342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/28(日) 13:29:50.38 ID:yhd8x8KM
江戸城、西御丸の外堀を弁慶堀と呼ぶのは、慶長五年、関ヶ原合戦の後に、上方衆では藤堂高虎、
関東衆では伊達政宗の両人が頭取となり、江戸に屋敷地を拝領仕りたい旨を願われた。
家康公はこれを聞き召され、「各々大阪に屋敷有れば、当地にては無用の事なり。」と仰せになられたものの、
たって願われたために、外桜田辺り(今の大名小路の場所である)にて、東国西国の大名、加藤清正を始め、
黒田、鍋島、毛利、島津、伊達、上杉、浅野、南部、亀井、仙石、相馬、水谷、秋田、土方、その他の衆
(前田は芳春院江戸下向の時、秀忠公より御城大手先に於いて下されていた。また浅野幸長は弾正長政に
先立って、桜田霞ヶ関という所を拝領した故に、これを上屋敷となし、老父弾正隠居所に仕りたいと
願ったために、別に屋敷を下されたという)
御当家(徳川家)への御奉公始めとして、東西の諸侯による打ち込みの御堀普請が行われた。
これは東西の武蔵坊と言える心で行ったので、下々はこの堀を「弁慶堀」と申し習わした。
この頃、御堀はようやく幅十間(約18メートル)あまりであったのだが、屋敷拝領の諸侯よりの
願いを以て、堀の土を揚げ方々へ引取り、地上げに用いたため、現代のように御堀も広くなり、
底も深くなったという。
(新東鑑)
江戸城、西御丸の外堀を弁慶堀と呼ぶのは、慶長五年、関ヶ原合戦の後に、上方衆では藤堂高虎、
関東衆では伊達政宗の両人が頭取となり、江戸に屋敷地を拝領仕りたい旨を願われた。
家康公はこれを聞き召され、「各々大阪に屋敷有れば、当地にては無用の事なり。」と仰せになられたものの、
たって願われたために、外桜田辺り(今の大名小路の場所である)にて、東国西国の大名、加藤清正を始め、
黒田、鍋島、毛利、島津、伊達、上杉、浅野、南部、亀井、仙石、相馬、水谷、秋田、土方、その他の衆
(前田は芳春院江戸下向の時、秀忠公より御城大手先に於いて下されていた。また浅野幸長は弾正長政に
先立って、桜田霞ヶ関という所を拝領した故に、これを上屋敷となし、老父弾正隠居所に仕りたいと
願ったために、別に屋敷を下されたという)
御当家(徳川家)への御奉公始めとして、東西の諸侯による打ち込みの御堀普請が行われた。
これは東西の武蔵坊と言える心で行ったので、下々はこの堀を「弁慶堀」と申し習わした。
この頃、御堀はようやく幅十間(約18メートル)あまりであったのだが、屋敷拝領の諸侯よりの
願いを以て、堀の土を揚げ方々へ引取り、地上げに用いたため、現代のように御堀も広くなり、
底も深くなったという。
(新東鑑)
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