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あの鉄砲は狭間くばりといって

2021年02月21日 19:09

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/21(日) 17:35:22.72 ID:jMSoTC5v
大阪冬の陣の時、寄手は西南北東、大方軍勢が揃った所に、城中より大小の鉄砲を、つるべ放ちに
事も夥しく撃ち出した。

これに諸方の寄手は色めきあったが、このような所に古田大膳(重治)殿の家中にて、高禄を受け
日頃は用に立つ人と聞こえている老武者が、鉄砲の音に驚き、
「大将に御物具まいらせよ!各々覚悟せよ!」
と勧めたため、物に慣れない若者たちは、「すわ、敵が出てくるのか!?馬よ、物具よ!」と
罵りひしめき、上を下へと騒ぎ立てた、

このような所に、先手の組頭である森次郎兵衛原十兵衛の二人が馳せ来た。
「これは何事に騒いでいるのか!?狼狽えたことを申して、大将をも驚かし参らす事、
沙汰の限りである!
あの鉄砲は狭間くばりといって、城攻めの時の大法である。この事を大将に申されよ。
何れも心安くして、静まり候へ!」

そう言い捨てて、それぞれの持ち口に帰っていった。

この森次郎兵衛は戦場において、度々の高名があった中にも、三木城攻めの時、太閤、その時は
羽柴筑前守殿と云って、付城をなされたが、敵の別所方より押し返して来た所に、次郎兵衛が
走り出て、門を支えさせ、合い鑓を合わせて追い払った。その振る舞いが比類無かったため、
筑前守殿より召され、陣羽織を手づから給わった。

また原十兵衛稲葉一鉄に仕えていた時の手柄、また八王子にて度々比類なき働きが有った。
後には森内記(長継)殿に仕えたという。

備前老人物語



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世の中は けふばかりこそかなしけれ

2021年02月15日 19:14

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/15(月) 15:58:26.20 ID:087R8hZw
太閤秀吉公の童坊である何阿弥とか言う者は、面白い気質物で、常に秀吉公の御心にかなう
者であったのだが、一体どういう事か、ある時御心に背き、御気色以ての外にて、杖を取り
これを追われた。

かの童坊は逃げながら後を見返り見返り、
「先ずお待ちに成ってお聞き召されて下さい!上様も私もあまり違いはなく、ただ一日の違いです。
昨日は過ぎ、明日は知れぬ世の中で、それほどまでに御腹を立てられるのも勿体なし。
されど、今日は天下様なのですから、如何様にも成されたいままになされよ!」
(先またせ聞召されよかし、上様も私もあまりちかいハなく、たヽ一日の違也。
昨日は過つ、あるはしれぬ世の中に、かほとまて御腹をたヽせられるも勿体なし
されどけふは天下様なれハ、いか様にもなされたきまヽになされよ)

そう、ふてくされた様子で、面白おかしくつぶやくと、秀吉公はそのまま杖を捨てられ、
うち笑わせ給い

「私が過っていた、よく申したり。許すぞ。」
と仰られ

 世の中は けふばかりこそかなしけれ きのふはすぎつ 明日はしられず

と吟じられ、簾中に入られた。その時聞く人、御詠歌などと云ったそうだ。

備前老人物語



あれを見よ、退屈せぬ奴原かな。

2021年01月19日 17:47

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/19(火) 13:25:26.00 ID:yJCIqhGj
太閤秀吉公の御陣の時、御馬廻りの衆の陣小屋を見廻られたが、そこに、小謡うたい、小鼓を打っている
所があった。秀吉公は立ち寄られ、垣の隙間から中を伺うと、内に武者が三人有った。
一人は具足櫃に腰掛けて鼓を打ち、一人は扇を持って謡をうたった。いま一人は盃をひかえ居た。
各々皆、甲冑を帯びていた。

これを見られ、「御気色を悪くされるのではないか。」と、お供の人々は心配していた所、
そのような事はなく

「あれを見よ、退屈せぬ奴原かな。」

と、笑みを含ませられ、

「それぞれの奴原に酒を取らせよ。あまり飲みすぎて酔うなどしないように言え。」

と宣われてその場を打ち過ぎられた。

備前老人物語



薄諸光の牛公事役銭徴収問題と自害

2021年01月16日 17:14

薄諸光   
526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/15(金) 20:12:44.52 ID:QrXZWoJ1
薄諸光の牛公事役銭徴収問題と自害

以下は秀吉が吉川元長に対し薄諸光が"文書偽造"をしたことをしらせる書状である。

わざわざ申し遣わします。薄という公家が諸国の牛に役銭をかけて取っていますが、秀吉は知りません。
間違いなく謀判で、言語道断の曲事です。あなたの国でも様々な所で徴収している者がいるでしょうから
この役銭を取っている者は公家でも門跡でも糾明し、全て捕らえて送るように。油断なく尋ね探して
絶対捕らえて下さい。そのために書きました。
(天正十三年)九月十八日  (秀吉朱印)
        吉川治部少輔(元長)とのへ

――『秀吉文書集 一六三三号』

薄諸光は山科言継の次男で薄以緒の婿養子となった人物で、薄家は伝統的に牛公事の権益を持つ公家である。
つまり実際は偽造文書ではないのだが、『言継卿記』によると永禄年間には山城・丹波・丹後の三国のみしか
役銭の徴収は出来ない状態であった。諸光は原状を回復しようとしただけであったのだ。

ところが織田政権は基本的に”当知行主義”を掲げて、国衆・寺社の争論を解決してきており、秀吉も
一月前には前田玄以に公家などにあてて”当知行主義”の方針を伝えている。(『曇華院文書』)

十月二日、諸光は牛公事のことで諸国の村々を混乱させた罪に問われて幽閉され(『兼見卿記』)
三日後の十月五日に妻と共に自害した。(『多聞院日記』)享年39。
『系図纂要』には「武命によって横死した」と記されている。



鏡島村梅之寺・乙津寺の事

2021年01月12日 16:44

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/12(火) 00:50:45.38 ID:6vjf8+TQ
鏡島村梅之寺・乙津寺の事

厚見郡鏡島村の梅之寺というのはその昔は乙津寺と号し、ここはすなわち7里の渡海の大湊であった故
に船付大明神を鎮守とした。

(伝承によれば、この辺りはかつて「乙津島」と呼ばれて、海に浮かぶ島だったが、弘法大師によって
桑田となり、地名を「鏡島」と呼ぶようになったという)

その後、一寺に点ぜり。この寺一派の本寺にして、土岐・斎藤の両家が殊にこれを帰依して、数ヶ所の
庄園を寄付した。その記録は宗別に見えたり。

当村院内はことごとく梅樹を植えている。故に“梅之寺”と号す。按ずるに斎藤家信仰の一寺と見える。
信長御入国の後も、もっとも寺務繁く、並びもなく栄えた。

しかるに信長公は元来仏法を嫌い給いて、所々で寺院仏閣を数多破却し給いたけれども、故あって当寺
をのみ甚だ尊敬し給い、とりわけて当山の梅を愛し給いて、すなわちこれを分けて江州安土、ならびに
京都妙心寺などに移し給わったのである。よってその寺の威は甚だしく、勅願所にも異ならず。

しかるところ、天正10年(1582)6月2日、信長生害し給いてよりこの寺の威勢も薄くなったの
だという。その後、文禄2年(1593)癸巳閏5月、秀吉より寺領の御朱印を改正せられたという。

――『美濃国諸旧記



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/12(火) 12:58:07.18 ID:O8i+wnF4
>>836
美濃に海なんてなくね?と思ったら、長良川の湊なのね。

その時は秀吉に内通して

2020年12月19日 16:07

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 22:06:27.21 ID:Z7QWz4kr
大和国は京都将軍家が末となり、武威が衰えた頃から天正の頃までは、国侍が相互に自立の
志を立てて、尽く戦国と成り、各地でせり合いが止まなかった。
そのような中で、筒井順慶は弓矢強く、殊に一門が広く有ったために、大半の国侍を討ち従え、
そして筒井という場所に城を築き居城とした。

さて、織田信長公が上方を御手に入れられた頃、順慶は明智光秀を頼んで信長公に出仕し、
松永久秀を倒し国中を従え、大和の旗頭となった。順系と松永については後に記す。

その後、天正十年六月、信長に対する明智光秀の逆心の時、光秀は筒井に使いを送り、

『信長公への怨み甚だにより、本能寺に押し寄せ、御腹を召された。それより二条の屋形に取り詰め
信忠公も御生害遊ばされた。しかれば、あなたと私との数年の親しみはこの時のためであり、
味方に与されるのであれば本望である。そうであれば、大和・紀伊・和泉の三ヶ国を与えるだろう。』

との内容を申してきた。順慶は家臣を集め、評議を行わせ様々な意見が出たが、家老達は何れも
「とにかく、明智の味方を仕るべきです。」との旨を申し上げた。しかしここで、松倉右近(重信)
がこう申した

「先ず出馬するという旨を、明智には御返答し、八幡山まで御出になり、彼の地は良き要害ですので、
暫くそこに御在陣されて様子を見られるべきです。定めて秀吉公は中国を引き払い打ち上がり、
明智退治を仕るでしょうから、その時は秀吉に内通して、逆徒を裏切るべきです。」

そう、たって諫めたため、順慶は一万余の人数で出馬し、八幡山に在陣していた所に、案の定
秀吉公が中国を扱いにして引き揚げ、尼崎に到った所に、順慶は使者を遣わし、明智に対して
裏切りを仕る事を申し上げると、秀吉公も御満足に思し召されたか、お頼みに成るとの御返答であった。

そして山崎表の合戦の時、秀吉公の先手、高山右近、中川瀬兵衛は明智の先手を突き崩したが、
この時筒井順慶も八幡山より人数を下し、淀川の辺りにて、敗軍の敵を五、六百ほど討ち取った。
順慶は、秀吉公に味方は仕ったが、勝負を見合わせた事について、秀吉公も無二の志とは思し召されて
いるものの、この時のことの故であろうか

筒井順慶は、信長公の時に、「相替わらぬ大和の大将である」と仰せ付けられていた。
そして秀吉公天下御統一の時、天正十三年、四郎殿(筒井定次)に伊賀一国を給わり遣わされ、
「伊賀守」と受領仕った。そして大和には、秀吉公の御舎弟である美濃守秀長に、紀伊・和泉・大和三ヶ国を
給わり御越になった。そして秀吉公の指図にて、筒井城を割り、郡山に新城を築き居城にせよとの事で、
郡山に城を取り立てたが、この縄張りも秀吉公御指図であった。
そこに秀長は在城し、大和の国侍達は何れも秀長の家来として成り置かれた。

大和軍記



かの藤吉猿面郎が方へ連れ行き

2020年12月18日 18:10

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 15:21:42.04 ID:Z7QWz4kr
佐久間玄蕃允盛政は、二十一日の合戦(賤ヶ岳の戦い)では、険阻を隔てて、柴田勝家と合流することが
出来なかったため、蔵王の社を出、北ノ庄城の後巻(救援)のために加州に赴いた所で、中村の郷民たちによって
取り囲まれた。盛政はこれを見ると
「我既に運命尽き、又戦ったとしても利はない。かの藤吉猿面郎が方へ連れ行き、一言云うことが有る。」

そう言って彼等に捕われた、そして北ノ庄に連行されると、これを見た浅野弥兵衛長政は云った
「君は鬼玄蕃と言われたほどの人ではなかったのか?何を以てか死することを得ないのか。」

これを聞いた盛政は咲って云った
「汝は愚かである。源頼朝は大庭景親に負けてふし木の中に隠れ、義昭将軍(原文ママ・義稙の事か)は
細川政元に囚われて幽閉されたが、ついに免れて大功を立てた。将たるもの、どうして容易く敵に死を
免ずる事をするだろうか。」
(汝ハヲロカヤ、源頼朝ハ大庭景親ニマケテフシ木ノ中ニカクレ、義昭将軍ハ細川政元ニトラハレテ
ソノカコミヲウクトイヘトモ終ニマヌカレテ大功ヲ立テタリ。将タル者何カ容易ク敵ニ死ヲ免スコトアランヤ)

聞く者皆、舌を鳴らしたと云う。

佐久間軍記



768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 15:45:49.31 ID:h8twP6Rp
舌を鳴らすって当時はどういう気持ちの表れなんだっけ
今だとねこを呼ぶ気持ちの表れだが

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 17:59:33.49 ID:Z7QWz4kr
>>768
この場合はおそらく、佐久間盛政が秀吉軍の前で不敵なことを言ったので舌打ちした、という感じかと。

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 18:31:59.74 ID:a6o/ts1Y
>>769
なるほど、不快で舌打ちしたったことね

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/19(土) 09:50:00.40 ID:re0CaR1W
賞賛だろうに

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/19(土) 12:50:51.45 ID:V1a9YlEB
賞賛だよね

秀吉との起請文

2020年11月30日 17:35

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/30(月) 15:26:11.84 ID:gfdmzC+B
黒田如水は、元来秀吉と無二の盟友であった上に、互いに片方の身代が良くなっても、片方を
必ず見捨てないという起請を取り交わしていた。

そして秀吉が天下を取られた時、如水には所領として□石を遣わしたが、彼はこれを不足に思い、
諸事やる気の無い体であった。

竹中半兵衛は又、如水と良き知音であった。ある夜、彼は如水のところへ行き、よもやまの話をしていたが、
この時如水が、かの起請の事を言い出した。半兵衛が「それを一度見たい」と言ったため、取り出して
一覧する体で眺めた。この時、火に当たっていたのだが、半兵衛はこの起請を引き裂き、火に入れて燃やした。

如水は驚いて、「これは何とするのか」と申すと、半兵衛は
「この起請があるから、秀吉に対しても不足が出来、諸事心に叶わぬことのみとなるのだ。
これがなければそのような事も無いだろう。」
と、申した。

その後は如水も仕合わせ良く、大名になったという。

勢州記事

黒田如水に、政宗の百万石のお墨付きみたいな話があったのですね。



こうしなければ、信長は私を生かさない

2020年11月21日 15:30

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/21(土) 13:24:14.64 ID:h/eHLwQj
松永霜台(久秀)籠城の時、信長はその討ち手として太閤(秀吉)を遣わした。
秀吉は箇条書きを以て信長に注進した。その内容は

『某日、二之丸を破る、某日、本丸を破る、某日、霜台の首を取る。』

と、今後の予定が著されていた。
右筆が「これは如何なものでしょか」と云うと、秀吉は

「こうしなければ、信長は私を生かさない。もしこの通りに成らなければ死ぬ。」と云った。
そしてその期日通りに、無理に討ち破り、首を筺に入れて信長に報じた。
これを見て信長は云った

「これは偽である。霜台は首になっても、我が前に出てくる者に非ず。筑前は機知にて
この事を為したのだろう。」

筺を開くと果たしてその通りであった。
霜台は遂に降伏せず、鉄砲の薬に火をかけ、自ら焚死した。

老人雑話



秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想

2020年11月14日 17:04

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/14(土) 12:20:30.26 ID:eKnM9SJ7
ある時、豊臣秀吉公がいつもの御参内の時に、御装束を召し変えられている途中、施薬院にこのように云われた

「私は尾州の民間より出たため、草を刈る術は知っていても、筆を取ることさえ知らず、もとより
歌、連歌の道などを知るべきもないが、不慮に雲上に交わりを成す身となった。

ただし、我が母が若き時、内裏の御厨子所の下女であったが、思いもかけず玉体に近づき奉った事があった。
その夜の夢に、幾千万の祓箱が伊勢から播磨を指して、隙間もなく天上を飛び行き、また、ちはやぶる神が
見え、人々の手をとったという夢想を感じて、私を懐胎した。

この夢想が当たったと見えて、私は信長公より、御唐傘を許され播州に発向し、即時に斬り平らげ、別所を
従え、それよりすぐに、九州(西国という意味)にかかり、安芸の毛利と対陣し、彼等を水責めに
攻め殺さんとしたが、無道の明智日向惟任めが、六月二日に信長公を討ち奉ったという飛脚が到来した。

この事、天下にやがて隠れも無い事になるだろうから、敵に知らせず上洛するのは悪しき事だと思い、
しかじかの次第にて急ぎ罷り上がり主君の御弔合戦をいたさんと欲する。ただしこのような状況を見て、
我々の跡を追撃しようと思われるのなら、却ってその武勇は弱きに似ている、尋常に、只今一戦して、
それを弔い合戦にいたすべき、と申し使わせた所、毛利家も、さすがにあわれなることと感じたのか、
又は秀吉が主君のために身を捨てて最後の合戦をいたそうとするのを、恐ろしく思ったのか、異議もなく
人質を出したため、我々はそのまま上洛し、憎き惟任が鉾をほこりにほこって清龍寺まで出張してきたのを、
六月十三日に、山崎表より突き崩し、雑兵まで残らず討ち果たした。

惟任は主君の御罰が当たったのか、冥加尽きて、厠の中で、汚き百姓に殺されたが、その首を取り寄せて、
去る二日に失い奉った本能寺の焼け跡に、梟首にかけて我が鬱憤を散じたのである。

しかしながら、もし信長公が生きていた時、これほどの忠功を致して悦ばせ奉れば、一体どれほど自分も
嬉しいだろうかと、猶悲しみの涙が出て、しきりに落ちる故に、紫野にて御葬を勤め、太政大臣の御位を送り、
大徳寺に一宇を建立し、総見院殿を崇め奉ったのである。

(戴恩記)

秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想



義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について

2020年10月27日 16:25

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/27(火) 00:30:24.00 ID:AXIGWCDj
永禄十二年(1569)四月二日
織田弾正忠(信長)の所へ罷り向かった所、留守であったので二条城の普請を見物して帰った。
石垣三重は悉く出来上がり、また南巽のだしの石垣も出来、今は東のだしについて、少々出来ている。
この方にあった近衛の敷地は、悉く奉公衆の屋敷となった。不運の至である。

織田信長の使いの木下藤吉郎が岡殿の所へ参ったので、私も参った。丹州の知行、佐伯の南北両庄について、
細川右馬頭が代官職を内藤五郎に渡さないため、この内藤に、木下が相添えてこれを進め、代官を
仰せ付けると申したことで、近く両人に様々に問答を加え、この両庄より八十石を岡殿に進納することに
定まったという。羨ましい事である(御浦山敷事也)
藤吉郎と対面し、盃を下した。

言継卿記

義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について



『公人朝夕人土田氏由緒』より、信長、秀吉、家康の小便を支配した男

2020年10月02日 18:11

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/02(金) 14:58:00.26 ID:mZG3D0T3
公人朝夕人土田氏由緒』より、信長、秀吉、家康の小便を支配した男
※公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)は出先などで尿筒、つまり尿瓶を懐に持ち歩き、主君の排尿を支える役職で世襲
土田氏は鎌倉幕府4代将軍、九条頼経の時代からこの職務を務めた

永正10年、将軍足利義稙様が江東へ発向されたとき、私の先祖がお供を仕り、将軍が御膳をお召し上がりの時は残飯を拝領いたしました。その際、器の上にお箸を置き、「なんじの家の家紋にしなさい」とおっしゃられたので、それより私の家の家紋にしました。
このように代々召し出され、信長公の御代までは西美濃国の土田村にて186貫の領地をいただき、住んでおりました。
信長公がどちらへいらっしゃるにも私の先祖はお供しました。
天正4年に安土のお城を普請されたときには奉行を拝命し、その後、100石を山城国西岡というところに加増していただきました。
信長公が美濃の居城より信州へ出陣された際には、美濃土田村の先祖の屋敷でご一泊されました。
信長公が他界され、領地を離れてひっそりと暮らしていたところ、秀吉公が関白に任ぜられ、ご参内の折に先祖が召しだされ、供奉しました。
家康様が慶長8年、ご参内の際にも先例を調べられ、同朋の善阿弥殿に命じられ、召し出されてお目見えしました。
御紋の時服と諸太夫の装束を拝領し、御装束櫃に相添え、諸太夫の装束で御小便筒を懐に入れて供奉しました。



611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/02(金) 16:01:28.74 ID:OeCEOrN/
大便はどうしてたんだろう

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/03(土) 14:24:55.98 ID:Gj7tQVI7
数百年かけて練られた土田家の排尿介助術
すごい気持ちよさそう俺も体験してみたい

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/03(土) 20:08:12.61 ID:NWOgh4lw
でも幕府消滅と共にその技術の伝統は断絶してるんだよな。
流石に土田氏が現代まで残ってても、この技術の伝承まではしてないだろうし。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/03(土) 22:08:22.84 ID:IFaIdRQ1
えっこれほんとの話なのか
すごい職があったんだな

立花統虎(宗茂)8万国・(高橋)統増2万国に対する軍役等

2020年09月28日 18:10

361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:02:02.01 ID:63wy7W1Q
日本戦史 朝鮮役(経過表・附表附図)参謀本部編 偕行社(大正13)

天正19年立花統虎(宗茂)・高橋統増(立花直次)軍役表

秀吉より浅野長吉をして立花兄弟に命じたもの、統虎8万国・統増2万国に対する軍役である
立花2400高橋600の軍役であるが両家合計

将士
騎士150 
  馬卒300(非戦闘員)
歩士150
  挟箱持150(非戦闘員)

兵卒
鉄砲足軽200
  小者200(非戦闘員)
弓足軽100
  小者100(非戦闘員)
槍足軽500
昇足軽100
  小者200(非戦闘員)
徒差物足軽200

輸卒
手明夫(予備輸卒)650(非戦闘員)

戦闘員1400
非戦闘員1600

計3000

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:03:06.51 ID:63wy7W1Q
兵力の実数で輸送部隊の配分まで書いてあるのはあんまなかったんでちょっと転記してみました
日本戦史 朝鮮役は現在文庫版も出てますが、要約版なので一部図表が省略されています
国会図書館デジタル版を参照ください
でも詳細は別ページって書いてあるのにそのページの画像が抜けてるんですよ国会図書館さん・・

363 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:06:12.71 ID:63wy7W1Q
同じく

文禄元年(1593)五島純玄隊編成表
五島氏1万5千石のうち1万石での兵賦
軍奉行は参謀役、用人は経理役
小人は将士などの従卒・馬卒、下夫は輸卒

将士
侍大将1(馬1)
奉行(軍・旗・鉄砲・弓・長柄)5(馬5)
使番3(馬3)
用人・大目付2(馬2)
騎士11(馬11)
医師・祐筆・僧侶5(馬5)
歩武者40

兵卒
鉄砲足軽
弓足軽
長柄足軽
旗手
計120

雑卒
小人38
下夫280
船頭・水夫200

計705
馬27



364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/27(日) 21:29:54.49 ID:qEYXjif2
>>363
戦う人が少な過ぎるって思うけどこんなもんなんだろうな

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 08:20:28.11 ID:sqc6Mded
>>363
1593年のせいか、投石部隊はいないんだな、もしくは刀みたいな予備武器扱いとか?

366 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/28(月) 16:59:20.13 ID:V8D2h7iY
時期としては朝鮮の役序盤だから、末期は鉄砲の比率がどれくらい高まったものなんかな

それ以前に末期だと戦力を輸卒に振り分けられる余裕があったんだろうか

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 17:10:20.65 ID:oHCG034a
非戦闘員といっても刀振り回す事くらいは出来たと思うし単に身分制度のせいで下っ端の者が請負ってた仕事だったんだろ、知らんけど

『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編

2020年09月17日 18:24

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 23:25:16.98 ID:n0r3Rbm9
『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編
(松平康親(左近、周防守)家臣の語ったことで、その覚えていることを記した記録。まとめにあるものは省いています)

・剛毅で鳴らした竹右衛門の初陣
永禄年中、三河東条の近所、横須賀というところに敵が屋敷を構えていた。竹右衛門が押し入ったところ、障子をあけた場所に木戸をつくり、侍2人が差し向かって弓で防いでいた。
竹右衛門が召し使っていた者1人がそこに走り入り、脇差しを抜いて木戸を押し破り、主従で踏み込み、弓を持った武者1人を竹右衛門が切り伏せ、首を取った。
竹右衛門は17歳、まだ権平次と名乗っていたときで、初陣の働きだった。

・姉川での手柄と秀吉
元亀元年夏、織田信長に越前衆が敵対し、近江において合戦があった。
家康が加勢し、松平左近もお供した。その陣で竹右衛門の弟、五味右衛門が馬上の敵と組み合ったとき、ともに馬から落ちた。
五味は若年だったので(落ちた地面で)下に組み敷かれてしまった。そこに竹右衛門は乗り寄せ、馬より飛び降り、上に乗っていた敵を引き破って下に組みふし、五味に世話をして討たせた。
そのとき竹右衛門は葦毛の馬に乗っていた。
太閤はそのとき藤吉郎秀吉と名乗っていたが、馬上30騎ほどで控えており、竹右衛門の働きを見ていた。
秀吉は使いをやって「あなたはどこの侍ですか」と尋ねてきたので、「家康麾下の松平左近家臣です」と答えた。
その後、帰陣し、秀吉が「上方」(山の上の寺の意か)で、「姉川合戦において葦毛の馬に乗って働いていた武者は名乗り出なさい。必ず召し抱える」と言い出した。
帰陣した家康は、竹右衛門が寺に登るべきかと尋ねると、父の伊賀守がこれを聞き、「譜代の主人を捨て、いかに大身になろうとも本意にあらず」と腹を立て、この申し出を受けなかった。
(上方はそのままの意味かもしれませんが、前後のつながりが不明)

・弟の死と倍返し
遠江浜松での合戦で、竹右衛門の弟、五味が討ち死にした。
その日、竹右衛門は同所におらず、この顛末を無念に思い、「この敵を討たなければ、二度と三河に帰らない」旨を仲間に堅く申し置き、ただ1騎にて久野前に出陣した。
すると、武田信玄方の武者が1騎、物見と思えたが、乗り出してきた。
竹右衛門はすぐに掛かり合い、敵を討ち、「五味のかたきを討った」と喜んで浜松に帰陣した。
「まれな働きである」と左近から褒美をいただいた。

・先にもありますが、やっぱりこの時代は騎馬で戦っていた
駿河へ家康が出陣したとき、先手を左近が命じられた。
安倍川の中程にて竹右衛門は敵に乗り向き、馬上より切り落とした。
その武者は切られて川下へ流されていったところ、服部小十郎という者に「その首を取りなさい」と言った。
小十郎に功名を取らせ、そのまま田中八幡山へ同道し、家康にお目見えした。



『老人雑話』より、信長?の意外な発明など

2020年09月10日 18:11

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 22:11:14.28 ID:uTWXNuJz
老人雑話』より、信長?の意外な発明など

・お弁当箱
織田信長の(初期の)時代には弁当というものはなかった。安土城ができて、弁当というものができた。小芋くらいの大きさの中にいろいろなものを詰めていたそうだ。
信じない者がいそうだが、また挟み箱というものもなかった。挟み竹というものを使っていた。
挟み箱は大坂の(織田一族)津田信成が初めて作ったそうだ。

・江村老人が見た信長、細川忠興、そして思い出
織田信長は二条御新造を築き、将軍の足利義昭を従えて慶賀の能があった。「老人」(江村専斎)も4歳くらいで、乳母に抱かれて見物した。
その日、信長は自ら小鼓を打っていた。細川忠興は私よりも年が上で、6歳くらいで猩々を1番舞っていた。
そのとき、帰りに門外にて盗人に(乳母が担いでいた?それとも持ち物の?)後ろのひもを切られたことを覚えていると語った。
その頃、盗人は小柄・笄などを抜き取ることがあった。このために盗人を「ぬき」といった。いまの「すり」と同じことだ。

・三斎さまの母もファッション発明家
木綿足袋がいまのような製法になるのは、細川忠興の母(沼田麝香)が初めて作り、忠興の茶会に出るときに足が冷えるので履いたそうだ。

・自分の昔を思い出した?太閤秀吉
あるとき、太閤秀吉は宇喜多秀家の屋敷で能見物を楽しんだ。
庭に降りるとき、家康が先に降りて(秀吉の)草履をそろえた。
秀吉は家康の肩に手を置いて、「徳川殿に草履を直させるとはねえ」と言ったという。



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 23:24:45.40 ID:UVHCOss5
>>526
こういう話好きだわ

528 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/10(木) 15:27:01.51 ID:k5JSoFGR
一番下の、家康が嫌味なやつになってない?

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 15:57:50.37 ID:Ffsvj1im
妖説太閤記で
家康が秀吉の草履を揃えて秀吉が
「わしもとうとう家康に草履を揃えさせるまでになったか」
と大喜びするシーンがあったけど

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 21:21:32.16 ID:c8+1bs8C
しかしまさか脱ぎっぱなしで放ってあった訳でもあるまいに礼儀的に草履に手を添えてみたぐらいかな

『老人雑話』より、秀吉秘話を選録

2020年09月04日 18:40

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/03(木) 22:22:52.08 ID:1dFb0oYm
老人雑話』より、秀吉秘話を選録

・産出量を超える松茸
山城の国に山里というところがあり、(太閤秀吉から)梅松という僧侶が預かっていた。新たに松を植え、程なくして松林ができあがったので、秀吉に松茸を献上した。
秀吉は笑って、「私の威光がまったくなかったとき、私も(信長に)何度か松茸を献上した。実はよそから買って献上していたのだ」。
秀吉は側近の者に「もう松茸を献上することはやめさせなさい。(松茸が)生えすぎている」と言ったそうだ。

・大清洲捜査網
秀吉がはじめ、微賤の者だったとき、(中間?)衆の間で刀がなくなった人がいた。秀吉は貧しかったので、人々は秀吉を疑った。
これによって秀吉は城下の民家をあまねく尋ね歩き、質屋にあるのを発見した。(質屋に)尋問して盗んだ犯人を捕らえ、信長が狩りに出るときに訴え出た。
信長は感じ入り、初めて微禄を与えたそうだ。

・中国大返し、政宗っぽい秀吉
明智光秀織田信長を討ったとき、秀吉は軍を返し、途中の尼崎の寺に入り、「法体」(出家)して京に上った。「素衣白馬」(死を覚悟)の心だった。
その寺にはいまも寺領があるという。

・信長へのはったりと大ウソ
松永久秀が(信長に謀反して)籠城したとき、信長は討手に秀吉を派遣した。
その後、秀吉から書状で信長に(攻撃前から)注進しようとした。
「何日には総構えを破り、何日には二の丸を破り、何日には久秀の首を取った」。
(秀吉の)右筆が「これで大丈夫なのですか?」と聞くと、秀吉は「この通りにならなければ信長様は私を殺す。もし計画通りにならなければ私は死ぬ」。
(秀吉は)そのスケジュール通りに「無理に討破り」、久秀の首を箱に入れて信長に届けた。
信長が言うには「この首は偽物だろう。久秀は首になっても私の前に出てくる者ではない。秀吉が(誰かの首を)たばかって送ってきたのだろう」。
箱を開いてみれば、まさにそうだった。
久秀は最後まで降伏せず、鉄砲の火薬に火をかけて焼け死んだ。

※北陸遠征で無断帰陣したあとだったので、ハッスルしたんでしょうか?大将は信忠ですけど



見聞談叢より 太閤時代の茶の湯

2020年09月03日 16:22

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/02(水) 21:27:24.57 ID:EkTrbIWX
見聞談叢より 太閤時代の茶の湯

太閤の時代の茶人は明け方ごろまで茶室に湯を沸かしておき、近づきのない者でも
通りがけに案内なしに茶室に上がって自分で茶を立てて飲み、また出て行ったと聞く。
ある夜更けに、太閤がどこからの帰りか、ふと「今自分でも茶室に湯をわかしている
ところはあるだろうか」と供の者に尋ねると、供の者が「針屋宗春以外にはございま
すまい」と答えたので、宗春の茶亭に行ってご覧になると、供の者が申したとおりに
湯が沸かしてあったので、太閤は茶を賞玩なさったという。
また、ある夜更けに何者かが宗春の茶室で茶を立てていたが、宗春が召使に「誰か
見てこい」といったので見に行くと、若党を多く連れた侍だった。よく尋ねてみると
石川五右衛門と名乗った。この時代の風儀はこのようなものであったと見える。



515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/04(金) 18:06:35.77 ID:UxjSEEFI
>>511
何かおおらかで素敵やん

『老人雑話』から2話

2020年09月03日 16:20

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/02(水) 21:55:37.14 ID:nhGZs0se
老人雑話』から2話。豪放磊落な人と秀吉の底意地?の悪い話

織田信長の家臣、市橋下総守(長勝)は「放狂の者」だった。(名門である)若狭の武田家より信長に使いがあったとき、(武田家の使いは)広間で威儀正しく控えていた。
市橋が広間を覗いたところ、いかにもすました有様だったので、「見たくもなき奴也」と思った。
そこで使者の前に出て、寝転んで足を使者に向け、手で陰嚢をたたき、「御使者、これほどの(大きな)餅をどれほど食えるか?」と言い放った。
信長は後で聞いて笑いが止まらなかったという


秀吉が小田原の役のとき、関東の地図を見ていて、家康が近侍していた。
このとき、真田昌幸(原文では「阿波守」)が末席にいた。
秀吉は「昌幸、こっちに来て地図を見ろ。おまえは中山道の先手に申しつける」といった。
昌幸は信之の父で、家康と意趣があって仲が悪かった。
その後、秀吉は昌幸を近くに呼んで、「おまえは家康に礼に参じて仲をよくしなさい。長いものには巻かれよ」といった。
(さらに)「長い距離を出陣中で不如意だろう」と袷20枚を進物として与え、富田一白を供に添えた。
家康も「太閤のおっしゃることならば」と仕方なく対面した。
その後に家康が一白に会っていうには「先日(昌幸との対面)のことは仕方ない。今度は石川数正がこのように面会してこぬように太閤様に取りなしを頼む」。
石川とも大いに意趣があって、仲が悪かった。しかし、石川も秀吉は小田原の陣中で家康へ礼に参らせたという

そりゃ、東照宮はどっちとも会いたくないですよね、まして石川数正は。秀吉の配慮なのか、嫌がらせなのか?



見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後

2020年08月31日 19:05

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:11:12.37 ID:Zlebf2X1
見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後
長いので二つに分けます

斎藤内蔵之助と那波和泉守は、二人とも稲葉一鉄に仕えていたが、仔細あって両者浪人し
た。両人光秀と内々懇意であったため、光秀を頼んで信長公に訴えた。信長公が一鉄に詫
びて、那波は帰参したが、斎藤は少しわけあって切腹を命じられた。しかし、光秀が信長
公のそば仕えの猪子兵助を頼んで、斎藤を家臣にした。

明智光秀が没落して家臣が四散するなか、斎藤内蔵之助は近江に逃れたが、堅田で捕らえ
られた。太閤は三井寺の客殿の前に座を据えられ、内蔵之助を引き出してこう言った。
「お前は一鉄入道のところで不行跡があって勘気をこうむったが、光秀のおかげで今まで
永らえた。光秀の逆心のおこりもお前が張本人である。罪深すぎて裁判を行う筋もない。
すぐに磔に申し付けるだろう」と言って、「何か言うことはあるか」と二度もおっしゃっ
たが、斎藤、さして臆した様子もなく、後ろを見まわして、「綱を取っておられるのは、
侍か、雑兵か。左の手を少しゆるめて下さい」と言った。太閤が「望みどおりにせよ」と
おっしゃったので、少し縛りをゆるめた。そこで、斎藤、左の手を地面につけ、「私めは
光秀の家来になっておりましたので、光秀の申し付け通りに働きました。私自身は信長公
に恨みはありませんが、光秀が恨み申したため、家来ゆえ逆心の場まで付き従いました。
逆心をしきりに止めたのは、私でございます。こう申し上げるのは死罪を免れんがためで
はありません。罪人とのお言葉を頂戴したので、申し開きを致したのです。早く命をお取
り下さい」と申し上げ、「この一巻をご覧に入れたい」と言って、左手で右手に括り付け
てあった繻子の守り袋を差し出した。関口左門という御小姓がそばへ寄って右手で受け取
ろうとすると、その様子を見て内蔵之助は、「推参ながら、囚人のそばでは右手は出さな
いものです」とにこやかに言った。太閤がその一巻を開いてご覧になると、いつのまにし
たため置いたものか、光秀の逆心を止める諫めの書状と、それに対する光秀の返事だった。
「お前がこのたびこれを戦場まで持ち来ったのは、隙を見て降参して、この書状で恩賞を
得ようという心づもりだったのだろう。沙汰の限りの者だ」と太閤がおっしゃると、内蔵
之助、「それは普通の人の言葉、筑前守どののお言葉とは思えません。私めが心底光秀を
大切に思っていたことを、死後まで世の人々に知らしめたいばかりでございます。早く命
をお取り下さい」と言って、その後色々とお尋ねあったが、「もはや申し上げても詮無い
ことです。お許しあれ」としか答えなかった。

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:15:08.68 ID:Zlebf2X1
(続き)
光秀の屍が捜索の末探し出されると、首をつなげて粟田口で磔にせよという命令が下さ
れた。内蔵之助も同じ場所で磔にされることになった。光秀の槍取りは澤村権七という
足軽、内蔵之助の槍取りは伊澤十平という足軽だった。両手を釘で固定されるときに、
内蔵之助が「左手より右手が下がっています。これでは顔が真正面を向きづらくなりま
す。釘を打ち直して下さい」と言った。そのため、釘を打ち直すと、にっこりと笑って
「今少しお待ち下さい」と言って両目を閉じると、

屍ハ草野ニ埋ムト雖モ 魂魄遠天ニ帰ル 生死風前ノ燭 悟ルガ故ニ胸中鮮ヤカナリ
柳ハ緑花亦タ紅 三界眼前ニ尽ク

と大声で右の詩を唱え、「死後、この詩を丹波、亀山の永元和尚へ伝えて下さい」と奉
行に頼み、「万が一お忘れになってしまっては本意ではないので、もう一度申し上げま
しょう。書きつけておいて下さい」ともう一度唱えた。奉行が矢立で紙に書きつけると
「これにて人界からお暇しましょう」といって目を閉じた。両脇を槍でつかれた後、
また目を開いて、「因果深いとは、私のことを言うのでしょうか。まだ息が絶えないで
います。もう一度急所を強く突き通して下さい」と言って、また目を閉じて唸り声を上
げて死んでしまった



『多聞院日記』より、本能寺前後の話

2020年08月28日 17:10

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:02.81 ID:+of7yAKA
多聞院日記』より
本能寺前後の話(一部、まとめにもあり)。奈良の僧侶が見聞きした、ウソも真実も混じった当時の情勢記録。
もろもろ、論文などに引用されていますが、改めて見返すと、あのときの世情を追体験できる記録なので、抜粋します。
また、多聞院英俊が一日の終わりに日記を記しているのではなく、なにか興味深いことを聞くとすぐに日記に記していたことも分かると思います。
英俊はかなりのニュースマニアだったと思われます。追記で「ウソ」などと記してもいますし。


天正10年4月
近頃、乾の方角から彗星が現れた。光の元は戌亥、末端は辰巳の方角。光の長さは10丈もあるように見えて、近年は見なかった長さだった。恐ろしいことだ(追記、「信長生涯ノ先端也」)
6月2日
筒井順慶が今朝、京都に上ったところ、「上様」(信長)がすぐに西国に出馬するといって、安土へ帰ったそうだ。なので、順慶も奈良へ帰った
信長が京都で殺害されたらしい。信忠も殺されたようだ。明智光秀と津田信澄が申し合わせて殺したという。(追記、「コレハウソ」)
未明のことで、朝方に漏れ伝わってきた。盛者必衰の金言があるので、驚きはしない。
諸国がことごとく(織田家に)反逆してくるだろうか。世は常ならず。日を追って眼前になった。状況はたしかにはわからない、どうなるのだろうか。
3日、未明から大雨が降った、京都の様子は確実な情報は届いていない。二条御新造に信忠が逃げ入り、正親町天皇を人質に取り、今上天皇も殺害された(追記、「ウソ」)。
京より注進があって、信長は本能寺で、信忠は二条御新造で殺害された。菅屋長頼、村井父子3人、福富秀勝、このほか小姓衆500~600人が殺された。
光秀はまず坂本へ入り、大津、松本、瀬田に陣取ったらしい。「細川殿」も死んだようだ。
今日、奈良の軍勢はことごとく大安寺、辰市、東九条、法花寺のあたりに陣取ったようだ。どうなることか。
4日
順慶と南方衆、井戸の軍勢が光秀勢のもとへ出陣したようだ、どうなんだろうか
5日
昨日、京へ出陣した筒井軍は撤退したそうだ。ならば織田信孝と申し合わせてのことだろうか。ありそうな話だ。
大坂において津田信澄が殺されたそうだ。光秀の婿で、一段の器量のある者だった。信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆などがやったのか。ただ、ウソかも知れない(追記、本当だった)
伊賀では織田信雄の勢力の城が空城になり、浪人衆が入城したようだ
安土は4日に光秀方の手に落ちた。佐和山(長秀の居城)には山崎片家が入った。長浜には斎藤利三が入った。
筒井軍は先日、京都へ向けた軍を近江に向けた。順慶は光秀と堅く盟約を交わしているとも言う。どうなるのだろうか。
9日
今日、河内へ筒井軍が出撃するという沙汰があったが、にわかに繰り延べになったらしい。また、郡山城へ米と塩をにわかに入れたという。なぜ方針を転換したのか。不審である。
10日
先日、京都へ向かった筒井軍は近頃、帰ってきていた。羽柴秀吉が近いうちに上洛するのが決まったので、これによって判断を変えたと聞こえてきた。
14日
昨日、光秀より藤田伝五が順慶のところに来て、同心せず交流を絶ったが、木津まで帰ったところでまた呼び返したという。なんなのか、心苦しい。
秀吉に順慶は味方すると誓紙を送っている、村田と今中が使いだったらしい
井戸覚弘、この間に病を患い、9日に死んだ。深くその死を隠したと言うが、本当かどうか。まったくのウソだった。
今日の朝方に郡山で順慶が切腹したと連絡があった。とてつもなくびっくりしていたところ、「順慶ではない、藤田伝五に腹を切らせた」と言ってきた。
肝を消していたが、それもウソだった。奈良中でそんな状態だった、天魔の所業である。
奈良中で資産を隠しだした。光秀の家来が隠したものを盗んだ者を2人殺したという。気持ちが沈む。
12日(後記か)
秀吉が摂津にやってきた、「猛勢ニテ上」。家康はすでに安土に着いて陣取りしているらしい。どうなるのか。光秀軍は八幡と山崎にいる。
。淀のあたりまで光秀軍は撤退するのではと噂されている。これによって奈良中は静かになった。
隠し物を盗んでいたのは井上九郎三郎の者どもで、3人を殺害し、いよいよ奈良は静まった。
13日
勝竜寺城が落ちた。秀吉は京に上り、光秀は坂本へ逃げ落ちたという。本当だろうか。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:56.34 ID:+of7yAKA
(続き)

14日
日中まで大雨が降った。うち続く大雨、これまでになかったことだ
15日
夜を通して雷鳴が鳴り、大雨が降った
去る12日、光秀軍は数千人の損害を出した。坂本へわずか30人ばかりで逃げ帰り、秀吉は大津まで前進した。
今日、山から見て見ると、比叡山の東の方が大きく焼けていた、と(誰かが)いっていた。必ずや、坂本の町を焼いて城を攻めていると風聞があった。
順慶は今朝、1000人ばかりで出陣した。昨今は6000~7000人ばかりで出陣していたという。
今夕、醍醐に陣取りしたが、秀吉が陣を見て、「曲事である」と言い、「すべて天下は信長の御朱印のようにしなければならない」と命じた。もっともなことだ。
5月の23日まで雨は降らなかった。24日より降り始め、20日以上降っていた。今日は雨がやんで天気がよかった(私の注記、本能寺前後はずっと雨が降っていた)
先日の合戦で光秀が討ち死にしたのは間違いないという、時が終わった
(日付不明)
順慶の行動は曲事と(秀吉方から)沙汰があって、またも奈良中で資産を隠す。気持ちが沈む。
17日
光秀は12日に勝竜寺から逃げて、山科にて一揆にたたき殺された。首も胴体も京都に移されたという。あさましきことだ。
細川幽斎の中間だったのを引き立て、信長が厚く恩を与えて召し使ったのに、大恩を忘れて曲事に至った。天命かくのごとし。
斎藤利三が生け捕られて安土へ勾引されたという。天命天命。
18日
本能寺では光秀をはじめ、首が3000ほどあるという。斎藤利三は17日に京で引き回され、首を切られたという。
21日
近衛前久が死んだというので、一乗院はもってのほか取り乱した。間違いなく(近衛生害は)ウソだろう。
29日
大乗院殿が安土より帰った。信孝と昵懇で礼があったというので、めでたいめでたい。信雄と信孝の考えが合わないので、諸軍勢がいまだ帰陣していないようだ。
7月6日
天下の様相は、柴田勝家、秀吉、長秀、池田恒興、堀秀政、以上の5人で「分取ノ様」にその沙汰があった。信長の子供はその議論の俎上にも上がらなかったようだ。あさましいことだ。
7日
天下の様相、信雄と信孝が争いをやめないので、両人とも秀信の名代を辞退し、信雄は伊勢と尾張、信孝は美濃、信包は伊賀(追記、「ウソ」)。
柴田は長浜(20万石)、堀は秀信のおもり、これによって近江中郡の20万石、長秀は高島郡、志賀郡、恒興は17カ所と大坂を知行した。
秀吉は山城と丹波(丹波は羽柴秀長の知行)、西ノ岡と勝竜寺以下、河内の一部を得た。
おおむね、秀吉が主張した通りだった。それなので下京六条に城をつくるという。(秀信の)名代はいないまま、5人で議論を交えて(秀信を)もり立てようということになった。
順慶は大和一円と宇治郡、宇多郡も知行したらしい。秀吉が推薦したそうだ。これで奈良は平穏か(追記、「ウソ」)。もっともなことだ。
このように決まり、欲がまざってまた、信長の子供がたくさんいるのに、まったく議論にならなかった、「クルイ」が出てきたのではないだろうか。
8日
今日、秀信(3歳)が秀吉のお供で京にいる。諸大名が御礼をしたそうだ



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/28(金) 14:01:20.05 ID:X7bjes8W
コウモリが思ってた以上にふらふらしてた
信長様が生きてても判断が遅い!ってどっかで粛清されてたかも