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20万石余 小西摂津守行長

2019年09月24日 15:37

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/23(月) 19:30:46.75 ID:cwZ3+KTm
20万石余 小西摂津守行長

肥後州宇土城主・従四位下侍従行長、父は泉州堺累代の薬商・小西清兵衛入道如清という。彼は子息の
清九郎(弥九郎行長)を伴って朝鮮へ渡り、薬を買って往来すること数ヶ年。

太閤は天下草創の以前より朝鮮を征伐せんと心掛けられた故、小西が案内を知っていることを聞いて、
子息の清九郎行長を召し使われたが、行長は武勇才智あって太閤は喜び、播州在城の時に初めて2百石
を賜う。行長はなお武を学び和漢の兵書を考えてもっとも兵道に達する故、太閤はかつて播州一国を領
せられた時より、天下平均、かつ朝鮮攻めまでの合戦でついに不覚を取らず。

さて太閤は備中出陣の時は小西清九郎が先手に進み戦功あり。帰陣の後に1万石の感状を賜り、従五位
下内匠頭と受領す。後にまた段々加増、10万石に至り摂津守と改める。

この時、宗対馬守義智に一女あり。小西の智勇を感じ入り太閤へ願い婿とする。しきりに戦功を積んで
天正13年(1585)に10万石の加恩を賜い四品に昇り、肥州宇土の城を賜う。

さて、太閤は宿望の通り朝鮮征伐を企て、行長を先手の大将たらしむ。行長は案内者である故、やがて
かの国の通事数人を語らい懐け、路次の便を調え諸将へ下知案内を司る。行長はかつ勇猛智謀をもって
朝鮮の王城数ヶ所を攻め抜き、敵の首を斬ること諸将に10倍す。その働きは『朝鮮征伐記』に詳しい。

しかしながら元来卑賎の者である故、己の武勇に驕り諸将の誓約を変じ、己1人の功を立てんことを業
とする故に交わり親しむ者なし。行長はこれを悟らず、人を嫉み世を恨む。石田(三成)とは懇意故、
かの逆意に与しその為に軍法を談じるといえども、石田の運が尽きたのか小西の謀を用いざること多し。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
味方の中に勇士はいなかったのだ!


440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/24(火) 10:25:43.22 ID:oBX6SoJl
>>436
持ち上げて持ち上げてからのハシゴ外し w

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/24(火) 10:36:01.80 ID:/PMrZ76R
元来卑賤てwそれ太閤もやん
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或いは彼以前にはかつて見なかった事であった

2019年09月08日 17:13

羽柴筑前殿 Faxiba Chicugendono は日本全国の王 Vo (天皇)より最高の官位と名誉を授けられるため
都に赴いた。すなわち王の次の人である関白殿 Quambacudono となる事であった、信長の努力と勢力、
並びに王に対して尽くしたことも、彼が大いに望んだ右の称号を授けられるに足りなかった。

羽柴は更にその名を高くせんと欲し、老王(正親町天皇)が位を長子に譲るため(実際には孫の
和仁親王・後陽成天皇)、甚だ立派な宮殿を建築した(仙洞御所)。
羽柴は高貴なる大身の一女を養って子となし、実子として父の死後王室を継ぐべき王の孫に嫁しめた
(近衛前久娘・近衛前子)。

羽柴筑前守は甚だ微賤に身を起こし。富貴・名誉及び現世の光栄の頂点に達したが、多数の競争者は
彼が日本の習慣により、車が速やかに廻るように、没落に近づくことを期待している。日本の諸侯は
450年来、絶えざる変革に動かされていたのである。

羽柴筑前殿が右四ヵ国(四国)を占領するため軍を出した時、越中国 Yechu において名を虎之助 toranocuque
佐々成政のことであり、内蔵助の誤り)という他の領主が彼に背いた。彼の領地は70レグワ余り奥地にあり、
羽柴は遠方に居るため攻めて来る事はないだろうと考えた。然るに羽柴は軍隊が勝利を得て四ヵ国より
還った後、途中の労苦艱難を意とせず、自ら六万の兵を率いて彼を攻めた。敵はこれを聞いてその軍勢が
未だ到着する前に降伏し、大阪に到りて勤仕するため、所領の二国をその子に与えることを請い、
その子もまた臣従すると申し出、羽柴はこれを許した。
羽柴が軍隊を率いて北の地方へ行ったため、交盟を躊躇していた他の強力な王侯もまた降伏した。

彼はこのようにして、漸次日本全国の絶対の君とならんとしている。これは今日まで甚だ稀な、
或いは彼以前にはかつて見なかった事であった。

(1585年11月13日(天正十三年九月二十二日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

四国征伐前後の、秀吉についての記事



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/08(日) 15:37:48.97 ID:g09xnFYg
ファクシバ チクジェン ドゥノ

【ニュース】「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明

2019年09月03日 17:28

359 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/02(月) 21:46:52.97 ID:GItnMJTM
京都新聞「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190902-00000026-kyt-l25

滋賀県甲賀市水口町の藤栄神社に伝わる十字形洋剣「水口レイピア」が、約400年前にヨーロッパ製の
レイピア(細形洋剣)をモデルに国内で制作されていたことが分かった。水口歴史民俗資料館(同市)などが
共同研究成果を3日の国際博物館会議(ICOM)京都大会で発表する。
 国内に現存する唯一のレイピアで、アジアでもその存在は知られていない。関係者は「時の権力者が
南蛮人から入手し、好奇心から複製を作らせたという東西文化交流の一つの在り方を示す希有な事例」としている。
 十字形洋剣は、戦国武将加藤嘉明豊臣秀吉から拝領したとの伝承がある。嘉明を水口藩主加藤氏の祖
として祭る同神社が所蔵し、1987年に同資料館に寄託された。
 共同研究は東京文化財研究所の小林公治氏ら国内外の専門家グループが6年前から実施。その結果、
17世紀前半のレイピアを基に国内の技術を結集して制作された精巧な模造品とみられることなどが判明した。
 ICOMセッションで研究成果を小林氏と共同発表する同資料館の永井晃子主査は「地域で大切に
守られてきた宝物の価値が国際会議で発表されることは市民の誇りにもつながる」と話す。

画像
20190902-00000026-kyt-000-14-view.jpg

360 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/02(月) 21:47:11.02 ID:GItnMJTM
東京文化財研究所
甲賀市水口藤栄神社所蔵十字形洋剣に対するメトロポリタン美術館専門家の調査と第7回文化財情報資料部研究会での発表
https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/247392.html

この度、世界でも有数のレイピアコレクションを誇るニューヨークのメトロポリタン美術館武器武具部門長、
ピエール・テルジャニアン博士にご来日いただき、現地での調査を実施のうえ、この洋剣に対する見解に
ついて第7回文化財情報資料部研究会にて、「ヨーロッパのルネッサンス期レイピアと水口レイピア」と題した
ご発表をいただきました。
 博士の見解は、銅製の柄部分は明らかに日本製であること、また剣身も日本製あるいはアジア製であって
ヨーロッパ製ではないこと、そして水口レイピアのモデルとされたヨーロッパ製レイピアは1600年から1630年の間に
位置づけられ、その間でもより1630年に近い時期であるが、この剣自体には実用性に欠ける面がある、というものでした。
 この見解は、17世紀前半の日本において、ヨーロッパからもたらされた洋剣を日本人が詳細に調べ上げ、
その模作までも行っていたという、これまでまったく知られていなかった新たな事実を意味するものです。
またその一方で、この剣には高度なネジ構造によって柄と剣身とを接続するなど、ヨーロッパのレイピアには
認められない独自の技術が使われていることも明らかとなりました。こうした独自の特徴は、当時の日本の職人が
見慣れぬ西洋の剣を自身の持つ技術で正確に再現しようと努力苦心し、工夫を重ねた結果であると理解できるでしょう。



361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/02(月) 21:51:44.42 ID:GItnMJTM
伝来と製作推定時期が違う?

こういうのでそんなん気にしちゃダメよ
伝世品や家宝ではよくある話だからw

とりあえずコーエーでキャラ化されるときのビジュアルはこれで決まりましたね
イカ頭にレイピアって

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/02(月) 22:16:11.79 ID:Fkp1/lw1
ジミーさんって秀吉から色々なもの貰ってるな

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 10:10:39.63 ID:6rZ+ESk2
秀吉「これいらないんだよなあ・・・嘉明にやっとくか」

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 11:00:09.55 ID:xR9TLq28
なんか知らんが秀吉は嘉明に歯も与えてるな。
貰ってもいろいろ困るだろうに。

参照
君に歯をあげよう
秀吉の歯
366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 16:08:26.41 ID:Yei4roZj
>>364
大明神の歯やぞ

367 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/03(火) 17:23:42.33 ID:LdMBi2cl
>>360
紺糸威南蛮胴具足
http://www.emuseum.jp/detail/100509/001?word=%E9%BB%92%E7%B3%B8&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=2&mode=simple¢ury=

画像
0_0.jpeg

この水口レイピアに限らず、例えば過去ログの「徴古館 青漆塗萌黄糸威二枚胴具足」で鍋島勝茂所用の青漆塗甲冑が、
青漆ではなく西洋絵画の油絵具に近い技法で作製された塗料であることがわかったというのもそうですし、こちらの
榊原康政所用の南蛮胴も、舶来品の改造であると思われていたのが和製の胴鎧であることがわかったというのも、
江戸初期に西洋技法を取り入れようとした実例は意外とあるんでしょうね。
ただしそれがどの程度定着したのかは?


それと、レイピアの調査をした東京文化財研究所は鍋島の具足も調査してたんですね。

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 20:11:00.78 ID:OUs1SCTH
鎧通しをレイピア風に作ってみましたな気がしないでもないんだが

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 20:50:01.06 ID:i7NzSYU+
鎧通しは短くて分厚いものだし
リーチ足らないなら槍というものがあるし

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 23:11:30.61 ID:612t7r84
歯医者さんが考えた歯ブラシ

377 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/07(土) 12:11:45.47 ID:Sq1cwAIv
>>368
wikipediaだけど見てみたら、そもそもエストックとレイピアって基本構造も違ってて
エストックも日本で良くあるイメージのプレートアーマーの隙間を狙う武器じゃなくて、鎖帷子へ突き刺すための雑兵用の代物なんじゃん
レイピアは同じくイメージ通りの護身用、素肌剣術での決闘用のようだけど



173 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/03(火) 10:18:15.03 ID:UPaTOunc
★「秀吉から拝領」伝承の十字形洋剣、400年前に国内製造が判明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190902-00000026-kyt-l25


...地味なほうの加藤さんがレイピアを振り回す...



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 15:01:25.11 ID:Yei4roZj
>>173
神社が保管ていうのがまたじわじわくるな

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 17:37:15.93 ID:LdMBi2cl
水口レイピアは悪い話スレの方にも書かれてますよ。

で、藩祖を祀った神社に家宝や伝世品が納められてるというのは良くある話なので、
例えば米沢藩の上杉神社には、信長から謙信に贈られた西洋マントや、豊臣政権の
重役として明朝との交渉で贈られた官服とかが所蔵されています。

家康を祀った久能山東照宮に時計とか鉛筆とかがあるのも有名ですね。

神社に西洋由来の所蔵品があっても全くおかしくないのです。


「日頃の数寄が出た」

2019年09月03日 17:23

千利休   
365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 16:07:29.71 ID:gS8n8Noc
利休は大徳寺の山門を建立し、自分の形を木をもって作り、褊綴を着せて頭巾に杖をつかせ、
雪踏(原注:雪踏は利休が初めて作ったのだという)を履かせて高所に置いた。

秀吉公は御覧になって、「公家衆を始め礼儀ある門に推参至極のやり様である!」と大いに
怒りなさり、その罪で切腹した。

その時、(利休は)脇差を包み取って巻き直し、両端を揃え能を見て切腹仕ったのである。
「日頃の数寄が出た」と、数寄者は感じ入ったという。

(原注:『雍州府志』四巻の大徳寺のところに曰く、この門は連歌師の宗長が所建の後に千
利休がその上に設閣し、己の像を置いた。これにより豊臣秀吉公は僭越を怒り、その像を降
ろして一条反橋に晒したのである)

――『烈公間話』



左吉の容貌起居は他に優れたことによって

2019年09月02日 15:54

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/01(日) 16:40:38.13 ID:RmXpuKDJ
石田治部少輔三成は幼名・左吉、その父は佐吾右衛門で江州石田村の地士にして一村の長で
あるが、家は貧しく左吉を近郷の真言寺の小小姓とした。

ある時に秀吉公がこの寺へ参詣し、左吉の容貌起居は他に優れたことによって、住持に乞う
て近習の臣とし、次第に昇進して江州佐和山18万石と代官所7万石の合わせて25万石を
領知した。

――『志士清談』



重大にして過酷なこと

2019年08月26日 18:01

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/25(日) 19:00:51.02 ID:eXuKpPk/
彼(豊臣秀吉)は他の重大にして過酷なことを行った。すなわち、都の平野にある田畑を測量させ(同地の
周囲に寺院を有する坊主の所領であり、これによって多数の市民が生活した)、これを尽く己の有とした。
また彼に属する諸国に大いなる家屋(倉庫)を建築し、そこの糧食を納め、大部分は売って金銀と成し、
その宝庫に納めた。彼の書記官である安威殿(安威摂津守か)の言によれば、毎年売る米のみでも黄金百万を
越えているという。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

秀吉の検地についてのフロイスの書簡の記事



北野大茶会の事

2019年08月22日 17:05

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 00:46:12.19 ID:rcvPK52I
私(久保長闇堂)が茶湯を初めたのは、北野大茶会の年にあたる。調べてみると、天正十三年十月一日の
事である。秀吉公は八月二日に高札を五畿七道に立てさせ、天下の茶湯を志す者は北野の松原に茶席を設けよ、
との上意であった。南都(奈良)よりは、東大寺、興福寺、春日の禰宜、町方合わせて三十六人が出かけた。
私は幼年であったが、この道が好きだったので見物のため同行した。以下、覚えていることを記す

北野の聖廟の前には葭垣があり、東と西に出切り口があった。上様(秀吉)の茶席四つは、礼堂四方の
隅にそれぞれ囲わせ、秀吉公、宗易(千利休)、(津田)宗及、(今井)宗久という四人のお点前であった。
その時の道具の記録も残っている。
大和大納言殿(豊臣秀長)は南門筋西側で、大和郡山の武家衆、それに続いて南都寺社、町方であった。

松原中の茶席は思い思いの工夫が有ったが、その中でも覚えているのは、奥の小松原に、美濃国のある人が
芝より草を葺き上げ、内を二畳敷とし、中の四方に砂をまき、残る一畳敷に瓦を縁とした炉を作って釜を
かけていた事である。通い口の内に主人が居て、垣に柄杓を掛け、瓶子の蓋を茶碗として、焦がしを入れた
丸瓢の茶器をその中に仕込んでいた。

さて前日にお触れがあり、その日の日の出より御社の東口で籤を取り。五人一組として、先の四つの茶席の
どこかで御茶を下された後、西口からすぐに出る形であった。そのため数百人の客が、朝五つ(午前八時ころ)
にはもう御茶を飲み終えた。

秀吉公は食事を終えると昼前より松原に御出でになり、一ヶ所も残らず御覧になった。
先の美濃国の人は名を「一化」と言ったが、茶席の脇で松葉を焚き、その煙が立ち上っていた。秀吉公は
彼のことを以前よりご存知であったそうで、「一服」との御意があり、直ぐにその焦がしが差し上げられた。
大変にご機嫌よく、手に持たれていた白扇を一化は拝領し、今日一番の幸運者と評された。

また経堂東方の京衆の末席に、「へち貫」という者が一間半(約2.7メートル)の大傘を朱塗りにし、柄を
七尺(約2,1メートル)ばかりに立て、二尺(約60センチ)ほど間を置いて葭垣で囲っていた。
照日に朱傘が輝き渡り、人の目を驚かせた。
これについても秀吉公は一入興を催され、彼を諸役御免とされた。

八つ(午後2時ころ)過ぎには皆々にお暇を下され、それより互いに桟敷を片付け、その日の内に、また
元の松原に戻した。内々には、『諸方の茶道具を召し上げられるつもりであろう』と噂されたが、そのような
事はなかった。また「十日間茶湯をせよ」とも言われていたのだが、その日だけで終わった。
このため見物した人もそう多くはなかった。

私はこれを見物し、心勇んだ。どうにか出来るものだと考え、親の家の裏にわずか4畳敷の小屋が有ったので、
これを改造して二畳半を茶室、一畳を勝手とし、残る一畳を寝所と定め、足の方には棚を釣り。昼はそこに
寝具を上げた。
そんな茶室に、今思えば身分の高い客も呼んだものだ。しかし志さえしっかり持ち続け、勇気を持てば、人に
恥じる事はない。今の世で誰がこのような仕方をしているだろうか。ただ志が強くないため、勇気もなく、
他人に対しても自分に対しても恥じてしまい、道に至る人が少ないように見える。

(長闇堂記)

北野大茶会についての記事



その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かった

2019年08月21日 16:16

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 15:08:53.88 ID:j7HsFu40
岡野紅雪(板部岡江雪斎)という人あり。これは現在の岡野孫九郎(貞明)の先祖である。こ
の紅雪は小田原北条の旗下であった。小田原落居の時に紅雪は生け捕りで縛められ、秀吉公の
御陣にいた。

秀吉公は仰せられて「そもそも真田御陣の時、この岡野は表裏第一にして不届き者であった!
磔にも致したい者である!(真田御陣の時の)様子委細を尋ねよ!」と、御使をもって尋ねな
さった。紅雪は曰く「この事は人伝では中々申されぬことです。直に申し上げたい」とのこと
で、縄を取って引き立てた。

これを秀吉公は聞こし召され、「苦しからず」と御前へ召し出されて一々を御尋ねなさると、
一々を申し開き仕ったので命を御助けなさり、御咄衆になっておられたという。

ある時に京都において能を御興行の時、家康公が秀吉公へ仰せられて、

「小田原の北条は関八州の大将ですが、長く城も持ち堪えられず幾百日ばかりで落城しました。
降参していればこのような時に御物語りの相手にもなるだろうに、不甲斐なく百日ばかりで落
城したのは心残りの多いことです」

と仰せであった。その時に紅雪は末座にいたのだが罷り出て申し、

「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

と申した。その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かったのだという。

――『烈公間話』

太閤能『北条』の時の話だったりして



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 17:09:24.18 ID:Xyh7xlrF
>「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
>存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

まったくの事実だが、家康も秀吉も黙らされた話って珍しいなw

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 18:29:25.10 ID:Nl8+tmX0
どこまで名前かわからない人か

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 19:18:26.99 ID:KUwKnP2Z
>>330
痛快だなw

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 00:41:05.20 ID:aOfLDkKJ
えらい胆力のある人だね

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 09:07:29.18 ID:sq2PUUTe
>>332
すぐ近くに別の雪斎がいたからなw

滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人である

2019年08月17日 17:01

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/17(土) 10:41:04.88 ID:+dFIgXP4
私(根岸鎮衛)のもとに来る正逸という導引(あんま)の賤僧がおり、もとより文盲無骨で
その言うところも取るに足りないわけだが、その彼が有る時咄た事に

「太閤秀吉の前に細川幽斎、金森法印(長近)、そしていま一人侍していた折、太閤曰く
「吹けどもふけず、すれどもすれず、という題にて、前を付け歌を詠め」
と有った

ある人は
「ほら(法螺)われて 数珠打きつて力なく するもすられず吹も吹かれず。」

金森法印は
「笛竹の 割れてさゝらに成もせず 吹も吹かれずすれどすられず。」

そう詠んだ。秀吉が「幽斎いかに」り聞いた所、
「何れも面白し。私が考えたものは一向に埒なき趣で、これを申すのも間の抜けた事ですが、
このように詠みました。」

「摺小木と 火吹竹とを取りちがへ 吹もふかれずするもすられず」

そう詠じたという。滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人であると見えるが。この事は軍談の書や
古記にも見当たらない。私の目の前にいる賤僧の物語であるので、その誤りもあるのだろうが、
聞いたままを記しておく。

(耳嚢)



推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!

2019年08月15日 17:14

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 16:33:34.16 ID:Tdfto4zP
「尼崎で諸大名が髪を切って信長公のことを嘆きなさる時、秀吉公も嘆きなさり『この上はいずれも
一味同心で明智を討ち取り申す他はござらん! いずれも左様に思し召しなされよ!』と敬っていか
にも慇懃に、同輩の様子も見えたのである。

明智敗軍の時、諸大名への御あしらいは『骨折り骨折り』と仰せられ、皆家来のあしらいになされて
大いに威が付いたのである」と(佐柿常円は)語りなさった。

――『佐柿入道常円物語(高松城攻物語)』

佐柿常円は備中高松攻めの時に秀吉に御供したという人
  
  
一、山崎合戦の時、秀吉公は西国より御上り。先手は中川瀬兵衛(清秀)・堀久太郎(秀政)・
  高山右近・池田勝入様(恒興)などである。

  (中略。戦勝後)

  秀吉公は遥か後ろより、乗物で朱唐笠を差させて御出になった。中川を始め諸大将は床机に
  腰を掛けていた。きっと懇ろに礼儀があるだろうと思いなされているところで、秀吉公は駕
  の中から「瀬兵衛、骨折り」と申されたという。

  瀬兵衛は気短き人なので「推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!」と申されたという。
  秀吉公の御聞きなきことはあるまいが、聞かぬ顔で御通りであったという。

一、古田織部は中川瀬兵衛殿の婿である。利隆様(池田利隆)の伯母婿でもある。秀吉公が山崎
  へ御向かいの時、秀吉公は古田を召して、

  「中川と其の方は縁者だから、中川へ行け。まったく中川を疑うわけではないが、世上の聞
  こえにおいても、中川なども人質を出すとあれば味方一味のために良い。誰であっても人質
  を出しなさるように申して参れ」

  との仰せであった。古田が畏まって行くと、秀吉公は山上に陣取りであったのだが、古田が
  山下まで行くのをまた呼び返して何か遣わしたいと思し召された。乾いてござる木綿足袋を
  脱ぎ、「これをやるぞ。これを履いて津の国(摂津国)の晴れをせよ」との仰せだという。

  さて中川へ行って以上の通り申した。例の中川殿は気短く、早くも立腹して申されるには、
  「秀吉が我に人質を出せと言うか!」と、申されたという。古田は「左様ではありません。
  よくよく御思案なされ」とまずは帰った。

  夜に入って古田を呼んで中川が申されるには、「いかにも心得た。しかし人質に遣わすべき
  者がいないので、家老の子を遣わそう」と人質を遣わしなさったという。その頃、中川殿は
  津国茨木に居住されたという。

――『烈公間話』



山上宗二は顔つきが悪く、口も悪く

2019年07月28日 15:22

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 11:58:49.11 ID:81YcgESZ
山上宗二は薩摩屋ともいい、堺の上手であり、物知りとしても超えるものが居ない人であったが、
なんとも顔つきが悪く、口も悪く、人に憎まれていた。
小田原御陣の時、秀吉公にさえも御耳に触るような事を言い、その罪として耳と鼻が削がれた。

彼の子は道七といい、故太政大臣様(徳川家康)の茶堂として御奉公をしていたが、父譲りの
短気な口悪者で、上様が風炉の灰をされたのを見て、それを突き崩してやり直したため、改易と
された。彼は牢人して藤堂和泉守(高虎)殿が伊予に在国されていた折に伊予へ下り、その事についての
申し開きをした。私(久保長闇堂)も居合わせて一冬話したことがある。

(長闇堂記)



筒井筒 五つに割れし井戸茶碗

2019年07月26日 17:43

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 13:21:54.29 ID:JJznDzuF
世間で『筒井の井戸茶碗』と呼ばれたものは、元々は南都(奈良)の水門町に居た善玄という侘び者が
所持していた高麗茶碗であったが、筒井順慶がご所望され彼の持ち物となり、その後順慶より秀吉公へ
献上されたのである。

ところがどうしたわけか、この茶碗を秀吉公の御前で割ってしまい、御機嫌を非常に損ねられた。
この時、居合わせた細川幽斎がとっさに狂歌を詠まれた

『筒井筒 五つに割れし井戸茶碗 咎をば誰が負いにけらしな』
(謡曲「井筒」の「筒井筒 井筒にかけしまろが丈 生ひにけらしな妹見ざるまに」をふまえている)

そう申し上げた所、殊の外よく出来た歌であると、秀吉公はすぐに機嫌を直されたという。

(長闇堂記)

なおこれは「多聞院日記」天正十六年二月九日条にも記載されており、どうも実際にあった事らしい

参照
秀吉の筒井茶碗と細川幽斎・いい話


117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 14:30:22.88 ID:F4qiylrx
政宗「俺の正宗、振分髪も持ってこようか」

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 16:25:54.00 ID:AwYufllE
幽斎がとりつくろわなかったら誰か死んでいたのだろうか

さては宇治・淀川の運上は万石に及んで

2019年07月24日 16:33

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 16:25:33.09 ID:aHDSHdOS
23万5千3百石 石田治部少輔三成

三成の先祖は江州粟津ヶ原で木曽義仲を射落とし、その忠賞によって右大将頼朝より豆州に3千町を賜った
石田判官為久にして大織冠(藤原鎌足)の末裔である。

元々は三浦一族であるが、三浦家が衰微すれば共に流浪し、為久より八世の石田藤右衛門尉為成という者が
江州の山家に居住した。二子あって次男を左吉宗成と称す。後に所謂、石田治部少輔三成と称すはこれなり。
嫡子は木工介重成という。

しかるに左吉宗成は穎悟聡明、幼くして文武の道を学んでかつ諸芸に達し、良将に仕えることを望む。時に
太閤は播州半国を領し姫路城にあって、羽柴筑前守と称す。左吉はこれを聞いてここに至る。太閤は左吉の
由緒才智を憐れみ3百石を賜った。時に18歳(原注:一説に150石で右筆に出たという)。

後に太閤が中国三州の主となった時、家人の領地をあまねく加増した。石田は新参だが忠勤によって5百石
の新恩を加えた。この時に太閤は曰く「ただ所存の旨を申せ」と。石田は恩を謝して曰く、「そればらば、
宇治・淀川の両脇に毎年生じる荻と葦を、郷民らはほしいままに刈り納めていますが、この運上を賜ったな
らば恐れながら5百石を返上して、かつ1万石の軍役を勤めましょう」と。

往古よりこの運上を取って来る例ではあるが、その才を試すためと太閤は思案あってこれを許した。また軍
役については追って申し付けるとのことであった。石田は大いに喜び宇治・淀の川上から数百里川下まで生
じた葦・荻を、1町にどれくらいとの運上を定めて刈り取らせたところ、その穀高は幾許であった。

その頃、信長は波多野石右衛門大夫秀治の追討をして太閤が先手の大将であった。時に左吉は団扇九曜に金
の吹貫を垂れた旗を先に立て、華やかに鎧をつけた武者は金の吹貫を皆一様に腰印とし、数百騎を纏って遥
かに引き下って押し来る。

太閤は顧みて怪しみ、軍使を馳せて問うと石田佐吉宗成と答えた。「さては宇治・淀川の運上は万石に及ん
で、今度の軍役を勤めたのか」と、太閤はますますその才智を感心なされた。かくて後に太閤は天下の主将
となり、恩寵はなお深く、ついに江州佐和山23万5千余石を賜り、官四位に至って五奉行の随一となった。

――『古今武家盛衰記』



千利休の切腹と石灯籠

2019年07月21日 16:59

千利休   
103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 01:13:32.35 ID:tvy6NoWG
千利休の切腹は堺で行うと、秀吉公の御意があり、この時、淀に於いて船に乗るまでの乗物を、
三斎公(細川忠興)と古田織部殿の両人が手配された。利休の内儀がこの時礼を申されたが、
利休は
「もはや、それも要らぬことです。日本国の人々は皆私を知っていますが、このお二人ほどの事は
有りません。」と言った、

切腹を行う堺の屋敷に於いて、四畳半の小座敷で利休は「少しお待ち下さい。」と、炭を直した。
湯がたぎった時に四尺床に腰を掛けたが、勝手方に臂がつかえたので、「この置き合わせではない。」と、
床真中に寄った。

そして「介錯の人々は声を掛けるまでお待ち下さい。もし言葉が出ないようであれば、手を上げて
合図致します。」と言って、脇差を腹に突き立てた。

しかし思うように行かなかったため、また引き抜き、同じ所に突き立て直し、引き回して腸袋を
自在の蛭釘に掛け、そこで介錯があった。古今に無いものであった。

利休切腹の後、秀吉公の後悔は限りないものであった。彼が切腹した後は、秀吉公は釜の形の切紙が
上手く切れず、誰彼にかかわらず切らせたが、御意に入るものはなかった。
蒲生氏郷と三斎公が行かれた時も、「ハァ、一応参りましたというだけの面だ。」と仰せになった。
「たしかにその通りだった。」と、後に三斎公は語られた。

利休が天下一と褒めた石灯籠が有った。利休自身が打ち欠いて、色々に直し、天下無双であると気に入った
ものであった。
その石灯籠を三斎公が所持され、任国が代わる度、丹後に取り寄せ、小倉へ下し、肥後の八代に下し、
現在はまた京へ上らせておられる。そしてこれを大徳寺高桐院に立て置き、三斎公自身の墓標として、
名を彫りつけるおつもりでおられる。「灯明などを灯せば丁度よい。」と仰られている。
少し手軽く見える灯籠で、角々が丸く、大形では無いものである。

(筆者注・現在この石灯籠は細川忠興の墓石として、大徳寺高桐院の墓地に有る。)

(三斎伝書)



104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 13:52:30.21 ID:cN9uq2nD
お茶くらい気にすんなよ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/22(月) 12:12:38.25 ID:umL4DwKU
よく知ってるね

千利休の身上が相果てた理由について

2019年07月19日 14:58

千利休   
279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 00:03:31.80 ID:0NM0kJP3
千利休の身上が相果てた理由についての事である。木下祐桂(秀吉の右筆とも言われる。不明)が
秀吉公に逆らって浪人したことが有ったが、その時知人であったにも係わらず、利休が見舞いの人を
遣わさなかったことに祐桂は非常に腹を立てた。

その後秀吉公に許されたため、その祝いに利休が祐桂の元を訪ねた所、祐桂は
「利休などという人は知らない。」と言って取り合わなかった。このため互いにひどく腹を立てたが、
表向きは仲直りをした。

ところが、秀吉公が祐桂に「この頃何か珍しいことはないか」とお尋ねになった時、祐桂は
利休の娘のことを申し上げた。「それでは」と秀吉公は祐桂を御上使として利休の内儀の元に
(娘を秀吉の側に上げるよ)2度も遣わしたが、内儀は「利休へ申されないのでは困ります。」と
同意しなかった。そして利休はこれを聞くと「とても納得できません」と申し上げた。
祐桂はいよいよ利休に対して腹を立て、秀吉公に報告した。

その頃、前田玄以も秀吉公に対して利休を散々に言った。これらによって、切腹となったのである。
前田玄以は胴高という茶入を取り出して、肩衝と言って利休に見せた所、全く返事すら無かったことを
恨んでいたのだ。

後にこの胴高の茶入は池田三左衛門殿(輝政)が所持し、今は備前の宮内殿の元にある。
習いが有って、胴高というのは茶入の中でも特別なものであり、習いが有れば見分けやすいものなのであるが。
(玄以はその心得がなかったのである)

(三斎伝書)




282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:19:20.92 ID:KpYWaZEK
>>279
心得がないなら教えてあげればいいのに
思い上がってる奴を擁護するのは取り巻きだけ
まるで何処かの芸人のようだ

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:42:58.45 ID:1RTOYgSs
>>282
そして、偉い人の庇護のもとででかい顔。偉い人から嫌われたらその瞬間に終了。
今の芸人と完全に一緒。

消えた秀吉取り立ての家臣たち

2019年07月12日 16:43

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 16:30:42.87 ID:ycVecxqD
3万石 渡瀬左衛門佐繁詮

太閤が卑賎の時から奉仕した。関白昇進の時に5千石を賜り、旗本の列となる。天正18年(1590)、
小田原の戦功をもって、遠州横須賀城3万石を賜る。ところが、秀次に悪行の詮議あり。渡瀬はその張本
人であることをもって、文禄4年(1595)8月に領地を没収し、佐竹右京大夫義宣へ預けられて常州
水戸へ配流(後に切腹)。


3万石 前野但馬守長康

太閤が筑前守だった時に馬廻に召し出され、前野庄左衛門と称す。賤ヶ岳では四番の軍列であった。後に
但州出石城主となる。長康も秀次へ悪行を勧めたことをもって領地を没収し、駿州府中城主の中村式部少
輔(一氏)に預けられる(後に切腹)。この将は加州の住人・富樫介(加賀守護富樫氏)の末葉で、後に
坪内と改めて、当時御旗本に奉仕した。


18万石 木村常陸介重高

重高は木村隼人佐の息男である。父の隼人佐は太閤が微賤の時からの老臣で、賤ヶ岳合戦の時は三番備、
柴田の先手を追い崩して越前まで突き入り、ついに勝家を自害せしむ。この功をもって山州淀城を賜り、
大名となって卒去した。

常陸介重高は家督を継ぎ、太閤は関白職を秀次へ譲られる。この時、「木村は数年予の老臣であり、目出
度き者である。秀次も予の如く果報を継ぐべし」と、木村を秀次のへ付けなさった。

されども重高は父・隼人佐に劣り、佞奸にして石田(三成)・増田(長盛)と心を合わせて秀次へ悪行を
勧めたことをもって、秀次生害の後に木村は摂州茨木で切腹、その一族は縁者まで尽く死刑となる。この
始終は『秀次記』に委細があるので、ここには記さない。


5万石 熊谷大膳亮直澄(直之)

直澄は熊谷次郎直実の末葉である。太閤が天下草創の始めより馬廻に召し出され、しばしば戦功があるの
をもって5万石まで賜り、秀次の附臣となる。ところが秀次生害あれば、直澄は嵯峨天龍寺へ馳せ入り、
たちまちに自害した。直澄はまったくその誤りがなかったので、太閤も召し返して本領を賜ろうと内談が
あった内にたちまち殉死したため、皆人は残念に思ったという。


8万石 熊谷内蔵介直陳(直盛)

直陳も熊谷次郎直実の末葉で勇猛の者故、太閤の馬廻に奉仕してより、しばしば軍功を尽すことをもって
天下平均の後に、豊後安岐城主となる。これも朝鮮へ渡海し(目付として)諸将の剛臆を告げたが、毛利
(吉成)・竹中(重利)と対決に及んで追放された。直陳も三成の婿なので佐和山へ赴いて忍んでいた。
翌年三成は本領を与えて大垣城へ籠め置いたが、垣見・木村とともに相良・秋月らにたばかられて死んだ。
(後略)

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 16:31:56.17 ID:ycVecxqD
1万石   塩冶隠岐守
1万5千石 寺田播磨守(光吉)
2万2千石 斎藤左兵衛督
3万石   津深右京亮
1万2千石 粕谷内膳正(糟屋武則)

以上五将は各々太閤の代に取り立てとなり、武威を振るったが石田に与するをもって所領を没収なされた。


6万石 戸田民部少輔氏繁(勝隆)

太閤が未だ勢微な時から従った。しばしば戦功があったので予州喜多郡大洲城6万石を賜る。天正13年
(1585)に太閤は四国退治のため、御舎弟の羽柴美濃守秀長と御猶子の三好秀次を大将軍とし、6万
余兵を添えてまず阿波州を攻めさせなさる。

この時、戸田は一番に馳せ加わり戦功をあらわす。それより四国の徒党は尽く雌伏したので、取り分けて
戸田の戦功を感心し、同州宇和郡板島城へ移しなさって官位を昇進し、大名に取り立てなさるとの契約が
あった。そんな折に程なく病死し、あまつさえ令嗣なきをもって所領を召し上げなさった。


7万石 小川土佐守祐忠

伊予今張城主。太閤取り立ての人である(原注:一説に明智光秀の従弟。故あって直参するという)。初
め石田に与し、島左馬介祐滋とともに大谷(吉継)に属して北国へ赴く。後に関ヶ原へ出張して軍談する
ところで金吾秀秋が密かに関東へ通じると聞き、脇坂・朽木・赤座とともに俄に心を変じ、大谷・平塚の
陣を破る功をもって本領を賜る。

ところが祐忠は不行跡にして家人国民に酷く当たり、諸人は疎み果てる折に異心を巧み、天下の大事を企
てた故にたちまち所領を没収なされた。小川父子とその一族与党まで尽く改易なされたという。

――『古今武家盛衰記』

消えた秀吉取り立ての家臣たち

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 22:02:26.03 ID:ycVecxqD
5万石 丹羽備中守長昌(長正)

越前守長秀の次男、修理亮長政の孫。幼少より太閤に仕え、後に越前東江城を賜る。石田に与して大谷に
属し、戦功をあらわす。関ヶ原の敗戦を聞いて逐電した(後に秀頼に仕えて、大坂開戦前に脱出)。(原
注:ある説に曰く、長昌は越前を逃げ出し、後に丹羽左京大夫方へ行き忍んていた。子孫はかの家に仕え
るという)


2万石   多賀出雲守(秀種)
1万9千石 杉若越後守(無心)
1万7千石 横浜民部少輔(茂勝)
1万5千石 杉谷越中守
1万石   寺西下野守(是成)

以上は太閤取り立ての将である。石田に与して大谷に属し、北国で戦功あり。それより大津へ向かって立
花宗茂の先手に進み、命を捨てて大いに戦い、関ヶ原へ出張しようと用意した。しかしすでに敗れたと聞
いて逐電し、諸国に忍んで放浪した。(原注:私に曰く、以上五将の由緒、かつその子孫が諸家の陪臣と
なることは長き故記さない。『太閤記』に詳しい)


1万石 松浦伊予守秀任(久信)

松浦安太夫宗清の従弟。初め安兵衛といった時より、太閤の馬廻に召し出されて頻りに立身した。石田に
与し、大津城攻めで立花とともに軍忠を励む。秀任は元来強力で、鉄棒を提げて馬人の区別なく散々に打
ち倒し、一の城戸を打ち破り二の城戸まで攻め入ったが、大勢に取り詰められてついに戦死した。立花は
その勇を大いに感じ、太平以後に秀任の子を召し出して扶持した。子孫はかの家に仕えるという。


1万石   高田豊後守(治忠)
1万3千石 藤掛三河守(永勝)

以上両将は太閤御取立ての者である。石田に与し、小野木(重勝)とともに田辺城を攻落する。味方敗北
の後に流浪したが、子孫は当家(徳川家)に召し出されて俵数を賜る。子細は知らず。

――『古今武家盛衰記』

追記>>250
富田高定などの伝もあるけど長くなるので割愛



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 09:44:55.09 ID:DWiCMEm8
>>249

前庄殿な後だけどその話武功夜話にでとりましょうですか?

朝鮮から見た秀吉の「唐入」について

2019年07月11日 16:09

宣宗   
241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/11(木) 11:55:14.96 ID:WC8s2TiO
世宗大王(セジョンデワン)は1450年(世宗32年)2月14日に
同副承旨の鄭而漢(チョン・イハン)にこのような言葉を残した。
崩御3日前だった。結局、これはは遺言になった。
「倭(日本)と野人(女真族)への対応は簡単な問題ではない。
平安に浸っていれば気が緩まないか本当に心配だ。
日々気を引き締めて問題がないようにしなければいけない」

(『世宗実録』)
以下略

ソース 中央日報 
【コラム】無知または無視:韓国の日本対応マニュアル

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/11(木) 12:08:12.99 ID:WC8s2TiO
朝鮮王朝実録の宣祖修正実録には、1592年に外敵が侵入した時に
朝鮮がどれくらい無防備だったかが赤裸々に記されている。
外敵は20万人を徴発したが、実録には
「釜山(プサン)で見張りをしていた官吏が最初に来た4百余隻を報告し、
辺将が最初の報告を受けたものだけを根拠にこれを実際の数と見なした」
と記されている。

それで
「敵の船は4百隻にも及ばないが、一隻に乗っている人員が数十人に過ぎず、
その概略を計算すれば約1万人ぐらいになると報告したので、朝廷もそのように考えた」
ということだ。

(中略)

1592年、釜山沖に倭軍が予告もなく攻め込んだわけではなかった。
その前年の1591年、朝鮮通信使に渡した国書を通じて豊臣秀吉は明を打つという考えを知らせた。
「一超直ちに明国へ入り、吾朝の風俗を四百余州に易え、帝都の政化を億万欺年に施すは方寸の中に在り」
と伝えた。明への道の途中に朝鮮があった。

ソース 中央日報
【コラム】1592年と2019年、私たちは変わったのだろうか=韓国(1)

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/11(木) 12:09:38.55 ID:WC8s2TiO
豊臣秀吉を直接見ても対策は分かれた。
秀吉を見た通信使の黄允吉(ファン・ユンギル)は朝鮮に戻ると
「必ず兵火があるだろう」と報告したが、
副使の金誠一(キム・ソンイル)は
「そのような情状は見つからなかった」と正反対のことを伝えた。

実録には秀吉を見た2人の官僚の全く異なる印象評価も登場する。
黄允吉は「眼光が輝いていた」としたが、
金誠一は「目がネズミのようだ」と比喩した。

実録には金誠一が朝鮮に戻る途中で
「通過する帰途でさまざまな倭陣で倭将が与える品物を誠一だけは断り受け取らなかった」
と記録した。
倭には何も要求しないという彼の所信だったのかもしれない。
だが、ネズミのようだという秀吉が送った倭軍は、
明の地上軍を碧蹄館(ピョクチェグァン)で撃破した当時の精鋭兵だった。

(中略)

倭軍との戦闘で釜山の辺将・鄭撥(チョンバル)将軍は
矢がすべて尽きると敵の弾丸を受けて戦死した。
東莱(トンネ)府使の宋象賢(ソン・サンヒョン)は抗戦を指揮し、
鎧の上に朝服を着て椅子に座っていたが、結局死んだ。
準備が整っていない戦争で、
現場の指揮官は死を以て倭軍と対抗しなければならなかった。

ソース 中央日報
【コラム】1592年と2019年、私たちは変わったのだろうか=韓国(2)



244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/11(木) 12:17:22.82 ID:qPa1o5mb
コラム名に笑ってしまった。すまぬ

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/11(木) 13:01:05.37 ID:37oiW974
スレがスレだから仕方ないけど逆の立場だったら到底笑えるものではないかと

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/11(木) 21:25:57.73 ID:6gXsWriM
油断しまくりだな
隣国の情報くらいちゃんと集められそうなもんだが

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 16:39:08.37 ID:BhNSOonv
>>247
秀吉が天下統一して朝鮮の使節が来て九州に到着した時、九州で少弐氏が滅んだことを知って
驚いたという記録が残ってる。朝鮮王朝のレベルでは100年位対日情報が滞っていたらしい。

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 16:44:39.80 ID:MSoPE4K2
当時の朝鮮からするとそれまで戦乱続きだった日本が統一された事の方が異常事態なんじゃね
しかもそれをやったのが下層出身者だという
そんでそいつが明を征服しようと企んでるとか

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:25:34.48 ID:YjWTGmPq
>>251
驚きです
100年はさすがに。

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 20:59:04.78 ID:A8yxn3Gt
朝廷内は権力闘争の日々、朝廷外は貧困やら倭冦やらでぼろぼろだから日本にかまけてる余裕が無かったのか?
15世紀末だったか16世紀初頭の宗氏の内紛にちょっかい出したのが、秀吉前の日本に関わった最後なのかな?
博多商人とのやり取りで情報は入っていそうな気もするけどね

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 21:10:06.07 ID:I9aZsBuw
15-17世紀の日朝貿易は偽使の歴史だし
朝鮮に日本が朝貢した体裁を整えればどうでもいい

台子は道の秘伝であり

2019年06月29日 17:48

千道安   
49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/28(金) 20:24:43.65 ID:DTOY7Kmh
大阪にて、秀吉公が桑山法印(桑山重晴)の屋敷へ御成になった時、千道安(利休実子)が来て台子飾りを準備した。

ここに薩摩屋道七(山上宗二の息子、山上道七)が挨拶に来て、その台子を見ると
「何者がこんあ無知なことをしたのだ」
と散々に言って、直ぐに飾り直した。

この時道安は次の間に居て、道七の言っていることを聞き、他の歴々の人々も聞き、いかにも
可笑しかったのだが、道安はまるで聞こえていない様子でそのままにしていた。

この座に松倉豊後守(重政)が居られ、後で私(久保長闇堂)に話された。
その時は豊後守殿も道七の飾り方が尤もだと思われたそうだが、その仕方を知る人に密かに
尋ねた所、道七の仕方は古風で、利休、道安の仕方は当世風であったとの事で、彼は
「台子は道の秘伝であり、道安はそれを道七に知らせまいとしたのだ、たいへん用心深いことだ。」
といった。

その時は右構え(現在の逆勝手)だったという。

(長闇堂記)



50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/28(金) 23:02:09.85 ID:A8ks1j2U
くだらねぇ

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 12:59:59.99 ID:bqTSCWea
たしか古今著聞集で
ある貴族が儀式の際、言葉に詰まったような感じになって
皆が「おや儀式をしくじったのかな?」と思ったところ
儀式後、その貴族がひとり残っているところにある有職故実に詳しい貴族が駆け寄ってきて
「秘伝、誰にも漏らしてはなりませんよ」
と言ったとかいう話を思い出した

のするかごしまになふほうのつ

2019年06月18日 16:04

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 09:53:54.35 ID:pCLnKn9F
昔、近衛殿(近衛信尹)が、どう言う仔細があったのだろうか、秀吉公の御時に、薩摩の坊津へ
流され、その後配所を鹿児島に移された。その頃詠まれたものが

 大臣の 車にはあらであはれにも のするかごしまになふほうのつ
 (大臣の車(牛車)ではなく哀れにも、乗り駕籠に棒で担がれている(駕籠と”鹿児島”、棒と”坊津”を
  かけている))

(きのふはけふの物語)



176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 19:03:01.58 ID:fSX0hArW
>>174
近衛信尹といえば、娘の名前を「太郎」にしたとか面白い話があるけど、
ユネスコ世界記憶遺産にも登録された、近衛家に代々伝わっていた藤原道長自筆の「御堂関白記」についての本を読んでたら、
近衛信尹が薩摩に流された時に、何を思ったか自筆本の寛弘5年(1008年)のところの紙背(裏面の白紙)にだけ
先祖の近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』の抜書を書いてしまったようだ、とあった。
紙の節約のために紙背を利用するのは珍しくないとはいえ、600年近く伝わっていた家宝によくやるもんだ

よくよく見ればみかどなりけり

2019年06月12日 14:58

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 13:30:11.70 ID:ZQ+gJmmS
ある夜、豊臣秀吉公が夜食にそばがきをご所望なされ、御相伴衆にも下された。
その時ちょうど長岡玄旨(細川幽斎)が御登城され、秀吉公は早速彼にそばがきを据えさせた。
玄旨はその蓋を開けるとすかさず

『うすずみに つくりしまゆのそばかほを よくよく見ればみかどなりけり』
(薄墨で描いた眉のそばがほ(横顔)を、よくよく見てみるとみかど(帝と三角の蕎麦の実をかけている)であった)

と詠んだ
(きのふはけふの物語)



13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 17:45:52.66 ID:/fx/jYnt
まとめの6065
「秀吉がお伽衆に蕎麦掻きの料理を命じたところ」

に「戯言養気集」出典で既出