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斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候

2018年09月21日 10:01

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 05:57:48.32 ID:fX5WZda+
(山崎の戦いの時)

斎藤内蔵助利三は最初から今日は総敗軍と覚悟していたため、味方の敗走を見ても少しも屈せず、なんとしても
神戸三七殿(織田信孝)と一戦して今日の恥辱をそそぐべしと心掛けており、その子・伊豆守(利宗)と手勢を

整えてまったく動揺せず、静かに人数を進め山崎総構の東方の川を隔てて陣を立てた。その川は大河ではないが
近日降り続いた長雨によって水嵩は増え渦を巻いて流れた。ここに三七信孝の陣中より野掛彦之丞という者が

名乗りただ一騎馬を乗り入れ先に進んだ。内蔵助の子・伊豆守16歳、これも斎藤勢よりただ一騎川へ乗り込み、
川中で1,2度打ち合うと見えたが、双方押し並んでむずと組み合い水中へと落ちた。

これを見て斎藤の家士が一同に伊豆守を救おうと川へ乗り込むのを、内蔵助は大声を揚げて「武士の子16歳!
敵1人討てずして生きても甲斐なし! ただ捨て置け!」とこれを制した。その間に伊豆守は野掛の首を取って

下の瀬より岸に上った。これを切っ掛けとして敵味方は鉄砲矢戦となり討ちつ討たれつ喚き叫んで攻め戦った。
中でも内蔵助は大声を揚げて、「私は利仁将軍(藤原利仁)の後胤、斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候!

恐れながら、三七殿にとって御親の仇随一の者である! 御自身で私を御討ち取り下さるべし!」と言いながら、
信孝の本陣へ父子手勢は必死になって切り入った。その時、中川瀬兵衛清秀の2千5百騎が横合より打って

掛かり、斎藤勢を引き包んで討ち取らんとした。これによって信孝は斎藤勢を散々に討ちなされ、過半が討死
したので内蔵助・伊豆守父子も叶わずして一方を切り抜け跡をくらまし落ち行った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


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「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」

2018年09月21日 09:58

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 06:03:05.42 ID:fX5WZda+
山崎の戦いの時、神戸信孝(織田信孝)は斎藤利三勢に攻められるも中川清秀が横合より斎藤勢を
攻めたため、利三は敗れて落ちていった。合戦が済んで後、信孝は瀬兵衛清秀の手を取って戴き、

「今日、親の仇を討ち取ったのも、まったくそこもとの武功ゆえ!」と、感涙を流して感謝された。
その時、秀吉は駕籠に乗ってその様子を見て「瀬兵衛瀬兵衛、今日は骨折り骨折り」と言いながら

通り過ぎた。清秀はこれを聞き「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」と申したという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


堀と堀尾は難なく山を

2018年09月17日 18:00

堀秀政   
292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 17:48:45.23 ID:HRhvRU/p
(山崎の戦いの時)

寄手の勢は羽柴筑前守秀吉が以前からこの周辺の地理をよく知っており、天王山を敵に取らせては
味方の大事と推し量った。そこで堀久太郎(秀政)と堀尾茂助(義晴)を呼び、

「汝は早く天王山を取り敷きて敵を山上にたむろさせてはならぬ!」

と命じた。ここは山崎宝積寺の旧跡、堀尾は元来気早の勇士であり弓・鉄砲の兵2百人を先に立て、
えいえい声を出して進んだ。堀久太郎も続いて人数を押し登らせんとす。

光秀がかねて命じていた松田太郎左衛門(政近)は山上にたむろしており、堀尾の人数を上げまい
と指揮してこれを防ぐ。堀尾は弓・鉄砲の者を先に立て「やれ上がれ上がれ! 上がると勝つぞ!」

と言いながら登る。山の土はぼろぼろとして登り悪し。松田は山上より「やれ防げ防げ! 上げると
負けぞ!」と精を入れて命じ防ぐ。一方、堀久太郎は道を変えて横合いから押し登った。

松田の勢も激しく防いだものの、羽柴方は義に勇む人数が前後より激しく攻めたて、松田も鉄砲に
撃たれて散々に追い崩され、堀と堀尾は難なく山を取り敷いた。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・続武家閑談)』


任官之事

2018年09月16日 17:30

290 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/15(土) 21:37:19.54 ID:g32iigv6
任官之事

諺曰。君択臣而授官。臣量己而受職。君無虚
授。臣無虚受。然羽柴筑前守秀吉。天正壬午春。
為追伐西戎征備州。闘争之半。明智日向守光秀
討信長将軍。於尋常之大将者。秀吉所可敗軍
也。不然還而武勇智計兼備退凶徒。即時上洛。
悉亡明智党。夷洛属静謐。信長将軍仰主上之
徳。修造宮殴。扶臣下之衰微被充行庄園。最忠
臣也。以之思之。光秀悪逆第一之朝敵也。秀吉
又討之。無比類之忠勤也。故被成下綸旨。被補
官位。其辞云。

去六月二日。信長父子上洛之処。明智日向守
企逆意討果之。剰乱入二條御所。狼藉之事。
前代未聞。無是非次第也。然処秀吉西国爲成
敗。備中國敵城。所所取巻。雖対陣任存分。不
移時日馳上。明智一類悉誅伐。属天下泰平之
段。?古今希有武勇。何事如之乎。因茲官位
之儀。雖有宣下。被辞申之條。重昇殿叙爵少将
之儀。堅天気候也。?執達如件。
天正十年十月三日 左中将在判
羽柴筑前守殿

南坊が最初に総門を固めたのは

2018年09月13日 21:13

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 14:10:04.47 ID:Lb9DTZ1/
(山崎の戦いの時)

明智勢総軍1万4千余人は淀を出て狐川まで打ち立った。先手は川より向こうの方へ出張、
光秀は川より東に陣取った。明けて6月13日寅の刻、池田父子(恒興・元助)が

山崎表へ進んで見れば、高山南坊(右近重友)は総門を差し固め他の兵は1人も通行させ
なかった。池田父子はこれを見て、「高山は異心か! 油断するな!」と言いながら、

川に沿って細道より山崎の東総構の外を巡り、明智勢に打って掛からんと馬を速めて急ぎ
行く。南坊はその間に総門より打ち出て池田勢より遥かに先に進んでいた。

かくて南坊が最初に総門を固めたのは他の勢を入り交えずして先陣せんと心掛けた武辺の
嗜み、素晴らしくもまた殊勝なことよと敵味方ともに感じ入った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


勝敗は互いに天運に任せ候

2018年09月12日 22:06

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 17:10:37.08 ID:48VXc6XE
(山崎の戦いの時)

羽柴方総軍3万5千5百余騎は龍の雲を得て虎の風に嘯く猛威にて、6月12日に摂津尼崎を打ち立ち、
先陣はすでに山崎天神の馬場芥川辺りに充満したため、後陣はいまだ西宮清水の辺りに妨げられた。

その日の晩景、秀吉から光秀の洞ヶ峠本陣へ堀尾吉晴が使者として申し遣わされた。

「光秀が叛逆して主君・信長公御父子を弑逆奉る由を、備中高松城で承った。秀吉は不肖の身ながらも
いやしくも人の臣として、主君が弑逆にあわれたのを他所に見ることはできない。すみやかに叛臣を

誅戮して亡君の御憤りを安め奉らんと夜を日についでここに参着した。明くる13日、久我畷辺りにて
互いに雌雄を決せんと、その旨使命を通ずるものなり」

光秀も柴田源左衛門雄全(勝定か)をもって返答した。

「よくよくの御使者もっとも祝着するところに候。光秀が織田殿を恨み奉ることは世の人口に膾炙する
ところであり、今更事新たに申すに及ばず。明日の合戦は光秀の本望これに過ぎず。

勝敗は互いに天運に任せ候」

光秀はこのように使者を返し、急いで明日の合戦の手配を行った。

――『改正三河後風土記』


「ああ天なるかな!」

2018年09月01日 21:21

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 02:23:17.54 ID:raZtNnU0
秀吉の義兵は3万余騎と聞こえ、光秀の狼狽は大変なものであった。丹波亀山の居城を一子・十兵衛光慶に
守らせ安土は明智左馬助に、佐和山は荒木山城(氏綱)に守らせて淀城は修築半ばにして洞ヶ峠まで出張し、

二男の阿古丸といって12歳の者を2度大和の筒井へ送り援兵を請うもやって来ないため、光秀は大いに
恨み嘆いた。味方に来たらずして叶わぬ長岡与一(細川藤孝)も筒井順慶も心を変じてやっては来ない。

織田七兵衛(津田信澄)は討たれ、徳川殿は伊賀路を経て帰りなさると推量しなにとぞ徳川殿を討って来た
者には士農工商の差別なく恩賞をその望みに任せるとその道々へ触れ流し、きっと一揆が取り籠めて

討ち止めるだろうと思ったが、思いのほか討ちもらして捨て置いても害にもならぬ穴山梅雪を討ち殺した。
よもや急には打って上るまいと思った羽柴は大軍、しかも食い止めるか討って上るかと思う毛利も加勢して

羽柴は早くも摂津を打ち立ったと聞こえた。イスカの嘴、このようにまで物事に齟齬が生じたことを光秀は
「ああ天なるかな!」と空を仰いで嘆息し、悔やんで泣きに泣いた。

――『改正三河後風土記』



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 13:55:32.52 ID:EcywMg4w
イスカの嘴
「ああ天なるかな!」

ラノベでありそう(小並感)

かの大軍に気を呑まれてその指図に従われる

2018年08月29日 18:57

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 17:04:21.36 ID:K7i/dcnH
羽柴筑前守秀吉は摂津尼崎に着陣し、神戸三七信孝ならびに丹羽・池田ら諸将へ使者をもって申し遣わした。

「秀吉は亡君(織田信長)の仰せを受けて討手として中国に向かい、備中高松城まで攻め取った。しかし、
毛利は大国といい大軍といい容易には決戦しがたく、援兵を申し願った。毛利は亡君の武威に畏服し3ヶ国

を避け渡して降参和睦の盟約はすでになるに及び、まったく思いも寄らず賊臣・光秀は叛逆して主君御父子は
討たれなさったと長谷川宗仁の方より告げ来たった。秀吉はこれを聞き、切歯扼腕して怨恨限りなく、

腸を断たれる思いだった。よって1日も早く亡君の弔い合戦をせんと思い毛利と和睦し、毛利より弓5百挺・
鉄砲5百挺・旗30流の加勢を受けて、今日尼崎まで着陣したものである。

只今より早々に上洛して逆賊光秀を誅戮せんと存ずるなり。信孝公はじめ諸将の軍議はいかがに候か」

信孝はじめ諸将は早く光秀と一戦せんと思うものの、あまりに小勢なので容易には打ち立ちがたく、かれこれ
評議に10余日を送っていた。そこに秀吉が今度2,3万の大軍で上着したと聞いて大いに喜び、信孝・長秀

らは早々に舟で大坂から尼崎へ至ってついに秀吉と対面し、秀吉の大義・大忠を感嘆して喜ぶにもまず涙は
先立った。追々に諸将も会合して軍議を凝らしたところ、合戦の場所は山崎と定められた。

その時、池田勝三郎信輝(恒興)は「今度の光秀誅伐の先陣は某が仕らん」と言った。高山右近友祥入道南坊
は声を揚げて「今度の弔い合戦の先陣は某、二陣は中川瀬兵衛清秀、三陣は池田父子であるべきだ!

池田殿は順序を越えて先陣とは何事ぞ!」と、双方すこぶる争論に及ばんとした。

秀吉がこれを聞いて「池田殿は亡君の御乳母兄弟でおられるから、とりわけて御在世の御陣定めを変えなさる
べきではない」と言うと、池田も承服して静まった。よって先陣は高山南坊、二陣が中川清秀、三陣は池田

信輝と定まった。蜂屋頼隆は密かに傍の人に囁き、「三七殿は亡君の御子、丹羽は当家一二の老臣、池田も
亡君の御乳母兄弟だ。いずれも当家において歴々の輩である。尼崎へ秀吉が参着と聞きなさったならば、

秀吉をこちらへ招き寄せて軍議されるべきことである。それを三七殿も丹羽も軽々しく秀吉の方へ参謁し、
かの大軍に気を呑まれてその指図に従われるとあっては、秀吉は早くも天下の主と見える。

きっと光秀を誅せられて後には、天下は秀吉の手に落ちるだろう」と申した。この言葉は後に思い当たった。

――『改正三河後風土記』


曲淵城主と○○

2018年08月25日 18:20

210 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/08/24(金) 12:58:20.77 ID:b7TWBcj9
仕事してたらちょうどいいネタを発見したから投稿する。


曲淵城主と○○

元亀・天正のころ、曲淵というところに鍬作りの鍛冶屋である甚五平衛という男が住んでいた。
ある日の夜、甚五平衛の家に見知らぬ坊さんが家を訪ねてきた。心の優しい甚五平衛は坊さんを誠心誠意にもてなした。

数日泊めた後、坊さんは出立することとなった。そして坊さんは書状を甚五平衛に渡してこう言った。
「この書状を高祖の殿様に届けよ。」
こうして坊さんは去った。

甚五平衛はその書状を高祖城主・原田隆種に渡した。隆種は書状を読むとこれに喜び、甚五平衛に「曲淵河内守」という名と曲淵城を与えたという。
甚五平衛はこうして曲淵河内守氏助と名乗り、今の早良区一帯の支配を任され、豊臣秀吉の九州征伐で滅びるまで、原田氏に仕えた。

なお、あの坊さんであるが、彼の正体はなんと時の将軍(元の文のママ)・北条時宗の父・北条時頼だったのであった。


早良区曲淵において伝わる民話である。
なお、これ書いた人は北条時宗を何故執権ではなく将軍と書いたのか尋ねてみたい。


ソースは福岡市早良区の情報誌

※投稿者の方からこの情報誌のサイトを教えていただきました
平成30年度「さわらの秋」パンフレット
http://www.city.fukuoka.lg.jp/sawaraku/sawaraku-tamatebako/miryoku/autumn/pamphlet2018.html
 パンフレット(7~16P)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/64937/1/bbbb.pdf?20180904094345
SnapCrab_No-0562.jpg
本当にどう言う過程でこの逸話が生まれたのかw




211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 13:14:39.41 ID:wp5gUCGn
俺の読解力がおかしいのかな
元亀天正の話しだよね
北条時宗?

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 13:35:16.16 ID:kh6/p4Yo
鎌倉時代の伝承が雑に元亀天正に引き下げられた感じかな。しかし足利義昭がそんな事してたらそれはそれで面白いがw

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 14:06:53.67 ID:wp5gUCGn
鞆から船ですぐ行けるからな、義昭漫遊記を見てみたいわ

しかし登場人物がみんな実在と思われるのになぜここまで雑な設定になったんだろうな

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 15:09:21.40 ID:PuZ/RJsN
時頼が不老不死っていう説はないの?

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 15:36:15.69 ID:EYE7KuwJ
原型はわからないけど何らかの元ネタをローカライズしたパターンかも

9世紀頃の摂津長柄の人柱の伝説を原型にした「雉も鳴かずば撃たれまい」の話だと
有名な長野の犀川や犀川繋がりで石川、原型に近い話が熊本にもあるし

竹叟夜話を原型にした話が上方から江戸に伝わり播州は番町、杯は皿に変わって番町皿屋敷に
今度は江戸から上方へ伝わり播州皿屋敷になるとか
ローカライズにありがちな、時代・場所・人物が改変された話の気がする。

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 16:30:29.30 ID:EYE7KuwJ
……よく考えなくても鉢の木か
よくある時頼廻国伝説の派生かと思ったが鉢の木から鉢の木のエピソードを抜くとは…酷すぎる

我が去年攻め残したる城なれば

2018年08月11日 18:31

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 08:33:19.76 ID:pvd4tFcp
天正十三年四月、宇喜多秀家備前美作の兵一万五千
蜂須賀彦右衛門尉正勝、黒田官兵衛尉孝高を検使とし
仙石權兵衞尉秀久、尾藤甚右衛門尉知定
杉原七郎左衛門尉家次、小西弥九郎行長、共に七人の兵将二万三千人をもって讃州に発向した
四月二十六日に屋島の浦に到着し、北の峯に旗を押し上げると
国中の人民これを見て騒動すること言うばかりもなかった

ところが北の峯は分内狭迫にして兵を留めるのが難しく、そのため南の峯へと移ったが
この山も上代の名城なれど山高くして戦さをなすには用がなく
其の日下山して牟礼高松に上った

さてここに喜岡城という小城があり、高松氏世々の居城であった
香西伊賀守の旗下なれば、加番として唐人弾正、片山志摩守を兵将として百余人指し使し
高松左馬助配下の百余人と共に、二百余人をもって城を守っていた
この城は去年仙石秀久、小西弥九郎らが二千余人をもって攻めれども
堅城なれば落とすことができず、この度四国の手先に在って大軍の馬蹄にかかる事となった

秀吉公の御目代黒田孝高が宇喜多秀家に向かって曰く
「小塁(小城)あり、この度の手始めなれば、踏み落として然るべし
高松山の松を切り寄せ、これをもって堀を埋め上げ足場とし
一時攻めに陥とし国人の聴を驚かすべし」とて全軍に下知されたが
仙石氏これを聞き
「これは我が去年攻め残したる城なれば、他人の手にかけさせるべからず!」として勝手に攻め寄せた
このため攻め具を待たずに、総軍相争って蟻の如く城に取り付く有様となり、この時死ぬ者が多かった

城内にも鉄砲百挺ばかりあったが、敵兵二万余が天地を響かせ攻め寄せると
掘塀堅固とはいえ、猛勢に切所なければ、大軍がいやが上にも重なり
何の造作もなく落城し、二百余人の者ども一人も漏らさず攻め殺された

(南海治乱記)


大徳寺総見院での信長の葬儀

2018年07月28日 19:08

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/28(土) 03:07:31.13 ID:NB6t5LP1
大徳寺総見院での信長の葬儀


惟任は長年将軍(信長)の御厚恩によりその身を立て、何度も栄華に誇り
遊楽をほしいままにしてきたので、(信長の)長久を希うべきなのに
故なく相公(信長)を討ち奉って、どうして天罰がないことがあるだろうか。
六月二日に害し奉れば、同十三日には自身の首を刎ねられた。
因果歴然なり。恐るべし恐るべし。

(中略)

秀吉の所生は、元来高貴ではなかった。しかしながら相公は五男の
御次丸(秀勝)を養子として下された。この上は秀吉も同胞合体の侍である。
御葬礼がないなどあってはならない。されども(織田家)歴々の年寄衆は
とりわけ御連枝が多いので、一旦(秀吉は御連枝に)憚って
六月より冬の十月に至るまで、少しの法事も行わないまま過ぎてしまった。
昨日の友は今日の怨讐、昨日の花は今日の塵埃といえど、誰が予期しただろう。
誠に下賤下劣の貧士貧女でさえも、その跡を弔う習いがあるのに
どうして人民の君主にそれがないのだろうか。
今法事をしなくては、千変万化の世間の行く末は測り難い。
よって十月初めより、龍宝山大徳寺でのべ十七日の法会を催した。

(中略)

十五日目の御葬礼の作法は諸人が目を驚かせるばかりであった。
まず棺を金紗金襴で包み、軒の瓔珞、欄干の擬宝珠はみな金銀を集め
八角の柱は丹青を施し、八面の間は紋桐を彩色していた。
沈香(香木の一種)から仏像を彫り出し、棺の中へ納め奉った。
蓮台野(火葬場)は縦横広大に作られており、四門の幕は白綾白緞子
方百二十間の中火屋があり、法経堂のような造りだった。
総廻に埒を結い*1、羽柴小一郎長秀(秀長)が警固大将として
大徳寺より千五百丈の間を、弓矢槍鉄砲を持った警固の武士三万ばかりが
路の左右を守護した。葬礼場には、秀吉分国の人々は言うに及ばず
合体の侍を悉く馳せ集め、そのほか見物の貴賤は雲霞のようだった。

(棺の)御輿の前轅は池田古新(輝政)*2、後轅は羽柴御次丸がこれを担いだ。
御位牌は相公の八男御長丸(信吉)、御太刀は秀吉が不動国行*3を持った。
両脇に連れた三千余りの人は、みな烏帽子藤衣を着用していた。

(中略)

秀吉は御次丸と共に焼香し、十月十五日巳刻に無常の煙となってしまった。
誠にこれが一生の別離の悲しみである。これを嘆かない人がいるだろうか。
特に秀吉は目も開けられない程で、涙を留められなかった。


――『総見院殿追善記』



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 10:46:53.44 ID:txEyc0Bx
猿は演出家やなぁ

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 11:37:09.99 ID:GLoZA45F
何となく、諸君らが愛してくれだカルマは死んだ!何故だ!?
を思い出しました、ジークジオン

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 15:39:06.51 ID:iCMkgUqJ
それは因果応報だからだよ

*1 馬場の周囲に囲いを巡らすこと。
*2 輝政はこの頃秀吉の養子となっており、織田家所縁かつ養子の二人に
信長の棺を担がせる政治的な意図があったとされる。
*3 信長遺愛の太刀。本能寺の変後に明智秀満が安土城から持ち去ったが
敗死ののちに秀吉所有となったとされる。

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 19:50:44.01 ID:OOqoj3kL
サスロ兄爆死で世論操作やな

111 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 20:16:49.81 ID:ufzNrPWL
秀吉に旧主の信長を悼む気持ちが無かったとは思わないけど、やはり後々の事を思うと某SF傘アニメの国葬よろしく政治工作と言うか政治利用だよなぁ

敵の後にただ一人

2018年06月21日 21:49

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 08:54:19.80 ID:tSvrzezH
小田原の役の時、北条氏直の陣所に対する豊臣方の仕寄場へ、城中より夜討が仕掛けられ先手の者たちが
これに対応したが、この時蒲生氏郷は、具足も付けず鑓を持つと、正面の敵に構わず、敵の後に
ただ一人廻り、敵の後から突き倒し、散々に相働いた。

これにたまらず敵方は城中に引き取ろうとしたが、氏郷一人に責め立てられ、逃げ惑い堀に飛び込む
者まで居た。これを見て後から駆けてきた侍たち、我も我もと頸を討ち取った。
氏郷は数多の敵を突き倒し、その頸を取った者も多かったという。

関白秀吉はその働きを聞いて感じ入り、「氏郷が活躍するのは珍しいことではないが、今回の
夜討に敵の後ろに回り、一人で切り取り数多の頸を討ち取ったこと、当意の機転、古今稀なる働き
である」と讃えたという。

(蒲生氏鄕記)

氏郷の単騎攻撃のお陰で敵の夜討がボーナスステージに成ったお話。



28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 10:51:47.16 ID:R6dkeP0Z
単騎突撃で死なない人・・・
夜討の混乱状態で後ろに回った機転が、武功と生存の鍵なのか。

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 19:02:19.99 ID:ZEe/6+m0
夜襲したら後ろから奇襲されたでござる
ゲームの主人公かな?

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 20:26:59.26 ID:z22uOANl
>>27
またしても裸アーマーか

吹かねど花は散るものを

2018年06月20日 20:56

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 08:14:50.40 ID:snSb52k0
石田治部少輔三成は、昔の梶原平三景時を越えた讒臣であった。彼はある時、太閤秀吉に密かに申し上げた
「現在は、御世長久に治まり四海の内に旗を立てる(反乱を起こす)者は一人も居りません。
さりながら、会津宰相(蒲生氏郷)は、謀も優れ、良き侍をも数多持っており、先年九戸一乱のみぎり、
私は現地に下って彼の計略を見たのですが、彼の軍勢の人数、そして実施されている法度の数々には
目を驚かされました。

あのような良将を愛して置いては、虎を養えば必ず踵を返すとも言います。」

秀吉も常々、氏郷を訝しく思っていたため、彼を失わせるための談合評定を行わせた。
その頃、天下一の大名で、殊に武道に優れていたのは江戸大納言(徳川)家康であったが、家康は謀に達していた
故に、秀吉の前では作って凡人を装っていた。

しかし氏郷は錐が袋に収まらぬ風情にて、言葉のはしにも人に指をさされまいと心がけていたため、秀吉が
警戒したのも仕方がないのだが、かといって忠功第一の人であるのでどうにも手出しできなかったため
「人知れず毒飼いをせよ」
という結論に至り、ある時、氏郷に毒を盛った。

この毒が祟ったのだろうか、朝鮮征伐の頃、下血を病み、さらにその頃から気色常ならず、面色は黄色くなり、
頬の肉が痩せ、目の下もすこし浮腫した。
秋頃、法眼正純を召して養生薬を用いたが、その後も腫腫やや甚だしく、名護屋にて宗叔の薬が合うのでは
ないかと言われ、彼を召してその薬を用いいたが、その験無かった。

この年の12月朔日、太閤秀吉は何を思ったか江戸大納言(家康)、加賀中納言(前田利家)に、
「諸医者を集め氏郷の脈を見せよ」と命じた。
両人承って、竹田半井道三以下の名医を集め脈を見せた。彼らは皆「重体です」と答えた。
明けて文禄4年正月まで、宗叔の薬を服用していたが、氏郷の気力は次第に衰え、それより道三の薬を
用いた。しかしながら回復はもはや叶わず、同2月7日、生年40歳で、京都にて朝の露と消えたのである。
この時の辞世の句はこのようなものであった

「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心短き春の山風」

未だ勇々しき年歳を一期と見捨てられたこと哀れなる事どもである。近習外様の老若男女、賤男賤女に至るまで
泣き悲しんだが、もはや詮無きことであった。その後葬礼が美々しく取り繕われ、紫野大徳寺の和尚を請して
一時の烟となった。その戒名は『昌林院殿前参議従三位高岩忠公大禅定門神祇』と号された。

(氏鄕記)

有名な蒲生氏郷毒殺説のお話



872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 08:58:13.97 ID:KwLVBxqB
氏郷記って、政宗が毒を持ったという話もあるし、毒が大好きなんだな。

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 11:09:28.61 ID:88yyrNxx
病気で早世したというよりは、有能さを恐れられて毒殺のほうがカッコイイということか。

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 11:10:19.19 ID:9mDsavLx
肝硬変の症状だな

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 11:20:23.02 ID:aKAhGxdn
肝硬変、肝臓がん、直腸がんなどの説があるねい。
んで、症状や闘病期間から毒殺はまずありえないというのが定説。

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/20(水) 14:29:44.68 ID:v/cke0Ys
氏郷の病状は医学天正記にも書いてたな
確かまとめにもあったような…

セキレイの目

2018年06月13日 17:53

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 16:12:05.73 ID:jXBncqBZ
葛西大崎一揆が終結すると、蒲生氏郷は二本松城へと帰陣した。ここで秀吉より派遣された
浅野長政と対面した。長政は「今回の働きは大変な誉れでした」と氏郷を讃え、今後のことを
相談し、先ずは伊達政宗より取った人質を連れて上洛し、今回の事態に至った経過を申し上げると
決まった。去年のうちに出した飛脚も京都に到着し、豊臣秀吉は浅野に加えて石田三成をも
会津に下すとの事であった。

このような所に、何を思ったのか伊達政宗が「私もあなた方と相伴して上洛したい」との旨を
二本松に伝えてきた。両人は「一段然るべし」とこれを許諾し、先に浅野長政が出立し、
その次に伊達政宗が立った。氏郷は「この上は必要ない」と、政宗からの人質を返した。

しかしこの時の政宗の風情は聞くも恐ろしいものであった。死に装束の出で立ちで、金箔を貼った
磔ものの杭を馬の先に持たせて上洛したのだという。

政宗の後に氏郷も出立し、上洛すると秀吉の御前にて一揆の様子を順々に申し上げ、並びに
政宗の家来であった山戸田八兵衛、牛越宗兵衛が持参した、葛西大崎一揆を政宗が扇動した
証拠となる證文を渡した。
秀吉は氏郷に「今度の手柄に勝ることはない」と激賞し、「こんな事があるかも知れないと思って、
御辺を名代として会津に置いたのだ。」と語りかけた。

その後、政宗への尋問が行われたが、政宗は
「今度逆心を起こした山戸田、牛越と申す者たちは、彼らが幼少の頃より身近くにあり、
また祐筆も申し付けていたので、今回は私への恨みのままに、偽判をしてしまったのでしょう。」
り申し上げた。これを聞いた人々はみな「嘘くさい言い分だ(実しからぬ云分かな)」と言ったが、
政宗は
「疑われるのなら、その判を御見せ候へ」
と請うてこれを見ると

「さてこそ、これは偽判です。私の判は、セキレイの形を模しておりますが、これには、その目が
ありません。本物の判には目が付いています!」

そう陳述した。これにより秀吉は、諸大名小名を詮索し政宗の書状を取り寄せたが、それらには全て、
確かに目が付いていた。
伊達政宗の謀は非常に奥深いものだと感じられた。

これによって言い分が一つ立ち、また秀吉としても、政宗がこのように京都にいる以上
おかしな動きはできないと、再び柔和を加えて、政宗は京都に押し止め、長く在京させたのである。

(氏鄕記)

有名な「セキレイの目」の逸話



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 17:08:15.98 ID:NO0axVvC
一応、言い訳はできたけど、信用はされなかったわけね。政宗自身が人質になったようなものか。
しかし、よく取り潰しにならなかったなあ。もっと薄弱な理由で改易された大名は多かろうに。
秀吉を機嫌よくすれば勝ちなのだろうか。

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:37:04.33 ID:EXL6zAuI
その後、ラスボスのお気に入りになったからな。なにかを感じたんだろうw

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:49:34.96 ID:9Iw3leKK
伊達家潰して新たな騒動の火種を作るより火中の栗を拾わせたほうがマシってことじゃね

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:59:59.61 ID:TpbmBOju
>>856
お気に入りと言っても、減封の上さらに僻地に転封し、その上、中央の政局には一切関わらせないようにしたわけで。

関ヶ原まではプライベートで叫んでいるだけの存在。

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 20:28:35.17 ID:EXL6zAuI
東北勢みんなそうやろ。

大仏殿普請の事

2018年06月12日 21:01

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/12(火) 00:05:21.87 ID:6bYuvtCd
大仏殿普請の事

去る程に四海八島の外も波静かに治まり、関白左大臣豊臣秀吉公は京都に大仏殿を御建立あるべしと、
天正17年の春より人夫を揃え、京に石を引かせた。
大仏殿は五条の橋の方で、その大門の石は松坂少将蒲生氏郷の担当と成った。
それは一辺が2間(約3.6メートル)の、四角形の大石であった。
大津三井寺の上より、漸く道まで引き出したが、そこで秀吉から氏郷に
「あの大石は人夫への負担が大きいので輸送は中止するように。」
と伝えられたため、氏郷も畏まりこれを中止した所、それを京童が一首の狂歌を詠んで
落書にして立てた

『大石を 道の蒲生に引き捨てて 飛騨の匠も成らぬものかな』

もちろん飛騨とは氏郷の受領名「飛騨守」の事である。氏郷はこれを知ると
「京童に嘲られる事こそ口惜しい!ならば引いてみせよう!」
そう決意し、再びこの大石に取り付き引き始めた。

蒲生源左衛門尉郷成の、その日の装束は太布の帷子の、袖裾を外し背には大きな朱の丸をつけ
小麦藁の笠に采配を取って石の上に上り、木遣をした。
その他には、蒲生左門家来である中西善内が笛の役、蒲生四郎兵衛郷安家来、赤佐一蔵は太鼓の
役で、拍子を取り、これが誠に面白いと人夫共もこれに勇を得て引いた。
また氏郷自身がこれを奉行したので、氏郷の侍たちも皆、石を引く本綱末綱に取り付き、
我劣らじと引いた。

ここで、戸賀十兵衛の人足の一人が、草鞋の奉行であるからと傍に居たのを氏郷が見つけ
「あれは如何にも悪き奴かな!搦め捕ってこい!」
と命じ、土田久介という小姓がこれを承り、走り寄り手巾にてかの者を搦めて来ると、
氏郷はこれを田の畦に引き据え、腰の脇差を抜いて、立ちどころに頸を落とした。

これを見た者たちは興醒め顔にて、なお一層石引に精を出した。しかしながらやはり大石
であり、なかなかうまく進まず、人夫たちにも次第に疲れの色が濃くなった。
そこで「彼らに力を与えよう」と、都より傾城十余人を呼び寄せ、石の上に登らせ
小歌を謡わせると、これにひときわ気力を得た。

しかし、日岡峠を登らせる時は流石に不可能に思えたが、氏郷は源左衛門尉郷成に、
「どうにか精を出して引き登らせよ!」と命じた。
郷成は「承り候」と言うや、わざと田の中に転び落ちた。彼は装束を泥だらけにして
起き上がると、それを見た人夫たちは、一斉にどっと笑った。その夥しい笑い声は
暫く鳴り止まないほどであった。
そしてその勢いでこの峠をついに越えたのである。氏郷は非常に喜び、彼に秘蔵の名馬を
与えた。

その後も人々精を出して引いたが、どうしたことか鎖綱が引きちぎれ、額に当たって
人夫一人が死んだ。しかし別の鎖に付け替えて引き、ついに加茂川へと引き入れ、都の内へと入った。

ここで氏郷は「今度の京童共による狂歌への返報である」と、人夫共を京の民家の上に
上らせで石を引かせた。このため大仏殿の方向にある家々は踏み破られた。

そこに関白秀吉が氏郷を迎えに御出になられた。御供は木村常陸介で、彼らは石の上に
上がってきた。これを見て赤佐一蔵は驚いて石より飛び降り、郷成、中西善内も下りようとしたが、
秀吉は「そのまま罷りあれ!」と彼らを留め、自身は帷子に着替えて木遣を成された。
常陸介は太鼓を打ち、中西善内はまた笛を吹いた。こうなった以上、秀吉の御供として
付き従っていた大名小名もみな石に取り付いて引いたため、そこからは飛ぶように進み、
程なく大仏殿へと到着した。
この時、一番の大石を尋ねた所、この氏郷の引いてきたものより大きな物は無かった。

(氏鄕記)

有名な話ですが、出典付きで



6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/12(火) 01:03:03.38 ID:gXqWeN7x
男塾の直進行軍を思い浮かべてしまうな

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/12(火) 09:24:59.36 ID:5Fu7ixea
蹴上あたりから、どういうルートを通ったんだろう。お寺も、犠牲になってそうだけどw

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/12(火) 11:34:45.72 ID:7/r2BUUk
約2名を除いて楽しそうだな(小並感

信長と秀吉の違い

2018年06月10日 13:48

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 11:43:06.50 ID:+lBkktIw
天正13年7月、豊臣秀吉は摂政関白の両職を占められた。目出度いことである。
その御治世の賢きことを考えてみると、織田信長は義と剛のみを用いられたため、
敵対する者は不義であると、御身剛なるままにその根を絶ちその葉を枯らした。
また敵の方から降参する者をも、不義をして来た者であるからと、後になって害した。
そのようであったので降参するものも無く、故に天下も静まらなかった。

一方の関白秀吉は、柔と剛を兼ねて用いられ、敵対する者へは、或いは先に扱いを入れて
それを聞かなければ攻められ、或いは先に攻撃してその後扱いを入れた。そして降参する者には
過分の領地を与えた。故に天下は早々に治まったのである。

(氏鄕記)

氏郷記による、信長と秀吉の違い



984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 14:15:52.84 ID:TtJ2yHhY
秀吉は、そうやって外様にいい顔したから、子飼いの武将があまり大身にならなかった側面があるような。

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 14:24:34.85 ID:08xhiQlf
譜代の石高が低いのは徳川も一緒じゃないかな

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 15:12:43.50 ID:KDd0fsGl
譜代に大身を与えたら反乱祭りになった足利幕府という例があるからな

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 19:41:46.61 ID:Lmu5ih2J
秀吉の場合理不尽に奪うケースも多かったと思うがなぁ( 奥州仕置とかが判りやすい )

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 00:42:38.28 ID:Vq/uASs5
恩賞の土地が無くなってきたとか?

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 01:08:18.93 ID:r7KW5omB
理不尽っつーか、奥州とか九州とか、よくわからない土地は自分の功臣にどかっと領地を与えるのに使っちゃった、ってことだろ。
奥州とか九州とか、先祖代々の入り組んだ関係を理解して公平にさばくなんて誰にもできない。

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 10:18:37.36 ID:1BvVKhuE
信長の場合、問題は、最初友好的だった戦国大名と、領土が近づくとことごとく敵対関係になっていること。

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 13:11:49.75 ID:Vq/uASs5
友好的な戦国大名って誰のことだろう
分かる人いる?

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 14:17:55.69 ID:sVJD/xBa
上杉や毛利でしょうね
ただし領地が接した途端に戦い始めるのは戦国大名としてはお約束の展開。
秀吉なんかも征伐、征伐だし

勝家への返答

2018年06月08日 18:41

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/08(金) 17:47:16.27 ID:K7zh36zA
清須会議の後、織田信雄と織田信孝の対立が顕れ、諸大名は信雄・羽柴秀吉方と
信孝・柴田勝家方へと分かれた。

そのような中、蒲生氏郷は妻が信長次女であり(相応院)、信雄も信孝も自身の
小舅であることから、どちらに付くとも態度を表明しなかった。
そのため柴田勝家からも羽柴秀吉からも、平に頼み申すとの遣いが送られた。

蒲生家に対して世間ではこう考えていた
「蒲生父子は柴田勝家の寄騎として、勝家出陣の時は先手を任され毎回手柄を成された。
勝家が越前を拝領された後は柴田とは離れたが、最前よりの好であるから、きっと柴田に
同心するだろう。」

しかし氏郷はどう考えたのか、勝家に対して切れ目(断交)の返事をした。
蒲生家では安井孫右衛門という者を越前に付け置いていたのだが、彼を一旦帰国させ、
その上で使いとして勝家の元へ向かわした。

安井が蒲生の返答の内容を申すと、勝家は「思いもかけないことだ、蒲生は必ず味方となると
思っていたのに。」と、力を落とした様子であった。その上で、勝家はこの安井孫右衛門に
別して目をかけていたので

「今度の合戦に討ち勝てば、近江国にて存分の知行を宛てがおう」と、折り紙を渡して
帰させたという。

(氏鄕記)

勝家はいい人だな



979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/08(金) 19:13:33.87 ID:A67A5fmZ
>>978
>勝家はいい人だな
まあ裏を返せば悪い人には勝てないな…

佐野天徳寺は先手を望むも

2018年06月03日 17:03

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 20:01:45.70 ID:ymnEiec5
豊臣秀吉が五畿内の軍勢数万騎にて小田原の北条氏直を攻めると、諸軍勢に軍法を下された頃、
佐野天徳寺はこう申し上げた
「今度の小田原攻め、御先手をそれがしに申し付けください。」

秀吉はこれを聞くも
「貴老は人数も持たないではないか、一人では何も出来まい。」

しかし天徳寺
「今回、御先手を申し付けていただければ、野州佐野へ申し遣わし、故宗綱の家来が
五百騎ばかりが居りますので、彼らを呼び寄せ、御先手を仕ります。」

しかしながら、秀吉は考え深き大将であり
「いやいや、佐野に残った侍と言っても、もはや数年前の事であるから、今は思い思いに散らばり、
そのように働く事が出来るとも思えない。もしそのような状況ならばどうする?」

「宗綱の侍は代々譜代の者たちですから、他国を頼んで出ていくことなどありません!」
そう、達って申し上げたため、秀吉も「そういうことなら貴老の望み通り、先手をせよ」
と仰せになった。

そこで天徳寺は早速佐野に、この旨を伝えたが、天徳寺の考えに相違し、秀吉の考えの如くに、
佐野の侍たちは方々へ散り散りとなり、あるいは小田原に人質として入り、集めることの
出来るのは百人以下という有様であった。

天徳寺はこの現実を見て、さても是非無き次第かなと、面目を失った。
それより少し、秀吉公の御前に思し召される事が無くなったという。

(唐澤老談記)



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 20:30:31.43 ID:f/1CtrpU
ほんとに悪い話だ。
関東の国衆って、けっこう小田原に入って、滅亡した家が多い感じ。

838 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/06/02(土) 20:37:35.91 ID:gKbDChEG
天徳時さんの目利きの甘さと秀吉の読みの鋭さよ…
せめて人を集めてから申し出るべきだったな

穂井田元清の虎狩りの話

2018年06月02日 18:26

968 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/06/02(土) 18:13:50.45 ID:gKbDChEG
朝鮮役での虎狩りの話題が出てるので毛利元就の四男、穂井田元清の虎狩りの話を…
>>967のように秀吉は朝鮮へ渡海する諸将に虎を狩る様命じ、朝鮮へ渡った穂井田元清も二頭の虎を生け捕りにして日本へ送った。
日本へ送られたこの虎は後に後陽成天皇の御前にも召し出されるほど人気であったと言う。
そんな人気が出る虎なんてひょっとしてでっかい猫みたいなものだったのではなかろうか?

https://i.imgur.com/9DhS1j7.jpg
https://i.imgur.com/k8x2b3o.jpg
9DhS1j7.jpg
k8x2b3o.jpg



969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 20:23:34.74 ID:f/1CtrpU
下の子、ちょっと腹が出すぎww

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 20:55:52.36 ID:BXsv5Oxs
孕んでんじゃね?

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 21:05:04.03 ID:FbZbFDG+
虎狩りと言えば立花家臣・米多比三左衛門の大虎・小虎のエピソードが有名だよな
それにしても立花家は墨縄といい有名な逸話が残る火縄銃が現存してるのは凄いなあ

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/07(木) 17:53:15.18 ID:XENet+TR
>>971
前に柳川の御花で大虎・小虎の実物と親子の虎の歯が展示されてたな
小虎の方がちょっと短い銃だった

必要なのは頭と肉と腸

2018年06月02日 13:35

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/01(金) 21:04:39.75 ID:OgMQNIEj
 文禄2(1593)年12月、奉行の浅野長吉と木下吉隆が秀吉の意向を受けて、在陣武将た
ちに虎狩りを命じた文書が残っている。

 秀吉様の御養生のために虎を捕獲して塩漬けにして送れ。必要なのは頭と肉と腸で、皮
は自由にしていい

 この文書を読むと、当時虎は不老長寿の薬として重用されており、朝鮮での虎狩りは秀
吉の滋養強壮の薬を調達するために行われていたようだ。秀吉が文禄3年4月12日付で加藤
清正に宛てた朱印状では、清正が秀吉の命令に従って実際に虎を狩って秀吉に送っていた
ことがわかる。熊本日日新聞社編『加藤清正の生涯』p74

 虎の利用法。秀吉の仙薬調合の材料確保のために組織的に行われていた。加藤清正以外の部将も、虎狩りに従事していた。
 皮は好きにしていいというのは、実際に虎狩りに従事した大名たちへの反対給付の意味もあったのかも。