fc2ブログ

只今の士は、何と言える若者ぞ!?

2022年06月29日 17:36

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/28(火) 22:46:36.60 ID:jbOcgdLv
大阪冬の陣の時、蜂須賀阿波守(至鎮)の陣に塙団右衛門が夜討ちした時、蜂須賀の家臣・賀島主水という者、
この時十五歳であったが、敵が一人、橋の欄干に在ったのを、鑓を突き立てたが、かの者は
「味方を見誤ったか!?」と言ってきた。それを聞いた味方の者達も「同士討ちするな!」と
声をかけてきたので、賀島はそのまま鑓を引いた。
するとかの者は大阪城内に駆け入り、馬を控えて、

「只今の士は、何と言える若者ぞ!?我は今夜の大将、塙団右衛門なり!!」

と名乗り捨てて内に入ったという。賀島主水はこの事を。老後まで語っていたとか。

新東鑑



スポンサーサイト



阿波守、弓箭に賢き仕方なり

2022年06月13日 18:14

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/13(月) 16:33:10.50 ID:fimvgw9r
大阪冬の陣、蜂須賀阿波守(至鎮)の陣に大阪方の城兵が夜討ちの時(本町橋の夜戦)、
阿波守よりこの趣を仔細に書付け報告された。

この検使として幕府より、小栗又市が遣わされた。ところが彼は蜂須賀手先の柵を、
又市の計らいとして取り除けさせた。蜂須賀家の家臣たちも心得難く思ったが、幕府の
検使の指図であるので、それに任せた。

翌十七日、大御所(徳川家康)は本町筋を御巡見された。そして夜討ちの場、且つ柵の様子を
ご覧になって「阿波守、若輩たりと雖も、弓箭に賢き仕方なり。」と、甚だ御感あったという。

新東鑑



加藤肥後、黒田筑前については別ですので

2020年07月11日 17:25

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:15:57.34 ID:EFbVF9nF
此あぢ分別肝要候事


以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。

  わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。

一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
  行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
  それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
  右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
  横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
  押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。

一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
  ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
  そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
  したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
  この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]

一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
  岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
       (慶長十五年)三月廿三日            忠(花押)
                内記殿 

――『細川家史料 一六九八号文書』



阿波殿へは御感状を下された

2017年05月19日 08:31

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/19(金) 06:57:41.17 ID:33GwbRVH
阿波殿(蜂須賀至鎮)の家来・朝比奈右衛門と同右京という者は、
馬口労ヶ淵で下知して功があった(大坂冬の陣・博労淵の戦い)。

佐竹殿(義宣)は家来の働きは良かったが、義宣の支配(指揮か)
は(徳川家康の)御意に入らなかったのだろうか。

阿波殿へは御感状を下されたが、佐竹殿へは家来にだけ下された。

――『武功雑記』


判官殿の鞍

2017年05月11日 18:27

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/11(木) 04:12:26.55 ID:mNj39lOa
蜂須賀阿波守至鎮は古戦の事跡を尋ねて、古物の名のある物を求めなさった。

そんな折のこと、屋島の戦いで義経の身代わりに立った佐藤継信の葬式の時、
義経は秘蔵なさった“大夫黒”という馬を引き連れなさったのだが、

その鞍が志渡の寺(志度寺)にあった。かの寺が大破していたのを至鎮は補修
してその鞍を乞い求めなさった。

それから後年に至って、その鞍を知る者もいないために他の鞍と一所に交えて
しまい置かれた。

ところが、無頼の悪馬がいて誰も乗る者がいないという時、上田半平という者は
馬術の達人であったのだが、この人が言ったことには、

「かようの馬には、古作の良き鞍を置いて乗れば良いであろう」とのことで、鞍を
たくさん出して見ると、その中に極めて古き鞍があった。

上田はよく見て、「これこそ!」と言い、かの悪馬に置いた。この時、上田を嫉む
者がいて、「馬の善し悪しがどうして鞍に寄るだろうか」と、言ったのだが、

三浦次郎右衛門という鉄砲頭の老人も見物しており、かの鞍を見て、「判官殿の
鞍を久々に見たぞ」と、言った。

人々はその故を聞き一同に驚いたが、かの悪馬もかの鞍で快く乗る事ができた
ので、上田の馬術はますます名高くなったということである。

――『明良洪範』


惜しいなあ、九郎兵衛とは名が古い

2017年01月27日 16:35

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/26(木) 23:44:09.77 ID:h+IZe1XV
 大坂陣で蜂須賀(至鎮)の者の稲田九郎兵衛(植次)が若年での働きがあった。
それを聞いた権現様は
「惜しいなあ、九郎兵衛とは名が古い。幼名にすればよいのになあ。」
と上意されたという。

 九郎兵衛とだけ聞いても、年若な者の働きとは分かり難い。
名もその時に相応のものにするべきものである。


『武士としては』



553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 00:02:29.67 ID:IMLDCitB
てっきりおかしな名前を名付けた話かと思ったわ

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 08:50:18.71 ID:UQlJ97ei
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=6672
見覚えがあるとおもったら徳川実紀が出典で出ていた
徳川家康「名前はよく考えろ」

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 09:44:27.72 ID:0W/94KwA
幼名は梶之助か。

蜂須賀至鎮の手紙、名古屋城普請のときのはやり歌

2017年01月22日 17:12

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 12:54:16.62 ID:CfuXCaQx
蜂須賀至鎮の手紙、名古屋城普請のときのはやり歌


[前略]
(名古屋城普請をする自分の"身のあさましさ"を長歌などで綴っている)


 此の頃常時思いに違はぬことは
一薪の高さ      一真桑瓜 聞いていたものと違ってあしきもの
一美濃鮎 昔からいいと言われているが、思っていたよりめでたいもの
一名古屋の井戸の浅いこと、井戸の水がいいこと、兎角ない物は若衆で
 普請の隙には編笠をきて、小屋垣の隙を覗き歩いても、その方に似て
 いるようなものは一人もいません。路地に水を打ち掃除して、お客を
 待っている者を、口を切りすぐに近づいて、目利きだというので是に
 金を出して知人にもなりましたが、衆道の目利きとはまことではあり
 ませんでした。数寄道具と若衆のような目利きは和尚に直に聞くべき
 なのでしょうか。
 [中略]
 自分のところには執心の人はいませんが、夕べさる方から習ったので
 名古屋のはやり歌を書き付けておきましょう。

 <たれか思ふ人は名古屋にござる、長の留守すれやしんくてならぬ
  えいえい、えいさらえいさらと石を引き、えいえいえいといふて
  引く間は夢だんべえな、えいとえいとゆて引くは亡い子かのといふた>

 若きも老いも口ずさんでいるので、是がないと浮世にはならないそうです。
 [後略]


――『徴古雑抄』



首を晒される事は、武士の本意

2016年12月17日 09:12

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/16(金) 21:13:47.71 ID:Dl1XCqEh
 蜂須賀阿波守(至鎮)の臣中村右近(重勝)は夜討の時に討死した。
十五歳であった稲田九郎兵衛(植次)が右近の首を取り返した。
右近の子は(後には美作守と号し)そのとき十一歳で、幼少だったので在国していたが、
組子守りの為在所から呼び迎えられた。
阿波守と対面すると右近の討死の事を申し立てた。
かねて阿波守は右近と懇意にしていたから事情を話すと、

「首を晒される事は、武士の本意です。
どうしてその首がここにあるのですか!!
犬死をしてしまったということですか!!!!」

と弁舌明らかに申した。
阿波守は聞いて、

「誠に虎の子は乳を飲む時より百獣をのむ気があるものだ。
心配しなくともよい。
右近の首は稲田が取り返してきたからここにあるのだ。
右近の働きは比類なかったぞ。」

と重ねて言うと、そのときにやっと合点した顔つきとなったそうだ。

(武士としては)

首を晒される事って本意と言われる程素晴らしい事だったんですね。
負けたら隠れて切腹して、首をとられないよう部下に運ばせる話をよく聞くので
首を晒されるのは恥だとばかり思ってました



421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 12:16:36.20 ID:2lC0CIdk
首実検されずに捨て置かれたと勘違いしたのであろうな。

大野治房と感状

2013年12月01日 19:16

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 23:03:56.92 ID:mad9NJaP
大野治房と感状

大阪冬の陣において大野治房の部下である塙直之蜂須賀至鎮の陣を夜襲して功名があった。
治房は感状を欲し木村重成に口添えしてもらおうと重成を訪ねた。

治房「(後藤又兵衛に教えてもらった策で)夜襲が大成功したんだけど感状が出るよう周旋してくれない?」

重成「秀頼様にもよく聞こえた功名ならば、感状は間違いなくいただけるでしょう。ですが
   貴殿は感状をいただいて誰に披露するおつもりですか?」
  「一本槍の武士ならば他国の主君に奉公するときの眉目にすべきでしょうが、大野兄弟は大阪の老臣ですので
   君主と存亡を共にすべき人です。何の為の感状ですか?」

これを聞いて治房は恥じて言葉を無くしたという。

(武人百話)





蜂須賀至鎮、加藤嘉明と片桐且元の争いを仲裁すること、二話

2013年10月09日 20:03

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/09(水) 18:07:47.67 ID:JoV1z0ES
ある日、加藤嘉明、蜂須賀阿波守、片桐市正は天龍川に集まり、宴会を行った。

この時、阿波守は嘉明に賤ヶ岳の軍状を尋ねた。しかし、嘉明は、
「私は普段よりも酒を飲みすぎてしまった。市正、どうかあなたに頼みたい」と言って、
酒に酔ってよい気持ちになりながら、あおむけになって寝てしまった。

そこで阿波守は市正にこれを尋ねる。市正はとても得意気に当時の戦況を語った。
その語りが嘉明の事に及んだ時、嘉明はたちまち起きて反論した。

「貴公の如きはもともと七人の中に加わるべき者ではなかった。それを私達諸将と
相談して太閤にお願いし、曲げて先鋒に列しさせたのだ。あの石子兵助の伏屍を
踏んで敵将を刺し殺したのは他でもない、この私だ!」

市正もまたこれに反論して譲らず、意色甚だ悪し。しかし、阿波守が二人の間に立って
調停したので大事には至らなかった。

――『鹿深遺芳録』

慶長八年、将軍宣下拝賀のために蜂須賀至鎮が江戸へ向かった時、ちょうど天龍川が
増水していて渡れないので、至鎮はしばらく滞留して減水を待った。

そこへ加藤左馬助、片桐市正(或は福島左衛門大夫とも云う)もまたやって来た。
ある晩の話の折、至鎮は賤ヶ岳先登のことを質問した。すると、二人の語る事が食い違って
互いに譲らず、終いには刀傷に及ばんとした。

至鎮は祖裼して二人の間に入って辞謝し、「それがしは無益の問を起こし、
おしはからずに公等の忌諱に触れました。本当に、このまま放っておくわけには参りません。

まずは、それがしが切腹して罪をお詫びします。その後で二公は良いように
事を処理してください」と表情を改めて決意したので、二人は大いに恥じて先非を悔い、
和解して事なきを得た。

程なくして川は減水したので、共に川を越えることができた。至鎮は二人を旅館に招き、
盃酒を勧めて別れたという。

――『峻徳公略伝』




287 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/10(木) 07:42:22.11 ID:ddF5PZEH
こんなんで切腹してたら戦国武将なんてやってらんねえだろうな

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/10(木) 08:03:03.73 ID:hQ0qrR0v
わかっててやってるだろよししげw
(やっぱこうなったしwww)って

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/10(木) 12:13:48.06 ID:kXmB4JVh
(´・Д・)。○(ちょろいぜ)

290 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/10(木) 15:00:39.62 ID:BrbjmR+T
どちらかが嘘つきというよりは、両方誇張して話してるから噛み合ないんだろうなー

「あなたは何故自分の功を言わないのだ」

2013年09月10日 19:55

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/10(火) 17:22:58.46 ID:94lW3wVa
蜂須賀家で、大坂冬の陣での諸臣の論功が行われた時、倉知由久は自身の功を語らなかった。
ある人が「あなたは何故自分の功を言わないのだ」と、尋ねると、

由久は「夜戦の射は功となすに足らず」と言った。その後、由久の射た矢を送って来た者がいて、
矢には漆でその姓名が記してあり、蜂須賀至鎮は由久を呼んでこれを示した。

由久は矢を取り、灯火に照らしてじっと見ると、「字が剥がれています。恐らく私の名では
ないでしょう」と言って、その賞を辞した。

――『峻徳公略伝』




93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/10(火) 23:45:26.17 ID:DhDE9OYD
控えめにも程が過ぎるだろw

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/11(水) 00:11:01.16 ID:scoqACeA
豊臣を攻める戦が気に食わなかった?

福島正則、幼い蜂須賀至鎮を評す

2013年08月24日 19:53

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 15:43:47.11 ID:FYzGJQbF
蜂須賀至鎮が幼い時、福島正則が来訪した。この時、諸々の談話があったのだが、
至鎮は始終じっと聞いているだけで、まったく明弁しなかった。

正則は退いて至鎮の老臣に向かい「私はこれまで多くの人を見てきたが、
威徳の備わっている人を見たことがない。将来、天下の名将となるであろう者は、
唯々、長門守である」と語って、痛く感嘆したという。

――『峻徳公略伝』





「私がどうして豊臣家に背くだろうか」

2013年08月20日 19:51

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 17:58:24.84 ID:pWR2sAz7
徳川家康が上杉景勝を征伐する時、蜂須賀至鎮もこれに従おうとした。

この時、増田長盛のもとより、太閤の旧臣の立場で家康に属することは不当である、
と至鎮へ申し送られてきた。至鎮はこれに、

「私がどうして豊臣家に背くことだろうか。ただ汝等に与しないというだけだ」と答えて、
五千余騎を率いて大坂の居邸に入り、凶徒等の攻撃に備えた。その勢い当たるべからず。

このために長盛等は和議を乞うたので、結局、至鎮は家康に従って下野国小山に至り、関ヶ原の陣にも従った。

――『寛政重修諸家譜』





徳川家康「名前はよく考えろ」

2012年08月10日 21:40

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 12:09:59.23 ID:XzAs2U1Z

大坂の陣にて、塙直之が蜂須賀至鎮に夜討を仕掛けた時、
至鎮の家臣、稲田九郎兵衛は十五歳にして大功を立てたので
徳川家康から感状を下された。

この時に家康が近臣に向かって曰く、

「子に名前をつける時はきちんと考えなければならないな。
九郎兵衛はわずか十五だというのに、無闇に大人らしい名前を
つけるから散々なことになる。

何丸とか何若とかつけておいたなら、今度の働きも珍しいこととして
評判になるだろうに。いやー、惜しい惜しい。皆もよくよく心得ておけよ」

――『徳川実紀(天元実記)』

名前はよく考えろって、それなんてブーメラ(ry




913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 12:15:00.55 ID:BqjjkEmG
>>912
>>何丸とか何若とかつけておいたなら、今度の働きも珍しいこととして
評判になるだろうに。いやー、惜しい惜しい。皆もよくよく心得ておけよ

なるほど、珍しい名前をつけておけば評判になるのか

さすが権現様

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 12:28:31.39 ID:nUTaD59d
権現様のネーミングセンスの根源を垣間見た気がした

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 12:29:04.59 ID:ZfC0qa9S
>>913
逆逆。九郎兵衛が子供なのに珍しい(大人っぽい)名前だったから今一インパクトがないよ、
子供らしい平凡な名前だったらもっと評判になったのに、って話だよ。

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 12:36:52.46 ID:q3WwlswE
子供らしく…奇妙丸とか茶筅とか?

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 12:55:58.13 ID:3b6zioRa
15で九郎兵衛なら通称じゃないの?
こういう事言われるって事はまだ元服前で幼名九郎兵衛ってことか
親は凄いセンスだな

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 13:02:30.74 ID:WLFh4AEK
ちやほやされすぎて天狗になり、狭量な人間になってしまったかも知れないし
人間がどう成長なるかなんてわからんけどね

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 14:39:31.79 ID:ur+b5Yrw
恩賞ケチるための口上なだけでは?

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 18:18:42.69 ID:Vp9vd+Sj
>無闇に大人らしい名前をつけるから散々なことになる。

九郎兵衛だけに苦労するんですね、判ります
でも神君が名前ネタでいじって後世に名を残せるように計らってくれて
九郎兵衛も末代までの誉れになったから良かったね

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 21:31:34.89 ID:ZH26C3W8
稲田九郎兵衛=稲田植次は明治維新時の庚午事変でも有名な
徳島藩筆頭家老稲田氏の嫡子だからなあ
物々しい名前も付けられるってもんよ

そんな大身の御曹司でありながら感状を賜るほどの目覚ましい
働きは大したもの

江戸城ランチタイム

2011年11月26日 22:00

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 02:25:33.43 ID:DPw1/h2X
一部既出ながら詳しい系行ってみます。

江戸城ランチタイム

昔、徳川家光公のお伽衆といって、毎晩登城して物語を申し上げ、夜話をされる10人ほどの人々があった。
毛利秀元候、丹羽長重候、蜂須賀至鎮侯、林道春といった人々であった。

この人々が登城の時は、皆、屋敷から弁当を持参してきて、蔀の間に集まって、みんなで弁当を食べた。
珍しいおかずなどがあるときは、互いに交換し合って賞味したそうである。

毛利秀元候の弁当のおかずに干し鮭があったときは、皆が「これは結構なおかずですね!珍しい!」と
殊の外に秀元から分けてもらい賞味したそうだ。
阿部重次は握り飯を包ませ、これを懐に入れて持参していた。そして昼食時にはこれを召し上がられ、
その包みの紙にくっついた飯粒も丁寧に拾って食べ、さらにその紙の端を伸ばして洟をかんだ事もあったのを、
それを見たものがいたと言うことである。

原文
(昔、大猷公御噺の衆とて、毎夜登城して居物語申し上げ、御夜話申し上げられし衆中十人あり。
毛利甲斐秀元侯、丹羽五郎左衛門長重侯、蜂須賀蓬菴至鎮侯、林道春の類也。
この衆中登城の時、皆々、屋敷より弁当参りけるに、蔀の間に寄り合いて、是を披き食い給う。
珍しき菜などある時は、互いに取り交わして賞味し玉いけるとなり。
毛利甲斐侯の弁当の菜に干し鮭のありければ、皆是は結構なる菜なり、珍しとて殊の外に賞味し玉いけるとなり。
阿部対馬守は握り飯に包みて袂へ入れ御持参ありて、御中食の時は是を召し上げられ、その包みたる
紙に付きたる飯粒を拾いて食い、紙のはしを伸ばして涕をかみ玉いし事などありしを見たるものもありとなん。)

『雨窓閑話』


関連
空弁当
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3167.html
毛利秀就の鮭の切り身・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-120.html


749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 02:46:59.03 ID:u1xqeTqB
権現様の教え

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 04:22:57.65 ID:Fijq0F/H
どこの学食の風景だw

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:00:59.91 ID:vS0mFjkw
昼休みの女子高生みたいだなw

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:03:17.03 ID:+Z4sEyBz
>>751
恋バナで盛り上がるんだな

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:30:34.13 ID:qiM0mC9+
一応
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3167.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-120.html

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:31:52.70 ID:qiM0mC9+
↑のはまとめスレの関連リンク用に

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 09:38:34.16 ID:tisvb3hY
>>751
えどじょう!

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 12:31:14.00 ID:BBCfUJaS
*全室禁煙です

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 12:32:58.20 ID:Wu6NonT7
鶏の唐揚げとかないのかな てんぷらとか

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 14:15:22.74 ID:sjFzGqQ6
>>748
登場人物が三頭身くらいのデフォルメさられたキャラで再生されるww

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 14:35:49.11 ID:Ek/fQSvQ
外国の歴史系小説とか読んでても、こんなふうに自分の食べ物を
みんなで交換しあって食べる描写って見たことがないんだよな
獲物をわけて食べてた狩猟民族のほうがやりそうに思えるのに

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 19:23:24.80 ID:RbJaqasY
殺伐とした時代だからこそ、こういう話は和むなー
秀元は分け与えてばかりだが、代わりにおかず分けてもらえんだろうか

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 20:31:45.00 ID:OWZV6+Rz
関ヶ原の時も鮭弁食ってたんすか?w
って聞いたら斬られるかな?絶縁かな

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 20:42:39.61 ID:UEkovXwU
毛利のボンが違う意味で切れそうだなw

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 21:08:40.58 ID:pxPB91XN
>>763
輝じゃなくて広家だろ?

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 22:00:33.83 ID:GEqmI+s8
>>761
育ちがいいからみんなに分けてあげたら自分の分がなくなって泣き出しちゃうタイプだな

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 09:42:18.33 ID:UoFoRsew
この時代の最高級料理は鮭だったのか・・・
ハンバーグとかカレーライスとかウインナーとか食べれないなんて嫌だな

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 10:16:07.70 ID:1opcnV6K
>>760
西洋で弁当っていわれてもサンドイッチくらいしか思いつかん俺

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 10:34:56.89 ID:rcvoOtpH
日本の歴史小説でも弁当の分け合いっこは見たことが無いがw

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 11:03:11.07 ID:PCz8tsV7
>>767
カレーは確かに不可能っぽいし
ウィンナーも環境を選びそうだが
ハンバーグは、技術的にも素材的にも不可能じゃないだろ。

食に一手間かける豊かさが無いのに問題はあるが

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 11:17:42.91 ID:Vttalziv
牛さんは食料という前に貴重な労働力かつトラクター兼乗用車だったんだろうか

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 12:28:28.27 ID:70A4zj5d
>>770
ターメリックとクミンはあるからコリアンダーの代用品に白根草を使えば一応形にはなるお

漢方薬のスープだからかなり高くつくけど…

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 12:42:01.59 ID:PCz8tsV7
>>771
牛さんが死んでから頂戴しても良いんじゃね?
いわゆる逸話だが、
牛肉食わせて貰うのに宗教をバカにした非礼を一心に詫びるってのがあったから、牛を食うのは
それ程異常じゃないと思われる。
だって、馬を食う奴だっていたんだろ?
そっちが余程基地外沙汰。
軍用としても民生用としても、非常に高性能な馬なのに。


カレーの香辛料って全部、金と等重量で交換するような希少品じゃなかったか?

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 13:33:15.40 ID:uVe1tSVS
馬は消耗品だよ、骨折した馬殺すにしてもただ埋めるだけじゃもったいないじゃない。

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 14:20:24.80 ID:KUrIr5TG
>>772
大友宗麟がキリスト教じゃなくてイスラム教を保護してたら可能だったかもね
黄飯つくるくらいだからカレーの再現に挑戦するかもしれん

九州にイスラム教が浸透したら、インド→インドネシア→日本のムスリムネットワークが…できねーか

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 15:00:07.41 ID:PCz8tsV7
>>774
サラブレッドじゃあるまいし、そうそう骨折しないよw

778 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/27(日) 17:48:33.90 ID:4mvA5Lxz
>>760
東洋文化では割と普遍的な価値観かも

食べ物がどこからか送られて来た時には、
家臣たちに対して分配するようにしなければならぬ。
『三略』に、「古に良い将がいて兵士と苦楽をともにし、
陣中に酒や食べ物が送られて来た際には、
これらの品々を川に流し入れて、
将も兵士ともにその流れを飲んで楽しみをわかち合った」
という話が伝えられている。

武田信繁

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 21:08:48.14 ID:bkxepGwb
>>778
川に流すってどういう状態なんだろうな
つかみどり大会みたいなのを開いたってことかな?ポロリもあるよ!

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 22:33:19.65 ID:zFN6ZvLi
ボケたつもりか?>>785よ
旨い酒を皆で回し飲んだ「つもり」、旨い食い物を分け合って食べた「つもり」
上下心を一にしてって奴よと釣られたクマー