FC2ブログ

督姫、母の供養のために宗旨替えをする

2018年09月29日 18:38

督姫   
324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 11:47:06.40 ID:NRTWlHBq
督姫、母の供養のために宗旨替えをする


慶長14年、督姫は姫路から息子らを連れ駿府に行き、父の家康に拝謁した。
そのときに督姫
「母(西郡局)の御宗旨が日蓮宗であるので、私が宗旨を受け継いでいますが
 松千代(輝澄)に宗旨を譲り、自身は父の御宗旨(浄土宗)に致したく存じます」
と願ったので(家康は)もっともに思って松千代を膝下に召し寄せて
「母の願いなのだから、祖母西郡の宗旨とするのがよいだろう。
 そうであるなら父三左衛門の名字の池田を改め、祖父の名字松平とするように」
との上意により、松千代は松平氏と吉光の脇差、船の形をした黄金の文鎮を
授かった。(『譜牒余録』)(『寛政重修諸家譜』)

西郡局は慶長11年に伏見城で亡くなったが、その際の葬式法事は家康の命により
娘婿の輝政が執り行い、菩提を弔うため姫路城東方の野里に青蓮寺を建立した。
同寺には長谷川等伯筆の西郡局の肖像画や、井伊掃部頭(直孝)、藤堂和泉守(高虎)
土井大炊頭(利勝)連名の木札が納められていたという。(『蓮葉院余光記』)

輝澄は慶長20年に、兄忠雄から領地を分与される形で山崎藩を立藩した。
池田家が姫路から転封された際に、青蓮寺は輝澄の領地に移り(現・宍粟市山崎町)
輝澄の改易後も、その由緒から寺領百石の御朱印を有した。


スポンサーサイト

鵜殿氏の菩提寺・長應寺と絵曼荼羅

2018年09月19日 18:18

西郡局   
293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/19(水) 00:03:49.27 ID:1YeLLr8Q
鵜殿氏の菩提寺・長應寺と絵曼荼羅


長應寺は文明11年(1479年)に三河・上ノ郷城主鵜殿長将によって建立されたが
永禄5年(1562年)に家康が上ノ郷城を落城させた際に焼失してしまった。
鵜殿氏はその後、家康に仕えることになった。

家康の側室の西郡局は鵜殿氏の出身であり、長應寺を再建しようとしていたが
長應寺の当時の住職だった日翁が、一族と共に江戸に来ていることを知り
文禄元年(1592年)、日比谷門内にて長應寺を再建させた。
西郡局が大檀越として寄進したため、その後の長應寺は大寺院となり
幕府から江戸の日蓮宗の取締を勤めるよう命じられるなど、隆盛を極めた。

ところが幕末になり、米英仏露蘭の外交官邸を江戸に設けることになったとき
オランダの公館が長應寺を借り受けることになり、寺としての機能を停止した。
公館は後に別の場所に移転したが、その頃には明治維新などもあり
武士階級は没落し信徒がいなくなり、檀家はわずか30戸余りになってしまった。

明治31年に住職となった日聡は、前年の北海道国有未開地処分法の制定を受け
一念発起して長應寺の敷地を売却し、同32年北海道に法華宗農場を開設した。
当時の北海道では仏教各派の布教活動が盛んで、開拓地の布教に際し
寺院の経営に必要な信徒を北海道に送り込むことは、宗門の意向であった。

農場経営は紆余曲折し、明治41年になってようやく長應寺の建設がはじまり
大正2年、現在の北海道天塩郡幌延町に長應寺は建立された。
ところが日聡の跡を継いだ住職が、同8年に本堂を全焼させてしまい
日聡は長應寺再建のため、同12年には農場を木材商人に売却することとなった。

現在の長應寺では毎年西郡局の命日に合わせて、法要「葵祭り」を開き
鵜殿氏が天文14年(1545年)に奉納した絵曼荼羅8幅を1日限りで開帳している。
同寺は他に西郡局の肖像画や、葵の紋の付いた着物等も所蔵する。


――『芝高輪長應寺記録』『法華宗農場顛末』など

法要を報じるニュース動画のURL
ttps://www.youtube.com/watch?v=SQFnleE7N5w