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大徳寺総見院での信長の葬儀

2018年07月28日 19:08

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/28(土) 03:07:31.13 ID:NB6t5LP1
大徳寺総見院での信長の葬儀


惟任は長年将軍(信長)の御厚恩によりその身を立て、何度も栄華に誇り
遊楽をほしいままにしてきたので、(信長の)長久を希うべきなのに
故なく相公(信長)を討ち奉って、どうして天罰がないことがあるだろうか。
六月二日に害し奉れば、同十三日には自身の首を刎ねられた。
因果歴然なり。恐るべし恐るべし。

(中略)

秀吉の所生は、元来高貴ではなかった。しかしながら相公は五男の
御次丸(秀勝)を養子として下された。この上は秀吉も同胞合体の侍である。
御葬礼がないなどあってはならない。されども(織田家)歴々の年寄衆は
とりわけ御連枝が多いので、一旦(秀吉は御連枝に)憚って
六月より冬の十月に至るまで、少しの法事も行わないまま過ぎてしまった。
昨日の友は今日の怨讐、昨日の花は今日の塵埃といえど、誰が予期しただろう。
誠に下賤下劣の貧士貧女でさえも、その跡を弔う習いがあるのに
どうして人民の君主にそれがないのだろうか。
今法事をしなくては、千変万化の世間の行く末は測り難い。
よって十月初めより、龍宝山大徳寺でのべ十七日の法会を催した。

(中略)

十五日目の御葬礼の作法は諸人が目を驚かせるばかりであった。
まず棺を金紗金襴で包み、軒の瓔珞、欄干の擬宝珠はみな金銀を集め
八角の柱は丹青を施し、八面の間は紋桐を彩色していた。
沈香(香木の一種)から仏像を彫り出し、棺の中へ納め奉った。
蓮台野(火葬場)は縦横広大に作られており、四門の幕は白綾白緞子
方百二十間の中火屋があり、法経堂のような造りだった。
総廻に埒を結い*1、羽柴小一郎長秀(秀長)が警固大将として
大徳寺より千五百丈の間を、弓矢槍鉄砲を持った警固の武士三万ばかりが
路の左右を守護した。葬礼場には、秀吉分国の人々は言うに及ばず
合体の侍を悉く馳せ集め、そのほか見物の貴賤は雲霞のようだった。

(棺の)御輿の前轅は池田古新(輝政)*2、後轅は羽柴御次丸がこれを担いだ。
御位牌は相公の八男御長丸(信吉)、御太刀は秀吉が不動国行*3を持った。
両脇に連れた三千余りの人は、みな烏帽子藤衣を着用していた。

(中略)

秀吉は御次丸と共に焼香し、十月十五日巳刻に無常の煙となってしまった。
誠にこれが一生の別離の悲しみである。これを嘆かない人がいるだろうか。
特に秀吉は目も開けられない程で、涙を留められなかった。


――『総見院殿追善記』



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 10:46:53.44 ID:txEyc0Bx
猿は演出家やなぁ

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 11:37:09.99 ID:GLoZA45F
何となく、諸君らが愛してくれだカルマは死んだ!何故だ!?
を思い出しました、ジークジオン

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 15:39:06.51 ID:iCMkgUqJ
それは因果応報だからだよ

*1 馬場の周囲に囲いを巡らすこと。
*2 輝政はこの頃秀吉の養子となっており、織田家所縁かつ養子の二人に
信長の棺を担がせる政治的な意図があったとされる。
*3 信長遺愛の太刀。本能寺の変後に明智秀満が安土城から持ち去ったが
敗死ののちに秀吉所有となったとされる。

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 19:50:44.01 ID:OOqoj3kL
サスロ兄爆死で世論操作やな

111 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 20:16:49.81 ID:ufzNrPWL
秀吉に旧主の信長を悼む気持ちが無かったとは思わないけど、やはり後々の事を思うと某SF傘アニメの国葬よろしく政治工作と言うか政治利用だよなぁ
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常在寺の盛衰

2018年07月15日 17:55

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:07:50.52 ID:SA5mBLDe
永禄7年の9月中旬、織田信長は稲葉山城に移り、これを岐阜と称した。
この城の麓にある常在寺は、もともと寺領五百貫があったのだが、この時織田家によって没収された。
しかし由緒ある寺だったため、住職の日韵上人の申し出によって、日野村にて百貫文の朱印を賜った。

その後、信長は江州安土に城を築いて移り、嫡男信忠を岐阜城の守とした。
天正10年6月2日、明智光秀の謀反により信長信忠父子とも、京都にて生害した。
その後当城は信忠の長男である秀信の後見として、神戸三七信孝が住んだが、天正11年に柴田勝家と結んで
秀吉と戦い、これによって当城を去り、尾州野間の内海にて26歳にて切腹した。

この乱で常在寺も兵火に巻き込まれ、信長より賜った朱印やその他の遺物が焼失した。
しかし後に寺は再興された。

信孝の跡に岐阜城に入ったのは、少将豊臣秀勝であった。彼は織田秀信の後見であったが、
朝鮮の役の時に、肥前名護屋へ出陣し、彼の地にて病死した。

慶長5年、岐阜中納言秀信は石田三成に与して、東軍により岐阜城を攻め落とされ、終には紀州高野山に入って
没した。この時の兵乱で、瑞龍寺も焼けたが、後に再興された、しかし常在寺は、この秀信の時までは、
信長より賜った日野村百貫文の朱印地よりの収入を相違なく給わっていたのだが、秀信が滅んだ後は
寺領が断絶し、常在寺に今残るものは、斎藤道三の画像と、斎藤龍興の寿像だけである。

斎藤道三の画像は、道三が信長の北の方の父であることから、彼女が建立したものであり、斎藤龍興の寿像は、
その子息である龍興が建立したものだという。

(土岐累代記)

稲葉山の麓にあった常在寺の盛衰



932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:42:02.56 ID:WP6C3Ozs
織田家がいなくなったら、領地の保証もなくなったわけか。しかし、頻繁に焼けてるなあ・・・