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細川幽斎、聚楽第行幸の際の代作

2020年04月18日 18:55

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 17:22:12.33 ID:Ref011sU
細川幽斎、聚楽第行幸の際の代作


天正16年4月16日、秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えた行幸の際、和歌御会が催された。
歌題の「寄松祝」に合わせて公家や武家などの参加者が和歌を提出したが、このとき
幽斎は豊臣秀次、足利義昭、豊臣秀長、蒲生氏郷の和歌を代作している。(『衆妙集』)

全部解説するのは大変なので、代作した秀次の歌だけ紹介。

をさまれる 御代ぞとよばふ 松風に 民の草葉も 先づなびくなり
(平和な治世であると呼び続ける松風に、民衆も草葉のように真っ先になびくのである)

この和歌は藤原定家の「をさまれる民の草葉を見せ顔になびく田面の秋の初風」や、
「をさまれる御代にあふぎの風ならば四方の草葉もまづぞなびかん」などを踏まえて
後陽成天皇の治世を慕って心を寄せる民の様子をうたうものとなっている。


幽斎自身は聚楽第行幸には参加していないが、晴れの場での代詠を頼まれることは
歌人として名誉なことであった。



16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 11:25:50.53 ID:/Aka1nDI
>>14
幽斎さんじゃなくて忠興ちゃんが出てたんだね

君が代の長きためしは松に住鶴の千とせをそへてかそへん
【『豊鑑』第三 内野行幸 天正13年(1585)4月 丹後侍従豊臣忠興(細川忠興) 後陽成天皇行幸の際の歌会にて】

豊鑑@toyokagami_bot にいろんな人の歌が出てきておもしろい
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黄金百枚の儀

2020年03月25日 18:11

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:24:30.66 ID:K2dn1Ud1
細川忠興様は豊臣秀次公より別して御懇にされており、どうしたわけか、黄金百枚を拝領していた。
その上秀次の家老である前野但馬守(長康)殿の子息・出雲守(景定)は忠興様の聟であり、
秀次事件が起こると、御縁者故「秀次の一味である」と治部少(石田三成)の申立があり、これに
是非無く思し召され、聚楽の屋敷へは米田助右衛門(是政)殿が遣わされ、伏見での状況次第では、
御上様(正妻)、御子様たちを仕舞(生害)させ、御屋敷へ火を掛け、助右衛門殿は切腹するようにと、
忠興様は命ぜられた。

伏見に於いて、黄金百枚の儀は、「薬院法印(施薬院全宗)の肝煎りで秀吉公(秀次の間違いか)より借用した
ものであって、拝領ではない。」との弁明を、米田助右衛門、徳善院(前田玄以)より、太閤様へ申し上げた所、
太閤様はこのように仰せになった

「先年、明智謀反の時、信長公への御恩を存じ出、明智に一味しなかった。
たとえ今度、秀次と一味したとしても、その時の忠節により赦免しよう。」

この旨を徳善院が仰せ渡すと、忠興様は御安堵なされ、この時も助右衛門殿の一命をとした御奉公であったと、
忠興様より度々そのお話を承った。

細川忠興軍功記



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:29:19.10 ID:5/kImDAj
>>787
しれっと治部と太閤を貶める悪い話。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:36:18.45 ID:airvD0sC
金借りただけなんですもらってないんです、って言い訳になるんだろうか

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:39:25.29 ID:/mRIgf+N
佐吉があえなく負けた理由がよく分かるな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 21:37:06.12 ID:NfHJ2VF6
この話へうげものにあったね

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 22:54:05.24 ID:aUbdaYvf
>>789
猪瀬直樹、徳洲会の5000万円事件思い出した

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 13:15:13.15 ID:jvpr6x/q
口先で借りただけだから許せやって話じゃなく
だから御公儀にお返しするので許してください
って話なので

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 19:33:11.35 ID:5lQO7ZEJ
>>794
なるほどそういう文脈なのか
これは勉強になりました

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 20:29:48.46 ID:MxcE7X8S
石田さんほんとにどういう人だったんだろな
全員にこんな感じでちょこちょこ当たってたんだろうか

御家久しき者

2020年01月15日 17:57

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 17:53:50.97 ID:UUVBr7UC
御家久しき者


本能寺の変のあと秀吉は池田恒興に、三好信吉(のちの秀次)に恒興の娘を嫁すことを約束した。
祝言のとき、恒興は娘の御輿副として家臣の香西又市(名門の讃岐香西氏の出)を遣わした。
又市は”御家久しき者(家が長く続いている者)”との恒興の御意からであったという。

又市は長久手の陣では秀次にお供したが、恒興が討死した日と同日に三十八歳で討死した。
長男の五郎右衛門が跡を継ぎ雑賀陣、北伊勢陣、阿波陣と秀次にお供し二百石を拝領したものの
秀次の切腹後は、同じ知行で恒興の息子の輝政に召し出されることとなった。


――『吉備群書集成』



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 22:20:49.29 ID:M1BxP3yc
池田は摂津を支配していた時に管領細川の家臣を召抱えたようだな

その心持が面白かった

2019年07月08日 17:50

千利休   
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 21:56:58.28 ID:v9H8Sln5
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 22:17:22.94 ID:3+H2OFSP
いわゆる小者

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 05:56:03.31 ID:PErBWv+E
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 19:30:32.72 ID:FDy5Rb+b
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 21:10:55.98 ID:6lk5Uw6S
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:31:12.85 ID:BTnI+Yho
どこの誰なんでしょうね

里村紹巴と秀次事件+α

2019年02月17日 16:37

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/17(日) 16:25:23.15 ID:QBNyGuoi
里村紹巴と秀次事件+α


世に定めとはないものである。良きことも悪しきことになってしまうのだ。

秀次関白殿は少し連歌の御稽古をされていたので、喜んで紹巴は毎日登城されていた。
かの御謀反の御談合をしていたとみなされたのか、(紹巴の)百石の知行や家財屋敷に至るまで
昌叱(紹巴の娘婿)に太閤御所(秀吉)が(紹巴から取り上げて)下されることになってしまった。
呆れるほどひどい身の上になってしまわれたので、気の毒に思いその年(文禄4年)の師走に
雪をかきわけて、丸(松永貞徳)一人隠れ忍んで(紹巴の所に)参った。

法橋(紹巴)は丸の名を聞きつけて懐かしく思われたのか、十間ほど(家から)出てこられて
丸の手を引いて、奥の住家へ引き入れられた。
道すがら(紹巴は)
「上手に遅くに来る者だ。春のころ、照光院殿(聖護院道澄)などから御見舞いの使者があったが
 (詮議が厳しく見つかると困るので)私の首を斬らせようとしたのかと思ったものだ」
と仰った。


――『戴恩記』
紹巴と貞徳の父は知り合いで、貞徳が12才の頃には月例の連歌の会に誘ってくれたらしい。

貞徳は里村紹巴の容姿や性格についても書いていて

「顔おほきにして眉なく、明なるひとかは目(一重まぶた)にて、鼻大きにあざやかに
 所々少くろみて、耳輪あつく、こゑ大きにきつきひびきありて、ざれごと申さるるも
 いかるるやうに侍り」

と記している。(戴恩記)


子のなき者はつる葉をも捜し求め

2019年01月24日 08:23

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/24(木) 03:48:09.63 ID:wqDfmpXE
子のなき者はつる葉をも捜し求め


(文禄四年)四月廿三日

太閤様(秀吉)は関白様(秀次)の此度の御嘆き(弟・秀保の死)を気の毒に思し召し様々なことを
仰せられたので、(秀次)は良きついでと思し召して
「脇(側室)に子がありましたが、太閤様がどのように思し召されるだろうかと思い
 御沙汰をしていませんでした」
と申し上げられると、(秀吉は)
「どうして左様のことを隠していたのか。めでたいことで言い分などない」
と仰せられた。

また(秀吉は)ついに北政所様(ねね)にも
「子のなき者はつる葉をも捜し求め養子にするが、幾人御子にしても満足することはないものなので
 (秀次の子について)不満はない」
と仰せられ、北政所様より(秀次の)内儀、大上様(日秀尼)、小少将*に(そのことの)仰せがあった。


――『駒井日記』

* 同一人物かは不明だが、秀次事件で同名の人物が秀次の妻妾として連座している。


茶々から秀次への手紙

2019年01月19日 18:16

淀殿   
667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 23:37:12.99 ID:oWMg4/ko
茶々から秀次への手紙


文禄二年閏九月六日に、関白・豊臣秀次は太閤・秀吉の有馬湯治の見舞いへと赴いた。
見舞いに行くことを北政所と茶々へそれぞれ手紙で伝え、自身も湯治をした。(『駒井日記』)
以下は十月八日に来た茶々からの返信。


(有馬の)御湯が丁度良く、すぐ清須まで戻ってこられるとの懇ろな手紙をありがたく喜ばしく思います。
太閤も一段とご機嫌がよく、この程は聚楽に御成されました。
姫君(秀次娘)も御息災でいられるそうです。そのまま御上洛をお待ちしています。
御文はよくよくありがたく思い、何と言ってもめでたいことですから重ね重ねお願い申し上げます。かしく。

人々御中 
まいる    申給へ

――『福田寺文書』

返信前の十月一日には秀吉により御拾(秀頼)と秀次娘の縁談が取り決められており、それを受けての手紙と思われる。
このとき許嫁となったとされる八百姫は病気がちで、秀次正室の若政所が祈祷依頼を出している。(『兼見卿記』)
秀次自害の連座で亡くなった子女に八百姫がいないこと、没日が違うことなどから自害前に亡くなったとされる。


黒田如水入道は茶の湯を嫌っていた

2018年11月29日 21:03

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 19:23:41.98 ID:k9WRVOTA
黒田如水入道は茶の湯を嫌っていた。「武士の道に非ず。なんぞや刀小脇差まで外に捨て置き、
丸腰にて其の会あらんこと、沙汰の限りである。」と言っていた。

ある時、豊臣秀吉が如水を招き、数寄屋にて茶の会があった。如水としても君命辞し難く、その命に
応じた。ここで秀吉は、如水一人を客として、数寄屋にて密事を談じた。これは関白秀次生害の事であったと言われる。
他者が知ること無く、詳細に話し合いをし、終わって退出した。如水はこの時大いに茶の会に大利あることを感じ、
以後数寄の道を趣味としたという。

(士談)



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 23:07:36.70 ID:n4LZlX5q
随分晩年の話だな
それまでに茶の湯に付き合わなきゃならない事なんて山とありそうだが

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 09:44:07.54 ID:smPpcYRC
これが

黒田官兵衛と茶の湯

の出典か

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 09:47:31.06 ID:smPpcYRC
名将言行録出典だと話はおもしろいけど名将言行録だから…となるけど
山鹿素行先生はどうなんだろ

「伴内が困っておる」

2018年09月30日 19:43

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 21:46:23.02 ID:SujEa8Yj
伴内と言う者、世に類ない咄の名人にて、豊臣秀次公の御前を離れず、世の中の事を興あるように
取り繕い咄をつかまつる程に、一段と御意良くして、常に秀次公の御前に詰めた。

彼の咄の内、十の内半分は観世又次郎(観世方小鼓打ち)がどれほどうつけた事を言ったか、という
物であったため、秀次公は「それほどうつけ者なのか」と思し召した。

ある時、秀次は観世又次郎を召した。彼は御前に参って謹んで罷りあり、またいつもと同じ様に
伴内も伺候した。秀次公は仰せに成った

「いかに観世、どうして汝は萬に疎く心がうつけているのか?普段伴内の話す内容を聞くと、
大方汝のうつけ話ばかりなのだ。又次郎いかに?」

観世承り「そうですな、伴内と言う者は身体無芸なる奴でありますから、私のような天下道具の名人の
事を申さないと、喋ることが無くなってしまいます。ですので仕方がないと、私は彼をかまい申しません。」

秀次公はこれを聞くと「非常に面白い。伴内返答は如何に!?」と仰せに成ったが、伴内は当惑して赤面し、
何も言えなかった。そこで秀次公は観世又次郎を大なる利発者と感じ、「伴内が困っておる」と、大いに
笑った。これ以降、伴内は観世又次郎の事を語らなくなった。

(義殘後覺)


坂井久蔵の頸

2018年01月28日 16:47

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 10:55:41.38 ID:tXZo+VwF
坂井久蔵(尚恒・織田信長の家臣で高名な勇士)が姉川の合戦で討ち死にした時、彼の頸を
取ったのは、今井角右衛門生瀬半兵衛右衛門の二人だとされていた。

両名ともに、後に豊臣秀次に仕えたのだが、秀次はある時このように奉行たちに命じた
「一人の首を二人で取るというのは不可能である。一人は虚説なのであろう。お前たちはこれを取り調べよ。」

そして詮議の結果、今井角右衛門こそが虚説を語っていたと結論され、刀を没収の上
鷹小屋に押し込められた。さらに侍への見せしめとして、切腹か斬首かと議論されていた
所に、今井が申し上げた

「常のことと違い、武士が他人の骨を盗んで罪科に逢うと言う事は、子孫において屍の上の
恥辱であり、何事がこれに過ぎるでしょうか。
全く命を惜しむということではありませんし、このような証人にするのは気の毒だとも思いますが、
願わくば浅見藤右衛門を召し出され、彼の申す所をお聞き召した上で、御成敗を仰せ付けられるように。」

この浅見は、今井と交流がなく、普段会話をしたこともなかった。
浅見はこの頃安土に居たが、秀次は「彼を召して、いよいよ正しく改め、武義の虚説を
言うものを成敗仕るように。」と命じた。

浅見は安土より呼ばれた。
彼は元々、生瀬とは無二の親友であったため、人々は
「沙汰にも及ばない。今井の非分ということに決まっている。今井は何を血迷って
浅見を証人に呼んだのか。」
専ら、そう取り沙汰した。その夜は浅見の友人たちが集まり、酒宴など行われた。

そして翌日、聚楽の大広間に諸侍集まり、この詮議を聞くべしとそれぞれ固唾をのんだ。
奉行が出仕して浅見を召し出し、篠部淡路守を通して坂井の件を尋ねが、この時奉行たちは

「定めて別の申し様も無いであろうし、今まで言われていた通りであろう。浅見の申し分一通りで
今井の罪科に決まるのだから、速やかにその旨を申し上げるように。」

そう、彼に促した。しかし浅見
「今井は、ここ三十年私と交流のない人物です。対して生瀬は日頃から別して親交のある友人です。
お尋ねのように、有り様に申し上げては、天下に私の外聞を失うことに成ります。これまで
長生きをしてこのようなお尋ねに逢い申す事、迷惑ここに極まるものです。
願わくば他の者を召し出し、よくよくご穿鑿を加えられますように。」

奉行衆はこれを聞くと
「今井と交流のない浅見であるから、今井の非分を申し上げにくいというのは仕方がないだろう。
しかしはるばると安土より呼び寄せ、秀次公も其方の証言を証拠に致すと仰っているのだから、
申し上げるように。」

そう説得したが、浅見はそれでも辞退を押し通した。篠部は一応、この事を秀次に言上すると、
秀次は重ねて証言をするようにと命じた。これに浅見は

「このように進退が極まったことは今までありません。生瀬は多年の友人、今井は多年の不通。
何れに付いて何と申しても、人々の誹謗は逃れがたいでしょう。しかし武義についての御詮議の
事ですから、有り体に申し上げなくては本意無い事ですので、申し上げます。

坂井久蔵の頸は、間違いなく今井が討ち取りました。

比類なき手柄であり、この事は私に限らず、大勢がその場のことについて見聞きしております。
生瀬については多年の友人であり、この件については彼の身を捨てるような事になりますが、
坂井の頸の事について、全く存じよりもありません。これは何かと勘違いをして、あのように
申し上げたのではないでしょうか。」

座中、興を醒まし、言葉もなかった。
しかし「この上は今井別儀あるべからず」と、別途賞せられることとなった。
生瀬は罪科に及ぶべきであった所を、秀次が惜しんで処罰に及ばず、その後に病死したという。
(士談)



512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 12:02:12.10 ID:t0jRki3R
>>511
なんで何十年もたってから言い出すんだw

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 12:33:51.88 ID:oyeAe0TI
昔話を聞くのは若侍のつとめ

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 22:19:17.83 ID:+FUSGADB
ttps://dotup.org/uploda/dotup.org1450461.jpg
なおなぜかセンゴクでは坂井久蔵を山崎新平が討ち取って、
親友の仙石秀久がその仇を討つという展開だった模様
1450461.jpg

秀吉の甥としての覚悟

2018年01月11日 19:00

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 17:36:09.44 ID:cYyfG16o
秀吉の甥としての覚悟


一今日から秀吉の甥としての覚悟をするように。人に慮外の沙汰を下して
 甥としての振る舞いが出来ずとも、みな秀吉の甥と思って崇めようとするのだ
 という覚悟を持つこと。

一これ以後は秀吉がこのようなことはあってはならないと思ったり、不都合だと
 思うことがあっても、(秀次が)この一書を思い出し書き付けて心を改めて
 人にも立派な人と呼ばれるのなら、右のほかに進退のことを取り上げません。

一今年木下助左衛門、同勘解由を(秀次に)つけたところ、両人が討死したのは
 不憫なことでした。両人の者を殺してしまったことに対して(秀吉の)戸惑いを
 考えてくれてもよいのに、一柳市助に津田監物とやらを欲しいと申させましたが
 仮に秀吉がどの者を預けたとしても、今度預けた者も一人も残らず討死させ
 (秀次が)生き残ってしまえば、外聞が悪くなることも分からないのですか。
 申させた者はもちろん、取り次いだ者も無分別の大たわけと思い、市助めを
 手打にしたいとも思ったくらいですが、今まで腹の中に折り込んで遠慮を
 していたので言葉にはしませんでした。
 よくよく分別をして、諸事に嗜み、流石秀吉の甥と呼ばれるようになれば
 何よりの満足であるので、右の一書を心がけて下さい。

一覚悟を改めればどの国でも預けるつもりですが、只今の如く無分別のうつけ者では
 命を助けてやりたいと思っても、秀吉の甥の沙汰で、秀吉が面目を失うことは
 あってはならないのですから、手討にするしかありません。
 人を斬ることは秀吉は嫌いですが、その方を他国に移すのは恥の恥になる
 だけですから、人手には懸けられないことです。

一胸中は誰にもいわなかったのですが、秀吉の代理も出来るだろうと思っていた
 御次(秀勝、秀吉養子、実信長四男)が病身なので、天道が秀吉の名字を残さない
 ようにしているのだろうか、是非に及ばずと悟ったように振る舞っていましたが
 その方が器用に物を申し付け武者を致していると見えるようになり、このように
 覚悟を持たれるのなら、悔やみもありません。
 
右の五箇条の通り、これ以後分別をもって慎むことがなければ、八幡大菩薩に誓って
人手には懸けさせません。委細は善浄房(宮部継潤)、蜂須賀彦右衛門尉(正勝)の
両人にも申し含めておきました。せがれでもあるので、その心得を持つように、以上

(天正十二年)九月廿三日                秀吉(花押)


――『松雲公採集遺編類纂』


天正20年5月18日付 豊臣秀吉、秀次宛書状

2017年11月22日 16:44

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/22(水) 12:37:42.57 ID:j6nRfafp
豊臣秀吉豊臣秀次宛書状

一、殿下(秀次)は陣の用意を油断なく行ってください。来年2月には進発するように。
一、高麗の都は二日に落ちました。この上はいよいよ渡海する時は、大明国まで残らず
  征服するよう仰せ付けましたので、大唐の関白職と成るべくお渡りになるでしょう。
一、人数は3万を召し連れ、兵庫より船で来るように。馬などは陸地でさし寄越して下さい。
一、三国の中に敵対するものはこれ無しと雖も、外聞というものが有ります。武具の嗜みには
  十分気を付けて下さい。下々にまで申し聞かせるように。
一、召し連れていく者のうち、人持ちには3万石、馬廻りへは2万石を貸し遣わすように。
  金子も似合い似合いに貸し遣わすように。
一、京都の御城米は留め置いて下さい。八木に手を付けさせてはなりません。
  その他の30万石は先にこちらに輸送しました。八木を陣用意に召し遣わし、
  不足のあった場合は太閤御蔵米が入り次第召されるように。
一、のし(金を延べ貼り付けたもの)付きの刀脇差を千腰用意して下さい。あまり大きすぎては
  指す者遠路の迷惑となるでしょうから、刀は七両、脇差は三両あまりにて申し付けて下さい。
一、のし付きの薙刀30、のし付きの鑓20本、このほかは無用です。
一、長柄槍は柄を金にするように。毛のない鞘は無用です。大阪に樫柄のものを置いてあるので、
  所用の時はこれを召し寄せて下さい。
一、金子について、私の方に今ある分は払底してしまったので、聚楽に有る銀子一万枚を
  大阪に遣わし、大阪の金子千枚をこちらに召し寄せて下さい。ただし五百枚所用の時は、
  銀子五千枚を代わりに遣わして下さい。如何程であっても、10分の1で交換して下さい。
一、具足は5、6丁を持ってくるように。それ以上は無用です。
一、馬たちは現在高麗に半分は曳いていきました。その他は名護屋に鞍道具ともに残し置いて
  ありますので、そちらがあまた曳いてくるのは無用です。広島にも10匹置いてありますので、
  彼の地にて引き換えて下さい。よくよく飼い置く旨、西尾(光教)に仰せ遣わしておくように。
一、名護屋にも高麗にも兵糧はふんだんに有るので、用意には及びません。こちらに向かう道での
  覚悟のみを仕って下さい。
一、小者若党以下、下々までも召し置いて下さい。この方で小者などを雇い入れようとしても、
  にわかには出来ません。前々から用意しておくことが肝心です。
一、丹波中納言(羽柴秀俊)にこちらに来るよう、準備を命じ、きっと同道するようにして下さい。
  8月前には命じるように。尺米等の事については山口の方へ仰せ遣わすように。
  8月前に召し寄せ、高麗か名護屋での留守を仰せ付けます。
一、高麗のための留守居として、宮部中務卿法印(継潤)を召し寄せて下さい。用意を命じ
  従う旨を仰せ遣わして下さい。
一、大唐の都へ叡慮(天皇)をお移し申すつもりですので、その御用意をしてください。
  明後年には行幸が成されるでしょう。その場合、都の周辺10国を進上するでしょう。
  その内において諸公家衆何れも知行が仰せ付けられます。官位の低い衆の知行は
  10倍にし、官位の高い衆は仁礼によるべき事。
一、大唐の関白は先に言ったように、秀次に仰せ付けられる。その上で、都の周辺100国を
  与える。日本の関白は大和中納言(羽柴秀保)、備前宰相(宇喜多秀家)のうち、覚悟次第で
  仰せ付ける。
一、日本の帝位は若宮八条殿(皇弟知仁親王)に、何れにせよ決まるでしょう。
一、高麗については岐阜宰相(羽柴秀勝)か、そうでなければ備前宰相を置きます。
  丹波中納言は九州に置きます。
一、震旦国(中国)への叡慮(天皇)の行路は、例式や行幸の儀式があるので、御泊々、
  今回あなたが出陣する道路の御座所が然るべきでしょう。人足伝馬は、その国の範囲で
  申し付けるように。
一、高麗国はもちろん大明の征服も、手間はいらぬと人々に仰せ付けて下さい。上下の迷惑は
  少しもなく、下々が逃げ走る必要もありません。諸国へ遣わした奉行たちを召し帰し、
  陣の用意を申し付けて下さい。
一、平安城(京都)並びに聚楽の留守居については、追って命じます。
一、民部卿法印(前田玄以)、小出播磨守(秀政)、石川伊賀守(貞政)以下、用意を命じ、
  お考え次第に参陣致す旨、申し聞かせるように。
右の条々、西尾豊後守(光教)に申し含めました。その意を得て下さい。

  天正二十
    五月十八日
                      秀吉(朱印)
(前田家所蔵文書)



333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/22(水) 14:18:56.93 ID:0KuVb4Tj
断られたやつか

秀次の趣向

2017年10月20日 16:31

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/19(木) 22:36:35.75 ID:5AVF+jbi
関白豊臣秀次が、筑紫において藤原定家の書いた小倉の色紙を手に入れた。
これにより座敷を改め、色紙開きの会を開いた。
千利休を上客として、相伴3人という会であった。

頃は卯月(4月)の二十日あまり。明け方の事であった。
人々、座敷に入ったが。そこには明かりも無く、闇の中に釜の沸く音だけが聞こえ、
いかにも静かな様子であった。

「これは一体どんな御作意であろうか」

その場の人々がそう思っていたその時、利休の後ろの明かり障子が、ほのぼのと明るくなった。
不思議に思い障子を開けると、月の明かりが座敷の内にほのかに入ってきた。
さればとにじり寄って見ると、小倉の色紙がかけ物として飾られていた。その歌は

『時鳥 啼きつる方をながむれば
  ただ有明の月ぞ残れる』

誠におもしろき趣向にて、その時利休をはじめとした人々も、「さても名誉不思議のご趣向かな」と、
同音に感じ入ったという。

(今古雅談)



鷺を持たせて

2017年09月07日 21:57

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/07(木) 21:30:49.08 ID:LuuX7Y+o
関白秀次の供をして、大島雲八が伏見から大阪へと向かう時、6月のことであったので、生きた鷺を籠に入れて
持たせていた。

案の定、秀次が船の中で、雲八に「鷺を射て参れ」と命じた。
もし射外せば如何かと思ったものの、持ってきた鷺があったので、心やすく射たという。
たとえ射外しても、これを「射たものです」と差し出せば良い、ということであろう。

この大島雲八は名誉の射芸との名を得ており、それゆえにこのような嗜みがあったそうだ。

ただし、心得が悪しければ主人を偽るものとなるのだから、こういうことはよくよく心得を持った上で
行うべきであろう。

(士談)


石川五右衛門偽上使の伝説

2017年07月19日 22:01

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 05:54:26.93 ID:cQO9i7mY
岩村城には石川五右衛門偽上使の伝説がある。豊臣の天下の時、岩村城主
の田村中務大輔(直昌)には嫡庶の二子があった。

やがて中務大輔が病にかかって瀕死の状態となった時、この二子を中心に
御家騒動が起こった。しかし庶子である次男は、実は佞奸な家老の

倉元甚五右衛門の姦通の子で、倉元は庶子に家督を継がせて主家の横領を
企てたのである。これを推知した中務大輔は腹心の小姓・金森林念に、

家督相続の遺言状を託して間もなく世を去った。忠臣の金森は思案の上で
騒動の顛末を関白・豊臣秀次に注進したので、秀次は使者・福原団七郎を
岩村城に乗り込ませて一切を解決させることにした。

これを探り知った石川五右衛門は、「良き機会ぞ」と、すぐに団七郎の家臣を
手に入れ、途中<十三峠辺りであろう。また岩村城下玄吾坂下ともいう>で
待ち伏せて団七郎を殺し、自分はすっかり使者に化け込んで、

行列厳しく岩村へ到着した。偽使者をすぐに訪れたのは奸物・倉元だった。
彼が多分の金子を賄賂にして帰ると、まもなく小姓・金森は密かに訪れて、

倉元の悪計の一部始終を訴えた。さてその翌日、五右衛門はいよいよ城入を
なし、倉元を利用して散々腹を肥やしてから、

彼の悪事数々を満座の中で弁じ立てた。その後、家督は無事に長男へ譲られ、
倉元は死刑にされて騒動は落着したという。これは五右衛門一代を通じての
大義賊伝として講談などにも読み込まれている。

――『恵那郡史』



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 06:48:10.45 ID:pTcGI5g6
>>100
この岩村城ってのは美濃の岩村城でいいのかな?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 07:11:21.70 ID:aF6T985F
福原さんかわいそう

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 07:13:57.71 ID:SMPelxR4
義賊()

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 09:25:43.91 ID:PTyFtPRC
美濃岩村なら関ヶ原で改易された田丸中務大輔直昌のことなのかな

於萬様は宮部に養育されていた

2017年07月06日 18:40

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/06(木) 11:00:20.83 ID:shzTRTJ6
 秀吉公の於萬(秀次)様は秀吉公の鳥取陣に供をして当国に来ていて、宮部継潤に養子として預けていた。
宮部の陣所辺山森という要害には、役者も数多く居た。落城後は秀吉公播州へ帰陣して、
於萬様は当城に留まり宮部に養育されていた。
天正十年の春には秀吉公は何を思ったか播州に送り返せと命じられ、
継潤に家老として友田左近右衛門か田中久兵衛(吉政)二人のうち一人を付けろと併せて命じられたので、
田中久兵衛を付けた。
この二人宮部家中では才覚武勇優劣付かない侍で、秀吉公も内々召し抱えたいと考えていて、
特に友田を望んだのだが、継潤が惜しんで出さないと考え両人のうち何れかという形にされた。
案の定友田惜しみ、田中の方を差し出してきた。
後於萬様は播州に帰り、秀吉公は近くに置いて大変可愛がり、次第に成長して元服した。
(因幡民談記)


そのときは拙者とて

2017年06月16日 17:55

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 23:50:57.07 ID:dWS33giL
天正十九年十二月二十八日、近江中納言秀次公は関白に任ぜられた。
その礼として家康公から井伊兵部大輔直政を遣わされた。
そのとき秀次公は囲碁をされていて、直政を呼んで物語をされた。

「昔、私が三好孫七郎といったときは直政も無官で万千代と申していたな。
会合して碁を打ったが、その時は直政は碁が強くて私は弱かったものよ。」

その碁の話に事寄せて、尾張長久手の合戦に直政に打ち負けた事を思い出して、
それとなく

「今、私と直政とでは昔とは手合わせは違ってくるだろう。
私も忝くも関白に任ぜられたのだ。勝負も大いに変わるはずだ。」

と笑いながら御申されると、直政は

「そのときは拙者とて無位無官の万千代。
只今は四位の侍従に叙任されています。
手合わせもそれほど昔と変わらないでしょう。」

と恐れることも無く答えた。
時に取って意地の有る申し分といえる。


『武士としては』


「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」

2017年03月16日 21:16

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 00:57:14.93 ID:ESpxuFY9
 天正の末のことである。
関白秀次の家臣の人々が新しい諸大夫になった時、
その若造どもは聚楽の番所のわきに集って居た。

「我が主殿は、今度”かみ”になられたか。
社参してくる衆も『めでたくございます』と樽酒を持って参る。
が、まだ賽銭などは見えませんな。」
「何の”かみ”におなりになられたのか?」
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」
「それは少し生臭いかみじゃ。しかしながら、これは御意であろうのでどうしようもない。
うちの主殿も昔から、”なまこの寿千寺”といってきている。」

 評して云う。
万民を憂う心は弱く利を思う心が強い人を宰相の職に挙用したら、
雀部淡路守をあはびのかみ、尼子寿千寺をなまこと聞き違える害がでたのだろう。
善悪が生じる原因は、智に明るいかどうかではないだろうか。

(戯言養気集)



672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 10:10:26.13 ID:9pvTh3BL
落語の「松竹梅」を思い出した
長屋の松さん、竹さん、梅さんが名前が縁起がいいってので若旦那の婚礼の座興をすることになったが
松「なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿殿じゃになったあ」
竹「なんのじゃになられた?」
梅「長者になられた」
というところを梅さんが間違って
「大蛇になられた」「風邪になられた」
最終的には「亡者になられた」
と言ってしまい、あわてて逃げ帰るという

奈良かしや この天下殿二重取り

2017年02月24日 17:27

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/24(金) 00:20:47.23 ID:rjLhinUl
秀吉公の御時、「ならかし」と言う事があった。金を貸し出した金融業者は、元金を失った上に、
なお放埒な営業の罪が軽くないとして、罰金として再び黄金を提出させられた。
そこでこのような落首が出た

 奈良かしや この天下殿二重取り とにもかくにもねだれ人かな
 (奈良貸しで秀吉公は黄金を二重取りされた。なんという狡猾な人であろうか)

  ※ねだれ人:色々な計略、策を用いて人に損害を与えようと他人を欺く人、狡猾な人【日葡辞書】
(醒睡笑)

この「ならかし」、はじまりはこういうものであった

『奈良中へは大納言殿(豊臣秀長)より金子一枚を代米四石ずつにして、一万石ばかり町々へ借用。
押してかくのごとし、金は来年の春に取るべきよしなり』
(奈良において豊臣秀長は金子一枚を代米四石とした上で、米一万石を奈良の町々に貸し付けた。
その利息を来年春に「金」で支払うようにとした。」
(多聞院日記天正十七年十月五日条)

つまり秀長が、奈良の金融業者を通じて人々に米を貸し付け、その利息を金で受け取っていた、
という事である。
しかしその結果、天正二〇年九月二日付「奈良惣中」より秀吉側近、木下半助(吉隆)、
山中橘内(長俊)にあてた直訴状の第四条によると

『一、大光院様(豊臣秀長)は御金五百枚あまりに利息をつけて奈良に御貸しなされました。
しかし、毎月利子を銀子にて、奈良奉行の井上源五殿は過分に徴収されました。
しかも井上源五殿は私的な金二百枚あまりも、これも大光院様の御金であるとして、奈良中に
貸し付けられ、ここからも過分の利息を取られました。』
(庁中漫録)

奈良においてはこの借金のため、殺人事件や一家心中が起こるなど、社会問題化していたという。
そしてこの直訴の結果は

『直訴のさまは、ことごとく地下人の勝ち』
(多聞院日記天正二〇年九月八日条)

となり、これにかかわる奈良の金商人(金融業者)が尽く牢に入れられた。
しかし訴訟した者達も一時的に牢に入れられ、また奈良奉行の井上源五には何の処分もなかった。

ところでこの「ならかし」で、何のために資金が集められたのか。
天正二〇年十月十日、豊臣秀吉より、豊臣秀次宛の朱印状にこうある

『一,今度奈良借について出だしそうろう金銀、これらをも右の船(安宅船)の用に入ること
そうらわば、あい渡すべきこと』
(今度の奈良借しで得られた金銀について、安宅船の建造に必要であればそちらに流用するように)

「ならかし」で集めた金銀を、秀吉の「唐入り」のための、軍船建造費に使うように、との内容である。
ここで「ならかし」が、秀吉の政権による施策であったことが判明するのである。
金融業者たちを牢に入れたのは、責任を彼らに転嫁するためであったのだろう。

以上、醒睡笑の「ならかし」の逸話と、それについて、河内将芳 著「落日の豊臣政権」のより、解説を抜粋。


秀次妻子の処刑

2017年01月14日 15:43

513 名前:1/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:19:11.80 ID:rE+exn0h
文禄4年(1595)7月15日、豊臣秀次が切腹。
そして8月2日、秀次の若君、上臈、婦人たちを誅すべきとの上使が立ち、いやが上にも悲しみは増した。
検使には石田治部少輔、増田右衛門尉をはじめ、橋より西の片原に、布皮敷いて並び居た。
彼らは若君達を車に乗せ、上臈達を警護して、上京を引き下り、一条二条を引き下り、三条の河原へと懸った。

橋のあたりまで着くと、検使たちが車の前後に立ち「先ず若君達を害し奉れ」と下知した。
青侍・雑兵共が走り寄り、玉のような若君達を車から抱き下ろし、変わり果てた父秀次の首を見せた。

仙千代丸は冷静にこれを見て、「こは何と成らせられるや」と呟き、嗚呼と嘆いた。
その姿に母上たちだけでなく、見物の貴賎男女、警護の武士に至るまで前後を忘れともに涙に咽んだ。
しかし太刀取りの武士は「心弱くては叶うまじ」と目を塞ぎ、心を太刀だけに集中して仙千代丸達を害した。
この時彼らの母上たちは、人目も恥ずかしさも忘れ声を上げた

「どうして私を先に殺さないのか!急ぎ我を殺せ!我を害せよ!」
(こは何とて、我をば先に害せぬぞ。急ぎ我を殺せ我を害せよ)

そう、仙千代丸の死骸に抱きついて伏し嘆いた。
それより夫以下の目録に合わせ、順に座らせた。
一番に上臈、一の台の御局、前大納言殿の息女にて、三十路余りであった。これを今わのすさみとて
『存へて ありつる程を浮世ぞと 思へば残る言の葉もなし』

二番は小上臈、於妻御前であった。三位中将殿の息女にて、16歳になられていた。紫に柳色の薄絹の重ねに
白袴を引き、練貫の一重絹うちかけ、緑の髪を半切り、肩の周りにゆらゆらと振り下げて、秀次の首に三度拝し、
こう詠んだ
 『槿の日 影まつ間の花に置く 露より脆き身をば惜まじ』

三番は、姫君の母上、中納言の局於亀の前であった。摂津小浜の寺の御坊の娘で、歳は33。栄に少し
過ぎていたが、西に向かい「南無極楽世界の教主弥陀仏」と観念し
 『頼みつる 弥陀の教の違わずば 導きたまへ愚かなる身を』

四番には仙千代丸の母上、於和子の前であった。尾張日比野下野守が娘にて、18歳になられていた。
練絹に経帷子を重ね、白綾の袴を着て水晶の数珠を持ち、若君の死骸を抱きつつ、泣きながら大雲院の上人に
十念を授かり、心静かに回向して、こう詠じた
 『後の世を 掛けし縁の栄えなく 跡慕ひ行く死出の山路』

五番には百丸の母上であった。尾張国の住人山口将監の娘。19歳になられていた。
白装束に墨染の衣を掛け、若君の死骸を抱きつつ、紅の房の付いた数珠を持って、これも大雲院の十念を受け心静かに回向して
 『夫や子に 誘はれて行く道なれば 何をか跡に思残さん』

六番には土丸の母上、於ちゃの前であった。美濃国竹中与右衛門が娘にして、18歳。
白装束に墨染めの衣着て、物毎に軽々しい出で立ちであった。かねてから禅の知識に参学し、飛華落葉を観じ、
世理無常を悟って、少しも騒ぐ気色無く、本来無一物の心と
 『現とは 更に思わぬ世の中を 一夜の夢や今覚めぬらん』

七番には十丸の母上於佐子の前であった。北野の松梅院の娘で、19歳になられていた。
白綾に練絹の単衣の重に、白袴を引き、戻の衣を掛け、左には経を持ち右には数珠。西に向かって法華普門品を
心静かに読んで、秀次、若君、そして我が身の菩提を回向して
 『一筋に 大慈大慈の影たのむ こころの月のいかでか曇らん』

八番には於万の方であった。近江国の住人多羅尾彦七が娘。23になられていた。練絹に白袴引き、
紫に秋の花が刺繍された小袖をかけておられた。その頃病中であったので、見た目にもいと悲しく、
心も消え入るように思えた。これも大雲院の十念を受け掌を合わせ
 『何處とも 知らぬ闇路に迷ふ身を 導き給へ南無阿弥陀佛』

九番には、於与免の前であった。尾張国の住人堀田次郎右衛門が娘で、これも白装束に数珠と扇子を持ち添え、
西に向かい十念して
 『説置ける 法の教の路なれば 弧り行くとも迷ふべきかは』

十番に、於阿子の前であった。容姿よりも尚勝る心にて、情け深く聞こえた。毎日法華読誦怠らず、最後にもこの心であった
 『妙なれや 法の蓮の花の縁に 引かれ行く身は頼もしき哉』

514 名前:2/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:20:23.81 ID:rE+exn0h
十一番には於伊満の前であった。出羽最上殿の息女であり、十五歳になられた。東国第一の美人であると
伝え聞かれ、秀次より様々に仰せになり、去る7月上旬に上洛したが、旅の疲れにて未だ見参のない内に、
この難儀が勃発し、淀の方より「いかにもして申し請け参らん」と心を砕かれたため、太閤秀吉も黙し難く、
「命を助け鎌倉に遣わし尼にせよ」と言った。これにより伏見から大至急早馬が出たが、あと一町という所で
処刑された。哀れと言うにも余りある、最後の際、やさしくも
 『つみを切る 弥陀の剣に掛かる身の 何か五つの障あるべき』

十二番には阿世智の前であった。上京の住人秋葉の娘であり、30あまり、月の前、花の宴、事に触れて
歌の名人であったとか。最後の時も先を争ったが、目録どおりとのことで仕方なく、辞世に
 『迷途にして君や待つらん 現とも夢とも分かず面影に立つ
  彌陀たのむ 心の月を知べにて 行けば何地に迷あるべき』

十三番には小少将の前であった。備前国本郷主膳が娘にて、24歳になられた。彼女こそ関白の御装束を
賜った人である。
 『存へば 猶もうき目を三瀬川 渡るを急げ君や待つらん』

十四番には左衛門の後殿であった。岡本某の後室で、38歳であったという。琵琶、琴の名人で、歌の師匠も
されていた。是ぞ今わの気色にて
 『暫くの 浮世の夢の覚め果てて 是ぞまことの仏なりけり』

十五番には右衛門の後殿であった。村瀬何某の妻であったとか。村井善右衛門の娘にて、35歳になられていた。
21歳で父の村瀬と生き別れ、今また重きが上のさよ衣、重ね重ねの憂いの涙。よその袖さえ乾く間もない
 『火の家に 何か心の留まるべき すずしき道にいざやいそがん』

十六番は妙心老尼であった、同坊の普心の妻であったが、夫に先立たれた時も自害しようとしたのを
無理に止めて、尼と成られたのである、最後の供を悦んで
 『先達ちし 人をしるべじ行く路の 迷を照らせ山の端のつき』

十七番は於宮の前であった、これは一の台の娘であり、父は尾張の何某にて13になられた。
母子を寵愛されたこと、ただ畜生の有様であると、太閤は深く嫉み思われたとか、最後の体、おとなしやかに念仏して
『秋といへば まだ色ならぬ裏葉迄 誘ひ行くらん死出の山路』

十八番には於菊の前であった。摂津国伊丹兵庫の娘で、14歳になられていた。大雲院の上人に十念授かり、
心静かに取り直り
 『秋風に 促はれて散る露よりも 脆きいのちを惜しみやはせじ』

十九番には於喝食の前であった、尾張国の住人、坪内右衛門の娘で、15歳であったとか、武士の心で
男子の姿をし、器量類なかったため、稚児の名を付けられた、萌黄に練絹の単衣衣の重ねに白袴を引き、
秀次の首を拝して残る人に向い「急がれよ。三瀬川に待ち連れて参りましょう。」と語りかけ、検使にも
暇乞いをして、西に向かって声高に、こう2,3回吟じた
 『闇路をも 迷わで行かん死出の山 清る心の月をしるべに』

二十番には於松の前であった。右衛門の後殿の娘にて、12歳であったとか。未だ幼く、唐紅に秋の花を
刺繍した薄衣に、練絹をかけ、袴の裾を握りながら、母親の死骸を拝しつつ
 『残るとも 存へ果てん浮世かは 終には越ゆる死出の山路』

二十一番には於佐伊の前であった。別所豊後守の身内の客人、という者の娘で、15の夏の頃初めて見参し、
新枕のあと絶えて召されず、拙き身を恨んでいたが。ある酒宴の折に「君やこじ我や行きなん」と謡ったことで
他に勝って寵愛されるようになった。しかしその後何があったか、事情があり久しく出仕しなかったが、
最後の御後を慕い参られた事こそやさしくも哀れである、法華経を読誦してこれだけを言った
 『末のつゆ 本の雫や消え返り 同じ流れの波のうたかた』

二十二番には於古保の前であった。近江国の住人鯰江権之介が娘にてこれも15の春の頃より寵愛深く、
閨の袖の香浅からず成り染めて、花月の戯れに、後の事は思いもよらなかったであろう。
そしてこの期は大雲院の十念を受け回向して
 『悟れるも 迷いある身も隔てなき 弥陀の教を深くたのまん』

二十三番には於仮名の前であった。越前国より木村常陸守が呼んだ上臈とか。17歳であった。
非常に賢く、浮世を泡のように観念して
 『夢とのみ 思ふが内に幻の 身は消えて行く哀れ世の中』

515 名前:3/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:21:29.42 ID:rE+exn0h
二十四番には於竹の前であった。一条あたりで、ある方の拾った娘であったという。類なき美人にて
昔の如意の妃もこうであったと思われた。仏元来今無く、心又去来の相なしと悟り
 『来りつる方もなければ 行末も死らぬ心の仏とぞなる』

二十五番には於愛の前であった。古川主膳の娘で、23であったとか。法華転読の信者で、草木成仏の心を
 『草も木も 皆仏ぞと聞く時は 愚かなる身も頼もしきかな』

二十六番には於藤の前であった。大原三河守の娘で、京の生まれ。21歳になられていた。
槿花一日の栄、夢幻泡影と観じて、大雲院の十念を受け
 『尋ね行く 仏の御名をしるべなる 路の迷の晴れ渡る空』

二十七番には於牧の前であった、斎藤平兵衛の娘で16歳だとか。これも十念を受け西に向かい手を合わせ
 『急げ唯 御法の船の出でぬ間に 乗遅れなば誰を頼まん』

二十八番には於國の前であった、尾張国大島新左衛門の娘で、22になっていた。肌には白帷子に山吹色の
薄衣の重ねに、練絹に阿字の大梵が書かれているのを掛けて、秀次、若君たちの死骸を拝し、秀次の
首に向かって直られるのを、太刀取が「西に向かれよ」と言うと、「本来東西無し。急ぎ討て」と答え、
そのままに討たれた
 『名計を 暫し此の世に残しつつ 身は帰り行く本の雲水』

二十九番には於杉の前であった。19歳。前年より労気を患い、秀次とも疎遠になっていたため、浮世を恨み、
どうにかして出家したいと願っていたが、叶わずこのような最期を遂げた
 『捨てられし 身にも縁や残るらん 跡慕ひ行く死出の山越』

三十番には於紋といって、御末の人。心静かに回向して
 『一聲に こころの月の雲晴るる 仏の御名を唱へてぞ行く』

三十一番は東といって61歳。中居御末の女房が預かる人であった。夫は75歳で、この3日前に相国寺にて
自害した。

三十二番に於三。末の女房であったとか。

三十三番は津保見。三十四番は於知母であった。

この三十余人の女臈たちをはじめ、午の刻(午前11時頃)から申の刻の終(午後5時頃)までに
朝露となられたのは、彼女たちのことを知る人も知らぬ人も、見る人聞く人ごとに、肝も裂け魂消えて、
涙に暮れぬものはなかった。
秀吉は殊更に、死骸を親類にも返さず、巨大な穴を掘らせて、旃多羅が手にかけてその手足を取って
投げ入れた。その有様、昔玻斯国の瑠璃太子が浄飯王宮を攻め破って、五百の宮女美人を穴埋めにしたという
哀れさも、これにはどうして勝るだろうか、
こうして最期に臨んで、歌を詠まれし風情、万年の後までも、聞くに涙に咽ぶであろう、

色を誅するのは、不義を後にして己の嫉を先にすると、世史に謗って記されているのもこのためである。聖智ある明将のやることではない。
太閤秀吉の強暴さは支那をも動かしたが、慈しみの心が嫉妬に勝つ事を得なかった。婦人や幼い子供を億万殺しても、一体何の益があるのか。
人々は誠に、「御代が短かるべき事ぞ」と申した。

(石田軍記)
秀次家族の処刑についての記述である。



516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 13:12:53.81 ID:QLhwJ8hg
まだ出てなかったんだ、秀次妻子の処刑の模様

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 15:56:12.34 ID:YLjoeKPp
妊娠してたら困るからってここまで殺さんでも…

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 16:48:44.45 ID:tVr6p7UI
手当たり次第に手を出して子を産ませるアホは死んで当然
秀長を見習うべきだったな

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 18:21:08.96 ID:z7jd4P8T
???「城中の女に見境なく手を出して100人以上作ったけど何か?」

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 19:52:46.06 ID:399BbC7j
はいはい、お薬出しておきますねー

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 20:49:57.21 ID:AHLvRmkW
>>514
於伊満の命乞いを淀がしてるのか