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汝はどうして、他の者と共に行かなかったのか

2021年01月22日 17:53

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/22(金) 13:37:59.34 ID:5jChY7Bo
徳川家康公が有る時ふと、広間に御出に成られたが、この時広間には、番衆がただ一人しか居なかった。

「どうして番の者共は広間に詰めぬのか!?」

そう仰せに成り、御機嫌もよろしく無かった。
かの一人だけ在った者が申し上げた

「たった今までここに詰めていたのですが、皆相撲見物に出てしまったのです。」

これを聞くと家康公は
「汝はどうして、他の者と共に行かなかったのか。」
と仰せに成り、奥へと入られた。深きお考えの有る言葉であったという。

(備前老人物語)



860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/22(金) 23:25:58.77 ID:yPt2QclP
>>857
予定外の時間に出てくんなってことだな
社長がふらっと予告なしで一般社員のフロアに出てきたらちょっと迷惑だしな

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/23(土) 17:34:28.59 ID:Fh3YuJ7t
>>860
最近の研究で出てきた人の良い家康さん像だと
最初の発言は「勤務中に役割を疎かにするとはけしからん!仕事に励むべきでは!?」と取れるし
その後の発言は「え!?相撲見物なら仕方ないね!そういうときは君も同僚に付き合った方がいいよ!(本当に必要なら小姓に探しに行かせるし)」みたいな発言とも取れる。

あるいは「たった今まで」という発言を「同僚を庇った」と解釈して「そういうときは君も行っていいんだよ(=同僚を私は責めない)」と言ったようにも取れる。
そうじゃないと三河者は責任者クラスがすーぐ腹を切ってお詫びしちゃうので。

というか本当に深い考えあったのか?
無理に持ち上げてない?

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/23(土) 17:53:25.11 ID:WKvEYzad
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1502.html
番衆が城内で相撲取ってどったんばったんしてるとこに出くわした家康が
「相撲を取るときには畳を裏返すのだぞ」
と諭した話も出てたっけ

863 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/23(土) 17:53:49.45 ID:VockI350
いつもどおりの気持ち悪い神君持ち上げ
言論の自由なんてものがない江戸時代に
生殺与奪権を握られてる人を正確に評価できるわけがない

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/23(土) 23:58:03.41 ID:LnvKmP+G
>三河者は責任者クラスがすーぐ腹を切ってお詫びしちゃうので。

こういった「殊勝な三河者」も後世つくられたものだよね

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/24(日) 21:10:05.29 ID:EgpbTEhE
>こういった「殊勝な三河者」も後世つくられたものだよね
この点は全く否定しない。ただし

本多作左衛門が三方ヶ原の敗戦後に篭城後の兵糧どうすんの?荷駄は三方ヶ原に放棄したじゃん、って話をしているときに
「それがしが密かに蓄えた米がありもうす!」
と言ったけどそこで「お前、それ横領じゃあ…」と誰かが言ったら作左衛門さんは間違いなく罪を認めてその場で腹を切るし
三河者は家康含めて空気を読んで、「さ、さすがは作左殿じゃあ!」した話は好き。
家康さんは下手したら懲罰沙汰のインシデントに出くわした時に、丸く収める方法をよく存じておられた。

866 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/25(月) 01:15:26.05 ID:vUkIGv8n
まさにそういうのが「殊勝な三河者」だわな
たぶん後世の創作(少なくとも天下とった後
大半が松平家に歯向かった黒歴史とか封印してたんだろ

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/25(月) 09:49:11.79 ID:hHw/MJ1q
秀康の小姓として付けた自分の息子を無断で甥に交代させた本多重次だぞ
役を放棄しても自ら罪を被らない人間が、
その程度で罪を認めて腹を切るとは思えない
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一里づかつき給ふ事

2021年01月20日 17:29

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/20(水) 14:34:13.11 ID:shinWrHe
一里づかつき給ふ事

今は国が収まり、土民までも安楽である。世は澆季(末世)に及ぶと言えども、君は順徳を施し給われ、
仏法王法共に繁盛する、有難き御時代である。

然れば日本の五畿七道は、人王三十二代、用明天皇の御宇に定まった。六十六ヶ国に分けられた事は、
四十二代文武天皇の御宇である。道については四十五代聖武天皇の御宇に、行基菩薩が六町一里として、
王城よりみちのく東濱に到って、三千五百八十七里に極め、また長門西濱に到って千五百七十八里と、
くわしく図書に記し置かれたが、その境は定かではなく、これによって当君の御時代に、一里塚を
作るべきよしを仰せだされた。

日本橋は慶長八年、江戸町割の時節に新しく出来た橋である、この橋の名を、人間は名付けておらず、
天より降ってきたのか地より出てきたのか、諸人一同にこれを「日本橋」と呼ぶようになったのは
稀代の不思議とされた。そして、武蔵国はおおよそ日本東西の中間の国に当たるとの御諚があり、
江城日本橋を一里塚の起点と定め、三十六町を道一里として、これより東の果て、西の果て、五畿七道
残る所無く一里塚を築かせられた。

日本は年久しく治まらず、諸国乱れて辺土遠境の道は狭くなり、また曲がっていたが、そういう所を
見計らい、直線にし道を広げ、牛馬の蹄が労せないように、石を除き大道の両辺に松杉を植え、
小河には尽く橋をかけ、大河には船橋を渡し、日本国中、民間往復のたよりに備えられた。
これは慶長九年の事である。
万民喜悦の思いを含み、万歳を願いあった。
このような将軍国王の深恩に、末代までもどうしてこれを疎かに出来るだろうか。

見聞集