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浅井井頼の事

2022年04月30日 15:47

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/30(土) 12:12:18.84 ID:LMmnjRoW
或る記によると、浅井周防守(井頼)は淀殿の弟であり、大阪落城後、遁れて京極家に行き、剃髪して
作庵と称したという、

或る本では、豊臣秀次公の臣であった浅井周防守は、勇功の士であったが、秀次校に仕える少童たちの
目付けであった所、元来男色を好んでおり、ある少年を犯して通じた。
この事を秀次公が聞き召され、大いに怒り、浅井を殺すべしと命ぜられた。

これを聴いた周防守は、立ち去るべきと思ったが、
「我武勇の名を得て禄を食む。おめおめと退きては、命おしさに、などと人の誹りも口惜しい」
と、城に登り大声を上げて

「君、人をしてそれがしを殺し給うという。一体誰がその命を承れたか!?
急ぎ出て私を殺害されよ!」

と言い駆け回ったが。彼の勢いに恐れたのであろうか、敢えて手差しする者も無かったので、すぐに
立ち退いた。だが日本に在れば尋ね捜され、恥を見るのも心憂しと思い、朝鮮に渡って住んだ。
そして毎朝浜辺に出て、「日本大乱国家滅亡!」と叫びながら、薙刀を振り回したという。

秀次公御生害の後に帰国し、浪人していたが。去る年に籠城して、夏の陣の時に戦死したとも言う。

(新東鑑)



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「朝野雑載」より六角義郷の話

2022年03月08日 15:20

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/07(月) 20:13:21.67 ID:o+u3g8Om
朝野雑載」より六角義郷の話

義郷の父である六角義秀は近江国守護であったが暗愚の将であったため近江の大方は攻め取られ、家臣にも所領が奪われ、義郷が相続したのは十八万石に過ぎなかった。
しかも石田三成の讒言により義郷が死罪になりそうだったのを、秀吉公により名族ということで領地没収のみで許された。
さて三成が義郷を讒言した理由だが、義郷の家人、多良尾彦六入道道賀というものの娘、おまんというものが有名な美人で義郷の妾となっていたのを
三成がうらやみ、道賀に頼んでおまんを所望したのを、主君の妾だとして道賀が断った結果、義郷を殺して妾を奪い取ろうと思うにいたったということだ。
義郷浪人後、おまんのことを聞きつけた関白秀次公はさっそく聚楽第に呼び込んでしまった。
三成は大いにあきれ、この上はと秀次公も讒言した結果、おまんはほかの三十余人の秀次公の女房たちと共に首を刎ねられてしまったということだ。
このように三成が多良尾の娘を取ろうと、罪なき義郷、秀次、および両家一族、幕下の諸将やその家族まで幾千万人も死罪、追放、流刑にしたためその怨念が石田にかえってきて
その身はもちろん、一族縁者家人までことごとく断絶し、末世にいたるまで大悪無道の名を残した、なんとあさましいことだろうか。

六角義郷:六角氏の子孫を称した澤田源内の偽書「江源武鑑」に出てくる架空の人物
ただし「江源武鑑」では三成が義郷を讒言した理由について、家人同士が争って三成側に死者が出たからとしている

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/07(月) 20:25:17.89 ID:o+u3g8Om
ついでに多良尾道賀(多羅尾光俊)はたしかに娘のおまんを秀次に側室として送り込んでいるが
六角氏没落時点で六角を見限って信長についている
また「江源武鑑」では義郷が秀次に連座した理由として、義郷の部下である鯰江権佐の娘のおこほ、が秀次の側室になっていたからとしていて微妙に違う



願わくばこの旨を台聴に達し

2022年01月21日 17:03

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/21(金) 16:27:07.07 ID:i+8pRNNV
関白豊臣秀次が二十八歳の時、文禄四年七月十五日、高野山の青巌寺に於いて御切腹された。
これにより秀次の柄臣寵臣も所々にて自殺する中に、木村常陸介(重茲)は検使である松田勝右衛門に
向かって言った

「今度関白が聚楽を出て伏見に赴かれることに決まった時、私は秀次公に
『太閤(秀吉)に御対面さえあれば、至親の御仲ですから、讒間の事も明らかになるでしょう。
しかし対面もされず、中途に於いて僻地遠島に追放されるか、甲斐なく御身を白刃に割らせられるか、
必ずこの二つのどちらかになるでしょう。
ですので、太閤の使者を斬って棄て、諸大名の妻子で聚楽に在る者達を人質とし、罪が無いという事を
糺させ給えば、和となっても固く定まり、また戦となっても勇を遺します。であるのにどうして、
巣穴を離れて猟人の箭鏃にかかろうとなさるのですか!』

そう、二度にわたって諌め申し上げたが、秀次公は『私がどうして太閤に敵するだろうか』と、
終に御承引無かった。然れば、関白に於いて太閤に対する異心が全く無かった事を推測されるべし。
願わくばこの旨を台聴に達して頂ければ、その恩は泉下に至っても忘れない。」

このように言ったのを、松田は折を見て太閤に語った。太閤はその志を愍んで、妻子に米百石を
賜った。妻子たちは京都誓願寺の近所に居住していた。

志士清談



豊国大明神祭礼「風流踊り」の怪異

2021年12月15日 16:49

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/15(水) 16:18:55.11 ID:9XAdt7ZK
西垣源五左衛門浄観筆記」から豊国大明神祭礼「風流踊り」の怪異

慶長九年(1604年)八月十五日、京都全体総出で太閤秀吉の七回忌の豊国大明神臨時祭礼(八月十二日から八月十八日)のメインイベントである風流踊りが行われた。
踊りには上京、下京の町組から一組約百人の集団がくりだし、組を表す大団扇を掲げ、それぞれ贅を凝らした衣装で着飾り、
豊国神社の社頭で踊り狂った後、禁裏へとくり込んだ。また桟敷も町のあちこちに設けられた。
午の刻、群衆はいずくからともなく現れた風流踊りの一団を見て思わず粛然となった。
一団の女たちは辻ヶ花(桃山時代に流行し姿を消した絞り染め、幻の染めと呼ばれる)や縫い絞り小袖をまとい、男たちは上布でつくった小紋帷子を着ていたが
踊りには鳴り物がつかず、みな死人のように蒼ざめた顔をしていた。
かれらは群衆に見守られながら、豊国神社の大石垣の中に、静かに消えていった。
「人々消えしあと、群衆口々にあれは(秀次)関白御家の人と騒げり。
みな消えし大石のほとりに、女人被衣(かつぎ)とせし金襴落ちたり。
この被衣のちに洛中の名刹に蔵され、名物裂となれり。」


浄観筆記」について
時代小説家、澤田ふじ子氏の「染織草紙」によれば(この話も同書の孫引き)、
江戸中期の宝暦年間に近江小室藩、京都屋敷の用人を勤めた西垣源五左衛門(法名を浄観)による、京都の市井の話を書き留めたもので、
近江小室藩が藩祖・小堀遠州の遺風を受けてか風流な人物を輩出したためか、源五左衛門の記す内容も芸事に関することが多いのだとか。
なお資料としては未紹介であるらしく(少なくとも1984年時点では)、「浄観筆記」で検索してもほとんどが澤田ふじこ氏関連でしか出ず、どこに所蔵されてるかはわからなかった。



黒川道祐「雍州府志 土産の部」から将棋盤について

2021年12月12日 16:34

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 19:40:07.66 ID:rA3d6hct
黒川道祐雍州府志 土産の部」から将棋盤について

将棋盤
二条東あるいは京極に榧(かや)の木をもってこれを造る。馬(駒)もまたしかり。(中略)
その文字にいたりてはすなわち筆法に堪えるの人をえらびて馬の名を記す。
近世に用いる所の馬、多くは水無瀬家の筆跡あり。
はじめ水無瀬兼成卿(三条西実枝(実澄)の弟)、男子なし。
高倉藤大納言永家卿の子を養いて親具朝臣と号す。
時に兼成、実子を産み、成長ののち氏成と号す。
ここにおいて親具、家督を辞し剃髪し一斎と号す。
すこぶる能書の名あり。豊臣秀次公、一斎をして将棋の馬の名を書かしむ。
これ水無瀬家の馬の名を書すの始まりなり。
およそ将棋、小将棋、中将棋、大将棋、大大将棋、摩訶大将棋の品あり。
その事に堪える者は家領あり。なお碁取りと称するがごとし。
倭俗、将棋の戯をなすに「指す」という。指をもって馬を点ずるの謂なり。

今でも将棋の書体に「水無瀬」というものがあり、関西将棋会館には「水無瀬の間」という対局室がありますが、秀次が選ばなければ別の名前がついていたかも。
(水無瀬兼成が水無瀬家で駒に書いた初めという説もありますが)
関西将棋会館移転のニュースを見て思い出したので。



豊臣秀次の切腹

2021年09月06日 17:11

16 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/09/06(月) 14:57:33.61 ID:rIgZ8UGP
文禄四年、秀次事件の勃発により、秀吉の嫌疑を受けた豊臣秀次は高野山に登り、法体にならせ給い、道意居士と
申された。供奉の人々もみな髻を切って、偏に後世を祈り、上使を今や今やと待っている所に、
福島左衛門大夫(正則)、福原左馬助(長堯)、池田伊予守(秀雄)を大将として、都合一万余騎が、
七月十三日の申の刻に伏見を立ち、十四日の暮れ方に高野山へ到着した。

三人の上使は上人の庵室に参ったが、そのころ入道殿(秀次)は大師の御廟所に詣でようと奥の院に
居られ、木喰上人よりこの旨が伝えられると、すぐに下向され三人の上使と対面された。

左衛門大夫は畏まって、御姿がすっかり変わられたのを見て涙を流したが、これを入道殿はご覧になって
「いかに汝等は、この入道の討手に来たのだな。この法師一人を討つために、事々しく振る舞うものだ」
と仰せになると、池田左馬助畏まって「さん候。御介錯仕れとの上意に候。」と申した。
これを聞くと秀次は

「さては我が首をお前が討つつもりか。いかなる剣を持っているのか。入道も腹切れば、その首を
討たせるためにこのように太刀を持っているぞ。汝等に見せよう。」と言って、三尺五寸ある
金作りの御佩刀をするりと抜き、「これを見よ」と仰せになった。
これは池田左馬助が若輩でありながら推参を申すと思われ、重ねて物申せば討って捨てようとの
ご所存のように見えた。
秀次公の三人の小姓衆は、御気色を見奉り、『上使たちが少しでも動くようなら、中々秀次公の
御手を煩わせるようなことはしない』と、互いに目と目を見合わせて、刀の柄に手を掛けて控える
その形勢は、いかなる天魔・鬼神も退くように見えた。

入道殿は御佩刀を鞘に収め、「いかに汝等、入道がこの時に至るまで、命を惜しんでいると、
臆しているように思っているだろう。これまでの路において、如何にもなるべしと思ってはいたが、
上意を待たずに相果てれば、『やはり身に誤りがあったからこそ切腹したのだ』と、それに連座して
故なき者共が多く失われる事の不憫さに、このように長らえている。

しかし、今は最後の用意をしよう。私は故なき讒言によって相果てるのであるが、仕えている者共は
一人も罪ある者は居ない。この事を秀吉公の御前に宜しく申し上げ、この入道の供養として、命を助け
得させよ。面々、頼むぞ。」
と宣われたのは、有難き御心底であると一同感じ入った。

それより座を立たれ奥に入られたが、ここで木喰上人を始め一山の衆徒会合して、三人の上使に向かい
「当山七百余年以来、この山に登った人の命を取ったこと、更に無し。一旦この事を秀吉公に言上し、
御願い申し上げる。」と、大衆一同が申したが、上使の三人はこれを聞くと
「そういう事ではあるのだろうが、とても叶うまじき事である。」と再三断り、衆徒たちと問答となった。
衆徒の意見が止まらない中、福島正則が進み出て言った

「衆徒の評議、尤も殊勝であると私も思う。さりながらこれ以上時間がかかれば我々も秀吉公の御勘気を
蒙り、切腹しなければならなくなるだろう。そなたたちが是非にも言上すべきと思慮しているのであれば、
まずこのように申している私を、各々の手にかけて殺すべし。その後は心次第にせよ。」
そう、膝を立てて申し直された。

17 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/09/06(月) 14:58:17.28 ID:rIgZ8UGP
その夜はこの評議に時移った。翌日の巳の刻頃(午前十時頃)、入道殿は付き従っていた人々を
召されて、「汝等これまで来たる志、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、五人、三人が
最後の供をするのも前世の宿縁なのだろう。」と、御涙を浮かべられ、三人の小姓に対し
「どうしても若者であるから、最後の程も心許ない。その上私が腹を切ったと聞けば
雑兵共が入り乱れ、事騒がしく見苦しい状況になるだろう。」

そう言って、先ず山本主殿に國吉の脇差を下され、「これにて腹切れ」と仰せになると、主殿承り
「私は御後にこそと思っていましたが、御先へ参り、死出の山、三途にて
倶生神(が生まれた時から、その左右の肩の上にあってその人の善悪の所行を記録するという二神)に
路を清めさせましょう。」と、にっこりと笑い戯れた様子は、悠々とした態度に見えた。そして
かの脇差を推し頂き、西に向かって十念して、腹十文字に掻き切って、五臓をつまみだした所で、
秀次公が御手にかけて討たれた。この年で十九歳であった。

次に岡三十郎を召して、「汝もこれにて腹切れ」と、原藤四郎の九寸八分あるものを下された。
「承り候。」と、これも十九歳であったが、さも神妙に切腹すると、また御手にかけられ討たれた。

三番目は不破万作であった。これにしのぎ藤四郎を下され、「汝も我が手にかかれ。」と仰せになると、
「忝なし。」と、御脇差を頂戴した。生年十七歳。当時、日本に隠れ無き美少年であり、雪に見紛うほどの
白き肌をおし肌脱ぎ、初花が漸くほころぶ風情であるのを、嵐に吹き散らされる気色にて、弓手の乳の上に
突き立て、馬手の細腰まで曳き下げたのをご覧になり、「いみじくも仕りたり。」と太刀を上げると、
首は前に落ちた。

誠に彼等を人手にはかけないと思し召す、その御寵愛の程こそ浅からぬものであった。

そして入道殿は立西堂を召して「その方は出家であるのだから、誰が咎めるだろうか。急ぎ都に上り、
我が後世を弔うように。」と仰せに成られたが、「これまで供奉仕り、只今暇を給わって都に上っても、
一体何の楽しみがあるでしょうか。私は厚恩深き者ですから、出家であっても遁れられないでしょう。
僅かに命を永らえようとして都まで上がり、人手にかかるなど、思いもよりません。」と申し切って
居られた。この僧は博学多才にして、和漢の書に明るく、当檀那の辯を持っていたため、秀次公の御前を
去らず伺候して、酒宴遊興の伽僧となられ、最後の供まで致されたのは、他生の縁であったのだろう。

さて、篠部淡路守を召されて、
「この度、跡を慕いここまで参ったその志は、生々世々報じがたい。汝はどうか、私の介錯をした後
その供をせよ。」と仰せになった。淡路守は畏まって、
「今度、御供を仕りたいと思っている者がいかばかりも有る中に、私が武運に叶い、御最後の御供を
申すのみならず、御介錯まで仰せ付けられたことは。一生の望み、何事かこれに過ぎるでしょうか。」
と、大いに悦んだ。

これを見て入道殿は心地よさげに笑われ、その後両眼を塞ぎ、「迷悟三界誠悟十方空」と観念あって、
「では、腰の物を」と仰せになった。この時、篠部は三尺三寸の正宗の中巻きしたものを差し上げた。
秀次公はこれを右手に取り、左手にて胸元を繰り下げ、弓手の脇に突き立て、馬手へキッと引き廻し、
御腰骨に少し懸ると見えた所で、篠部淡路守が立ち廻ろうとしたが。「暫く待て」と宣ってまた取り直し、
胸先より押し下げられた所で、御首を討ち奉った。惜しいかな、御年三十一を一期として、南山千秋の露と
消え給わった。哀れと言うにも余りある。

立西堂は御遺骸を治め奉って、これも供を致した。篠部淡路守は関白殿の御遺骸を拝し奉って後、
三人の検使の所に向かい、「その身不詳に候へども、この度慕い参った恩分として、介錯を仰せ付けられた
事は、誠に弓矢取っての面目と存じます。」と言うやいなや、一尺三寸の平作の脇差を太腹に二刀差したが、
切っ先が五寸ばかり後ろまで突き通し、さらに取り直し、首に押し当てて左右の手をかけて前にふつと
押し落とすと、首は膝に抱かれ、骸は上に重なった。見る人目を驚かし、
「天晴大剛の者かな。腹を切る者は世に多いが、このような有り様は伝えて聞いたこともない。」と
諸人一同に感嘆して感じ入った。

近世軍記

豊臣秀次の切腹について


きっと敗軍して逃げて来たのだろう!

2021年05月17日 16:11

堀秀政   
728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/17(月) 12:50:05.19 ID:r5e3KAQv
(小牧・長久手の戦い、白山林の戦いの時)

武蔵守様(森長可)が岩崎の城を御攻めの時は秀次公(豊臣秀次)は総軍の
後ろにおられた故、白山林と申す所で弁当を使い、諸勢たむろ仕るところへ
榊原式部大輔殿(康政)の人数が猪の越海道へ押し来たり、これを見付けて
そのまま見崩れ仕った。

その節、秀次公先手の士大将・田中久兵衛(吉政)と申す者は、堀久太郎殿
(秀政)の陣へ乗り来たり、敵が出たと注進した。

すると久太郎殿が申されたのは「其の方は一手の組頭、人数をかけ引きする
役人だ。敵が出たと注進に来る人にあらず。きっと敗軍して逃げて来たのだ
ろう!」と大いに叱られ、そのまま人数を引き返し、備を立て置かれた。

――『忠勝公御武功其外聞書



曲直瀬道三の治療記録

2020年08月24日 18:03

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/23(日) 22:46:24.30 ID:xUNySztR
医学天正記』より
戦国最高の医師、曲直瀬道三の治療記録を抜粋。順番は「史籍集覧」そのまま

天正11年
片桐且元(40余歳)、酒を飲み過ぎて吐き、風邪の症状。右の手が張って脈はやや速かった
徳川秀忠(30歳)、風邪の症状で頭痛、声はかれて咳と痰が出る
豊臣秀吉、大坂において風邪の症状、涙が流れて声はかれて乾き、喉に痛み
慶長7年
浅野幸長(30余歳)、寒気を覚え、その後に左の腹に痛みを覚える。下痢
織田有楽斎の女中の老母(70余歳)、寒気があって汗が多く出る。脈は少し速い
天正(16日)
誠仁親王、撹乱し、前日の飲酒が過ぎていた。早朝に吐いて悶絶した。半井通仙軒が脈を診た。
半井はひきつけと診て、心臓と肝臓が弱っていると伝えた。諸臣は納得せず下がった。
また、盛方院浄勝は熱射病と診断し、葯(よろいぐさ?)を献じた。一日一夜献じたが、吐いて苦しむことは変わりなかった。
私(曲直瀬)が診たところ、熱射病だけではなく、肧と腎を悪くしていて、その上に飲酒が過ぎたので撹乱した。酒の毒を消す葯でなければ効果はないと診察したところ、諸臣は納得した。
葯を処方すると、翌日症状は治まった。私は法眼の号をたまわって再三辞退したのだが、堅く宣案をいただいたので頂戴した。
天正15年春
毛利輝元(35歳)、秀吉の命令で島津討伐に出陣し、豊前小倉にいたとき、下痢と下血が止まらず、心臓の下が堅くなっていた(?)。
左足のすねは腫れ、骨は痛んで歩けず、私は秀吉の命令で小倉に赴き、これを治療すること十数日。
輝元の足の痛みはほぼなくなり、馬に乗って豊後をへて日向に入り、私はこれに従ってさらに治療した。
島津征伐の後に軍を引き、輝元は安芸吉田に帰り、秋には回復。そのため私は京に帰った。
大野治長(30余歳)、長年の下痢が再発、大便のあとに血が出た
慶長5年
小早川秀秋(18、9歳)、酒を飲んで嘔吐。胸が苦しくまったく食事をせず。尿は赤く舌は黒く乾き、脈は細い
勧修寺晴豊(50余歳)、酒食が過ぎ、小腹が痛く吐き気がする、大便はできず不通、脈は少し速い。薬を飲んだ後、二時間後に吐いて大便が出て腹痛が止まった。
文禄2年
豊臣秀次、長らく上顎を痛めている。熱があり、顔は赤くむくんでいる
豊臣秀次、気が滅入る感じがあって、熱海に湯治。はじめの6、7日はかなり食事も進んで気力が改善した。
ところが入浴が過ぎたために気が逆に上って胸を塞ぎ、痰とぜんそくが現れて寝ることもできなくなった。
その後に私を召して脈を診るに、血管は緊張しており、脈はうつろだった。足は冷えて膝にいたり、心臓の上に気があって、その下は虚弱。
ぜんそくの声は四方に聞こえ、薬を与えると少し止まり、もう一薬で回復した
慶長3年10月2日
淀殿(30余歳)、気鬱して食事が進まずめまいを覚える
11月1日
淀殿、気鬱で胃が痛み、食べることができずに頭痛がしていた
近衛前久、気鬱、恐れおののき、酒が過ぎる。胸が熱くてもだえる。脈は少し速い

医学天正記坤』
太田牛一(80歳)、風邪の症状で発熱、汗が多く喉が渇いて水を飲みたがる。人事不省に。脈拍は多く力なし
山名禅高、常に酒を過ぎる。たんが胸に滞る
「松平陸奥守殿」(伊達政宗)、常日頃から酒が過ぎ、咳と声がれが長く続く
加藤清正、酒が過ぎ、「黄水」を吐く
黒田長政、酒が過ぎ、胸が熱く、しばしば痛む
豊臣秀頼、ぜんそくを煩い、吸引のときにうずく。食事は進まず腹は硬く腫れる
片桐且元、背中にこぶができ、頭痛がして食は少なく、味は苦く感じる
佐竹義宣、左の脇の下が赤く腫れる、痛くもかゆくもない

このほか正親町天皇や蜂屋頼隆、蒲生氏郷(まとめ過去記事にあり)ら、そうそうたるメンツや庶民も出てきます



462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/23(日) 23:17:50.98 ID:My3xLEfl
病人多すぎ

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 00:14:31.02 ID:LeK7E6P0
酒毒怖すぎる

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 08:34:57.75 ID:KAicSMY6
豊臣家は呼吸器が弱いのかな?

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 13:47:36.86 ID:3DJQ4Clv
つっこむのも野暮かもしれんが
片桐・秀忠・秀吉の症例は天正11年の話じゃないぞ
医学天正記』は「症例別」に道三本人が後年に編集したものなので、他の年号も同様の可能性が高い

秀次事件

2020年07月24日 18:30

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/24(金) 01:02:10.41 ID:r3NYavW9
文禄四年、関白豊臣秀次にこの頃御謀反の企てが露見したとの事で、七月八日、関白秀次は
聚楽を退出し高野山へ上り、同十五日、腹を御切りになった。

秀次の若君二人(一、二歳の孩児であった)并びに近習、女房の三十余輩、洛中を引き廻され切り捨てられた。

誠は秀次の逆心は虚言であるのだが、行跡が穏便では無かった故に、治部少(石田三成)の讒言によって
かくの如く成ったのだという。

聚楽城、并びに諸侍の家門は伏見に引き移された。

当代記



是そ摂政関白の家

2020年07月23日 18:17

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 20:58:45.26 ID:bZEQKy47
文禄二年の正月、正親町院崩御の時、諒闇中(天子が、その父母の喪に服する期間)にも拘らず、
関白秀次が鹿狩りをしたことについての落書が有った。

『院の御所 菩提の為の狩なれは 是そ摂政関白の家』

この落書を書いた者は厳重に捜索されたが、その後露見したものの、公家がやったことであったため、
何の沙汰にも及ばなかった。

当代記

摂政関白と「殺生」関白をかけたという落書の話ですね



214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/23(木) 00:37:05.25 ID:AxVMh1z5
>>211
当代記の性格上、秀次貶めて秀吉を上げる必然性が薄い気がする

四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか

2020年06月06日 17:03

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/05(金) 23:51:00.79 ID:wt4PFcb/
文禄4年、関白秀次に謀反の聞こえあった時、伊達政宗もこれに与しているとの説があった。
豊臣秀吉は怒り、政宗の領地を伊予に移すとした。

政宗は伊達上野、他一名を以て徳川家康の元に遣わし、「このように仰せ付けられ、伊達家の浮沈は
この時に極まりました。もはや家康公の賢慮を仰ぎ奉るより他ありません」と訴えた。

家康はこれを聞いて、両使に茶飯などを与えた。暫くして彼等は「政宗はさぞ待ち遠しく思っているでしょう。
早く帰り、ご返事を申し聞かせたいのです。」と申し上げると、家康は大声で言った

「各々が主の越前(政宗)という男は、当たりは強いように見えるが腰の抜けた男であり、後ろの弱きゆえに
そのように狼狽え付くのだ。四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか、よく分別
あるべしと言え!」
そして重ねて、秀吉より催促の有る時の返事のやり方を、細々と教え、両使は罷り出た。

間もなく、家康は秀吉の所に至った。また秀吉より政宗に使いがあり、
「昨日の要請についてどうなっているのか、早々に予州へ下るべし」と伝えに来た。

この使いが政宗の宿所に来てみると、門前には弓鉄砲、長刀を帯びた者達がひしと居並んで、今にも
打ち出しそうな有様であった。御使有ると聞いて、政宗は無刀にて出迎え、座に招いて御使の旨を聞くと、
涙をはらはらと流して申した

「上様の御威勢ほど、世に有難き事はありません。人間の不幸の中に、上の御勘気を蒙るほどの不幸は
無いと、今日こそ思い知っております。私に於いては、たとえ今回の事で御不審を蒙り首を刎ねられても
異議は申しません。況や国郡を下し賜って所を変えるとの事に、何の不満があるでしょうか。

されども我が譜代の家僕たちは、何れも訴えてくるのです。『どうして数十代の御領を離れて他国に流浪する事が
有るべきか、速やかにここにて腹を斬られ、我々も一人も生きて所を去り渡すような所存はありません』と
言い切って、ひたすらに自害を勧めるのです。私は色々と義を尽して申し聞かせましたが、家臣たちは一向に
同心せず、あなた方もご覧の通りの、狼藉の至りの有様です。

つまり、偏に現在私が御勘当の身に罷り成っている故に、数十代の家人さえ我が下知を用いず、恣にしており、
是非に及びません。」
このように述べ、使いは帰ってこの旨を報告すると、秀吉の傍に在った家康も申し上げた

「いかにも左様に、私も承っております。政宗一人の事であれば、上意を違背し旧領を去り渡し奉らざるに
於いては、私に仰せ付けられれば、即座にかの旅宿へ押し寄せ踏み潰すことに、何ほどの事があるでしょうか。
しかし、今度こちらに供を仕った、政宗の千に足らざる小勢にてさえ、家臣共が左様に思い切っているのであれば、
旧領に残り留まっている郎従達は、国を退くとは何としても言わないでしょう。
政宗の郎従等を追い払うべき賢慮がお有りでしたら、政宗については、どうぞ私にお申し付けになって下さい。
ではありますが、累代の所領を没収することで、彼の郎従たちが愁訴する事も、不憫に思います。
ですので、枉げて今回は、ご赦免も有るべきではないかと。」

このように申し上げると、秀吉は「兎にも角にも家康の計らわれることに若くはあるまじ」として、
国替えのこと沙汰無くなりその事止み、その後勘当も免されたという。

名将言行録



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 00:10:30.36 ID:QjiO30i5
まるで道化だな

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 00:28:15.16 ID:orWYLZXD
>>260
伊達上野って留守政景か
後半の訳が力尽きてることも併せて
スレを盛り上げようとする意気は素晴らしいけど
無理に全文貼る事もないと思うよ

細川幽斎、聚楽第行幸の際の代作

2020年04月18日 18:55

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 17:22:12.33 ID:Ref011sU
細川幽斎、聚楽第行幸の際の代作


天正16年4月16日、秀吉が聚楽第に後陽成天皇を迎えた行幸の際、和歌御会が催された。
歌題の「寄松祝」に合わせて公家や武家などの参加者が和歌を提出したが、このとき
幽斎は豊臣秀次、足利義昭、豊臣秀長、蒲生氏郷の和歌を代作している。(『衆妙集』)

全部解説するのは大変なので、代作した秀次の歌だけ紹介。

をさまれる 御代ぞとよばふ 松風に 民の草葉も 先づなびくなり
(平和な治世であると呼び続ける松風に、民衆も草葉のように真っ先になびくのである)

この和歌は藤原定家の「をさまれる民の草葉を見せ顔になびく田面の秋の初風」や、
「をさまれる御代にあふぎの風ならば四方の草葉もまづぞなびかん」などを踏まえて
後陽成天皇の治世を慕って心を寄せる民の様子をうたうものとなっている。


幽斎自身は聚楽第行幸には参加していないが、晴れの場での代詠を頼まれることは
歌人として名誉なことであった。



16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 11:25:50.53 ID:/Aka1nDI
>>14
幽斎さんじゃなくて忠興ちゃんが出てたんだね

君が代の長きためしは松に住鶴の千とせをそへてかそへん
【『豊鑑』第三 内野行幸 天正13年(1585)4月 丹後侍従豊臣忠興(細川忠興) 後陽成天皇行幸の際の歌会にて】

豊鑑@toyokagami_bot にいろんな人の歌が出てきておもしろい

黄金百枚の儀

2020年03月25日 18:11

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:24:30.66 ID:K2dn1Ud1
細川忠興様は豊臣秀次公より別して御懇にされており、どうしたわけか、黄金百枚を拝領していた。
その上秀次の家老である前野但馬守(長康)殿の子息・出雲守(景定)は忠興様の聟であり、
秀次事件が起こると、御縁者故「秀次の一味である」と治部少(石田三成)の申立があり、これに
是非無く思し召され、聚楽の屋敷へは米田助右衛門(是政)殿が遣わされ、伏見での状況次第では、
御上様(正妻)、御子様たちを仕舞(生害)させ、御屋敷へ火を掛け、助右衛門殿は切腹するようにと、
忠興様は命ぜられた。

伏見に於いて、黄金百枚の儀は、「薬院法印(施薬院全宗)の肝煎りで秀吉公(秀次の間違いか)より借用した
ものであって、拝領ではない。」との弁明を、米田助右衛門、徳善院(前田玄以)より、太閤様へ申し上げた所、
太閤様はこのように仰せになった

「先年、明智謀反の時、信長公への御恩を存じ出、明智に一味しなかった。
たとえ今度、秀次と一味したとしても、その時の忠節により赦免しよう。」

この旨を徳善院が仰せ渡すと、忠興様は御安堵なされ、この時も助右衛門殿の一命をとした御奉公であったと、
忠興様より度々そのお話を承った。

細川忠興軍功記



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:29:19.10 ID:5/kImDAj
>>787
しれっと治部と太閤を貶める悪い話。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:36:18.45 ID:airvD0sC
金借りただけなんですもらってないんです、って言い訳になるんだろうか

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:39:25.29 ID:/mRIgf+N
佐吉があえなく負けた理由がよく分かるな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 21:37:06.12 ID:NfHJ2VF6
この話へうげものにあったね

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 22:54:05.24 ID:aUbdaYvf
>>789
猪瀬直樹、徳洲会の5000万円事件思い出した

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 13:15:13.15 ID:jvpr6x/q
口先で借りただけだから許せやって話じゃなく
だから御公儀にお返しするので許してください
って話なので

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 19:33:11.35 ID:5lQO7ZEJ
>>794
なるほどそういう文脈なのか
これは勉強になりました

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 20:29:48.46 ID:MxcE7X8S
石田さんほんとにどういう人だったんだろな
全員にこんな感じでちょこちょこ当たってたんだろうか

御家久しき者

2020年01月15日 17:57

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 17:53:50.97 ID:UUVBr7UC
御家久しき者


本能寺の変のあと秀吉は池田恒興に、三好信吉(のちの秀次)に恒興の娘を嫁すことを約束した。
祝言のとき、恒興は娘の御輿副として家臣の香西又市(名門の讃岐香西氏の出)を遣わした。
又市は”御家久しき者(家が長く続いている者)”との恒興の御意からであったという。

又市は長久手の陣では秀次にお供したが、恒興が討死した日と同日に三十八歳で討死した。
長男の五郎右衛門が跡を継ぎ雑賀陣、北伊勢陣、阿波陣と秀次にお供し二百石を拝領したものの
秀次の切腹後は、同じ知行で恒興の息子の輝政に召し出されることとなった。


――『吉備群書集成』



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 22:20:49.29 ID:M1BxP3yc
池田は摂津を支配していた時に管領細川の家臣を召抱えたようだな

その心持が面白かった

2019年07月08日 17:50

千利休   
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 21:56:58.28 ID:v9H8Sln5
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 22:17:22.94 ID:3+H2OFSP
いわゆる小者

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 05:56:03.31 ID:PErBWv+E
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 19:30:32.72 ID:FDy5Rb+b
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 21:10:55.98 ID:6lk5Uw6S
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:31:12.85 ID:BTnI+Yho
どこの誰なんでしょうね

里村紹巴と秀次事件+α

2019年02月17日 16:37

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/17(日) 16:25:23.15 ID:QBNyGuoi
里村紹巴と秀次事件+α


世に定めとはないものである。良きことも悪しきことになってしまうのだ。

秀次関白殿は少し連歌の御稽古をされていたので、喜んで紹巴は毎日登城されていた。
かの御謀反の御談合をしていたとみなされたのか、(紹巴の)百石の知行や家財屋敷に至るまで
昌叱(紹巴の娘婿)に太閤御所(秀吉)が(紹巴から取り上げて)下されることになってしまった。
呆れるほどひどい身の上になってしまわれたので、気の毒に思いその年(文禄4年)の師走に
雪をかきわけて、丸(松永貞徳)一人隠れ忍んで(紹巴の所に)参った。

法橋(紹巴)は丸の名を聞きつけて懐かしく思われたのか、十間ほど(家から)出てこられて
丸の手を引いて、奥の住家へ引き入れられた。
道すがら(紹巴は)
「上手に遅くに来る者だ。春のころ、照光院殿(聖護院道澄)などから御見舞いの使者があったが
 (詮議が厳しく見つかると困るので)私の首を斬らせようとしたのかと思ったものだ」
と仰った。


――『戴恩記』
紹巴と貞徳の父は知り合いで、貞徳が12才の頃には月例の連歌の会に誘ってくれたらしい。

貞徳は里村紹巴の容姿や性格についても書いていて

「顔おほきにして眉なく、明なるひとかは目(一重まぶた)にて、鼻大きにあざやかに
 所々少くろみて、耳輪あつく、こゑ大きにきつきひびきありて、ざれごと申さるるも
 いかるるやうに侍り」

と記している。(戴恩記)


子のなき者はつる葉をも捜し求め

2019年01月24日 08:23

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/24(木) 03:48:09.63 ID:wqDfmpXE
子のなき者はつる葉をも捜し求め


(文禄四年)四月廿三日

太閤様(秀吉)は関白様(秀次)の此度の御嘆き(弟・秀保の死)を気の毒に思し召し様々なことを
仰せられたので、(秀次)は良きついでと思し召して
「脇(側室)に子がありましたが、太閤様がどのように思し召されるだろうかと思い
 御沙汰をしていませんでした」
と申し上げられると、(秀吉は)
「どうして左様のことを隠していたのか。めでたいことで言い分などない」
と仰せられた。

また(秀吉は)ついに北政所様(ねね)にも
「子のなき者はつる葉をも捜し求め養子にするが、幾人御子にしても満足することはないものなので
 (秀次の子について)不満はない」
と仰せられ、北政所様より(秀次の)内儀、大上様(日秀尼)、小少将*に(そのことの)仰せがあった。


――『駒井日記』

* 同一人物かは不明だが、秀次事件で同名の人物が秀次の妻妾として連座している。


茶々から秀次への手紙

2019年01月19日 18:16

淀殿   
667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 23:37:12.99 ID:oWMg4/ko
茶々から秀次への手紙


文禄二年閏九月六日に、関白・豊臣秀次は太閤・秀吉の有馬湯治の見舞いへと赴いた。
見舞いに行くことを北政所と茶々へそれぞれ手紙で伝え、自身も湯治をした。(『駒井日記』)
以下は十月八日に来た茶々からの返信。


(有馬の)御湯が丁度良く、すぐ清須まで戻ってこられるとの懇ろな手紙をありがたく喜ばしく思います。
太閤も一段とご機嫌がよく、この程は聚楽に御成されました。
姫君(秀次娘)も御息災でいられるそうです。そのまま御上洛をお待ちしています。
御文はよくよくありがたく思い、何と言ってもめでたいことですから重ね重ねお願い申し上げます。かしく。

人々御中 
まいる    申給へ

――『福田寺文書』

返信前の十月一日には秀吉により御拾(秀頼)と秀次娘の縁談が取り決められており、それを受けての手紙と思われる。
このとき許嫁となったとされる八百姫は病気がちで、秀次正室の若政所が祈祷依頼を出している。(『兼見卿記』)
秀次自害の連座で亡くなった子女に八百姫がいないこと、没日が違うことなどから自害前に亡くなったとされる。


黒田如水入道は茶の湯を嫌っていた

2018年11月29日 21:03

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 19:23:41.98 ID:k9WRVOTA
黒田如水入道は茶の湯を嫌っていた。「武士の道に非ず。なんぞや刀小脇差まで外に捨て置き、
丸腰にて其の会あらんこと、沙汰の限りである。」と言っていた。

ある時、豊臣秀吉が如水を招き、数寄屋にて茶の会があった。如水としても君命辞し難く、その命に
応じた。ここで秀吉は、如水一人を客として、数寄屋にて密事を談じた。これは関白秀次生害の事であったと言われる。
他者が知ること無く、詳細に話し合いをし、終わって退出した。如水はこの時大いに茶の会に大利あることを感じ、
以後数寄の道を趣味としたという。

(士談)



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 23:07:36.70 ID:n4LZlX5q
随分晩年の話だな
それまでに茶の湯に付き合わなきゃならない事なんて山とありそうだが

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 09:44:07.54 ID:smPpcYRC
これが

黒田官兵衛と茶の湯

の出典か

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 09:47:31.06 ID:smPpcYRC
名将言行録出典だと話はおもしろいけど名将言行録だから…となるけど
山鹿素行先生はどうなんだろ

「伴内が困っておる」

2018年09月30日 19:43

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 21:46:23.02 ID:SujEa8Yj
伴内と言う者、世に類ない咄の名人にて、豊臣秀次公の御前を離れず、世の中の事を興あるように
取り繕い咄をつかまつる程に、一段と御意良くして、常に秀次公の御前に詰めた。

彼の咄の内、十の内半分は観世又次郎(観世方小鼓打ち)がどれほどうつけた事を言ったか、という
物であったため、秀次公は「それほどうつけ者なのか」と思し召した。

ある時、秀次は観世又次郎を召した。彼は御前に参って謹んで罷りあり、またいつもと同じ様に
伴内も伺候した。秀次公は仰せに成った

「いかに観世、どうして汝は萬に疎く心がうつけているのか?普段伴内の話す内容を聞くと、
大方汝のうつけ話ばかりなのだ。又次郎いかに?」

観世承り「そうですな、伴内と言う者は身体無芸なる奴でありますから、私のような天下道具の名人の
事を申さないと、喋ることが無くなってしまいます。ですので仕方がないと、私は彼をかまい申しません。」

秀次公はこれを聞くと「非常に面白い。伴内返答は如何に!?」と仰せに成ったが、伴内は当惑して赤面し、
何も言えなかった。そこで秀次公は観世又次郎を大なる利発者と感じ、「伴内が困っておる」と、大いに
笑った。これ以降、伴内は観世又次郎の事を語らなくなった。

(義殘後覺)