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のするかごしまになふほうのつ

2019年06月18日 16:04

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 09:53:54.35 ID:pCLnKn9F
昔、近衛殿(近衛信尹)が、どう言う仔細があったのだろうか、秀吉公の御時に、薩摩の坊津へ
流され、その後配所を鹿児島に移された。その頃詠まれたものが

 大臣の 車にはあらであはれにも のするかごしまになふほうのつ
 (大臣の車(牛車)ではなく哀れにも、乗り駕籠に棒で担がれている(駕籠と”鹿児島”、棒と”坊津”を
  かけている))

(きのふはけふの物語)



176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 19:03:01.58 ID:fSX0hArW
>>174
近衛信尹といえば、娘の名前を「太郎」にしたとか面白い話があるけど、
ユネスコ世界記憶遺産にも登録された、近衛家に代々伝わっていた藤原道長自筆の「御堂関白記」についての本を読んでたら、
近衛信尹が薩摩に流された時に、何を思ったか自筆本の寛弘5年(1008年)のところの紙背(裏面の白紙)にだけ
先祖の近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』の抜書を書いてしまったようだ、とあった。
紙の節約のために紙背を利用するのは珍しくないとはいえ、600年近く伝わっていた家宝によくやるもんだ
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よくよく見ればみかどなりけり

2019年06月12日 14:58

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 13:30:11.70 ID:ZQ+gJmmS
ある夜、豊臣秀吉公が夜食にそばがきをご所望なされ、御相伴衆にも下された。
その時ちょうど長岡玄旨(細川幽斎)が御登城され、秀吉公は早速彼にそばがきを据えさせた。
玄旨はその蓋を開けるとすかさず

『うすずみに つくりしまゆのそばかほを よくよく見ればみかどなりけり』
(薄墨で描いた眉のそばがほ(横顔)を、よくよく見てみるとみかど(帝と三角の蕎麦の実をかけている)であった)

と詠んだ
(きのふはけふの物語)



13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 17:45:52.66 ID:/fx/jYnt
まとめの6065
「秀吉がお伽衆に蕎麦掻きの料理を命じたところ」

に「戯言養気集」出典で既出

見附石

2019年05月29日 18:24

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/29(水) 11:33:05.51 ID:uqZFEhdO
『雲根志』に曰く、山城国伏見の城は、永禄年中(原文ママ。文禄の間違いか)に秀吉公が築かれた。
この大手の門前に見附石という大石があり、その形は山のごとく、廻り2丈あまり、甚だ佳景の石であった。

しかしながらある時、この城に行幸があったが、御車が石につかえて入り難い事がわかった。
俄のことでどうにも出来ず、時の奉行達も大いに困り、これによって近隣の町人、百姓、石匠などを
急ぎ召し集めて、様々に評議され、結論として料金を出してこの石を取り捨てるという事になった。
そこで入札となったが、札を開いた所、その費用として百金、二百金、あるいは五百金などとあり、
これらは皆、石を割って撤去するという工夫であり、石匠を集めて割り取るという事であったが、
中に一人、わずか二十金にてこれを請け負うという札があり、その者に申し付けられた。

どんな工夫があるのかと諸人不思議に思っていた所、行幸のある五七日前に(35日前?)人夫10人
ばかりが鋤鍬を持ってきて、かの大石の前に大きな穴を彫り、その石を穴の中に落として埋めた。
その頃、この者の才覚を褒めないものは居なかったという。
この石は今も土中にあるそうだ(『余録』)

松平信綱が御城(江戸城)内にて石を取り除くのにこれと同じことをしたという伝説が有るが、事実だとしても
人の故知を用いたというわけでは無く、。おそらく自然と符合したのだろう。

(甲子夜話)



話す人より聞く人が上手なり

2019年05月27日 17:22

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/27(月) 15:10:50.47 ID:Km2bEaaa
『煙霞綺談』に云う。ある時秀吉公、諸侯に曰く
「北条時頼は、その身天下の執権であったが、身分を隠して行脚し、諸州を周流して、民の愁鬱を救ったと
言われている。人は一代名は末代であれば、私もまた時頼の先例を追って諸国を巡回せん」

この言葉に、居並ぶ諸将は皆、秀吉の意に違うことを恐れて答える者無かった。
前田玄以だけは「この北条時頼の故事が実際にあったことかどうかは確かでありません。
また殊更に君は大名であります。いかような狡猾者があって変が起こるかも知れません。
この義は御遠慮あって然るべきです。」と言上した。しかし秀吉は「日本は我が掌握にある。何ぞ我に
敵する者あらんや」とまるで取り合わなかった。

一両日過ぎ、泉州堺の鞘師に杉本彦右衛門という者があったが、彼は滑稽な軽口ばなしの上手にて、
秀頼の御意に入り、常に召されていた。そのころ病気をしていて、久しく参らなかったのだが、この日
登城し秀吉公に謁した。
公が「何か珍しいことは無いか」と尋ねられると、彦右衛門
「この間、祈願のことがあって、河内福王山光の滝の不動尊に参拝いたしました。そこはかねて承って
いたよりもずっと大きな飛泉であったので、暫く驚いていた所、飛泉の脇より丈二丈(約6メートル)
ばかりの悪鬼が現れ、指で私をつまみ取って引き裂いて喰らおうとしました。

その時それがしはこの鬼に向って『どうしてあなたに逆らいましょうか、ですが私は生来奇怪なことを見るのを
好みます。今、あなたの大なる姿を見たれば死すとも本懐です。されども今一度、他の姿に変じて見せて
下さい。その上で、どうぞあなたの心に任せて下さい。』と言った所、かの鬼は『尤もなり』とたちまち
消え失せ、小さな梅干しと化して我が前に来ました。私はこれを取り、噛み砕き飲み込んだため、鬼も
居なく成り虎口を脱して帰宅いたしました。」
これを聞いた秀吉の御近習衆はみな大笑いし、大いなる虚言であると嘲り退出した。

翌日、秀吉公は諸将に向って尋ねた
「昨日の、彦右衛門の荒唐な話をどう聞いたか?」
誰も答える者なかった。そこで公は言った
「あ奴は行脚の事を止めようと諫諍をしたのだ。彼が言うように、現在私の威勢は恐るべきものも無く、
彼の言った二丈の鬼のようなものだ。然れども軽侠の身と成っては、取って食われることも有るだろう。
尤もな事だ。これにより、修行の事は止める。」とありこの事中止となった。
諸将はこれを、「話す人より聞く人が上手なり」と評したという。

この彦右衛門、後に坂内宗捨と号した。彼の制作する鞘は大変具合がよく、刀身をおさめる時”そろり”と
合う故に、『曽呂利』と自負した。また彼は能書であり、香道の達人でもあった。
彼が死去する間際、病気尋問として秀吉公より上使が送られた。上使がその家に入っても彼は対応せず、
臥ながら合掌して
「大病にして落命旦夕にあり。片便宜にて候へども、冥土に御用あらば仰せ付けられますようにと、
仰せ上げて下され候。」
そう言って果てた。「今際の時まで軽口を申したか。」と、秀吉公は落涙したという。(校書余録)

(甲子夜話)



946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/27(月) 19:25:50.54 ID:ihKdjnW6
>>945
両方かっこいい…

藤きちろうおんなども  のぶ(印)

2019年05月26日 15:16

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/26(日) 14:18:28.07 ID:mopXN2yD
同集(古筆集)に、足守候(足守木下家)の蔵物として、織田信長が木下藤吉郎の妻に賜う書という
ものが掲載されている

『仰せの如く、今度こちらへ初めて越し、見参に入り祝着に候。殊にみやげ色々、美しさ中々目にも余り、
筆にも尽くし難く候。祝儀ばかりに、この方よりも何やらんと思い候へば、その方より見事なるもの
持たせ候あいだ、べちにこころざし無くのまま、まずまずこの度はとどめ参らせ候。重ねて参るの時、
それに従うべし。

なかんずくそれの見目振り、かたちまで、いつぞや参らせ候折節より、十の物、廿程も見上げ候。
藤吉郎、近々不足の旨申すのよし、言語道断、曲事候が、何方を相訪ね候とも、それさまほどのは
又二たび、かのはげねずみ、相求めがたき間、これよりいかにもかみさまなりに重々しく、悋気などに
立ち入り候ては然るべからず。ただし女の役にて候あいだ、申すものの申さぬ中に、もてなし然るべし。

猶文ていにはしいり、拝見請い願うものなり。
まいらせ候かしく

 月 日
  藤きちろう
     おんなども
             のぶ(印)』
(訳)
「前から仰られていた通り、今度こちらに初めて来られ、見参されたこと、祝着です。殊に様々なみやげは、
その美しさは目にも余り筆にも尽くせないほどで、こちらとしては祝儀であるのだから、何か与えようと
思っていたのですが、そちらが大変見事なものを持って来られたため、それに釣り合うようなものを思いつかない
まま、とりあえず今回は思い止めました。次に来られた時に、この思いに従った物を下すでしょう。

それにしてもあなたの見目ぶり、姿形まで、以前に参られた頃よりも、十のものが二十に成ったかと思うほど
見違えました。藤吉郎は最近、あなたに対し不足の旨を申しているようですが、言語道断、まさしく曲事です。
今、どこを探したとしても、あなたほどの女性は二度と、あのはげねずみが求めることは出来ないでしょう。
ですので、あなたも今後はいかにも御上様らしく重々しく、悋気などを起こすべきではありません。
ただし女性の役なのですから、物事を語らない中にも、察して対応するべきでしょう。

文末に至りましたが、拝見を請い願います。かしこ。」

(甲子夜話)

有名な織田信長が高台院に宛てた書状



「宇喜多の狐憑き」について、甲子夜話

2019年05月25日 19:26

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 09:39:09.14 ID:rLzlw2E3
『雑談集』に曰く、宇喜多中納言秀家は備前一ヶ国の太守であったが、故あって一人娘(実際には妻の豪姫)に
妖狐が憑いて、様々なことを尽くしても退かず、このため秀家も心気鬱して出仕をも止めてしまった。

これを豊臣秀吉が聞かれ、かの娘を城へ召し、速やかに退くよう命を下すと、狐は忽ち退いたという。
かの狐は退く時このように言った

『我は車裂きの罪に逢うとも退くまじと思っていたが、秀吉の命を背けば、諸大名に命じ、西国、四国の
狐まで悉く狩り平らげるという心中を察したが故に、今退くのだ。我のために多くの狐が命を亡くすこと
如何ともしがたき故なり。』
そう涕泣して立ち去ったという。

翌日、秀家は礼射として登城し、その始末を言上した。秀吉は頷いて微笑したという。
(巻二十二・十九)

安芸の宮島には狐憑きというものが無く、また他所にて狐に憑かれた者をこの島に連れて来ると、
必ず狐が落ちる。また狐憑きの人を、この社頭の鳥居の中に引き入れると、苦悶大叫して即座に狐は
落ちる。霊験かくの如しで、近頃私(松浦静山)の小臣も、これは実説であると言っていた。

これによると、昔宇喜多氏の女が蟲狐が落ちず、太閤秀吉が西国四国の狐狩りをせんと言ったという話は
疑わしい。宇喜多氏の領国である備前と宮島はさほど離れていない。であるのに秀家は鼻の先程の場所にある
霊験を知らずに、憂鬱に日を重ねていたことに成る。実に訝しい。(巻二十二・二十九)

(甲子夜話)

「宇喜多の狐憑き」についての甲子夜話の記事



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 10:53:54.78 ID:pkUWqy7a
狐のくせに四国には狐がいないを知らないとか

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 11:07:47.02 ID:SLI61bsq
>>64
>蟲狐
なんかすげー怖い…。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 11:19:44.25 ID:8K1a1MKB
こきつね

關八州に鉄炮はしまる事

2019年05月14日 19:24

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 19:16:58.68 ID:Sf64um2C
關八州に鉄炮はしまる事

これを見たのは昔のことである。相模小田原に玉瀧坊(順愛。松原神社別当職)という年寄りの山伏がいた。
愚老(著者。三浦浄心)が若き頃にその山伏が物語りなされたことには、

「私は関東から毎年大峰へ登った。享禄が始まる年(1528)に和泉の堺へ下ったところ、荒々しい様子で
鳴る物の音がする。これは何事ぞやと問えば、『鉄砲という物が唐国から永正7年(1510)に初めて(日
本に)渡ったのだ』と言って、目当として撃って見せた。

私はこれを見て、さても不思議、奇特な物だと思い、この鉄砲を1挺買って関東へ持って下り、屋形の氏綱公
北条氏綱)へ進上した。氏綱公はこの鉄砲を放たせて御覧になり、『関東に類なき宝である』と秘蔵なされ
ると、近国他国の弓矢に携わる侍はこの由を聞いて、

『これは武家の宝なり。昔、鎮西八郎為朝(源為朝)は大矢束を引いた日本無双の精兵であった。

弓の勢いを試みるために鎧3領を重ねて木の枝に掛け、6重を射通した強弓である。保元の合戦で新院の味方
に八郎1人がいたが、八郎はたちまち多くの者を射殺した。数万騎で攻めたといえども、この矢を恐れて院の
御門を破ることは叶わなかったとかいう話だ。

今も弓はあっても、良き鎧を身に付ければ恐れるに足らず。ところがましてや、かの鉄砲は八郎の弓にも勝る
ことであろう。所帯(財産)に代えても1挺欲しいものだ』

と願われたが、氏康(北条氏康)の時代に堺から国康という鉄砲張りの名人を呼び下しなさった。さてまた、
根来法師の杉坊・二王坊・岸和田などという者が下って関東を駆け回り鉄砲を教えたのだが、今見れば人々は
それぞれ鉄砲を持っているものだ」

と申された。しからばある年に北条氏直公が小田原籠城の時節、敵は堀際まで取り寄り、海上は波間も無く舟
を掛け置き、秀吉公は西に当たる場所に山城を興し、小田原の城を目の下に見て仰せられたことには、

「秀吉は数度の合戦で城攻めをしたといえども、これ程の軍勢を揃えて鉄砲を用意したことは幸いなるかな。
時刻を定めて一同に鉄砲を放たせ、敵味方の鉄砲の程度を御覧ぜん!」

とのことで、敵方(豊臣方)より呼ばわったことには「来たる5月18日の夜、数万挺の鉄砲で総攻めにして
盾も矢倉も残りなく撃ち崩す!」と言った。氏直も関八州の鉄砲をかねてより用意し籠めておいたので、「敵
にも劣るまい。鉄砲比べせん!」と矢狭間1つに鉄砲を3挺ずつ、その間々に大鉄砲を掛け置き、浜手の衆は
舟に向かって海際へ出ると、日が暮れるのを遅しと待った。

そのようなところで18日の暮れ方より鉄砲を放ち始め、敵も味方も一夜の間鉄砲を放てば、天地震動し月の
光も煙に埋もれてただただ暗闇となる。しかしながら、その火の光はあらわれて限りなく見えること万天の星
の如し。氏直は高矢倉に上がりこれを遠見なされて、狂歌を口ずさみなさる。

「地にくだる星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄炮の火を」

御前に伺候する人々は申して曰く「御詠吟の如く、敵は堀辺の草むらに蛍火が見え隠れしているかのようです。
城中の鉄砲の光はさながら星月夜に異ならず」と申せば、氏直は格別に微笑みなさった(氏直ゑみをふくませ
給う事なヽめならず)。

まことにその夜の鉄砲に敵味方が耳目を驚かせたことは前代未聞なり。愚老は相模の住人で小田原に籠城した
ので、その節を今のことのように思い出されるのである。

しからば鉄砲が唐国から永正7年に渡ってそれから流行し、慶長19年(1614)までは105年である。
さてまた関八州で鉄砲を放ち始めたことは、享禄元年から今年までの87年以来と聞こえたり。

――『北条五代記』

>>894に関連して北条五代記より鉄砲の記事



当分は太閤は怒り給えども

2019年05月02日 17:59

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/02(木) 16:03:57.64 ID:lymMTQXw
福島左衛門(正則)・加藤主計(清正)は賤ヶ岳の時分は2百石の身の上なり。賤ヶ岳高名の後、
七本槍の衆中は大方が3千石を下されたが、左衛門は5千石になる。後に播磨龍野で6万石、ま
た後に尾陽で20万石、後に安芸で50万石となる。

福島は賤ヶ岳の軍法を破った罪により、刀脇差を取られて御勘気を蒙っていたが、隠れ出て高名
した。当分は太閤は怒り給えども、実は喜ばれた故に恩賞は他より優れた。

――『老人雑話』



870 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/02(木) 16:44:41.20 ID:pHaXRwu5
>>869
一族衆だった事もあってやはり期待のホープとして優遇された感じだったんだろうか?

豊国大明神石灯籠

2019年05月02日 17:58

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/02(木) 10:11:07.14 ID:iLBBhkOz
前の(方広寺)大仏殿縁起の中に、堂前に建てられている石灯籠には、列国大小名の姓名を刻し、鋪石
ならびに正面石塔の大石には、諸侯の紋所、又はその石が産出された場所の名を記されたと書かれているが、
これについてはどういうわけか、先ごろ私(松浦静山)も、これについて、私の祖先が献納した燈も
きっと有るだろうと思い、京都に家来が居たため、これに命じてこの事を書記してくるように申し遣わした所、
その返答によると、この事については何とも分明ならぬというものであった。

その中、大野氏の名はその中にあり、かつ豊国大明神へ寄付された石灯籠について、その当時これを
請け負ったと言い伝えの残る旧家の者などあり、その中で当時の帳面に記録が残っている者もあった。
非常に珍しい珍しいものなので写して贈らせた。こう言ったものも現在では分かり難いものであるが、
以下に綴る。

また現在石灯籠に諸氏称号等が無いのは、御当家(徳川)の時代に成ってから、それが忌み憚るためか、
これを削り去ったのだと疑う者も居るという。

豊国大明神石灯籠の覚写し

二つ 寺澤志摩守殿 二つ 羽柴肥前守殿 一つ あいは殿 一つ 木民部殿 一つ 伊藤石見守殿
二つ 京極修理殿 一つ 藤堂佐渡殿 一つ 青木右京殿 二つ 堀監物殿 二つ 片桐主膳殿
一つ 二位殿 一つ 伊藤丹後守殿 一つ 三位殿 一つ 堀田図書殿 一つ 速水甲斐殿
一つ 右京太夫殿 一つ 吉田豊後殿 一つ 大角与左衛門殿 二つ 木下法印 一つ 杉原喜左衛門
一つ 木下右衛門太夫殿 一つ 桑山法印 一つ 祐泉 一つ 太田和泉殿 二つ 若狭宰相殿
一つ 大野修理殿 一つ 大蔵卿殿 一つ 佐竹殿 一つ 羽柴美作殿 一つ 加賀国およめ
二つ 田中筑後殿 二つ 堀尾帯刀殿
奥院一つ 片桐市正殿 奥院一つ ?大炊殿 一つ 真野大蔵殿 一つ 羽柴蔵人殿 一つ 大進殿
一つ 安藤宰相殿 内殿一つ 片桐市正殿 内殿一つ 同主膳殿 二つ浅野紀伊守殿 以上五十六

石灯籠別紙に
政所様 一つ 康蔵主(孝蔵主) 一つ 浅野弾正殿 二つ 瑞龍寺殿 一つ 藤堂佐渡殿 一つ
安芸中納言殿 一つ 毛利伊勢守殿 二つ 金森兵部卿法印 一つ 石川千菊殿 一つ

(甲子夜話続編)



異変があればその時に軍を発する

2019年04月22日 17:57

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/22(月) 17:54:28.81 ID:GeeNZo8g
太閤は氏直(北条氏直)に綿々と和議を伝えた。氏直方から言うには、「諏訪峠から東の8万石
の領地が、氏直の領地にならなければ叶わぬところである。これを渡されるならば上洛する」と
のことだった。太閤はこれに「与えよう」と宣った。

諸臣はこれに同意せず、太閤は曰く「8万石の地を惜しんで、諸卒を遠国の合戦に労させるのは
不便である。これを与えて後に上洛せず、異変があればその時に軍を発する。士卒の力は倍にな
るであろう」と宣った。果たしてその通りであった。

――『老人雑話』



家康は自身で戦い、私は動かなかった

2019年04月20日 18:26

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 18:55:29.76 ID:l2a+y5ii
(小牧・長久手の戦いの時)

勝入(池田恒興)敗死の後、榊原式部少輔(康政)と大須賀五郎左衛門(康高)は川を渡り敵へ赴く。
これに堀左衛門佐(秀政)が向かって打ち破った。両将は堪えず、士卒を皆討たれて逃げ退いた。ま
た井伊兵部(直政)がやって来ると、左衛門佐も新手を恐れて退いたという。

太閤はこの合戦以後に「今度の戦は我が方が勝った。大将3人(池田恒興・池田元助・森長可)が討
死したといえども、多数の首を取った。家康は自身で戦い、私は動かなかった」と宣ったという。

――『老人雑話』



891 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/19(金) 19:00:31.00 ID:kUMmH9X6
>>890
負けを認めなければ負けじゃない理論

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 21:11:34.46 ID:v7SZidTe
勝ったのは堀久

898 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/21(日) 04:36:50.30 ID:ah9l/2ru
>>890
豊臣秀吉は動かない

あるいは曰く勝入が討たれたのは

2019年04月18日 16:16

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 14:49:29.28 ID:r+wjkShL
(長久手の戦いの時)

また長久手はといえば、この時に太閤方の池田勝入(恒興)は額田の北、犬山に本陣を置く。犬山の東、
岩崎の城には大御所(徳川家康)方の丹羽勘介(氏次)が籠る。

犬山から額田までは5里程あった。勝入は額田に行って太閤にまみえて曰く、「私が良き人数を率いて
三河に入り、敵の本郷を焼き討ちにしてその妻子を屠れば、敵はよもや小牧に堪えていることはできま
すまい」と申した。これに太閤は曰く「思うようにはならん」として許さなかった。しかし勝入は明日
また赴き、固く乞うて曰く「今現在においてこれ以上の謀はありません」と申し、太閤はこれを許した。

勝入父子は共に出発した。しかしながら岩崎の城を攻め破らなければ三河へは入り難く、まず岩崎に赴
こうとする。勝入は案内者なので道すがらの百姓に「運啓良ければ(勝利したならば)良くしてやろう」
と言い触れて、夜が明けない内に進んだ。

犬山と岩崎の間に長久手あり。勝入の謀は漏れて大御所はこれを聞き、前夜より長久手に至って勝入が
来るのを待つ。(家康は)もっとも案内者なので百姓等に「この度勝利を得れば、3年作り取りにさせ
よう」と言った。勝入は長久手に至り、夜が未だ明けないところで、「勝入の先手はすぐに岩崎に取り
掛かり、城を攻め破った」との報告があった。大御所方の軍勢は静まって、勝入の先陣と二番手の同勢
を皆行き過ごし、勝入本陣に取り掛かった。

(原注:一本には大御所以下『東照宮は前夜から長久手に至り給い、勝入が来るのを今か今かと待つ。
勝入は案内者なので百姓等に「この度勝利を得たならば、3年作り取りにさせよう」と言いつつ、長久
手に至ると夜は未だ明けず、東照宮方の軍勢は静まりかえっていた。勝入の先手は同勢を選って東陣へ
取って掛かる。安藤帯刀…』云々と続く)

安藤帯刀(直次)は先駆けして暗中で腰掛けている法師武者を突き殺した。それが勝入とは知らずに、
帯刀は「坊主首を取っては面目がない」と、また進んで子息の勝九郎(池田元助)を撃ち殺す。その後
に永井右近(直勝)が来て死首をやすやすと取り、後まで功に誇るという。

――『老人雑話』

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 15:58:30.06 ID:r+wjkShL
>>886
あるいは曰く勝入が討たれたのは、一合戦して勝った勝入が後にまた敗軍して士卒を失い、疲れて1人
での帰りがけに討たれたという。

――『老人雑話』



洛中、洛外の境を、末代まであい定めるべし

2019年04月14日 17:38

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/14(日) 17:23:05.14 ID:zOGc5a2g
豊臣秀吉公に六拾扶桑(日本全国)悉く属し、(天下)一同の御代、四海静謐に治まっていたある時、
秀吉公は法橋紹巴、(前田)玄以法印を召して、密かに洛中、洛外の境を視察した所、東は高倉より
先は鴨川であり、はるかに見渡すと、平々と東山まで取り続き耕作の地となっており、西は大宮より先、
嵯峨、太秦まで見渡す限り田畠であった。南北の際も、何れとも境なく、ただ田舎の在郷のようであった。
秀吉公はつくづくと目を留められて、その後細川幽斎を召してお尋ねに成った

「花の都とは昔より言い伝えられていたが、京都の今の有様は、言語道断、この上もなく衰え廃れているように
見える。洛中、洛外と言っても、どこからどちらだという境もない。その上、内野の上、北野の右近馬場
という森は、興のある面白い場所である。右近が有るなら左近も有るべきことなのに、どうして無いのか。

北はいずれより、南はこれまでという洛中、洛外の境を、末代まであい定めるべし。そのためにも都の
旧起を聞きたい。」

これに幽斎「畏まって候」とあらましを説明した
「そもそも桓武天皇が、延暦三年十月二日、奈良京春日の里より長岡の京に遷りたまひて、
その後十年にして正月中旬に、大納言藤原小黒麿、紀古佐美、大僧都玄珍をつかわし給いて、
葛野郡宇多村を視察させられた所、『つくづく土地の様子を見るに、四神相応の地であります』と
申すにより、愛宕郡にお出でになり、同十三年十一月廿一日に、皇帝(原文ママ)は長岡より
今の京へ遷られました。

されば、四神相応とは朱玄竜虎が守護しているという事で、油小路を中に立てて条里を割られました。
東は京極まで、西は朱雀まで、北は賀茂口、南は九条まで、ただし北は一条から九条までを九重の都と
号します。油小路より東を左近、西を右近と申します。右京は長安、左京は洛陽と名付けられました。
であれば、禁殿(皇居)は代々に場所は少しずつ変わりましたが、先に定め置かれた境目は、些かも違う
事は無かったと見えます。この京へ諸国より一切の貴賤集まり、事を調え、又は帝を守護しました。

そうでありましたが、(足利)尊氏卿の御末、常徳院(足利義尚)、法住院(足利義澄)の時代より
この京はいつとなく衰え始めました。その理由は、山名奥州(氏清)の謀反(明徳の乱)以降、
ややもすれば都が合戦に巻き込まれ修羅の巷と成るようになり、一切の商人たちの、都鄙の往来が
妨げられ、自ずから零落したのだと言われています。都が衰え、政道も廃れたため、田舎はなお一層
恣に我意をふるまって、近代になり国土が穏やかでなくなったのだと言われています。」

この話を秀吉公はつくづくお聞きになり「なるほどそういう事であったのか」と、事の始終をよくよく
お考えになり、「であれば、先ず洛中、洛外の境を定めるべき」と仰せ出され、諸大名に命じて、
東西に土手を築かせ、それから、当時洛中に、民家とともに混在していた諸寺々が、所々に満ちて
立ち並んでいたため、徳善院(前田玄以)に命じて、諸寺共は京極から一町ばかり東へ移転させ、
北は賀茂口より南は六条まで、道の片側に並べて敷地を与えた。

さて賀茂川、堀川は所々に橋を掛けられ、往来の旅人のわずらいも無くなった。
その後禁裏の改修を行い、王法の政が廃れていたのを起こし、また洛中の地子米、公方米などを
悉く御赦免された。
そして秀吉公自身は伏見、大坂に、函谷関よりも固く城塞を拵えられ、諸国の大名、小名を詰めさせ、
都を守護された。

「『万民豊穣の下に住み、七徳の化を得る』とは、今この御代の事である」と、身分卑しい
賤の女や樵のような者たちまで、起きて寝るまで拝み奉らない者はなかった。

(室町殿物語)



801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 16:05:59.24 ID:oj79od0Z
ここで、御土居が出来たのか

秀吉公、京都の様子御尋ねの事

2019年04月11日 17:07

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 00:14:13.07 ID:6sGvaaat
秀吉公、京都の様子御尋ねの事

卯月(四月)下旬の頃、豊臣秀吉公は(前田)玄以法印を伏見に召して仰せに成った
「どうだろう、京都の町人は、渡世を豊かにおくっているだろうか、又は朝夕暮らしにくく、嘆く輩が
有るだろうか?」

「その事でございましたら、御本意のごとく、京の有様は殊の外、現在繁盛仕っているように見えます。
どう言うことかといえば、例年以上にこの春は、東西南北に花見遊山の人々が、野にも山にも
溢れるほどに見えます。女、童子、僧俗の区別なく、袖を連ね裾を並べて、この春の賑わいは、これまでにない
様子でございます。」

そう申し上げたのを秀吉は聞くと

「そうか、私からも横目を出して調べさせたが、彼らも玄以と同じように言っていた。
京都はこの春、いつも以上に遊山、見物人の人混みに溢れているという。ならば疑いない。

さて法印、心を静めて聞いてほしい。それは繁盛しているのではない、それどころか大いなる衰微の
基である。何故かと言えば、私が諸国の大名、小名にここかしこで大きな普請を宛て行い、昼夜急がせ、
事に暇なく、諸方より上下おりのぼりして立て込んでいる時は、様々な異形、異類の調え物を京都にて
拵えさせる。それ故に諸商売人たちは些かも暇がなく、夜を日に継いで上下は稼ぐ。このような時は
遊山、見物に出る隙がない。

現在はもはや、諸方の願いも大方成就し、現在は大名、小名たちには、日頃の苦しみから身を休めるため
暇を出してそれぞれ自領に滞在している。これによって京都の諸商売は、消費する相手が無いため仕事に
手を付けられず、このため暇であり、そのため彼方此方と見物に駆け巡っているのだろう。
このような状況が続けば、いよいよ京都は衰微するだろう。


このため何かを始めようと思うのだが、さしあたって大きな普請などを行う望みはない。そこで考えたのだが、
来年は醍醐の花見を催して、普段城中にばかり籠もる局たちを具して、醍醐の山で欝気を晴らそう、
それについて、大名、小名には、大阪、伏見より醍醐までの警護、又は道の途中を固めさせよう。
そしてこの役に出るほどの者は、上下を問わず着服その他身に付けるもの、新しく一様に綺羅に専念した
ものを身につけるよう言いつけよう。六月中には準備して、皆に来春の用意をするように広く知らせよ。」

そう仰せになり、治部少輔(石田三成)、長束大蔵(正家)、右衛門尉(増田長盛)、大谷刑部少輔(吉継)
等が、数日談合して「誰々はそこそこ」と、警護の割当を作成し方々へと回した。

秀吉の考え通り、この命令を承った人々は「これに過ぎたる晴れがましいことはない」と考え、
「多人数の衣類、その他入り用の物品は、今のうちに準備しなければ、俄には用意出来ない」と、
八月の初めより支度した。この諸大名による注文のため、京都の忙しさは言葉に出来ないほどであった。

そして醍醐の花見の時には、女房、局、端女に至るまで華麗なること言語に尽きず、諸大名の警護の
装いも、綺羅を尽くせること、何れも劣り勝りは見えなかった。
見物の者たちは里々宿々に充満し、秀吉公は、この者たちが心安く見物できるよう御制法あって、都鄙の
僧俗、男女、悉く無事に見物した。まことに前代未聞の見物であり、何がこれにしくであろうか。

この事をつくづく按ずるに、いかにも世を治め撫育する大将は、思慮格別なのだと見える。
京都はさておいても、畿内の賑わい、万民の助けが推し量られ、有難き事共である。

(室町殿物語)



又者で名高き者は

2019年04月10日 17:14

堀直政   
787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 16:32:06.01 ID:I0Ur+nqS
太閤の時代に又者(陪臣)で名高き者は、刑部卿・堀監物(直政。原注:左衛門臣)・松井佐渡(康之。
原注:肥後守の臣)。

――『老人雑話』

天下三陪臣で名が挙がっているのは堀直政のみ。



791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 21:43:59.20 ID:nRArb4yf
>>787
この場合の刑部卿は誰なのかな

大師の制法、ありがたくこそ覚える

2019年04月08日 17:00

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/08(月) 08:49:37.48 ID:kfbrpRwr
豊臣秀吉公がある夜不思議の夢をご覧になって、俄に高野参拝のことを思し召され、先に日限まで
仰せに成ったので、諸奉行はその準備を緊急に初めた。途中の行路の警備はそれぞれの領主に仰せ付け、
道の高下を直し、狭い場所は取り広げ、橋のない場所には橋を掛け、道々に御休所を作り、亭を立て、
馬草、藁沓などを用意し秀吉の一行を待った。

こうして秀吉は高野山へと上がった。木喰上人はかねてより御役の準備をしており、様々な珍物、綺羅を
尽くして待ち受けられていた。高野山八谷の僧坊は、麓まで御迎えに出て、御供仕って登った。

(中略)

かくして一両日御逗留される事となり、御徒然なればとて、観世太夫を召し連れられていたので、
やがて御能を催される時に、坊主各々が申し上げた
「御なぐさみに御能は然るべき事ですが、当山は、開山大師の制法に、笛を戒められており、いかがかと
思います。」
「それは不思議なことを聞くものだ。様々の調べの中で、笛を戒めるとはどういうことか。」

「それについて、昨日ご覧になられた柳の少し向こうに、ここが霊山となる以前から、一つの大蛇が
棲んでおりました。しかるに大師は、『あれをここに置いていると、凡人が通い難くなる』と
思し召し、大蛇に向って『我この山をば仏法の霊地となさんと思っている。しかれば汝、ここに有っては
凡夫は不安に思う。急ぎどこへでも所を去るべし。』と仰せになった所、この大竜は『我、この山に
棲むこと、星霜既に無量なほどである。どうして今、私が住所を去らねばならないのか。』と言い、
些かもそれに従おうとしませんでした。そこで大師は『そういう事であれば』と、密かに竜の鱗に
毒虫をまいた所、竜は五体を投げ打って、痒き事耐え難いほどでした。そのため大師に降伏し
『この虫の病を止めてほしい。何処へでも去ろう』と嘆きました。そこで大師は『それほど苦しむので
あれば、止めて取らせよう。必ず去るのだぞ。』と仰られ、すぐに虫を払いのけられると、竜は喜び
そこから廿町(約2.2キロメートル)ばかり後ろの山へと立ち退きました。

それよりこの山は成就して、このように繁盛したのですが、笛の音というものはそもそも竜の吟ずる声を
表したものであり、この音を聞いては、自分の友が来たのかと考え大竜が動き出します。そのため戒められて
いるのです。」

これを秀吉公聞いて「よしよし、笛無くとも苦しからず。」と、御能をはじめられた。

しかし、既に三番過ぎて、四番目に仰られたことには
「山の制法にまかせ、三番は過ぎた。今度の能には、笛を大師に許していただこう。」と仰られ、
吹かせられた。

すると案の定、晴天は俄にかき曇った。人々があやしと見る処に、五段の舞に移ったが、四方より
黒雲立ち覆い、雷は八方より鳴り渡り、稲光りは火煙のように天地に満ちて、風雨はしきりに下って
枯木を吹き折り、山谷動揺して、今すぐ世界が打ち崩れるようであった。
東西も見えず暗夜となり、僧俗の区別なくあちらこちらに逃げ隠れ、人心地もなく、ここかしこに
身をすくめて転び伏せた。

秀吉公も御帯刀を急いで手にされ、風雨激しき暗さに紛れ、麓へ向って落ちていった。
御伽の人々も、諸臣も、一体どこへ逃げたのか、あたりには一人も居なかった。
ようやく道の案内として坊主一人、御小姓衆一人にて、麓を指して急ぐほどに、山から
廿余町ばかりこなたの、「桜もと」という場所に賤屋十軒ばかりあり、「先ず暫くここにわたらせ
給え」とて、事の静まるのを待った。

二時(約四時間)ばかりあって、ようやく空も晴れ、雷も鳴り止んだため、人々も生きた心地を
取り戻し、我が身を我と知った。
秀吉公が仰せになることには
「さりとては、大師の制法、ありがたくこそ覚える」
と、いよいお信心深く思し召しに成った。

(室町殿物語)



修理は多才の者である

2019年03月28日 18:13

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/28(木) 18:07:25.83 ID:oA8LGetC
上野の佐野は殊の外富んで豊かな地である。太閤は東照宮(徳川家康)を関東に封じて後、佐野
修理大夫(房綱)をここに封じた。修理は多才の者である。上野半国を修理に与えたとはいって
も、佐野が彼に属すれば一国すべて取ったと同じことである。

――『老人雑話』



秀頼は5歳の時に参内され、伏見より行列をなす

2019年03月18日 18:27

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/18(月) 17:52:35.05 ID:/+YEHpXf
秀頼は5歳の時に参内され、伏見より行列をなす。太閤は2,3日前に入洛されて中立売最上殿の屋敷に
おられ、参内の日に迎えに御出になり室町通を南へ目指す。これに見物人が群集した。

太閤は立髪の馬に乗り、むりやうの闊袖の羽織に鳥を背縫いにして襟は摺箔で、底なしの投げ頭巾を着て
いた。馬の左右には50人ほど徒立がおり、半町ほど間があって又者1千人ほどが従った。

大仏辺りで秀頼公に御出合い、太閤は輿に乗り移って秀頼を前に置いた。銭を箱に入れると舞る(回る?)
人形を輿の先に持たせ、諸大名は大房の馬に乗って2列で供奉した。

これは聚楽の城終わりて後、中一年あっての事である。

――『老人雑話』



まことに良将が軍を統べる故なり

2019年03月09日 21:24

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 18:40:43.12 ID:6ECJ3CPn
(賤ヶ岳の戦いの時)

清秀(中川清秀)はこれ以前に度々に及んで武辺に落ち度を取らず、勇力を世間に知られた侍なり。

「度々の晴れ戦、万一鈍兵の名を得ては生涯の不覚!」と思い定めた清秀は「運は天にあり、進ん
で退くことなかれ! 」と諸卒に言葉を掛け、1千余騎が塁を離れて突き出た。玄蕃助(佐久間盛
政)の兵はこれを見て、余さず漏らさず押っ取り込めて、数刻攻め戦う。

清秀は我劣らじと、兵5,60騎が弓手馬手に並び、散々に切り合い割り入り追い立てた。清秀は
一旦は勝利を得たものの、敵は多勢をもって手負い死人を顧みず、風の発するが如く河の決するが
如く乱入して、ついに清秀は討死した。

その時、玄蕃助は勝ちに乗じて太刀場を取り、前は鯨波が地を響かし後ろは狼煙が天をかすませた。
風はふるい、旌旗は光を添えて日に輝く。甲冑は影を並べ、その威光は誰をもって争えようか。

この時、清秀が速やかに引き取っていれば、一化先は敵の勝手をなすとしても“勢に因りて之を破
る”との諺をもって、その尽くが居陣となったものであろう。

秀長(豊臣秀長)の陣所を始めとして、先手の陣取りは各々堅固の備であった。一陣が敗れて残党
も無事ではないといえど、士衆は一致して軍は心を結んだ。これまことに良将が軍を統べる故なり。

そうして江北の戦は相果てた。事が済んだ時、それより羽檄をもって件の注進あり。秀吉はこれを
聞いて清秀が討たれたために、甚だ深く哀憐した。

――『天正記(柴田退治記)』



中村はそれに逢迎

2019年03月07日 16:52

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/07(木) 11:44:19.44 ID:iijwI8SO
豊臣秀吉の朝鮮征伐の時、池田三左衛門輝政は、船奉行の中村九郎兵衛に命じて、兵粮を
肥前名護屋に送らせた。中村は名護屋へ出港する前に、提灯2,300,太鼓3,40を買った。
そして船を出し間もなく名護屋という時、時刻は巳の刻(午前10時頃)で潮の状態も良かったにも
かかわらず、玄界灘の島に船を止めわざと日の沈むのを待ち、亥の刻(午後10時頃)になって
船を漕ぎ入れた。この時、船の周りに取り付けた2,300の提灯に火を灯し、3,40の太鼓を
一斉に敲くと、火の光は海面に映り、太鼓の音は城の上にまで響いた。

秀吉は使いを遣わして何事かと問わせた所、「輝政家来中村九郎兵衛、兵粮を漕するの船なり」と答えた。
秀吉という人は素より華美を好み、中村はそれに逢迎(こびへつらうこと)して、甚だ秀吉の心に叶った。
その後秀吉は中村を朝鮮に渡海させたが、彼が朝鮮に至った頃には既に和平が成立していた。しかし
日本軍の兵粮は盡きかけており、諸将は大いに喜んだ。

(武将感状記)