くより右手の刀を鞘ごと振り回したほうが色々早い、という事かも。
高虎公の膂力があっての事かもしれませんが。
百五十八
刀を吊るす事で自重によって歪みが矯正される、とか?
良くはわからないですが、ともかく道具の手入れは欠かすなよという注意かと。
百八十三
鞘を飾る余裕があるなら別の事に使え、という贅沢嗜好への戒めかと。
百五十九
鐙できちんと体を支えてないと勢い余って落馬する事もありそう。

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 02:59:47.96 ID:6Vf15pDY
>>840
高虎の遺訓は1664年に大神朝臣惟直って
大友家から藤堂家臣になった佐伯(大神)惟定の血筋の人物が
書き残してるんだよな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 06:13:57.05 ID:q5O1cTh1
遺訓の数にワラタ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 09:18:53.21 ID:nYIjRBij
>>840
10当時、柿渋染めは怪我をした時に血が止まりにくいという説があった。
一方紺染めには虫よけの効果がある。

158刀は多少曲がっても、復元力が残っていると真っすぐに戻る場合があるので
ダメ元でも釣るしておくのは理に適ってる。水鏡に映すのは迷信の一種。

183鮫鞘は高いし、湿気の多い時期になるときつく締まるので、とっさに抜きにくいという欠点がある。