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見聞談叢より 里村紹巴のこと

2020年09月21日 18:03

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/20(日) 21:18:12.79 ID:SqgsTnuf
見聞談叢より 里村紹巴のこと
里村紹巴は十一歳の時、宗祇のところに赴いて門人になることを乞うた。宗祇は奇童なりとと認めて門人とした。
紹巴はその年齢から神仏へ願をたてて(奈良の毘沙門天という)、何によってでも天下に名高くなし給えと毎日祈願した。
志あった故に願いの通りに後世に名を遺した。
紹巴の子玄仲の妻は、江戸の医者の吉田易安の娘で妙玄院と称した。
先人(仁斎)にとって外祖母にあたり、私が若年のころまで手紙のやり取りがあった。
紹巴の時代に連歌がはやったことは並大抵ではなかったと話に聞いている。
金吾中納言が流罪になったおりに、紹巴は伏見まで見送りなさった。中納言殿、別れを悲しみ給い、
籠の中から黄金一枚を取り出して永訣の印に紹巴に送り、
「伏見まで送って下さったから、夜も更けました。ここよりお帰り下さい」と鳥羽の城南寺の傍らで返しなさった。
夜中のことでもあり、今と異なり戸締りしない時代だったので、黄金を奪われることを恐れて
城南寺のそばの田んぼの畦に埋めて置き、翌日取りに行かれたそうだ。また、太閤が朝鮮征伐の時も山崎まで見送って、
韓(から)たちにその身はやく枳殻(きこく)かな
という句を奉ったとのことだ。色々の話を聞いたけれども、雑談と思って逐一書き付けて置かなかったことを今になって後悔している。
聞き覚えた発句などもだんだんと忘れてしまい、すべて烏有に帰せんことを悲しく思い書き留める。紹巴がある年の端午の節句前に、
室町通りを通りなさった時に、その頃そのあたりは貧しい有様だったので
人並みに小家も葺ける菖蒲草
という句を詠まれたと。この時代、貴賤男女まで連歌に熱中していたと見える証拠には、紹巴の小童が門前に雨の降るのを眺めていると、
蓑を着て笠をかぶっていない商人がいるのを見て、
みのを衣(き)て笠をきぬこそおかしけれ
と言うと、その商人が
なににつけても銭のほしさに
と付けたという。

この後宗祇や紹巴らの発句が色々載っていますが省略。
金吾中納言の流罪は転封の誤りでしょうか。宇喜多秀家が流罪の時には紹巴は死んでいますし。



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/21(月) 11:07:37.34 ID:+r0rhWKY
確か佐吉の告げ口で筑前名島改易で敦賀だった武生だったに堪忍料だお終いデスにされたような。

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/21(月) 18:17:11.05 ID:SwTWBn1v
Wikiによると秀次事件に連座して亀山城を没収されたらしいのでそっちの時かも
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見聞談叢より松平忠直の茶童

2020年09月06日 19:05

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/06(日) 18:54:22.91 ID:6ORzFz43
見聞談叢より松平忠直の茶童

越後の一伯候(越前の一伯候=松平忠直のことか)は甚だ剛勇な気質だったため、
側仕えの茶童まで殊の外気が強かった。ある時茶童に気に障ることがあって腹を立て
給い、茶童の右の手を手ずから煮えたぎる釜の中へ七、八寸もつけなさった。見る間に
茹で蛸のようになったが熱そうな顔もしなかったので、「許す」と仰って手を離される
と、「有り難し」と答えざまに、その釜は東大寺の九輪釜といって添書付きの名物なの
を、茶室の外に抱えていって石に打ち付け微塵に砕いた。「なぜそんなことをするのだ」
とお聞きになると、「私めの手を茹でた釜では、殿様に差し上げるお茶を淹れることは
できず、そうなるとあっても詮のないものです」と答えた。手を茹でられたことを怨み
怒る様子もなく、一伯候は感心された。その後お取立てあって忠節を尽くしたと、亡父
(伊藤仁斎)は常々お話しなされていた。



見聞談叢より 太閤時代の茶の湯

2020年09月03日 16:22

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/02(水) 21:27:24.57 ID:EkTrbIWX
見聞談叢より 太閤時代の茶の湯

太閤の時代の茶人は明け方ごろまで茶室に湯を沸かしておき、近づきのない者でも
通りがけに案内なしに茶室に上がって自分で茶を立てて飲み、また出て行ったと聞く。
ある夜更けに、太閤がどこからの帰りか、ふと「今自分でも茶室に湯をわかしている
ところはあるだろうか」と供の者に尋ねると、供の者が「針屋宗春以外にはございま
すまい」と答えたので、宗春の茶亭に行ってご覧になると、供の者が申したとおりに
湯が沸かしてあったので、太閤は茶を賞玩なさったという。
また、ある夜更けに何者かが宗春の茶室で茶を立てていたが、宗春が召使に「誰か
見てこい」といったので見に行くと、若党を多く連れた侍だった。よく尋ねてみると
石川五右衛門と名乗った。この時代の風儀はこのようなものであったと見える。



515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/04(金) 18:06:35.77 ID:UxjSEEFI
>>511
何かおおらかで素敵やん

見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後

2020年08月31日 19:05

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:11:12.37 ID:Zlebf2X1
見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後
長いので二つに分けます

斎藤内蔵之助と那波和泉守は、二人とも稲葉一鉄に仕えていたが、仔細あって両者浪人し
た。両人光秀と内々懇意であったため、光秀を頼んで信長公に訴えた。信長公が一鉄に詫
びて、那波は帰参したが、斎藤は少しわけあって切腹を命じられた。しかし、光秀が信長
公のそば仕えの猪子兵助を頼んで、斎藤を家臣にした。

明智光秀が没落して家臣が四散するなか、斎藤内蔵之助は近江に逃れたが、堅田で捕らえ
られた。太閤は三井寺の客殿の前に座を据えられ、内蔵之助を引き出してこう言った。
「お前は一鉄入道のところで不行跡があって勘気をこうむったが、光秀のおかげで今まで
永らえた。光秀の逆心のおこりもお前が張本人である。罪深すぎて裁判を行う筋もない。
すぐに磔に申し付けるだろう」と言って、「何か言うことはあるか」と二度もおっしゃっ
たが、斎藤、さして臆した様子もなく、後ろを見まわして、「綱を取っておられるのは、
侍か、雑兵か。左の手を少しゆるめて下さい」と言った。太閤が「望みどおりにせよ」と
おっしゃったので、少し縛りをゆるめた。そこで、斎藤、左の手を地面につけ、「私めは
光秀の家来になっておりましたので、光秀の申し付け通りに働きました。私自身は信長公
に恨みはありませんが、光秀が恨み申したため、家来ゆえ逆心の場まで付き従いました。
逆心をしきりに止めたのは、私でございます。こう申し上げるのは死罪を免れんがためで
はありません。罪人とのお言葉を頂戴したので、申し開きを致したのです。早く命をお取
り下さい」と申し上げ、「この一巻をご覧に入れたい」と言って、左手で右手に括り付け
てあった繻子の守り袋を差し出した。関口左門という御小姓がそばへ寄って右手で受け取
ろうとすると、その様子を見て内蔵之助は、「推参ながら、囚人のそばでは右手は出さな
いものです」とにこやかに言った。太閤がその一巻を開いてご覧になると、いつのまにし
たため置いたものか、光秀の逆心を止める諫めの書状と、それに対する光秀の返事だった。
「お前がこのたびこれを戦場まで持ち来ったのは、隙を見て降参して、この書状で恩賞を
得ようという心づもりだったのだろう。沙汰の限りの者だ」と太閤がおっしゃると、内蔵
之助、「それは普通の人の言葉、筑前守どののお言葉とは思えません。私めが心底光秀を
大切に思っていたことを、死後まで世の人々に知らしめたいばかりでございます。早く命
をお取り下さい」と言って、その後色々とお尋ねあったが、「もはや申し上げても詮無い
ことです。お許しあれ」としか答えなかった。

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:15:08.68 ID:Zlebf2X1
(続き)
光秀の屍が捜索の末探し出されると、首をつなげて粟田口で磔にせよという命令が下さ
れた。内蔵之助も同じ場所で磔にされることになった。光秀の槍取りは澤村権七という
足軽、内蔵之助の槍取りは伊澤十平という足軽だった。両手を釘で固定されるときに、
内蔵之助が「左手より右手が下がっています。これでは顔が真正面を向きづらくなりま
す。釘を打ち直して下さい」と言った。そのため、釘を打ち直すと、にっこりと笑って
「今少しお待ち下さい」と言って両目を閉じると、

屍ハ草野ニ埋ムト雖モ 魂魄遠天ニ帰ル 生死風前ノ燭 悟ルガ故ニ胸中鮮ヤカナリ
柳ハ緑花亦タ紅 三界眼前ニ尽ク

と大声で右の詩を唱え、「死後、この詩を丹波、亀山の永元和尚へ伝えて下さい」と奉
行に頼み、「万が一お忘れになってしまっては本意ではないので、もう一度申し上げま
しょう。書きつけておいて下さい」ともう一度唱えた。奉行が矢立で紙に書きつけると
「これにて人界からお暇しましょう」といって目を閉じた。両脇を槍でつかれた後、
また目を開いて、「因果深いとは、私のことを言うのでしょうか。まだ息が絶えないで
います。もう一度急所を強く突き通して下さい」と言って、また目を閉じて唸り声を上
げて死んでしまった