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秀次事件

2020年07月24日 18:30

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/24(金) 01:02:10.41 ID:r3NYavW9
文禄四年、関白豊臣秀次にこの頃御謀反の企てが露見したとの事で、七月八日、関白秀次は
聚楽を退出し高野山へ上り、同十五日、腹を御切りになった。

秀次の若君二人(一、二歳の孩児であった)并びに近習、女房の三十余輩、洛中を引き廻され切り捨てられた。

誠は秀次の逆心は虚言であるのだが、行跡が穏便では無かった故に、治部少(石田三成)の讒言によって
かくの如く成ったのだという。

聚楽城、并びに諸侍の家門は伏見に引き移された。

当代記



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是そ摂政関白の家

2020年07月23日 18:17

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 20:58:45.26 ID:bZEQKy47
文禄二年の正月、正親町院崩御の時、諒闇中(天子が、その父母の喪に服する期間)にも拘らず、
関白秀次が鹿狩りをしたことについての落書が有った。

『院の御所 菩提の為の狩なれは 是そ摂政関白の家』

この落書を書いた者は厳重に捜索されたが、その後露見したものの、公家がやったことであったため、
何の沙汰にも及ばなかった。

当代記

摂政関白と「殺生」関白をかけたという落書の話ですね



214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/23(木) 00:37:05.25 ID:AxVMh1z5
>>211
当代記の性格上、秀次貶めて秀吉を上げる必然性が薄い気がする

四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか

2020年06月06日 17:03

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/05(金) 23:51:00.79 ID:wt4PFcb/
文禄4年、関白秀次に謀反の聞こえあった時、伊達政宗もこれに与しているとの説があった。
豊臣秀吉は怒り、政宗の領地を伊予に移すとした。

政宗は伊達上野、他一名を以て徳川家康の元に遣わし、「このように仰せ付けられ、伊達家の浮沈は
この時に極まりました。もはや家康公の賢慮を仰ぎ奉るより他ありません」と訴えた。

家康はこれを聞いて、両使に茶飯などを与えた。暫くして彼等は「政宗はさぞ待ち遠しく思っているでしょう。
早く帰り、ご返事を申し聞かせたいのです。」と申し上げると、家康は大声で言った

「各々が主の越前(政宗)という男は、当たりは強いように見えるが腰の抜けた男であり、後ろの弱きゆえに
そのように狼狽え付くのだ。四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか、よく分別
あるべしと言え!」
そして重ねて、秀吉より催促の有る時の返事のやり方を、細々と教え、両使は罷り出た。

間もなく、家康は秀吉の所に至った。また秀吉より政宗に使いがあり、
「昨日の要請についてどうなっているのか、早々に予州へ下るべし」と伝えに来た。

この使いが政宗の宿所に来てみると、門前には弓鉄砲、長刀を帯びた者達がひしと居並んで、今にも
打ち出しそうな有様であった。御使有ると聞いて、政宗は無刀にて出迎え、座に招いて御使の旨を聞くと、
涙をはらはらと流して申した

「上様の御威勢ほど、世に有難き事はありません。人間の不幸の中に、上の御勘気を蒙るほどの不幸は
無いと、今日こそ思い知っております。私に於いては、たとえ今回の事で御不審を蒙り首を刎ねられても
異議は申しません。況や国郡を下し賜って所を変えるとの事に、何の不満があるでしょうか。

されども我が譜代の家僕たちは、何れも訴えてくるのです。『どうして数十代の御領を離れて他国に流浪する事が
有るべきか、速やかにここにて腹を斬られ、我々も一人も生きて所を去り渡すような所存はありません』と
言い切って、ひたすらに自害を勧めるのです。私は色々と義を尽して申し聞かせましたが、家臣たちは一向に
同心せず、あなた方もご覧の通りの、狼藉の至りの有様です。

つまり、偏に現在私が御勘当の身に罷り成っている故に、数十代の家人さえ我が下知を用いず、恣にしており、
是非に及びません。」
このように述べ、使いは帰ってこの旨を報告すると、秀吉の傍に在った家康も申し上げた

「いかにも左様に、私も承っております。政宗一人の事であれば、上意を違背し旧領を去り渡し奉らざるに
於いては、私に仰せ付けられれば、即座にかの旅宿へ押し寄せ踏み潰すことに、何ほどの事があるでしょうか。
しかし、今度こちらに供を仕った、政宗の千に足らざる小勢にてさえ、家臣共が左様に思い切っているのであれば、
旧領に残り留まっている郎従達は、国を退くとは何としても言わないでしょう。
政宗の郎従等を追い払うべき賢慮がお有りでしたら、政宗については、どうぞ私にお申し付けになって下さい。
ではありますが、累代の所領を没収することで、彼の郎従たちが愁訴する事も、不憫に思います。
ですので、枉げて今回は、ご赦免も有るべきではないかと。」

このように申し上げると、秀吉は「兎にも角にも家康の計らわれることに若くはあるまじ」として、
国替えのこと沙汰無くなりその事止み、その後勘当も免されたという。

名将言行録



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 00:10:30.36 ID:QjiO30i5
まるで道化だな

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 00:28:15.16 ID:orWYLZXD
>>260
伊達上野って留守政景か
後半の訳が力尽きてることも併せて
スレを盛り上げようとする意気は素晴らしいけど
無理に全文貼る事もないと思うよ

細川幽斎、聚楽第行幸の際の代作

2020年04月18日 18:55

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 17:22:12.33 ID:Ref011sU
細川幽斎、聚楽第行幸の際の代作


天正16年4月16日、秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えた行幸の際、和歌御会が催された。
歌題の「寄松祝」に合わせて公家や武家などの参加者が和歌を提出したが、このとき
幽斎は豊臣秀次、足利義昭、豊臣秀長、蒲生氏郷の和歌を代作している。(『衆妙集』)

全部解説するのは大変なので、代作した秀次の歌だけ紹介。

をさまれる 御代ぞとよばふ 松風に 民の草葉も 先づなびくなり
(平和な治世であると呼び続ける松風に、民衆も草葉のように真っ先になびくのである)

この和歌は藤原定家の「をさまれる民の草葉を見せ顔になびく田面の秋の初風」や、
「をさまれる御代にあふぎの風ならば四方の草葉もまづぞなびかん」などを踏まえて
後陽成天皇の治世を慕って心を寄せる民の様子をうたうものとなっている。


幽斎自身は聚楽第行幸には参加していないが、晴れの場での代詠を頼まれることは
歌人として名誉なことであった。



16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 11:25:50.53 ID:/Aka1nDI
>>14
幽斎さんじゃなくて忠興ちゃんが出てたんだね

君が代の長きためしは松に住鶴の千とせをそへてかそへん
【『豊鑑』第三 内野行幸 天正13年(1585)4月 丹後侍従豊臣忠興(細川忠興) 後陽成天皇行幸の際の歌会にて】

豊鑑@toyokagami_bot にいろんな人の歌が出てきておもしろい

黄金百枚の儀

2020年03月25日 18:11

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:24:30.66 ID:K2dn1Ud1
細川忠興様は豊臣秀次公より別して御懇にされており、どうしたわけか、黄金百枚を拝領していた。
その上秀次の家老である前野但馬守(長康)殿の子息・出雲守(景定)は忠興様の聟であり、
秀次事件が起こると、御縁者故「秀次の一味である」と治部少(石田三成)の申立があり、これに
是非無く思し召され、聚楽の屋敷へは米田助右衛門(是政)殿が遣わされ、伏見での状況次第では、
御上様(正妻)、御子様たちを仕舞(生害)させ、御屋敷へ火を掛け、助右衛門殿は切腹するようにと、
忠興様は命ぜられた。

伏見に於いて、黄金百枚の儀は、「薬院法印(施薬院全宗)の肝煎りで秀吉公(秀次の間違いか)より借用した
ものであって、拝領ではない。」との弁明を、米田助右衛門、徳善院(前田玄以)より、太閤様へ申し上げた所、
太閤様はこのように仰せになった

「先年、明智謀反の時、信長公への御恩を存じ出、明智に一味しなかった。
たとえ今度、秀次と一味したとしても、その時の忠節により赦免しよう。」

この旨を徳善院が仰せ渡すと、忠興様は御安堵なされ、この時も助右衛門殿の一命をとした御奉公であったと、
忠興様より度々そのお話を承った。

細川忠興軍功記



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:29:19.10 ID:5/kImDAj
>>787
しれっと治部と太閤を貶める悪い話。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:36:18.45 ID:airvD0sC
金借りただけなんですもらってないんです、って言い訳になるんだろうか

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:39:25.29 ID:/mRIgf+N
佐吉があえなく負けた理由がよく分かるな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 21:37:06.12 ID:NfHJ2VF6
この話へうげものにあったね

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 22:54:05.24 ID:aUbdaYvf
>>789
猪瀬直樹、徳洲会の5000万円事件思い出した

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 13:15:13.15 ID:jvpr6x/q
口先で借りただけだから許せやって話じゃなく
だから御公儀にお返しするので許してください
って話なので

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 19:33:11.35 ID:5lQO7ZEJ
>>794
なるほどそういう文脈なのか
これは勉強になりました

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 20:29:48.46 ID:MxcE7X8S
石田さんほんとにどういう人だったんだろな
全員にこんな感じでちょこちょこ当たってたんだろうか

御家久しき者

2020年01月15日 17:57

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 17:53:50.97 ID:UUVBr7UC
御家久しき者


本能寺の変のあと秀吉は池田恒興に、三好信吉(のちの秀次)に恒興の娘を嫁すことを約束した。
祝言のとき、恒興は娘の御輿副として家臣の香西又市(名門の讃岐香西氏の出)を遣わした。
又市は”御家久しき者(家が長く続いている者)”との恒興の御意からであったという。

又市は長久手の陣では秀次にお供したが、恒興が討死した日と同日に三十八歳で討死した。
長男の五郎右衛門が跡を継ぎ雑賀陣、北伊勢陣、阿波陣と秀次にお供し二百石を拝領したものの
秀次の切腹後は、同じ知行で恒興の息子の輝政に召し出されることとなった。


――『吉備群書集成』



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 22:20:49.29 ID:M1BxP3yc
池田は摂津を支配していた時に管領細川の家臣を召抱えたようだな

その心持が面白かった

2019年07月08日 17:50

千利休   
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 21:56:58.28 ID:v9H8Sln5
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 22:17:22.94 ID:3+H2OFSP
いわゆる小者

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 05:56:03.31 ID:PErBWv+E
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 19:30:32.72 ID:FDy5Rb+b
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 21:10:55.98 ID:6lk5Uw6S
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:31:12.85 ID:BTnI+Yho
どこの誰なんでしょうね

里村紹巴と秀次事件+α

2019年02月17日 16:37

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/17(日) 16:25:23.15 ID:QBNyGuoi
里村紹巴と秀次事件+α


世に定めとはないものである。良きことも悪しきことになってしまうのだ。

秀次関白殿は少し連歌の御稽古をされていたので、喜んで紹巴は毎日登城されていた。
かの御謀反の御談合をしていたとみなされたのか、(紹巴の)百石の知行や家財屋敷に至るまで
昌叱(紹巴の娘婿)に太閤御所(秀吉)が(紹巴から取り上げて)下されることになってしまった。
呆れるほどひどい身の上になってしまわれたので、気の毒に思いその年(文禄4年)の師走に
雪をかきわけて、丸(松永貞徳)一人隠れ忍んで(紹巴の所に)参った。

法橋(紹巴)は丸の名を聞きつけて懐かしく思われたのか、十間ほど(家から)出てこられて
丸の手を引いて、奥の住家へ引き入れられた。
道すがら(紹巴は)
「上手に遅くに来る者だ。春のころ、照光院殿(聖護院道澄)などから御見舞いの使者があったが
 (詮議が厳しく見つかると困るので)私の首を斬らせようとしたのかと思ったものだ」
と仰った。


――『戴恩記』
紹巴と貞徳の父は知り合いで、貞徳が12才の頃には月例の連歌の会に誘ってくれたらしい。

貞徳は里村紹巴の容姿や性格についても書いていて

「顔おほきにして眉なく、明なるひとかは目(一重まぶた)にて、鼻大きにあざやかに
 所々少くろみて、耳輪あつく、こゑ大きにきつきひびきありて、ざれごと申さるるも
 いかるるやうに侍り」

と記している。(戴恩記)


子のなき者はつる葉をも捜し求め

2019年01月24日 08:23

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/24(木) 03:48:09.63 ID:wqDfmpXE
子のなき者はつる葉をも捜し求め


(文禄四年)四月廿三日

太閤様(秀吉)は関白様(秀次)の此度の御嘆き(弟・秀保の死)を気の毒に思し召し様々なことを
仰せられたので、(秀次)は良きついでと思し召して
「脇(側室)に子がありましたが、太閤様がどのように思し召されるだろうかと思い
 御沙汰をしていませんでした」
と申し上げられると、(秀吉は)
「どうして左様のことを隠していたのか。めでたいことで言い分などない」
と仰せられた。

また(秀吉は)ついに北政所様(ねね)にも
「子のなき者はつる葉をも捜し求め養子にするが、幾人御子にしても満足することはないものなので
 (秀次の子について)不満はない」
と仰せられ、北政所様より(秀次の)内儀、大上様(日秀尼)、小少将*に(そのことの)仰せがあった。


――『駒井日記』

* 同一人物かは不明だが、秀次事件で同名の人物が秀次の妻妾として連座している。


茶々から秀次への手紙

2019年01月19日 18:16

淀殿   
667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 23:37:12.99 ID:oWMg4/ko
茶々から秀次への手紙


文禄二年閏九月六日に、関白・豊臣秀次は太閤・秀吉の有馬湯治の見舞いへと赴いた。
見舞いに行くことを北政所と茶々へそれぞれ手紙で伝え、自身も湯治をした。(『駒井日記』)
以下は十月八日に来た茶々からの返信。


(有馬の)御湯が丁度良く、すぐ清須まで戻ってこられるとの懇ろな手紙をありがたく喜ばしく思います。
太閤も一段とご機嫌がよく、この程は聚楽に御成されました。
姫君(秀次娘)も御息災でいられるそうです。そのまま御上洛をお待ちしています。
御文はよくよくありがたく思い、何と言ってもめでたいことですから重ね重ねお願い申し上げます。かしく。

人々御中 
まいる    申給へ

――『福田寺文書』

返信前の十月一日には秀吉により御拾(秀頼)と秀次娘の縁談が取り決められており、それを受けての手紙と思われる。
このとき許嫁となったとされる八百姫は病気がちで、秀次正室の若政所が祈祷依頼を出している。(『兼見卿記』)
秀次自害の連座で亡くなった子女に八百姫がいないこと、没日が違うことなどから自害前に亡くなったとされる。


黒田如水入道は茶の湯を嫌っていた

2018年11月29日 21:03

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 19:23:41.98 ID:k9WRVOTA
黒田如水入道は茶の湯を嫌っていた。「武士の道に非ず。なんぞや刀小脇差まで外に捨て置き、
丸腰にて其の会あらんこと、沙汰の限りである。」と言っていた。

ある時、豊臣秀吉が如水を招き、数寄屋にて茶の会があった。如水としても君命辞し難く、その命に
応じた。ここで秀吉は、如水一人を客として、数寄屋にて密事を談じた。これは関白秀次生害の事であったと言われる。
他者が知ること無く、詳細に話し合いをし、終わって退出した。如水はこの時大いに茶の会に大利あることを感じ、
以後数寄の道を趣味としたという。

(士談)



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 23:07:36.70 ID:n4LZlX5q
随分晩年の話だな
それまでに茶の湯に付き合わなきゃならない事なんて山とありそうだが

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 09:44:07.54 ID:smPpcYRC
これが

黒田官兵衛と茶の湯

の出典か

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 09:47:31.06 ID:smPpcYRC
名将言行録出典だと話はおもしろいけど名将言行録だから…となるけど
山鹿素行先生はどうなんだろ

「伴内が困っておる」

2018年09月30日 19:43

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 21:46:23.02 ID:SujEa8Yj
伴内と言う者、世に類ない咄の名人にて、豊臣秀次公の御前を離れず、世の中の事を興あるように
取り繕い咄をつかまつる程に、一段と御意良くして、常に秀次公の御前に詰めた。

彼の咄の内、十の内半分は観世又次郎(観世方小鼓打ち)がどれほどうつけた事を言ったか、という
物であったため、秀次公は「それほどうつけ者なのか」と思し召した。

ある時、秀次は観世又次郎を召した。彼は御前に参って謹んで罷りあり、またいつもと同じ様に
伴内も伺候した。秀次公は仰せに成った

「いかに観世、どうして汝は萬に疎く心がうつけているのか?普段伴内の話す内容を聞くと、
大方汝のうつけ話ばかりなのだ。又次郎いかに?」

観世承り「そうですな、伴内と言う者は身体無芸なる奴でありますから、私のような天下道具の名人の
事を申さないと、喋ることが無くなってしまいます。ですので仕方がないと、私は彼をかまい申しません。」

秀次公はこれを聞くと「非常に面白い。伴内返答は如何に!?」と仰せに成ったが、伴内は当惑して赤面し、
何も言えなかった。そこで秀次公は観世又次郎を大なる利発者と感じ、「伴内が困っておる」と、大いに
笑った。これ以降、伴内は観世又次郎の事を語らなくなった。

(義殘後覺)


坂井久蔵の頸

2018年01月28日 16:47

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 10:55:41.38 ID:tXZo+VwF
坂井久蔵(尚恒・織田信長の家臣で高名な勇士)が姉川の合戦で討ち死にした時、彼の頸を
取ったのは、今井角右衛門生瀬半兵衛右衛門の二人だとされていた。

両名ともに、後に豊臣秀次に仕えたのだが、秀次はある時このように奉行たちに命じた
「一人の首を二人で取るというのは不可能である。一人は虚説なのであろう。お前たちはこれを取り調べよ。」

そして詮議の結果、今井角右衛門こそが虚説を語っていたと結論され、刀を没収の上
鷹小屋に押し込められた。さらに侍への見せしめとして、切腹か斬首かと議論されていた
所に、今井が申し上げた

「常のことと違い、武士が他人の骨を盗んで罪科に逢うと言う事は、子孫において屍の上の
恥辱であり、何事がこれに過ぎるでしょうか。
全く命を惜しむということではありませんし、このような証人にするのは気の毒だとも思いますが、
願わくば浅見藤右衛門を召し出され、彼の申す所をお聞き召した上で、御成敗を仰せ付けられるように。」

この浅見は、今井と交流がなく、普段会話をしたこともなかった。
浅見はこの頃安土に居たが、秀次は「彼を召して、いよいよ正しく改め、武義の虚説を
言うものを成敗仕るように。」と命じた。

浅見は安土より呼ばれた。
彼は元々、生瀬とは無二の親友であったため、人々は
「沙汰にも及ばない。今井の非分ということに決まっている。今井は何を血迷って
浅見を証人に呼んだのか。」
専ら、そう取り沙汰した。その夜は浅見の友人たちが集まり、酒宴など行われた。

そして翌日、聚楽の大広間に諸侍集まり、この詮議を聞くべしとそれぞれ固唾をのんだ。
奉行が出仕して浅見を召し出し、篠部淡路守を通して坂井の件を尋ねが、この時奉行たちは

「定めて別の申し様も無いであろうし、今まで言われていた通りであろう。浅見の申し分一通りで
今井の罪科に決まるのだから、速やかにその旨を申し上げるように。」

そう、彼に促した。しかし浅見
「今井は、ここ三十年私と交流のない人物です。対して生瀬は日頃から別して親交のある友人です。
お尋ねのように、有り様に申し上げては、天下に私の外聞を失うことに成ります。これまで
長生きをしてこのようなお尋ねに逢い申す事、迷惑ここに極まるものです。
願わくば他の者を召し出し、よくよくご穿鑿を加えられますように。」

奉行衆はこれを聞くと
「今井と交流のない浅見であるから、今井の非分を申し上げにくいというのは仕方がないだろう。
しかしはるばると安土より呼び寄せ、秀次公も其方の証言を証拠に致すと仰っているのだから、
申し上げるように。」

そう説得したが、浅見はそれでも辞退を押し通した。篠部は一応、この事を秀次に言上すると、
秀次は重ねて証言をするようにと命じた。これに浅見は

「このように進退が極まったことは今までありません。生瀬は多年の友人、今井は多年の不通。
何れに付いて何と申しても、人々の誹謗は逃れがたいでしょう。しかし武義についての御詮議の
事ですから、有り体に申し上げなくては本意無い事ですので、申し上げます。

坂井久蔵の頸は、間違いなく今井が討ち取りました。

比類なき手柄であり、この事は私に限らず、大勢がその場のことについて見聞きしております。
生瀬については多年の友人であり、この件については彼の身を捨てるような事になりますが、
坂井の頸の事について、全く存じよりもありません。これは何かと勘違いをして、あのように
申し上げたのではないでしょうか。」

座中、興を醒まし、言葉もなかった。
しかし「この上は今井別儀あるべからず」と、別途賞せられることとなった。
生瀬は罪科に及ぶべきであった所を、秀次が惜しんで処罰に及ばず、その後に病死したという。
(士談)



512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 12:02:12.10 ID:t0jRki3R
>>511
なんで何十年もたってから言い出すんだw

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 12:33:51.88 ID:oyeAe0TI
昔話を聞くのは若侍のつとめ

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 22:19:17.83 ID:+FUSGADB
ttps://dotup.org/uploda/dotup.org1450461.jpg
なおなぜかセンゴクでは坂井久蔵を山崎新平が討ち取って、
親友の仙石秀久がその仇を討つという展開だった模様
1450461.jpg

秀吉の甥としての覚悟

2018年01月11日 19:00

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 17:36:09.44 ID:cYyfG16o
秀吉の甥としての覚悟


一今日から秀吉の甥としての覚悟をするように。人に慮外の沙汰を下して
 甥としての振る舞いが出来ずとも、みな秀吉の甥と思って崇めようとするのだ
 という覚悟を持つこと。

一これ以後は秀吉がこのようなことはあってはならないと思ったり、不都合だと
 思うことがあっても、(秀次が)この一書を思い出し書き付けて心を改めて
 人にも立派な人と呼ばれるのなら、右のほかに進退のことを取り上げません。

一今年木下助左衛門、同勘解由を(秀次に)つけたところ、両人が討死したのは
 不憫なことでした。両人の者を殺してしまったことに対して(秀吉の)戸惑いを
 考えてくれてもよいのに、一柳市助に津田監物とやらを欲しいと申させましたが
 仮に秀吉がどの者を預けたとしても、今度預けた者も一人も残らず討死させ
 (秀次が)生き残ってしまえば、外聞が悪くなることも分からないのですか。
 申させた者はもちろん、取り次いだ者も無分別の大たわけと思い、市助めを
 手打にしたいとも思ったくらいですが、今まで腹の中に折り込んで遠慮を
 していたので言葉にはしませんでした。
 よくよく分別をして、諸事に嗜み、流石秀吉の甥と呼ばれるようになれば
 何よりの満足であるので、右の一書を心がけて下さい。

一覚悟を改めればどの国でも預けるつもりですが、只今の如く無分別のうつけ者では
 命を助けてやりたいと思っても、秀吉の甥の沙汰で、秀吉が面目を失うことは
 あってはならないのですから、手討にするしかありません。
 人を斬ることは秀吉は嫌いですが、その方を他国に移すのは恥の恥になる
 だけですから、人手には懸けられないことです。

一胸中は誰にもいわなかったのですが、秀吉の代理も出来るだろうと思っていた
 御次(秀勝、秀吉養子、実信長四男)が病身なので、天道が秀吉の名字を残さない
 ようにしているのだろうか、是非に及ばずと悟ったように振る舞っていましたが
 その方が器用に物を申し付け武者を致していると見えるようになり、このように
 覚悟を持たれるのなら、悔やみもありません。
 
右の五箇条の通り、これ以後分別をもって慎むことがなければ、八幡大菩薩に誓って
人手には懸けさせません。委細は善浄房(宮部継潤)、蜂須賀彦右衛門尉(正勝)の
両人にも申し含めておきました。せがれでもあるので、その心得を持つように、以上

(天正十二年)九月廿三日                秀吉(花押)


――『松雲公採集遺編類纂』


天正20年5月18日付 豊臣秀吉、秀次宛書状

2017年11月22日 16:44

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/22(水) 12:37:42.57 ID:j6nRfafp
豊臣秀吉豊臣秀次宛書状

一、殿下(秀次)は陣の用意を油断なく行ってください。来年2月には進発するように。
一、高麗の都は二日に落ちました。この上はいよいよ渡海する時は、大明国まで残らず
  征服するよう仰せ付けましたので、大唐の関白職と成るべくお渡りになるでしょう。
一、人数は3万を召し連れ、兵庫より船で来るように。馬などは陸地でさし寄越して下さい。
一、三国の中に敵対するものはこれ無しと雖も、外聞というものが有ります。武具の嗜みには
  十分気を付けて下さい。下々にまで申し聞かせるように。
一、召し連れていく者のうち、人持ちには3万石、馬廻りへは2万石を貸し遣わすように。
  金子も似合い似合いに貸し遣わすように。
一、京都の御城米は留め置いて下さい。八木に手を付けさせてはなりません。
  その他の30万石は先にこちらに輸送しました。八木を陣用意に召し遣わし、
  不足のあった場合は太閤御蔵米が入り次第召されるように。
一、のし(金を延べ貼り付けたもの)付きの刀脇差を千腰用意して下さい。あまり大きすぎては
  指す者遠路の迷惑となるでしょうから、刀は七両、脇差は三両あまりにて申し付けて下さい。
一、のし付きの薙刀30、のし付きの鑓20本、このほかは無用です。
一、長柄槍は柄を金にするように。毛のない鞘は無用です。大阪に樫柄のものを置いてあるので、
  所用の時はこれを召し寄せて下さい。
一、金子について、私の方に今ある分は払底してしまったので、聚楽に有る銀子一万枚を
  大阪に遣わし、大阪の金子千枚をこちらに召し寄せて下さい。ただし五百枚所用の時は、
  銀子五千枚を代わりに遣わして下さい。如何程であっても、10分の1で交換して下さい。
一、具足は5、6丁を持ってくるように。それ以上は無用です。
一、馬たちは現在高麗に半分は曳いていきました。その他は名護屋に鞍道具ともに残し置いて
  ありますので、そちらがあまた曳いてくるのは無用です。広島にも10匹置いてありますので、
  彼の地にて引き換えて下さい。よくよく飼い置く旨、西尾(光教)に仰せ遣わしておくように。
一、名護屋にも高麗にも兵糧はふんだんに有るので、用意には及びません。こちらに向かう道での
  覚悟のみを仕って下さい。
一、小者若党以下、下々までも召し置いて下さい。この方で小者などを雇い入れようとしても、
  にわかには出来ません。前々から用意しておくことが肝心です。
一、丹波中納言(羽柴秀俊)にこちらに来るよう、準備を命じ、きっと同道するようにして下さい。
  8月前には命じるように。尺米等の事については山口の方へ仰せ遣わすように。
  8月前に召し寄せ、高麗か名護屋での留守を仰せ付けます。
一、高麗のための留守居として、宮部中務卿法印(継潤)を召し寄せて下さい。用意を命じ
  従う旨を仰せ遣わして下さい。
一、大唐の都へ叡慮(天皇)をお移し申すつもりですので、その御用意をしてください。
  明後年には行幸が成されるでしょう。その場合、都の周辺10国を進上するでしょう。
  その内において諸公家衆何れも知行が仰せ付けられます。官位の低い衆の知行は
  10倍にし、官位の高い衆は仁礼によるべき事。
一、大唐の関白は先に言ったように、秀次に仰せ付けられる。その上で、都の周辺100国を
  与える。日本の関白は大和中納言(羽柴秀保)、備前宰相(宇喜多秀家)のうち、覚悟次第で
  仰せ付ける。
一、日本の帝位は若宮八条殿(皇弟知仁親王)に、何れにせよ決まるでしょう。
一、高麗については岐阜宰相(羽柴秀勝)か、そうでなければ備前宰相を置きます。
  丹波中納言は九州に置きます。
一、震旦国(中国)への叡慮(天皇)の行路は、例式や行幸の儀式があるので、御泊々、
  今回あなたが出陣する道路の御座所が然るべきでしょう。人足伝馬は、その国の範囲で
  申し付けるように。
一、高麗国はもちろん大明の征服も、手間はいらぬと人々に仰せ付けて下さい。上下の迷惑は
  少しもなく、下々が逃げ走る必要もありません。諸国へ遣わした奉行たちを召し帰し、
  陣の用意を申し付けて下さい。
一、平安城(京都)並びに聚楽の留守居については、追って命じます。
一、民部卿法印(前田玄以)、小出播磨守(秀政)、石川伊賀守(貞政)以下、用意を命じ、
  お考え次第に参陣致す旨、申し聞かせるように。
右の条々、西尾豊後守(光教)に申し含めました。その意を得て下さい。

  天正二十
    五月十八日
                      秀吉(朱印)
(前田家所蔵文書)



333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/22(水) 14:18:56.93 ID:0KuVb4Tj
断られたやつか

秀次の趣向

2017年10月20日 16:31

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/19(木) 22:36:35.75 ID:5AVF+jbi
関白豊臣秀次が、筑紫において藤原定家の書いた小倉の色紙を手に入れた。
これにより座敷を改め、色紙開きの会を開いた。
千利休を上客として、相伴3人という会であった。

頃は卯月(4月)の二十日あまり。明け方の事であった。
人々、座敷に入ったが。そこには明かりも無く、闇の中に釜の沸く音だけが聞こえ、
いかにも静かな様子であった。

「これは一体どんな御作意であろうか」

その場の人々がそう思っていたその時、利休の後ろの明かり障子が、ほのぼのと明るくなった。
不思議に思い障子を開けると、月の明かりが座敷の内にほのかに入ってきた。
さればとにじり寄って見ると、小倉の色紙がかけ物として飾られていた。その歌は

『時鳥 啼きつる方をながむれば
  ただ有明の月ぞ残れる』

誠におもしろき趣向にて、その時利休をはじめとした人々も、「さても名誉不思議のご趣向かな」と、
同音に感じ入ったという。

(今古雅談)



鷺を持たせて

2017年09月07日 21:57

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/07(木) 21:30:49.08 ID:LuuX7Y+o
関白秀次の供をして、大島雲八が伏見から大阪へと向かう時、6月のことであったので、生きた鷺を籠に入れて
持たせていた。

案の定、秀次が船の中で、雲八に「鷺を射て参れ」と命じた。
もし射外せば如何かと思ったものの、持ってきた鷺があったので、心やすく射たという。
たとえ射外しても、これを「射たものです」と差し出せば良い、ということであろう。

この大島雲八は名誉の射芸との名を得ており、それゆえにこのような嗜みがあったそうだ。

ただし、心得が悪しければ主人を偽るものとなるのだから、こういうことはよくよく心得を持った上で
行うべきであろう。

(士談)


石川五右衛門偽上使の伝説

2017年07月19日 22:01

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 05:54:26.93 ID:cQO9i7mY
岩村城には石川五右衛門偽上使の伝説がある。豊臣の天下の時、岩村城主
の田村中務大輔(直昌)には嫡庶の二子があった。

やがて中務大輔が病にかかって瀕死の状態となった時、この二子を中心に
御家騒動が起こった。しかし庶子である次男は、実は佞奸な家老の

倉元甚五右衛門の姦通の子で、倉元は庶子に家督を継がせて主家の横領を
企てたのである。これを推知した中務大輔は腹心の小姓・金森林念に、

家督相続の遺言状を託して間もなく世を去った。忠臣の金森は思案の上で
騒動の顛末を関白・豊臣秀次に注進したので、秀次は使者・福原団七郎を
岩村城に乗り込ませて一切を解決させることにした。

これを探り知った石川五右衛門は、「良き機会ぞ」と、すぐに団七郎の家臣を
手に入れ、途中<十三峠辺りであろう。また岩村城下玄吾坂下ともいう>で
待ち伏せて団七郎を殺し、自分はすっかり使者に化け込んで、

行列厳しく岩村へ到着した。偽使者をすぐに訪れたのは奸物・倉元だった。
彼が多分の金子を賄賂にして帰ると、まもなく小姓・金森は密かに訪れて、

倉元の悪計の一部始終を訴えた。さてその翌日、五右衛門はいよいよ城入を
なし、倉元を利用して散々腹を肥やしてから、

彼の悪事数々を満座の中で弁じ立てた。その後、家督は無事に長男へ譲られ、
倉元は死刑にされて騒動は落着したという。これは五右衛門一代を通じての
大義賊伝として講談などにも読み込まれている。

――『恵那郡史』



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 06:48:10.45 ID:pTcGI5g6
>>100
この岩村城ってのは美濃の岩村城でいいのかな?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 07:11:21.70 ID:aF6T985F
福原さんかわいそう

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 07:13:57.71 ID:SMPelxR4
義賊()

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 09:25:43.91 ID:PTyFtPRC
美濃岩村なら関ヶ原で改易された田丸中務大輔直昌のことなのかな

於萬様は宮部に養育されていた

2017年07月06日 18:40

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/06(木) 11:00:20.83 ID:shzTRTJ6
 秀吉公の於萬(秀次)様は秀吉公の鳥取陣に供をして当国に来ていて、宮部継潤に養子として預けていた。
宮部の陣所辺山森という要害には、役者も数多く居た。落城後は秀吉公播州へ帰陣して、
於萬様は当城に留まり宮部に養育されていた。
天正十年の春には秀吉公は何を思ったか播州に送り返せと命じられ、
継潤に家老として友田左近右衛門か田中久兵衛(吉政)二人のうち一人を付けろと併せて命じられたので、
田中久兵衛を付けた。
この二人宮部家中では才覚武勇優劣付かない侍で、秀吉公も内々召し抱えたいと考えていて、
特に友田を望んだのだが、継潤が惜しんで出さないと考え両人のうち何れかという形にされた。
案の定友田惜しみ、田中の方を差し出してきた。
後於萬様は播州に帰り、秀吉公は近くに置いて大変可愛がり、次第に成長して元服した。
(因幡民談記)


そのときは拙者とて

2017年06月16日 17:55

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 23:50:57.07 ID:dWS33giL
天正十九年十二月二十八日、近江中納言秀次公は関白に任ぜられた。
その礼として家康公から井伊兵部大輔直政を遣わされた。
そのとき秀次公は囲碁をされていて、直政を呼んで物語をされた。

「昔、私が三好孫七郎といったときは直政も無官で万千代と申していたな。
会合して碁を打ったが、その時は直政は碁が強くて私は弱かったものよ。」

その碁の話に事寄せて、尾張長久手の合戦に直政に打ち負けた事を思い出して、
それとなく

「今、私と直政とでは昔とは手合わせは違ってくるだろう。
私も忝くも関白に任ぜられたのだ。勝負も大いに変わるはずだ。」

と笑いながら御申されると、直政は

「そのときは拙者とて無位無官の万千代。
只今は四位の侍従に叙任されています。
手合わせもそれほど昔と変わらないでしょう。」

と恐れることも無く答えた。
時に取って意地の有る申し分といえる。


『武士としては』