今は石垣山と呼んでいる

2017年06月11日 10:44

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/10(土) 22:20:06.79 ID:I7EY2XpE
 物事の勢いによっては、事がはかどって行き自ずから人も育って力が増すものである。
 天正十八年、北条氏政を太閤秀吉が攻められた時、
小田原の城から西にあたる所に高い山があった。
要害で地の利がよいと、すぐに石垣を積み上げて、所々に櫓を上げて、悉く屏をかけ、
たちまち壁を塗り、一夜の内にその上に白紙を張った。
これが白壁のように見え、城主はこれを見てその器量を感じたとか。
 今は石垣山と呼んでいる。


『武士としては』


這い出る病

2017年06月05日 21:11

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/05(月) 01:20:22.37 ID:wjxtjziB
丹羽五郎左衛門殿(長秀)には常々強い痞えがあった。にわかに胸先に
込み上げる折には、五郎左衛門殿は事の外難儀致された。

ある時、急に差し痞え、何ともしのぎ難いために五郎左衛門殿は脇差で
胸を突いて、すぐに卒去された。

その後、火葬に致したところ、病が火の中より真っ黒になって這い出た。
その病には首・足・耳などがあり、亀子(亀の甲)に似ていた。

家来の者どもは主人の仇であるので、近寄ってそれを打ち殺した。
稀有のことに付き、太閤秀吉公にそれを御覧に入れたところ、

「今後は、医者の考えにもなるであろう」との由にて、竹田法印の先祖に
与えられ、今もこれを所持しているとのことである。

いかにも常に痞える折には、胸の内を噛むように“めりめり”と歯の音が
聞こえたとの旨、己丑6月14日の夜に(松雲公前田綱紀より)拝聴仕る。

――『松雲公御夜話』


船手のあしらい神妙なり

2017年06月04日 19:38

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 17:36:56.32 ID:8oGghPA5
羽柴秀吉による中国退治の時、村上彦右衛門(通清)は船手の案内を命ぜられ、浅野長政に付けられた。


長政は備前児島を攻めるべしと、児島に上がり様子を窺った。村上も手船一艘にて同道し、塩飽より下津井の
浦まで行き、山に上り児島の様子を見て回っていた所、敵が大勢出てきた。

村上は申し上げた
「船は陸と違い、急に乗ることが難しいものです。先に船に乗ってください。後は某におまかせあれ。」

そして長政を引き立て船に乗せると、自身は後を取り鎮めて居た所、敵2,3百が打ちかかってきた。
しかし村上が山影にわずかの手勢を待ち伏せにしているのを見て、敵も警戒しかかってこず、
少々の近づいてくる敵も皆追い払って船に乗り込んだ。

そこに敵も追々襲来したが、船と陸のことであれば、別状無く引き取ることが出来た。
秀吉はこのことを聞いて、「船手のあしらい神妙なり」と、感状並びに陣羽織が与えられたという。

(士談)


あまり有名でなく高尚でもない男であった

2017年05月29日 18:39

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:53.16 ID:/C3l8YdE
筑前、筑後、および豊前の一部をほぼ支配下に置いた薩摩にとって、今やこの島全体の絶対君主になるために残るは
ただ豊後に進出するだけとなった。
そこで彼らは豊後の殿たちと交渉し、種々の約束と甘言をもって彼らを味方に引き入れようと奔走した。
豊後の嫡子(大友義統)は、この状況について連絡を受けると大いなる危機感に襲われた。
そしてこの恐怖から、彼は関白殿に強く救援を懇請した。
というのは、豊前で戦っている勢は豊後から遠く離れたところにおり、薩摩軍とはかけ離れた別の戦に従軍していて、
急速に有利な戦況は望むべくもなかった。

関白は天下の主となった後、信長時代の仲間であった仙石権兵衛と称する尾張の人物に讃岐国を与えた。
彼は、あまり有名でなく高尚でもない男であったが、決断力に富み独善的で、その他それに類した性格を備えていた。
ただし以前から優秀な武将として知られていた。

関白はこの人物に豊後を援けに行くにように命じた。
そしてさらに、二年前に征服した土佐国のセニョール・チョウスガミ(長宗我部元親)に対しても、
軍勢を率いて豊後の援助に赴くように命じた。
だが自らが出陣するまで、もしくは敵との合戦を伝達するまでは、敵と交戦するのを差し控えるようにと言いつけた。
それゆえ(彼らは)約二千名あまりの実戦の兵士しか伴って行かなかった。

(これらの軍勢)は府内の市で、嫡子および伯叔父なる(田原)親賢の軍勢と合流した。
(親賢)は、(去る日向の合戦で)何千という生命を失わせた最大の責任を負う身であったから、
豊後が破滅して後は、自分の城から外へは決して出ようとしなかった。

豊後の上長であるペドゥロ・ゴーメス師は、贈り物を携えさせて、(既述の)異教徒の新たな主将たちを府内に訪問せしめた。
彼らもまた後には学院に来て手厚くもてなされた。
とりわけ土佐の主将(長宗我部元親)は、要請があれば、司祭や教会を援助する用意があることを示した。
この主将の嗣子である息子(信親)は、一、二度我らの修道院で説教を聴聞し、説話をよく理解したらしく、
キリシタンになりたいとの希望を表明していたが、その数日後に戦死した。



上の話とは少し時間が前後するけど、同じくフロイス日本史から
仙石についてのフロイス評入りの話


溝ノ口岩穴祭の奴踊り

2017年05月25日 13:51

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 07:20:42.25 ID:+O/9+IlI
鹿児島県曽於市財部町にある溝ノ口洞穴は、宮崎県都城市と接する台地の末端部にあり、入り口が広さ13.8m、
高さ8.6mで全長が224mの大規模な洞穴です。内部の一番広い部分は幅が約40mで,天井部はアーチ型になっています。
洞穴は、約25,000年前に姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した
溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運びに姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、
シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運び去って
徐々に空洞が拡大されてできたものです。
また、洞穴内には縄文時代の人の生活跡もあり、当時の生活を知る上でも重要です。
(昭和30年に、鹿児島県の天然記念物に指定される)
伝承では犬を洞穴に入れたところ高千穂峰に出てきた(距離にして7~8キロほど)話もあります。

毎年4月8日(釈迦誕生の日)に近い日曜日には洞穴で溝ノ口岩穴祭りが行われます。
(場所を示す時には“洞穴”、祭りを示す時には“岩穴”となります)
このお祭りでは、奴踊りや棒踊り、刀踊り(棒踊りと刀踊りは隔年奉納で2017年は刀踊り)が洞穴と洞穴の入口に
祀られている岩穴観音へ奉納される。

これらの踊りの中でも奴踊りの歴史は古く、三つの説があり、
島津義久が島原の龍造寺隆信を攻めた時の戦勝祝いに踊られたもの」
(大隅建国千三百年記念祭ではこの説が紹介される)
豊臣秀吉が島津征伐の時に、新納武蔵守が城を守り通した祝いのために踊られたもの」
島津義弘が朝鮮征伐した戦勝の祝いとして始められたもの」などと伝えられています。

このようにして、戦勝を祝うとともに、士気を鼓舞するために始められた奴踊りは、鼻筋を真っ白に塗り、
頭に白鉢巻、服装は紫の着物に赤い帯、刀を黄色と水色の長布で背負い両手に扇を持ちます。
楽器は、太鼓と三味線・拍子木で、歌詞は釈迦誕生日と関連しています。
現在は郷土教育の一環として財部の中谷小学校の全児童と卒業したばかりの中学一年生によって継承されている。
(2017年は11名の参加)

祭りの進行は、
岩穴観音の前で奴踊り
岩穴観音の前で刀踊り
洞穴の中で刀踊り
地域の連絡事項(小学校の新任の先生の挨拶、先任の先生からの手紙の紹介、転入してきた人たちの紹介など)
昼休み
洞穴の上の山にある馬頭観音が祀ってあるところまで(車で)移動
馬頭観音の前で奴踊り
馬頭観音の前で刀踊りです

この祭りは、プログラム表も立て看板も大々的な宣伝もなく地元の人たちが永いこと守ってきたお祭りでした。
(参考 財部町郷土史、曽於市観光協会の方の話など)

※刀踊りは日本武尊が川上梟帥を討った逸話からきており、鉢巻に襷がけ袴に着物は女物を着用(花柄)
 四人で一組となり三組で踊る。棒踊りの由来は不明。

溝ノ口洞穴の写真など
http://kagoshimayokamon.com/2016/05/27/izonokuchi/

観光協会の方や洞穴の看板の注意
・携帯は圏外です。危ないので一人では来ないでください、二人でもキツイので三人以上で来てください。
・照明はありません、自前で懐中電灯をお持ちください。
・流水がありますが、柵などはありません。数年前に落ちてしまって近くにお店どころか民家も無いので
 遠くまで移動した上に洋服一式お買い上げになった方がいるそうなのでご注意を。
・落書きは洞穴の強度の関係で消すことは出来ません。絶対にしないでください。
(2015年にももいろクローバーZのライブ映像として使われてから、来る人が増えたら不届き者も
増えてしまったようで落書きも増えてしまったと)

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 21:10:17.15 ID:+O/9+IlI
・洞穴の中は蝙蝠やゲジゲジがいます。蝙蝠は人の気配がすると姿を
 見せませんが、ゲジゲジは結構いますので虫が苦手な方はご注意ください。

刀踊りは、地元の青年団の方たちが踊っていますが、昨今は人口が少なくなり
結構年配の方も参加されています。奴踊りの生徒さんたちも今年は新入生や
転入生がいましたが、昨年はどちらもいなかったそうで祭りを維持していくのは
大変なようです。
三味線の方も高齢の人が多く今年は都合がつかずあらかじめ録音したものを使用
する状況でしたので、祭りの関係者の方が見物人に向かって「三味線弾ける方募集
いたします」といってました。



養徳院、孫の池田輝政に宛てた遺言状

2017年05月16日 16:44

養徳院   
904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 18:05:48.54 ID:Es7c86KE
養徳院、孫の池田輝政に宛てた遺言状


織田信長の乳母だった養徳院は、慶長13年10月16日に94歳で死去した。
非常に長寿だったために、実子と共に義娘である善応院(輝政母)にも
先立たれた養徳院は、慶長4年には輝政に遺言状をしたためている。

時期ごとに計四通あるが、以下は慶長8年に書いた最後の遺言状。
__________________________________

一筆書き置きます。私は八十九になり時間がありませんので申します。
私が果てましたら、長良の真福寺・鵜飼のあたりの知行八百石は
太閤様(秀吉)の御朱印通り相違ありません。
桃巌様(信秀)、総見院様(信長)より長らく知行されていることを
太閤様が御改めになり、そのまま長良八百石を賜ったのですから
妙心寺の桂昌院と護国院に、私が果てましたら寄付して下さい。
もし不届き者が何か申しましても、堅く仰せ付けて下さいませ。

私が果てましたときには、人の知らない内にすぐに焼いてしまって
志の事はあり次第で茶湯料にもすること
宙外(桂昌院の住持)へ申し置きます。
儀式よろずのこと御無用と、宙外へは堅く申し置きますので
後々の二寺のこと御油断なく御心懸けなさって下さいませ。

総見院様の御為に桂昌院は建てました。
護国院は勝入(恒興)の為、六親(親族全体のこと)の為に建てました。
ですから御油断なく御肝煎りして下さいませ。
其れ様皆々が御繁盛されているのを拝見してから
仏になることに満足しています。
返す返す二寺のことを頼みますので、詳しく申し上げておきます。

慶長八年三月廿一日の天赦日に書き置きます。めでたくめでたくかしく。

なお、今の大府様(家康)も、私に御目を懸けて下さいますので
(このことを)詳しく御申し上げになって下さいませ。
__________________________________

同年の2月12日、家康の将軍宣下の同日に輝政は少将に昇進している。


滝川はよく察したようだ

2017年05月13日 17:37

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:16:00.86 ID:mIfYNUY+
太閤が岐阜を御攻めになった時のことだろうか。滝川左近(一益)は7寸ほど
の黒の馬に乗り、斥候に出馬した。

太閤は御覧になり、「滝川自身が物見に出るのは夜討ち致す心積もりなのだ。
容易には打たれまいぞ」と仰せになり、太閤の御備に柵を御付けなさった。

滝川はこれを見ると、「秀吉はこちらへ夜討ちする心積もりのようだ」と言って、
その場所から3里引き取った。

太閤はその時に仰せられて、「滝川の備へ夜討ち致そうと存じたが、滝川は
よく察したようだ」との御事であったという。

両方の大将の思慮は、符節を合するが如し。

――『武功雑記』



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:20:22.70 ID:Wq27HkK7
7寸の馬に乗るって何者?

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:47:13.60 ID:UMYW+heA
>>897
人間の身長と同じで尺を省略してるだけじゃないのかな

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 09:01:40.12 ID:uVKdKg7z
普通のサイズ+7寸 じゃなかったっけ?

901 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/13(土) 10:21:14.93 ID:8PuObztG
標準体高が四尺でそれを超える分を寸で数える

門役の大切

2017年05月07日 17:47

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/07(日) 09:50:54.31 ID:UvNQKj6R
古より、城より突いて出た後には、門役を務めることを以って城中の大切と致し、能く事に成れた
侍を以ってこれに当てた。六条合戦の門役は明智十兵衛(光秀)が務めたこと、人の知るところである。

秀吉が信長の命を受けて金ケ崎に殿として残り、朝倉中書(景恒)と戦を決した時、朝倉中書は
金ケ崎の城より出て秀吉と戦ったが、この時毛屋七左衛門を以って門役とした。
中書敗軍して兵士ら我先にと城を指して引いていたが、秀吉はその機を失わず追い打ちを仕掛け、
門際まで押し入った。しかし毛屋が素早く門を打ったため、城中つつがなかった。この事は当時
朝倉の家にて沙汰されたという。

後に秀吉は横山城に居たが、彼が信長への報告のため岐阜に赴いた時、浅井長政が兵を出して
横山城を囲んだ。
この時城中は以ての外に無勢であったが、竹中半兵衛が居留まり下知したため、危ういこと無く、
むしろ城より突き出て、大いに戦ってまた城に入った。竹中半兵衛は状況をよく見て、
門役に下知し、早く門を打たせたため、城をよく持ち固めたのだという。

こういった事を詳細に極めない輩には、このような大切の役儀は命じにくいことである。

(士談)


その勇功といい義を守ることといい

2017年05月02日 18:07

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/02(火) 14:23:41.27 ID:GWMsMAq8
天正18年に、蒲生氏郷豊臣秀吉より奥州会津を賜り、木村伊勢守(吉清)が葛西大崎を賜った。

その冬、木村の領分にて一揆が蜂起したとの知らせが氏郷の元に入った。
氏郷は雪中にも拘わらず、急ぎ妙佐沼へと救援に向かった。
この時、この一揆は伊達政宗が起こしたものだという風聞があった。

氏郷は速やかに出陣して所々の一揆を追い落としたが、ここに新国上総という者、彼は永沼の城主であり、
元は蘆名に属し、その後伊達政宗に従った人物であったのだが、彼が氏郷に面謁して言った

「この度の一揆は、悉く伊達政宗が扇動したものです。しかし現在雪中であり、分国の通路すら
自由にならず、また蒲生様は未だこの土地の案内も詳しくご存知ありません。であればこのような
救援の軍はうまくいかないでしょう。」

これを聞いて氏郷は答えた
「汝の言うことも尤もである。しかし、太閤殿下が奥州の背炙山まで御動座あって、奥州の仕置を
仰せ付けられたとき、木村伊勢守と私を左右に置いて立たれ、二人の肩をつかみ

『伊勢守は氏郷を兄と存じ、氏郷は伊勢守を弟と存じて、奥州のこと、互いに相談して仕置をするように。』

そう命ぜられたのである。であれば、たとえ途中においてこの氏郷が一命を失ったとしても、伊勢守を
見捨てては君命を蔑ろにし、義理を失ってしまう。
私は確かに昨今この土地に至り、地利を知らず、また雪中の時期であり、人馬の苦しみは言葉にならないほどだ。
しかし、だからといって伊勢守を棄てるというのは、義において欠ける行為である。
伊勢守が討たれて私の命が残っても、一体何の面目があって太閤殿下にお目通りできるだろうか。

これが、私が兵を起こして救援に向かう由縁である。」

そして氏郷は遂に勝利を得て、思いのままに一揆を退治し奥州を平均せしめた。
その勇功といい義を守ることといい、共に武士の本意に当たると言えるだろう。

(士談)


嘆きの中の喜びとはこのことです

2017年04月29日 16:44

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 15:51:31.95 ID:HmLp52Lk
嘆きの中の喜びとはこのことです


一部既出だが(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5244.html)
秀吉が小牧長久手で池田恒興・元助親子が討死した後に
天正12年4月11日付けで恒興母の養徳院にあてた手紙

 今度の勝入(池田恒興)親子のことは、簡単に申せることではありませんが
 其れ様が御力を落とし御愁嘆されているのは推量申し上げます。
 我々もこちらに出向き、敵にあって十町、十五町とやりあっていたところに
 親子の人の不慮があり私も力を落としたこと、数限りもございません。

一三左衛門殿(輝政)、藤三郎(長吉)殿、両人が何事もなかったことは私の
 嘆きの中の喜びとはこのことです。両人はせめて取り立ててこそ
 勝入の御奉仕に報いることになり、心に叶うことだと思います。
 
一其れ様が途方に暮れておられるだろうと存じていましたので、こればかり
 案じていましたが、ぜひとも賀を御致しになって御嘆きを止められ
 両人のことをお世話されれば、勝入親子の弔いにもなることですから
 是非とも頼みますので、御女房衆(恒興妻)にも力をおつけなさって下さい。

一そのほか残った宿老衆は、三左衛門殿につけるように致したいので
 その御覚悟をなされ御愁嘆を止めるようになさって下さい。

一勝入を見るように、筑前(秀吉)をご覧になって下さい。何様にでも
 馳走申し上げます。物参りもなされるように致します。
 心のままに物などを召し上がり、身を完調になさって下さい。

一浅野彌兵衛(長政)に申し含め御見舞いに行かせます。私もそちらへ
 参りたいのですが、只今は手前のことで参上することが出来ません。
 ここもとの暇が空いたら御見舞いに参り、そのとき勝入親子と
 親しくしていた話でもせめて物語り致したいと思います。
 何かにつけて其れ様の御心の内を推量し、御気の毒に思います。
 返す返す御女房衆にもこのことを申したく思います。
 孫七郎(三好信吉、のちの秀次)ですが、そこもとの配下が動揺していると知り
 (行きたいと言ったので)御城(大垣城)の留守居に遣わして参らせます。
 孫七郎めも命を助かったのですが、せめて三左弟兄[兄弟のこと]の為にと
 声を上げて騒いでいるのだと嬉しく思いました。
 詳しくは彌兵衛に申して下さい。


――『侯爵池田宣政氏文書』 



868 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/04/30(日) 17:02:42.31 ID:srdj1iUc
武将なのに1人で突っ込んじゃうのは
組織の力発揮できなくてイクナイ的な
すぐ自分でやっちゃう上司に言いやすい金言ってありませんか?

徳川四天王のだと、文字数多い気がする。

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/30(日) 17:14:40.67 ID:4wr/3SC2
>>867
今の軍隊の上司も部下が死んだら手紙書くんだろうか、書くとしてもここまでかけなさそう。

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/30(日) 18:08:47.19 ID:1GrJCw1u
ぺリリューて漫画では死んだ部下の家族宛の手紙を書くのも上官の仕事だって書いてたな

乗するかごしま担うぼうのつ

2017年04月19日 17:41

昔近衛殿(近衛信尹)が何の理由のよるものか、
秀吉公の御時に薩摩の坊津へ御流しになられた。
配所の鹿児島へ移られときに

大臣の車にはあらであはれにも 乗するかご(駕籠)しま担うぼう(棒)のつ

(昨日は今日の物語)


自分の手で頸をもたげ

2017年04月13日 11:21

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 08:32:23.85 ID:WJZIhrj7
北条家の馬屋の預かりであった諏訪部という者は、度々善き働きがあった。

豊臣秀頼の小田原陣の時、諏訪部と勝田八左衛門という両人が物見に出た所、急に敵に接近され、
二人は早々に引き取った。
この時、諏訪部は馬屋の別当であったために善き馬を持っており、この敵の急追を振り切って
帰ることが出来た。
しかし勝田は良馬を持っていなかったため、敵を振り切ることが出来ず、立ち止まってこれと戦った。
勝田が後に残ったと聞いて、北条軍の人々はこれを救出するため馳せ参る間に、勝田は敵に討ち伏せられ
頸を半ば過ぎまで切られていた。

敵は勝田の救援が来たのを見て引き取った。しかし助けに来た味方も
「勝田は深手を負っているから連れ帰っても死ぬだろう」とこれを棄て帰ろうとした。

ところが、勝田もさすがの勇者であった。彼は自分の手で頸をもたげ、
「未だ生きているのに、各々は棄てて帰るか!?」
と喚いた。

味方はこれを聞きつけ、彼を連れて帰った。

この時、諏訪部は良馬を持っていたが故に却って遅れを取り、勝田は危うい命助かり、勇を表した。
そう、その頃の人々は沙汰したという。

勝田八左衛門は吊り鏡の指物を差していた。後に漂泊し、松平右衛門太夫(正綱)の所で身罷ったそうである。

(士談)

なんというか色々凄まじいお話



807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 11:04:17.58 ID:5tXU3jKh
デュラハンかよ....

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 11:22:59.31 ID:KM5oiyGV
関東武士はいろいろとオカシイ

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 14:31:47.16 ID:wGmclQZB
>>806
助かったのかよw!

神子田は戦功多しと雖も

2017年04月10日 17:46

羽柴秀吉の下に、天正の初めの頃、軍功度重なる輩として、神子田半左衛門(正治)、宮田喜八(光次)、
戸田三郎四郎(勝隆)、尾藤甚右衛門(知宣)の四人があった。彼らは戦のたびに必ず戦功を等しく成し、
世に広く知られていた。

秀吉が初めて播州を領した時、彼ら四人を賞して、録五千石が与えられた。
宮田、戸田、尾藤はこれに甚だ不満で悦ぶこと無かった。
しかし神子田ひとり大いに喜び、拝領の礼を整えようとした。
これに他の三人は異議を唱えた

「四人は同じく戦功を致した者たちなのだから、他の三人が同じように礼を致していない以上、
神子田もこれを請けず、三人と同じようにするべきだ。」

神子田はこの意見に
「私が大いに悦んでいるのは、領地を与えられたことを悦んでいるのではない。
我等四人の事は、その手を尽くしての勤功、誰が超える者があるだろうか。

今、秀吉様は播州の大国を領せられた。これまでに比べてその余分の多いことも知っている。
であるのに我等には「家中に分配して余りが無いため、先に少知を与える。」と命ぜられた。

この言葉は、我等を無知無才の者扱いしている。
無知無才の我等と考えれば、この五千石も身に過超しているではないか。
ここを以って悦んでいるのだ。」

そう答えたという。

神子田は戦功多しと雖も、常にこれを誇って秀吉を蔑如していた。

(士談)



728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/10(月) 21:32:49.38 ID:eowKfctM
神子田って面倒くさいけど権現様のところならうまくやっていけたような気がする

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/11(火) 14:06:36.84 ID:f2YAzpKz
神子田はそういうんじゃなく三成の武官版みたいな印象。

高安家、豊閤より賜し陣羽織之旧談併家紋巴之由来

2017年04月04日 18:22

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/03(月) 21:04:15.37 ID:3cglSWb1
〔脇師〕高安家、豊閤より賜し陣羽織之旧談併家紋巴之由来

 脇師高安彦太郎の家は古く奈良以来の旧談も多い。
その中に豊臣太閤から贈られた陣羽織を、
年が経ったので今はかの装束の角帽子として家蔵としているという話がある。
 ある日その角帽子を持って来て予に見せてくれた。
外包に『秀吉公拝領金襴大内桐角帽子』と記してある。
彦太郎が言うには、”大内桐”とはかつて防州の大内氏全盛のとき貯えて置いた物であり、
漢から渡ってきた物であったのを後に太閤が獲って陣羽織とされたとのことだそうだ。
これは大御所公が御在位のときに贈って御覧になられたとか。
 またかの家は神祖から頂いた能の狩衣がある。
紺地金紋に巴がついている。よって彦太郎の家紋は今は巴を用いるという。

(甲子夜話三篇)


藤堂氏蔦の紋の事

2017年04月02日 16:47

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/01(土) 18:43:32.14 ID:qX4dJN8d
藤堂氏蔦の紋の事

津侯藤堂氏の先祖は多賀氏に縁があるので、家紋にほおずきを用いるという。
今用いているものは蔦の紋だ。
豊臣太閤から桐の紋を賜ったが、憚って花をとり葉ばかりをつけたので、
蔦のようになったものである。
実は藤堂氏の紋は蔦ではないとのことだ。

(甲子夜話)


今西春房と娘の大蔵姫

2017年03月31日 21:45

森忠政   
708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 22:04:28.35 ID:Tm99nypP
今西春房と娘の大蔵姫


摂津今西氏は元を辿れば春日大社の社家出身で摂津国垂水西牧に下向し
現地において荘園経営を行った荘官である。
代々従五位下に叙され室町時代には「南郷目代」と称されたとする。
戦国時代になると周辺の有力国人が台頭して荘園を
脅かすようになったため、今西氏の屋敷の回りの約216m四方は
内外二重の堀で囲まれ、内堀は約2mの深さがあったという。

荘園を守るため姻戚関係を結ぼうと、社家36代目の今西春房
明智光秀の娘・美津を正室にする。
長女の大蔵姫をはじめ子に恵まれたが、本能寺の変が起きてしまう。
山崎の戦いでは弟の春光が明智方で参戦したが敗戦。
当然秀吉の怒りを買い荘園を没収され、目代としての実権を失ってしまった。
以降は医者や神主として家を続けていくことになる。

一方光秀の孫娘にあたる大蔵姫はというと、最初は多田の豪族
山問左近将監に嫁いでいたが、山問氏が没落したため
娘二人を連れて実家に戻っていたらしい。
どういう訳か大蔵姫はその後中川秀成の養女となり、森忠政に再嫁した。
その縁で弟たちの浅田宗英は2700石、今西道春は1500石で召し抱えられ
他の一族からもその後何人も森家に仕えることとなった。

大蔵姫は元和9年9月13日に亡くなったが、忠政に遺言をして自分の衣装と
愛玩の手道具、自身の肖像画を今西氏に送らせたという。
大阪府豊中市にある今西氏の屋敷は現在は国指定の史跡となっており
その西南にある松林寺の墓地には大蔵姫の五輪塔がある。

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以上の話は、主に今西家に伝わる史料(『今西家文書』)から見た話で
森家の史料とは少々食い違っている部分がある。
『森家先代実録』では、大蔵姫は森忠政に嫁いだとは記されていない。
大坂夏の陣で森軍の渡河で活躍した宗英・道春兄弟の姉として紹介されるが
”中川清秀の従弟山問の妻” ”女中頭を務め御内所まで申し上げることが出来た”
という記述があるのみで、表記も大蔵卿となっている。
加えて大蔵姫の肖像画の記述を見ると忠政が従三位とされていたり
遺体が葬られたとする津山の寺がどこか分からないなど不明な部分が多い。
おぉこれは……という訳で悪い話スレに。


之を以て、予が為した所を批判せよ。

2017年03月27日 12:11

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 10:39:21.78 ID:xkF4eQ/h
慶長2年(1597年)、豊臣秀吉よりフィリピン諸島長官に贈りし書簡

『卿が遠方より派遣した大使は、多くの艱難を経て予を訪問した。卿はこれに託し。卿の肖像を
予に贈り、卿に代わって予に敬意を表したため、陸雲海および波が我らの間にあり、我らは実際に
数千レグワを隔てているにも拘らず、予にとっては眼前にあり、予は親しく卿の言葉を聞いているようである。

天と地と分かれて世界が始まって以来、この日本国は神、また君としてシントー(Xinto 神道)を崇敬
している。これはシン(Xin 神)の徳により、太陽及び月はその運行をなし、また1年四季の差別も、この
神より生ずる。これと同じく風および雲が発生し散布し、雨および霧が生じ、地球が回転し、鳥が飛行し、
動物が運動し、草木その他一切のものが成長して賛美すべきものと成るのも、またこの神より出る。
人間も又、これによって君臣の別を生じ、老人と少年の別および夫婦の結合も同一の原因により生ずる。

一切のものはこれより始まり、結局これに終わり、また分解する。

かくの如くであるというのに、数年前パードレ数人が当国に来て、外国の悪魔の教えを説き、当国の
賤しき人民、男子並びに女子の宗旨を乱し、その国の風俗を輸入して人民の心を惑わし、当諸国の
政治を破壊した。これによって予は厳しくこの教を禁じ、完全に防止することを命じた。

これだけではない。その国より来た宣教師たちはその地に帰らず、町および村を巡って密かに賤しき人民、
従僕、および奴隷に外国の教を説いた。予はこれを聞いて忍ぶこと能わず、すぐに彼らを殺すことを命じた。
何故ならその国においては、布教は外国を征服する策略、または欺瞞であることを聞いたからだ。

もし、日本の国より日本人の宗教者もしくは俗人が、卿の国に渡って神道の教を説き、人民を惑わし
道を惑わせたならば、その国の領主である卿はこれを喜ぶだろうか?絶対にそうではない。
之を以て、予が為した所を批判せよ。

予は思うに、卿がこの方法を用いてその国(ルソン)の古来の君主を追い出し、ついに自ら新しき君主と
なったように、卿はまた貴国の教を以て我が教を破壊し、日本の国を占領せんと企画したのだろう。

これ故に予は、前に述べた所に対して憤り、怒りを抑えていた時、海上において破壊された船が
土佐国に現れ、波上に漂った。
予はその船に積まれた財貨を集め、これを散ぜずまた分配すること無く、これを卿に還付せんと
決心していたが、卿の部下が我が法律に背いた故に、この財貨を悉く没収した。
卿は今、予がこれを還付する義務があると思っているだろう。
ならば、古来の交流を継続するため、卿は甚だ遠くより、防風および激浪の艱難を経て予が許に大使を
派遣し、日本と結合し、交誼を政道に導くためにも、今後人を遣わして外国の虚偽の教を説かしむことなかれ。

このようにすれば永久にこの日本国と商品を貿易することを得、その地より来る商船が、予が印を押した
免許状を持参すれば、海においても陸においても少しも害を加えられることはない。
当国よりその地に往来する日本人等が、もし貴国の人民を擾乱せしめ、その地の法律を守らない時は、
これを捕えて獄に下し、事件を審理して刑に処すことを得るだろう。

昨年船数隻を出してかの船の乗組員をその地に帰らせた。船中の水夫その他の人を殺さなかったのは、
我等の間の古来の交誼に背かないためである。

卿が予に贈ったものは目録に掲げてあった通り。悉く受領した。特に黒象は予にとって珍奇であった。
昨年の秋の末、支那の大使数人が当国に来たが、彼らは白象一頭を予に贈ることを約束した。
であるが、予がこの象を予に贈ったのを大いに喜ぶのは、遠方より来た新奇の品を珍重するのが、
昔から今に至るまでの習慣だからである。

予が卿に贈る品は別紙に記した。その品はわずかでは有るが、好意の証としてこれを卿に贈る。
昨冬、当地に来た水夫等の家族に悲嘆に同情し、また卿は彼らの領主であるので、彼らを
憐れんでいると考えたことにより、悉く貴国に帰らせた。

之を以て終わる。』
(異国叢書)

秀吉が、キリシタン追放令やサン=フェリペ号事件について述べた書簡である。


文禄元年、フィリピン諸島長官ゴメス・ペレス・ダマ・マリニヤスより豊臣秀吉に贈りし書簡

2017年03月25日 17:34

700 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:29:14.49 ID:w3PsfF11
1592年(文禄元年)、フィリピン諸島長官ゴメス・ペレス・ダマ・マリニヤスより豊臣秀吉に贈りし書簡

『カスチリヤ、レオン、アラゴン、両シチリア、エルサレム、ポルトガル、ナバラ、グラナダ、サルジニヤ、
コルシカ、ムルシア、ハエン、アルガルベス、アルヘシラ、ジブラルタル、東西インド、
大洋中の諸島及び大陸の王、アウストリヤの大公爵、ブルゴーニュ、ブラバント及びミランの公爵、
ハプスブルク、フランデル、ブレターニュ及びチロル等の伯爵なる我らの君、ドン・フェリペ二世王のため、
当大群島の諸島および西部地方の長官兼司令官たるサンチアゴの騎士、ゴメス・ペレス・ダス・マリニヤス、
高貴にして強大なる君主関白に当然の敬礼を致し、健康と恒久の幸運とを祈る。

御家臣にてキリスト教徒たる日本人、原田孫七郎(Faranda Mangoschiro)は当地に着し、貴王の一身に関する
報告をなし、その内容に私は甚だ喜び、天の神が貴王に授けられた勇気・思慮・および勢力に対し大いなる好意を表す。

原田は数日前、私に一つの書簡を与えた。その形式の整っていることと、文体の壮重なるにおいては、
大いなる君主の書簡と見えたが、それを届けた使者が、これを派遣する人、及びその使いする先の
人の格、そして使命の重大さについて必要とする材幹および資格を備えない、甚だ卑しくまた貧しい人物
であり、しかも食料その他の商品を搭載してこの地に来る普通の商船にて渡来し、航程甚だ遅れたるが故に、
この書簡は、この原田なる人物が当地において一層の尊敬を受けたいという私的な目的のため、自分、もしくは
他人の手によって作ったものではないかと疑った。

また私は、当地に日本語とイスパニヤ語を解する信頼すべき通訳を持っておらず、彼自らが書簡の内容、及び
使命を説明したため、書簡の言葉の真実の意味を疑いった、
もし日本国王より私に書簡を贈る時は、その地に耶蘇会のパードレその他イスパニヤ人が存在するので、
彼らを用いて、少なくともこれを私の国語に翻訳したものを送られると考えたのだ。

これ故に、私は未だこの原田という人物のもたらした書簡を読まず、その使命を明らかにしてはいない。
彼が貴王、及び私に欺瞞を計っているのではないかと疑い、その実否の判断を保留している。
しかし貴書、および貴使節らしい所がある一点を思い、礼儀を守ってこの書簡を書き、原田が私のために
作った翻訳により、わずかに知り得た所に対し、貴書に答える。

私は、徳高く慈悲深き長老代野パードレ、フライ・フワン・コボを派遣する。彼は当諸島において
最も尊敬され、その思慮及び勇気あるがため、私が最も重要なることを告げ、その意見を求める人である。

彼は私の名において、貴大王に当然の敬意を表すだろう。そして使節の言う所が真実であれば、私は
貴手に接吻し、今も、また将来も交友たることを明言し、世界において最も偉大なる我が主君たる
国王の名を以て、貴王の幸福を喜び、不幸を悲しみ、天の王がこれを除かれることを祈る。

701 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:30:04.48 ID:w3PsfF11
東インド及び当地方より日本に赴く我が国王の臣民たるイスマニヤ人が、貴王の手より受ける厚遇及び
恩恵に対して、我が君なる国王の名を以て、親交を希望し、当地においても、貴王の臣民に対し同一の
愛情を以て、及ぶ限りの厚遇をするだろう。

私はこの人のもたらした使命の真実か否かの報知を得るの恩恵を希望する。
もし真実であるのなら、我が君である国王に対する決意及び義務に背反しない限り、この如く偉大なる君主に
相当する友情を以て答え、我が国王にはすぐにこれを報告し、その命を仰ぐだろう。

私は、我が国王及び日本国王の如く、偉大なる両君主の間には、満足なる結末を見るだろうと信じる。
真実なる友情及び同盟が存在することは、世界の平和と一般の満足とをもたらし、また諸王の王である
全能の神の栄光と成るべきを期待する。

日本より私が大いに珍重する物を贈られたことを以て、私も又返礼として、イスマニヤの珍奇なるものを
贈ろうと欲するが、武士の間で最も珍重するのは武器であるが故に、剣および短剣1ダースを贈る。
これは当地において用いる、最も精巧な品である。
これを贈る者の好意を思い、友情の証として貴王の幸福及び強盛を望む我が手より受納されることを請う。

本書感を携える者は、前に述べたることの実否を知ろうとするためにのみ赴く者であるので、
その地において知りたいと思う事は、彼に聞いてほしい、

我らの主が貴王の身を護り、多くの幸福を与え給わんことを。

我らの主にして救主たるイエス・キリスト生誕の1592年6月11日(文禄元年5月2日)
マニラより。』

(異国叢書)

>>696の書状に対するフィリピン総督の返信。どうも原田さん、非常に適当なことを言ったようである。


後悔すること無かれ。

2017年03月24日 16:01

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/24(金) 00:17:52.08 ID:Sxykn2tM
天正19年(1591年)豊臣秀吉、フィリピン諸島に入貢を促したる書

『予が国は恐ろしい戦争が100年余り行われ、諸人甚だしく背馳し、交通並びに書状に統一が
なかったが、この時、この世界を治め嘆賞すべき和合に導くため、予の大いなる誕生が有った。

予は年少の頃より国務に任じ、10年を経ずしてこの小国(日本)を尽く服従せしめ、三韓琉球、
及び他の遠方の諸国は既に予に帰服して頁を納めている。

予は、今支那に対し戦をなさんとしている。しかしこれは予の力に因って行うものではない。
天が予に与えたものである。

其方の国は未だ予と親交を有せず、よって予は行きてその地を取ろうと欲したが、原田孫七郎が
予の寵臣に告げるには、商人の船舶がその地に往返し、彼自らもまたその国に赴いたことがあって、
諸事に通じていると言うので、故に彼を派遣してこの事を報じさせる。
これは100レグワを隔てても、諸事を探求し実相を明らかにすることを得るためである。
こういったことは、古人の一人の言葉にあり、価値を持つ。

これ故に、原田は身分卑しき者では有るが、予はこれに聴き、暫く時を与え、諸将を派遣し
大いなる軍隊を率いて高低尽く平坦にするための命を下さなかった。

今は旗を倒して、誠に予に服従すべき時である。
もし服従することを遅延すれば、予は速やかに罰を加えるだろう。後悔すること無かれ。
この他告げる要は無い。


天正19年9月19日

日本国の関白』

(異国叢書)

マニラのフィリピン諸島長官、ゴメス・ペレス・ダス・マリニヤスに宛た、豊臣秀吉よりの服従勧告である。

その返書↓
文禄元年、フィリピン諸島長官ゴメス・ペレス・ダマ・マリニヤスより豊臣秀吉に贈りし書簡




697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/24(金) 11:25:08.55 ID:njXTdQT1
元寇でのフビライ・ハーンの手紙に似てるな

秀吉公は神明を仰がれられて

2017年03月17日 07:45

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 01:49:54.67 ID:3F32zGZe
 太閤秀吉公が名護屋に御在陣の時加部島で鹿狩りを催し、
狩った鹿を田島大明神の社壇の前に集められた。
多くの臣下が神明の咎が蒙るかもしれずいかがなものかと思い、外へ持ち出すべきだと言ったが、
秀吉公は少しも恐れられず、

「どうしてそのような事が起ころうか」

と悠然とおられた所に、たちまち風波起こって集まっていた鹿を残らず吹き飛ばし穢土を清めた。
秀吉公はすぐに宮司に仰せられて、神鎮めの神楽を奏上された。
 その後祈祷祈念を怠られず、奉納寄付等があった。
既に朝鮮渡海の先鋒小西摂津守・加藤主計頭の軍勢が出船していたので、敵国調伏の祈祷をさせられた。
 御社の後ろの森の中に大石がある。この前に壇を築き注連縄を引いて、宮司は丹誠を尽くして祈る。
数百騎の精兵は弓矢を帯びて朝鮮の方に向かって矢を放ち鯨波を揚げると、大石が中から縦に割れた。
その石は割れたままで今も宮殿の後ろにある。
秀吉公は御感ひととおりでなく神明を仰がれられて、軍勢海陸無難、敵国調伏の祈願をこめられた。
 その後一艘の船を献じ朝鮮の梅と奈良の八重桜の苗を社内に植えさせられた。今もその樹が残っている。

 松浦郡の神社は皆田島大明神の末社であったという。
境内の末社に佐用姫の神社がある。縁起にもあることである。
秀吉公は、往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例により、田島大明神を尊崇された。
また大伴狭手彦の因縁があるので、朝鮮征伐の時から、百石高、山林で相違ないと御朱印を与えられた。
今なお御代々の将軍から賜っており、宮司は従五位下を任官し昇殿を許されている。

『松浦古事記 寛政元年(1789年)成立 著者不詳』

・「往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例」というのは、多分「神集島」のことで「加部島」ではない
・秀吉が佐用姫神社に百石寄進した朱印状は実存し名護屋城博物館に収蔵されているらしい
・佐用姫と大伴狭手彦というのはさよ姫伝説の事

「宣化天皇の頃、任那を新羅から救済する為大伴狭手彦が唐津に駐屯した。
そこで狭手彦は現地の豪族の娘の佐用姫と夫婦になるも、
狭手彦は朝鮮への出征により佐用姫を置いていくことにする。
佐用姫は夫を慕い、乗っている船を追いかけて加部島までたどり着くも、
結局夫と離れ離れになってしまう。
嘆き悲しんだ末、佐用姫は石になってしまった。」

というもの。(諸説ある)
元ネタは『肥前国風土記』の弟日姫子と大伴狭手彦だが、
出征して離れ離れになるとこまでは同じだが、加部島には行かないし石にもならない。



675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 18:45:26.29 ID:MF2YxTVe
万葉集で大伴旅人に歌われるような伝説にたいして風土記が元ネタというのは違和感が


676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 15:20:21.58 ID:L6OBA41M
>>675
正確には、奈良時代には広まっていた肥前国であったとされた伝説が元ネタですね。
万葉集では別れを惜しんで山に登って領巾を振る光景を主に詠っていますね。
どちらでも、佐用姫は加部島に行かないし石にもならない。

ついでに、佐用姫と秀吉の逸話をもう一つ投下


豊太閤が名護屋の御城におられた時、加部島を逍遥された。
浜辺に一つの石があったので、しばし休もうと腰をかけられると、
この石が温かくなってむくむくと動いた。
太閤は驚き、

「これは怪しい石である。きっと由縁があるに違いない。」

と古老を呼んで尋ねられた。

「あれは佐用姫の御形石です」

との答えがあったが、太閤は

「どうしてそのようなことがあろうか」

と尿をかけられるた。
すると沖の方からにわかに大波が来てこの石を洗い流した。
さすがの太閤も大変感じ入り、自らの無礼を詫びられて、
古人平野某を召して神司とし、
その場で百石の証文を授けて佐用姫の霊に仕えさせるよう
大谷吉隆(吉継)に仰せられた。

今もその例により、徳川家から代々百石の朱印を授けられている。

『松浦の家つと 安政六年(1859年)序 明治三十一年(1898年)刊  著者 岡 吉胤』


677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 15:59:59.61 ID:TyxkKzHL
>>676
なんなの秀吉のテンプレでもあるのw
秀吉がおごり高ぶったことをする(しかも下品なこと)
→自然現象が起こる
→神意をみた秀吉が反省して色々奉ってみたりする

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 16:13:56.51 ID:lNAyAxB5
あるいは太閤の小便には超自然現象を起こす能力があるのやも知れん

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 22:54:13.84 ID:/FtvZE1I
>>677
あるんだろうね
秀吉が家臣の妻に手を出そうとしてしっぺ返しをくらう、みたいに

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 03:51:10.05 ID:gSypgfin
なんとなく秀吉=将軍さま 自然現象=一休さんの構図が見えた