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「続武家閑談」から宮田光次

2023年03月13日 19:20

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:05:49.62 ID:nGsppXvO
「続武家閑談」から宮田光次
神子田半右衛門(神子田正治)、宮田喜八郎(宮田光次)、戸田三郎四郎(戸田勝隆)、尾藤甚右衛門(尾藤知宣)は秀吉草創の時に軍功が大きかったため、都鄙に名が知られていた。
(このあと神子田正治の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13315.html )
こうして秀吉公自ら神子田の晒し首の前の札に
「神子田半右衛門は敵前逃亡をした臆病者なので悪口を書く」と書きつけられた。

宮田についてだが、中国退治の間に戦功が甚だ多かった。
ある時、論功行賞の場でそれぞれの将に入れ札をさせたところ、宮田喜八郎に「逃げ札」が多く入った。
秀吉公は「信長公の御時、林新三郎に逃げ札が七枚入ったため、信長公は御自分でその札を新三郎にくだされ、
信長「臆病者でもその方ほどとはな。
その方でこのようであれば、入れ札など役に立たぬな」
と笑いなされたという。
その方に札が入ったのも同じことだろう。」
と喜八郎に札を下されたそうだ。
秀吉公いまだ天下を統一する前に、宮田は三木城攻めで戦死したという。
戸田三郎四郎、のちに武蔵は関ヶ原で討ち死にした。(実際は朝鮮出兵から帰る時に病死)



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:50:58.98 ID:u4UaIy7F
イイハナシナノカナー

707 名前:705[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 18:31:48.51 ID:6PqIzfiZ
おそらく同じ文章を訳したのだろうけど、ウィキペディアの解釈と自分の解釈がかなり異なっていたので、原文を併記しておく。

ウィキペディア
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/宮田光次
中国退治遠征のとき、宮田喜八郎は戦功が著しかったが、
ある日、将士の戦功を詮議した際に秀吉が喜八郎に多くの入札をして評したところ、喜八郎はその場を逃げ出したが、(皆からの)札が多く入った。
秀吉がいうには、
信長公の家臣にも林新三郎というものが同じようにその場を逃れたが(不在でも戦功ありとする)札が7枚入ったので、信長公は自ら新三郎を称賛されて、
臆病者どもはその身の言い訳のために戦功詮議に出席するがお前のような殊勲者はその場を遁れてさえても7枚も入札されるのだから入札するまでもないといって笑った、
ということがあった。秀吉は喜八郎もその気持だろうといって、札を与えて賞したという[3]。

原文
中国退治の間、戦功甚だ多かりき。
或時、戦功詮議に入札多く致させ給ふ処に宮田喜八郎逃れたりと札多く入ぬ。
秀吉公いわく
「信長の御とき林新三郎事を逃札七枚入たりしを、信長御手つから其札ともを新三郎に下され
「臆病者でも其身のみわけに斯のことし、其方にさへか様なれは入札用に立ぬ事なり」と笑ひ給ふ。
其方入札も此心なり」とて喜八に賜りける。

708 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/13(月) 08:56:51.11 ID:I+/rUjav
>>705
入れ札で論功を判断していたのか。
勉強になったわ。

709 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/13(月) 09:01:24.77 ID:I+/rUjav
>>705
こちらの訳の方が自然に見えるね。

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/13(月) 11:55:09.74 ID:Lm1LxlrS
各々が自分の戦功を主張して場が乱れるから、各々に格付けしてもらって総計を取った感じか
でもなんで逃げ出す必要があるんだ?
他人の評価なんかしたくねえ!俺がイチバン!ていう奴だったのか

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/13(月) 15:05:26.52 ID:eeE8J6i+
単に照れ屋さんな気が
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「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

2023年03月06日 19:44

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/06(月) 12:43:20.98 ID:Y3zjxpvb
武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

天正十八年(1590年)三月二十八日、太閤秀吉公が三枚橋に御着陣されたため、先手の諸大将が浮島が原までまかり出た。
織田信雄公、権現様も同じく御辺に出られた。
秀吉公は金小札糸緋威の鎧、唐冠の兜、金の大熨斗付きの太刀二振を帯し、金の土俵空穂の上に征矢一筋を付け、作りひげをつけなさっていた。
仙石権兵衛が進上した朱滋の弓をお持ちになり、金の瓔珞の馬鎧をかけた七寸の馬に乗られていた。
供の面々は異類異形の出立ちで、千利休は金の茶筅のついた七節のえつるを指物とし、極の口(樋口?)石見は鼓の筒の指物、狂言師の番内は三番三(三番叟)の装束で、その他さまざまな出立ちであった。
権現様、信雄公はお進みなさり、ことに信雄公は秀吉公の主筋であるため乗り打ちはどうしようかと思しめした。
その上、両大将とも小田原との内通の雑説もあるため、礼儀とはいえ御両将の前で秀吉公は馬からひらりとお降りになり、太刀を御手にかけ
「信雄、家康逆心と承る。立ち上がられよ、一太刀参るぞ」とおっしゃった。
信雄公は赤面して言葉が言えなかった。
権現様は諸人に向かい
「御陣初めに太刀に御手をかけられるとはめでたいことです。何もかもめでたい」
と高らかにおっしゃると、秀吉公は何も言わずに御馬に乗り、お通りになった。
諸軍は権現様の御智勇に感心した。



702 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/10(金) 13:19:38.82 ID:AqPhcBaW
>>699
こういう掛け合いができるから、秀吉も家康を信頼したんだろうな。

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 15:19:04.75 ID:w0q880jL
馬鹿だなあ 無能だったら潰しやすいのに
有能ゆえに扱いに困るんだわ

「続武家閑談」より「秀吉公 家康公の旅宿へ御来臨のこと」

2023年02月19日 17:41

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/18(土) 19:22:49.71 ID:PgV/ljYw
続武家閑談」より「秀吉公 家康公の旅宿へ御来臨のこと」

榊原康政が上洛させられると、秀吉が密かにその旅宿に御来臨され、忠臣であると賞され
「さて明日謁見の時は、昔頼朝が青狩衣に立烏帽子でなさったようにしたら面白いだろう。そのように心得られよ」
と熟意を尽くしなさった。
翌日登城なされた時、果たして右の狩衣と烏帽子で対面なされたという。

秀吉と家康との和睦の時、まず榊原康政が使者として上洛した時の話のようだが、タイトルには家康と書かれている。
家康との対面の前夜に宿に訪ねて行った逸話との混同だろうか。



そこに参加していた大谷刑部少輔吉隆は

2023年01月10日 19:31

547 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/01/09(月) 19:10:33.28 ID:vjiAFdO6
太閤となった豊臣秀吉が諸将を招き、自ら茶を立てた時のこと。

そこに参加していた大谷刑部少輔吉隆はライ病を患っていた。
茶碗が諸将を間を廻り、やがて吉隆の手に移った。
太閤殿下が自ら立てた茶であり、恭しく茶碗を口元に運んだところ、血膿の混じった鼻汁が茶碗の中に落ちてしまった。
弓矢を取っては万夫不当の勇者である吉隆もこれには困ってしまった。
居並ぶ面々は誰も気づいていないようなのでこのまま廻そうかと思ったが、血膿の混じった茶をわからぬとはいえ他人に飲ませるのはさすがに心が恥じる。
さてこの場をどう取り繕ったものかと途方にくれていると、その様子を見ていた太閤はそしらぬ顔で「刑部、その茶は加減が不味いからもう1度立て直そう。茶碗をこちらへ返せ」と手を伸ばしてきた。
それによって益々惑ってしまった刑部がまごまごしていると、太閤はひったくるように茶碗をもぎとると、血膿の入った茶をグッと飲み干してしまった。そして新しく茶を立てなおしてまわした。
面目を保つことができた吉隆は、ほっと吐息を漏らしたという。

有名エピソードの少し違う版。『豊臣秀吉言行録』より



御行儀悪敷御座候

2022年12月04日 16:30

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/04(日) 12:11:43.76 ID:GZ91WaCM
金吾中納言(小早川秀秋)は、小早川隆景の養子となったが、隆景が相果てた後、
御行儀悪敷御座候との秀吉公の御意があり、筑前国が召し上げられ、越前に三十万石にて
遣わされた。その後さらに、丹波へ国替えをされた。越前には青木紀伊守(一矩)が入った。

またこの時、金吾殿の重臣であった山口玄蕃(宗永)は引き離され、秀吉公の直臣として
加賀大聖寺城へ遣わした。

川角太閤記

秀秋は越前北之庄に減知転封の時点でまだ十六歳と考えると、御行儀悪敷御座候という理由は
ちょっとかわいそうな気も



貴所よりは位が上であるのだから

2022年11月26日 14:33

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/26(土) 09:56:40.14 ID:g5uzaKWU
天正十八年七月十二日、(小田原征伐の結果北条氏は降伏し)北条氏政は切腹、氏直は高野山へ入ると
していたが、大阪で疱瘡に罹り果てた。氏政の頸は京都へ送られ、堀川通戻橋に掛けられた。
小田原城の請取手は黒田官兵衛であった。

それより奥州へ移動する途中、秀吉公は鎌倉を御見物に成った。
若宮八幡へお立ち寄りに成った時、社人が御戸を開くと、左に源頼朝の木造があったのを御覧になり、
御言葉をかけられた

「頼朝は天下友達である。その待遇は私と同等にすべきだが、この秀吉は関白であるから、貴所よりは
位が上であるのだから、待遇は私より下げる。

頼朝は天下を取る筋の人であったのを、平清盛がうつけを尽くして伊豆へ流し置き、年月が経つ内に、
東国では父親である義朝の温情を蒙った侍共が昔を思い、貴所を取り立てたのだと聞いている。
あなたは氏・系図に於いては多田の満仲の末葉であり、残る所のない(完璧な)系図である。

一方この秀吉は、恥ずかしくは思っていないが、昨今まで草刈りの童であり、或る時は草履取りなどをしていた。
故に系図も持っていないが、秀吉は心にとどまらず、目口優れていた故か、このように成った。
御身は天下取りの筋であり、目口が優れている故とは存じない。つまり、生まれ付き果報が有った故
天下を取れたのだ。」

などと御洒落事を仰せに成ったと承っている。

川角太閤記

有名な秀吉の「天下友達」のお話



玉にもぬける一柳か

2022年11月24日 19:01

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/23(水) 21:44:48.05 ID:NGU3s3zC
豊臣秀吉による小田原征伐の御陣中へは、御公家方の方々より、細川幽斎へ狂歌などが
沢山に送られた。
山中城攻めで一柳(直末)が戦死したが、この事を一女院様より送られたのが、狂歌の初めであった。

 あはれなり 一柳のめも春に もへいで渡る野べのかふりを

幽斎は返歌に

 いとけなく ぐそくをかけて鉄砲の 玉にもぬける一柳か

こういった御狂歌の返歌、また道記などを大帖(大きな屏風)に仕立てて秀吉公の御目にかけた所、殊の外
御感になったと聞こえた。
その道記、狂歌の大帖(屏風)がもし今も現存するとすれば、御出家方の元に有るだろうとの事だ。

川角太閤記


是式の事は中々不苦候

2022年11月23日 19:11

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 20:54:01.75 ID:NkZpqg5g
天正十四年十二月二十日時分に、豊後国より早打ちの飛脚が到来した。その内容は、
豊後国船井という場所の近辺にある、高田川という場所があり、この川を隔てて
仙石越前守(秀久)、長宗我部父子(元親、信親)が陣を取っていたが、川向かいに
薩摩衆が相陣を張った。島津方の大将は、島津中書(家久)と言った。

十二月十七、八日の頃、仙石越前、長宗我部父子はこの川を超えて合戦を仕掛けた。
朝方、戦は味方の両大将の勝ちとなり、頸数五百余りを討ち取った。しかし昼時分より、
豊後国の地の者、尽く一揆を起こし、薩摩方と一つに成って上方勢を中に取り籠め、
裏切りを仕った故に、長宗我部の惣領(信親)も討ち死にした。
それより両大将は敗軍したと、豊前に在った黒田官兵衛の所に報告されたのである。

これを知った官兵衛の分別には
「豊後では敗北したが、これしきのことは問題ない(是式の事は中々不苦候)。
この事を秘密にすれば、帰って陣中は騒ぐだろう。ただ有りの儘に毛利殿陣中に報告するのだ。
仙石越前、長宗我部程度の者が五人三人相果てようと、上様(秀吉)は自身の弱みと成ったとは
思わない。(仙石越前、長宗我部程成者五人三人相果候と申共、上様御弱みと被思召間敷)
定めて上方勢にすぐに命じて、九州へとお下りになるだろう。」

川角太閤記

川角太閤記に見える戸次川の戦いとその敗戦についての黒田官兵衛の反応。



「豊筑乱記」から戸次川の戦いについて

2022年11月23日 19:10

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/23(水) 17:45:02.57 ID:FQfy/CRW
豊筑乱記」から戸次川の戦いについて
太閤秀吉公は島津に再三上京を命じたにもかかわらず島津は聞き入れなかった。
そこで天正十四年(1586年)九月十二日、秀吉公は仙石権兵衛尉元親(ママ)と長曾我部土佐守信親を上使として豊後に下しなされた。
大友義統公を通じて島津に上意を通じられたが、島津は見向きもしなかったため、仙石・長曾我部とも島津を慮外者とののしった。
島津は大友家の武将を次々と調略し、豊後に攻め入り、戸次城も陥落間近となった。
大友義統公はこれを聞き、加勢の人数を送り出そうと思ったものの、もう代を重ねた家臣も信用できないため見過ごそうとされた。
いっぽう仙石・長曾我部は島津の逆意について知らせる遣いを秀吉公に送り出し下知を待つ間ではあったが、戸次城が危ないと聞き六千騎で向かった。
十二月十二日早朝に戸次川を渡り、一挙に島津陣所に攻め入ろうと評定した。
これを察知した島津家久は一万八千騎の軍勢に「上使両人とともに討ち死にする気構えで戦え」と下知した。
こうして十二月十二日の曙に両軍鬨の声を挙げ、矢合わせをしたのち合戦を開始したが、どうしたことか島津方の伊集院軍が上使の軍勢に攻めかかられ引いた。
上使の軍が我先にと逃げる伊集院軍を追い討ちしているところに、二番備えの新納大膳正が三千騎で高所から仙石・長曾我部本陣に攻め入り、
大将島津家久と三番備えの本庄主税軍も一軍となって上使軍に攻め込んだ。
こうしてたった一時の合戦で敵味方三千騎が討ち死にし、長曾我部信親は血気さかんな大将であったため、あまりに深入りしすぎて、数カ所に深手を負い討ち死にした。
上使軍は多勢に無勢、あまりに多く討たれてしまい、仙石元親も勇猛な大将であったがわずか五、六騎を連れ戸次川を渡って豊後の府内めざして引いた。

仙石秀久長曾我部元親が混同されちゃったようだ



近国の野郎の種を断つことが

2022年11月22日 19:14

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/21(月) 22:56:41.53 ID:kbOd9V3r
戌の年(天正十四年)は天下の御普請があり、国々の大小名が洛中に満ち満ちて伺候した。
その時までに九州は(秀吉に)属しておらず、そのため毛利(輝元)殿を豊前へ渡海するよう
仰せ付けられ、御横目として黒田官兵衛。豊後へは千石越前(秀久)、長宗我部父子が派遣された。

(中略)

右の陣所より四里隔たった宇留津という城があったが、ただしこれも高橋(元種)に従っていた。
この城主は”かく”と申し、都合三千計りで立て籠もっていた。

この”かく”は野郎大将であり、その国の所々の案内をよく存じていた。そして毛利陣のはしばしへ、
毎夜夜討、強盗を隙き無く仕った故に、以ての外に陣中も騒然と成った。

この時、黒田官兵衛殿の分別には
「薩摩よりこの地の悪党ばらが、この城に立て籠もっていると聞いた。これを残らず
討ち果たせば、近国の野郎の種を断つことが出来る。」
そのように主張し、討ち果たすことに議定した。

十一月六日、毛利殿臣下の吉川、小早川、宍戸、この三人に官兵衛殿同道して小舟に乗り、
城廻りを押し回って視察した。この城は海より十間十二、三町も隔たっており、よくよく
見聞に及んでその日の内に各陣屋へ帰り、談合の次第に、その日の夜半の頃より人数を繰り出し、
明日七日の五ツ時分(午前八時頃)、この城を取り巻いた。

大手口は黒田官兵衛の寄せ口であったが、即時に大手より攻め破った。
毛利陣の者たちはこれを見て攻め掛かり、その日の七ツさがり(午後四時過ぎ頃)には、
一人も残らず撫で斬りにして討ち果たし、頸数二千あまりであった。

その頃の首実検は天下様より派遣した横目付が担当するものであったので、官兵衛殿が
これを行うようにとの挨拶があった。しかし官兵衛殿からは「ただ毛利殿が御実検されるように」と
互いに相手に対しての挨拶が果てなく続いた。
結局、毛利殿より官兵衛殿へたっての御断りがあり、これらの頸は黒田官兵衛殿が御実検された。

また、彼らの妻子どもも翌日八日に、千ばかりも浜の方で磔にされた。

川角太閤記

秀吉の九州征伐の序盤、豊前方面の様子。



内蔵助を攻める軍勢を出すべし

2022年11月21日 19:47

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/21(月) 19:01:01.76 ID:kbOd9V3r
「越中国の佐々内蔵助(成政)は、秀吉が四国九州へと軍勢を出すならば、定めて隙きが出来たとして、
油断を突こうとするだろう。であるので、内蔵助を攻める軍勢を出すべし」と御議定した所に、
蜂須賀彦右衛門(正勝)が申し上げた

「内蔵助についてですが、彼は供の者六人を召し連れ、国を急に立って浜松に参ったと承っております。
供は佐々与左衛門、いたわ勘右衛門、松木内匠、その他計六人、そのように承っています。
御分別のため申し上げます。」

これに対し、秀吉公の御意には
「家康卿が律儀である所に目をつけ、内蔵助はすぐに合戦という状況で無いために、直談をすべしと
思ったのだろう。しかし今更家康卿に心置きをしようとするなど、口実を作って却って、
毛を吹いて疵を求むという事と同じだ。事が見えない先に聞き出すような沙汰は、必ず上手く
行かないだろう。

家康卿に表裏はない(家康卿表裏有間敷なり)。丈夫である家康を東の押さえに頼り置く事ができれば、
東国の気遣いは無くなる。であれば越中に馬を出そう。」
との御議定であった。

家康卿へは越中に、『御馬出候、加勢少可給者なり』と仰せ遣わした所、本多豊後に都合三千の兵、
そのうち鉄砲三百挺にて家康卿よりの御加勢として素早く上洛に及んだ。

これによって上様(秀吉)は大阪を、酉年(天正十三年)七月二十七日に出陣された。
この時の御分別には、「内蔵助とはこの間まで、肩を並べる傍輩であったのだから、定めて私に対して
疑いが深いだろう。例えこの秀吉に降参したとしても、悪我を張るであろう。
織田信雄は信長公の御実子であるから、信雄を私の旗本と定めよう。内蔵助は堅物であるから、
信雄に対して降参するだろう。」

そのように思し召し、軍勢の路地すがら信雄に対面した時、自身の御旗本のように執り扱ったのは、
その様子を越中に響かせるためであったと聞こえた。

川角太閤記



483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 08:27:03.82 ID:1wYkIu2B
越前と美濃ですら連携に失敗してるのに越中と遠江なら尚更

秀吉の推量は少しも違わなかった

2022年11月16日 19:02

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/15(火) 20:41:39.74 ID:bTevtSEj
(小牧長久手合戦後、織田信雄と和睦を成立させたあと)
秀吉は徳川家康卿を御引き付けさせうようと思し召し、そのための御分別、御工夫に悩み、
寝付けないほどであったと聞こえた。

その段々の御分別の次第だが、秀吉は御あつかい(和睦)を掛けるために、家康の様子や手引を見ようと思し召し、
家康卿の国の様子を御聞きに成るために、人を色々に変装させ、三河遠江へ潜入させた。

この時、秀吉の御分別としては、「家康卿は籠城の支度をするなどあり得ない。ただ一合戦とのみ
定めているだろう。」と思し召されていた。

先の目付たちが帰国し、お尋ねに成ったところ、「家康は籠城の用意など全く見えません。
鷹野や川狩りのような慰み事ばかりしています。」と言う。後から参った目付も同様の報告であり、
秀吉の推量は少しも違わなかった。

そこで秀吉は、御あつかいの為に家康に妹を与え、この上は兄弟に成るべきと、御あつかいを掛けた。
その上で家康卿がまだ合点無ければ、母と女ども、さらに妹の三人を家康卿へ人質に出すべきと、
蜂須賀彦右衛門(正勝)や黒田官兵衛、その他二、三人に仰せ聞かせた。

川角太閤記



何事につけても、最も身が危うく見えるのは

2022年11月06日 18:50

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/06(日) 16:46:48.05 ID:XrQtncg6
(賤ヶ岳の勝利の後、柴田勝家の所領である越前を平定した羽柴秀吉は、彼に従属した前田利家が領する能登国へ入った。)
能登国中を巡検した秀吉は、越中との境目である末森城を取り立てるようにと言われ、さらに
七尾城も見られ、前田又左衛門(利家)に委しく言い含めた。

この時、前田又左衛門が申し上げた
「この勢いで、越中へ取り掛かり、内蔵助(佐々成政)を御退治されるべきです。」

秀吉は返答に
「その事について、思い出したことが有る。何かと言えば、天正三年五月二十一日に、甲斐国武田四郎(勝頼)と
三州長篠において信長公が御合戦成された時、頸数一万二千余り討ち取る大勝利を得たこと、貴殿も御供した
故に能くご存知であろう。

あの時、そのまま甲斐国へ押し込むのだろうと、私も人も考えていた。ところが信長公はそうせず、
そこから帰陣なされた。あの時、御勢い、御利運でこれ以上はないと思われたが、ああ言う時は
天魔の所業というものもあり、五,三年もそのまま捨て置けば、国内に謀反も出来、家中もまちまちに
成ることが聞こえるようにもなるだろう。その時に馬を出して退治するのだ、という御分別であったと
聞いている。

又左衛門殿も皆々も聞いてほしい。勝家に打ち勝った以上、この秀吉もこれに過ぎる安堵はない。
その上で心ならずも慢心することもあると覚える。その上、下々以下に及ぶまで勝ちに乗る体で、
早々勇み悦び、興に乗るような様子である。

佐々内蔵助は剛なる上に手聞の上手である。また合戦の習いとして、勝敗は人数の多少に必ずしも寄るもの
ではない。よって、これより一足先に引き取ろうと思う。その内に、秀吉が再び軍勢を募り出陣してきた時は、
位詰めに成るだろうと内蔵助も、またその家中の者達も考え出すであろうことは必定である。そうなれば
家中にも謀反者が出てくるだろう。

何事につけても、最も身が危うく見えるのは勢いが過ぎている時であり、だからこそ今引き取るべきである。」

そのように申して、加州村山城に入られ、加州半国と能登一国を前田又左衛門利家に与えた。
また能登に於いて長九郎左衛門(連龍)に対し、「前田又左衛門に付け置く。何事も利家次第とするように。」
と仰せ置かれた。

川角太閤記



城介殿が若衆の時に

2022年11月05日 16:31

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/05(土) 15:57:25.02 ID:kQd4l8F6
(織田信長の頓死後)柴田(勝家)殿が三七(織田信孝)殿を天下の主に取り立てたいと分別したのは、
柴田殿が三七殿の具足初めを仕られた故であると聞いている。この後契約故に、後に御懇な関係に
成ったのだという。

(羽柴)秀吉については、城介(織田信忠)殿と御懇であったという。その仔細は、城介殿が若衆の時に、
御公家衆などに御恋慕なされ、それを難しく思し召された後気色を秀吉は見て取って、城介殿に

「ならば、私に御目を掛けていると世間に披露して下さい。そうすれば御気難しき事など有りません。
その上私においても、内々に難しいことを申し上げることは有りません。表面上だけでも、そのように
なされるべきです。(外儀を右の通に可被成)」

信忠様も「その通りだ」と思し召され、秀吉は信忠様の御知音のように、世間では認識された。
そして後々も御目をかけるように成られた。

川角太閤記

秀吉が信忠に取り入った(?)お話。これは秀吉が京で奉行をしていたから、秀吉を介して
公家衆と信忠の仲を取り次げる、みたいな話なんですかね。



織田七兵衛殿は日向守と

2022年10月25日 19:19

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/24(月) 20:06:31.59 ID:gtM3Sfj3
その頃(本能寺の変の頃)、織田三七(信孝)殿、同七兵衛(津田信澄)殿、丹羽五郎左衛門(長秀)殿、
この三人は大阪に在った。織田七兵衛殿は明智殿の聟であった。

信長公は中国の毛利の様子について羽柴筑前守(秀吉)所に遣わされた堀久太郎(秀政)殿が、備中高松より
敵陣の様子を見および罷り上がり次第、中国へ御馬を出すべしと思し召されていた。
右の三人は大阪より四国へ出船いたすべき者達であった。
ただし一旦出船を見合わせ、状況次第とすると仰せに成っていたのであるが、そのような中で日向守の謀反が
あったので、四国への渡海は中止と成った。

羽柴筑前守殿の所より、丹羽五郎左衛門殿へ密かに遣いが送られたという。その内容は

『織田七兵衛殿は日向守と、奥意は一味同心であると考えている。三七殿と話し合い、七兵衛殿を
討ち果たすべきである。』

との事であった。五郎左衛門殿も内々は筑前守の分別と同意であったため、七兵衛殿の御座所であった
大阪城本丸の外、千貫矢倉へ押し寄せ、鉄砲ずくめで攻撃し、即座に表裏無く討ち果たしたという。

このようであったからこそ、明智の叛乱は収まったのである。

川角太閤記

丹羽長秀たちが津田信澄を滅ぼしたのも、秀吉の示唆があったのか



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/24(月) 20:29:02.69 ID:HhGvH5g8
6/2に本能寺の変
6/5に津田信澄が殺される
京都→備中高松城の秀吉→大阪の丹羽長秀
400kmくらいを3日で踏破?

政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ

2022年10月06日 18:35

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/05(水) 21:09:37.08 ID:xyMAVVrP
伊達政宗の生前の言葉を書き残した『命期集』より
政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ
まとめにある話ですが、ディテールが抜けているので投稿

(政宗の)あるときの仰せでは、太閤が伏見におられたとき、城のなかに御学問所と名付けた座敷を造り、四隅に数寄屋(茶室)四つを設け、東西の諸大名に茶を振る舞った
亭主は四人で、太閤と家康公、前田利家公と私(政宗)だった
太閤も残る三人も良い葛籠を持ち寄り、自分たちで寝床を敷き、四人は枕を並べて夜もすがら、昔物語をして楽しんだ

さて、四つの数寄屋はくじ引きで決めてそれぞれ四人が受け取り、水屋以下、お勝手料理の間もそれぞれの数寄屋に設けられていたので、四人とも料理なども隠し合い、工夫をこらしていた
(秀吉から)客が誰かはまったく知らされていなかったが、次の日になると(政宗の客は)佐竹義宣浅野長政加藤清正上杉景勝であるとにわかに告げられ、仲の悪い衆ばかり客に仰せ付けられた
なんとか変わった趣向を行おうと思ったものの、にわかのことでなかなかできなかった
季節が若菜の芽摘みの時期だったので若菜汁ばかりつくり、できうる限り沸かし返し沸かし返し、熱くして出した
そのため、しばらく置いても冷めずに(佐竹らが)迷惑していたところ、早々と替えの汁を出してなかなか一口も飲めなかった上に、また先のごとく汁を替えて出した
まもなく酒を出し、始めから終わりまで迷惑した

振る舞いも終わって御学問所に四人は寄り集まり、その日の亭主としての接待ぶりを順番に語り合った
私(政宗)が「今日の客は一段の日頃からの知音(親友)だったのでどのような馳走をしようかと思ったのですが、うまくいきませんでした。(寒い冬の時期が)旬だったので若菜の汁をできるだけ熱くしてお出ししたのですが、飲んで一口目で怪我をしたのでしょうか、しばらく箸を唇にくわえたまま舌打ち(現代でいう舌打ちと、舌鼓を打つのダブルミーニング)をしてございました」と話した
太閤は「さてもさてもしてやったり、してやったり。一日の亭主だがこれは古参(のようなもてなし)である」と二度も三度も躍り上がり、腹を抱えて笑ったので、伺候の人々は座敷にいかね、腹を抱えてともに大笑いした
その末に次の日の客選びの相談をした
このように太閤が遊びをされたこと、天下の諸大名を組み合わせたことは、仲違いした者同士の仲直りをさせようという奥意があったと後に知ったと(政宗は)仰せられた



老いたりとも槍の又左

2022年09月29日 15:54

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 21:56:23.61 ID:TRfck96B
利家夜話』より
老いたりとも槍の又左、というお話
長いので要約、かぎかっこ内のみ読み下し

秀次事件で連座しそうになった浅野長政親子
石田治部と増田右衛門と仲が悪く密告され、左京(幸長)は舅の利家を頼った
利家はさっそく、秀吉と北政所を密かに訪ねようとした
すると、伏見城の城門外には抜き身の槍がわざとたくさん並んでおり、奉行が左京を挑発しているようだった
それを見た利家は乗り物から下りて、激怒する

「おのれら何事ぞや。今は日本の侍は申すに及ばず、唐まで従ひ中、浅野弾正(長政)父子程の者、自然不届の事に極り御成敗なられ候とも御門際に抜身を仕まつること、さてもさても沙汰の限りなり。左様の事をば奉行の奴原知るまじ。算用の事や人の口にて痛き申す事などは存ずべし」と音声高らかに叱った
「おのれらめ。その槍の鞘はめましき(お飾りくらいの意か)か」と怒ると、御威光を恐れて奉行衆は櫓の中で小声になり、「さやはめ候へさやはめ候へ」と申したので、さっと鞘をはめた
お供していたものは、かように気味のよいことは見聞きしたこともない、初めて見たと話した

なお、前後に磯貝なる者が「似せ判」をしたとあるんですが、これはなんなんでしょうか



421 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/29(木) 17:35:41.44 ID:GnixVJCR
>>419
幸長の舅って利家でした?と思ったけど婚約だけしてたんだね

今度秀吉が御在洛され、関白になられた

2022年09月07日 18:47

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/06(火) 22:34:26.40 ID:Jo2FWFOc
今度秀吉が御在洛され、関白になられた。近衛殿、前入道殿下前久公の御猶子としてであるという。
(天正十三年)七月一日に参内され、禁中において御能があり、上下京の手能の者たちがこれを
秀吉より仰せつかったという。

秀吉が関白になられた事で、同時に殿上人、諸大夫になった人が十人もあった。
御能は五番、弓八幡、田村、三輪、紅葉狩、呉服の切。
今回の御能に、関白殿(秀吉)に対し所々より進上があり、上下京衆より盃台六、七百ばかり、折が五百、
これらが合わせて庭上に夜中から並べ立てられ、これを番する衆もあった。

当日には清涼殿の御面等の少し下に引き下げて、仮の御椽を押し出され、その上に盃台、折以下が置かれた。
また、この折、盃台以下は上下京の町人の進上であった。今度の盆の踊りを御免する代わりに、今回、
折、盃台以下を馳走するようにと秀吉公より仰せだされたのだ。

能の太夫は、上京からはホリケ、ワキはホリケか、伯父のリウハであるという。入道前虎屋という者である。
下京の大夫はこれまで、禁裏御能に何れにても何か下されることは無かったが。大夫が若衆であるとして、
御扇が下される事もあった。そして今回は秀吉公より、越後の帷子二百が進上され、それが悉く下された。

宇野主水記

秀吉の関白就任の時の上京下京の関わりについて。



京の衆に風流を

2022年09月04日 15:11

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/04(日) 14:37:58.97 ID:sI3KCCJ6
天正十三年七月六日、秀吉は上洛中に、京の衆に風流(盆踊り)をさせるのだという。
しかしながら町人たちは、去る春の、内裏・御所の築地つきの時は、このために上下京では種々様々の
事を成し、以ての外の造作であった。それに重ねて又風流をさせるというのは、京都の人々にとって
迷惑なことであると、徳雲がお取りなしになり、風流は中止となったという。

但し内裏において、上下京の手能の衆が、御能を仕り叡覧があったとの風聞である。

宇野主水記



この茶会で宗易、宗久は

2022年09月03日 19:17

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/02(金) 23:41:43.36 ID:MhRgviZR
天正十三年三月八日、(秀吉は)紫野摠見寺において数寄の名物共を集め、二箇所において、
千宗易(利休)と今井宗久が茶を点てた。また京堺、その他方々の茶湯執心の者共にも参加をするように
とあったが、但し茶を飲ませるようにとし、又他にも、自分の所有する道具を持って登り、自身で茶湯を構え、
その人の名物などを(秀吉が)見るのだという。

一番に紫野和尚たちが所持する名物を見せ申した。二番に武衛などのような、然るべき牢人衆が見せられ、
三番は堺の良き道具持ち衆であり、その他次第次第にそのように有ったという。

秀吉は御在京二、三日の間に、大阪へ御帰城あったという。この茶会で宗易、宗久は都合二百服ばかりを、
両人して点てたという。

宇野主水記