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「続武家閑談」から「秋月居城姑取山を生駒雅楽頭に御預けの事」

2023年05月01日 19:02

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/30(日) 20:25:20.02 ID:wzp3miEb
続武家閑談」から「秋月居城姑取山を生駒雅楽頭に御預けの事」

秀吉公は秋月氏居城の古処山城を生駒親正に御預けになられた。
親正がたいそう険しい古処山に乗り上げると、西国武士どもは驚き
「馬に鳥が生えて白い轡をはめ、鳥も通わぬところを通るとは、稀代のことだ」と口々に言った。
これは乱世により諸国から九州に馬面・馬鐙・白轡の進呈がなく、九州の者どもがそれまで知らなかったためである。(?)
秀吉公は秋月の東北の荒平に陣を敷き、二日逗留して仕置きを申しつけ、肥後へ出発された。
鍋島直茂ら九州の軍勢が先手を勤めたが、西国衆のいでたちははなはだ見苦しかった。
また指物を請筒(受け筒)に指すことを知らず、縄で背中に指したり、肩にかたげたりする者も多かった。
それを見た上方勢が手を打って笑ったため、直茂が秀吉公に申しあげたところ
秀吉公「そのように上方勢が国ごとのならいを知らずに笑うことこそ不覚である。
今後そのようなものがいれば罰しよう」
と戒められたため、以後笑うものはなかったという。



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「続武家閑談」から「秀吉公九州へ発向軍略の事」

2023年04月28日 20:24

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/27(木) 19:31:55.77 ID:mjz2t1qD
続武家閑談」から上の続き「秀吉公九州へ発向軍略の事」

秀吉公は豊前厳石城(岩石城)を始めとして大隈城以下を攻略し、大隈の城に陣をとった。
秋月の侍どもが姑所城(古処山城、秋月氏本拠)からながめると嘉麻一帯の寺部は山川残らず兵であふれ、夜になると篝火が万も焚かれ、灯会のようであった。
夜が明け、大隈城を見ると一夜のうちに腰板がうたれ、白土が塗られていた。
これは播磨の杉原紙を壁に貼り、家屋の戸板をはずして腰板になされたのであった。
秋月勢は「さてこそ天魔の仕業であろうか」と仰天した。
秋月種実親子も、江利内蔵介の忠言を今更ながら思い出し、降参した。
そして内蔵介を厚く葬り「鳴渡の観音」とあがめたのが、今でも残っている。



「続武家閑談」から「江利内蔵介、広言により切腹のこと」

2023年04月26日 19:10

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/26(水) 00:21:10.25 ID:hsBCYKEj
くずし字の解読をした上でなので、不備があったらすみません
続武家閑談」から「江利内蔵介、広言により切腹のこと」

秀吉公の九州征伐の時、秋月家から聘使と偽って江利内蔵介というものを差し遣わした。
江利は広島で秀吉公にお目見えした。帰ったのちに主君である秋月種実に申すことには
「このたび秀吉殿下の軍勢は何十万騎と限りなく、四国中国はことごとく先手となっております。
九州の諸将からも聘使が集まっておりましたので、かくなる上は島津殿に御降参を勧めるべきでしょう」
すると種実・種長親子を始め、みな異口同音にどっと笑い
「汝は臆病か、またはよい脇差をもらったゆえに降伏をすすめるのか。
その猿冠者は下賤の者であり何ほどのことがある。
当家は漢の高祖の子孫で武勇で名高い。
(後漢の霊帝の孫、阿智王の子孫とされる。
阿智王の息子である阿多陪王が斉明天皇に三男子を産ませ、真ん中の子が大蔵氏(原田氏、秋月氏、高橋氏などの祖)となったという荒唐無稽な話も)
ことに八町坂の大切所は難所であり、日本・唐土の軍勢がひとつになって攻めてきても何ほどのことがあろうか」
とおのおの口々に申した。
内蔵助は重ねて「不肖の身で広言いたしますが、このままでは当家の運が傾きます。
もう一度同じことを申します」と言ったが
「憎き雑言をまだ言うか。腹を切れ」
と言われたため、切腹して果てた。
こうして秋月種実は八幡宮に詣でて、くじを引いたが「秀吉に従え」と出た。
すると板並左京進が進み出て「くじは三度引いてこそ吉凶が定まると申します」
とかねて用意した「一吉」「二吉」とすべて吉の字を書いたくじを取り出し、種実に引かせた。
こうして二つとも「島津に味方せよ」というくじであったため、秋月は薩摩方となることにした。



ある時の秀吉と家康の会話

2023年04月19日 19:05

809 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/19(水) 17:24:36.68 ID:S9OmN5yQ
異説まちまち』からある時の秀吉と家康の会話

太閤「井戸に釣瓶を落としてしまった。道具を使わずにこれを引き揚げるにはどうする?」
神君「大人数で井戸へ水を汲み入れ、二本の指でその釣瓶を引き揚げましょう」
太閤「私と同じ考えだ。私の死んだ後は、天下の主は貴殿であろう」

一応いい話に



「博多記」から神屋宗湛

2023年04月16日 16:20

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/15(土) 19:04:07.05 ID:9+E2Bn0r
「博多記」から神屋宗湛

神屋宗湛は肥前国唐津に仮住まいをしていた。
そのころ天下に名の知れた茶人である千利休や天王寺屋宗及(津田宗及)にも会い、自分も名を世上に知らしめようと唐津を出て入京した。
茶道において有名な京大坂の僧俗の間でも抜きん出ていたため、秀吉公がはなはだ感心なさった。
天正十五年(1587年)正月三日、秀吉公が大坂城で諸大名を招き茶会をなされたときも宗湛を召して茶をあがらせた。
この時、石田三成の取り持ちで名器を秀吉公に進上した。
虎皮二枚、豹皮一枚、照布(上等の麻布)二編、沈香一斤であった。
天王寺屋宗及がこれを取り次いだ。
このときから秀吉公の寵を受け、茶会でも近侍し、諸大名にも招かれた。
秀吉公の弟の大和大納言秀長卿も、大和郡山城に在城されていた時も参謁した。
こうして秀吉公恩顧の者となったため、秀吉公が筑前に下向された時もつき従い、(島津軍により)焦土となった博多を御覧になった時も御供した。
また天正十五年六月十九日、秀吉公は御陣所にて神屋宗湛と島井宗室にお茶をくださり、
二十五日には筥崎赤幡坊で秀吉公へ宗湛は御茶を立てた。細川幽斎も御相伴であった



「博多記」から島井宗室についての話をふたつ

2023年04月14日 20:14

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/14(金) 16:51:10.92 ID:q22LVapy
鶴田自反「博多記」から島井宗室についての話をふたつ

島井宗室の家に名物の楢柴という茶入(楢柴肩衝)があったのを、秋月種実が所望した。
秋月が押しかけるという風聞があったため、島井一家は宗室に「秋月に譲ってしまえ」と意見した。
こうして秋月から遣いがきたため、宗室は数寄屋で饗応し、楢柴の茶入れを渡した。
使者が門外に出るやいなや、宗室は数寄屋を崩した。
秋月からは楢柴の茶入の礼として大豆百俵が参ったそうだ。
そののち秀吉公が島津征伐に御下向の時、秋月種実は嘉麻郡芥田村までまかり出て茶入を献上したという。

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/14(金) 16:52:27.12 ID:q22LVapy
秀吉公が大坂城で島井宗室をお呼びになったため、島井宗室は夜に日を継ぎまかり出た。
大坂川口で石田三成が出迎えて宗室に言うには
「このたびその方を呼んだわけだが、朝鮮征伐を秀吉公が思しめした。
その方は朝鮮にも度々渡海いたしておるため、詳細をお尋ねになるであろう。
そこでこのように申し上げよ」
といちいち申し合わせた。
さて秀吉公が御対面あそばされ
「このたび朝鮮征伐を思い立ったため、その方を呼んだ。
ついては思うことをいちいち申せ」
との御意であったため、宗室は
「朝鮮は韃靼につづく要害の地で日本とはかなり異なります。
征伐はなさらぬが良いでしょう。」
と石田三成の教えの通りに申しあげた。
ことのほか秀吉公は御機嫌を損し
「われが思い立てば、唐土四百州を押し潰すことでさえ、たなごころをかえすほどである。
商人ゆえにそれさえも知らぬようだ」
と仰せになり、奥にお入りになられた。
宗室はこれ以来、秀吉公に呼ばれなくなったという。



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/14(金) 19:29:09.22 ID:0Zo8UGwy
https://i.imgur.com/alxP07H.jpg
https://i.imgur.com/7rDgat9.jpg
天下三肩衝と言われた楢柴肩衝といえど命には換えられない
(大豆百俵は安すぎるけど)

「朝野雑載」から筑紫広門、秀吉に謁見

2023年04月10日 19:25

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/08(土) 22:37:02.89 ID:W1P9uE03
朝野雑載」から筑紫広門、秀吉に謁見

筑紫上野介(筑紫広門)は大阪に上って太閤に謁見した。
太閤「筑紫では我のことをどう言っておる?」
上野介「西国においては、上様については人ではなく神のように申しております。
また上様のようなお方を見出された信長公は、なおさら霊妙な御知恵だと申しております」
これを聞いた太閤は
「その方の申すとおりである。しかし信長は片目であった」とおっしゃった。
上野介「信長公が片目だとは聞いたことはありませんが」
太閤曰く「信長は片方の見えている方の眼では我のようなものを見出した。
しかし見えていない方の眼では明智のような悪人を良い者として取り立てたのだ。
まさしく片目ではないか?」



「続武家閑談」から、樋口石見守(樋口知秀)武勇のこと

2023年03月31日 19:23

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/30(木) 23:47:50.84 ID:wJymD5x+
「続武家閑談」から、樋口石見守(樋口知秀)武勇のこと

近江国の杉の沢に樋口信濃守盛継という武士がいた。
佐々木定頼(六角定頼)の配下として細川晴元を助けるため播磨に出陣した。
入江左近将監は樋口と同家だったため、両家あい並び武威をふるった。
樋口信濃は芥川城で卒去したが、その子供が石見守知秀である。
芥川城落城の時、家来の田村与七兵衛というものが守護した。
永禄十二年(1569年)正月、公方義昭が京都本圀寺御寓居の時に三好三人衆が攻めてきた。
このとき石見守は馳せ参じ軍功を成したため、信長に召し出され秀吉公につけられた。
近江・越前でも抜群の軍功をあげた。
その弟の樋口兼継も荒木村重の反乱の折、信長公の味方として出陣したが、太田川で戦死した。
石見守はその敵勢を突き崩し、一人を討ち取った。
そのとき池田恒興から笄を賜り、今に伝来している。

石見守はそのころ有名な太鼓の名人であり、秀吉公の寵を受け従五位下に叙し山城で百二十石を拝領した。
天正十八年(1590年)の小田原の陣では鼓の筒の指物をさしてお供し、御陣場で権現様から杯を頂戴した。(今も伝わる)
名護屋の御陣中でも秀吉公に出仕し七百石の加増を賜り千石を領した。
そのほか山崎八幡の奉行や、播磨摂津の道割の監督も務めた。
慶長五年(1600年)九月に権現様が関ヶ原で御勝利された時は重病であったが山科まで参上し拝謁した。
権現様から御感の上意があったという。
翌年四月に山崎近辺の別所村で卒した。

その子、甚七知直は幼少であった。
秀吉公から賜った亀の笄、ならびに遺品である樋口肩衝を献上して本領別所村の安堵を願った。
権現様は不憫に思われ、片桐且元、大久保長安に仰せつけられ安堵を認められた。
甚七は成長後、江戸にいたって白書院で秀忠公に拝謁し、御朱印を頂戴した。
寛永三年(1626年)の秀忠公御上洛の時、土井利勝が奏者として顔合わせをした。
秀忠公から「父によく似ている」との御言葉があった。
父同様に太鼓が上手なのでそののちも芸をあいつとめ、子孫も引き続き別所村百三十五石を領し、江戸に毎年参勤して太鼓の芸を上覧にいれた。
とはいえ武士であり、猿楽の四座とは別物と若年寄衆も承知されていた。
しかし子孫の久左衛門秀植の代に至って、貞享の頃観世座の合属となってしまった。
まことに武門が嗜むべきは弓馬の道、愛するべからざるは遊芸である。
その道をもて遊び、ついに役者に落ちてしまったこと、嘆くに余りある。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13843.html
「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

小田原の陣での話はこちらにもあった



「続武家閑談」から宮田光次

2023年03月13日 19:20

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:05:49.62 ID:nGsppXvO
「続武家閑談」から宮田光次
神子田半右衛門(神子田正治)、宮田喜八郎(宮田光次)、戸田三郎四郎(戸田勝隆)、尾藤甚右衛門(尾藤知宣)は秀吉草創の時に軍功が大きかったため、都鄙に名が知られていた。
(このあと神子田正治の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13315.html )
こうして秀吉公自ら神子田の晒し首の前の札に
「神子田半右衛門は敵前逃亡をした臆病者なので悪口を書く」と書きつけられた。

宮田についてだが、中国退治の間に戦功が甚だ多かった。
ある時、論功行賞の場でそれぞれの将に入れ札をさせたところ、宮田喜八郎に「逃げ札」が多く入った。
秀吉公は「信長公の御時、林新三郎に逃げ札が七枚入ったため、信長公は御自分でその札を新三郎にくだされ、
信長「臆病者でもその方ほどとはな。
その方でこのようであれば、入れ札など役に立たぬな」
と笑いなされたという。
その方に札が入ったのも同じことだろう。」
と喜八郎に札を下されたそうだ。
秀吉公いまだ天下を統一する前に、宮田は三木城攻めで戦死したという。
戸田三郎四郎、のちに武蔵は関ヶ原で討ち死にした。(実際は朝鮮出兵から帰る時に病死)



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:50:58.98 ID:u4UaIy7F
イイハナシナノカナー

707 名前:705[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 18:31:48.51 ID:6PqIzfiZ
おそらく同じ文章を訳したのだろうけど、ウィキペディアの解釈と自分の解釈がかなり異なっていたので、原文を併記しておく。

ウィキペディア
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/宮田光次
中国退治遠征のとき、宮田喜八郎は戦功が著しかったが、
ある日、将士の戦功を詮議した際に秀吉が喜八郎に多くの入札をして評したところ、喜八郎はその場を逃げ出したが、(皆からの)札が多く入った。
秀吉がいうには、
信長公の家臣にも林新三郎というものが同じようにその場を逃れたが(不在でも戦功ありとする)札が7枚入ったので、信長公は自ら新三郎を称賛されて、
臆病者どもはその身の言い訳のために戦功詮議に出席するがお前のような殊勲者はその場を遁れてさえても7枚も入札されるのだから入札するまでもないといって笑った、
ということがあった。秀吉は喜八郎もその気持だろうといって、札を与えて賞したという[3]。

原文
中国退治の間、戦功甚だ多かりき。
或時、戦功詮議に入札多く致させ給ふ処に宮田喜八郎逃れたりと札多く入ぬ。
秀吉公いわく
「信長の御とき林新三郎事を逃札七枚入たりしを、信長御手つから其札ともを新三郎に下され
「臆病者でも其身のみわけに斯のことし、其方にさへか様なれは入札用に立ぬ事なり」と笑ひ給ふ。
其方入札も此心なり」とて喜八に賜りける。

708 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/13(月) 08:56:51.11 ID:I+/rUjav
>>705
入れ札で論功を判断していたのか。
勉強になったわ。

709 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/13(月) 09:01:24.77 ID:I+/rUjav
>>705
こちらの訳の方が自然に見えるね。

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/13(月) 11:55:09.74 ID:Lm1LxlrS
各々が自分の戦功を主張して場が乱れるから、各々に格付けしてもらって総計を取った感じか
でもなんで逃げ出す必要があるんだ?
他人の評価なんかしたくねえ!俺がイチバン!ていう奴だったのか

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/13(月) 15:05:26.52 ID:eeE8J6i+
単に照れ屋さんな気が

「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

2023年03月06日 19:44

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/06(月) 12:43:20.98 ID:Y3zjxpvb
武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

天正十八年(1590年)三月二十八日、太閤秀吉公が三枚橋に御着陣されたため、先手の諸大将が浮島が原までまかり出た。
織田信雄公、権現様も同じく御辺に出られた。
秀吉公は金小札糸緋威の鎧、唐冠の兜、金の大熨斗付きの太刀二振を帯し、金の土俵空穂の上に征矢一筋を付け、作りひげをつけなさっていた。
仙石権兵衛が進上した朱滋の弓をお持ちになり、金の瓔珞の馬鎧をかけた七寸の馬に乗られていた。
供の面々は異類異形の出立ちで、千利休は金の茶筅のついた七節のえつるを指物とし、極の口(樋口?)石見は鼓の筒の指物、狂言師の番内は三番三(三番叟)の装束で、その他さまざまな出立ちであった。
権現様、信雄公はお進みなさり、ことに信雄公は秀吉公の主筋であるため乗り打ちはどうしようかと思しめした。
その上、両大将とも小田原との内通の雑説もあるため、礼儀とはいえ御両将の前で秀吉公は馬からひらりとお降りになり、太刀を御手にかけ
「信雄、家康逆心と承る。立ち上がられよ、一太刀参るぞ」とおっしゃった。
信雄公は赤面して言葉が言えなかった。
権現様は諸人に向かい
「御陣初めに太刀に御手をかけられるとはめでたいことです。何もかもめでたい」
と高らかにおっしゃると、秀吉公は何も言わずに御馬に乗り、お通りになった。
諸軍は権現様の御智勇に感心した。



702 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/10(金) 13:19:38.82 ID:AqPhcBaW
>>699
こういう掛け合いができるから、秀吉も家康を信頼したんだろうな。

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 15:19:04.75 ID:w0q880jL
馬鹿だなあ 無能だったら潰しやすいのに
有能ゆえに扱いに困るんだわ

「続武家閑談」より「秀吉公 家康公の旅宿へ御来臨のこと」

2023年02月19日 17:41

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/18(土) 19:22:49.71 ID:PgV/ljYw
続武家閑談」より「秀吉公 家康公の旅宿へ御来臨のこと」

榊原康政が上洛させられると、秀吉が密かにその旅宿に御来臨され、忠臣であると賞され
「さて明日謁見の時は、昔頼朝が青狩衣に立烏帽子でなさったようにしたら面白いだろう。そのように心得られよ」
と熟意を尽くしなさった。
翌日登城なされた時、果たして右の狩衣と烏帽子で対面なされたという。

秀吉と家康との和睦の時、まず榊原康政が使者として上洛した時の話のようだが、タイトルには家康と書かれている。
家康との対面の前夜に宿に訪ねて行った逸話との混同だろうか。



そこに参加していた大谷刑部少輔吉隆は

2023年01月10日 19:31

547 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/01/09(月) 19:10:33.28 ID:vjiAFdO6
太閤となった豊臣秀吉が諸将を招き、自ら茶を立てた時のこと。

そこに参加していた大谷刑部少輔吉隆はライ病を患っていた。
茶碗が諸将を間を廻り、やがて吉隆の手に移った。
太閤殿下が自ら立てた茶であり、恭しく茶碗を口元に運んだところ、血膿の混じった鼻汁が茶碗の中に落ちてしまった。
弓矢を取っては万夫不当の勇者である吉隆もこれには困ってしまった。
居並ぶ面々は誰も気づいていないようなのでこのまま廻そうかと思ったが、血膿の混じった茶をわからぬとはいえ他人に飲ませるのはさすがに心が恥じる。
さてこの場をどう取り繕ったものかと途方にくれていると、その様子を見ていた太閤はそしらぬ顔で「刑部、その茶は加減が不味いからもう1度立て直そう。茶碗をこちらへ返せ」と手を伸ばしてきた。
それによって益々惑ってしまった刑部がまごまごしていると、太閤はひったくるように茶碗をもぎとると、血膿の入った茶をグッと飲み干してしまった。そして新しく茶を立てなおしてまわした。
面目を保つことができた吉隆は、ほっと吐息を漏らしたという。

有名エピソードの少し違う版。『豊臣秀吉言行録』より



御行儀悪敷御座候

2022年12月04日 16:30

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/04(日) 12:11:43.76 ID:GZ91WaCM
金吾中納言(小早川秀秋)は、小早川隆景の養子となったが、隆景が相果てた後、
御行儀悪敷御座候との秀吉公の御意があり、筑前国が召し上げられ、越前に三十万石にて
遣わされた。その後さらに、丹波へ国替えをされた。越前には青木紀伊守(一矩)が入った。

またこの時、金吾殿の重臣であった山口玄蕃(宗永)は引き離され、秀吉公の直臣として
加賀大聖寺城へ遣わした。

川角太閤記

秀秋は越前北之庄に減知転封の時点でまだ十六歳と考えると、御行儀悪敷御座候という理由は
ちょっとかわいそうな気も



貴所よりは位が上であるのだから

2022年11月26日 14:33

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/26(土) 09:56:40.14 ID:g5uzaKWU
天正十八年七月十二日、(小田原征伐の結果北条氏は降伏し)北条氏政は切腹、氏直は高野山へ入ると
していたが、大阪で疱瘡に罹り果てた。氏政の頸は京都へ送られ、堀川通戻橋に掛けられた。
小田原城の請取手は黒田官兵衛であった。

それより奥州へ移動する途中、秀吉公は鎌倉を御見物に成った。
若宮八幡へお立ち寄りに成った時、社人が御戸を開くと、左に源頼朝の木造があったのを御覧になり、
御言葉をかけられた

「頼朝は天下友達である。その待遇は私と同等にすべきだが、この秀吉は関白であるから、貴所よりは
位が上であるのだから、待遇は私より下げる。

頼朝は天下を取る筋の人であったのを、平清盛がうつけを尽くして伊豆へ流し置き、年月が経つ内に、
東国では父親である義朝の温情を蒙った侍共が昔を思い、貴所を取り立てたのだと聞いている。
あなたは氏・系図に於いては多田の満仲の末葉であり、残る所のない(完璧な)系図である。

一方この秀吉は、恥ずかしくは思っていないが、昨今まで草刈りの童であり、或る時は草履取りなどをしていた。
故に系図も持っていないが、秀吉は心にとどまらず、目口優れていた故か、このように成った。
御身は天下取りの筋であり、目口が優れている故とは存じない。つまり、生まれ付き果報が有った故
天下を取れたのだ。」

などと御洒落事を仰せに成ったと承っている。

川角太閤記

有名な秀吉の「天下友達」のお話



玉にもぬける一柳か

2022年11月24日 19:01

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/23(水) 21:44:48.05 ID:NGU3s3zC
豊臣秀吉による小田原征伐の御陣中へは、御公家方の方々より、細川幽斎へ狂歌などが
沢山に送られた。
山中城攻めで一柳(直末)が戦死したが、この事を一女院様より送られたのが、狂歌の初めであった。

 あはれなり 一柳のめも春に もへいで渡る野べのかふりを

幽斎は返歌に

 いとけなく ぐそくをかけて鉄砲の 玉にもぬける一柳か

こういった御狂歌の返歌、また道記などを大帖(大きな屏風)に仕立てて秀吉公の御目にかけた所、殊の外
御感になったと聞こえた。
その道記、狂歌の大帖(屏風)がもし今も現存するとすれば、御出家方の元に有るだろうとの事だ。

川角太閤記


是式の事は中々不苦候

2022年11月23日 19:11

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 20:54:01.75 ID:NkZpqg5g
天正十四年十二月二十日時分に、豊後国より早打ちの飛脚が到来した。その内容は、
豊後国船井という場所の近辺にある、高田川という場所があり、この川を隔てて
仙石越前守(秀久)、長宗我部父子(元親、信親)が陣を取っていたが、川向かいに
薩摩衆が相陣を張った。島津方の大将は、島津中書(家久)と言った。

十二月十七、八日の頃、仙石越前、長宗我部父子はこの川を超えて合戦を仕掛けた。
朝方、戦は味方の両大将の勝ちとなり、頸数五百余りを討ち取った。しかし昼時分より、
豊後国の地の者、尽く一揆を起こし、薩摩方と一つに成って上方勢を中に取り籠め、
裏切りを仕った故に、長宗我部の惣領(信親)も討ち死にした。
それより両大将は敗軍したと、豊前に在った黒田官兵衛の所に報告されたのである。

これを知った官兵衛の分別には
「豊後では敗北したが、これしきのことは問題ない(是式の事は中々不苦候)。
この事を秘密にすれば、帰って陣中は騒ぐだろう。ただ有りの儘に毛利殿陣中に報告するのだ。
仙石越前、長宗我部程度の者が五人三人相果てようと、上様(秀吉)は自身の弱みと成ったとは
思わない。(仙石越前、長宗我部程成者五人三人相果候と申共、上様御弱みと被思召間敷)
定めて上方勢にすぐに命じて、九州へとお下りになるだろう。」

川角太閤記

川角太閤記に見える戸次川の戦いとその敗戦についての黒田官兵衛の反応。



「豊筑乱記」から戸次川の戦いについて

2022年11月23日 19:10

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/23(水) 17:45:02.57 ID:FQfy/CRW
豊筑乱記」から戸次川の戦いについて
太閤秀吉公は島津に再三上京を命じたにもかかわらず島津は聞き入れなかった。
そこで天正十四年(1586年)九月十二日、秀吉公は仙石権兵衛尉元親(ママ)と長曾我部土佐守信親を上使として豊後に下しなされた。
大友義統公を通じて島津に上意を通じられたが、島津は見向きもしなかったため、仙石・長曾我部とも島津を慮外者とののしった。
島津は大友家の武将を次々と調略し、豊後に攻め入り、戸次城も陥落間近となった。
大友義統公はこれを聞き、加勢の人数を送り出そうと思ったものの、もう代を重ねた家臣も信用できないため見過ごそうとされた。
いっぽう仙石・長曾我部は島津の逆意について知らせる遣いを秀吉公に送り出し下知を待つ間ではあったが、戸次城が危ないと聞き六千騎で向かった。
十二月十二日早朝に戸次川を渡り、一挙に島津陣所に攻め入ろうと評定した。
これを察知した島津家久は一万八千騎の軍勢に「上使両人とともに討ち死にする気構えで戦え」と下知した。
こうして十二月十二日の曙に両軍鬨の声を挙げ、矢合わせをしたのち合戦を開始したが、どうしたことか島津方の伊集院軍が上使の軍勢に攻めかかられ引いた。
上使の軍が我先にと逃げる伊集院軍を追い討ちしているところに、二番備えの新納大膳正が三千騎で高所から仙石・長曾我部本陣に攻め入り、
大将島津家久と三番備えの本庄主税軍も一軍となって上使軍に攻め込んだ。
こうしてたった一時の合戦で敵味方三千騎が討ち死にし、長曾我部信親は血気さかんな大将であったため、あまりに深入りしすぎて、数カ所に深手を負い討ち死にした。
上使軍は多勢に無勢、あまりに多く討たれてしまい、仙石元親も勇猛な大将であったがわずか五、六騎を連れ戸次川を渡って豊後の府内めざして引いた。

仙石秀久長曾我部元親が混同されちゃったようだ



近国の野郎の種を断つことが

2022年11月22日 19:14

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/21(月) 22:56:41.53 ID:kbOd9V3r
戌の年(天正十四年)は天下の御普請があり、国々の大小名が洛中に満ち満ちて伺候した。
その時までに九州は(秀吉に)属しておらず、そのため毛利(輝元)殿を豊前へ渡海するよう
仰せ付けられ、御横目として黒田官兵衛。豊後へは千石越前(秀久)、長宗我部父子が派遣された。

(中略)

右の陣所より四里隔たった宇留津という城があったが、ただしこれも高橋(元種)に従っていた。
この城主は”かく”と申し、都合三千計りで立て籠もっていた。

この”かく”は野郎大将であり、その国の所々の案内をよく存じていた。そして毛利陣のはしばしへ、
毎夜夜討、強盗を隙き無く仕った故に、以ての外に陣中も騒然と成った。

この時、黒田官兵衛殿の分別には
「薩摩よりこの地の悪党ばらが、この城に立て籠もっていると聞いた。これを残らず
討ち果たせば、近国の野郎の種を断つことが出来る。」
そのように主張し、討ち果たすことに議定した。

十一月六日、毛利殿臣下の吉川、小早川、宍戸、この三人に官兵衛殿同道して小舟に乗り、
城廻りを押し回って視察した。この城は海より十間十二、三町も隔たっており、よくよく
見聞に及んでその日の内に各陣屋へ帰り、談合の次第に、その日の夜半の頃より人数を繰り出し、
明日七日の五ツ時分(午前八時頃)、この城を取り巻いた。

大手口は黒田官兵衛の寄せ口であったが、即時に大手より攻め破った。
毛利陣の者たちはこれを見て攻め掛かり、その日の七ツさがり(午後四時過ぎ頃)には、
一人も残らず撫で斬りにして討ち果たし、頸数二千あまりであった。

その頃の首実検は天下様より派遣した横目付が担当するものであったので、官兵衛殿が
これを行うようにとの挨拶があった。しかし官兵衛殿からは「ただ毛利殿が御実検されるように」と
互いに相手に対しての挨拶が果てなく続いた。
結局、毛利殿より官兵衛殿へたっての御断りがあり、これらの頸は黒田官兵衛殿が御実検された。

また、彼らの妻子どもも翌日八日に、千ばかりも浜の方で磔にされた。

川角太閤記

秀吉の九州征伐の序盤、豊前方面の様子。



内蔵助を攻める軍勢を出すべし

2022年11月21日 19:47

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/21(月) 19:01:01.76 ID:kbOd9V3r
「越中国の佐々内蔵助(成政)は、秀吉が四国九州へと軍勢を出すならば、定めて隙きが出来たとして、
油断を突こうとするだろう。であるので、内蔵助を攻める軍勢を出すべし」と御議定した所に、
蜂須賀彦右衛門(正勝)が申し上げた

「内蔵助についてですが、彼は供の者六人を召し連れ、国を急に立って浜松に参ったと承っております。
供は佐々与左衛門、いたわ勘右衛門、松木内匠、その他計六人、そのように承っています。
御分別のため申し上げます。」

これに対し、秀吉公の御意には
「家康卿が律儀である所に目をつけ、内蔵助はすぐに合戦という状況で無いために、直談をすべしと
思ったのだろう。しかし今更家康卿に心置きをしようとするなど、口実を作って却って、
毛を吹いて疵を求むという事と同じだ。事が見えない先に聞き出すような沙汰は、必ず上手く
行かないだろう。

家康卿に表裏はない(家康卿表裏有間敷なり)。丈夫である家康を東の押さえに頼り置く事ができれば、
東国の気遣いは無くなる。であれば越中に馬を出そう。」
との御議定であった。

家康卿へは越中に、『御馬出候、加勢少可給者なり』と仰せ遣わした所、本多豊後に都合三千の兵、
そのうち鉄砲三百挺にて家康卿よりの御加勢として素早く上洛に及んだ。

これによって上様(秀吉)は大阪を、酉年(天正十三年)七月二十七日に出陣された。
この時の御分別には、「内蔵助とはこの間まで、肩を並べる傍輩であったのだから、定めて私に対して
疑いが深いだろう。例えこの秀吉に降参したとしても、悪我を張るであろう。
織田信雄は信長公の御実子であるから、信雄を私の旗本と定めよう。内蔵助は堅物であるから、
信雄に対して降参するだろう。」

そのように思し召し、軍勢の路地すがら信雄に対面した時、自身の御旗本のように執り扱ったのは、
その様子を越中に響かせるためであったと聞こえた。

川角太閤記



483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 08:27:03.82 ID:1wYkIu2B
越前と美濃ですら連携に失敗してるのに越中と遠江なら尚更

秀吉の推量は少しも違わなかった

2022年11月16日 19:02

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/15(火) 20:41:39.74 ID:bTevtSEj
(小牧長久手合戦後、織田信雄と和睦を成立させたあと)
秀吉は徳川家康卿を御引き付けさせうようと思し召し、そのための御分別、御工夫に悩み、
寝付けないほどであったと聞こえた。

その段々の御分別の次第だが、秀吉は御あつかい(和睦)を掛けるために、家康の様子や手引を見ようと思し召し、
家康卿の国の様子を御聞きに成るために、人を色々に変装させ、三河遠江へ潜入させた。

この時、秀吉の御分別としては、「家康卿は籠城の支度をするなどあり得ない。ただ一合戦とのみ
定めているだろう。」と思し召されていた。

先の目付たちが帰国し、お尋ねに成ったところ、「家康は籠城の用意など全く見えません。
鷹野や川狩りのような慰み事ばかりしています。」と言う。後から参った目付も同様の報告であり、
秀吉の推量は少しも違わなかった。

そこで秀吉は、御あつかいの為に家康に妹を与え、この上は兄弟に成るべきと、御あつかいを掛けた。
その上で家康卿がまだ合点無ければ、母と女ども、さらに妹の三人を家康卿へ人質に出すべきと、
蜂須賀彦右衛門(正勝)や黒田官兵衛、その他二、三人に仰せ聞かせた。

川角太閤記