そのときは拙者とて

2017年06月16日 17:55

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 23:50:57.07 ID:dWS33giL
天正十九年十二月二十八日、近江中納言秀次公は関白に任ぜられた。
その礼として家康公から井伊兵部大輔直政を遣わされた。
そのとき秀次公は囲碁をされていて、直政を呼んで物語をされた。

「昔、私が三好孫七郎といったときは直政も無官で万千代と申していたな。
会合して碁を打ったが、その時は直政は碁が強くて私は弱かったものよ。」

その碁の話に事寄せて、尾張長久手の合戦に直政に打ち負けた事を思い出して、
それとなく

「今、私と直政とでは昔とは手合わせは違ってくるだろう。
私も忝くも関白に任ぜられたのだ。勝負も大いに変わるはずだ。」

と笑いながら御申されると、直政は

「そのときは拙者とて無位無官の万千代。
只今は四位の侍従に叙任されています。
手合わせもそれほど昔と変わらないでしょう。」

と恐れることも無く答えた。
時に取って意地の有る申し分といえる。


『武士としては』


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「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」

2017年03月16日 21:16

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 00:57:14.93 ID:ESpxuFY9
 天正の末のことである。
関白秀次の家臣の人々が新しい諸大夫になった時、
その若造どもは聚楽の番所のわきに集って居た。

「我が主殿は、今度”かみ”になられたか。
社参してくる衆も『めでたくございます』と樽酒を持って参る。
が、まだ賽銭などは見えませんな。」
「何の”かみ”におなりになられたのか?」
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」
「それは少し生臭いかみじゃ。しかしながら、これは御意であろうのでどうしようもない。
うちの主殿も昔から、”なまこの寿千寺”といってきている。」

 評して云う。
万民を憂う心は弱く利を思う心が強い人を宰相の職に挙用したら、
雀部淡路守をあはびのかみ、尼子寿千寺をなまこと聞き違える害がでたのだろう。
善悪が生じる原因は、智に明るいかどうかではないだろうか。

(戯言養気集)



672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 10:10:26.13 ID:9pvTh3BL
落語の「松竹梅」を思い出した
長屋の松さん、竹さん、梅さんが名前が縁起がいいってので若旦那の婚礼の座興をすることになったが
松「なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿殿じゃになったあ」
竹「なんのじゃになられた?」
梅「長者になられた」
というところを梅さんが間違って
「大蛇になられた」「風邪になられた」
最終的には「亡者になられた」
と言ってしまい、あわてて逃げ帰るという

奈良かしや この天下殿二重取り

2017年02月24日 17:27

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/24(金) 00:20:47.23 ID:rjLhinUl
秀吉公の御時、「ならかし」と言う事があった。金を貸し出した金融業者は、元金を失った上に、
なお放埒な営業の罪が軽くないとして、罰金として再び黄金を提出させられた。
そこでこのような落首が出た

 奈良かしや この天下殿二重取り とにもかくにもねだれ人かな
 (奈良貸しで秀吉公は黄金を二重取りされた。なんという狡猾な人であろうか)

  ※ねだれ人:色々な計略、策を用いて人に損害を与えようと他人を欺く人、狡猾な人【日葡辞書】
(醒睡笑)

この「ならかし」、はじまりはこういうものであった

『奈良中へは大納言殿(豊臣秀長)より金子一枚を代米四石ずつにして、一万石ばかり町々へ借用。
押してかくのごとし、金は来年の春に取るべきよしなり』
(奈良において豊臣秀長は金子一枚を代米四石とした上で、米一万石を奈良の町々に貸し付けた。
その利息を来年春に「金」で支払うようにとした。」
(多聞院日記天正十七年十月五日条)

つまり秀長が、奈良の金融業者を通じて人々に米を貸し付け、その利息を金で受け取っていた、
という事である。
しかしその結果、天正二〇年九月二日付「奈良惣中」より秀吉側近、木下半助(吉隆)、
山中橘内(長俊)にあてた直訴状の第四条によると

『一、大光院様(豊臣秀長)は御金五百枚あまりに利息をつけて奈良に御貸しなされました。
しかし、毎月利子を銀子にて、奈良奉行の井上源五殿は過分に徴収されました。
しかも井上源五殿は私的な金二百枚あまりも、これも大光院様の御金であるとして、奈良中に
貸し付けられ、ここからも過分の利息を取られました。』
(庁中漫録)

奈良においてはこの借金のため、殺人事件や一家心中が起こるなど、社会問題化していたという。
そしてこの直訴の結果は

『直訴のさまは、ことごとく地下人の勝ち』
(多聞院日記天正二〇年九月八日条)

となり、これにかかわる奈良の金商人(金融業者)が尽く牢に入れられた。
しかし訴訟した者達も一時的に牢に入れられ、また奈良奉行の井上源五には何の処分もなかった。

ところでこの「ならかし」で、何のために資金が集められたのか。
天正二〇年十月十日、豊臣秀吉より、豊臣秀次宛の朱印状にこうある

『一,今度奈良借について出だしそうろう金銀、これらをも右の船(安宅船)の用に入ること
そうらわば、あい渡すべきこと』
(今度の奈良借しで得られた金銀について、安宅船の建造に必要であればそちらに流用するように)

「ならかし」で集めた金銀を、秀吉の「唐入り」のための、軍船建造費に使うように、との内容である。
ここで「ならかし」が、秀吉の政権による施策であったことが判明するのである。
金融業者たちを牢に入れたのは、責任を彼らに転嫁するためであったのだろう。

以上、醒睡笑の「ならかし」の逸話と、それについて、河内将芳 著「落日の豊臣政権」のより、解説を抜粋。


秀次妻子の処刑

2017年01月14日 15:43

513 名前:1/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:19:11.80 ID:rE+exn0h
文禄4年(1595)7月15日、豊臣秀次が切腹。
そして8月2日、秀次の若君、上臈、婦人たちを誅すべきとの上使が立ち、いやが上にも悲しみは増した。
検使には石田治部少輔、増田右衛門尉をはじめ、橋より西の片原に、布皮敷いて並び居た。
彼らは若君達を車に乗せ、上臈達を警護して、上京を引き下り、一条二条を引き下り、三条の河原へと懸った。

橋のあたりまで着くと、検使たちが車の前後に立ち「先ず若君達を害し奉れ」と下知した。
青侍・雑兵共が走り寄り、玉のような若君達を車から抱き下ろし、変わり果てた父秀次の首を見せた。

仙千代丸は冷静にこれを見て、「こは何と成らせられるや」と呟き、嗚呼と嘆いた。
その姿に母上たちだけでなく、見物の貴賎男女、警護の武士に至るまで前後を忘れともに涙に咽んだ。
しかし太刀取りの武士は「心弱くては叶うまじ」と目を塞ぎ、心を太刀だけに集中して仙千代丸達を害した。
この時彼らの母上たちは、人目も恥ずかしさも忘れ声を上げた

「どうして私を先に殺さないのか!急ぎ我を殺せ!我を害せよ!」
(こは何とて、我をば先に害せぬぞ。急ぎ我を殺せ我を害せよ)

そう、仙千代丸の死骸に抱きついて伏し嘆いた。
それより夫以下の目録に合わせ、順に座らせた。
一番に上臈、一の台の御局、前大納言殿の息女にて、三十路余りであった。これを今わのすさみとて
『存へて ありつる程を浮世ぞと 思へば残る言の葉もなし』

二番は小上臈、於妻御前であった。三位中将殿の息女にて、16歳になられていた。紫に柳色の薄絹の重ねに
白袴を引き、練貫の一重絹うちかけ、緑の髪を半切り、肩の周りにゆらゆらと振り下げて、秀次の首に三度拝し、
こう詠んだ
 『槿の日 影まつ間の花に置く 露より脆き身をば惜まじ』

三番は、姫君の母上、中納言の局於亀の前であった。摂津小浜の寺の御坊の娘で、歳は33。栄に少し
過ぎていたが、西に向かい「南無極楽世界の教主弥陀仏」と観念し
 『頼みつる 弥陀の教の違わずば 導きたまへ愚かなる身を』

四番には仙千代丸の母上、於和子の前であった。尾張日比野下野守が娘にて、18歳になられていた。
練絹に経帷子を重ね、白綾の袴を着て水晶の数珠を持ち、若君の死骸を抱きつつ、泣きながら大雲院の上人に
十念を授かり、心静かに回向して、こう詠じた
 『後の世を 掛けし縁の栄えなく 跡慕ひ行く死出の山路』

五番には百丸の母上であった。尾張国の住人山口将監の娘。19歳になられていた。
白装束に墨染の衣を掛け、若君の死骸を抱きつつ、紅の房の付いた数珠を持って、これも大雲院の十念を受け心静かに回向して
 『夫や子に 誘はれて行く道なれば 何をか跡に思残さん』

六番には土丸の母上、於ちゃの前であった。美濃国竹中与右衛門が娘にして、18歳。
白装束に墨染めの衣着て、物毎に軽々しい出で立ちであった。かねてから禅の知識に参学し、飛華落葉を観じ、
世理無常を悟って、少しも騒ぐ気色無く、本来無一物の心と
 『現とは 更に思わぬ世の中を 一夜の夢や今覚めぬらん』

七番には十丸の母上於佐子の前であった。北野の松梅院の娘で、19歳になられていた。
白綾に練絹の単衣の重に、白袴を引き、戻の衣を掛け、左には経を持ち右には数珠。西に向かって法華普門品を
心静かに読んで、秀次、若君、そして我が身の菩提を回向して
 『一筋に 大慈大慈の影たのむ こころの月のいかでか曇らん』

八番には於万の方であった。近江国の住人多羅尾彦七が娘。23になられていた。練絹に白袴引き、
紫に秋の花が刺繍された小袖をかけておられた。その頃病中であったので、見た目にもいと悲しく、
心も消え入るように思えた。これも大雲院の十念を受け掌を合わせ
 『何處とも 知らぬ闇路に迷ふ身を 導き給へ南無阿弥陀佛』

九番には、於与免の前であった。尾張国の住人堀田次郎右衛門が娘で、これも白装束に数珠と扇子を持ち添え、
西に向かい十念して
 『説置ける 法の教の路なれば 弧り行くとも迷ふべきかは』

十番に、於阿子の前であった。容姿よりも尚勝る心にて、情け深く聞こえた。毎日法華読誦怠らず、最後にもこの心であった
 『妙なれや 法の蓮の花の縁に 引かれ行く身は頼もしき哉』

514 名前:2/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:20:23.81 ID:rE+exn0h
十一番には於伊満の前であった。出羽最上殿の息女であり、十五歳になられた。東国第一の美人であると
伝え聞かれ、秀次より様々に仰せになり、去る7月上旬に上洛したが、旅の疲れにて未だ見参のない内に、
この難儀が勃発し、淀の方より「いかにもして申し請け参らん」と心を砕かれたため、太閤秀吉も黙し難く、
「命を助け鎌倉に遣わし尼にせよ」と言った。これにより伏見から大至急早馬が出たが、あと一町という所で
処刑された。哀れと言うにも余りある、最後の際、やさしくも
 『つみを切る 弥陀の剣に掛かる身の 何か五つの障あるべき』

十二番には阿世智の前であった。上京の住人秋葉の娘であり、30あまり、月の前、花の宴、事に触れて
歌の名人であったとか。最後の時も先を争ったが、目録どおりとのことで仕方なく、辞世に
 『迷途にして君や待つらん 現とも夢とも分かず面影に立つ
  彌陀たのむ 心の月を知べにて 行けば何地に迷あるべき』

十三番には小少将の前であった。備前国本郷主膳が娘にて、24歳になられた。彼女こそ関白の御装束を
賜った人である。
 『存へば 猶もうき目を三瀬川 渡るを急げ君や待つらん』

十四番には左衛門の後殿であった。岡本某の後室で、38歳であったという。琵琶、琴の名人で、歌の師匠も
されていた。是ぞ今わの気色にて
 『暫くの 浮世の夢の覚め果てて 是ぞまことの仏なりけり』

十五番には右衛門の後殿であった。村瀬何某の妻であったとか。村井善右衛門の娘にて、35歳になられていた。
21歳で父の村瀬と生き別れ、今また重きが上のさよ衣、重ね重ねの憂いの涙。よその袖さえ乾く間もない
 『火の家に 何か心の留まるべき すずしき道にいざやいそがん』

十六番は妙心老尼であった、同坊の普心の妻であったが、夫に先立たれた時も自害しようとしたのを
無理に止めて、尼と成られたのである、最後の供を悦んで
 『先達ちし 人をしるべじ行く路の 迷を照らせ山の端のつき』

十七番は於宮の前であった、これは一の台の娘であり、父は尾張の何某にて13になられた。
母子を寵愛されたこと、ただ畜生の有様であると、太閤は深く嫉み思われたとか、最後の体、おとなしやかに念仏して
『秋といへば まだ色ならぬ裏葉迄 誘ひ行くらん死出の山路』

十八番には於菊の前であった。摂津国伊丹兵庫の娘で、14歳になられていた。大雲院の上人に十念授かり、
心静かに取り直り
 『秋風に 促はれて散る露よりも 脆きいのちを惜しみやはせじ』

十九番には於喝食の前であった、尾張国の住人、坪内右衛門の娘で、15歳であったとか、武士の心で
男子の姿をし、器量類なかったため、稚児の名を付けられた、萌黄に練絹の単衣衣の重ねに白袴を引き、
秀次の首を拝して残る人に向い「急がれよ。三瀬川に待ち連れて参りましょう。」と語りかけ、検使にも
暇乞いをして、西に向かって声高に、こう2,3回吟じた
 『闇路をも 迷わで行かん死出の山 清る心の月をしるべに』

二十番には於松の前であった。右衛門の後殿の娘にて、12歳であったとか。未だ幼く、唐紅に秋の花を
刺繍した薄衣に、練絹をかけ、袴の裾を握りながら、母親の死骸を拝しつつ
 『残るとも 存へ果てん浮世かは 終には越ゆる死出の山路』

二十一番には於佐伊の前であった。別所豊後守の身内の客人、という者の娘で、15の夏の頃初めて見参し、
新枕のあと絶えて召されず、拙き身を恨んでいたが。ある酒宴の折に「君やこじ我や行きなん」と謡ったことで
他に勝って寵愛されるようになった。しかしその後何があったか、事情があり久しく出仕しなかったが、
最後の御後を慕い参られた事こそやさしくも哀れである、法華経を読誦してこれだけを言った
 『末のつゆ 本の雫や消え返り 同じ流れの波のうたかた』

二十二番には於古保の前であった。近江国の住人鯰江権之介が娘にてこれも15の春の頃より寵愛深く、
閨の袖の香浅からず成り染めて、花月の戯れに、後の事は思いもよらなかったであろう。
そしてこの期は大雲院の十念を受け回向して
 『悟れるも 迷いある身も隔てなき 弥陀の教を深くたのまん』

二十三番には於仮名の前であった。越前国より木村常陸守が呼んだ上臈とか。17歳であった。
非常に賢く、浮世を泡のように観念して
 『夢とのみ 思ふが内に幻の 身は消えて行く哀れ世の中』

515 名前:3/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:21:29.42 ID:rE+exn0h
二十四番には於竹の前であった。一条あたりで、ある方の拾った娘であったという。類なき美人にて
昔の如意の妃もこうであったと思われた。仏元来今無く、心又去来の相なしと悟り
 『来りつる方もなければ 行末も死らぬ心の仏とぞなる』

二十五番には於愛の前であった。古川主膳の娘で、23であったとか。法華転読の信者で、草木成仏の心を
 『草も木も 皆仏ぞと聞く時は 愚かなる身も頼もしきかな』

二十六番には於藤の前であった。大原三河守の娘で、京の生まれ。21歳になられていた。
槿花一日の栄、夢幻泡影と観じて、大雲院の十念を受け
 『尋ね行く 仏の御名をしるべなる 路の迷の晴れ渡る空』

二十七番には於牧の前であった、斎藤平兵衛の娘で16歳だとか。これも十念を受け西に向かい手を合わせ
 『急げ唯 御法の船の出でぬ間に 乗遅れなば誰を頼まん』

二十八番には於國の前であった、尾張国大島新左衛門の娘で、22になっていた。肌には白帷子に山吹色の
薄衣の重ねに、練絹に阿字の大梵が書かれているのを掛けて、秀次、若君たちの死骸を拝し、秀次の
首に向かって直られるのを、太刀取が「西に向かれよ」と言うと、「本来東西無し。急ぎ討て」と答え、
そのままに討たれた
 『名計を 暫し此の世に残しつつ 身は帰り行く本の雲水』

二十九番には於杉の前であった。19歳。前年より労気を患い、秀次とも疎遠になっていたため、浮世を恨み、
どうにかして出家したいと願っていたが、叶わずこのような最期を遂げた
 『捨てられし 身にも縁や残るらん 跡慕ひ行く死出の山越』

三十番には於紋といって、御末の人。心静かに回向して
 『一聲に こころの月の雲晴るる 仏の御名を唱へてぞ行く』

三十一番は東といって61歳。中居御末の女房が預かる人であった。夫は75歳で、この3日前に相国寺にて
自害した。

三十二番に於三。末の女房であったとか。

三十三番は津保見。三十四番は於知母であった。

この三十余人の女臈たちをはじめ、午の刻(午前11時頃)から申の刻の終(午後5時頃)までに
朝露となられたのは、彼女たちのことを知る人も知らぬ人も、見る人聞く人ごとに、肝も裂け魂消えて、
涙に暮れぬものはなかった。
秀吉は殊更に、死骸を親類にも返さず、巨大な穴を掘らせて、旃多羅が手にかけてその手足を取って
投げ入れた。その有様、昔玻斯国の瑠璃太子が浄飯王宮を攻め破って、五百の宮女美人を穴埋めにしたという
哀れさも、これにはどうして勝るだろうか、
こうして最期に臨んで、歌を詠まれし風情、万年の後までも、聞くに涙に咽ぶであろう、

色を誅するのは、不義を後にして己の嫉を先にすると、世史に謗って記されているのもこのためである。聖智ある明将のやることではない。
太閤秀吉の強暴さは支那をも動かしたが、慈しみの心が嫉妬に勝つ事を得なかった。婦人や幼い子供を億万殺しても、一体何の益があるのか。
人々は誠に、「御代が短かるべき事ぞ」と申した。

(石田軍記)
秀次家族の処刑についての記述である。



516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 13:12:53.81 ID:QLhwJ8hg
まだ出てなかったんだ、秀次妻子の処刑の模様

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 15:56:12.34 ID:YLjoeKPp
妊娠してたら困るからってここまで殺さんでも…

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 16:48:44.45 ID:tVr6p7UI
手当たり次第に手を出して子を産ませるアホは死んで当然
秀長を見習うべきだったな

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 18:21:08.96 ID:z7jd4P8T
???「城中の女に見境なく手を出して100人以上作ったけど何か?」

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 19:52:46.06 ID:399BbC7j
はいはい、お薬出しておきますねー

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 20:49:57.21 ID:AHLvRmkW
>>514
於伊満の命乞いを淀がしてるのか

豊臣秀次の最期

2017年01月12日 08:39

501 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 19:41:29.26 ID:JXo5ixzE
豊臣秀次は高野山に上り、木喰上人の坊へと案内された。木喰上人は秀次の来訪を大いに驚き、
急ぎ招き入れ「只今の御登山は思いもよらぬことです。」と涙を流した。秀次は何も言わず、
袖を顔に当てて涙にむせんでいたが、
「私はこのような事が起こるとは思いもよらず、世にあった頃、気をつけることもなかった。
今更浅ましいことであるが、今にも伏見より検使がくれば、私は自害する事になるだろう。
そうなった跡の事は、一体誰に頼めばいいだろうか。」
そう、涙ぐんで尋ねた。

「御諚ではありますが、当山の衆徒一同に訴えれば、太閤殿下がどれほど憤り深くあられようと、
どうしてその御命令を承知するでしょうか?」
木喰上人はそう頼もしく答えた。

秀次はそこで法体と成り、道意居士と名乗った。供の者達も皆髻を切って、ひとえに来世を祈り、
上使を今か今かと待っていた所、福島左衛門大夫正則、福原左馬助長堯、池田伊予守景雄を大将として、
都合1万余騎、7月13日の申の刻(午後4時頃)伏見を立ち、14日の暮れ方に高野山に到着した。
3人の上使は、木喰上人の庵室に入った。この時秀次は大師の御廟所に詣でるため、奥院に居たが、
これを知らされ戻り、3人と対面した。

福島正則は畏まり、法体姿に変わった秀次を見て涙を流した。秀次は言った
「汝らは、私を討ちに来たのだな。この法師一人を討とうとして、由々しき振る舞いではないか。」

福原が畏まって申し上げた
「その通りです。御介錯仕れとの上意にて候。」

「さては我が首を討とうと思ったか。しかしお前はいかなる剣を持っているのか?
私も腹を切れば、その首を討たせるために、形のごとく太刀を持っているぞ。さあ、汝たちに
見せてやろう。」

そう言って3尺5寸ある金造の帯刀をするりと抜き、「これを見よ」と言った。
秀次は福原左馬助が若輩であり、推参を申したと思い、重ねて物申せば斬って捨てると考えているようであった。
秀次の3人の小姓は秀次の気色を見て、少しでも動けば、秀次が手にかけるまでもなく自分たちで
斬り捨てるのだと、互いに目と目を合わせて刀の柄に手をかけていた。その有様はいかなる天魔鬼神も退くように思えた。

秀次は刀を鞘に収めると、
「お前たちは私が今まで存命しているのを、さぞや臆したためだと思っているだろう。
私も伏見を出た時に、どうとでも慣れと切腹を思ったが、上意を待たずに切腹すれば
『はやり自身に誤りがあったからこそ自害を急いだのだ』と言われ、これにより責任の無い者たちまで
多く命を失うことになるとの懸念から、今まで生きていたのだ。

今は最期の用意をしよう。故なき讒言によって私はこうなってしまったが、私に仕える者に一人も
罪有る者は居ない。良きように言上し、申し扶けて、私への饗応にしてほしい。
この事、相構えて汝らに、頼むぞ。」
一座の者たちはこれを聞き、有り難き御志と感じ入った。

そうして座を立つと、最後の用意を初めた。しかしここに木喰上人はじめ一山の衆徒が集まり、
3人の上使に対して抗議をした
「当山は七百余年このかた、この山に登った人の命を害したこと、その例ありません。
一旦この旨を太閤殿下に言上していただきたい!」

3人はしかし「そうではあろうが、とても叶うことではない。」と説得した。それでも衆徒の抗議は
止まなかった。ここで福島正則が進み出て
「衆徒の言うこと、尤もである。だがこれ以上時刻を費やせば、お前たちまで太閤殿下の勘気を蒙り、
腹切れと言われるだろう。それでも言上したいと言うなら、先ずここに居る我々3人を衆徒の者達が
手に懸けよ。その後はお前たちの心次第だ。」
そう、膝を立てて言うと、所詮は出家の事ゆえ、上人はじめ一山の衆徒も、力及ばず立ち去った。

その夜はこのような評議に時遷り、漸く曙になると、巳の刻(午前9時頃)に秀次の御最後となり、その有様は非常に神妙に見え聞こえた。
彼は付き従った人々を召して、
「汝らこれまでの志こそ、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、数人が最後の供をするというのも、前世の宿縁というものだろう。」

502 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 19:42:20.88 ID:JXo5ixzE
そう涙を流した。そして3人の小姓たちに
「若き者達だから、最後の程も心もとない。その上自ら腹切ると聞けば、それを妨害しようと雑兵共が
乱れ入って、事騒がしくなるのも見苦しい。」
そう考え、山本主膳に国吉の脇差を与え、「これにて腹切れ」というと、主膳承り、
「私は御介錯仕り、その後にこそと思っていましたが、先に参り死出三途にて、道を清めておきましょう。」
そう言ってニッコリと笑い戯れた姿は優美ですらあった。
彼は脇差を押しいただくと、西に向かい十念して、腹十文字に掻っ切って、五臓を腹から繰り出した所を、
秀次が手にかけて討った。この時19歳。

次に岡三十郎を召して「汝もこれにて腹切るべし」と、厚藤四郎の9寸8分を与えた。
「承り候」とこれも19歳であったが、さも神妙に腹を切り、また秀次が手にかけて討った。

3番目の不破万作には、しのぎ藤四郎を与え、「汝も我が手にかかれ。」というと、「辱し」と脇差を頂戴した。
彼はこの時17歳。日本に隠れなき美少年であり、雪よりも白い肌を押し開き、初花がやや綻ぶ風情なのを、
嵐の風に吹き散らされるように、弓手の乳の上に突き立て、目手の細腰まで引き下げた。
秀次はこれを見て「いみじくも仕りたり!」と太刀を振り上げると、首は前に落ちた。
誠に彼らを人手に掛けたくないと思われた、その寵愛のほどこそ浅からぬものであった。

その後、秀次は僧侶の立西堂を呼んで伝えた
「その方は出家であるから、誰も咎めるものは居ない。ここから急ぎ都に上り、私の後世を弔うように。」
しかし
「これまで供奉仕ったというのに、今更都に上って何の楽しみがあるでしょうか?
私も厚恩深き者ですから、出家であるからと言って逃げることなど出来るでしょうか?
僅かに命を永らえるために都に上り、人手に掛かるなど考えもできません。」そう言い切った。
この僧は博学多才、和漢の書に詳しく当檀那の弁を持っていたのに、秀次の酒宴遊興の伽僧となった事で、
多くの人々から宜しからぬ人物と思われていた。それが最後の供まで仕るのも不思議な事である。

次に秀次は篠部淡路守を召して
「この度私の後を慕い、ここまで参った志、生々世々まで報じ難いものである。汝は特に、私を介錯した後、供をせよ。」

淡路は畏まり、大いに悦んだ。
「今度、その跡を慕い参らんと思っている者達はどれほど居ることでしょうか。その中でそれがしは
武運にかない、御最後の供を申し付けられただけでなく、御介錯まで仰せ付けられました。今生の望み、何事かこれに過ぎるでしょう。」

これを聞いて秀次は心地よさげに静かに笑い、両目を閉じ、「迷故三界城悟故十方空」と観念して後、
「ならば、腰の物を」と申し付けた。
篠部は1尺4寸の正宗の脇差の中巻きしたものを差し上げた。
秀次はこれを右手にとり、左手で心元を押し下げ、弓手の脇に突き立てると、目手にキッと引き回し、
腰骨に少しかかったと見えた所で、篠部淡路守が刀を構えた。しかし秀次は「暫く待て!」と、
さらに取り直して胸先から押し下げた。ここで篠部は秀次の首を討った。

惜しむべきかな。御年31を一期として、南山千秋の露と消えられたのだ。哀れと言うにも余りあるではないか。
そして立西堂は死骸を収めると、これも秀次の供をした。

篠部淡路守は関白秀次の死骸を拝して後、3人の検使に対し
「それがしは不肖ですが、この度秀次様の後を慕った恩分に、介錯を仰せ付けられました。誠に弓矢都っての面目です。」

そう言うやいなや1尺3寸平作の脇差を腹に二回刺したが、切っ先が五寸ばかり背に貫いた。
更に刀を取り直し、首に押し当て、左右の手をかけて、前へと押し落とすと、頸は膝に抱かれ、身体はその上に重なった。
これを見た人は目を驚かし、諸人一同に「嗚呼」と感じ入った。

木村常陸も摂津茨木にて腹を斬った。その子木村志摩助は北山に隠れていたが、父の最期を聞いて、その日寺町正行寺にて自害して果てた。
熊谷大膳は嵯峨の二尊院にて腹を斬り、白井備後は四條大雲院、阿波木工は東山にて腹を斬った。
有為転変は世の習い、盛者必滅の理とはいいながら、昨日まで聚楽の花の春の宴も、今は野山の秋の露と、皆散り果てられた事も哀れである。

(石田軍記)



503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 20:07:35.12 ID:dM5tBKtA
グロ、と書きたくなるわ

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 20:13:45.93 ID:BSUyfD/D
そんなこと言ってたら戦国時代行けないぞ

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 10:43:58.52 ID:6QVQ91xf
秀次事件て秀次はどうでもいいけど連座させられた人たちがかわいそうで仕方がない

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 15:55:20.00 ID:SCP5Kk/o
女性陣が悲惨すぎて草も生えない
当時女性への極刑は珍しかったのになんやあれ(ドン引き
秀吉ぐう畜過ぎ

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 17:46:30.88 ID:ApKa+Wr8
畜生塚、て呼ばれたってことは当時の人から見たら秀次たちがぐう畜扱いされてたのでは

一乱の前年に逝去したのは

2016年12月01日 16:20

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 17:24:29.85 ID:uyfCbhaP
一乱の前年に逝去したのは


池田輝政の妹は秀次の御台所だったので、そのことから
秀次が持っていた薬師院肩衝を輝政が所望したことがあった。
太閤はそれを聞いて
「その茶入は三左衛門(輝政)に与えなさい、その代わりに投頭巾の茶入をあげよう」
と言って秀次に投頭巾の茶入をやったが、秀次は薬師院の茶入を輝政に与えなかった。

その後秀次は生害し、聚楽の御殿は破却され宝物は悉く伏見の御城へ上り
薬師院の茶入も伏見へ上っていた。諸大名の内で秀次へ一味した者がいないかと
ご吟味があり(輝政は)誓詞を仰せ付けられた。

ある人が
「三左衛門は秀次の縁者なので一番にご吟味されるべきだ!」
と言うと、太閤は
「三左衛門が一味ではないのは明らかである。
 その訳は(輝政が)所望の茶入の代わりを(秀次が)受け取りながら
 三左衛門に与えなかったというこの恨みは深いので疑う所はない」
とし、その後太閤は薬師院の茶入を三左衛門に与えられたという。

以上のことは真田将監(池田家臣)が物語したことだが、池田家譜で
秀次から拝領したとしているのは誤りだろうか。
秀次の御台所は一乱(秀次事件)の前年に聚楽で逝去していたので、
そのことを池田家の吉事と言ったという。


――『古老物語聞書』



伊勢から駿河までの城主は、聚楽の豊臣秀次に

2016年11月28日 18:29

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 08:45:22.81 ID:TtoGbpWs
文禄3年(1594)、豊臣秀吉は山城国伏見の指月に城の建設を進め、日を追うごとに石垣や天守が
造られていった。
すると秀吉は、伊勢から駿河までの城主は、聚楽の豊臣秀次に遣わし、その他の東国北国西国の大名たちは、
皆伏見に移った。このため家造りは夥しいものであった。

(慶長年中卜斎記)

指月伏見城建設の時点で、秀次は東海道だけの存在になっていたのですね。



血がついた手の跡、足形、またはすべったかとみえる痕

2016年09月17日 20:14

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/17(土) 00:25:27.25 ID:iAZnnAm7
方広寺大仏殿開帳(天保三年,1832年)のとき、
京都を通行した者が来て、そこで聞いた話をしてくれた。

かの大仏の宮の殿内、宝物を置いた間が所々ある中で、
書院の縁側、幅二間長さ十間ばかりの所の板天井に
血がついた手の跡、足形、またはすべったかとみえる痕がある。
その色赤いのもある。黒づいているのもある。
板天井一面がこのようである。

人に伝わっているところでは、
昔関白秀次生害のとき、随従の人が腹切り刺違えなどして死んだときの
板敷の板を、後に天井板にしたものという。

(甲子夜話続編)




エムベロルの覚え目出度からんためには

2016年02月20日 12:54

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 21:59:32.75 ID:2fmnXVf9
それより両エムベロル(豊臣秀吉・秀次)は、その随行全員とともに、日本最大の諸侯である
飛弾殿(Fidandono 蒲生氏郷?)の宴に招かれたが、これもまた善美を尽くしたもので、
皿を覆っている金箔だけでも4千クラウンを要し、酒宴の費えはこれよりも遥かに多額を要した。
どういう事かといえば、エムベロルに対して飲む酒盃の数は九献にして、第一杯には献品として
1万クラウンを要し、第二杯より暫時上がって、最期には一杯目の倍、2万クラウンとなる。
故に饗宴費はほとんど計算することすら出来ない。エムベロルの覚え目出度からんためには、その費用を
惜しむことなど出来ないのだ。

翌日、太閤様はまた、八州の太守ギエタゾ(Gietazo 徳川家康?)の邸に赴き、飛弾殿のそれにも劣らない
饗宴に臨んだ。

(モンタヌス日本誌)

蒲生氏郷が、秀吉の御成りを受けた饗宴の模様。しかし、ギエタゾ…?



185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 22:15:09.13 ID:EWxuNQyH
ポルトガル語なら
giはジ、もし最後のoがなければzはスに近くなるから
ジエタスにはなるか
や行の発音はたしかなかったからこのあたりが曖昧になるんだろう
前のレスを見ても「山口」を「アマングチウム」とか書いてたし

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 08:39:46.73 ID:T0tcXj2W
ジエタス→いえやす にはなるか
でも家康を家康って呼ぶ人はいないよなあ
トクガワヌスとかにならんのか

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 11:13:36.47 ID:+HWr++cl
>>187
当時の家康くらい高位になると「徳川」と書かかれたりすることの方が少ないよ

諱を書かれることについて「政宗」がよくネタにされるけど、書状なんかで「家康」
と書かれてる事がかなり多い。
ある程度のビッグネームには多い現象なんだよね。

もちろん当人への書状の宛名に使われるのは「江戸大納言」等だけどね。

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 11:24:45.82 ID:fgf6N03W
歴史上の人物は諱OK、雲の上の人も諱OK
宛名での諱を名指しも場合によっては一周回って厚礼になったりする場合もあるから複雑

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 17:31:11.87 ID:D1hnpXG6
諱呼びは「大名の中でも有名人枠」みたいな扱いじゃね
名字も領地も官職も書かないけど皆知ってるよねポジション
政宗と景勝が特に諱でほいほい出てくるせいか
北国でその傾向が特に強いんじゃないかって話は見たことがある

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 21:01:53.13 ID:1/ck4STB
「みなさん、本物の政宗でございますよ」
「偽物がいたら見てみたいんですけどね」

じゃねえよなあ

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 14:27:00.42 ID:ou0lTV7q
>>195
佐竹家老梅津政景の日記で、義宣と親しい景勝が普通に日記上で諱で登場するんだが
景勝が亡くなって定勝に代替わりすると普通に「上杉弾正少弼」に表記が変わるので
身分の上下などでは表せない個人に対する敬意や親しみなんかが
諱表記で表現されるんだろうって研究がある

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 20:56:04.71 ID:+cazqg1Z
>>201
親疎や経緯はありそうだけど、定勝は景勝に比べて官位などが
恐ろしくグレードダウンしてるから比較対象としてどうなんでしょう?

これがすなわち松梅院の先祖である

2015年12月04日 13:55

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/04(金) 12:53:59.54 ID:CEXRMiHA
 北野聖廟院の宮司は昔から妻帯で神務なされていたところ、天正年中に清僧が『出家した者もいるのもよいだろう』とのことを申した。そこで宮司達は相談して、日枝山に申し遣わしたところ、
『高僧が上京して神務に加わる』、と申されたという。

これがすなわち松梅院の先祖である。

 この僧は隠密に妾に女子を産ませていた。後に殿下秀次公の妾となった。
この勢いで古来からの書物などを宮司から取り立てて、ついに天満宮第一の社僧となった。もちろん妻帯も許された。
それからは相続は今の通りとなり、宮司は逆に下座となった。ひとえに秀次公の威勢によるものである。
この松梅院の女は秀次公が自害なされた後、七条河原で死罪となった。
今でも松梅院では、大切にこの女の年忌を務められなさっているとの事である。

そして、宮司は他所からの養子は制禁のところ、自然と隠して他から貰って、実子と申し立てましても、
早世か、または身持ちは放埓でその家を潰すかで、神慮の程がはっきりとあらわれている。
それなので、互いに仲間同士で養子をしているとの事である。
(本阿弥行状記)




秀次公の事は

2015年11月16日 16:31

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/16(月) 15:17:50.53 ID:D/ynLXEf
 秀次公の事はもっぱら石田の讒言と申し伝えられているが、決してそのような事ではないでしょう。
また殿下に対して謀反をする程の器量の人でもないでしょう。
文武両道の事は少しも知らず、浮き立って驕り散らして、天下を保ちなさる人ではなかったでしょう。
そのうえ神代より関白職の事は藤原氏に限られていたのに、
恐れ多くも二代も関白職を持ちなさったようなことをなされたので、
春日大明神の罰があったのでしょう。
(本阿弥行状記)




652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/16(月) 15:31:01.57 ID:169FjyFW
本阿弥光悦の逸話暫く前から貼られてるけど
身分制度の悪い面を抽出したような逸話ばかりで
段々イライラしてくるな
新手のネガキャンかこれ

秀吉の愛妾が秀頼という男子を生んだ

2015年10月06日 19:26

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 00:47:37.43 ID:0a5oehs5
 賊魁(豊臣秀吉)には子がなかったので、妹の子を自分の養子にした。賊魁が、大閤と自称するに及んで、その養子を関白にし、伊勢・尾張などの州を分って領土としてやった。
 
 壬辰(1592)年の冬になって、秀吉の愛妾が秀頼という男子を生んだ。
〈ある者の言うには、大野修理大夫(治長)なる者が、秀吉の寵を得て、つね日ごろから寝室に出入りし、秀吉の愛妾とひそやかに通じて生んだのだ、と〉

秀頼が生まれてからというもの、関白(豊臣秀次)は、自然と心に疑いや懼れが生じ、暗に叛意を抱いた。石田治部(少輔三成)は、彼に従いながら、これを陥れた。
秀吉は、関白を自決させようとしたが、関白は紀伊州高野山に逃れ、剃髪して僧となった。秀吉は、ただちに、その所在で、またこれに死を賜った。
〈倭の法では、死罪に当る者でも、領土を捨てて僧侶になれば、通例として不問に付すのであるが、秀吉だけは、関白を殺してやっと満足したという。〉

 関白の屋敷も包囲し、その部下を一人残らず殺してしまった。その屋敷は没収して、加賀大納言(前田利長)の与えた。

(看羊録)

秀頼出生にまつわる浮名が朝鮮の捕虜にまで耳にしているということは、当時でも有名なゲスネタだったのかも



404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 07:52:40.25 ID:ipxYJqjU
スキャンダルはいつの時代も盛り上がるんだねえ。

ふたつの藤四郎

2015年06月25日 12:59

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/24(水) 19:09:30.95 ID:LLYxrcJj
ふたつの藤四郎

鎬(しのぎ)藤四郎と厚藤四郎という短刀がある。

鎬藤四郎は織田信長が所有し、これを息子の神戸信孝に与えた。
その後関白豊臣秀次が所有し重器として珍重したが、彼が高野山で自害する時、
小姓の不破万作が殉死を請うたため、この鎬藤四郎を与えて切腹させたという。

この刀は後太閤秀吉の手に入り、秀吉逝去の時、その遺物として伊達政宗が賜った。
そして政宗逝去の後、嫡子忠宗より将軍家光に献上され、徳川家の重器となった。

厚藤四郎は足利家代々の重器であったが、いつしか紛失し、その後堺の商人の手に落ちたのを、
黒田如水が知って買い求め、それを豊臣秀次に献上した。
秀次切腹の時、小姓の山田三十郎も殉死を請うたため、これを与えて切腹させた。

これも、そののち太閤秀吉の手に入り、程なく毛利秀元が賜り、やがて秀元から徳川家光に
献上され、こちらも徳川家に納まった。

秀次の小姓二人を切腹させた、ふたつの藤四郎についての逸話である。

(刀剣談)




978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/24(水) 19:44:27.97 ID:D8uCv7te
若死にのはずなのに不破万作ってどっかで聞いたことがあるな、
と思って調べたら天下三美少年だったのか

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/24(水) 23:43:52.41 ID:JszQow8o
信孝自害の際に藤四郎もちいたのかな?

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 11:35:54.22 ID:fHKZT830
全然、来歴違うのに同じ事件の切腹に使われるような不吉な刀か
徳川に仇をなす村正とかと同じで何かあるのかね

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 15:09:17.65 ID:rUKrOdBH
武田信虎の武田左京大夫信虎所持兼定 、鬼武蔵の人間無骨、三歳の歌仙兼定

持つと家臣や仲間を斬り殺したくなる妖刀之定…

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 20:55:27.21 ID:kqBXHWdi
>>981
二代目兼定自身も吃驚だな

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 23:43:47.31 ID:RityHn55
>>981
よかった。刀のせいだったんだ!

28人の連署血判状

2015年05月20日 16:31

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 03:27:49.74 ID:gvyvudER
28人の連署血判状

文禄4(1595)年7月15日に高野山で豊臣秀次が切腹させられると、豊臣秀吉は諸大名らに改めて豊臣秀頼への忠誠を誓わせた

敬白天罰霊社上巻起請文前書事
一、御ひろい様へ対し奉り□表裏別心を不存御為可然様ニ致覚悟御奉公可申上事
一、御ひろい様之儀疎略を存大閤様御置目を相背ものにをいてハ縦雖為縁者親類知音其者と不可組仕候其上御置目相背者御□明之刻誰々の儀たりといふとも見かくし聞かくさす有様之通可申上候事
一、諸事大閤様御法度御置目之通無相違まもりたてまつるへき事
一、大閤様御恩深重蒙申候間面々一世之うちハ不及申上子々孫々迄申伝公儀之御ためをろかに不存無二ニ可奉尽忠功事
一、諸はうはい(傍輩)私之遺恨を以公儀への御述懐存ましく候下々出入之儀者互せんさくの上を以御批判次第ニ各御異見にもれ申ましき事
右条々若私曲偽於御座候ハ此霊社上巻起請文
御罰深厚ニ罷蒙今生にてハ白癩黒癩の重病をうけ弓箭之冥加七代まてつきはて於来世者阿鼻無間地獄に堕罪し未来永劫浮事不可有之者也仍前書如件
文禄四年七月廿日

羽柴東郷侍従血判花押、羽柴伊奈侍従血判花押、羽柴能登侍従血判花押
羽柴安房侍従、井伊侍従血判花押、羽柴出羽侍従血判花押
羽柴土佐侍従血判花押、羽柴常陸侍従、羽柴薩摩侍従血判
羽柴左近侍従血判花押、羽柴金山侍従血判花押、羽柴伊賀侍従血判花押
羽柴群上侍従血判花押、羽柴北庄侍従血判花押、羽柴松任侍従血判花押
羽柴吉田侍従血判花押、羽柴京極侍従血判花押、羽柴若狭侍従血判花押
羽柴常陸侍従血判花押、羽柴結城少将血判花押、安房侍従血判花押
羽柴越中少将血判花押、羽柴丹後少将血判花押、羽柴安芸宰相血判花押
羽柴岐阜中納言血判花押、羽柴越後中納言血判花押、羽柴江戸中納言血判花押
羽柴筑前中納言血判花押、羽柴大野宰相血判花押、常真血判花押

宮部中務法印
民部卿法印
冨田左近将監殿
増田右衛門殿
石田治部少輔殿
長束大蔵太輔殿

三条河原で秀次の女房側室らが処刑されたのは、この起請文の出された少し後の8月2日の事である

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 04:23:13.82 ID:gvyvudER
羽柴安房侍従と安房侍従、
羽柴常陸侍従の被りがわからない…

東郷(長谷川秀一)、伊奈(京極高知)、能登(前田利政)
安房(里見義康?)、井伊(井伊直政)、出羽(最上義光)
土佐(長宗我部元親)、常陸(佐竹義重か義宣?)、薩摩(島津忠恒)
左近(立花宗茂)、金山(森忠政)、伊賀(筒井定次)
郡上(稲葉貞通)、北庄(堀秀治)、松任(丹羽長重)
吉田(池田輝政)、京極(京極高次)、若狭(木下勝俊)
常陸(佐竹義重か義宣?)、結城(結城秀康)、安房(?)
越中(前田利家?)、丹後(長岡細川忠興)、安芸(毛利秀元)
岐阜(織田秀信)、越後(上杉景勝)、江戸(徳川秀忠?)
筑前(小早川秀俊)、大野(織田秀雄)、常真(織田信雄)

宮部(継潤)
民部卿(前田玄以)
冨田(知信一白)
増田(長盛)
石田(三成)
長束(正家)




807 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/20(水) 11:03:19.28 ID:+GFdQTQ6
>>802
羽柴と侍従だらけで、>>803で説明されてなかったら、
どれが誰やらまるで分からんw

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 11:06:28.30 ID:IBFcmSP8
どきっ羽柴侍従だらけの豊臣政権。首がポロリもあるよ!



809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 12:41:24.62 ID:gvyvudER
訂正)
×羽柴群上侍従
○羽柴郡上侍従

また、>>803の羽柴越中少将は前田利長みたいです
前田利家は同時期に羽柴加賀中納言の筆がありました

※署名は後方に行く程上位の者とされている様ですので、この中では常真(織田信雄)が最上位扱いになります

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 12:52:05.23 ID:gvyvudER
推測ですが、誓紙の名前の被りで血判有り無しの「羽柴安房侍従」「羽柴常陸侍従」は里見義康と佐竹義宣(1590年侍従任官)で、血判無しは「立場や席次からの書き間違い」、後にある血判有りが「正規の署名」扱いの様です



810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 12:46:43.42 ID:6IU1aKE/
流石ノブオは格が違った

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 22:46:32.44 ID:uFliiaxa
>>802
大関ヶ原展に秀次事件以後に前田利家から提出された血判起請文が展示されてた

熊野誓紙に日本全国の神仏の名前がびっしり書いてあって吹いた。
あれって約束を破ったら、書いてある神仏の全てからばち当たる
って意味なんだよな。小学生かよww

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 23:24:46.45 ID:2duolGQo
>>814
信じてねぇからこそできることだなw

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 23:32:05.93 ID:cqILzzfx
キリシタン大名の場合は「天道のガラサ(恩寵)」が離れるとか誓紙に書いてたようだが
こっちは本当に罰が当たると思ってたんだろうか

豊臣秀次娘・お菊のこと

2015年04月02日 18:21

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/02(木) 14:03:01.18 ID:IehglBm9
 豊臣秀次が高野山で自害させられた後、秀次の妻子たちも処刑されることとなったが
秀次と小督局の間に赤ん坊は まだ生まれたばかりでしかも女の子だったため助命され、
その身柄は和泉の国、波有手村に住む親戚の後藤興義に預けられた。
 赤ん坊はお菊と名付けられ、後藤興義夫妻とその娘のお梅に囲まれて幸せに育った。
お菊は義理の姉にあたるお梅と仲が良く、大きくなってもいつも助け合っていた。
 お菊が20歳になった頃、彼女は紀州の山口村で代官をつとめる山口喜内の嫡男、山口兵内
ところへ嫁ぐこととなったが、山口村で結納を済ませたすぐ後に大坂夏の陣が起こり、大坂城
から戦いの参加を求める使者がやってきた。夫の山口兵内はすぐに戦の支度をして出発したが
途中で徳川に味方する紀州の浅野の軍と戦いとなり、討ち取られてしまった。その知らせを
聞いた舅の山口喜内は仇討ちのため戦支度を始めると、お菊は「浅野の殿様に従うふりをして
やりすごし、山口村と大坂城で挟み撃ちにした方が得策でございます」と進言し、そのために
大坂城へ手紙を届ける役目をかってでた。
 お菊は2人の共を連れて大坂城を目指したが、和泉の信達村まで来ると周囲は敵兵ばかりで
あった。そこで近くの堀河山に登って一本の松の木の下でひと休みして思案したお菊は自分の
髪を切って男の侍の格好に変装することにした。そして、松の木の根元に自分の髪の毛を埋めると
山を降りて敵の目を盗んでやっとの思いで大坂城に辿り着いて密書を届けることに成功した。
 大坂城からの作戦の返書を受け取ったお菊はその返書をまげの中に隠してすぐに山口村へ
引き返した。ところが樫井川のほとりまで来た時に敵の襲撃を受けて共の一人が殺され、
さらに逃走中にまげがほどけて返書を落としてしまい、敵に奪われる結果となった。
 お菊は山道を急いで山口村に着いてみると、時すでに遅し、村は紀州の浅野の軍勢に滅ぼされていた。
 夫の一族を失って絶望したお菊は自害を考えたが、死ぬ前に育ててくれた家族に会いたくなり、
夜道を歩いて波有手村の実家に戻った。
 変わり果てたお菊の姿を見て養父母は驚いたが、暖かく迎え入れてかくまった。養父の後藤興義は
お菊をなぐさめるために隣り村に嫁いでいるお梅を呼び寄せた。お梅は自分の子供を連れて帰ってきて
お菊の話し相手となった。
 しばらくして浅野の侍たちがお菊を捜しに波有手村にやってきた。お菊は家の奥に隠れていたが、
侍たちが家の中にまで入ろうとすると姉のお梅が「私がお菊です」と名乗り出て身代りになろうとした。
お梅が連れて行かれそうになった時、お梅の子供が飛び出してきて母親にすがりついた。
そこへお菊が出てきて「待ってください。私がお菊です」と叫んだ。姉が身代りに捕まるのを
見過ごせなかったのである。姉のお梅は「いいえ、お菊は私です」と主張してなおもお菊をかばおうと
したが、お菊は「お姉さん、お気持ちは嬉しいですが、もう覚悟は出来ています。どうか亡くなった
主人のところへ私を連れていってください」と涙を流しつつ言った。みな声をあげて泣いたが
どうすることもできない。侍たちに連れて行かれたお菊は紀の川の田井の瀬の川原で短い生涯を閉じた。
 その後、養母の手によって波有手村の法福寺にお菊の木像がまつられた。いつしか、このお寺は
「お菊寺」と呼ばれるようになり、お菊が登った堀河山は「お菊山」、髪を埋めた松の木は
「お菊髪結いの松」と名付けられた。




秀次事件と細川忠興

2015年01月26日 18:44

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 18:01:25.88 ID:WdkrArKW
文禄四年七月中旬に、摂政関白秀次公御身体、果て申す次第

前野但馬守長康殿、同出雲守殿(景定)、木村常陸、白井備後、石河伊豆、羽根長門守と言った人々に、
秀次公は『何事にても、申し付けた事に異議を立てない』との内容を書き物にして提出させていた。

この事を石田治部少輔(三成)が聞きつけ、太閤様(秀吉)に申し上げたため、太閤様は秀次公に、
遣いを以ってこの件を糾明させた。

これに秀次公は大いに驚き、聚楽より伏見に御出でになり色々と弁明したものの、太閤様は納得
しなかったので、伏見から高野山へと上られた。
そして福島左衛門大夫正則殿が検使に遣わされ、秀次公は切腹なされられた。
かの書き物を提出した人々も、残らず切腹が仰せ付けられた。中でも前野但馬守殿父子は、中村式部少輔(一氏)
預りとなり、駿河府中にて、但馬守殿、その子息出雲守殿、切腹と成られた。

細川忠興様は右の書き物の件には関係していなかったが、秀次公より別して懇ろにして頂いており、
どういうわけか黄金百枚を拝領していた。その上前野但馬守殿の子息出雲守殿は、忠興様の聟であり
縁者であったため、石田治部少より「彼も一味している」と申し立てられたため、太閤様も是非無く思われた。

聚楽の細川屋敷に忠興様より米田助右衛門殿が遣わされ、伏見より急報が有れば、息子たちを殺した上で
屋敷に火をかけ、助右衛門も切腹するという事に決まったと、忠興様の御意が伝えられた。

黄金百枚の事は施薬院法印(全宗)の肝入で、秀次公より借用したものであり、拝領したものではないとの
弁明を、米田助右衛門が徳善院(前田玄以)を通じて太閤様へ申し上げると、その時太閤様が仰せになったのは

「先年の明智謀反の時、信長公の御恩を知り、明智に一味しなかった。たとえ今回秀次に一味したとしても、
その時の忠節により赦免いたす。」

この言葉が徳善院より仰せ渡せられ、忠興様もご安堵なされた。

細川忠興軍功記)

秀次事件の折の、細川忠興の様子である。




天正19年の鷹狩

2014年12月20日 17:29

51 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 19:10:48.25 ID:t0QMj00O
かつて日本には、極めて位の高いクボウサマ(公方様)がいた。
ヨリトモ(頼朝)と呼ばれるこの貴人については、彼が残した偉業とその名声によって、後世多くの事が
書き著された。
公方とは、日本全土の国主である内裏の総大将という意味である。(征夷大将軍)
日本の諸侯や武将達は、この公方様に優位と支配権を承認していた。

この頼朝に関して語られる著名な行事の一つに、彼が自らの偉大さを誇示するために、フジノヤマ(富士山)と
称せられる日本で最も有名な高山において、日本の多数の君侯や武将を従えごく盛大に鹿や猪の狩猟を行った。
各々は自らの位階と称号に応じて、華麗な紋章を掲げて参加し、その際、多くの儀式と壮大な催しが展開された。
この狩猟と王家(源氏)の遠乗りのことは、後世に至るまで華やかに喧伝され、日本の権威ある著述家達は、
これを厳正で著名な史実の一つに数えていた。

これまで既述したように関白(秀吉)は、何にも増して栄誉と名声を求めていたので、次の二つの効果を期待し
大規模に、かつ権威を以って、尾張国で新たな狩猟を行うことを決定した。
彼が第一に意図したのは、それを壮大かつ豪勢に催すことによって、約五百年この方、華やかに祝われている
頼朝の巻狩りへの人々の記憶を弱めしることであった。
次には日本の武将たちにこの耳寄りな情報を歓喜を持って迎えさせ、その祭典を楽しませることによって、
困苦を伴うシナ制服事業について、彼らが抱き続けている苦悩を、悦楽で以って暖和させることにあった。

かくて関白は、5,6日の行程にある尾張国へ絢爛豪華な装いで出発していった。
彼はこの行事に天下の最も高名で主だった武将たちを伴い、多数の猟犬と高価な各種の鷹(日本には
その優れたものが少なくない)を用いることによって、その点では単に鹿や猪を射止め、自らの力で、
すなわち鷹を用いないで鳥類を捕獲するに過ぎなかった頼朝の巻狩りとは異なる物であることを、示そうと欲した。

日本の武将たちは関白を喜ばせる事ならいかなる事でも従っていたので、この催しに際しては、彼の口から
何らかの賛辞に与ろうと、衣装や馬具にあらゆる気を配り、濃紅色の絹練糸で作ったアルパカ、その他それに
類したものまで携えていたほどであった。

狩猟は大成功裡に終わり、多くの人々が証言する所によれば、二千五百羽以上の大型の鳥の獲物があり、
貴人たちは宴席を張ってそれらを賞味したという。

一行がまるで凱旋するようにして都へ帰る準備をしていたちょうどその時に、関白が以下尾張国へ、
甥の大納言殿(秀次)が到着した。彼は遠いクワントウ(関東)で起こったいくつかの反乱を鎮定するために、
関白によってかなりの軍勢を率いて派遣され、その地方から帰ってきたのである。(葛西大崎一揆)
彼はその使命を遂行して大いに面目を施し、諸国、並びに叛乱したその地の武将たちを服従させ、
多数の敵を破滅せしめ、万事に平和を樹立した。
関白はかねてから天下の政権と関白の称号を彼に委ねる考えであったので、その場において甥に対し、
その任務の重さ、また広大な支配を司るのに必要な熟慮について多くを語り、諄諄とその理を説いた。

(中略)

52 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 19:11:15.46 ID:t0QMj00O
彼はこのように大納言を訓戒し、特に重要な点に関して心得るべきことを述べた後、整然と続く絢爛豪華な
随員を率いて都に向かって出発した。先頭には狩猟の獲物である二千五百羽の大鳥が運ばれた。
それらの一つ一つは金色の長い竹に吊るされ、その1本毎に一人の男が配置され、順番に運んでいった。
獲物の後を鷹と猟犬が続き、それらを率いるきらびやかな衣装の貴人たちが行進した。
更にその後を、豪華な馬具を付けた二十頭の馬が随行して続いた。さらに二台の立派な輿が運ばれた。

関白の前方には、ごく身分が高く、日本では最大級の武将が続いていたが、当時彼らは追放に処せられた
身分であったので、関白の前方で両側に分かれ、およそその境遇にふさわしい役として、
一匹づつ猟犬の手綱を取って行進した。
豪華な光景の中にあって、その余りにも高名で高位の武将たちが、かくも下賎な役目を果たしている姿は、
目撃者達に不思議な驚嘆の念を喚起せしめずには居られなかった。

そのすぐ後を、当の関白が進んだが、彼が乗っている豪華な輿には、大きな銀の飾りが填め込まれ、
中央にはやはり銀製の、尊大な怪人の面があり、立派な天蓋のような覆いが上部にあり、輿を担ぐ
棒の両端には、緑のビロードで飾られた蒲団がついていた。そして彼の後方に多数の貴人と従者が続いた。

関白は都に到着すると直ちに甥秀次を自分の後継者に定め、関白の称号を彼に譲り、自分は
タイコウサマ(太閤様)の称を選んだ。彼は甥にまず邸宅として、以前都に造営した宮殿と城(聚楽)を
与え、自らは大阪に住むことにした。

また黄金で金1コントと銀で金半コントを授け、日本の宝物である極めて美麗で高価な、茶の湯のための器、
古くから伝わる名称の作になる由緒ある両刀と短剣、その他多くの品を与えたが、それらは日本では
一つの巻物の中に特別に記入される事になっている。更に関白は彼の通常の費用と個人的経費として
60万俵の俸禄を授けた。

彼は甥に対してこのように莫大な譲渡を行いはしたものの、自らはその権限、人々から受ける尊敬、支配力、
所領等において何一つ譲ることも失うこともなく、従来と何ら変わりなく万事において支配を続行した。
彼は自分が斃れることがあっても、主だった武将らに、その甥が天下の君として定められていることを
認めさせようとして、この策略を用いたのであった。

(ルイス・フロイス「日本史」)

天正19年(1591)、小田原役の翌年に行われた、豊臣秀吉による約1か月に及ぶ大規模な鷹狩りについての
ルイス・フロイスの記事である。



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/19(金) 20:04:27.13 ID:HlC7eFB5
最初の方だけ読んで、曽我兄弟の仇討ちでも書いてるのかと思ってしまった

浅野幸長の能登配流

2014年11月18日 18:41

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 22:56:27.29 ID:/RSIwZRJ
大河ドラマでスルーされたのが切なかったので
>>810の前後、幸長の身に何があったのかも投稿しておきます


浅野幸長の正室は前田利家の娘・養泉院(文禄2(1593)年に早逝)で
その後、池田紀伊守信輝(恒興)の娘・慶雲院を後室に迎えた。

そして豊臣秀次の正室も同じく、信輝の娘(若政所)だった。

そこで秀次が謀叛の猜疑をかけられ、文禄4(1595)年7月に高野山で切腹した際
幸長にもその嫌疑がかけられた。

事の次第は「謀叛の連判状に幸長の手跡があった」というもので
伏見において、大老五奉行列席の上で取り調べが行われたが
最終的にはそれが幸長の手跡ではないと判断された。

何故連判状に幸長の手跡があったかというと
幸長の祐筆に磯谷十蔵なる者がいたが、幸長の機嫌を損ねたため、石田三成に仕えることになった。
三成がこの磯谷を使って謀叛をでっち上げたのである。

そして三成は、事が露見しそうになると磯谷を殺そうとしたので
磯谷はこれを怖れ、幸長に全ての次第を告白し、これを以って幸長の無実が証明されたという。

しかしながら秀次とは親族の間柄であるので、兎にも角にも能登国鶴崎城への左遷の命が下った。
幸長は利家の屋敷に一旦引き取られ、同年8月能登へと出発した。


↑ここまでが能登配流の経緯

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 23:03:07.60 ID:/RSIwZRJ
↓ここからは帰参にまつわるお話(こちらはいい話なので、おまけとして)


文禄5(1596)年
伏見で明の使節と謁見した秀吉は、封書を見て大いに怒り
再び渡海し朝鮮を攻め、明へと侵攻するべしという命令を出した。

そこで徳川家康が、

「左京殿(幸長)は三千の兵を率いて渡海するべし。秀吉公には私から話をつけた」

と、幸長の帰参をとりなしてくれたので
父の長政は大変喜び、小足源左衛門を利家からの使者に添えて能登へと使わした。

使者は昼夜を駆け、鶴崎城に到着。
折しもこの時、幸長は城の中庭で弓を射っていたが、
鶴崎城は高台にあり、遠くを見渡すことが出来るので、幸長には二騎が鞭で追って駆けてくるのが見えた。

幸長は「これは只事ではない。ついに切腹の沙汰が下り、その検使が来たのだろう」
と思って、切腹の用意を命じた。
しかし使者が近付いてくると、その一人が家来の源左衛門であることが分かったため、
急ぎ「何事か」と尋ねたところ
秀吉から御赦が出たので迎えに来たという、目出度い使者だと分かった。

これに一同は安心し、切腹の用意は俄かに帰国の用意へと変じた。
こうして幸長は同年10月初めに、帰参が叶ったということである。



(共に『浅野長政公伝』より)




825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 23:48:45.67 ID:sWAI5QZj
下手にこの時期御赦なんか出なかったら、渡海せず朝鮮にも行かず遊女遊びもせず、梅毒にもならずそしたらもうちょい長生きできてたかもな

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:42:11.51 ID:AhAL2do8
一生懸命よくわからん土地で戦って、後妻もらったら難癖つけられて切腹させられそうになるんだもんな。そりゃ、心離れるわ。

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:44:12.62 ID:7E5JT4/m
>>825
この時期だからこその御赦じゃ…武勇で有名だったらしいし手駒として。
この後の蔚山城での死闘も踏まえると、>>824も悪い話と言えるかもしれん。


ところで他に大河でスルーされた池田や地味加藤の逸話は……。

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:53:55.97 ID:i85WcvmH
大河の忠興はヒドかったぞ

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 01:49:10.04 ID:4lAv9pPZ
>>827
確かに幸長は武闘派で鳴らした勇将だもんな
合戦には必要不可欠な将だろうが、余りに短命だからふともう少し御赦が延びてればと思ったんだ

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:20:44.84 ID:AhAL2do8
>>827
ジミーさんって大河ででてきたことあるんだろうか。

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:29:12.46 ID:4nD8sGuB
>>828
いくら主人公とはいえ如水さんが忠興の功績を全部かっさらっていくとは

>>830
加藤嘉明は葵徳川三代で、家光の具足親をやったシーンがちゃんと有ったよ。

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:47:58.93 ID:mOvZS9tu
大河みてたらことのほか三才が肥満体で笑った

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:57:43.13 ID:7E5JT4/m
>>828
大河の忠興は何であんなに太ましいのか。
長政と対立したりガラシャに自害を命じたりする奴には見えないwいい人そうw

>>830
功名が辻にも一応いたような…?

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 08:55:44.94 ID:BuhQ+WP2
ジミーさん大河出演歴あるのか。ネタがなくなると主演あるかな。清正とのダブルキャストで。二人の加藤とか。

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 14:33:14.58 ID:Q1hBnzee
>>834
砂加藤「俺も仲間に入れてくれよ~」

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 16:52:14.88 ID:LwSHz8/F
飛び加藤も忘れてるし

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 19:42:49.60 ID:c3cxOapc
ジミーさんは葵三代ならちょいちょい出てるよ
>>831みたいに主役になる場面以外でも
七将襲撃とか小山評定とかにも出てるよ…うん…出てるだけだけど…

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 07:16:00.85 ID:jG4jvGsl
賤ヶ岳七本槍が主役の大河ならジミーさんも主役

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 08:19:37.26 ID:8OLblkt5
松山:坂の上の雲
会津:八重の桜
地元がジミーを推す理由はなさそう

黒田如水はこれを憂いて、秀次に

2014年06月30日 18:54

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/30(月) 05:00:00.79 ID:AJuuPZZO
文禄4年(1595)の頃、豊臣秀次は関白職にあり、天下の人々はこれをあがめ尊んだ。
然れども秀次は、元来強悪の人であったため、その奢りは日々盛んとなり、常に酒色に溺れ
遊宴を事とし、政道に心をかけず、余人を殺すことを好み、その暴悪極まりなしといった有り様であった。

黒田如水はこれを憂いて、秀次に諫言をした

「秀吉公は若年より、弓矢に辛労されたこと数十年に及び、漸次天下草創の功を成し遂げられました。
そして今、年齢は既に六旬(60代)になられ、朝鮮征伐のため自ら名護屋に下り、日々軍事に
お心を苦しまれておられますれば、御精力尽きてお命も縮まることでしょう。

ところで、貴公は一体何者ですか!?太閤殿下の御子ではありません。また同姓でもありません。
たまたま太閤殿下の御寵愛があって、父子の約束をされ、数ヶ国を領し、いまそのように
関白の位に上り、天下の人々から仰ぎ尊ばれ、栄華を極められています。
これは一体、誰の恩ですか!?
その上、太閤百歳の後(死後)、後を継ぎ天下を保たれる人は、貴方でなくて誰でしょうか!?

今、太閤殿下が名護屋に下り、朝鮮の軍務にご苦労甚だしいのを知りながら、太閤殿下に変わって
名護屋に下ろうと思われるお心もなく、京都にいながら日夜遊興酒食をのみ好まれ、身を安楽に置き、
太閤殿下の御恩を忘れられていること、不孝の至であり、天道の憎まれることであれば、必ず御身の
災いとなるでしょう。よくよくご思案なされるように!」

そう言ったが、秀次は終にこの諫言を用いず、また秀吉に変わって名護屋に下ろうと思う心もなく、
悪逆もなお止まなかったため世の人々は漸次彼を疎むようになっていった。
そして秀頼が生まれ、秀次の威勢も衰えたが、関白職を秀頼に譲る心も無かった。

そのような中、この年の7月上旬、秀吉に対して秀次が謀反の企てをしたとの情報が聞こえ、
秀吉は検使を遣わして、秀次を高野山で切腹させた。

如水の諫言を用いず、この様になってしまったことは、頑愚の至りというべきであろう。

(黒田家譜)




606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/30(月) 05:43:37.98 ID:zr1EUZlJ
秀次「ところで貴公は一体何者ですか!?」

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/30(月) 08:36:15.26 ID:eD4z2JJ6
消されてしまうと何でもありなんだなあ
てか、秀次失脚にはやっぱ如水もかんでんのかなあ
吉川みたいにさ(ヲイ

仮に無事に政権を存続させていたとして、家康が野心をあらわにしたときに対処できたかな?

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/30(月) 08:40:39.41 ID:MIU+/IiK
ある意味謀叛を唆してる気がする

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/30(月) 18:44:22.07 ID:DaQJOGCE
秀吉と一緒にいたら本能寺の二の舞になるかもしれんからな

この若者は、伯父とは全く異なって

2014年03月31日 19:06

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 20:51:19.39 ID:2aPeRQvX
天正15年(1587)、九州征伐に赴いていた豊臣秀吉は、筑前箱崎よりいわゆる「バテレン追放令」を出し、
宣教師の追放を決定。これにより京にあった教会(南蛮寺)も破却されることとなる。

この教会の司祭たちは都を去るにあたって、異教徒で関白の側近である都のゴベルナドール(奉行)、
前田玄以を訪問させた。彼は事情を聞いて激昂し、その母親の言葉を無視し、自らの身分すら省みず、
司祭からの使者に対し
「大阪で関白(豊臣秀吉)を殺したい!よって、この挙に抜かりはないから、伴天連たちは安心されよ」
と言った。同様のことを関白の甥の孫七郎殿(豊臣秀次)も司祭たちに伝えさせ、秘書のコスメ(庄林)に
答えて言った

「関白殿下は自分に何ら相談も通知もなく伴天連達を立ち去らせてしまったが、伴天連たちは明らかに、
関白に何か言いたかったに違いない。だがおそらく逡巡し、あるいは自分たちのための仲介してくれる
者が居なかったので、あのようにして去っていったのであろう。」

そこで孫七郎殿はオルガンティーノ師に宛てて非常に丁重な書状をしたためさせた。
近江国の領主であるこのプリンシベ(君侯)には五畿内で最初で最古の二人のキリシタンが奉仕していた。
一人は池田シメアン丹後殿といい、もう一人はコスメ・ショウヨと称する彼の秘書であった。
彼らは関白が下(九州)から五畿内に帰還した時には、棄教しないキリシタンを殺す決意である、との噂に
接すると、名望ある貴人である両人はともに主君なる孫七郎殿の前で、おのが信仰を宣言し、

「我らは既に27年間もキリシタンとして生きてまいりました。我らの妻子、家臣らも皆同様です。
デウスの教えを受け入れている今、我らにとってはこの教え以外に救いがないことは、あまりにも明確です。
殿の伯父君である関白殿下が、この件で我らを殺すように命じられるにおいては、我らは喜んで
関白殿下の前で信仰を表明する決意でございます。」

そのように申し出た、彼らはそれを、大いなる歓喜と平静さと信念を持って述べた。そしてさらに

「もしこのままキリシタンとして奉仕して差し支えなければ、身共としては従来と何ら変わりなく
忠誠に励むでありましょう。だがその許可が与えられぬにおいては、潔くデウスの名誉と信仰の証として
追放処分を受ける決意であります。」
と言った。

この若者(豊臣秀次)は、伯父(秀吉)とは全く異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。
特に禁欲を保ち、野心家ではなかった。
日本では自然に反する悪癖(男色)が一般に行われていたが、彼はそのようなことを忌み嫌い、
数日前にも一家臣が他に対して日本ではそれまで今だ見聞きしたことがないようなことを犯したので、
その男を殺させた。

ルイス・フロイス『日本史』)

宣教師によるバテレン追放令への対応と、豊臣秀次への評価に関する記述である。




688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/30(日) 23:11:28.99 ID:s9zM/PcZ
バレンティン追放に見えた俺は疲れてるんだろうな

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/31(月) 00:35:24.06 ID:Id18rSAo
浜に追放してくれてもええんやで