292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 19:06:48.78 ID:ARl2F+J7
一、翌年2月4日(1614)、大久保相模守(忠隣)江戸発足。上方筋で切支丹が起こったので
仕置きのために上京。宗門の者どもを成敗して後、板倉伊賀守(勝重)をもって相模守の改易
を仰せ付けられ、井伊掃部頭(直孝)に御預けなされた。
この節、里見安房守(忠義)と佐野修理大夫(信吉)に改易を仰せ付けられた。ただ大久保相
州の縁者たるによってこの如し。
一族家来まで御咎めあり。相模守の子供の大久保右京(教隆)・同主膳(幸信)・同内記(石
川成堯)、いずれも津軽・南部へ御預けなされた。大久保加賀守(忠常)はそれ以前に相果て
られた故、孫(大久保忠職)が家督を致していたが、これは家康様の御息女・加納様(亀姫)
と申す方の御婿である故、江戸の屋敷に閉門致した。
森川内膳(重俊)は相模守の姪婿なので、酒井左衛門尉(家次)に御預けなされた。日下部河
内守(正冬)、これは茂助(村越直吉。道伴の父)の娘を相模守の娘分に致して婿に致し、こ
れによって館林の榊原遠江守(康勝)に御預けなされた。山口但馬守(重政)は縁者たるによ
り御改易。
谷六右衛門は相模守が取り分けて目を掛けられた故、松平将監に御預けなされた。石川主殿頭
(忠総)は相模守の次男であるが、他名を継いだので知行の大垣に閉門致した。その他に摂津
半兵衛は、その時は江戸奉行だったが当座の出仕を留め申した。
一、富田信濃守(信高)に改易を仰せ付けられた。もっとも罪科は相州とは別罪である。家康様は
常々、御慈悲をもっぱら要に遊ばされたところ、御老年に及び厳しく御仕置きを仰せ出された
と、世人は唱え奉ったという(家康様常々御慈悲を専要に遊ばされ候所、御老年に及び稠しく
御仕置仰出され候と、世人之を唱ひ奉り候由)。
――『村越道伴物語留書』
一、翌年2月4日(1614)、大久保相模守(忠隣)江戸発足。上方筋で切支丹が起こったので
仕置きのために上京。宗門の者どもを成敗して後、板倉伊賀守(勝重)をもって相模守の改易
を仰せ付けられ、井伊掃部頭(直孝)に御預けなされた。
この節、里見安房守(忠義)と佐野修理大夫(信吉)に改易を仰せ付けられた。ただ大久保相
州の縁者たるによってこの如し。
一族家来まで御咎めあり。相模守の子供の大久保右京(教隆)・同主膳(幸信)・同内記(石
川成堯)、いずれも津軽・南部へ御預けなされた。大久保加賀守(忠常)はそれ以前に相果て
られた故、孫(大久保忠職)が家督を致していたが、これは家康様の御息女・加納様(亀姫)
と申す方の御婿である故、江戸の屋敷に閉門致した。
森川内膳(重俊)は相模守の姪婿なので、酒井左衛門尉(家次)に御預けなされた。日下部河
内守(正冬)、これは茂助(村越直吉。道伴の父)の娘を相模守の娘分に致して婿に致し、こ
れによって館林の榊原遠江守(康勝)に御預けなされた。山口但馬守(重政)は縁者たるによ
り御改易。
谷六右衛門は相模守が取り分けて目を掛けられた故、松平将監に御預けなされた。石川主殿頭
(忠総)は相模守の次男であるが、他名を継いだので知行の大垣に閉門致した。その他に摂津
半兵衛は、その時は江戸奉行だったが当座の出仕を留め申した。
一、富田信濃守(信高)に改易を仰せ付けられた。もっとも罪科は相州とは別罪である。家康様は
常々、御慈悲をもっぱら要に遊ばされたところ、御老年に及び厳しく御仕置きを仰せ出された
と、世人は唱え奉ったという(家康様常々御慈悲を専要に遊ばされ候所、御老年に及び稠しく
御仕置仰出され候と、世人之を唱ひ奉り候由)。
――『村越道伴物語留書』
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