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小田原城、早川口攻めと豊臣秀吉

2019年11月09日 18:28

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/09(土) 12:33:12.19 ID:vMeEitIm
笠懸山に一夜城を築いた豊臣秀吉は、その高台よりつくづくと小田原城を見下ろすと
「北条家五代の間、面々と工夫をこらし修営を加えた名城だけ有って、塁壁高く、
水流は深く掘られ、要害堅固である。」と感心し、これを力攻めすればいかに多くの損害が
出るか、またそれによって敵に利を与える事を悟った。そこで、後はただ長陣を張って
ゆるゆると攻め落とすことだと考えた。

そうして間断なく攻めはするが無理押しをせず、連日鬨の声を上げて敵を脅かし、矢弾を飛ばすことを
一日も怠らなかった。毎日数万の鬨の声と、数千の銃声が山野にこだまして天地を轟かせ、
磯山嵐か沖津風の如く五里十里の間に響いた。それが昼夜を分かたず行われたのである。

しかしながら城中でも、早雲以来累世の恩を被る関東武者四万五千余りが、既に生命を投げ出して
城の要所要所を固め、大筒を仕掛け、盛んに寄せ手に撃ちかけるので、上方勢も城壁に
近づくことが出来なかった。

秀吉は韮山城攻めに加わっていた北畠内大臣(織田)信雄、細川幽斎・忠興父子、福島左衛門太夫(正則)を
呼び戻して小田原城の攻め口に向かわせた。その中より特に細川忠興を呼ぶと

「小田原城の、早川口の松山に敵は砦を築いた。これまで色々と攻撃したがどうにも落ちない。
そなたが計略を以て落とすように。」

と命じた。忠興は「畏まって候」とこれを受け、早速早川口に向かうと、先ず土嚢を用意し、弾除けの
竹束を作って砦へ近づいたが、その夜、たまたま城兵が打って出たのを、忠興の家人がこれを迎え撃って
戦い、敵の首級三つを得た。

翌日、忠興自身が指揮をして。堀際六、七間ほどまで接近した。

その翌日、笠懸山より早川口を見下ろしていた秀吉が、側に在った大谷刑部(吉継)に尋ねた
「遠くの大松の影に夥しい旗が立っている。あれは敵の旗か?」
「いいえ、あれは細川越中殿の旗印でございます。」
「なんと、よくあれほどの近くまで。」
「細川殿はご自身の働きで、今夜にもあの堀を埋めるのだと申されていました。」
「そうか、あれを落とせば今度の城攻めで一番の手柄である。」
秀吉はそう言ってにっこりと笑った。そしてその通り、程なく忠興は早川口の松山砦を落とした。

しかしこのような長陣に成ると必ずこういった事が起こるように、「徳川家康織田信雄はが
敵方に内通して反旗を翻す。」との噂が流れ、これが秀吉の耳にも入った。しかし秀吉は素知らぬ顔を
していた。

そして天正十八年四月十五日のこと、秀吉は突然、先達の案内も立てず近習の侍童五、六人を連れただけで
家康と信雄の陣を訪ねた。当然ながら家康も信雄も秀吉を快く迎え、陣中に酒宴を張った。
鼓、太鼓の音も心地よく、謡も出て、三人は何の拘りもなく歓談し、秀吉は家康、信雄の陣に
夜明けまでのんびりと過ごした。

これ以降、謀反の噂はたちまち霧散し、誰もが安堵に胸をなでおろした。

(関八州古戦録)

秀吉が細川忠興の活躍を促し、また家康信雄謀反の噂を消す、というお話。



石垣山一夜城

2019年11月08日 17:27

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/08(金) 06:28:46.53 ID:kr+sccjl
小田原北条家の宿老である松田尾張守入道(憲秀)は、かねて嫡子である笠原新六郎政尭(政晴)の勧めで
豊臣秀吉に内通していた。先に入道は、秀吉より依頼されていた、小田原城を見下ろせる土地として
笠懸山を選び、この事を堀左衛門督秀政を通じて真覚寺の秀吉本陣へ伝えた。そこは小田原の西南に有る
天然の要害で、風祭村の左に当たる松山であった。

秀吉は箱根より、木樵の通るような険阻な道を通って山上へと上がった。そこは正しく城内を真下に見下ろす
位置であり、ここから攻められれば防ぐこと能わずという高台であった。
秀吉は普請の衆にも物見をさせて、早速ここを切り開き本陣を据えた。すなわち塀を架け、櫓を上げ、
壁には杉原紙の白紙を張って白土の壁に見せかけ、一夜にして城を築いたのである。これが石垣山の
一夜城と呼ばれるものであった。

小田原城内よりこれを見た北条勢は驚き呆れ、一夜のうちに石垣を築き、白壁を塗り、櫓を上げるとは
秀吉はただ人ではない、天満の化身であろうと、舌を巻き身震いをしたという。以後、この山を
石垣山とも、白壁山とも呼ぶようになった。

 啼きたつよ 北条山の 郭公

これはこの時、秀吉の作った発句である、

秀吉は徳川家康を呼んで共に高台へと上がり、小田原城を見下ろしながらこんな話をした。

「見られよ徳川殿、北条家が滅びるのももう間もあるまい。何と小気味の良いことか。」
「左様にございますな。」
「この上は、関八州は貴殿に進ずる事としよう。」

そう約束をすると、秀吉は着物の前をまくり、小田原城の方向に向かって小便をはじめ、家康に対し
「貴殿も共に。」
「然らば」
と、二人並んで小便をした。これより以後、並んで立ち小便をすることを、「関東の連れ小便」と
呼ぶように成ったのだという。

(関八州古戦録)



小田原評定

2019年11月05日 16:14

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/05(火) 07:08:55.43 ID:nFt8FQ3f
小田原の役の事

小田原の頼りにしていた山中城が一日で落ちたことを知ると、小田原城中の者たちはあっけにとられ、
城の各口を守っていた将兵もただごとではないと動揺した。関東武者ともあろうものがと深く不安に
かられている所に、上方勢の総大将である秀吉が、四月一日未明に三島を出馬し、足柄、箱根を越えて
小田原の城まで後半里という湯元真覚寺に着いたとの報が届いた。

上方勢の先鋒は。すぐに分かれて湯元口、竹ヶ鼻、畑、湯坂、塔ノ峰、松尾岳といった各所より攻めてきた
ため、そこを持ち口とする諸隊は臆病風に吹かれ、未だ敵の姿を見るか見ないかのうちに、片端から
道を開けて小田原本城へ逃げ込んでしまった。

北条氏政父子は改めて急ぎ評定を開き、畑、湯坂、米神辺りまでは出向いて戦うべきかを尋ねた。
これに対し松田尾張守入道憲秀が進み出てこう答えた

「勢いに乗って一気に進んでくる大敵に、気後れのした味方を防戦に出しても所詮負け戦と成るでしょう。
それでは大事な最期の一戦にも負けてしまいます。それより一刻も早く籠城の策をとって守りを固める
ことこそ肝要に思います。後は敵の疲れを待つことです。」

この尾張守の主張に、諸将も奉行頭も誰も異を唱えず、ただ手をこまねいてその意見を聞いている
だけであった。後で人々は「何と情けないことであるか。これでは北条家が滅びるはずである。」と
思いあわせた。

かつて早雲から氏康の時代は、明け暮れに軍事に励み、肝胆を砕き、寝食を忘れ謀を帷幄の中に巡らせた
ものであった。あるいは出て戦って勝利を得、あるいは籠城して兵を休めつつ戦い、この戦国の世に大敵を
四方に受けて、これを凌ぎつつ領民を安寧に置いて養ってきたのである。

それに比べれば氏政父子は器が小さく、ただ先祖の余光の中に生きて、いざという時の虚実の策とて無く、
衆を頼んで己を失い、ただ呆然と事態を見守っているだけであり、これでは国を失っても仕方のないことだ。
「鵜の真似する烏の、水を飲んで死ぬ」という言葉があるが、それに似ている。
だから今に至っても、はかばかしくない評議が「小田原評定」と呼ばれ、笑い話と成っているのである。

(関八州古戦録)

これを見るに関八州古銭録が成立した頃は、「長引いて結論の出ない会議」ではなく、「消極的で内容に乏しい
会議」を小田原評定と呼んだようですね。



この祖父と孫の別れ

2019年11月02日 17:39

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/02(土) 16:41:10.69 ID:1ELZmBiB
天正十八年、豊臣秀吉による小田原征伐により、北条方の伊豆国山中城にも上方勢がの大軍が押し寄せて
来ること確実と成った。

山中城には。間宮豊前守(康俊)が、嫡子式部少輔の子、すなわち孫の彦次郎、当時十五歳と共に在ったが、
豊前守はこの孫に

「お前はこれより、急ぎ小田原の城中に行って氏直様の先途を見届けてくるのだ。その上で家運があったの
ならば、永く生き残り父祖の名を絶やさぬように継いでほしい。」

このように言いつけた。これに彦次郎は強く反発した
「なにゆえそのような事を言われるのですか!もし私が他の所に居ても、ここに駆けつけるべき時なのに、
そうして小田原へ帰れと言われるのですか!?」

豊前守は孫に言葉にいたく感じ入った、しかしそれを押して答えた
「お前は私の気持ちがわからないのか。これが弓矢を捨てて法師に成れとでも言うのであれば私の
過ちであり、お前の恥辱にも成るだろう。しかし今度の一戦は、重き義のために城を枕に討ち死にをするのだ。

しかしながらお前は未だ幼少により、生き残ってなお主君の大事を見届けよと言っているのであり、これは
少しも悪いことではない。むしろここに留まることこそ主君への不忠であり、父祖への不孝である。
それは我等の立場に違うことであり、それでもなお行かぬというのであればお前を勘当する。
勝手にするが良い。」

そう苦々しく言い捨てた。彦次郎は暫く黙っていたが、ついに頷き、はらはらと涙を流しながら
「承知いたしました。」と両手をついた。

豊前守は大いに喜び、この上はと、譜代の郎党である熊坂六郎兵衛という者の子で十六歳になる者を
呼んで彦次郎に付け、小田原へと送り出した。

豊前守は今やもう思い残すことはないと、岱崎の出丸を受け持ち、子の式部少輔および一族ことごとく
決死の防戦についた。この祖父と孫の別れに感じ入らぬ者は無かった。

(関八州古戦録)

間宮豊前守の勢は山中城の戦いにおいて、豊臣方の一柳直末を打ち取るなど激しく戦い、最期は
「白髪首を敵に供するのは恥」と、これを墨汁で染めて敵陣へ突撃し、討死したという。
なお、後世の探検家・間宮林蔵はこの間宮氏の末裔とされる。



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/02(土) 17:10:50.48 ID:OMIAN1jp
斎藤実盛「さすが坂東武士」

漢家三傑に比すべき家臣

2019年11月01日 17:38

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 11:04:43.93 ID:p2MQ/1GV
豊臣秀吉は小田原への進軍の途中、小早川隆景を尾州清須に残したのを残念に思い、急にこれを呼びにやった。
この隆景は知勇兼備の勇士で、上杉景勝の臣である直江山城守兼続、堀左衛門督秀政と共に、漢家の三傑
(蕭何、張良、韓信)に比すべき大切な家臣であった。そこで駿河清見寺に滞在中、飛脚を飛ばしたのである。

これに隆景は取るものもとりあえず下向し、この日沼津に到着した。
その隆景の家来の中に、十八反の大母衣をかけた武士と、もう一人三間もある大指物を靡かせた武士がおり、
大変に人目を引いた。この事は秀吉の耳にも達し、彼らを垣間見ると、近習に命じてその名を尋ねさせた。

ところが近習が彼らに追いつき名を尋ねると、答えず黙って行ってしまった。近習は不快な顔で、戻ってきて
秀吉に報告した。秀吉は聞くと笑って

「軍中礼なしという。それは何か急な用があったか、それともお前が馬を降りずに名を聞いたのではないか?」

そう近習をたしなめ、別の近習に馬を降りて名を聞くように命じ、再度走らせた。この者が下馬して
この二人の武士に名を尋ねると、大母衣の侍は
小早川隆景が家臣、樽崎十兵衛である。」と答えた
大指物の侍は
「我は同じく隆景家臣、河田八郎である。」
と言った。


近習は帰ってこの事を報告すると、秀吉は「健気なる武士である」と感じ入った様子であった。

その後まもなく、樽崎は病死した。
河田八郎は隆景が死去した後は浪人となり、後に池田三左衛門輝政に仕え河田太郎左衛門と名乗り、
摂州難波の戦いで鉄の盾を振り回して戦い、見る者皆舌を巻いた。そして今なおこの勇士の名は、
人々の口に語り伝えられている。

(関八州古戦録)

小田原の陣における小早川隆景とその家臣について。



299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 15:09:00.72 ID:L131GxwK
鉄の盾を振り回して戦いってだけで戦国無双でキャラとして立てるな

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 15:32:38.63 ID:s7/hLmJu
名将言行録の天下の三陪臣の元ネタ?

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 20:57:17.02 ID:IclFUXMt
どっちが時間軸として先にあったかは知らないが
「本営前で下馬しなかった上に捨て台詞まで吐いた」、花房助兵衛は縛り首にしようとして、
この、「聞いた近習の礼儀がなってないから、陪臣の無礼を不問にした」ってエピソードと比べると
秀吉もそこまでご無体な老君主じゃなく、きちんと礼儀上は一貫してるように見えるな

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 23:52:40.98 ID:EXYR56kw
無言と罵詈雑言じゃ対応が変わるのは当然

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/02(土) 07:43:33.75 ID:dDdSc6I8
>>298
>鉄の盾を振り回して戦い
漫画みたいな超人がサラッと書いてあって草

秀吉の着陣

2019年10月31日 17:20

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/31(木) 16:45:26.45 ID:yQb9vk7z
豊臣秀吉は天正十八年三月六日、尾州清州城に着陣、暫く滞陣して後、十八日に駿州藤枝の宿に入り、
翌十九日駿府へ入った。徳川家康はこれを待ち受けるため長窪の陣より帰っていたが、これに対し
石田治部少輔三成の寵臣が讒訴した
「家康公に二心有りとの噂が陣中に立っています。駿府城へはお入りに成らないほうが良いと
思われます。」
しかしこれを聞いた浅野弾正少弼長政が
「そのような事あるがずがない、それは風説であります。」
と秀吉に断言した。秀吉もその噂を意に介さず駿府に入城した。
駿府城での家康の接待は至れり尽くせりであり、秀吉も大いに喜び、その後清見寺へ移り、
また暫く滞在した。

家康は秀吉の通行のため、予め富士川に船橋を架けていた。しかしこれに対しても、疑心を持った者が
橋になにか仕掛けがしてあるかもしれないと疑義を唱えた。そこで浅野長政が、先ず自分から試しに
渡り、その旨を秀吉に伝えた。これにて秀吉も安心して船橋を渡ったという。

二十二日、家康は再び長窪の自陣へと戻った。
二十七日に秀吉は沼津に着陣。これを待ち構えていた諸侯は浮島ヶ原へ出て秀吉に謁見したいと
前日より申し出ており、秀吉も征途の途中ながらそれを許し、近侍五、六名を限って召し連れ
対面したが、自分だけは京を出るときと同じ綺羅びやかな服装で出た。
徳川家康を始め、北畠内府(織田信雄)など、諸将、諸士雲霞の如く居並んで秀吉を迎え、その着陣を
祝った。

その後秀吉は竿ヶ原へ出て、昨年北条氏政父子の使者として大阪入りした石巻左馬允康政を拘束し、
牢輿に乗せてここまで連れてきていたが、この場で一命を助けて伊豆相模の境で小田原へ向けて追放した。
これは秀吉の着陣を北条父子に知らせるためである。

(関八州古戦録)



297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 06:45:25.96 ID:Z2BT9e6D
この時期の秀吉さんは自己プロデュースが本当に上手いよなぁ

蒲生氏郷、小田原役に際して

2019年10月30日 17:17

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 15:24:11.20 ID:CG1Gj3kI
蒲生飛騨守氏郷は、南伊勢五郡12万石を領する飯野郡松坂の城主であるが、今度秀吉の命で
一軍の将として、天正十八年三月二日居城を出て関東(小田原征伐)へと向かった。

出発に当たり氏郷は、領内で家中を整え勢揃いをした。前駆、後駆の手当もし、隊伍の備えも済ませ、
自身は家重代の鯰尾兜を近臣に持たせ、ここに居よと命じて軍勢の見聞をし、その場に戻った所
兜を持たせた家臣は居なかった。その最初の失態に氏郷は何も言わず、二度目の見聞の後、その場に戻ると
又もその家臣は居なかった。何かの事情でやむなく場を外したのであろうが、主人の命を二度まで
蔑ろにしたということで、氏郷は即刻太刀を抜いてその家臣を切り捨てた。これを見た諸士たちは
唇を震わせ恐れ、小田原及び奥羽の陣中。誰もが厳しく軍法を守り命に背く者は居なかった。

またこの当時、氏郷の馬印は熊の毛の棒であったが、今回関東に発向するにあたって、その馬印を止めて
三階笠を用いたいと、秀吉に願い出た。三階笠の馬印とは、越中の佐々内蔵助成政の馬印で、天下周知の
ものであるだけに、秀吉はこれを許さなかった。
氏郷が「では私の武勇は成政に劣ると言われるのでしょうか?。」と問うと、秀吉は
「今暫く待つように。小田原表での働き次第で許すとする。」と答えた。
氏郷は黙って引き下がったが、今度の出陣に命を捨てる覚悟であることが見て取れた。

氏郷は松坂を出発前に画工に命じ、綾の小袖を着し手に扇を持った自分の姿を旗指物に描かせ、
例の三階笠も内緒に仕立てた。そして門出に当たって重臣である町野左近将監繁仍の妻を呼んだ。
この女性は氏郷の乳母であった。

氏郷は彼女に語った
「私は関東に下って討ち死にする覚悟である。なのでこの旗を江州蒲生郡日野の菩提所に送り
納めるように。」
そう言って旗を渡した所、乳母は涙を流して
「殿は未だ歳もお若いのに、そのように、旗を菩提所に納めるなどというのは忌々しき事です。」
そう承知しなかったが、氏郷はこれを笑って
「この度はるばる関東に下れば、生死のほどはおぼつかない。もし予想したように討死したのなら、
我が子藤三郎秀行が成長の折、父の平生の姿を見たいと思うことも有るだろう。その時はお前が
長生きをして、この絵姿を見せ、また我が事もよく語り聞かせて欲しい。」
そのように言った。

また三階笠の馬印は、その後小田原攻めでの斉田口の夜討ちで戦功を立て秀吉より御感を賜り、
翌日三階笠の馬印を許されたという。

(関八州古戦録)

小田原役に際しての、蒲生氏郷の事



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 17:36:57.94 ID:c98Y6W1Y
小田原では死なないけどその数年後だよね
若くして死ぬのは乳母不幸でもあるな

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 18:11:05.23 ID:ziwIggb6
工場長は人生が漫画チックだな。原哲夫にお願いしたい。

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/31(木) 06:23:50.17 ID:uednysj4
ぶった斬る前に叱ってやって欲しいよね...無茶苦茶腹を壊してたかもしれないしさあヽ(´Д`;)ノ

防戦一方の覚悟を以て望めば

2019年10月28日 17:29

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/28(月) 12:43:00.08 ID:gNYaA4DS
天正17年末になると、秀吉による小田原征伐の動きが、小田原にも伝わった。
北条家中では、北条家の浮沈この一挙に関わる、絶体絶命の時来たりと、心ある面々は眉をひそめ、
手をこまねいて大嘆息しないものは居なかった。

ところが北条氏政、氏直父子はさほど驚く様子もなく悠々として、一族家臣へ向かって
このように言った

「この小田原城は、京から遠く百余里にある。秀吉といえどもそう軽々と兵を動かすこと
かなうまい。しかも小田原の前には、東海第一の難所である足柄、箱根の険がある。
早雲以来五代の臣下が多年守ってきた要害であり、また忠誠なる関東武士があり、知勇備わる
百騎の関東武士は、ゆうに上方の千騎に相当する。

昔、右兵衛佐(源)頼朝公に対して平家の追討軍として、小松三位中将維盛卿が十万余騎の大将として
由井、蒲原まで押し寄せてきた時、彼らは既に関東武士の武勇に恐れすくんでいたため、水鳥の
羽音に驚いて黄瀬川より逃げ帰ったという。
近くは、軍略に長けた上杉謙信、武略縦横の武田信玄らでさえ、城下まで押し寄せてきながら
攻めきれずに退敗した。

そして何たることか、秀吉は卑賤の身より高職に駆け上がり、関西を握ったとはいえ、上見ぬ鷹の
思い上がりである。俗に『凡夫勢い盛んなれば、神仏の祟有り』という。下剋上の天罰は必ず
秀吉の頭上に下るであろう。ことさら不案内な東国に長途の大軍、しかも客戦である。
天険に寄る小田原城を落とすことは不可能であり、また我が城には兵糧弾薬ともに豊富であるから、
五年でも十年でも籠城できる。防戦一方の覚悟を以て望めば、西軍(豊臣軍)を蹴落とした上に、
秀吉を捕虜にすることすら難しくないだろう。」

そう事も無げに大言した。万座の諸士の中には頷いた者もいたが、口を閉じて何も答えず
引き下がった者も少なくはなかった。

(関八州古戦録)



544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/28(月) 12:54:07.32 ID:YseRBnom
信長には土下座外交だったのに…

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/28(月) 17:03:21.45 ID:K9sEKsdv
一度でも上洛して自分の目で見ていれば違う選択肢もあっただろうに

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/28(月) 18:18:32.49 ID:fMj2ZR8Q
>>543
伝聞しかないとこういう感覚になるのも仕方ないのかもしれない
いや家臣はともかく殿様がこれじゃいかんか…

548 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/10/28(月) 21:23:31.12 ID:H3AQXiYY
>>543
> 忠誠なる関東武士があり、知勇備わる百騎の関東武士は、ゆうに上方の千騎に相当する。

「関東武士」「坂東武者」の凄さがイマイチわからん。8尺の樫やら鉄やらの棒を振り回す怪物が本当に実在したなら確かに凄いが、変わり身の早さぐらいしか印象にない。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 08:44:20.62 ID:uskqyWIX
>>548
源平合戦、承久の乱なんかの実績があるからねえ。400年近く前の話だけど。
室町期は関東は関東で別の国という感じだからアレだけど。

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 11:24:17.89 ID:BR5Cz2ml
実際東国のほうが軍制も進んでたし。
北条が人数も装備も厳密に定めたシステマティックな軍制やってた頃
織豊系大名なんて「なるべくいっぱい集めて来て!装備はどうでもいいから!」で
実際に軍を編成するまで何人になるか分からない、とかだもん。

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 11:42:35.04 ID:iOO0lVvw
>>546
本それ

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 15:27:24.32 ID:dAOfI2mW
自分で見ないとわからんもんは確実にあるからな

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 16:26:05.31 ID:xu00R6AT
>>550
それ、東国が進んでいたのではなく、北条が進んでいたというお話では?

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 23:40:14.08 ID:AuUWSkf2
今川が初めて北条武田がパクッて最晩年の織田がパクってでもすぐ本能寺で後を継いだ豊臣が全国に広げたパターン

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 00:50:12.19 ID:6uSaD8pm
>>546
実際に向こうの国を見て、国力が違いすぎて戦争になりません、
という人を臆病者扱いして開戦に突っ走った国がありましたな

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 08:07:25.97 ID:/PVLas5q
ローテーションで見学にいってれば変わったかもしれん

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 08:45:28.89 ID:ziwIggb6
家久のように日記を書く人がいれば

20万石余 小西摂津守行長

2019年09月24日 15:37

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/23(月) 19:30:46.75 ID:cwZ3+KTm
20万石余 小西摂津守行長

肥後州宇土城主・従四位下侍従行長、父は泉州堺累代の薬商・小西清兵衛入道如清という。彼は子息の
清九郎(弥九郎行長)を伴って朝鮮へ渡り、薬を買って往来すること数ヶ年。

太閤は天下草創の以前より朝鮮を征伐せんと心掛けられた故、小西が案内を知っていることを聞いて、
子息の清九郎行長を召し使われたが、行長は武勇才智あって太閤は喜び、播州在城の時に初めて2百石
を賜う。行長はなお武を学び和漢の兵書を考えてもっとも兵道に達する故、太閤はかつて播州一国を領
せられた時より、天下平均、かつ朝鮮攻めまでの合戦でついに不覚を取らず。

さて太閤は備中出陣の時は小西清九郎が先手に進み戦功あり。帰陣の後に1万石の感状を賜り、従五位
下内匠頭と受領す。後にまた段々加増、10万石に至り摂津守と改める。

この時、宗対馬守義智に一女あり。小西の智勇を感じ入り太閤へ願い婿とする。しきりに戦功を積んで
天正13年(1585)に10万石の加恩を賜い四品に昇り、肥州宇土の城を賜う。

さて、太閤は宿望の通り朝鮮征伐を企て、行長を先手の大将たらしむ。行長は案内者である故、やがて
かの国の通事数人を語らい懐け、路次の便を調え諸将へ下知案内を司る。行長はかつ勇猛智謀をもって
朝鮮の王城数ヶ所を攻め抜き、敵の首を斬ること諸将に10倍す。その働きは『朝鮮征伐記』に詳しい。

しかしながら元来卑賎の者である故、己の武勇に驕り諸将の誓約を変じ、己1人の功を立てんことを業
とする故に交わり親しむ者なし。行長はこれを悟らず、人を嫉み世を恨む。石田(三成)とは懇意故、
かの逆意に与しその為に軍法を談じるといえども、石田の運が尽きたのか小西の謀を用いざること多し。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
味方の中に勇士はいなかったのだ!


440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/24(火) 10:25:43.22 ID:oBX6SoJl
>>436
持ち上げて持ち上げてからのハシゴ外し w

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/24(火) 10:36:01.80 ID:/PMrZ76R
元来卑賤てwそれ太閤もやん

或いは彼以前にはかつて見なかった事であった

2019年09月08日 17:13

羽柴筑前殿 Faxiba Chicugendono は日本全国の王 Vo (天皇)より最高の官位と名誉を授けられるため
都に赴いた。すなわち王の次の人である関白殿 Quambacudono となる事であった、信長の努力と勢力、
並びに王に対して尽くしたことも、彼が大いに望んだ右の称号を授けられるに足りなかった。

羽柴は更にその名を高くせんと欲し、老王(正親町天皇)が位を長子に譲るため(実際には孫の
和仁親王・後陽成天皇)、甚だ立派な宮殿を建築した(仙洞御所)。
羽柴は高貴なる大身の一女を養って子となし、実子として父の死後王室を継ぐべき王の孫に嫁しめた
(近衛前久娘・近衛前子)。

羽柴筑前守は甚だ微賤に身を起こし。富貴・名誉及び現世の光栄の頂点に達したが、多数の競争者は
彼が日本の習慣により、車が速やかに廻るように、没落に近づくことを期待している。日本の諸侯は
450年来、絶えざる変革に動かされていたのである。

羽柴筑前殿が右四ヵ国(四国)を占領するため軍を出した時、越中国 Yechu において名を虎之助 toranocuque
佐々成政のことであり、内蔵助の誤り)という他の領主が彼に背いた。彼の領地は70レグワ余り奥地にあり、
羽柴は遠方に居るため攻めて来る事はないだろうと考えた。然るに羽柴は軍隊が勝利を得て四ヵ国より
還った後、途中の労苦艱難を意とせず、自ら六万の兵を率いて彼を攻めた。敵はこれを聞いてその軍勢が
未だ到着する前に降伏し、大阪に到りて勤仕するため、所領の二国をその子に与えることを請い、
その子もまた臣従すると申し出、羽柴はこれを許した。
羽柴が軍隊を率いて北の地方へ行ったため、交盟を躊躇していた他の強力な王侯もまた降伏した。

彼はこのようにして、漸次日本全国の絶対の君とならんとしている。これは今日まで甚だ稀な、
或いは彼以前にはかつて見なかった事であった。

(1585年11月13日(天正十三年九月二十二日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

四国征伐前後の、秀吉についての記事



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/08(日) 15:37:48.97 ID:g09xnFYg
ファクシバ チクジェン ドゥノ

【ニュース】「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明

2019年09月03日 17:28

359 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/02(月) 21:46:52.97 ID:GItnMJTM
京都新聞「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190902-00000026-kyt-l25

滋賀県甲賀市水口町の藤栄神社に伝わる十字形洋剣「水口レイピア」が、約400年前にヨーロッパ製の
レイピア(細形洋剣)をモデルに国内で制作されていたことが分かった。水口歴史民俗資料館(同市)などが
共同研究成果を3日の国際博物館会議(ICOM)京都大会で発表する。
 国内に現存する唯一のレイピアで、アジアでもその存在は知られていない。関係者は「時の権力者が
南蛮人から入手し、好奇心から複製を作らせたという東西文化交流の一つの在り方を示す希有な事例」としている。
 十字形洋剣は、戦国武将加藤嘉明豊臣秀吉から拝領したとの伝承がある。嘉明を水口藩主加藤氏の祖
として祭る同神社が所蔵し、1987年に同資料館に寄託された。
 共同研究は東京文化財研究所の小林公治氏ら国内外の専門家グループが6年前から実施。その結果、
17世紀前半のレイピアを基に国内の技術を結集して制作された精巧な模造品とみられることなどが判明した。
 ICOMセッションで研究成果を小林氏と共同発表する同資料館の永井晃子主査は「地域で大切に
守られてきた宝物の価値が国際会議で発表されることは市民の誇りにもつながる」と話す。

画像
20190902-00000026-kyt-000-14-view.jpg

360 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/02(月) 21:47:11.02 ID:GItnMJTM
東京文化財研究所
甲賀市水口藤栄神社所蔵十字形洋剣に対するメトロポリタン美術館専門家の調査と第7回文化財情報資料部研究会での発表
https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/247392.html

この度、世界でも有数のレイピアコレクションを誇るニューヨークのメトロポリタン美術館武器武具部門長、
ピエール・テルジャニアン博士にご来日いただき、現地での調査を実施のうえ、この洋剣に対する見解に
ついて第7回文化財情報資料部研究会にて、「ヨーロッパのルネッサンス期レイピアと水口レイピア」と題した
ご発表をいただきました。
 博士の見解は、銅製の柄部分は明らかに日本製であること、また剣身も日本製あるいはアジア製であって
ヨーロッパ製ではないこと、そして水口レイピアのモデルとされたヨーロッパ製レイピアは1600年から1630年の間に
位置づけられ、その間でもより1630年に近い時期であるが、この剣自体には実用性に欠ける面がある、というものでした。
 この見解は、17世紀前半の日本において、ヨーロッパからもたらされた洋剣を日本人が詳細に調べ上げ、
その模作までも行っていたという、これまでまったく知られていなかった新たな事実を意味するものです。
またその一方で、この剣には高度なネジ構造によって柄と剣身とを接続するなど、ヨーロッパのレイピアには
認められない独自の技術が使われていることも明らかとなりました。こうした独自の特徴は、当時の日本の職人が
見慣れぬ西洋の剣を自身の持つ技術で正確に再現しようと努力苦心し、工夫を重ねた結果であると理解できるでしょう。



361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/02(月) 21:51:44.42 ID:GItnMJTM
伝来と製作推定時期が違う?

こういうのでそんなん気にしちゃダメよ
伝世品や家宝ではよくある話だからw

とりあえずコーエーでキャラ化されるときのビジュアルはこれで決まりましたね
イカ頭にレイピアって

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/02(月) 22:16:11.79 ID:Fkp1/lw1
ジミーさんって秀吉から色々なもの貰ってるな

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 10:10:39.63 ID:6rZ+ESk2
秀吉「これいらないんだよなあ・・・嘉明にやっとくか」

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 11:00:09.55 ID:xR9TLq28
なんか知らんが秀吉は嘉明に歯も与えてるな。
貰ってもいろいろ困るだろうに。

参照
君に歯をあげよう
秀吉の歯
366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 16:08:26.41 ID:Yei4roZj
>>364
大明神の歯やぞ

367 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/03(火) 17:23:42.33 ID:LdMBi2cl
>>360
紺糸威南蛮胴具足
http://www.emuseum.jp/detail/100509/001?word=%E9%BB%92%E7%B3%B8&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=2&mode=simple¢ury=

画像
0_0.jpeg

この水口レイピアに限らず、例えば過去ログの「徴古館 青漆塗萌黄糸威二枚胴具足」で鍋島勝茂所用の青漆塗甲冑が、
青漆ではなく西洋絵画の油絵具に近い技法で作製された塗料であることがわかったというのもそうですし、こちらの
榊原康政所用の南蛮胴も、舶来品の改造であると思われていたのが和製の胴鎧であることがわかったというのも、
江戸初期に西洋技法を取り入れようとした実例は意外とあるんでしょうね。
ただしそれがどの程度定着したのかは?


それと、レイピアの調査をした東京文化財研究所は鍋島の具足も調査してたんですね。

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 20:11:00.78 ID:OUs1SCTH
鎧通しをレイピア風に作ってみましたな気がしないでもないんだが

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 20:50:01.06 ID:i7NzSYU+
鎧通しは短くて分厚いものだし
リーチ足らないなら槍というものがあるし

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 23:11:30.61 ID:612t7r84
歯医者さんが考えた歯ブラシ

377 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/07(土) 12:11:45.47 ID:Sq1cwAIv
>>368
wikipediaだけど見てみたら、そもそもエストックとレイピアって基本構造も違ってて
エストックも日本で良くあるイメージのプレートアーマーの隙間を狙う武器じゃなくて、鎖帷子へ突き刺すための雑兵用の代物なんじゃん
レイピアは同じくイメージ通りの護身用、素肌剣術での決闘用のようだけど



173 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/03(火) 10:18:15.03 ID:UPaTOunc
★「秀吉から拝領」伝承の十字形洋剣、400年前に国内製造が判明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190902-00000026-kyt-l25


...地味なほうの加藤さんがレイピアを振り回す...



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 15:01:25.11 ID:Yei4roZj
>>173
神社が保管ていうのがまたじわじわくるな

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 17:37:15.93 ID:LdMBi2cl
水口レイピアは悪い話スレの方にも書かれてますよ。

で、藩祖を祀った神社に家宝や伝世品が納められてるというのは良くある話なので、
例えば米沢藩の上杉神社には、信長から謙信に贈られた西洋マントや、豊臣政権の
重役として明朝との交渉で贈られた官服とかが所蔵されています。

家康を祀った久能山東照宮に時計とか鉛筆とかがあるのも有名ですね。

神社に西洋由来の所蔵品があっても全くおかしくないのです。


「日頃の数寄が出た」

2019年09月03日 17:23

千利休   
365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 16:07:29.71 ID:gS8n8Noc
利休は大徳寺の山門を建立し、自分の形を木をもって作り、褊綴を着せて頭巾に杖をつかせ、
雪踏(原注:雪踏は利休が初めて作ったのだという)を履かせて高所に置いた。

秀吉公は御覧になって、「公家衆を始め礼儀ある門に推参至極のやり様である!」と大いに
怒りなさり、その罪で切腹した。

その時、(利休は)脇差を包み取って巻き直し、両端を揃え能を見て切腹仕ったのである。
「日頃の数寄が出た」と、数寄者は感じ入ったという。

(原注:『雍州府志』四巻の大徳寺のところに曰く、この門は連歌師の宗長が所建の後に千
利休がその上に設閣し、己の像を置いた。これにより豊臣秀吉公は僭越を怒り、その像を降
ろして一条反橋に晒したのである)

――『烈公間話』



左吉の容貌起居は他に優れたことによって

2019年09月02日 15:54

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/01(日) 16:40:38.13 ID:RmXpuKDJ
石田治部少輔三成は幼名・左吉、その父は佐吾右衛門で江州石田村の地士にして一村の長で
あるが、家は貧しく左吉を近郷の真言寺の小小姓とした。

ある時に秀吉公がこの寺へ参詣し、左吉の容貌起居は他に優れたことによって、住持に乞う
て近習の臣とし、次第に昇進して江州佐和山18万石と代官所7万石の合わせて25万石を
領知した。

――『志士清談』



重大にして過酷なこと

2019年08月26日 18:01

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/25(日) 19:00:51.02 ID:eXuKpPk/
彼(豊臣秀吉)は他の重大にして過酷なことを行った。すなわち、都の平野にある田畑を測量させ(同地の
周囲に寺院を有する坊主の所領であり、これによって多数の市民が生活した)、これを尽く己の有とした。
また彼に属する諸国に大いなる家屋(倉庫)を建築し、そこの糧食を納め、大部分は売って金銀と成し、
その宝庫に納めた。彼の書記官である安威殿(安威摂津守か)の言によれば、毎年売る米のみでも黄金百万を
越えているという。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

秀吉の検地についてのフロイスの書簡の記事



北野大茶会の事

2019年08月22日 17:05

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 00:46:12.19 ID:rcvPK52I
私(久保長闇堂)が茶湯を初めたのは、北野大茶会の年にあたる。調べてみると、天正十三年十月一日の
事である。秀吉公は八月二日に高札を五畿七道に立てさせ、天下の茶湯を志す者は北野の松原に茶席を設けよ、
との上意であった。南都(奈良)よりは、東大寺、興福寺、春日の禰宜、町方合わせて三十六人が出かけた。
私は幼年であったが、この道が好きだったので見物のため同行した。以下、覚えていることを記す

北野の聖廟の前には葭垣があり、東と西に出切り口があった。上様(秀吉)の茶席四つは、礼堂四方の
隅にそれぞれ囲わせ、秀吉公、宗易(千利休)、(津田)宗及、(今井)宗久という四人のお点前であった。
その時の道具の記録も残っている。
大和大納言殿(豊臣秀長)は南門筋西側で、大和郡山の武家衆、それに続いて南都寺社、町方であった。

松原中の茶席は思い思いの工夫が有ったが、その中でも覚えているのは、奥の小松原に、美濃国のある人が
芝より草を葺き上げ、内を二畳敷とし、中の四方に砂をまき、残る一畳敷に瓦を縁とした炉を作って釜を
かけていた事である。通い口の内に主人が居て、垣に柄杓を掛け、瓶子の蓋を茶碗として、焦がしを入れた
丸瓢の茶器をその中に仕込んでいた。

さて前日にお触れがあり、その日の日の出より御社の東口で籤を取り。五人一組として、先の四つの茶席の
どこかで御茶を下された後、西口からすぐに出る形であった。そのため数百人の客が、朝五つ(午前八時ころ)
にはもう御茶を飲み終えた。

秀吉公は食事を終えると昼前より松原に御出でになり、一ヶ所も残らず御覧になった。
先の美濃国の人は名を「一化」と言ったが、茶席の脇で松葉を焚き、その煙が立ち上っていた。秀吉公は
彼のことを以前よりご存知であったそうで、「一服」との御意があり、直ぐにその焦がしが差し上げられた。
大変にご機嫌よく、手に持たれていた白扇を一化は拝領し、今日一番の幸運者と評された。

また経堂東方の京衆の末席に、「へち貫」という者が一間半(約2.7メートル)の大傘を朱塗りにし、柄を
七尺(約2,1メートル)ばかりに立て、二尺(約60センチ)ほど間を置いて葭垣で囲っていた。
照日に朱傘が輝き渡り、人の目を驚かせた。
これについても秀吉公は一入興を催され、彼を諸役御免とされた。

八つ(午後2時ころ)過ぎには皆々にお暇を下され、それより互いに桟敷を片付け、その日の内に、また
元の松原に戻した。内々には、『諸方の茶道具を召し上げられるつもりであろう』と噂されたが、そのような
事はなかった。また「十日間茶湯をせよ」とも言われていたのだが、その日だけで終わった。
このため見物した人もそう多くはなかった。

私はこれを見物し、心勇んだ。どうにか出来るものだと考え、親の家の裏にわずか4畳敷の小屋が有ったので、
これを改造して二畳半を茶室、一畳を勝手とし、残る一畳を寝所と定め、足の方には棚を釣り。昼はそこに
寝具を上げた。
そんな茶室に、今思えば身分の高い客も呼んだものだ。しかし志さえしっかり持ち続け、勇気を持てば、人に
恥じる事はない。今の世で誰がこのような仕方をしているだろうか。ただ志が強くないため、勇気もなく、
他人に対しても自分に対しても恥じてしまい、道に至る人が少ないように見える。

(長闇堂記)

北野大茶会についての記事



その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かった

2019年08月21日 16:16

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 15:08:53.88 ID:j7HsFu40
岡野紅雪(板部岡江雪斎)という人あり。これは現在の岡野孫九郎(貞明)の先祖である。こ
の紅雪は小田原北条の旗下であった。小田原落居の時に紅雪は生け捕りで縛められ、秀吉公の
御陣にいた。

秀吉公は仰せられて「そもそも真田御陣の時、この岡野は表裏第一にして不届き者であった!
磔にも致したい者である!(真田御陣の時の)様子委細を尋ねよ!」と、御使をもって尋ねな
さった。紅雪は曰く「この事は人伝では中々申されぬことです。直に申し上げたい」とのこと
で、縄を取って引き立てた。

これを秀吉公は聞こし召され、「苦しからず」と御前へ召し出されて一々を御尋ねなさると、
一々を申し開き仕ったので命を御助けなさり、御咄衆になっておられたという。

ある時に京都において能を御興行の時、家康公が秀吉公へ仰せられて、

「小田原の北条は関八州の大将ですが、長く城も持ち堪えられず幾百日ばかりで落城しました。
降参していればこのような時に御物語りの相手にもなるだろうに、不甲斐なく百日ばかりで落
城したのは心残りの多いことです」

と仰せであった。その時に紅雪は末座にいたのだが罷り出て申し、

「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

と申した。その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かったのだという。

――『烈公間話』

太閤能『北条』の時の話だったりして



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 17:09:24.18 ID:Xyh7xlrF
>「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
>存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

まったくの事実だが、家康も秀吉も黙らされた話って珍しいなw

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 18:29:25.10 ID:Nl8+tmX0
どこまで名前かわからない人か

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 19:18:26.99 ID:KUwKnP2Z
>>330
痛快だなw

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 00:41:05.20 ID:aOfLDkKJ
えらい胆力のある人だね

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 09:07:29.18 ID:sq2PUUTe
>>332
すぐ近くに別の雪斎がいたからなw

滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人である

2019年08月17日 17:01

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/17(土) 10:41:04.88 ID:+dFIgXP4
私(根岸鎮衛)のもとに来る正逸という導引(あんま)の賤僧がおり、もとより文盲無骨で
その言うところも取るに足りないわけだが、その彼が有る時咄た事に

「太閤秀吉の前に細川幽斎、金森法印(長近)、そしていま一人侍していた折、太閤曰く
「吹けどもふけず、すれどもすれず、という題にて、前を付け歌を詠め」
と有った

ある人は
「ほら(法螺)われて 数珠打きつて力なく するもすられず吹も吹かれず。」

金森法印は
「笛竹の 割れてさゝらに成もせず 吹も吹かれずすれどすられず。」

そう詠んだ。秀吉が「幽斎いかに」り聞いた所、
「何れも面白し。私が考えたものは一向に埒なき趣で、これを申すのも間の抜けた事ですが、
このように詠みました。」

「摺小木と 火吹竹とを取りちがへ 吹もふかれずするもすられず」

そう詠じたという。滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人であると見えるが。この事は軍談の書や
古記にも見当たらない。私の目の前にいる賤僧の物語であるので、その誤りもあるのだろうが、
聞いたままを記しておく。

(耳嚢)



推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!

2019年08月15日 17:14

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 16:33:34.16 ID:Tdfto4zP
「尼崎で諸大名が髪を切って信長公のことを嘆きなさる時、秀吉公も嘆きなさり『この上はいずれも
一味同心で明智を討ち取り申す他はござらん! いずれも左様に思し召しなされよ!』と敬っていか
にも慇懃に、同輩の様子も見えたのである。

明智敗軍の時、諸大名への御あしらいは『骨折り骨折り』と仰せられ、皆家来のあしらいになされて
大いに威が付いたのである」と(佐柿常円は)語りなさった。

――『佐柿入道常円物語(高松城攻物語)』

佐柿常円は備中高松攻めの時に秀吉に御供したという人
  
  
一、山崎合戦の時、秀吉公は西国より御上り。先手は中川瀬兵衛(清秀)・堀久太郎(秀政)・
  高山右近・池田勝入様(恒興)などである。

  (中略。戦勝後)

  秀吉公は遥か後ろより、乗物で朱唐笠を差させて御出になった。中川を始め諸大将は床机に
  腰を掛けていた。きっと懇ろに礼儀があるだろうと思いなされているところで、秀吉公は駕
  の中から「瀬兵衛、骨折り」と申されたという。

  瀬兵衛は気短き人なので「推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!」と申されたという。
  秀吉公の御聞きなきことはあるまいが、聞かぬ顔で御通りであったという。

一、古田織部は中川瀬兵衛殿の婿である。利隆様(池田利隆)の伯母婿でもある。秀吉公が山崎
  へ御向かいの時、秀吉公は古田を召して、

  「中川と其の方は縁者だから、中川へ行け。まったく中川を疑うわけではないが、世上の聞
  こえにおいても、中川なども人質を出すとあれば味方一味のために良い。誰であっても人質
  を出しなさるように申して参れ」

  との仰せであった。古田が畏まって行くと、秀吉公は山上に陣取りであったのだが、古田が
  山下まで行くのをまた呼び返して何か遣わしたいと思し召された。乾いてござる木綿足袋を
  脱ぎ、「これをやるぞ。これを履いて津の国(摂津国)の晴れをせよ」との仰せだという。

  さて中川へ行って以上の通り申した。例の中川殿は気短く、早くも立腹して申されるには、
  「秀吉が我に人質を出せと言うか!」と、申されたという。古田は「左様ではありません。
  よくよく御思案なされ」とまずは帰った。

  夜に入って古田を呼んで中川が申されるには、「いかにも心得た。しかし人質に遣わすべき
  者がいないので、家老の子を遣わそう」と人質を遣わしなさったという。その頃、中川殿は
  津国茨木に居住されたという。

――『烈公間話』



山上宗二は顔つきが悪く、口も悪く

2019年07月28日 15:22

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 11:58:49.11 ID:81YcgESZ
山上宗二は薩摩屋ともいい、堺の上手であり、物知りとしても超えるものが居ない人であったが、
なんとも顔つきが悪く、口も悪く、人に憎まれていた。
小田原御陣の時、秀吉公にさえも御耳に触るような事を言い、その罪として耳と鼻が削がれた。

彼の子は道七といい、故太政大臣様(徳川家康)の茶堂として御奉公をしていたが、父譲りの
短気な口悪者で、上様が風炉の灰をされたのを見て、それを突き崩してやり直したため、改易と
された。彼は牢人して藤堂和泉守(高虎)殿が伊予に在国されていた折に伊予へ下り、その事についての
申し開きをした。私(久保長闇堂)も居合わせて一冬話したことがある。

(長闇堂記)



筒井筒 五つに割れし井戸茶碗

2019年07月26日 17:43

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 13:21:54.29 ID:JJznDzuF
世間で『筒井の井戸茶碗』と呼ばれたものは、元々は南都(奈良)の水門町に居た善玄という侘び者が
所持していた高麗茶碗であったが、筒井順慶がご所望され彼の持ち物となり、その後順慶より秀吉公へ
献上されたのである。

ところがどうしたわけか、この茶碗を秀吉公の御前で割ってしまい、御機嫌を非常に損ねられた。
この時、居合わせた細川幽斎がとっさに狂歌を詠まれた

『筒井筒 五つに割れし井戸茶碗 咎をば誰が負いにけらしな』
(謡曲「井筒」の「筒井筒 井筒にかけしまろが丈 生ひにけらしな妹見ざるまに」をふまえている)

そう申し上げた所、殊の外よく出来た歌であると、秀吉公はすぐに機嫌を直されたという。

(長闇堂記)

なおこれは「多聞院日記」天正十六年二月九日条にも記載されており、どうも実際にあった事らしい

参照
秀吉の筒井茶碗と細川幽斎・いい話


117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 14:30:22.88 ID:F4qiylrx
政宗「俺の正宗、振分髪も持ってこようか」

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 16:25:54.00 ID:AwYufllE
幽斎がとりつくろわなかったら誰か死んでいたのだろうか