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慶長元年の災害

2020年07月29日 16:25

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/29(水) 13:33:05.82 ID:D/tYIpMV
慶長元年、春中雨細々と降り、五月中旬より六月二十六日まで露(梅雨)に入った。
この春は雪が節々と降り、四月四日にも雪が降った。

五月九日、尾濃で洪水。六月十九から二十三日、甲信関東で洪水。百年以来の大水と言われた。
知行の損亡は数を知れず、武州の内葛井(葛西)・浅草にて、人三、四百人が溺死した。
その他牛馬も数を知れず死んだ。この時節も、上方にはさほどの事はなかった。

六月二十七日から七月七日まで旱。翌八日よりまた降雨。六月十四、十五日頃彗星出る。
七月二十八日より閏七月二日まで旱。翌三日より九日まで降雨。この九日に俄に水が出て、
山崩れ人が死んだ。この水は所による。

閏七月十二日の夜、子の刻(午前0時頃)に、上方大地震。京中は三条より下、伏見まで家損人死、
上京は無事であった。
伏見御城中にて上臈七十三人、中居下女五百人が死んだ。一の門、三門の番衆は、門が崩れ悉く死んだ。
この時太閤(秀吉)は中の丸に御座在ったが、その身は無事であった。
諸大名の家々も倒れた、人が死ぬこと限りなかった。

大阪、堺も同前で、伏見城殿主石垣は一つも残らず崩れた。大仏殿は無事であったが、中の大仏は
破損した。愛宕山坊中も倒れ、所々より上がった真壺(ルソン壺)の過半も破損した。
この六,七月、閏の間、上方は降雨で。五穀豊かに実った、
この地震で、関東駿遠、何れも東では揺れなかった。

前の七月の浅間山の噴火のように、西の方に噴煙が流れ、これ故か、近江、京伏見ではその頃
灰が細々と降り、それ故か秋毛は少々凶作と云われた。信濃などではこの灰が一寸ばかり積もった。
関東には灰は降らなかったが、但しここでも同秋凶作と云われた。

当代記

慶長元年の災害について。



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庶民はこのため迷惑した

2020年07月27日 17:02

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/26(日) 22:10:46.53 ID:RRjL16Sp
慶長二年の春、京都四条に太閤秀吉は新構の普請を行ったが、地の利が狭かったため、また白川出口に
普請をやり直した。町人たちはそれぞれ家を壊され迷惑した。

この年に、畿内、京、伏見、大阪、堺では、諸買物の大小を別けず、その購入代金の五分の一を税として
召し上げた。庶民はこのため迷惑した。

当代記

豊臣政権の20%の消費税という奴ですね。



229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/26(日) 23:01:11.62 ID:QPPTvxSv
いまでも苦労しているのに、どう徴収したのかね
ただでさえ商人層への課税がずさん、なんというなら実態に伴わぬ上納の時代なのに

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/27(月) 11:42:25.14 ID:NP47T+CV
想像を絶するルーズさなのにな
焼き討ちでもして強奪したんだろうか

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/27(月) 14:04:06.65 ID:boxqkpvD
>この年に、畿内、京、伏見、大阪、堺では、諸買物の大小を別けず、その購入代金の五分の一を税として
召し上げた。
なんていっても、各町の代官が個別の商人の売り上げなんて把握してないだろうから、
各町の商人衆が、「あいつは大体これ位儲けてたから」といった感じで仲間内で税負担を割り当てて、
決まった時期に一括上納とかいった感じだったのかなぁ?

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/27(月) 20:07:16.03 ID:kxCvGttO
その為の座、株仲間、町会所やろ。

この頃京都の傾城達が召し上げられ

2020年07月26日 18:05

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/25(土) 22:19:35.08 ID:tr+RCr6r
文禄四年、この頃京都の傾城達が召し上げられ、そのうち五人が太閤秀吉に召し遣わされた。江戸内府公(家康)、
加賀大納言(前田利家)にも二人ほどが「召し遣われるように。」として遣わされた。
その他の人にも下された衆は多かった。

これら傾城の中に。歌舞、躍りが難渋な美女一人が有った。彼女にその仔細を尋ねた所、
「賤しからざる親類が多く、外聞を思ってのことである。」と言った。

これについて、彼女の兄弟に問うた所、「これ以前に二度まで身請けをして召し直したのだが、両度ながら
又再び傾城屋へ走り入ったため、是非に及ばぬ。」と言上した。

これによって、彼女は磔に掛けられた。(然は則はり付に被掛)

当代記



秀次事件

2020年07月24日 18:30

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/24(金) 01:02:10.41 ID:r3NYavW9
文禄四年、関白豊臣秀次にこの頃御謀反の企てが露見したとの事で、七月八日、関白秀次は
聚楽を退出し高野山へ上り、同十五日、腹を御切りになった。

秀次の若君二人(一、二歳の孩児であった)并びに近習、女房の三十余輩、洛中を引き廻され切り捨てられた。

誠は秀次の逆心は虚言であるのだが、行跡が穏便では無かった故に、治部少(石田三成)の讒言によって
かくの如く成ったのだという。

聚楽城、并びに諸侍の家門は伏見に引き移された。

当代記



秀吉との関係はいよいよ入魂となった

2020年07月22日 19:22

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 01:30:15.54 ID:bZEQKy47
天正十四年十月、徳川家康公が御上洛された。この時「もし上洛出来ないのであれば、秀吉の妹(朝日姫)を
返した上で、干戈に及ぶ。」と一途に宣わり、殊に秀吉公は御袋(大政所)を岡崎まで下向されたため、
疑心無く上洛され、秀吉との関係はいよいよ入魂となった。これによって、家康公北の方(朝日姫)は
浜松より岡崎にお出でになり、御袋と対面し、悦ばれた。秀吉公も家康公の上洛を快悦され、刀脇差、
並びに数寄道具(何れも値千金の物也)を進ぜられたと云う。
家康公が下向されると、大政所も帰洛された。

秀吉家康が入魂した事に、小田原の北条氏政父子は心底不快であったと云われる。

当代記



これによって柴田は敗北した。

2020年07月20日 18:31

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 14:19:10.63 ID:ZrmSldMr
天正十一年四月二十一日、近江北部において柴田勝家、羽柴秀吉の両陣が相向かい睨み合っていた。
柴田は賤ヶ岳を攻め落とし、籠もっていた人数を討ち果たし、この時に合戦を企てた所、柴田方であった
丹羽五郎左衛門(長秀)、前田又左衛門(利家)が秀吉に属し、柴田の備に手勢を出し、これによって
柴田は敗北した。

秀吉はこれを追い、越前へ討ち入り、柴田居城へ押し掛けた。敗北の士卒が未だ城に戻っていない間に、
柴田の城に火を懸け、同二十四日に柴田が切腹したため、越前は平均となった。

柴田の妻女は城を出ず焼死された。これは織田信長の妹で、浅井備前守(長政)の後室であった。
この腹に浅井の息女が二人(原文ママ)あった。彼女らは乳母の才覚によって無事に城から出られた。
大阪の秀頼の御袋(淀殿)、並びに江戸将軍の御台所(お江の方)がこれである。

当代記

前田利家だけじゃなくて、丹羽長秀も本来柴田方だったという受け取り方も有ったのか…。



209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 19:06:38.05 ID:AS+ANcNz
>>208
のちほど腹わたぶちまけた逸話があり、長重もひどい目に遭わされてるからなのかな
利家は優遇されてるけど

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 16:29:36.08 ID:vNuSlIAR
長重は酷い目にあったから大成したわけだしあれで良かったのさ。
じゃなかったら利常とのエピは発生してない。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 21:21:32.00 ID:pwPPcnwp
>>210
にしても、賤ヶ岳や小牧長久手にも出陣し、
しかも小牧長久手は長秀の代理での出陣だからその時点で半ば家督継いでいたようなものなのに、
長秀が亡くなって正式に相続した途端に難癖つけられて、123万石→15万石→4万石の大減封はありえん…。
織田信雄が100万石→0になったのよりも減っているって、凄まじい。

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/23(木) 00:27:07.78 ID:AxVMh1z5
>>212
柴田も丹羽も、秀吉には邪魔だったんだね
佐久間が追放されてなかったらどうなっていたか
関連で、羽柴姓の由来ももうちょっと、真面目に考察した方がいいと思う

本能寺の変後、顛末

2020年07月19日 17:50

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/19(日) 13:25:42.92 ID:my2u+8BH
徳川家康は堺において本能寺の変の事を聞くと、大和路へ懸かり、高田の城に寄って、城主に刀、並びに
金二千両を下し、その日に出立して、六月四日、三河国大浜に船にて下着され、明智を討つための軍勢を
催し、先ず鳴海まで出陣した。

この頃、羽柴秀吉は美作国高倉(実際には備中国高松)に於いて、森輝元(原文ママ。毛利輝元)と対陣
していた所、信長が没したと告げられ、先ず隠密に森と一和し、摂州表に打ち出て、山崎宝寺上の高山へ
人数を上げた所、明智がかの表に押し出し、六月十三日に合戦した。
明智は敗北し、坂本城に引き上げようと考えていたのか、山科まで逃げ来た所を、百姓等に打ち殺された。
歳六十七であった。

この時、安土に置かれていた明智左馬介はこの事を聞くと、坂本に駆けつけ、明智光秀の男児である十五郎と
一所に火を懸け切腹した。

斎藤内蔵助(利三)は虜となり、京都へ引かれ大路を引き回され六条河原にて斬首された。首は獄門に掛けられた。
この内蔵助は信長勘当の者であったのを、近年明智が隠して抱え置いていたのだという。

家康公は鳴海に居陣していた所、秀吉よりこの様体が委細注進されたため、則ち帰馬され、六月二十八日、
甲州に出馬された。

当代記



賤ヶ岳の戦について

2020年07月05日 17:33

170 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/07/05(日) 07:29:24.35 ID:LTS/0CcL
賤ヶ岳の戦いの真実
・秀吉の軍勢が前日近江にいなかったとはいえ大身の支持者だった中川清秀の軍勢を見殺し。
・美濃では秀吉軍の総攻撃が中止されたため岐阜の織田信孝とその軍勢が健在。
・奇襲部隊に損害を与えないと美濃―近江間の主力行軍が徒労になってしまう。
・逆襲を受けて羽柴軍の方に損害が出た。
・奇襲部隊が先に高所を押さえて布陣し待ち構えている。
この秀吉軍の苦境を覆して勝利をもたらしたのが「後方部隊の逃走」であり、それは秀吉が追撃を諦めず奇襲部隊に食い下がった結果として生じた状況が可能にした一手だった。
賤ヶ岳の戦いは後世言われるような「全てが秀吉の計画通り」の戦いではなく、「智謀の秀吉(時代の先駆者)が武勇の柴田や脳筋の佐久間盛政(時代遅れの武将たち)に優った」「羽柴兄弟の巧妙な罠に愚かな柴田軍が嵌った」というわけではなかった。
秀吉は自ら織田信孝の封じ込めに向かい、美濃大返しの後に山岳地の追撃戦から休まず柴田殿軍の殲滅戦、さらに越前侵攻と織田信長譲りの苛烈な采配で自軍と自身の体を酷使した。
秀吉は鬼玄蕃や鬼柴田を上回る猛将振りを発揮して勝利を捥ぎ取ったのである。
対して佐久間盛政たち奇襲部隊は「慢心した猪武者たちが神速の秀吉軍にしてやられた」どころか困難な撤退戦でも秀吉軍の追撃を跳ね返し決戦の構えまで見せるなどよく団結していた上に事前の準備も入念に行っていたことを窺わせる善戦振りだった。

秀吉軍が帰還
→しばらく時間が経ってから奇襲部隊が撤退を開始→秀吉軍が追撃を開始
→奇襲部隊が善戦→奇襲部隊が柴田勝政勢を救援、奇襲部隊が布陣
→羽柴軍との決戦が始まる時に柴田軍の味方が逃走し動揺が広がる
→秀吉軍の攻撃を受けて奇襲部隊が敗走

戦いの決着は翌日の夜明けから更に数時間経って付いた。秀吉帰還から勝敗が決するまでの長い時間こそ奇襲部隊が大活躍した時間だった。



171 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/07/05(日) 09:39:31.17 ID:j7MvBvjw
経緯が省略されたことに伴って当然のこととして時間の経過についても記述が省かれるようになったから秀吉の計画通りに何事も上手くいったのごとくな印象を植え付けられたのでしょうね

172 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/07/05(日) 10:15:35.43 ID:LTS/0CcL
>>171
歴史は勝者が創造する言うけど...たまには敗者側から観てどれだけ敗者側が頑張ったかを知ることが本当の意味で史実を知ることになるのかもね

申す旨に任せ、朱印を遣わす

2020年07月03日 18:12

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 22:01:31.81 ID:IgtsYTjv
天正五年十月二十三日、羽柴筑前守(秀吉)は播州に入ると、「この次に中国で一州を望む」という事を
言上した。これを信長に、右筆の楠長庵が披露した所、これを聞いた信長は不快な様子であった。
しかし暫く思案し、「申す旨に任せ、朱印を遣わす」と言った。
ところがどうしたわけか、楠長庵はこの朱印を作成しなかった。

その後、筑前守は但馬国へ相働き、敵城を数多攻め落としたことが注進されると、信長は御感甚だであった。
この時に成って長庵は、中国の内一州の拝領を許可した朱印状を作成し秀吉に遣わした。
これについて信長は、非常に心地よい様子であった。

『当代記』



343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 01:27:08.17 ID:wNBo2v6N
>>341
見事なまでのブラック企業

柴田勝家の最期

2020年06月20日 17:47

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/20(土) 11:05:28.43 ID:LeVTVuZE
賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は、北庄の城に馳帰り、籠城の手配をした。
その明日、羽柴秀吉はその城を十重二十重に取り囲み、先ず愛宕山へ登り城中を見渡すと、
種々の紋が描かれた旗、馬印が夥しく押し立てられ、静々と控えていた。
秀吉はこれを見て感歎し

「城中を察するに、柳ヶ瀬の出陣に従わなかった老人、又は女童の、物の役にも立たざる者共に、
敗れ帰りし者共相加わったのであろう。それを巍々しく城を飾りし形勢、流石に武勇を天下に
顕せる柴田程ありけるよ。」

と繰り返してこれを称賛した。
勝家は死に臨み、気象少しも平常に違うこと無く、夫々に功ある者を賞し、やがて腹掻っ切って死した。

名将言行録



【ニュース】「秀吉側近の武将 駒井重勝の日記 自筆原本見つかる」

2020年06月15日 17:51

283 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/06/15(月) 12:21:29.23 ID:jYTjR/rA
ニュース「秀吉側近の武将 駒井重勝の日記 自筆原本見つかる」
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200615/k10012470411000.html

なんでこんなものがネットオークションで出てくるのだろう



285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/16(火) 09:09:38.93 ID:eWSfcWcK
>>283
今ちょうどバブル期の収集家が亡くなる時期が来てて
なにも分からない遺族が、適当に鑑定眼のない木っ端業者に処分を依頼する事が増えた
そういう業者は価値も分からず、ちゃんとしたオークションに出品するツテも持ってないので
こうやって日銭を稼ぐためにネットに流す

上様より拝領申したるぞ、汝らも有り難く存じ頂戴せよ

2020年06月12日 17:45

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/11(木) 19:54:17.42 ID:VjWg7rQ8
豊臣秀吉がある時舟遊びに出た時、伊達政宗にも供すべきとの事であったが、遅参して船の出た後に
やって来た、このために、馬を引き寄せ打ち乗って、ただ一騎で船を見ながら住吉の方へ乗り行った。

秀吉はこれを見て「あれは大方政宗であろう」と言われた。船は住吉にも着けられず、また漕ぎ戻された
ために、政宗もまた乗り返し、着船される所に参ると、秀吉は

「只今の馬は政宗であったか。武者振り見事なり。定めて草臥れたであろう」
と言って、饅頭の入った折を賜った。

政宗は頂戴して折を傾け、自分の着物の前を広げその中に移し、入れ包んで立ち退き、自分の
家臣を呼び寄せて「上様より拝領申したるぞ、汝らも有り難く存じ頂戴せよ。」と言って
残らず与えた。家臣たちは何れもその厚志に感じ入った。

名将言行録

こちらは長曾我部元親の逸話が政宗のものに変換されてますね



曲者めが、また先へ廻った

2020年06月09日 18:35

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 21:46:33.67 ID:WutUdWiN
豊臣秀吉は大きな猿を飼い、諸大名が登城する時、通る側につなぎ置いた。この猿が歯を剥き飛びかかる時。
諸人が狼狽する体を、秀吉は覗き見ていた。

伊達政宗はこの事を聞き、病と称して登城せず、秀吉の猿の猿引を百方手をつくして捜し、密かに猿を借り
玄関に繋ぎ置いた。猿は政宗を見ると歯を剥いて飛びかかろうとするが、政宗は鞭でしたたかに打ち竦めた。
このように度々した所、かの猿は最後には政宗を見ただけで?息した。こう仕込んだ上で猿を返した。

その後、政宗が登城した所、秀吉はこの事を知らず、政宗の様子はいかがかと覗き見た所、政宗が玄関を
上がる時、猿は飛びかかろうとしたが、政宗がはったとにらみつけると、かの猿萎縮して退いた。
秀吉はこれを見て「曲者めが、また先へ廻った」と笑われたという。

名将言行録

猿の話は太田道灌のものが有名ですが、政宗のものもあるのですね。



122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 21:59:33.69 ID:iRM7GFQX
大友宗麟もだっけ、こういう話あるの
痘痕持ちの女性を正室にした話と一緒で登場人物だけ入れ替えてお話一緒シリーズって感じね

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 22:47:21.19 ID:iflZPDLi
>>121
今は政宗のが一番有名だろう

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/09(火) 05:39:56.38 ID:jQPrYPKQ
こういうドッキリって真似したくなるよね

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/09(火) 11:45:37.40 ID:StWSoDZL
>>122
明智光秀は疱瘡女か

四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか

2020年06月06日 17:03

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/05(金) 23:51:00.79 ID:wt4PFcb/
文禄4年、関白秀次に謀反の聞こえあった時、伊達政宗もこれに与しているとの説があった。
豊臣秀吉は怒り、政宗の領地を伊予に移すとした。

政宗は伊達上野、他一名を以て徳川家康の元に遣わし、「このように仰せ付けられ、伊達家の浮沈は
この時に極まりました。もはや家康公の賢慮を仰ぎ奉るより他ありません」と訴えた。

家康はこれを聞いて、両使に茶飯などを与えた。暫くして彼等は「政宗はさぞ待ち遠しく思っているでしょう。
早く帰り、ご返事を申し聞かせたいのです。」と申し上げると、家康は大声で言った

「各々が主の越前(政宗)という男は、当たりは強いように見えるが腰の抜けた男であり、後ろの弱きゆえに
そのように狼狽え付くのだ。四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか、よく分別
あるべしと言え!」
そして重ねて、秀吉より催促の有る時の返事のやり方を、細々と教え、両使は罷り出た。

間もなく、家康は秀吉の所に至った。また秀吉より政宗に使いがあり、
「昨日の要請についてどうなっているのか、早々に予州へ下るべし」と伝えに来た。

この使いが政宗の宿所に来てみると、門前には弓鉄砲、長刀を帯びた者達がひしと居並んで、今にも
打ち出しそうな有様であった。御使有ると聞いて、政宗は無刀にて出迎え、座に招いて御使の旨を聞くと、
涙をはらはらと流して申した

「上様の御威勢ほど、世に有難き事はありません。人間の不幸の中に、上の御勘気を蒙るほどの不幸は
無いと、今日こそ思い知っております。私に於いては、たとえ今回の事で御不審を蒙り首を刎ねられても
異議は申しません。況や国郡を下し賜って所を変えるとの事に、何の不満があるでしょうか。

されども我が譜代の家僕たちは、何れも訴えてくるのです。『どうして数十代の御領を離れて他国に流浪する事が
有るべきか、速やかにここにて腹を斬られ、我々も一人も生きて所を去り渡すような所存はありません』と
言い切って、ひたすらに自害を勧めるのです。私は色々と義を尽して申し聞かせましたが、家臣たちは一向に
同心せず、あなた方もご覧の通りの、狼藉の至りの有様です。

つまり、偏に現在私が御勘当の身に罷り成っている故に、数十代の家人さえ我が下知を用いず、恣にしており、
是非に及びません。」
このように述べ、使いは帰ってこの旨を報告すると、秀吉の傍に在った家康も申し上げた

「いかにも左様に、私も承っております。政宗一人の事であれば、上意を違背し旧領を去り渡し奉らざるに
於いては、私に仰せ付けられれば、即座にかの旅宿へ押し寄せ踏み潰すことに、何ほどの事があるでしょうか。
しかし、今度こちらに供を仕った、政宗の千に足らざる小勢にてさえ、家臣共が左様に思い切っているのであれば、
旧領に残り留まっている郎従達は、国を退くとは何としても言わないでしょう。
政宗の郎従等を追い払うべき賢慮がお有りでしたら、政宗については、どうぞ私にお申し付けになって下さい。
ではありますが、累代の所領を没収することで、彼の郎従たちが愁訴する事も、不憫に思います。
ですので、枉げて今回は、ご赦免も有るべきではないかと。」

このように申し上げると、秀吉は「兎にも角にも家康の計らわれることに若くはあるまじ」として、
国替えのこと沙汰無くなりその事止み、その後勘当も免されたという。

名将言行録



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 00:10:30.36 ID:QjiO30i5
まるで道化だな

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 00:28:15.16 ID:orWYLZXD
>>260
伊達上野って留守政景か
後半の訳が力尽きてることも併せて
スレを盛り上げようとする意気は素晴らしいけど
無理に全文貼る事もないと思うよ

あちらこちらで辻斬り、追い剥ぎなどが夜ごとに起こり

2020年04月26日 13:47

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/26(日) 01:05:56.50 ID:KAUisGYn
或いは問う、豊臣秀吉公の時代は、都に三奉行が有り、法を犯す輩に対し、或いは磔、或いは釜煎りなどの
重罰をしていたが、あちらこちらで辻斬り、追い剥ぎなどが夜ごとに起こり、止む事がなかった。

一方でこの頃では、禁制の数もさほどに無いのに、洛中洛外共に、夜であっても行き交う人は多いが、
互いに道を譲り合うため、喧嘩口論という沙汰もなく、辻斬り、火付けなどとののしる声も自然と絶えた。
ただ残念なのは、武士の気味のみ昔に立ち帰らず、諸士は心を僅かな利に労し、まるで商売人に似ている事である。

甫庵太閤記

甫庵太閤記の初版は初版は寛永3年(1626)という事で、同時代人の小瀬甫庵からみても、
秀吉の時代とその頃の京の治安は、このくらい違っていたと感じられていたみたいですね。



115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/26(日) 01:23:39.22 ID:SSFFTnBi
なんか昔は乱暴だけど活気があってよかったっていうおっちゃんそのまんまな感じの記述っすね

清州会議後の情勢と丹羽長秀

2020年04月11日 14:48

969 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 01:21:52.15 ID:CIFVpg9h
秀吉卿は天正十年十月十五日、信長公の御葬儀を相勤め、以来城南の宝寺を城郭と成し(山城国山崎城)、
梁于を畿内に棟、万民を撫育し、城介信忠卿の御若君が信長公の嫡孫であったので、江州安土山へ据えられた。
北畠中将信雄卿を、若君が15歳に成らせ給う迄の御名代と成し、諸事御計らいあったが、これも安土山に
置き奉り尊崇した。頗る君臣親愛の様子が巍然としており、まさに忠臣と言うべき姿であった。

秀吉卿は真に小柄な人物であったが(秀吉卿ハ真小輩之人なるか)、数ヵ国を領するのみ成らず
若君を守り立てるというのも名のみであり、実際には天下の政務はこの人に有った。そのため
故将軍(信長)の如く、威は月を追って加わり、禄は年を追って増した。これ偏に離倫の才知、絶類の武勇に
よってのものである。

然るを、小智小見なる傍輩はこれを妬み、これを悪む事甚だ以て浅からず、とりわけ深く妬み思うは、
修理亮(柴田)勝家に極まっていた。京童のうち、秀吉卿に頼り幸いいみじき者を。柴田方の町人は
羨みつつ、越前に至って秀吉卿の威勢の程を語るため、妬心は日々に生じ怨みは月々に増した。
これ誠に、古今不易の同情である。

これによって、柴田勝家は瀧川左近将監一益と与し、縁者でも有ったので、相談して言いけるは
「秀吉は、今若君を安土に置き奉り、おのれは後見として天下の裁判自由に至り、是非に及ばずとは
この事どもである。彼は、贔屓のものにはその沙汰快しとし、頼る者には粗略がないという。
今、小さな葉の内に切り取らねば、後日斧を用いることに成るだろう(「両葉不去、将用斧柯」の故事)。」
こうして織田三七信孝にありましを申し上げ、秀吉を押し下さんと謀った。

かくて丹羽五郎左衛門尉長秀を「この赴きに与してほしいと御頼みされるべきだ。」と瀧川より指図があり、
信孝より三宅中記が派遣され、長秀へ委細に仰せに成ると、
「秀吉が後見であることを嫌い、他の誰かにその沙汰が及んだとしても、若君幼稚の間は悪口両説を
絶えて申すまじき事、よくよく思召しに成るべきです。」
とだけ申し、しっかりと「与する」という返事はなかった。

長秀はこのように考えていた
「天下の裁判は、中々勇猛に達しているだけでは、古今成らざる例、和漢甚だ以て多い。
武勇を以てすれば、柴田形には十に八、九目出度い事こそ多い。何故かと言えば、第一に柴田は信長公の
老臣において武勇の長であり、殊に北国には前田左衛門尉、佐々内蔵助、不破彦三、原彦次郎などという
歴々の勇者多く有し、その上勝家甥である佐久間玄蕃允、舎弟久右衛門尉、同三左衛門尉、同源六郎、
何れも確かなる者にて、まして武備あり。これ偏に柴田に対し肩を比べるべき人無き事瞭然である。

一方で、天下の器にあたる地位は、能き人を知りてそれを用いる実があり、度量大やうにのび、才知盡くし、
武勇に達しながらも武を以て事とせず、賞罰両輪の如く用いると雖も、賞を強く、罰を弱く施し、何事も
理の正に当たり、せわせわしくしない。法度の立てるべき本は、己を正しくして他を悪む事も大やうに、
広く衆を愛し、民を撫育し、財貨を愛さず、専ら威の柄をよく養う、という類にある。

970 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 01:22:14.21 ID:CIFVpg9h
私は久しく信孝、勝家、一益の行いを窺ってきたが、彼らは武勇を以て事とし、その他は勝れない。
これは鳥とすれば、羽翼が片方だけあるようなものだ。それでどうして自由を得られるだろうか。

秀吉卿は勝家より勇功は少ないが、江北浅井父子を敵として小谷の城に向かって対陣し、終に大利を得、
その後播州の強敵の中に在国し、これも程なく一国平均に治めた。これは一国から六国を滅ぼした秦の威に
似ている。殊に勇猛も且つ備わり、才知は古今に独歩している程に見える。であれば秀吉が天下を席巻
すること、掌握に覚える。
また、勝家が大利を得ても、若君をないがしろにしてしまうだろう。周公旦のような事は、昔でさえ
稀であったのに。今の日本でどうしてありえるだろうか。ならば何れであってもはかばかしき事は無い。
同じであればどうすべきか。」

そのように、家臣である由戸田半右衛門尉、高木佐吉、坂井与右衛門尉などに対し悲嘆した。

「大方は、秀吉こそ天下の器に当たるだろう。惜しいかな、華麗に身を飾り、自己の栄華こそ天下国家を
知っての本意であると思っている。また翫物喪志(無用なものを過度に愛玩して、本来の志を見失ってしまうの意)
の癖もある。しかしこういった癖病を除けば、賢君と言うべき人物だ。何にしても彼こそ天下の器に近い。
天下の器に当たる才は、天のなせる所である。天が作るものを、人の道としてどうして妨げられるだろうか。
思いもよらぬところだ。

信長公には御連枝歴々多く、大臣数多侍っていたが、明智を討つ時は、池田高山に在し、さりながら秀吉着陣を
待ち得てこそ合戦を始めた。であれば、則ち主君の怨敵を滅ぼしたのは実際には秀吉卿である。
その上故将軍(信長)御葬送を、莫大な費えも厭わず勤めたのもこの人である。あれといいこれと言い、忠義
甚だ多い。天が忠義を感じられること当然であり、秀吉は何れも天の心に合う所が多く見える。どうして天心に
背けようか。私は天理に従おうと、深く思う。」

そう密かに老臣たちに評した所、各々承り「御遠慮、御尤も宜しきと存じ奉ります。これ当家繁栄すべき
金言であります。」と限りなく喜んだ。

賤嶽合戰記

清州会議後の情勢と丹羽長秀について。



971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 09:24:41.45 ID:993hYZ3y
長秀さんが勝家に与したら情勢変わっただろうか
でも他の人も似たような考えだったのかもしれんし無理かな?

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 11:13:28.03 ID:V/uRSZPV
真冬に滝川を落とした秀吉が有利すぎた

この両大将の御軍法は

2020年04月03日 17:52

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/02(木) 23:06:06.70 ID:pq0QyS8J
信長様の御軍法は、御敵を仕りたる者は、子々孫々までも御果たし、その跡をも返す程に厳しくいたして、天下を
治められた。
内裏の御修理などを仰せ付けられ、王法の衰えたるをも御取り立てた後、仔細有って上京の騒ぎを払うためとして、
京の地子(固定資産税)を御免に成り、万事に賞罰正しく仰せ付けられた故に、万民に至るまで仰ぎ奉らず、という
事がなかった。

さりながら、一度御敵仕った者には、御詫言申し上げて御旗下に成ったとしても、御心を許されず御憎み浅からず、
それ故に謀反人が多く出たのである。そういった時は、強いばかりでは成らざる事なのだ。

このような点について、太閤様(秀吉)はよくご覧になっており、御敵を仕る者には厳しく仰せ付け、また詫言申し上げ
御旗下に成ったならば、御譜代同然に、御懇ろに成り、過去のことに御心を置かれないように成られた。
故に昨日まで御敵を仕った者であっても、身命を捨て忠節を致すべきと考えるように成るのだ。
故に謀反人も無く、早く天下を御治められた。

この両大将の御軍法は、このように裏腹に違っている。この心持ちは小身の召使いの者であっても、心得有るべきだ。

細川幽齋覺書



869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 00:02:20.84 ID:zBA7abq5
息子は妻を見たというだけで下人を斬っちゃうのにな
信長より怖いやん

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 00:07:19.30 ID:FSVCIVoW
べた褒めされてる太閤様だけど家臣になった人間に対して優しいかというと

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 00:29:08.54 ID:Bm35P5Cg
>>868
お前義昭から信長に乗り換えといて何言ってんのって感じ

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 07:45:29.96 ID:cYYaqcw6
>>868
>御旗下に成ったならば、御譜代同然に、
この結果徳川に天下取られるんだから皮肉というか面白いもんだ

でも秀吉が俺は信長ほど甘くないぞって言ってたこともあるし
信長も結構優しいよなぁ、松永とか何度も許してるし

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 08:07:02.83 ID:bLU5IFlR
太閤様は推し量り難い越えちゃいけない線があってそこを越えると誰だろうがキルするイメージ

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 08:39:05.04 ID:hcIxRMmR
お爺ちゃんは家康の結果を知らんからな

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 11:29:37.76 ID:FSVCIVoW
今の研究的には天下取られるというか、奉行が横車押しまくったせいで任されてた徳川が天下取らんと治まらんほど豊臣家がぼろぼろになっていったって感じみたいだし
譜代同然に扱う事自体は悪くはなかったんじゃね、むしろ1代しかなくて家に忠誠のない元からの家臣連中こそ箍外れると何しでかすかわからん的な

黄金百枚の儀

2020年03月25日 18:11

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:24:30.66 ID:K2dn1Ud1
細川忠興様は豊臣秀次公より別して御懇にされており、どうしたわけか、黄金百枚を拝領していた。
その上秀次の家老である前野但馬守(長康)殿の子息・出雲守(景定)は忠興様の聟であり、
秀次事件が起こると、御縁者故「秀次の一味である」と治部少(石田三成)の申立があり、これに
是非無く思し召され、聚楽の屋敷へは米田助右衛門(是政)殿が遣わされ、伏見での状況次第では、
御上様(正妻)、御子様たちを仕舞(生害)させ、御屋敷へ火を掛け、助右衛門殿は切腹するようにと、
忠興様は命ぜられた。

伏見に於いて、黄金百枚の儀は、「薬院法印(施薬院全宗)の肝煎りで秀吉公(秀次の間違いか)より借用した
ものであって、拝領ではない。」との弁明を、米田助右衛門、徳善院(前田玄以)より、太閤様へ申し上げた所、
太閤様はこのように仰せになった

「先年、明智謀反の時、信長公への御恩を存じ出、明智に一味しなかった。
たとえ今度、秀次と一味したとしても、その時の忠節により赦免しよう。」

この旨を徳善院が仰せ渡すと、忠興様は御安堵なされ、この時も助右衛門殿の一命をとした御奉公であったと、
忠興様より度々そのお話を承った。

細川忠興軍功記



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:29:19.10 ID:5/kImDAj
>>787
しれっと治部と太閤を貶める悪い話。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:36:18.45 ID:airvD0sC
金借りただけなんですもらってないんです、って言い訳になるんだろうか

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:39:25.29 ID:/mRIgf+N
佐吉があえなく負けた理由がよく分かるな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 21:37:06.12 ID:NfHJ2VF6
この話へうげものにあったね

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 22:54:05.24 ID:aUbdaYvf
>>789
猪瀬直樹、徳洲会の5000万円事件思い出した

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 13:15:13.15 ID:jvpr6x/q
口先で借りただけだから許せやって話じゃなく
だから御公儀にお返しするので許してください
って話なので

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 19:33:11.35 ID:5lQO7ZEJ
>>794
なるほどそういう文脈なのか
これは勉強になりました

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 20:29:48.46 ID:MxcE7X8S
石田さんほんとにどういう人だったんだろな
全員にこんな感じでちょこちょこ当たってたんだろうか

天正十二年、美濃賀々城攻め

2020年03月09日 18:28

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/09(月) 18:02:57.78 ID:oiSUTUIE
小牧長久手合戦の時のこと。
尾張国竹ヶ鼻城では不破権内(綱村)の子息である源六郎が立て籠もり、織田信雄に合力していた。
そこで羽柴筑前守秀吉はじめ、その他の大名はこの城に押し寄せ攻め寄せ、水攻めに然るべしとして
大河小河を切かけ攻め破った。それより直に美濃国賀々城へ押し寄せ攻められた。

これに城中の兵たちは
「寄せ手の軍勢に比べれば、自分たちは大海の一滴、九牛の一毛である」と、叶うとも見えなかった。

城主の賀々井駿河守は謀りを廻らし、五月六日の夜、寄せ手の陣へ夜討ちをかけようと、伊勢国住人である
嶺、久須、千草、上木の四人を大将として、子の刻(深夜0時ころ)に追手の門より打ち出た。

実はこの内の千草は、蒲生飛騨守氏郷の母方の叔父であり、宵の頃より飛騨守に対して知らせが有ったという。
されば蒲生氏郷は「氏郷でなければ手に合わない」と、真一番に掛け合って戦われた。それに続いて
上坂左文、小坂といった侍たちが左右に従った。
その他、寄せ手の軍兵我も我もと追手の陣へ向かった。

五月の暗闇は大変暗く、敵も味方も見分けることが出来なかった。敵が二人落ちて来たのを、氏郷が
「何者か!?」と声をかけると、彼らは偽って「浅野弥兵衛家臣、生駒弥五左衛門!」と名乗った。
しかしこれを聞くと「そんなわけがない」と二人共に打ち留めた、

ここに城方の嶺孫三郎は、生年十八歳、容貌美麗、また人に優れて心優しい人物であったで、天下の男女恋焦がれて
小唄などを作って謡うほどであったが、彼も真っ先に駆けて戦ったところ、味方の兵たちと共に中に取り囲まれて
生け捕りと成り、片陰にて頸を斬った。

次に久須は生年十六歳、これも無双の若衆であったが、同じく氏郷勢に生け捕られ頸を斬られた。

千草は当時六十歳ばかりの人物であったが、これも氏郷勢に生け捕られ頸を斬られた。

上木は歳三十ばかりと見えたが、これも討ち死にした。

こうして城方は敗北し、落ちてくる敵はその数を知れぬ程であった。
また関勝蔵の家子・佃又右衛門は追手の門際まで攻め寄せ、比類ない働きをして良き頸を取ってきた。
或いは、敵が「蒲生の者である」と名乗って氏郷の前に来たのを討ち留めたのも多かった。

敵は蜘蛛の子を散らすように落ちていくのを、氏郷主従三人はその真ん前にて突き倒し、斬り伏せ、頸を獲った。
その他、寄せ手も大勢が頸を取ること、その数が知れぬほどであった。

暫く戦っているうちに夜も白々と明けると、氏郷は左文、小阪を召して、自分の鑓を突き出し「これを見よ」と
言った。その鑓はササラのように成っていた。氏郷の鑓下の頸が曲がって、鑓の柄に血が朱に流れていた。
左文、小坂の鑓も見た所、ササラのように成っていた。
その時氏郷は
「今夜の合戦は、この三人のみが骨を折ったのだ。」と申された。
寄手の方が討ち取った頸数、都合四百余の内、氏郷の手にて百余を取ったと云う。

寄手の軍兵が我も我もと追手へ寄せ戦う間に、城の大将である林与五郎賀々井駿河守は密かに搦手より出て、
遂に尾張国へ落ち行った。

氏鄕記

蒲生氏郷等による、美濃賀々城めについての記事である。


真田が尤もである。家康の誤りである

2020年02月26日 17:03

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 03:13:31.93 ID:ZNrPeW1P
羽柴秀吉公が天下一統に治められた時、真田(昌幸)は秀吉に従った。これに対し徳川家康公は、
彼が後の禍を成すべき者と思われたのか、秀吉公にこのように仰せられた
「真田が息を本多中務(忠勝)の聟にしたいのです。」
秀吉公は「尤も然るべし」と仰せに成り、これによって家康公は真田方へ使節を以て
「その方の御息を本多中務の聟にしたい」
と仰せ遣わされた。ところが真田は使節に向かい
「そんな使いであるはずがない!使いの聞き誤りであろう。急ぎ帰ってこの旨を申されよ!」
と伝えた。これに対し使節はいよいよ「伝える内容はこの通りです。」と云ったのだが、
「いやそうではない」と受け付けようとせず、仕方なく使節は帰り、この事を報告した。

家康公は合点に及ばなかったので、これを秀吉公に御物語された。すると秀吉公の仰せには
「それは真田が尤もである。家康の誤りである。『中務が娘を養い置いているので(養女にしているので)、
某の聟に』とあらば承知するであろう。」と仰せになった。家康公も「御尤である。」として、この趣にて
再び仰せ遣わされた所、真田安房守も同心して、子息伊豆守信幸との祝言があった。
この時伊豆守は十八歳であった。

眞田記

実際には真田信之小松姫の婚姻は、信幸二十三歳頃(天正十七年)だったようですね。



689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 09:23:02.04 ID:2mY1Il8v
真田系の作品には必ずと行っていいほど出てくる有名なエピソードやね。

大名の嫡男の正室が他家の陪臣の娘ってなんじゃそりゃというのは、そのとおりだし。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/26(水) 15:23:12.51 ID:sue4eaxm
東国無双の娘なのにな