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こうしなければ、信長は私を生かさない

2020年11月21日 15:30

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/21(土) 13:24:14.64 ID:h/eHLwQj
松永霜台(久秀)籠城の時、信長はその討ち手として太閤(秀吉)を遣わした。
秀吉は箇条書きを以て信長に注進した。その内容は

『某日、二之丸を破る、某日、本丸を破る、某日、霜台の首を取る。』

と、今後の予定が著されていた。
右筆が「これは如何なものでしょか」と云うと、秀吉は

「こうしなければ、信長は私を生かさない。もしこの通りに成らなければ死ぬ。」と云った。
そしてその期日通りに、無理に討ち破り、首を筺に入れて信長に報じた。
これを見て信長は云った

「これは偽である。霜台は首になっても、我が前に出てくる者に非ず。筑前は機知にて
この事を為したのだろう。」

筺を開くと果たしてその通りであった。
霜台は遂に降伏せず、鉄砲の薬に火をかけ、自ら焚死した。

老人雑話



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秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想

2020年11月14日 17:04

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/14(土) 12:20:30.26 ID:eKnM9SJ7
ある時、豊臣秀吉公がいつもの御参内の時に、御装束を召し変えられている途中、施薬院にこのように云われた

「私は尾州の民間より出たため、草を刈る術は知っていても、筆を取ることさえ知らず、もとより
歌、連歌の道などを知るべきもないが、不慮に雲上に交わりを成す身となった。

ただし、我が母が若き時、内裏の御厨子所の下女であったが、思いもかけず玉体に近づき奉った事があった。
その夜の夢に、幾千万の祓箱が伊勢から播磨を指して、隙間もなく天上を飛び行き、また、ちはやぶる神が
見え、人々の手をとったという夢想を感じて、私を懐胎した。

この夢想が当たったと見えて、私は信長公より、御唐傘を許され播州に発向し、即時に斬り平らげ、別所を
従え、それよりすぐに、九州(西国という意味)にかかり、安芸の毛利と対陣し、彼等を水責めに
攻め殺さんとしたが、無道の明智日向惟任めが、六月二日に信長公を討ち奉ったという飛脚が到来した。

この事、天下にやがて隠れも無い事になるだろうから、敵に知らせず上洛するのは悪しき事だと思い、
しかじかの次第にて急ぎ罷り上がり主君の御弔合戦をいたさんと欲する。ただしこのような状況を見て、
我々の跡を追撃しようと思われるのなら、却ってその武勇は弱きに似ている、尋常に、只今一戦して、
それを弔い合戦にいたすべき、と申し使わせた所、毛利家も、さすがにあわれなることと感じたのか、
又は秀吉が主君のために身を捨てて最後の合戦をいたそうとするのを、恐ろしく思ったのか、異議もなく
人質を出したため、我々はそのまま上洛し、憎き惟任が鉾をほこりにほこって清龍寺まで出張してきたのを、
六月十三日に、山崎表より突き崩し、雑兵まで残らず討ち果たした。

惟任は主君の御罰が当たったのか、冥加尽きて、厠の中で、汚き百姓に殺されたが、その首を取り寄せて、
去る二日に失い奉った本能寺の焼け跡に、梟首にかけて我が鬱憤を散じたのである。

しかしながら、もし信長公が生きていた時、これほどの忠功を致して悦ばせ奉れば、一体どれほど自分も
嬉しいだろうかと、猶悲しみの涙が出て、しきりに落ちる故に、紫野にて御葬を勤め、太政大臣の御位を送り、
大徳寺に一宇を建立し、総見院殿を崇め奉ったのである。

(戴恩記)

秀吉の、出生から信長の葬儀までの回想



義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について

2020年10月27日 16:25

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/27(火) 00:30:24.00 ID:AXIGWCDj
永禄十二年(1569)四月二日
織田弾正忠(信長)の所へ罷り向かった所、留守であったので二条城の普請を見物して帰った。
石垣三重は悉く出来上がり、また南巽のだしの石垣も出来、今は東のだしについて、少々出来ている。
この方にあった近衛の敷地は、悉く奉公衆の屋敷となった。不運の至である。

織田信長の使いの木下藤吉郎が岡殿の所へ参ったので、私も参った。丹州の知行、佐伯の南北両庄について、
細川右馬頭が代官職を内藤五郎に渡さないため、この内藤に、木下が相添えてこれを進め、代官を
仰せ付けると申したことで、近く両人に様々に問答を加え、この両庄より八十石を岡殿に進納することに
定まったという。羨ましい事である(御浦山敷事也)
藤吉郎と対面し、盃を下した。

言継卿記

義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について



『公人朝夕人土田氏由緒』より、信長、秀吉、家康の小便を支配した男

2020年10月02日 18:11

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/02(金) 14:58:00.26 ID:mZG3D0T3
公人朝夕人土田氏由緒』より、信長、秀吉、家康の小便を支配した男
※公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)は出先などで尿筒、つまり尿瓶を懐に持ち歩き、主君の排尿を支える役職で世襲
土田氏は鎌倉幕府4代将軍、九条頼経の時代からこの職務を務めた

永正10年、将軍足利義稙様が江東へ発向されたとき、私の先祖がお供を仕り、将軍が御膳をお召し上がりの時は残飯を拝領いたしました。その際、器の上にお箸を置き、「なんじの家の家紋にしなさい」とおっしゃられたので、それより私の家の家紋にしました。
このように代々召し出され、信長公の御代までは西美濃国の土田村にて186貫の領地をいただき、住んでおりました。
信長公がどちらへいらっしゃるにも私の先祖はお供しました。
天正4年に安土のお城を普請されたときには奉行を拝命し、その後、100石を山城国西岡というところに加増していただきました。
信長公が美濃の居城より信州へ出陣された際には、美濃土田村の先祖の屋敷でご一泊されました。
信長公が他界され、領地を離れてひっそりと暮らしていたところ、秀吉公が関白に任ぜられ、ご参内の折に先祖が召しだされ、供奉しました。
家康様が慶長8年、ご参内の際にも先例を調べられ、同朋の善阿弥殿に命じられ、召し出されてお目見えしました。
御紋の時服と諸太夫の装束を拝領し、御装束櫃に相添え、諸太夫の装束で御小便筒を懐に入れて供奉しました。



611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/02(金) 16:01:28.74 ID:OeCEOrN/
大便はどうしてたんだろう

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/03(土) 14:24:55.98 ID:Gj7tQVI7
数百年かけて練られた土田家の排尿介助術
すごい気持ちよさそう俺も体験してみたい

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/03(土) 20:08:12.61 ID:NWOgh4lw
でも幕府消滅と共にその技術の伝統は断絶してるんだよな。
流石に土田氏が現代まで残ってても、この技術の伝承まではしてないだろうし。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/03(土) 22:08:22.84 ID:IFaIdRQ1
えっこれほんとの話なのか
すごい職があったんだな

立花統虎(宗茂)8万国・(高橋)統増2万国に対する軍役等

2020年09月28日 18:10

361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:02:02.01 ID:63wy7W1Q
日本戦史 朝鮮役(経過表・附表附図)参謀本部編 偕行社(大正13)

天正19年立花統虎(宗茂)・高橋統増(立花直次)軍役表

秀吉より浅野長吉をして立花兄弟に命じたもの、統虎8万国・統増2万国に対する軍役である
立花2400高橋600の軍役であるが両家合計

将士
騎士150 
  馬卒300(非戦闘員)
歩士150
  挟箱持150(非戦闘員)

兵卒
鉄砲足軽200
  小者200(非戦闘員)
弓足軽100
  小者100(非戦闘員)
槍足軽500
昇足軽100
  小者200(非戦闘員)
徒差物足軽200

輸卒
手明夫(予備輸卒)650(非戦闘員)

戦闘員1400
非戦闘員1600

計3000

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:03:06.51 ID:63wy7W1Q
兵力の実数で輸送部隊の配分まで書いてあるのはあんまなかったんでちょっと転記してみました
日本戦史 朝鮮役は現在文庫版も出てますが、要約版なので一部図表が省略されています
国会図書館デジタル版を参照ください
でも詳細は別ページって書いてあるのにそのページの画像が抜けてるんですよ国会図書館さん・・

363 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/27(日) 19:06:12.71 ID:63wy7W1Q
同じく

文禄元年(1593)五島純玄隊編成表
五島氏1万5千石のうち1万石での兵賦
軍奉行は参謀役、用人は経理役
小人は将士などの従卒・馬卒、下夫は輸卒

将士
侍大将1(馬1)
奉行(軍・旗・鉄砲・弓・長柄)5(馬5)
使番3(馬3)
用人・大目付2(馬2)
騎士11(馬11)
医師・祐筆・僧侶5(馬5)
歩武者40

兵卒
鉄砲足軽
弓足軽
長柄足軽
旗手
計120

雑卒
小人38
下夫280
船頭・水夫200

計705
馬27



364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/27(日) 21:29:54.49 ID:qEYXjif2
>>363
戦う人が少な過ぎるって思うけどこんなもんなんだろうな

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 08:20:28.11 ID:sqc6Mded
>>363
1593年のせいか、投石部隊はいないんだな、もしくは刀みたいな予備武器扱いとか?

366 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/28(月) 16:59:20.13 ID:V8D2h7iY
時期としては朝鮮の役序盤だから、末期は鉄砲の比率がどれくらい高まったものなんかな

それ以前に末期だと戦力を輸卒に振り分けられる余裕があったんだろうか

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 17:10:20.65 ID:oHCG034a
非戦闘員といっても刀振り回す事くらいは出来たと思うし単に身分制度のせいで下っ端の者が請負ってた仕事だったんだろ、知らんけど

『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編

2020年09月17日 18:24

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 23:25:16.98 ID:n0r3Rbm9
『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編
(松平康親(左近、周防守)家臣の語ったことで、その覚えていることを記した記録。まとめにあるものは省いています)

・剛毅で鳴らした竹右衛門の初陣
永禄年中、三河東条の近所、横須賀というところに敵が屋敷を構えていた。竹右衛門が押し入ったところ、障子をあけた場所に木戸をつくり、侍2人が差し向かって弓で防いでいた。
竹右衛門が召し使っていた者1人がそこに走り入り、脇差しを抜いて木戸を押し破り、主従で踏み込み、弓を持った武者1人を竹右衛門が切り伏せ、首を取った。
竹右衛門は17歳、まだ権平次と名乗っていたときで、初陣の働きだった。

・姉川での手柄と秀吉
元亀元年夏、織田信長に越前衆が敵対し、近江において合戦があった。
家康が加勢し、松平左近もお供した。その陣で竹右衛門の弟、五味右衛門が馬上の敵と組み合ったとき、ともに馬から落ちた。
五味は若年だったので(落ちた地面で)下に組み敷かれてしまった。そこに竹右衛門は乗り寄せ、馬より飛び降り、上に乗っていた敵を引き破って下に組みふし、五味に世話をして討たせた。
そのとき竹右衛門は葦毛の馬に乗っていた。
太閤はそのとき藤吉郎秀吉と名乗っていたが、馬上30騎ほどで控えており、竹右衛門の働きを見ていた。
秀吉は使いをやって「あなたはどこの侍ですか」と尋ねてきたので、「家康麾下の松平左近家臣です」と答えた。
その後、帰陣し、秀吉が「上方」(山の上の寺の意か)で、「姉川合戦において葦毛の馬に乗って働いていた武者は名乗り出なさい。必ず召し抱える」と言い出した。
帰陣した家康は、竹右衛門が寺に登るべきかと尋ねると、父の伊賀守がこれを聞き、「譜代の主人を捨て、いかに大身になろうとも本意にあらず」と腹を立て、この申し出を受けなかった。
(上方はそのままの意味かもしれませんが、前後のつながりが不明)

・弟の死と倍返し
遠江浜松での合戦で、竹右衛門の弟、五味が討ち死にした。
その日、竹右衛門は同所におらず、この顛末を無念に思い、「この敵を討たなければ、二度と三河に帰らない」旨を仲間に堅く申し置き、ただ1騎にて久野前に出陣した。
すると、武田信玄方の武者が1騎、物見と思えたが、乗り出してきた。
竹右衛門はすぐに掛かり合い、敵を討ち、「五味のかたきを討った」と喜んで浜松に帰陣した。
「まれな働きである」と左近から褒美をいただいた。

・先にもありますが、やっぱりこの時代は騎馬で戦っていた
駿河へ家康が出陣したとき、先手を左近が命じられた。
安倍川の中程にて竹右衛門は敵に乗り向き、馬上より切り落とした。
その武者は切られて川下へ流されていったところ、服部小十郎という者に「その首を取りなさい」と言った。
小十郎に功名を取らせ、そのまま田中八幡山へ同道し、家康にお目見えした。



『老人雑話』より、信長?の意外な発明など

2020年09月10日 18:11

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 22:11:14.28 ID:uTWXNuJz
老人雑話』より、信長?の意外な発明など

・お弁当箱
織田信長の(初期の)時代には弁当というものはなかった。安土城ができて、弁当というものができた。小芋くらいの大きさの中にいろいろなものを詰めていたそうだ。
信じない者がいそうだが、また挟み箱というものもなかった。挟み竹というものを使っていた。
挟み箱は大坂の(織田一族)津田信成が初めて作ったそうだ。

・江村老人が見た信長、細川忠興、そして思い出
織田信長は二条御新造を築き、将軍の足利義昭を従えて慶賀の能があった。「老人」(江村専斎)も4歳くらいで、乳母に抱かれて見物した。
その日、信長は自ら小鼓を打っていた。細川忠興は私よりも年が上で、6歳くらいで猩々を1番舞っていた。
そのとき、帰りに門外にて盗人に(乳母が担いでいた?それとも持ち物の?)後ろのひもを切られたことを覚えていると語った。
その頃、盗人は小柄・笄などを抜き取ることがあった。このために盗人を「ぬき」といった。いまの「すり」と同じことだ。

・三斎さまの母もファッション発明家
木綿足袋がいまのような製法になるのは、細川忠興の母(沼田麝香)が初めて作り、忠興の茶会に出るときに足が冷えるので履いたそうだ。

・自分の昔を思い出した?太閤秀吉
あるとき、太閤秀吉は宇喜多秀家の屋敷で能見物を楽しんだ。
庭に降りるとき、家康が先に降りて(秀吉の)草履をそろえた。
秀吉は家康の肩に手を置いて、「徳川殿に草履を直させるとはねえ」と言ったという。



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 23:24:45.40 ID:UVHCOss5
>>526
こういう話好きだわ

528 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/10(木) 15:27:01.51 ID:k5JSoFGR
一番下の、家康が嫌味なやつになってない?

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 15:57:50.37 ID:Ffsvj1im
妖説太閤記で
家康が秀吉の草履を揃えて秀吉が
「わしもとうとう家康に草履を揃えさせるまでになったか」
と大喜びするシーンがあったけど

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 21:21:32.16 ID:c8+1bs8C
しかしまさか脱ぎっぱなしで放ってあった訳でもあるまいに礼儀的に草履に手を添えてみたぐらいかな

『老人雑話』より、秀吉秘話を選録

2020年09月04日 18:40

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/03(木) 22:22:52.08 ID:1dFb0oYm
老人雑話』より、秀吉秘話を選録

・産出量を超える松茸
山城の国に山里というところがあり、(太閤秀吉から)梅松という僧侶が預かっていた。新たに松を植え、程なくして松林ができあがったので、秀吉に松茸を献上した。
秀吉は笑って、「私の威光がまったくなかったとき、私も(信長に)何度か松茸を献上した。実はよそから買って献上していたのだ」。
秀吉は側近の者に「もう松茸を献上することはやめさせなさい。(松茸が)生えすぎている」と言ったそうだ。

・大清洲捜査網
秀吉がはじめ、微賤の者だったとき、(中間?)衆の間で刀がなくなった人がいた。秀吉は貧しかったので、人々は秀吉を疑った。
これによって秀吉は城下の民家をあまねく尋ね歩き、質屋にあるのを発見した。(質屋に)尋問して盗んだ犯人を捕らえ、信長が狩りに出るときに訴え出た。
信長は感じ入り、初めて微禄を与えたそうだ。

・中国大返し、政宗っぽい秀吉
明智光秀織田信長を討ったとき、秀吉は軍を返し、途中の尼崎の寺に入り、「法体」(出家)して京に上った。「素衣白馬」(死を覚悟)の心だった。
その寺にはいまも寺領があるという。

・信長へのはったりと大ウソ
松永久秀が(信長に謀反して)籠城したとき、信長は討手に秀吉を派遣した。
その後、秀吉から書状で信長に(攻撃前から)注進しようとした。
「何日には総構えを破り、何日には二の丸を破り、何日には久秀の首を取った」。
(秀吉の)右筆が「これで大丈夫なのですか?」と聞くと、秀吉は「この通りにならなければ信長様は私を殺す。もし計画通りにならなければ私は死ぬ」。
(秀吉は)そのスケジュール通りに「無理に討破り」、久秀の首を箱に入れて信長に届けた。
信長が言うには「この首は偽物だろう。久秀は首になっても私の前に出てくる者ではない。秀吉が(誰かの首を)たばかって送ってきたのだろう」。
箱を開いてみれば、まさにそうだった。
久秀は最後まで降伏せず、鉄砲の火薬に火をかけて焼け死んだ。

※北陸遠征で無断帰陣したあとだったので、ハッスルしたんでしょうか?大将は信忠ですけど



見聞談叢より 太閤時代の茶の湯

2020年09月03日 16:22

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/02(水) 21:27:24.57 ID:EkTrbIWX
見聞談叢より 太閤時代の茶の湯

太閤の時代の茶人は明け方ごろまで茶室に湯を沸かしておき、近づきのない者でも
通りがけに案内なしに茶室に上がって自分で茶を立てて飲み、また出て行ったと聞く。
ある夜更けに、太閤がどこからの帰りか、ふと「今自分でも茶室に湯をわかしている
ところはあるだろうか」と供の者に尋ねると、供の者が「針屋宗春以外にはございま
すまい」と答えたので、宗春の茶亭に行ってご覧になると、供の者が申したとおりに
湯が沸かしてあったので、太閤は茶を賞玩なさったという。
また、ある夜更けに何者かが宗春の茶室で茶を立てていたが、宗春が召使に「誰か
見てこい」といったので見に行くと、若党を多く連れた侍だった。よく尋ねてみると
石川五右衛門と名乗った。この時代の風儀はこのようなものであったと見える。



515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/04(金) 18:06:35.77 ID:UxjSEEFI
>>511
何かおおらかで素敵やん

『老人雑話』から2話

2020年09月03日 16:20

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/02(水) 21:55:37.14 ID:nhGZs0se
老人雑話』から2話。豪放磊落な人と秀吉の底意地?の悪い話

織田信長の家臣、市橋下総守(長勝)は「放狂の者」だった。(名門である)若狭の武田家より信長に使いがあったとき、(武田家の使いは)広間で威儀正しく控えていた。
市橋が広間を覗いたところ、いかにもすました有様だったので、「見たくもなき奴也」と思った。
そこで使者の前に出て、寝転んで足を使者に向け、手で陰嚢をたたき、「御使者、これほどの(大きな)餅をどれほど食えるか?」と言い放った。
信長は後で聞いて笑いが止まらなかったという


秀吉が小田原の役のとき、関東の地図を見ていて、家康が近侍していた。
このとき、真田昌幸(原文では「阿波守」)が末席にいた。
秀吉は「昌幸、こっちに来て地図を見ろ。おまえは中山道の先手に申しつける」といった。
昌幸は信之の父で、家康と意趣があって仲が悪かった。
その後、秀吉は昌幸を近くに呼んで、「おまえは家康に礼に参じて仲をよくしなさい。長いものには巻かれよ」といった。
(さらに)「長い距離を出陣中で不如意だろう」と袷20枚を進物として与え、富田一白を供に添えた。
家康も「太閤のおっしゃることならば」と仕方なく対面した。
その後に家康が一白に会っていうには「先日(昌幸との対面)のことは仕方ない。今度は石川数正がこのように面会してこぬように太閤様に取りなしを頼む」。
石川とも大いに意趣があって、仲が悪かった。しかし、石川も秀吉は小田原の陣中で家康へ礼に参らせたという

そりゃ、東照宮はどっちとも会いたくないですよね、まして石川数正は。秀吉の配慮なのか、嫌がらせなのか?



見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後

2020年08月31日 19:05

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:11:12.37 ID:Zlebf2X1
見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後
長いので二つに分けます

斎藤内蔵之助と那波和泉守は、二人とも稲葉一鉄に仕えていたが、仔細あって両者浪人し
た。両人光秀と内々懇意であったため、光秀を頼んで信長公に訴えた。信長公が一鉄に詫
びて、那波は帰参したが、斎藤は少しわけあって切腹を命じられた。しかし、光秀が信長
公のそば仕えの猪子兵助を頼んで、斎藤を家臣にした。

明智光秀が没落して家臣が四散するなか、斎藤内蔵之助は近江に逃れたが、堅田で捕らえ
られた。太閤は三井寺の客殿の前に座を据えられ、内蔵之助を引き出してこう言った。
「お前は一鉄入道のところで不行跡があって勘気をこうむったが、光秀のおかげで今まで
永らえた。光秀の逆心のおこりもお前が張本人である。罪深すぎて裁判を行う筋もない。
すぐに磔に申し付けるだろう」と言って、「何か言うことはあるか」と二度もおっしゃっ
たが、斎藤、さして臆した様子もなく、後ろを見まわして、「綱を取っておられるのは、
侍か、雑兵か。左の手を少しゆるめて下さい」と言った。太閤が「望みどおりにせよ」と
おっしゃったので、少し縛りをゆるめた。そこで、斎藤、左の手を地面につけ、「私めは
光秀の家来になっておりましたので、光秀の申し付け通りに働きました。私自身は信長公
に恨みはありませんが、光秀が恨み申したため、家来ゆえ逆心の場まで付き従いました。
逆心をしきりに止めたのは、私でございます。こう申し上げるのは死罪を免れんがためで
はありません。罪人とのお言葉を頂戴したので、申し開きを致したのです。早く命をお取
り下さい」と申し上げ、「この一巻をご覧に入れたい」と言って、左手で右手に括り付け
てあった繻子の守り袋を差し出した。関口左門という御小姓がそばへ寄って右手で受け取
ろうとすると、その様子を見て内蔵之助は、「推参ながら、囚人のそばでは右手は出さな
いものです」とにこやかに言った。太閤がその一巻を開いてご覧になると、いつのまにし
たため置いたものか、光秀の逆心を止める諫めの書状と、それに対する光秀の返事だった。
「お前がこのたびこれを戦場まで持ち来ったのは、隙を見て降参して、この書状で恩賞を
得ようという心づもりだったのだろう。沙汰の限りの者だ」と太閤がおっしゃると、内蔵
之助、「それは普通の人の言葉、筑前守どののお言葉とは思えません。私めが心底光秀を
大切に思っていたことを、死後まで世の人々に知らしめたいばかりでございます。早く命
をお取り下さい」と言って、その後色々とお尋ねあったが、「もはや申し上げても詮無い
ことです。お許しあれ」としか答えなかった。

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:15:08.68 ID:Zlebf2X1
(続き)
光秀の屍が捜索の末探し出されると、首をつなげて粟田口で磔にせよという命令が下さ
れた。内蔵之助も同じ場所で磔にされることになった。光秀の槍取りは澤村権七という
足軽、内蔵之助の槍取りは伊澤十平という足軽だった。両手を釘で固定されるときに、
内蔵之助が「左手より右手が下がっています。これでは顔が真正面を向きづらくなりま
す。釘を打ち直して下さい」と言った。そのため、釘を打ち直すと、にっこりと笑って
「今少しお待ち下さい」と言って両目を閉じると、

屍ハ草野ニ埋ムト雖モ 魂魄遠天ニ帰ル 生死風前ノ燭 悟ルガ故ニ胸中鮮ヤカナリ
柳ハ緑花亦タ紅 三界眼前ニ尽ク

と大声で右の詩を唱え、「死後、この詩を丹波、亀山の永元和尚へ伝えて下さい」と奉
行に頼み、「万が一お忘れになってしまっては本意ではないので、もう一度申し上げま
しょう。書きつけておいて下さい」ともう一度唱えた。奉行が矢立で紙に書きつけると
「これにて人界からお暇しましょう」といって目を閉じた。両脇を槍でつかれた後、
また目を開いて、「因果深いとは、私のことを言うのでしょうか。まだ息が絶えないで
います。もう一度急所を強く突き通して下さい」と言って、また目を閉じて唸り声を上
げて死んでしまった



『多聞院日記』より、本能寺前後の話

2020年08月28日 17:10

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:02.81 ID:+of7yAKA
多聞院日記』より
本能寺前後の話(一部、まとめにもあり)。奈良の僧侶が見聞きした、ウソも真実も混じった当時の情勢記録。
もろもろ、論文などに引用されていますが、改めて見返すと、あのときの世情を追体験できる記録なので、抜粋します。
また、多聞院英俊が一日の終わりに日記を記しているのではなく、なにか興味深いことを聞くとすぐに日記に記していたことも分かると思います。
英俊はかなりのニュースマニアだったと思われます。追記で「ウソ」などと記してもいますし。


天正10年4月
近頃、乾の方角から彗星が現れた。光の元は戌亥、末端は辰巳の方角。光の長さは10丈もあるように見えて、近年は見なかった長さだった。恐ろしいことだ(追記、「信長生涯ノ先端也」)
6月2日
筒井順慶が今朝、京都に上ったところ、「上様」(信長)がすぐに西国に出馬するといって、安土へ帰ったそうだ。なので、順慶も奈良へ帰った
信長が京都で殺害されたらしい。信忠も殺されたようだ。明智光秀と津田信澄が申し合わせて殺したという。(追記、「コレハウソ」)
未明のことで、朝方に漏れ伝わってきた。盛者必衰の金言があるので、驚きはしない。
諸国がことごとく(織田家に)反逆してくるだろうか。世は常ならず。日を追って眼前になった。状況はたしかにはわからない、どうなるのだろうか。
3日、未明から大雨が降った、京都の様子は確実な情報は届いていない。二条御新造に信忠が逃げ入り、正親町天皇を人質に取り、今上天皇も殺害された(追記、「ウソ」)。
京より注進があって、信長は本能寺で、信忠は二条御新造で殺害された。菅屋長頼、村井父子3人、福富秀勝、このほか小姓衆500~600人が殺された。
光秀はまず坂本へ入り、大津、松本、瀬田に陣取ったらしい。「細川殿」も死んだようだ。
今日、奈良の軍勢はことごとく大安寺、辰市、東九条、法花寺のあたりに陣取ったようだ。どうなることか。
4日
順慶と南方衆、井戸の軍勢が光秀勢のもとへ出陣したようだ、どうなんだろうか
5日
昨日、京へ出陣した筒井軍は撤退したそうだ。ならば織田信孝と申し合わせてのことだろうか。ありそうな話だ。
大坂において津田信澄が殺されたそうだ。光秀の婿で、一段の器量のある者だった。信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆などがやったのか。ただ、ウソかも知れない(追記、本当だった)
伊賀では織田信雄の勢力の城が空城になり、浪人衆が入城したようだ
安土は4日に光秀方の手に落ちた。佐和山(長秀の居城)には山崎片家が入った。長浜には斎藤利三が入った。
筒井軍は先日、京都へ向けた軍を近江に向けた。順慶は光秀と堅く盟約を交わしているとも言う。どうなるのだろうか。
9日
今日、河内へ筒井軍が出撃するという沙汰があったが、にわかに繰り延べになったらしい。また、郡山城へ米と塩をにわかに入れたという。なぜ方針を転換したのか。不審である。
10日
先日、京都へ向かった筒井軍は近頃、帰ってきていた。羽柴秀吉が近いうちに上洛するのが決まったので、これによって判断を変えたと聞こえてきた。
14日
昨日、光秀より藤田伝五が順慶のところに来て、同心せず交流を絶ったが、木津まで帰ったところでまた呼び返したという。なんなのか、心苦しい。
秀吉に順慶は味方すると誓紙を送っている、村田と今中が使いだったらしい
井戸覚弘、この間に病を患い、9日に死んだ。深くその死を隠したと言うが、本当かどうか。まったくのウソだった。
今日の朝方に郡山で順慶が切腹したと連絡があった。とてつもなくびっくりしていたところ、「順慶ではない、藤田伝五に腹を切らせた」と言ってきた。
肝を消していたが、それもウソだった。奈良中でそんな状態だった、天魔の所業である。
奈良中で資産を隠しだした。光秀の家来が隠したものを盗んだ者を2人殺したという。気持ちが沈む。
12日(後記か)
秀吉が摂津にやってきた、「猛勢ニテ上」。家康はすでに安土に着いて陣取りしているらしい。どうなるのか。光秀軍は八幡と山崎にいる。
。淀のあたりまで光秀軍は撤退するのではと噂されている。これによって奈良中は静かになった。
隠し物を盗んでいたのは井上九郎三郎の者どもで、3人を殺害し、いよいよ奈良は静まった。
13日
勝竜寺城が落ちた。秀吉は京に上り、光秀は坂本へ逃げ落ちたという。本当だろうか。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:56.34 ID:+of7yAKA
(続き)

14日
日中まで大雨が降った。うち続く大雨、これまでになかったことだ
15日
夜を通して雷鳴が鳴り、大雨が降った
去る12日、光秀軍は数千人の損害を出した。坂本へわずか30人ばかりで逃げ帰り、秀吉は大津まで前進した。
今日、山から見て見ると、比叡山の東の方が大きく焼けていた、と(誰かが)いっていた。必ずや、坂本の町を焼いて城を攻めていると風聞があった。
順慶は今朝、1000人ばかりで出陣した。昨今は6000~7000人ばかりで出陣していたという。
今夕、醍醐に陣取りしたが、秀吉が陣を見て、「曲事である」と言い、「すべて天下は信長の御朱印のようにしなければならない」と命じた。もっともなことだ。
5月の23日まで雨は降らなかった。24日より降り始め、20日以上降っていた。今日は雨がやんで天気がよかった(私の注記、本能寺前後はずっと雨が降っていた)
先日の合戦で光秀が討ち死にしたのは間違いないという、時が終わった
(日付不明)
順慶の行動は曲事と(秀吉方から)沙汰があって、またも奈良中で資産を隠す。気持ちが沈む。
17日
光秀は12日に勝竜寺から逃げて、山科にて一揆にたたき殺された。首も胴体も京都に移されたという。あさましきことだ。
細川幽斎の中間だったのを引き立て、信長が厚く恩を与えて召し使ったのに、大恩を忘れて曲事に至った。天命かくのごとし。
斎藤利三が生け捕られて安土へ勾引されたという。天命天命。
18日
本能寺では光秀をはじめ、首が3000ほどあるという。斎藤利三は17日に京で引き回され、首を切られたという。
21日
近衛前久が死んだというので、一乗院はもってのほか取り乱した。間違いなく(近衛生害は)ウソだろう。
29日
大乗院殿が安土より帰った。信孝と昵懇で礼があったというので、めでたいめでたい。信雄と信孝の考えが合わないので、諸軍勢がいまだ帰陣していないようだ。
7月6日
天下の様相は、柴田勝家、秀吉、長秀、池田恒興、堀秀政、以上の5人で「分取ノ様」にその沙汰があった。信長の子供はその議論の俎上にも上がらなかったようだ。あさましいことだ。
7日
天下の様相、信雄と信孝が争いをやめないので、両人とも秀信の名代を辞退し、信雄は伊勢と尾張、信孝は美濃、信包は伊賀(追記、「ウソ」)。
柴田は長浜(20万石)、堀は秀信のおもり、これによって近江中郡の20万石、長秀は高島郡、志賀郡、恒興は17カ所と大坂を知行した。
秀吉は山城と丹波(丹波は羽柴秀長の知行)、西ノ岡と勝竜寺以下、河内の一部を得た。
おおむね、秀吉が主張した通りだった。それなので下京六条に城をつくるという。(秀信の)名代はいないまま、5人で議論を交えて(秀信を)もり立てようということになった。
順慶は大和一円と宇治郡、宇多郡も知行したらしい。秀吉が推薦したそうだ。これで奈良は平穏か(追記、「ウソ」)。もっともなことだ。
このように決まり、欲がまざってまた、信長の子供がたくさんいるのに、まったく議論にならなかった、「クルイ」が出てきたのではないだろうか。
8日
今日、秀信(3歳)が秀吉のお供で京にいる。諸大名が御礼をしたそうだ



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/28(金) 14:01:20.05 ID:X7bjes8W
コウモリが思ってた以上にふらふらしてた
信長様が生きてても判断が遅い!ってどっかで粛清されてたかも

曲直瀬道三の治療記録

2020年08月24日 18:03

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/23(日) 22:46:24.30 ID:xUNySztR
医学天正記』より
戦国最高の医師、曲直瀬道三の治療記録を抜粋。順番は「史籍集覧」そのまま

天正11年
片桐且元(40余歳)、酒を飲み過ぎて吐き、風邪の症状。右の手が張って脈はやや速かった
徳川秀忠(30歳)、風邪の症状で頭痛、声はかれて咳と痰が出る
豊臣秀吉、大坂において風邪の症状、涙が流れて声はかれて乾き、喉に痛み
慶長7年
浅野幸長(30余歳)、寒気を覚え、その後に左の腹に痛みを覚える。下痢
織田有楽斎の女中の老母(70余歳)、寒気があって汗が多く出る。脈は少し速い
天正(16日)
誠仁親王、撹乱し、前日の飲酒が過ぎていた。早朝に吐いて悶絶した。半井通仙軒が脈を診た。
半井はひきつけと診て、心臓と肝臓が弱っていると伝えた。諸臣は納得せず下がった。
また、盛方院浄勝は熱射病と診断し、葯(よろいぐさ?)を献じた。一日一夜献じたが、吐いて苦しむことは変わりなかった。
私(曲直瀬)が診たところ、熱射病だけではなく、肧と腎を悪くしていて、その上に飲酒が過ぎたので撹乱した。酒の毒を消す葯でなければ効果はないと診察したところ、諸臣は納得した。
葯を処方すると、翌日症状は治まった。私は法眼の号をたまわって再三辞退したのだが、堅く宣案をいただいたので頂戴した。
天正15年春
毛利輝元(35歳)、秀吉の命令で島津討伐に出陣し、豊前小倉にいたとき、下痢と下血が止まらず、心臓の下が堅くなっていた(?)。
左足のすねは腫れ、骨は痛んで歩けず、私は秀吉の命令で小倉に赴き、これを治療すること十数日。
輝元の足の痛みはほぼなくなり、馬に乗って豊後をへて日向に入り、私はこれに従ってさらに治療した。
島津征伐の後に軍を引き、輝元は安芸吉田に帰り、秋には回復。そのため私は京に帰った。
大野治長(30余歳)、長年の下痢が再発、大便のあとに血が出た
慶長5年
小早川秀秋(18、9歳)、酒を飲んで嘔吐。胸が苦しくまったく食事をせず。尿は赤く舌は黒く乾き、脈は細い
勧修寺晴豊(50余歳)、酒食が過ぎ、小腹が痛く吐き気がする、大便はできず不通、脈は少し速い。薬を飲んだ後、二時間後に吐いて大便が出て腹痛が止まった。
文禄2年
豊臣秀次、長らく上顎を痛めている。熱があり、顔は赤くむくんでいる
豊臣秀次、気が滅入る感じがあって、熱海に湯治。はじめの6、7日はかなり食事も進んで気力が改善した。
ところが入浴が過ぎたために気が逆に上って胸を塞ぎ、痰とぜんそくが現れて寝ることもできなくなった。
その後に私を召して脈を診るに、血管は緊張しており、脈はうつろだった。足は冷えて膝にいたり、心臓の上に気があって、その下は虚弱。
ぜんそくの声は四方に聞こえ、薬を与えると少し止まり、もう一薬で回復した
慶長3年10月2日
淀殿(30余歳)、気鬱して食事が進まずめまいを覚える
11月1日
淀殿、気鬱で胃が痛み、食べることができずに頭痛がしていた
近衛前久、気鬱、恐れおののき、酒が過ぎる。胸が熱くてもだえる。脈は少し速い

医学天正記坤』
太田牛一(80歳)、風邪の症状で発熱、汗が多く喉が渇いて水を飲みたがる。人事不省に。脈拍は多く力なし
山名禅高、常に酒を過ぎる。たんが胸に滞る
「松平陸奥守殿」(伊達政宗)、常日頃から酒が過ぎ、咳と声がれが長く続く
加藤清正、酒が過ぎ、「黄水」を吐く
黒田長政、酒が過ぎ、胸が熱く、しばしば痛む
豊臣秀頼、ぜんそくを煩い、吸引のときにうずく。食事は進まず腹は硬く腫れる
片桐且元、背中にこぶができ、頭痛がして食は少なく、味は苦く感じる
佐竹義宣、左の脇の下が赤く腫れる、痛くもかゆくもない

このほか正親町天皇や蜂屋頼隆、蒲生氏郷(まとめ過去記事にあり)ら、そうそうたるメンツや庶民も出てきます



462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/23(日) 23:17:50.98 ID:My3xLEfl
病人多すぎ

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 00:14:31.02 ID:LeK7E6P0
酒毒怖すぎる

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 08:34:57.75 ID:KAicSMY6
豊臣家は呼吸器が弱いのかな?

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 13:47:36.86 ID:3DJQ4Clv
つっこむのも野暮かもしれんが
片桐・秀忠・秀吉の症例は天正11年の話じゃないぞ
医学天正記』は「症例別」に道三本人が後年に編集したものなので、他の年号も同様の可能性が高い

殊ノ外ホメ奉ル

2020年08月21日 16:48

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/20(木) 20:48:00.62 ID:96SZy5U2
祖父物語』から
有名な話でほかの文献からのまとめ記事がありますが、一応。本能寺後の津田信澄の話。いろいろと記事では混乱が見られますが、そのまま記します

津田信澄明智光秀の指示で大坂に赴いたのは、織田信孝丹羽長秀に腹を切らせようとしてのことだった。
信澄は織田信勝の嫡男で、明智の婿だった。大坂天王寺の千貫櫓にいた。長秀は玉造、信孝は京橋口乾の角櫓にいた。
夜中に信孝の小姓が1人で長秀宅に向かい、「信澄の内々の用意では、信孝と長秀が明日、弔い合戦に出るところを討とうというはかりごとで、京橋に人数を出すと聞いている」
長秀はそのとき、「ずいぶん早いお出でですね。私も信孝様のところに参って御意を得ようと考えていたところです。明朝、弔い合戦に行く名目で軍勢をそろえてお待ちください。私が鉄砲を2発撃ちます。そのとき、采配を取って千貫櫓を攻撃してください。信澄の軍勢が京橋に出るのは幸いなことです。信澄の周りには侍200人ほどがいるでしょう」
打ち合わせの通り、翌朝長秀が鉄砲を2発撃つと、信孝が采配を取って千貫櫓に攻めかかり、即座に信澄の首を取り、堺にてさらし首にした。
「味方の者どもは信長公に(名誉の討死に?)遅れ、士気が落ちているので、まずはこの首をさらし、味方の勢いをつけるがためにやったのだ」と話していた。
信孝が弔い合戦に出陣したとき、信澄の首を板に打ち付け馬印のごとくにして持ち歩いていた。
池田恒興と羽柴秀吉はこれを見て、「お手柄、吉報です。必ずや明智は力を落とすでしょう。明智には子供がいないので天下はこの人に譲るものだと思っていました。お手柄です」と「殊ノ外ホメ奉ル」。



284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/21(金) 08:52:09.49 ID:CFIrcChl
秀吉も子がいないから秀勝を殺せばよかった

大事な油道服を着ていても、それではねえ

2020年08月19日 16:57

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/18(火) 23:57:58.91 ID:rP7c6Hcr
脱糞に近い権現様の失態

利家夜話
太閤秀吉が坂本の古城跡へ鷹狩りに赴いた。家康や利家はじめ、大名が軒並み参加した。
そのとき、平塚という者が鳥を手づかみにして、秀吉はたいそう機嫌がよかった。
すると、にわかに雨が降り出し、坂本に移動した。
みなが馬でお供したが、家康は「(水をはじく仕様の)油道服」を着ていたが、風で服がばたばたして音がにぎやかに立ったため、馬が驚いて落馬したようだった。
その夜のお話で、秀吉は「家康に似合わぬ濡れようである。大事な油道服を着ていても、それではねえ」と仰せられた。
利家は合羽を着ていたが、何事も問題はなかった。



281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 17:00:46.01 ID:7HYm4Hbx
>>279
利家夜話って前田利家の家康への対抗心が異様に書かれてるよね

慶長元年の災害

2020年07月29日 16:25

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/29(水) 13:33:05.82 ID:D/tYIpMV
慶長元年、春中雨細々と降り、五月中旬より六月二十六日まで露(梅雨)に入った。
この春は雪が節々と降り、四月四日にも雪が降った。

五月九日、尾濃で洪水。六月十九から二十三日、甲信関東で洪水。百年以来の大水と言われた。
知行の損亡は数を知れず、武州の内葛井(葛西)・浅草にて、人三、四百人が溺死した。
その他牛馬も数を知れず死んだ。この時節も、上方にはさほどの事はなかった。

六月二十七日から七月七日まで旱。翌八日よりまた降雨。六月十四、十五日頃彗星出る。
七月二十八日より閏七月二日まで旱。翌三日より九日まで降雨。この九日に俄に水が出て、
山崩れ人が死んだ。この水は所による。

閏七月十二日の夜、子の刻(午前0時頃)に、上方大地震。京中は三条より下、伏見まで家損人死、
上京は無事であった。
伏見御城中にて上臈七十三人、中居下女五百人が死んだ。一の門、三門の番衆は、門が崩れ悉く死んだ。
この時太閤(秀吉)は中の丸に御座在ったが、その身は無事であった。
諸大名の家々も倒れた、人が死ぬこと限りなかった。

大阪、堺も同前で、伏見城殿主石垣は一つも残らず崩れた。大仏殿は無事であったが、中の大仏は
破損した。愛宕山坊中も倒れ、所々より上がった真壺(ルソン壺)の過半も破損した。
この六,七月、閏の間、上方は降雨で。五穀豊かに実った、
この地震で、関東駿遠、何れも東では揺れなかった。

前の七月の浅間山の噴火のように、西の方に噴煙が流れ、これ故か、近江、京伏見ではその頃
灰が細々と降り、それ故か秋毛は少々凶作と云われた。信濃などではこの灰が一寸ばかり積もった。
関東には灰は降らなかったが、但しここでも同秋凶作と云われた。

当代記

慶長元年の災害について。



庶民はこのため迷惑した

2020年07月27日 17:02

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/26(日) 22:10:46.53 ID:RRjL16Sp
慶長二年の春、京都四条に太閤秀吉は新構の普請を行ったが、地の利が狭かったため、また白川出口に
普請をやり直した。町人たちはそれぞれ家を壊され迷惑した。

この年に、畿内、京、伏見、大阪、堺では、諸買物の大小を別けず、その購入代金の五分の一を税として
召し上げた。庶民はこのため迷惑した。

当代記

豊臣政権の20%の消費税という奴ですね。



229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/26(日) 23:01:11.62 ID:QPPTvxSv
いまでも苦労しているのに、どう徴収したのかね
ただでさえ商人層への課税がずさん、なんというなら実態に伴わぬ上納の時代なのに

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/27(月) 11:42:25.14 ID:NP47T+CV
想像を絶するルーズさなのにな
焼き討ちでもして強奪したんだろうか

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/27(月) 14:04:06.65 ID:boxqkpvD
>この年に、畿内、京、伏見、大阪、堺では、諸買物の大小を別けず、その購入代金の五分の一を税として
召し上げた。
なんていっても、各町の代官が個別の商人の売り上げなんて把握してないだろうから、
各町の商人衆が、「あいつは大体これ位儲けてたから」といった感じで仲間内で税負担を割り当てて、
決まった時期に一括上納とかいった感じだったのかなぁ?

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/27(月) 20:07:16.03 ID:kxCvGttO
その為の座、株仲間、町会所やろ。

この頃京都の傾城達が召し上げられ

2020年07月26日 18:05

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/25(土) 22:19:35.08 ID:tr+RCr6r
文禄四年、この頃京都の傾城達が召し上げられ、そのうち五人が太閤秀吉に召し遣わされた。江戸内府公(家康)、
加賀大納言(前田利家)にも二人ほどが「召し遣われるように。」として遣わされた。
その他の人にも下された衆は多かった。

これら傾城の中に。歌舞、躍りが難渋な美女一人が有った。彼女にその仔細を尋ねた所、
「賤しからざる親類が多く、外聞を思ってのことである。」と言った。

これについて、彼女の兄弟に問うた所、「これ以前に二度まで身請けをして召し直したのだが、両度ながら
又再び傾城屋へ走り入ったため、是非に及ばぬ。」と言上した。

これによって、彼女は磔に掛けられた。(然は則はり付に被掛)

当代記



秀次事件

2020年07月24日 18:30

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/24(金) 01:02:10.41 ID:r3NYavW9
文禄四年、関白豊臣秀次にこの頃御謀反の企てが露見したとの事で、七月八日、関白秀次は
聚楽を退出し高野山へ上り、同十五日、腹を御切りになった。

秀次の若君二人(一、二歳の孩児であった)并びに近習、女房の三十余輩、洛中を引き廻され切り捨てられた。

誠は秀次の逆心は虚言であるのだが、行跡が穏便では無かった故に、治部少(石田三成)の讒言によって
かくの如く成ったのだという。

聚楽城、并びに諸侍の家門は伏見に引き移された。

当代記



秀吉との関係はいよいよ入魂となった

2020年07月22日 19:22

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 01:30:15.54 ID:bZEQKy47
天正十四年十月、徳川家康公が御上洛された。この時「もし上洛出来ないのであれば、秀吉の妹(朝日姫)を
返した上で、干戈に及ぶ。」と一途に宣わり、殊に秀吉公は御袋(大政所)を岡崎まで下向されたため、
疑心無く上洛され、秀吉との関係はいよいよ入魂となった。これによって、家康公北の方(朝日姫)は
浜松より岡崎にお出でになり、御袋と対面し、悦ばれた。秀吉公も家康公の上洛を快悦され、刀脇差、
並びに数寄道具(何れも値千金の物也)を進ぜられたと云う。
家康公が下向されると、大政所も帰洛された。

秀吉家康が入魂した事に、小田原の北条氏政父子は心底不快であったと云われる。

当代記