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諏訪衆が屋形様を大切に存じ奉る事

2022年10月20日 18:12

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/19(水) 22:48:37.75 ID:O1hpUpuD
甲府に幽閉された諏訪頼重の自刃により、諏訪の家は断絶した。ただし頼重の息女が、その年十四歳に
なられたが、尋常隠れなき美人であった。これを、武田晴信公は妾にしたいと考えられていた。
しかしこれに対し、板垣信方、飯富兵部、甘利備前の三人を始めとした各家老衆はこれを諌め申し上げた

「退治なされた頼重の息女を召し置かれるという事、彼女は女人といっても敵であるのですから如何かと
考えます。」

しかしながら、三年前に駿河より召し寄せられた、生国は三河牛久保の侍、山本勘助が進み出て、
板垣殿、飯富殿、甘利殿三人の侍大将に申し上げた

「晴信公の御威光が弱いものであれば、内縁者が伝を得たことを幸いと悦び、あらぬ企みを仕掛けることも
あるでしょう。しかし、晴信公の御威光は浅いものではありません。

その理由は、私は日本国中を大方見聞きしてきました。中国では安芸の毛利元就が、本知七百貫より弓矢を
取りすぐり、今や中国の大方を取り従え、四国九州までも御威光強くして、既に以て天下の異見を仕っています。
畿内の三好方も、元就の機嫌を取っているのは隠れなき事であります。

この毛利元就に対しても、晴信公二十五歳の内においてすら、さほど劣っていないその御威光を、私は
駿河において承っていました。
恐れながら私の考えでは、晴信公について日本国中が、若手の弓矢取りの代表と存じ奉る如くです。

甲府へ私が参って二年余たちました。その間、晴信公の発言を承り、また敵への対応の様子を見奉れば、
この屋形様が長命にさえあれば、必ず日本無双・文武二道の名大将と人々から唱えられるでしょう。
ですので、諏訪家の親類や被官たちも、何の企みも存じよる事はありません。
である以上、頼重の息女を召し置かれれば、諏訪衆は悦び、この御腹に御曹司た誕生し給えば、諏訪の家も
立ち申すべきと、出仕を望み、武田の譜代衆に劣り申しまじと、奉公申すでしょう。

このように、頼重の息女を晴信公が召し置かれる事は然るべきです。」

山本勘助がそのように工夫して申した故に、頼重の息女を晴信公は召し置かれた。そして勘介の分別の如く
諏訪衆はこれを悦び、人質を甲府へ進上した。
次の年、天文十五年に四郎殿(勝頼)が誕生された。これによって諏訪衆が屋形様を大切に存じ奉る事、
譜代衆同前となった。

甲陽軍鑑

武田晴信が諏訪頼重の娘を側室として迎える折のお話



456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/20(木) 00:20:51.49 ID:HQmP2XuJ
いい話か…?
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諏訪併呑

2018年03月09日 10:59

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 06:39:05.96 ID:54OcSnrL
小笠原長時公は諏訪頼重を味方として、甲斐国内および柳と申すところまで度々御働きになった。
そんなところに晴信(武田信玄)が典厩(武田信繁)をもって頼重へ仰せられたことには、

「武田の味方となりましたら晴信の妹を人質ながら妻子に遣わしましょう。その上で信濃が治まり
ましたら、諏訪に村上郡を添えて遣わしましょう」と色々無事を作り仰せられ、

それに付き、頼重は同心致されたのである。頼重は長時公の家老・小見と申す者の婿でおられた。
小見の娘を追い出して晴信の妹の婿になり、甲斐上原城で祝言されて頼重の息女は甲斐へ人質に
越され申した。これは頼重の先腹の息女である。それより頼重は晴信の味方になったのである。

長時公が仰せられたことには、「晴信が諏訪頼重と縁組して諏訪を甲斐へ引き付けたのは、伊那・
林へ取り掛かろうという知略のためである。しからば、晴信の旗下になった諏訪頼重を踏み崩し、
晴信へ取り掛かって一戦をなすべし」と仰せられ、伊那衆と仁科衆がひとつになって長時公は

諏訪へ御働き遊ばし、頼重の持ち分を焼き払って上野原へ取り掛かった。4,5日攻めると頼重の
者たちを討ち取り、本城ばかりに攻め寄せていたところに、晴信は後詰に蔦木まで御出馬された。

先手は板垣(信方)、飯富兵部(虎昌)、浅利が諏訪の青柳まで参られた。長時公方は伊那衆の
小笠原民部少信貞、下条、箕輪頼親(藤沢頼親)、万西でこの衆が先手となって、長時公の本陣
より攻め掛かって板垣と飯富兵部を切り崩し、首百100ほどを討ち取った。

長時公は実検なさって勝鬨を作り、諏訪頼重は降参して人質を出し、長時公の旗下になられたに
付き、長時公は林へ御入馬されて、伊那衆も帰陣仕った。その後もまた頼重は晴信方になった。

伊那衆の内、箕輪と申すところは6千貫で箕輪殿の領地であった。福与城(箕輪城)に在城の
ところに諏訪頼重は晴信の先手を仕り、3月上旬福与城へ取り掛かり、60日ほど取り巻き攻め
申した。福与城に籠った箕輪頼親の侍衆・松島、大出、長岡、小河内、福島、木下の衆は箕輪殿の
家中で大身の武士である。その他に野口寺や澤々の者が100余騎、雑兵1500で籠っていた。

右の衆が城際で日夜取り合い申し、その時に箕輪殿の内に藤沢織部と大泉上総といって強弓の
射手がいた。福与城の大手でこの者たちの矢先に当たり、晴信の者たちが多く死んだ。2人の
武士は移って箕輪殿に供仕り、中塔城に籠り申した。伊那衆はことごとく残らず後詰仕り、

箕輪福与の近辺の三日町と申すところに陣を取った。天竜川を隔てて足軽合戦があり、長時公も
後詰に上伊那の内の籠ヶ崎と申すところを御本陣にされ、先手は北大手に陣を取り申した。

その時、それがし(著者・二木重吉)は万太郎と申し、生年庚寅年15歳で初めて具足を着仕り、
御供仕った。天文13年(1544)甲辰のことである。

下伊那の内の小笠原信貞より多科惣蔵を使者として籠ヶ崎へ参った趣は「御馬を福与城の根古屋
へ寄せられて、是非一戦仕るべし」との由を申して来た。ところが伊那衆に対して御憤りに思し
召すことがあったために御馬を御寄せにならなかったのは、御一代の御分別違いであった。

それに付き、伊那衆は引き取り申した。箕輪殿の城は無事になり、権次郎と申す弟を晴信へ人質
に出して箕輪殿は牢人となった。そのため長時公も林へ御引き取りになられた。

諏訪頼重が晴信公の妹に若子が出来申して心安く存じ、甲斐へ参られたところ、甲斐柳町と申す
ところで晴信より頼重を生害した。それがしが16歳の正月末のことである。それに付き諏訪衆
と晴信とが合戦し、その年中に諏訪と甲斐は治まり、晴信は城代に板垣を置かれ申した。

――『二木寿斎記(二木家記)』


諏訪家無事再興、めでたしめでたし

2015年02月17日 18:46

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 23:55:25.75 ID:49Ji2BZi
(諏訪頼重が死に)諏訪の家は断絶したが、頼重の十四歳になられた娘は尋常かくれなき美人であられた。晴信公はこの娘を妾にと望まれたところ、
板垣信形、飯富兵部(虎昌)、甘利備前(虎泰)の三人を始め、各家老達が晴信公に向かって、
「退治なさった頼重の娘を召し抱えることは、女人といえど敵にあたるゆえいかがなものでしょうか。」
とお諌め申し上げた。
ところが、三年前から駿河から召し寄せられた三河牛窪生まれの侍、山本勘介がささやいて板垣・飯富・甘利殿の三人の侍大将に申すには、

「晴信公の御威光がたいしたことでなければ、諏訪の者達も,公に伝手があることを悦び、よからぬ策略を立てるかもしれませんが、
晴信公のご威光は浅くありません。
私は日本国中を大方見聞きいたしましたが、中国安芸の毛利元就は、本の知行七百貫から弓矢を取って過ごして、
今では中国の大方を切り従え、四国九州にまでその威光が及んでおります。既に天下にご意見申し上げる三好長慶さえ元就の機嫌をとっていることは隠れもない事実です。
晴信公は二十五歳前でありながら、この元就にもさほど劣っておられないご威光の方であると、駿河にいた頃から承って、恐れながら私の考えでは日本国中第一の若手の武将と存じ上げてまいりました。
私が甲府に参りまして二年余りおります間に、晴信公の御言葉を承り、また敵との戦いの様子拝見致しますに、
この屋形様は、ご長命でさえいらっしゃれば、将来は必ず日本無双文武二道の名大将と呼ばれましょう。
したがって、諏訪家の親類被官たちも、いかなる謀略をも考えつくことはありますまい。
そうであるなら、頼重の息女を召し抱えることを諏訪衆悦び、
そのお腹に御曹子が誕生されれば諏訪の家を立てるかもしれないと望みをかけ、
武田譜代の人たちに劣らないご奉公をつとめるでありましょう。そのためには頼重の息女を召されることはけっっこうなことと存じます。」
であると。

この山本勘介の工夫した意見により、晴信公は頼重の息女を召し置かれることになった。
勘介の考えのように、諏訪衆は皆これを悦び、人質を甲府へ進上した。
次の年、天文十五年丙午四郎殿が誕生されたので諏訪衆は屋形様を大切にすること、譜代衆同然であった。
(甲陽軍鑑)

諏訪家無事再興、めでたしめでたし



634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 01:56:07.65 ID:9ScnZUiE
寅王丸で事足りるやんけ

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 02:34:55.27 ID:J+6lBEkp
殿いつの勘助で再生しちゃってニヤニヤしてしまう

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 05:34:11.04 ID:73jvdcnR
四郎は丙午だったんか

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/19(木) 09:37:45.76 ID:Mmj+3LMy
勘助は本当にお屋形さまLOVEだよね

武田晴信はわざと

2013年11月12日 19:02

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 18:15:06.68 ID:Cm+jXDiZ
武田晴信が父信虎を追放した後、諏訪頼茂(頼重)と小笠原長時が多兵で
甲斐に攻め入り、韮崎で一日のうちに四度の合戦に及んだ。

晴信は韮崎に向かう時、諏訪や小笠原とゆかりのある者は、原加賀守(昌俊?)
を始めとして、数多くの者を甲府に残していった。

この時、原が人々に向かい「各々たちは今日の合戦で功名を遂げるべきなのに、
留め置かれたのは二心を疑ってのことだ。今日、敵に向かわなければ、
長く弓箭をとる身の恥となると思うが、どうであろうか」と、言った。

これに皆は「二心もないのに疑いを蒙るよりは、敵にあって討死することが
勇士の志である」として、我先にと韮崎へ馳せて行った。

この頃、晴信は合戦すること三度に及び、戦い疲れたところを頼茂と長時が
一手になり進んできたので危うく思われたが、原が来たので力を得て勇み進んだ。

晴信は原を呼んでその志を感心してほめ、日向、今井たちを後ろにひかえさせ、
競いかかる敵に当たって打ち破った。

これは晴信の武士を励ます策であり、わざと原たちを甲府に残したのであろう。

――『常山紀談』





595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/12(火) 18:38:54.27 ID:lHdbh4/O
挟撃されなくてよかったね

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/13(水) 09:31:52.25 ID:gn1Va7KL
>>595
信用できないなら先頭にして突っ込ませるべきだよな

諏訪家切腹の作法

2012年02月08日 21:52

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/08(水) 12:17:42.71 ID:cDmWnN4l
まだ書かれてないようなので。時専で風林火山再放送、諏訪頼重切腹の回、放送記念に。

諏訪家切腹の作法

諏訪頼重は妻の弟武田晴信に敗れ、甲斐の東光寺に幽閉。ついに切腹の時を迎えた。
神長官守矢氏の残した『守矢頼真書留』によると、

切腹に先立ちサケ、サカナを所望したところ、酒は持ってきたが肴はないと武田の家臣が応
えた。それに対して、頼重は「武田では切腹の作法を知らないと覚える。肴とは刀のこと。わ
れらほどの武士に腹を切らせることは、武田家では今までなかったのであろう。」 といって
作法通りに立派に切腹した。

とのことであった。これは、東勝寺で北条高時とその一門自害の際、得宗御内人だった諏訪
入道直性が「この後に続く人はこれを肴に」と自らの腹を切った刀を長崎円喜入道の前に置
いた故事(太平記)によったものであろう。




823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/09(木) 04:42:49.77 ID:RQkSHSm+
>>811

浅利信在「武田家では戦場にて討ち取られる以外に死ぬなどは思いもよらぬことだったもので」

武田晴信の諏訪調略

2012年01月08日 22:00

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/08(日) 18:43:17.21 ID:FmD8vl+R
武田は信虎、晴信の二世代において、信州の』小笠原長時と合戦に及ぶこと度々であったが、
小笠原は諏訪、村上、仁科といった国人たちと共に戦い、武田に対して常に理を得ていた。

信虎、晴信は信州に侵入して長時と雌雄を争い、ある時は今川義元を語らって勝負を挑むものの、
ついに信州を奪うことは出来なかった。

そんな中、晴信はあるとき計略をめぐらし、弟左馬助(信繁)が美少年であったのを以って、
彼と諏訪頼重に深い交わりを結ばせ、板垣信方を遣わしてこう伝えた

「頼重様、武田方に合力していただけるのなら、晴信の妹婿となっていただき、信州が治まるにおいては
現在の領地に加え、村上の旧領も与えられるでしょう」

諏訪頼重は「ありがたし!」とこれに承知し、晴信の妹婿となり、あまつさえ先妻との間に産まれた娘を
人質として晴信のもとに送った。

小笠原の人々このことを知ると、元来頼重は小笠原の家老小見氏の婿であったのに、その妻を捨て
晴信にたぶらかされるなど前代未聞の無道であると、大いに怒ったという。


武田晴信の諏訪調略が美少年による色仕掛けだったこと、しかも信繁の。
というか信繁美少年だったのか!などなど、武田晴信のえぐさが十全に出ている逸話であろう。
(寛永諸家系図)




638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/08(日) 18:51:31.18 ID:1lijqs2s
    〃                 i,     
   r'   ィ=ゝー-、-、、r=‐ヮォ.〈    
    !  :l      ,リ|}    |. }  
.   {.   |          ′    | }   
    レ-、{∠ニ'==ァ   、==ニゞ<       
    !∩|.}. '"旬゙`   ./''旬 ` f^|   
   l(( ゙′` ̄'"   f::` ̄  |l.|  
.    ヽ.ヽ        {:.    lリ    
.    }.iーi       ^ r'    ,'   
     !| ヽ.   ー===-   /   
.   /}   \    ー‐   ,イ          
 __/ ∥  .  ヽ、_!__/:::|\    

  武田 信玄(1521~1573)

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/08(日) 18:51:35.52 ID:FKBE2kgw
真田パパン「きたない、お館様は本当にきたないw」

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/08(日) 18:55:39.88 ID:FKBE2kgw
>638、つ
  /⌒ ̄ ̄ ̄\ ρ 「う~~厠、厠」
  /川∥∥| ∥|  ゝ  今厠を求めて全力疾走している某は
 〈巛《〈〈 \巛 |    甲斐武田家に通うごく一般的な男子
  │个 个 ヘ |    強いて違うところをあげるとすれば
  │┌-   )/     衆道に興味があるってとこかナー
   ヽヽ 丿//      名前は高坂源五郎虎綱
    ┼┬┼
 /┴┴┴┴┴ ̄\
 | │       ┤ \
 | │       │\ \
 | │       │ \ \
 | │      /│  │ │
 | │     / │  │ │
┌─ヽ       」   │ │
│ ├┴┴┴┴┤   田田
│ │  ∥   ヽ   / │
├-┤   /   /   LllLノ

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/08(日) 18:56:31.95 ID:6xAhOce9
お前が言うなw

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/08(日) 19:02:48.08 ID:Ch/tx09Y
>>639
正統後継者が何を言うw


647 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/08(日) 22:37:37.37 ID:p4ICrS/G
>>638、つ
  /⌒ ̄ ̄ ̄\ ρ 「う~~厩、厩」
  /川∥∥| ∥|  ゝ  古典厩を求めて全力疾走している某は
 〈巛《〈〈 \巛 |    甲斐武田家に抗うごく一般的な信濃武将
  │个 个 ヘ |    強いて違うところをあげるとすれば
  │┌-   )/     衆道に興味があるってとこかナー
   ヽヽ 丿//      名前は諏訪頼重
    ┼┬┼
 /┴┴┴┴┴ ̄\
 | │       ┤ \
 | │       │\ \
 | │       │ \ \
 | │      /│  │ │
 | │     / │  │ │
┌─ヽ       」   │ │
│ ├┴┴┴┴┤   田田
│ │  ∥   ヽ   / │
├-┤   /   /   LllLノ



648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/09(月) 01:40:16.38 ID:CI1nB6wQ
そういや、やる夫家康スレの信玄と高坂は阿部さんと道下だったっけ