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『諸士軍談』より老いた家康②

2020年10月05日 17:46

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 23:18:52.57 ID:I2yHnBnf
諸士軍談』より老いた家康②
※『』内は原文です

・ぬるい攻め
6日には(家康が)「軍法を守りすぎでぬるい」と中山勘解由を使い番として本多忠政の元に派遣した。
(中山が)「『なせにかからぬ』」というと、(本多は)「軍法に背く」。
中山は「さてさて、その方は忠勝の子ではないのか?。どこに軍法の入り込む余地があるのだ?」
別所孫治は馬を乗り回し、「『やれかかれ、やれかかれ』。かようの時に懸からぬということがあるか。敵の手強いところに懸かってこそ侍ではないか。筑紫合戦のとき、尾藤甚右衛門は懸かるべきときに軍法を守りすぎ、攻めかからなかった。これを未練がましいと太閤は勘当された」。こう申した。
孫治は「馬1匹われ1人だけ(だから無理だ)と思っていては役に立たぬ」と言い放ち、馬を乗り回して味方を前進させようとしたが、一向に攻めかからなかったそうだ。
家康は「6日に岡山まで進軍して攻めかかったら6日に城は落ちたのに、あまりにぬるいので城が落ちなかった」と「しかり」つけた。

・「親を殺して何の役に立つのか」
6日の晩、家康は秀忠に近藤石見を使いにやり、「日が暮れてもかまわず、1日中、平押しに押し寄せろ」と命じた。
家康は干し田から行列もつくらず平押しに押し寄せ、秀忠の備えの後ろまで追いついた。
「やれ、おれの後ろについて攻めに攻めまくれ」と家康は秀忠の備えを割って前進しようとした。
秀忠の小姓組番頭、成瀬豊前は「大御所様は格別だが、お供の衆は通さない」と申したが、家康はかまわずに押し通った。
本多正純は「『親を殺して何の役に立か』」といってお供の衆も通した。
秀忠の備え(の中心部)は割らず、少し道を空け、横道を(家康勢は)押し通った。

・ぬるい攻めとの矛盾
家康がいうには「何度、軍法を話しても覚えられるものではない。ただただ、合戦は勢い次第である。それならば、秀頼と組み合い、上になった方が勝ちである」。これよりほかに軍法を申しつけることはなかった。

・無差別通り魔事件
大坂の陣の前には怪事はなかったが、駿府で女が髪を切られる事案が発生した。無差別に11人切られたという。
(世間では)「大久保長安のところにいた欠所女(死後、お家断絶)の犯行か」と噂されている内に、よき上臈まで切られたので家康に報告すると、「『おれか髪を切るまい切るまい。おれか髪か立(断つ)ものハ有之まし』」との上意だった。


『諸士軍談』より、老いた家康のはちゃめちゃ①


398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/05(月) 12:46:21.41 ID:X2O9MJfU
軍法守れば怒られて、守らず突進すれば抜け駆けと責め立てられる
難儀な商売だな

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/05(月) 15:57:42.58 ID:2ECRWgfm
中山勘解由は第二次上田合戦で軍法破って抜け駆けして逼塞させられていて、
上田城攻め従軍していた忠政にはよくよくご存知の人物
別所孫次郎は兄の信範が秀頼に仕えて大坂城内におり、
是が非でも戦って見せねばならない立場

「軍法破っても突っかけろよ」って督戦役としてもってこい
こんな負い目のある奴らに来られても忠政も困るわな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/05(月) 20:52:48.79 ID:gFjyZTi6
豊臣家滅ぼす戦いで太閤の例出されてもな

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/06(火) 14:35:13.96 ID:3Muezd83
いくさの世はもう終わり
最後にもう踏ん張りして加増を求める者と、そうでない者との温度差ってやつよ
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『諸士軍談』より、老いた家康のはちゃめちゃ①

2020年10月02日 18:10

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 22:49:30.15 ID:knvDGzGe
諸士軍談』より、老いた家康のはちゃめちゃ①
(有名な話もありますが…)

・大坂の陣に燃え、意気盛んな家康
(慶長19年)11月15日、権現様(家康)は京をたって、大和路を進んだ。秀忠も同日に(京を)出立し、本道を進んだ。
家康は木津に至って「茶釜の湯で湯漬けを出しなさい」と命じた。
すると本多正純は「御膳で食べるのがよきかと」と進言したところ、「『タワケ』なことを。なぜ御膳を食べろなどというのか」と湯漬けを立って食べた。
「奈良へ出ろ」と命じ、そのまま立っていた。いずれの者もここで一泊すると思っていたが、ふと出立したので「やうやう」30騎ばかりしかお供衆はいなかった。
家康の旗印は翌日追いついた。(御旗が追いついた日は)雨が降っていたので「奈良に逗留する」と話していたが、にわかに出発し、宝蔵寺に宿泊。
翌17日に住吉へ着陣した。

・支離滅裂な家康
茶臼山の普請ができていなかったので、住吉に陣を置いていたが、ようやくできあがり、12月4日に移るはずだった。
ところが、その日は霧が深かったので6日に陣を移した。
このときの霧で井伊直孝と藤堂高虎は大坂城に乗りいるはずだったが、乗り込み損なった。
秀忠は立腹したが、家康はご機嫌に話をしていた。

・憎きやつじゃ
(家康は)「鬨の声を1日に2度、竹束の裏から揚げよ。夜の九つ(午前0時頃)に揚げよ」と命じたが、いまだ空が明るいうちに鬨の声を揚げてしまった。
城内からも鬨の声が揚がり、同時にたいまつを投げつけてきたので「火事の様にみえ」た。
(家康は)機嫌が悪くなり、「どうも城方に内通している者がいるようだ。『にくきやつしや』」と言った。
案のごとく、秀忠使い番の青山石見が城方へ「帰忠」すると内通していたことが露見し、陣のあとに成敗した。
鬨の声は夜の八つに揚げ、城からも鬨の声に合わせて鉄砲を撃ちかけた。

・言行不一致な家康
(夏の陣で)秀忠は4月22、23日ころだろうか、夜を日に継いで上洛し、道中では上杉景勝や佐竹義宣、伊達政宗なども追い抜いた。
家康は機嫌が悪くなり、2日間にわたって秀忠と対面せず、「『たわけなる事じや。軍勢を跡におゐて主一人来ては何の役に立申か』」との上意だった。
秀忠は関ヶ原の時、真田に隙をとり、家康に面会できなかったことを無念に思っていた。
今回、家康が上洛したので、「私が行くまで待っていてください」と秀忠はお願いし、心得ていたが、「敵が出てきては待てない」とも。
これに秀忠は慌て、急いだのだという。
※半年前に自分は御旗衆までまいたことを忘れている権現様


『諸士軍談』より老いた家康②