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長曾我部元親の降伏

2020年01月02日 15:46

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 02:30:52.93 ID:4TxiWVEV
天正十五年の夏、太閤様(豊臣秀吉)より四国に御討手の勢が下ることを、長曾我部元親公は聞き及ばれ、
防衛のため城ごとに御手分けを成され、一宮へは江村孫左衛門(親俊)、谷忠兵衛(忠澄)の両頭が
仰せ付けられた。

ここには上方勢の内、大和大納言殿(豊臣秀長)が向かわれたが、大納言殿はこの城に入った谷忠兵衛が
知慮有る者と聞き及ばれており、未だ城攻めを行わない先に、谷に対し
「自分が扱いをするので、長曾我部元親へ降伏するよう伝えるように」と仰せ付けられた。
谷は江村孫左衛門と相談し、秀長軍と矢留(停戦)を申し合わせ、神文の一札を請い、羽久地(白地)の城へ
参ると、この事を詳細も報告した。

ところがこれを聞いた元親公は以ての外に立腹され、谷忠兵衛は即時に面目を失った。しかし谷は、これが
一大事の儀であると理解しており、終夜に渡り長宗我部家の総老中と相談を極め、何れも谷に同心した。
谷は三日間この城に留まり、総老中たちは元親公へ御諌め申し上げた、終には元親公もこれに同意した。
そして谷忠兵衛と老中の一札を取り、一宮に帰ると大納言殿へこの事を申し上げ、降参の首尾は相調った。

これ故に城中の者達も外に出て上方勢と出会ったが、上方勢は第一に馬が大きく、物具等も花やかで、
千騎が二千騎にも見えた。
それに対し四国勢は、第一馬細く、物具等も侘びしく、千騎が五百騎ほどにしか見えなかったと伝え聞いている。

同年十月、太閤様へ元親公の御降参が成った時、谷忠兵衛もこれに御供をし、太閤様に御目見得仕り、
家助の御刀を拝領した。この時人は皆、「谷忠兵衛は特に侍名利の者である」と褒め称えたという。

その後、谷忠兵衛は中村の城主を仰せ付けられ、この中村で相果てた。現在も正福寺にその位牌がある。
この谷忠兵衛の嫡子は豊後陣にて長宗我部信親公の御供をし、一所にて討死した。信親公御死骸の
御迎えにも、この忠兵衛が遣わされたと伝えられている。

なお、先にある神文の一札とは、美濃守殿(豊臣秀長)より元親公の御身上について、四国の内三ヶ国は
御取り上げになり、本国土州一ヶ国にて御断成されば、自身がその扱いを成すと申され、この時に
江村孫左衛門と申し合わせ、谷忠兵衛が元親公を諌め奉る為に頂いた神文一札なのである。

(長曾我部覺書)

長曾我部元親の降伏について



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谷忠兵衛忠澄の事

2013年05月21日 19:50

谷忠澄   
667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 07:45:37.59 ID:EsphktCK
天正十五年の夏、豊臣秀吉の四国攻めの軍勢が迫る中、長宗我部元親は城ごとに軍勢を配置し、
一之宮城は江村孫左エ門、谷忠兵衛(忠澄)の両名に仰せ付けられた。
しかしここに大和大納言・豊臣秀長の軍勢が迫る。

谷忠兵衛は周りからも知慮ある者と呼ばれていたが、事ここに到っては、城攻めの始まる前に、元親公に
講和のための交渉を始めるべきだと考え、江村孫左エ門とも相談し、矢止め(停戦)のための神文を請うため、
元親の居る羽久地城へと参上した。

しかし元親は、谷忠兵衛の進言を聞いて以ての外に激怒し、忠兵衛は全く面目を失った。

それでも現在は一大事の時であると忠兵衛は考え、在城している重臣たち全てと話し合い、何れも
忠兵衛の見解に同心するに至った。

忠兵衛は3日ここに留まり、重臣一同の総意として、豊臣軍との講和をするよう元親に諫言した。
そのため終には元親も、忠兵衛の言う通りにするとした。

忠兵衛はこの講和を認める重臣一同の一札を取ると、一之宮城に帰り、豊臣秀長にこの旨を申し上げ、
降参の首尾を相整えた。

この時、城中よりも軍勢が出て、豊臣軍と対面したが、豊臣の上方勢は何よりも馬が大きく、武装も華やかで、
千騎が二千騎にも見えるようであった。
一方の四国勢は、馬も細く武装も侘しいもので、こちらは千騎が五百騎に見えるようであったと語り伝えられている。

同年12月には元親が降参のため大阪に向かった折にそのお供をし、秀吉にお目見えされ、直々に刀を拝領し
人々から名誉の侍であると大いに褒め称えられた。

豊後の戸次川の戦では、谷忠兵衛はその嫡男が、長宗我部信親と共に討死をした。
このことも有り元親は、信親の遺骸を受け取る使者として、島津の新納忠元の元に使わされた。

この谷忠兵衛は土佐中村城を任され、慶長五年(1600)11月7日、関ヶ原の結果長宗我部が崩壊する中、その地で病死した。
享年67歳であった。
(長曾我部覺書)