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内蔵助を攻める軍勢を出すべし

2022年11月21日 19:47

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/21(月) 19:01:01.76 ID:kbOd9V3r
「越中国の佐々内蔵助(成政)は、秀吉が四国九州へと軍勢を出すならば、定めて隙きが出来たとして、
油断を突こうとするだろう。であるので、内蔵助を攻める軍勢を出すべし」と御議定した所に、
蜂須賀彦右衛門(正勝)が申し上げた

「内蔵助についてですが、彼は供の者六人を召し連れ、国を急に立って浜松に参ったと承っております。
供は佐々与左衛門、いたわ勘右衛門、松木内匠、その他計六人、そのように承っています。
御分別のため申し上げます。」

これに対し、秀吉公の御意には
「家康卿が律儀である所に目をつけ、内蔵助はすぐに合戦という状況で無いために、直談をすべしと
思ったのだろう。しかし今更家康卿に心置きをしようとするなど、口実を作って却って、
毛を吹いて疵を求むという事と同じだ。事が見えない先に聞き出すような沙汰は、必ず上手く
行かないだろう。

家康卿に表裏はない(家康卿表裏有間敷なり)。丈夫である家康を東の押さえに頼り置く事ができれば、
東国の気遣いは無くなる。であれば越中に馬を出そう。」
との御議定であった。

家康卿へは越中に、『御馬出候、加勢少可給者なり』と仰せ遣わした所、本多豊後に都合三千の兵、
そのうち鉄砲三百挺にて家康卿よりの御加勢として素早く上洛に及んだ。

これによって上様(秀吉)は大阪を、酉年(天正十三年)七月二十七日に出陣された。
この時の御分別には、「内蔵助とはこの間まで、肩を並べる傍輩であったのだから、定めて私に対して
疑いが深いだろう。例えこの秀吉に降参したとしても、悪我を張るであろう。
織田信雄は信長公の御実子であるから、信雄を私の旗本と定めよう。内蔵助は堅物であるから、
信雄に対して降参するだろう。」

そのように思し召し、軍勢の路地すがら信雄に対面した時、自身の御旗本のように執り扱ったのは、
その様子を越中に響かせるためであったと聞こえた。

川角太閤記



483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 08:27:03.82 ID:1wYkIu2B
越前と美濃ですら連携に失敗してるのに越中と遠江なら尚更
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蜂須賀家の紋章は

2021年09月20日 15:57

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/20(月) 11:23:28.88 ID:HAfabZVB
蜂須賀家の紋章は古くは卍字を用いたが、後に鉄線に改め、また八重菊を用いた。

正勝公(蜂須賀正勝)の時に将軍家(室町幕府)より桐章を許されるも、秀吉に憚って
柏円を用いた。公(蜂須賀至鎮)に至って蛇目を用いる。

家康が南宮山に陣した時(関ヶ原の戦い)、正利公(正勝の父)の甥にして蜂須賀彦助
の嫡子である金左衛門政吉を招き、紋章卍字の由来を問うた。

金左衛門が答えるには「元祖兵庫頭源仲政の二男の右馬頭頼行の嫡子、小平太政員
が伯父の源三位頼政とともに兵を挙げた時、高倉宮(以仁王)より綸旨ならびに卍字の
小旗を賜りました。

当時、政員は母方の紋章柏円を用いましたが、戦死後に嫡子の平太郎政隆が卍字に改め、
以来家紋に定めました」との由をもって返答した。

そのため家康から「以後は家の紋となすべし」と命があったことより、ついに蜂須賀家
紋章と定めるに至った。

――『峻徳公略伝



カヨウノ比興者ニ御国ヲ被下置候ヘハ以来御無禮ニ罷成カト奉存候

2019年12月20日 19:07

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 11:30:47.88 ID:dQahfqyj
小早川隆景公が分国を巡廻なさっていた際、高松城にも立ち寄られ、清水長左衛門(宗治)についていよいよ
信頼を深められ、備前岡山との境目を御預けになり、高松の城普請など仰せ付けになった、その他、備中備前の
境目の諸所に小城を吉田衆、三原衆のために置いた。このように大事の境目を預け置かれたのは、隆景公が
清水長左衛門の無二の覚悟を御覧になっての事であるが、長左衛門はさらに  隆景公が御安堵なされる為に、
息子の源三郎(後の美作)を人質として三原へ遣わしたのである。

その後、天正十年卯月(四月)中旬、備前岡山に羽柴筑前守(秀吉)が到着し、翌日、備中の宮内と申す所に
蜂須賀彦右衛門(正勝)、黒田官兵衛(孝高)が使いとして訪れ清水長左衛門に面会し、長左衛門に対し
織田信長公の御誓紙を以て、『備中国を与える、織田方の西国の先手と成るように。』と仰せ聞かせた、

この時、長左衛門はこう返答した
「辱き次第、冥加至極の御意であります。ではありますが、近年私は、毛利輝元、小早川隆景より備中境目の城を
預け置かれております。であるのに今、信長公の御意だと言われても、それをお受け申し上げるとお思いなのでしょうか?
その上、御意に従ったとしても、そのような卑怯者に一国を下し置かれるのは、信長公に対する以ての外の御無礼に
なるかと存じ奉ります。(其上随御意候テモカヨウノ比興者ニ御国ヲ被下置候ヘハ以来御無禮ニ罷成カト奉存候。)
この事、然るべく仰せ上げください。」
そう申し切ったのである。

これについては、信長公の御誓紙一通、羽柴筑前守殿の添状一通を相添え、輝元公、隆景公へ上記の趣を書状として
調えこれを上げ申した。現在も定めて御註書の中に有るかと思われる。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)



蜂須賀もとに 澄水の

2017年05月18日 21:17

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/18(木) 02:04:32.57 ID:wFnksFn3
蜂須賀修理大夫正勝は、日頃愛宕山を信仰し、その頃は播磨龍野におられた
ので愛宕山へ参詣なさり、祈念なさっていたところに、どこともなく老人の山伏が

法螺貝を持って来た。山伏は、「宿坊より献上いたします」と言い、法螺貝を差し
置いて帰った。正勝は不思議に思って宿坊に入り一礼を申されたところ、宿院の
僧はこれを聞いて、「左様のことは、こちらは一向に存じ申さず」と言った。

このため僧は、「きっと権現より奉りなさったのでしょう。戦場で貝を吹く事は獅子
の吼えるが如く、この一声には悪魔は降伏して怨敵は退散し、子孫は御繁栄と
なりましょう」と祝した。その夜、正勝の夢の中で山伏と童子が歌を吟じ、

"香をとめよ 蜂須賀もとに 澄水の 濁らぬ世々の 末が末まで" と吟じていた。
これより以後、出身なさって阿波守となられた。

――『明良洪範』


太田城水攻め講和

2013年06月02日 18:53

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 01:01:27.03 ID:e8Ls+TEd
天正13年(1585)、羽柴秀吉の紀州征伐において最大の激戦となり、日本三大水攻めの一つともされる
太田城攻防戦。
秀吉軍は紀の川の水をせき止め、得意の水攻めを行ったが、一揆軍は堤防を破壊し、宇喜多秀家の軍勢を
多く溺死させるなど、頑強に抵抗した。

(この時一揆軍は秀吉方に対しに『備前もの其身は何と知らねども 堤や岩や大切ぞする』との
狂歌を立てた話は有名である)

しかし一揆軍の劣勢は変わらず、蜂須賀正勝前野長康の説得により、終に降伏することとなった。

この時蜂須賀・前野からはこのような条件が出された

「最前に我々は51人を討たれた。その代わりに、誰でも良いのでそちらからも51人を討って首を提出
してほしい。」

そこで一揆方は元来は知らぬ者達(おそらく流れ者の傭兵などだろう)を51人討ち、その首を提出して、
こうして終に和談が成ったのである。

この時討たれた51人の首塚が、吉田村の西北に一ヶ所、南に二ヶ所、計三ヶ所作られた。
一つの首塚に首が一七埋まっているため、十七塚と呼ばれている。
(太田水責記)

太田城水攻め講和の時の、犠牲者について伝わることである。




753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 01:49:24.64 ID:YvnAEsf5
なんか話が違う

http://magoichi.or.tv/rekisi/img/oota/20050417.jpg
20050417.jpg

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 06:29:02.08 ID:Z6paVRJL
後の日本版エリア51である

天正11年(1583)3月 羽柴秀吉、蜂須賀正勝・黒田孝高宛書状

2012年05月09日 21:00

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/09(水) 07:00:48.01 ID:H7FI8CyN
天正11年(1583)3月、賤ヶ岳に向けて畿内がきな臭くなってきた頃の、羽柴秀吉より、当時毛利との講和作業に
現地に赴いていた蜂須賀正勝、黒田孝高宛書状

『去る9日付けの書状が今日届き、それを見た。

一、お前たち(蜂須賀・黒田)からの報告は心得た。毛利から割譲された城々を受け取ったなら、
  人数、兵糧をしっかりと入れ置き、お前たち両名は早々に帰ってくるように。

一、西国の者たちへの挨拶は、書状でしておけばよいだろう。

一、尾張表では喧嘩のようになっている。不思議な事も起こるものだ。(尾州表喧嘩之様成、不思議之儀出来候)
  そんな状況なので伊勢表に軍勢を派遣した。私も今日、坂本まで移動する。

一、お前たちは軍勢を一人も率いてくる必要はない。これは八郎(宇喜多秀家)の家中の者たちにも良く
  申し聞かせておくように。
  しかし鉄砲を撃ちあうような事態になれば、軍勢を出すように申すだろう。内々にその事は伝えておく。
  なお、お前たちのことについては改めて入念に申し付けておく。早々に帰ってくるように。
  油断があってはならない。恐々謹言。

                       筑前守
                          秀吉(花押)

  三月十一日
    蜂須賀彦右衛門(正勝)殿
    黒田官兵衛(孝高)殿 』
(黒田文書)

尾張で織田信孝と織田信雄の紛争が始まっていることを「不思議な事だ」と抜け抜けと言っているのが
ちょっと面白い、賤ヶ岳に向けてそろそろ緊迫し始めた時期の秀吉の書状である。






92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/09(水) 18:48:34.04 ID:atCq22oh
>>89
義昭や家康もこの政局に絡んでくるしこのへんの駆け引きには細心の注意を払ってるね
万が一宇喜多や毛利が寝返ったりしたら大変なことだし

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/10(木) 08:23:15.45 ID:koE3i5hB
三重から広島まで手紙は2日なのか?

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/10(木) 09:33:08.84 ID:tTSCUau7
なぜそうなるw

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/10(木) 09:41:19.51 ID:9Ge1RoD7
現代語すら読めないとはw

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/10(木) 09:52:08.65 ID:koE3i5hB
むうう?
広島から愛知まで2日ってことじゃないのか?
現代語難しい

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/10(木) 10:56:46.34 ID:tTSCUau7
蜂須賀達が居るのは、割譲された城の差配をしろと言われてるので
毛利領地の広島な訳はなく最前線の備中
秀吉が居るのは、伊勢表に軍勢を派遣した俺もこれから坂本に向かうと言ってるので
伊勢や尾張に居るわけな訳はなく、坂本より西の京辺りに居る。
備中京都間の手紙のやり取りの話

秀吉公が木下藤吉郎を名乗っていたころの話

2012年03月07日 21:51

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 11:53:27.83 ID:+lkwAxUu
秀吉公が木下藤吉郎を名乗っていたころの話。
織田家に仕え足軽百人頭となった 藤吉郎。
旧知であった川並衆の協力にも随分と助けられ、
百人頭の身にもなれたので、
蜂須賀、前野、を始めとする川並衆の棟梁たちに、
私が仲介するから、自分と同じく織田家に仕えないかと持ちかけた。
それに対して蜂須賀小六は、

「信長殿は海道に並ぶ者のない勇将ですが、
今日まで御一門を数多く誅殺されています。
あのお方の御気性は雷電のようです。
私どもは生来の無頼者。口舌で立ち回る才がありません。
人夫には相性というものもあります。
折角の御推挙ですが、私どもに信長様にお仕えする気はございません。」

藤吉郎は、今までの川並衆の協力に報いることが出来ず落胆の表情を浮かべる。
そんな藤吉郎に再び小六は言う。

「我ら川並衆は己を知る者のためには、
粉骨の労も惜しみません。
この先、万事において我らの命を預けられる士は、
藤吉郎殿をおいて他にいないと考えます。
我らはこれより貴殿のために犬馬の労も惜しみませんぞ。」

これを聞いた藤吉郎は、

「今は未だ足軽百人頭の身。
川並衆の恩に報いることも出来ませんが、
いずれは必ず立身しこの恩に酬いましょう。」

と応える。
以後の藤吉郎と川並衆の立身出世は皆の知るところである


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181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 11:59:03.99 ID:iaQ7qK/H
秀次「」

秀長の説得、蜂須賀党を動かす

2012年02月13日 22:05

900 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/13(月) 15:58:26.79 ID:8f2U2jKn
1566年ごろ、織田信長に仕える木下藤吉郎秀吉が斉藤家との戦いの拠点として敵地である美濃国墨俣に
砦を築くように命じられた。異母弟の秀長を従え、木曽川の水運を取り仕切る蜂須賀党(川並衆)の首領であった
蜂須賀正勝の元に赴いて協力を求めた秀吉は旧知の間柄であった正勝を得意の弁舌で説得したが、
色よい返事は得られなかった。
場に重苦しい空気が流れる中、それまで無言だった秀長は

「この戦いは兄の出世ばかりではなく、戦乱の世を治める足掛かりになります。大した名声も持たぬ我らは
この度の戦に全てを賭ける覚悟です。
 ぜひ協力願いたい。」

と発言。その誠実な人柄を感じさせる切々とした語り口は、秀吉の能弁振りよりも強く正勝の心を動かし、
正勝の協力を得た兄弟は
砦を完成させて、信長の美濃平定に貢献したという。 「武功夜話」より、
秀長の説得が蜂須賀党を動かした逸話である





901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:04:25.24 ID:+uSZYDLv
秀長無双ですなw

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:10:24.14 ID:Gp6ex8vX
前野さん関係の文献だから秀吉を下げようとして秀長上げてるんかね?

903 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/13(月) 16:16:37.01 ID:nnXPDbvE
秀長と良いてんきゅー信繁と良い
こう言う控えめ実直な有能№2って日本人の心にきやすいよな

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:29:33.99 ID:8SjeKcY2
「武功夜話」の史料評価ってどんなもん?
ある程度は認められてる?

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:36:09.05 ID:huiNTWR0
死ぬ順番が逆なら世が乱れることもなくうまく収まったのかな

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:38:10.48 ID:a2SdNpSM
逆に二人共先に死んだからこそ評価が高いのかもしれない
生きていれば兄の死という重大事件によって失態をさらして評価だだ下がりだったかも

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:38:29.93 ID:ENSG7cdH
>>904
ぶっちゃけると資料価値はほぼ0。
よくて江戸後期の創作。
そしておそらくは戦後に創作されたもの。>武功夜話

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:41:45.03 ID:xmvm4Ky7
秀吉の弁舌でグラグラ来て迷って、でも決め切れないって時にポンと置いた言葉だろうから
やっぱり両方共いないと機能しない良いコンビだったって事じゃないかな

そんな解釈しちゃうと武功夜話が近世近代の作り話っぽくなっちゃう訳ですが

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 17:08:35.17 ID:eO402xW+
その話が出来たころにどう見られてたか、ってのを類推するくらいかな

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 17:11:47.71 ID:Cg0eUmlC
秀長さんは理想的なNo.2だったよな。斬新だけど大雑把な兄貴をうまくフォローしてたと思う
秀長が長く生きていれば、と思わずにはいられない

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 17:18:17.82 ID:KaZFxktm
生きてても秀吉が同じようにラスボス化が進行してたら、止められなかった気もなあ

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 17:29:05.25 ID:ENSG7cdH
ちょっと面白い話で言うと、秀長は徳川家康と非常に関係が良くて、三河一向一揆以来断絶していた
家康と本願寺との和解を斡旋したりしてる。
家康も秀長が病に倒れてから何度も見舞いに行ってる。

秀吉政権で東西の2トップとして徳川家康と小早川隆景があったのだけど、どちらも秀長と
非常に関係が深く、秀長がまさに、大名政策における扇の要となっていたフシがある。

秀長はおもむろに扇を開き

2012年02月12日 21:52

881 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/12(日) 20:25:55.08 ID:73pbmnvl
1577年、北陸地方の平定を任されていた柴田勝家のもとに援軍として派遣された羽柴秀吉は
勝家と意見を対立させた末に無断で戦線を離脱した。この事に激怒した織田信長から秀吉は謹慎を命ぜられてしまう。
この時秀吉の弟の秀長も謝罪と釈明の為に安土城を訪れた兄に同行し、控えの間で待機していたのだが、共に来ていた浅野長政

「秀吉は切腹させられるのではあるまいか・・・」

と気が気でなく、蜂須賀正勝に至っては

「もはや生きて城を出られぬかも知れぬ。だが、わしは無抵抗で死ぬつもりはない。」

と短刀を握りしめる始末で、室内の緊張感は高まっていた。すると、兄の窮地であるにもかかわらず冷静さを保っていた秀長は
おもむろに扇を開き、庭に咲く菊の香りを室内に届けるかの様に無言で仰いだのである。続いて竹中半兵衛

「控えめに咲くあの菊の様に、我々も驕らずにいれば誠意は通じるでしょう。」

と静かに語ったため周囲も落ち着きを取り戻し、やがて秀吉が許されたこと知った一同は手を取り合って喜んだという。

「武功夜話」より、扇で皆を落ち着かせた秀長の逸話である。





882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 20:57:40.35 ID:IO/178gk
武功夜話での蜂須賀を始めとした川並衆の信長嫌いは話として面白い。
荒くれ河川労働者と信長じゃ気が合わなさそうだし

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 21:45:40.24 ID:k1kweMZi
確かに、荒くれ河川労働者じゃ秀吉の方が相性良さそうだね
荒くれ労働者の後家なら家康にお任せだけど

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 21:53:30.47 ID:4B0umsjS
蜂須賀、前野は秀吉と苦労を共にしてそうなのに扱い悪いな

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:02:42.52 ID:PvSieo2p
>>885
蜂須賀さんなんて明治に至るまで盗賊の子孫扱いだったはず。


887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:13:34.71 ID:pxMPt5Z8
蜂須賀さん明治には侯爵まで上り詰めているぞ
明治天皇に冗談でからかわれはしたけど(笑)

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:22:54.04 ID:9xgL0Bcx
明治天皇にからかわれた蜂須賀さんは、徳川家から養子に入ったので、蜂須賀の血筋じゃ無いのに可哀相に。

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:26:07.24 ID:XQmJY4nL
そもそも蜂須賀の盗賊伝説は江戸中期以降、絵本太功記の創作から。

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:55:37.70 ID:pxMPt5Z8
蜂須賀侯爵
「陛下、お言葉ですが、
そもそも蜂須賀の盗賊伝説は江戸中期以降、
絵本太功記の創作でございます。
まして私は徳川から蜂須賀に養子に入った身。」

明治天皇
「・・・・・(いや、実際煙草とられてんだけど)」


な三河武士な展開にしてほしかったなw

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:57:04.31 ID:DQbO/mcF
まとめサイトのその話の解説では
実は明治天皇に蜂須賀小六の血が流れてたという、衝撃の事実が

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 23:02:19.91 ID:XQmJY4nL
要は家風の問題であって血が云々ってあまり関係ないんだけどね、日本では。

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 23:25:04.25 ID:aZe8Uzdl
家柄も教養もばっちりな幽斎さんが油を盗んだり柿を盗んだり(ry

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 23:53:05.26 ID:PvSieo2p
結局どこも戦国からの血筋は残ってないんでない?
大名家も養子ばかりだしな。幕末なんか水戸家からの
養子ばっかり

そういう意味で水戸家最強だな。水戸藩は幕末前半で消えたけど
そのあとの将軍や主要な藩の藩主は水戸藩系ばかり会津や桑名の
松平、尾張の徳川も親父かその祖父が水戸家出身だから
それ含めると越前松平を超える最強の連枝集団だな

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 00:06:43.93 ID:8f2U2jKn
島津とか毛利などの外様大名は血が残ってるんじゃ?

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 00:30:16.11 ID:selISkyR
足利(喜連川)は養子入ってるのかな?

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 00:40:15.83 ID:TgcyyrdD
本多忠勝の家は女系の子孫を必ず養子にしてる
榊原家なんかも血族は続いていたはず

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 02:25:19.42 ID:A27AQDfe
それはそうと大和守△
風流過ぎる

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 06:12:44.45 ID:LGIIVCVg
センゴク絵のイメージになってるから
風流されると戸惑う

蜂須賀正勝、本能寺の変の報に際し

2011年12月09日 22:03

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 18:00:21.74 ID:73M5SAMd
天正10年(1582)、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉軍に対し、城将清水宗治と杉原家次は、自分たちの
自害を以って城兵たちの命を救うことを請い、秀吉はそれを許した。
6月、清水たちは切腹し高松城は陥落した。しかし、毛利氏本体との講和は未だであった。

そんな時、秀吉のもとに急報が入った。明智光秀が謀反を起こし、京に軍勢を入れ本能寺において
その主、織田信長を弑した、というのである。

秀吉は驚愕し、配下の諸将を呼び協議を行った。この時進み出たのが、蜂須賀正勝である。
正勝は進言する

「ここは先ず、毛利氏と講和をしてその上で賊を討つべきです!」

秀吉は正勝の方針に従い、毛利氏の寵臣である安国寺恵瓊を呼び出し毛利輝元と講和をしたいと伝えた。
しかしこの時、本能寺の変については伏せていた。

これに蜂須賀正勝は再び、秀吉に進言した

「信長公が弑殺されたという、この大事を伝えずに済ませることは不可能です!
今これを秘密にすれば、他日彼らがこれを聞いた時、我らが怯えていたのだと受け取るでしょう。
速やかにこれを伝えるべきです!
もしこれを伝えたことで毛利が講和をしないというのなら、ここで一戦し勝敗を決すればよいではありませんか!」

秀吉はこれに一言、答えた

「善し」

そこで正勝は自ら毛利氏の元に使いに行き、本能寺の変の事を告げた。その上で、この事態に対し
毛利氏はどのような去就を取るつもりかと聞く。

はたして、輝元は講和の方針を変えなかった。さらに秀吉の陣に使者を遣わして信長の死に対する
弔問を行い、誓書まで残していった。
ここに和平は成り、秀吉は全軍を以て光秀との戦いに向かうのである。

以上、蜂須賀家の記録にある、本能寺の変時の秀吉軍の模様である。
(蜂須賀家記)




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/09(金) 18:59:00.97 ID:BhNkB160
ありえないだろ

秀吉、丹羽長秀に「天下の替り持ちを」と

2011年04月09日 00:00

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/07(木) 23:09:22.94 ID:uz9MhTJD
有名な話ではありますが

天正11年(1583)の賤ヶ岳の後、秀吉に協力した丹羽五郎左衛門尉長秀は、越前、加賀に123万石と言う大領を得た。
が、その頃から長秀は病と称し領地にひきこもり、大阪の羽柴秀吉のもとに現れることが無くなった。

秀吉はこれを大変に気にした。「本当に病なのだろうか?もしや領地が少ないと不満なのではないだろうか!?」
そこで密かに、重臣の蜂須賀彦右衛門正勝を長秀のもとに派遣した。

正勝は長秀に対面すると、秀吉の言葉を伝えた

『お具合はいかがでしょうか?あなたから受けた御厚恩は今も大変重く受け止めています。
そうではありますが、未だ紀州あたりの情勢も不穏であり、これらについて、相談のご相手になって頂けないでしょうか?
今後もあなたから、ご指南ご指図を承りたいのです。

聞くところによすとご病状も、少々良くなられたとのこと。早々に御上洛なされることを、お待ちしております。』

しかし長秀これに
「病状が未だ心もとなくてな。このまま国元で療養いたす。」
とだけ返事をした。

この報告に秀吉は大いに困惑した。秀吉のもとには中国や筑紫、あるいは佐々成政などの不穏な知らせが
次々と入ってきている。ここで丹羽長秀の支持を失えば、それに対応できないどころか、ようやく打ち立てた
彼の天下もたちまち崩壊するだろう。秀吉は起請文を書くと、それを蜂須賀正勝に持たせ再び長秀のもとに遣わした。

今度正勝の伝える秀吉の言葉は、こうであった

『今、私が天下を得たのは、ひとえに五郎左衛門尉(長秀)殿のおかげです。である以上、この上は天下を、
五郎左衛門尉殿と代る代るに持つ形にしたい、と考えています。

あなたが上洛されれば、その後のあなたの領地に秀吉が入りましょう。秀吉は大阪の城と天下を、あなたに
お渡しいたします。

互いにあれほど苦労して得ることが出来た天下です。それを他のものに渡すようなことに成れば、
惜しんで余りありません。
五郎左衛門尉殿に私が仕え奉れば、もはや日本国中に天下に望みを持つものは居なくなるでしょう。』

この書状に秀吉の起請を添えて、正勝は長秀に差し出した。

丹羽長秀はこれに涙を流して感激し、

「病気は嘘ではない。だが、早速上洛しよう。」

と、ついに病躯を押しての上洛を決意した。


秀吉、丹羽長秀に天下変わり持ちを提案する、というお話。





533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/07(木) 23:14:51.37 ID:mOu2UEhf
>>532
それにしても、こういう天下持ち回り的な話あちこちで聞く気がするけど他になんかなかったっけ

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 09:29:07.81 ID:130sayDZ
ラスボスは、長重さんにひどいことしたよね^^

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 11:06:58.77 ID:UquHEpbj
>>535
でもそんな経験があったからこそ維新まで大名家として存続できたんじゃないかな

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 11:45:21.73 ID:ncElJvKB
>>533
> それにしても、こういう天下持ち回り的な話

ちょっと違うかもしれんが、明智光秀が本能寺の後、細川幽斎に「信長を殺したのは
貴殿の嫡子の忠興に天下を譲るため」云々と言ったりしてたな。

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 12:14:03.46 ID:pYeLNEMs
自分が苦労して天下取ったのに
他人に差し上げる気前のいい人が
世界にどれだけいると言うんだろう

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 13:55:45.47 ID:fZOsZYf6
>>539
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジュゼッペ・ガリバルディ

漫画みたいな人生だw

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 17:12:30.20 ID:3c2S7Cau
明智さんの場合はほとんど衝動的な感があったからどうもね
未来に向けた投機的な謀反っつーより身を守るためにやむなく、な雰囲気がぷんぷんする
[ 続きを読む ]

秀吉、自分の母を人質に出すことを

2011年04月04日 00:00

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 22:26:21.69 ID:ZcG8zz5e
徳川家康を臣従させるための工作に熱を入れていた豊臣秀吉は、ついに自分の母を家康への
人質に出す決心をする。これに蜂須賀正勝、黒田官兵衛といった幕僚たちは大いに驚き猛反対をした。

蜂須賀正勝は言う
「これは一体どういう事でしょうか!昔から今に到るまで、天下人よりその下に人質を出したという例を
私は知りません!以の外の事です!」

秀吉、これを聞いて
「彦右衛門(正勝)の言う事、なるほど尤もである。さりながらこの秀吉は昔から今に到るまで、日本どころか
外国の書物にも先例のないような事をやってきた男だ。後の日本の歴史に、必ず大きく記録されるだろう。」

そして皆を安心させるように

「今秀吉に従う国ははや30ヶ国に及ぶ。家康に従うのは5ヶ国。その上この秀吉の威光は、日を追って大きくなっておる。
そうであればこの人質を家康が受け取ったとしても、

『秀吉は我に従わぬ者!この人質は磔にかけ火炙りにしてやろう!』

などとは決して言い出すことはないだろう。」

と、彼らを説得したという(川角太閤記)


ええ、関白殿下の仰るとおり家康は言い出さなかったんですが、その下に、その…w




464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 22:37:03.33 ID:iHp/3OM1

>>463
流石の関白殿下も三河武士のめんどくささは見抜けなかったと

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 22:49:07.81 ID:+4Caojld
天下人が人質に出すというのもすごいな
家康も関ヶ原後落ち目の豊臣家に千姫を人質に出してるけど

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 22:49:50.77 ID:OYYakwjJ
>この人質は磔にかけ

そういや、織田の三男坊のおっ母さんは・・・

467 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/02(土) 23:48:41.55 ID:mqd6CBFF
ラスボスは家康のみには弱腰だよな
まあ後々、徳川によって歴史書き換えられてるだろうけど
石高だと前田、上杉と大して変わんないし

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 23:59:24.42 ID:4ad6l7GN
>>467
いや実際に秀吉は、例えば家康と関白秀次にのみ書状には厚礼の書式を使っていたり、
想像以上に家康に気を使ってる。

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 01:00:52.70 ID:+Z/aln+n
鬼作佐『計画通り…』


471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 08:56:56.74 ID:us+ZgtUB
高力「なんであいつとひとくくりの扱いなんだろうな」
天野「短気なやつと一緒にされたくないでござる」
高力「・・・」

472 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/03(日) 11:11:41.64 ID:b9z5kyGB
俺が小牧長久手を指揮していたなら山の麓に城を築いて家康を飢え殺しにするわ
秀吉はビビりすぎだ

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 11:20:30.00 ID:JE/8rt2b
>>472
実は逆で、小牧長久手で秀吉軍は大軍故に、兵糧不足で飢え死にしかかってた。
筒井順慶がその事に苦慮している書状が残ってる。

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 11:55:05.35 ID:hw90E7wS
>>472
中入り軍が三方ヶ原のように家康をおびき出すというような
戦闘芸術を使えれば勝てたのにな ボンクラ揃いだから死んだけど

蜂須賀正勝と錫杖の馬印

2010年11月18日 00:00

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 17:06:05 ID:ia5QDJ/D
家紋とはちょっと違うが、馬印の話を。
ただいま、徳島では「蜂須賀三代 正勝・家政・至鎮~25万石の礎~」
http://www.city.tokushima.tokushima.jp/johaku/event/2010/201010/20101023_01.html
なる展覧会が開催中。
これといった出物はなかったんだけど、そこで紹介されてたちょっとした逸話より。

蜂須賀正勝公、桶狭間の合戦の際、縁起を担いで縁の寺にあった鉄製の地蔵像を戦場に持ち運ぼうとした。
しかし、さすがに重くて運べず(当たり前だ…)、錫杖だけを持っていくことにした。
その合戦で武功を挙げたことから、感謝の念を深くした正勝は錫杖を自らのトレードマークとし、以降、
蜂須賀家では代々、錫杖が馬印となった。

蜂須賀正勝が桶狭間に従軍してたとか、戦場に地蔵像(しかも鉄製)運ぼうとしたとか突っ込みどころが多いのは勘弁。
そう書いてるんだもの。




367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 17:15:10 ID:MzSPG0CF
新・陸戦型モンスター伝説HACHISUKA

鉄製の地蔵を振り回し当たるを幸いなぎ倒す

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 18:03:43 ID:FFoV+e2P
錫杖が馬印とかカッケーな
家康のと違って軽くて持ち運び楽そうだしカッケーな

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 19:58:59 ID:0cdywh9X
>>366
俺はその徳島城博物館の、太宗の香炉と呼ばれる香炉の
小堀遠州の筆と伝わる箱書きが縦書きで

   賀
蜂須家

ってなってるのが気になって気になってしょうがないんだよおおおおお
書き損じないで!そしてごまかさないで!
あと香炉のボディ真正面に 宗 太 って書いてあって
なるほど太宗の香炉ねって安易さも地味に気になる

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 20:29:37 ID:R8fari4u
書道とかでもよくあるじゃん、文字の大きさ配分を間違ってしまうこと

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 20:35:35 ID:GSxnIyEx
いや、達人はそうはやらんけどな

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 21:59:26 ID:5HOHq1lI
達人とか言われてる人の字なんて一般人には何が書いてるのかわからんがな

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 22:07:06 ID:o3nj+Z7H
んなことない。
8世紀の伝説的な書の達人である顔真卿の『顔勤礼碑』
現在でも書道のお手本に使われるほど。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/64/Yan_Qinli_Stele.jpg