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真実無妄の誠を以って

2018年08月28日 18:44

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 21:33:24.49 ID:FERgEUgq
天正7年(1579)11月3日、二条御新造の御所が完成し、織田信長は則ち四伝奏を以て奏聞あって、
皇太子誠仁親王へこれを奉った。
同じく22日に、式掌の御移徒(わたまし)があった。その後信長は参内したが、このとき親王に夥しい
捧げ物が贈られた。
かくして信長は妙覚寺において巻物、板の物二千端ばかり包みおき、近習外様の人々を召し寄せ、
それぞれに下された。

12月6日、山崎方積寺に至って御座を移されたが、俄に大雨があり両日逗留した所、八幡宮の木桶が
朽ちてしまったことを申し上げると、「唐金を以て鋳てまいれ」と、武田左吉、林甲兵衛に仰せ付けた。
また同所において片岡鵜左衛門尉が、周光香炉を所持していたのを召し上げ、対価として銀子一千両を
下した。

同17日、各方面において苦労をした諸侯大夫を慰るとして、天下一共の藝者を揃え、桟敷を作り、能を
仰せ付けた。そして桟敷桟敷へ四日の間、毎日食事として折二十合、柳五十荷づつ賄うようにと
京中に宛行わせ、その代金として黄金二百両を下した。そのほか見物の下々へも食事を配り、
寒飢を補った。
これぞ一河の箪醪(河に酒を流し兵士たちと分かち合う中国の故事)ではないか。

これは五逆罪の荒木村重に対し、幾程もなく御本意に達せられ天下静謐に帰した悦びの為であると言われた。
総じて信長は強いて神仏に祈りをかけることはせず、自ら真実無妄の誠を以って祈られた。
誠に今の世には稀なことである。

同じく20日、天下の仕置等仰せ付けられ安土に帰城したが、この時も京中に八千石、安土の町中に三百石、
酒を食べよと下された。

(甫庵信長記)

凄まじいほどに気前の良い天正7年の信長公であった




230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:16:21.53 ID:uouo1Z/w
>>229
>信長は強いて神仏に祈りをかけることはせず、自ら真実無妄の誠を以って祈られた。
宮本武蔵かな?
今じゃすっかり神仏に祈願するのが当たり前になっちゃったけどこのころはそうでもなかったのかな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:21:28.83 ID:FA447Pf0
苦しい時の神頼み
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本能寺の変・証言

2014年04月21日 18:55

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 09:21:00.35 ID:6h/K3DlS
明智光秀の謀反の時、光秀は家老にはその謀反の意図を知らせたが、諸卒には知らせなかった。
そのため西国に出立するのだと皆心得ていた。亀山より樫木原まで出て、西国に向かうのだと思っていたところ
直に京に向けて武者を押した。故に人々はみな不審に思った。
桂川を渡って、初めて信長を攻めるという触れが出された。

未明に信長の居た本能寺に押し寄せると、信長は切腹し火をかけた。京中では何事があったのか
何も知らなかった。何故なら本能寺のあった新在家は他所とは違い、四方に掻き上げの堀があり、
土居を築き木戸もある構えの内であったためである。

土居に上がってこの騒動を見た者の中には、これは明智の謀反だと推量する者もあった。
里村紹巴は光秀の内意を知っていたが、「どうしてそんな事があるだろうか。」と、人がそのように言うのを
制した。里村昌叱は「思い当たることがある。」と言った。

さて、明智勢は本能寺に火をかけた後、城介殿(織田信忠)の宿所である妙覚寺へと押し寄せた。
当時、その辺りは京の中でも町家は所々にわずかにある程度で、視界の妨げにならなかったので、土居の上から
はっきりと、水色の旗の軍勢が妙覚寺に進んでいるのが見えた。そのため『さては明智が謀反したのか!』と、
たしかに皆が知ることになった。

妙覚寺は、現在の室町薬師町にあった。しかし構が無いため敵に対応することは出来ないと、信忠は
南都の陽光院殿(誠仁親王)が御座されていた小池の御所(二条御所)に移った。
誠仁親王は禁中に退去された。
親王は烏丸の方の門から出られたが、肩輿も無かったので人に背負われて行った。

また公家の正親町殿(正親町季秀)はこの騒ぎの中、誠仁親王への見舞いに参上し、室町の方から
小池の御所に入ったが、その時はすでに退出した後であった。そこに明智勢が急に攻めてきたので、
御所から出ることも出来ず信忠勢と共に中に籠もるはめになった。

正親町殿はこの時の様子をよく観察しており、後で人々に語った所によると、信忠の士卒は皆、大庭に
集合していた。正親町殿は菓子として昆布を持っていたのを出して、これを諸士に与えられた。
この時、顔色が変ってしおれていた者達は、皆家に功の有る歴々であり、意気揚々としていたのは
皆新参であった。
この後の明智勢との戦闘で、顔色の変わっていた者達は皆、勇敢に戦い討ち死にし、意気揚々の者達は皆、
狭間をくぐって逃げ出したとの事である。

さて、正親町殿には室町の町家に、知人である楽人の家があった。そこで御所の壁を乗り越えて
その楽人の家に入り、公家の正装を着て烏帽子をかぶってそこから出た。これにより、彼は公家であると
明智勢からも通行を許された。そのため、逃れることが出来たのだという。

(老人雑話)

老人雑話より、本能寺の変の時に、現場に居た人々の証言である。