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「博多記」から神屋宗湛

2023年04月16日 16:20

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/15(土) 19:04:07.05 ID:9+E2Bn0r
「博多記」から神屋宗湛

神屋宗湛は肥前国唐津に仮住まいをしていた。
そのころ天下に名の知れた茶人である千利休や天王寺屋宗及(津田宗及)にも会い、自分も名を世上に知らしめようと唐津を出て入京した。
茶道において有名な京大坂の僧俗の間でも抜きん出ていたため、秀吉公がはなはだ感心なさった。
天正十五年(1587年)正月三日、秀吉公が大坂城で諸大名を招き茶会をなされたときも宗湛を召して茶をあがらせた。
この時、石田三成の取り持ちで名器を秀吉公に進上した。
虎皮二枚、豹皮一枚、照布(上等の麻布)二編、沈香一斤であった。
天王寺屋宗及がこれを取り次いだ。
このときから秀吉公の寵を受け、茶会でも近侍し、諸大名にも招かれた。
秀吉公の弟の大和大納言秀長卿も、大和郡山城に在城されていた時も参謁した。
こうして秀吉公恩顧の者となったため、秀吉公が筑前に下向された時もつき従い、(島津軍により)焦土となった博多を御覧になった時も御供した。
また天正十五年六月十九日、秀吉公は御陣所にて神屋宗湛と島井宗室にお茶をくださり、
二十五日には筥崎赤幡坊で秀吉公へ宗湛は御茶を立てた。細川幽斎も御相伴であった



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有田の夜泣き石

2021年08月09日 16:00

霞姫   
907 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 00:05:46.04 ID:0Q6lNaf4
有田の夜泣き石

天正13年(1585年)、羽柴秀吉は紀州征伐を開始。上方勢はあっという間に根来寺・粉河寺・雑賀荘を制圧し、続いて紀南の攻略に乗り出した。

秀吉の弟、羽柴秀長が率いる軍は紀伊の守護格である畠山政尚・貞政父子の本拠地、有田郡に攻め入ると箕島にてその動きを止めた。

秀長は畠山麾下の宮崎定秋(またはその長子定之)とその一族が籠る宮崎城には定秋の末娘で霞姫と言う美しい姫がいる事を聞き及び、その姫を差し出すことで城攻めを止めると使者を送って来た。

しかし霞姫はこの時、宮崎城に身を寄せていた殿本帯刀輝綱と言う若者と相思の仲であり、定秋もその仲を認めていた。姫を差し出し和議を結ぶか否か、一族は揉めた。

そんな中、我が娘の幸せを願う霞姫の母、湊御前は自らの近習を付け、霞姫と輝綱を密かに城から逃したのである。

908 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 00:07:04.69 ID:0Q6lNaf4
これを知って激怒した秀長は攻撃を開始し、宮崎一族も明神峯に打って出て迎え撃つも大軍の前になす術なく宮崎一族は敗北。
宮崎定之は大崎港へ逃れ、そこから船で毛利家を頼って落ち延びたものの、城は灰燼と帰した。

城から姿を消した霞姫と殿本帯刀、近習の行方はようとして分からなかったが宮崎城の落城から一年後、かつて城のあった場所の対岸にある大きな石に乳飲み子を抱いた女性が現れると、乳飲み子を岩の上に残して身投げしたと言う。

哀れに思った付近の人々が乳飲み子を拾い、ある人物がその子を育てることにしたが、その子の顔は誰言うともなく霞姫に似ていると口にしたと言う。また、その子が夜泣きするたびにこの岩に連れて来ると不思議と泣き止んだとも言われ、この岩は霞姫の夜泣き石と言われる様になった。

「有田市誌」「宮崎落城記」より

参考サイト
生石高原の麓から
https://oishikogennofumotokara.hatenablog.com/entry/2020/05/30/211858
日本伝承大鑑
https://japanmystery.com/wakayama/aritayonaki.html
紀州 民話の旅
http://www.nnc.or.jp/~makoto-s/minwa/4001.htm

余談
上記参考サイト「生石高原の麓から」によると有田市誌では、羽柴秀長は紀州征伐の数年前から霞姫を狙って石田三成を通じて霞姫を側室に迎えることを所望しており、霞姫が城から出されたのは上方勢が攻め寄せる一年から二年ほど前のことであるとされ、その後に宮崎定秋と湊御前は亡くなり宮崎定之に代替わりし、紀州征伐が起こり宮崎城は秀長に滅ぼされたとされている。
今回は上記参考サイトに習い、羽柴秀長は有田来襲時に霞姫の存在を知った方向に話を寄せています。
また、有田の夜泣き石にはもう一つ由来の話があるけど、そちらは戦国期の話ではないため割愛します。



名字は魚の名であったはずなのですが

2021年02月14日 16:45

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/14(日) 16:41:25.64 ID:tAp7OMu6
主君の御前において、傍輩を取りなすことは、品々あるべきであるとして、ある人が言ったことに、

大和大納言(豊臣秀長)殿の御咄の法師が出頭した時、大納言殿が「今朝はどうして遅れてきたのか」
と仰られた。「御普請場の見物に参っておりました。」と申し上げると、
「法師の身にては相応しくない見所である。ところで堀石垣はどれほど出来ているか、奉行の侍どもは
精を出して仕事をしているか。」とお尋ねになった
「何れも、殊の外精を出されており、御普請は順調に進んでいるように見えました。」と申し上げると

「さもあらん。誰にも怠りなど無い。されど、その中でも殊に精を出していると見える者は無いか?
ありのままに申せ。」

そう仰せに成られた。これに「仰せのごとく。誰も怠り無く見えましたが、中でも抜きん出て諸人に
下知し、現場を飛び回り、骨を折っているように見える者が居りました。その人物について、何者かを
尋ねたのですが、つい今しがた、その名も名字もはたと忘れてしまいました。」

「誰であるか、思い出せ。」と仰せに成られると、その時法師はうち案じて
「名字は魚の名であったはずなのですが、忘れました。」
「鈴木か、益田か、魚住か。」と仰せになったが、「いや、それではありませんでした。」

「さては鯰江か」と仰せになった時、「その鯰江にて候!」と申し上げると、殊の外御気色良く
「総じて、あの鯰絵勘右衛門は慥かに用を成す人物である。」と評判も上がり、その後御加増を
給わったという。

備前老人物語



豊臣秀長、吉川経言(広家)を気遣う

2021年01月03日 17:31

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/03(日) 11:30:14.77 ID:/Zw9/wbf
豊臣秀長、吉川経言(広家)を気遣う

吉川経言(のちの広家)の兄・元長は秀吉の九州征伐に従軍し天正15年6月5日に病没した。
このことに関連する二つの書状を抜粋して意訳。

6月4日 秀長から経言への書状 『吉川家文書 八六五号』

一、元長が病気で奉公していないとのことですが、(病気は)おろそかにするべきではありません。
  公儀のことは私が引き受けます。第一元長は若年なのですから油断なく養生するべきです。
  早々に都郡(とのこおり)に連れて行って、その方もそこへ退がり用心するべきです。
一、都郡では元長の陣屋を探すのに難渋していると疋田(秀長家臣)から聞きました。是非もないので
  どこの寺でも家でもいいので良きところに、この書面を見せ押し入って下さい。
  元長の家中まで陣取ることが大切です。

6月7日 秀長から蜂須賀家政への書状 『吉川家文書 八六七号』

書状を見ました。最近便りがなかったので嬉しいです。雨が止まないと下々は迷惑しますね。
島津中務(家久)の不慮(死去)は是非もありません。又七(豊久)に心づけをするのは尤もだと思います。
次に元長のことですが、ずっと患ってはいましたがこんなにすぐ亡くなってしまうとは思いませんでした。
元長は親父(元春)以来、関白殿(秀吉)のために奔走してくれていたのですから、私もあの蔵人(経言)に
対して少しも気を利かせないということはありません。とりわけ蔵(経言)はこのごろ細やかに
罷り越してくれるものですから、知音になったのです。その方も(経言と)入魂になって下さい。
輝元と隆景の心中は察入します。あとは(疋田)九兵衛が語ります。
____

二つ目の書状が吉川家文書にあるのは、恐らく家政が広家に渡したのだろう。



その時は秀吉に内通して

2020年12月19日 16:07

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 22:06:27.21 ID:Z7QWz4kr
大和国は京都将軍家が末となり、武威が衰えた頃から天正の頃までは、国侍が相互に自立の
志を立てて、尽く戦国と成り、各地でせり合いが止まなかった。
そのような中で、筒井順慶は弓矢強く、殊に一門が広く有ったために、大半の国侍を討ち従え、
そして筒井という場所に城を築き居城とした。

さて、織田信長公が上方を御手に入れられた頃、順慶は明智光秀を頼んで信長公に出仕し、
松永久秀を倒し国中を従え、大和の旗頭となった。順系と松永については後に記す。

その後、天正十年六月、信長に対する明智光秀の逆心の時、光秀は筒井に使いを送り、

『信長公への怨み甚だにより、本能寺に押し寄せ、御腹を召された。それより二条の屋形に取り詰め
信忠公も御生害遊ばされた。しかれば、あなたと私との数年の親しみはこの時のためであり、
味方に与されるのであれば本望である。そうであれば、大和・紀伊・和泉の三ヶ国を与えるだろう。』

との内容を申してきた。順慶は家臣を集め、評議を行わせ様々な意見が出たが、家老達は何れも
「とにかく、明智の味方を仕るべきです。」との旨を申し上げた。しかしここで、松倉右近(重信)
がこう申した

「先ず出馬するという旨を、明智には御返答し、八幡山まで御出になり、彼の地は良き要害ですので、
暫くそこに御在陣されて様子を見られるべきです。定めて秀吉公は中国を引き払い打ち上がり、
明智退治を仕るでしょうから、その時は秀吉に内通して、逆徒を裏切るべきです。」

そう、たって諫めたため、順慶は一万余の人数で出馬し、八幡山に在陣していた所に、案の定
秀吉公が中国を扱いにして引き揚げ、尼崎に到った所に、順慶は使者を遣わし、明智に対して
裏切りを仕る事を申し上げると、秀吉公も御満足に思し召されたか、お頼みに成るとの御返答であった。

そして山崎表の合戦の時、秀吉公の先手、高山右近、中川瀬兵衛は明智の先手を突き崩したが、
この時筒井順慶も八幡山より人数を下し、淀川の辺りにて、敗軍の敵を五、六百ほど討ち取った。
順慶は、秀吉公に味方は仕ったが、勝負を見合わせた事について、秀吉公も無二の志とは思し召されて
いるものの、この時のことの故であろうか

筒井順慶は、信長公の時に、「相替わらぬ大和の大将である」と仰せ付けられていた。
そして秀吉公天下御統一の時、天正十三年、四郎殿(筒井定次)に伊賀一国を給わり遣わされ、
「伊賀守」と受領仕った。そして大和には、秀吉公の御舎弟である美濃守秀長に、紀伊・和泉・大和三ヶ国を
給わり御越になった。そして秀吉公の指図にて、筒井城を割り、郡山に新城を築き居城にせよとの事で、
郡山に城を取り立てたが、この縄張りも秀吉公御指図であった。
そこに秀長は在城し、大和の国侍達は何れも秀長の家来として成り置かれた。

大和軍記



『多聞院日記』より、吉川平介着服事件の解釈

2020年10月01日 17:08

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 00:03:29.31 ID:A8tUaSNv
多聞院日記』より、吉川平介着服事件の解釈

天正16年12月7日、(吉川)平介という人、大納言殿(豊臣秀長)より紀伊国の大将として雑賀に城をこしらえ、富貴に暮らしていた。
「熊野山の木を売るべし」と命じられ、2万本を選んで切り出し、大坂へ輸送した。そして、売り上げを毎月、過分に「上之」。
関白はこれを聞き及び、「曲事である」と召し捕らえ、おととい5日、西大寺で誅殺させた。
「主には一円、無過事也」。秀長は天下の面目を失った。
跡には金子700枚を持ち、「上之」という。
「女子供は不苦云々」、不情不便なことであった。
天正17年1月5日、秀長は昨冬、熊野の木を売りつけ、関白の御意に合わなかった。正月のお見舞いでもお目見えがかなわず、仕方なく帰ってきたので寺々への諸礼がなかったそうだ。

※とにかく意味の取りにくい記事なんですが、いろいろと解釈できます。
浅学非才ゆえ、この有名な事件にほかの原典があるのかなど知らないのですが。
①(これが定説?)平介が勝手に着服した。その額は金子700枚に及び、その分をあとになって秀長が太閤へ献上した。
②金に汚いことで知られる(諸大名に高い値段で兵糧を売ろうとしたり)秀長が平介に命じ、大仏殿建設で高騰していた貴重な木材を普請用に提供せず、売り払った。(1月5日記事には平介のへの字も出ていない)
③これはかなり無理な解釈ですが、秀吉が秀長に命じ、熊野の木を売らせた。その代金のうち、かなりを平介が秀長に献上していた。太閤はそれを知って立腹した。
いずれにせよ、私の誤訳や勘違いがあると思うので、ご参考までに。

ちなみに、この記事の前後は聚楽第への落書きに対する処分であったり、秀吉の苛烈な言動がいろいろと記されています。
9月3日条では、
先般、関白の大事にしていた刀が盗まれ、ついに行方が知れなかった。
これによって男女があまた磔にされた。浅野弾正の甥も腹を切り、「諸方以外震動」。ひときわ機嫌が悪い様子で、「狂乱ノ始也云々」。頼朝の守り刀、一文字で無類の重宝だったという。ありかは未だに分かっていないそうだ。

と記されています。平介事件も秀吉が権力者としておかしくなりだしていたことを念頭に置いて考えるとおもしろいかもしれません。



380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 00:16:01.32 ID:SryfC8MZ
よく秀長が長生きだったら朝鮮出兵や秀次、利休の切腹は無かった説があるけど
ぎりぎり名補佐役の面目が立つ時期に死んだだけで後2~3年生きていたら粛清されていたかもな

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 00:56:20.22 ID:nLSNZYeT
秀吉自身の方針の混乱は
秀長・大政所・鶴松の死、秀次養子縁組と秀頼誕生が複雑に絡み合ってるからなんとも言えないかなぁ
少なくとも大政所が生きてる限り秀長の粛清はできないと思う

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 08:42:33.98 ID:pyId+6bq
大政所自体は諌めるだろうけど、それで秀吉がやめるかなぁ
正直秀長の当時の評判って悪いし

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 19:28:31.45 ID:SryfC8MZ
かーちゃんが生きていれば命は大丈夫だと思うけど朝鮮出兵の総責任者かな、大和紀伊召し上げ朝鮮半島切り取り次第とか言われそう

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 19:33:34.48 ID:mN8KDRpT
戦闘員が大量に余ってるんだから外征しなきゃ内乱になるだろ
そもそも唐入りが悪かったというのは結果論で、中華周辺異民族が中原目指すのは普通のことだし

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 21:05:28.44 ID:B1l19ekP
戦闘員でなぜか景勝の母親が浮かんだ

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 21:57:09.03 ID:r9WCf6jv
それ仙桃院

長曾我部元親の降伏

2020年01月02日 15:46

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 02:30:52.93 ID:4TxiWVEV
天正十五年の夏、太閤様(豊臣秀吉)より四国に御討手の勢が下ることを、長曾我部元親公は聞き及ばれ、
防衛のため城ごとに御手分けを成され、一宮へは江村孫左衛門(親俊)、谷忠兵衛(忠澄)の両頭が
仰せ付けられた。

ここには上方勢の内、大和大納言殿(豊臣秀長)が向かわれたが、大納言殿はこの城に入った谷忠兵衛が
知慮有る者と聞き及ばれており、未だ城攻めを行わない先に、谷に対し
「自分が扱いをするので、長曾我部元親へ降伏するよう伝えるように」と仰せ付けられた。
谷は江村孫左衛門と相談し、秀長軍と矢留(停戦)を申し合わせ、神文の一札を請い、羽久地(白地)の城へ
参ると、この事を詳細も報告した。

ところがこれを聞いた元親公は以ての外に立腹され、谷忠兵衛は即時に面目を失った。しかし谷は、これが
一大事の儀であると理解しており、終夜に渡り長宗我部家の総老中と相談を極め、何れも谷に同心した。
谷は三日間この城に留まり、総老中たちは元親公へ御諌め申し上げた、終には元親公もこれに同意した。
そして谷忠兵衛と老中の一札を取り、一宮に帰ると大納言殿へこの事を申し上げ、降参の首尾は相調った。

これ故に城中の者達も外に出て上方勢と出会ったが、上方勢は第一に馬が大きく、物具等も花やかで、
千騎が二千騎にも見えた。
それに対し四国勢は、第一馬細く、物具等も侘びしく、千騎が五百騎ほどにしか見えなかったと伝え聞いている。

同年十月、太閤様へ元親公の御降参が成った時、谷忠兵衛もこれに御供をし、太閤様に御目見得仕り、
家助の御刀を拝領した。この時人は皆、「谷忠兵衛は特に侍名利の者である」と褒め称えたという。

その後、谷忠兵衛は中村の城主を仰せ付けられ、この中村で相果てた。現在も正福寺にその位牌がある。
この谷忠兵衛の嫡子は豊後陣にて長宗我部信親公の御供をし、一所にて討死した。信親公御死骸の
御迎えにも、この忠兵衛が遣わされたと伝えられている。

なお、先にある神文の一札とは、美濃守殿(豊臣秀長)より元親公の御身上について、四国の内三ヶ国は
御取り上げになり、本国土州一ヶ国にて御断成されば、自身がその扱いを成すと申され、この時に
江村孫左衛門と申し合わせ、谷忠兵衛が元親公を諌め奉る為に頂いた神文一札なのである。

(長曾我部覺書)

長曾我部元親の降伏について



北野大茶会の事

2019年08月22日 17:05

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 00:46:12.19 ID:rcvPK52I
私(久保長闇堂)が茶湯を初めたのは、北野大茶会の年にあたる。調べてみると、天正十三年十月一日の
事である。秀吉公は八月二日に高札を五畿七道に立てさせ、天下の茶湯を志す者は北野の松原に茶席を設けよ、
との上意であった。南都(奈良)よりは、東大寺、興福寺、春日の禰宜、町方合わせて三十六人が出かけた。
私は幼年であったが、この道が好きだったので見物のため同行した。以下、覚えていることを記す

北野の聖廟の前には葭垣があり、東と西に出切り口があった。上様(秀吉)の茶席四つは、礼堂四方の
隅にそれぞれ囲わせ、秀吉公、宗易(千利休)、(津田)宗及、(今井)宗久という四人のお点前であった。
その時の道具の記録も残っている。
大和大納言殿(豊臣秀長)は南門筋西側で、大和郡山の武家衆、それに続いて南都寺社、町方であった。

松原中の茶席は思い思いの工夫が有ったが、その中でも覚えているのは、奥の小松原に、美濃国のある人が
芝より草を葺き上げ、内を二畳敷とし、中の四方に砂をまき、残る一畳敷に瓦を縁とした炉を作って釜を
かけていた事である。通い口の内に主人が居て、垣に柄杓を掛け、瓶子の蓋を茶碗として、焦がしを入れた
丸瓢の茶器をその中に仕込んでいた。

さて前日にお触れがあり、その日の日の出より御社の東口で籤を取り。五人一組として、先の四つの茶席の
どこかで御茶を下された後、西口からすぐに出る形であった。そのため数百人の客が、朝五つ(午前八時ころ)
にはもう御茶を飲み終えた。

秀吉公は食事を終えると昼前より松原に御出でになり、一ヶ所も残らず御覧になった。
先の美濃国の人は名を「一化」と言ったが、茶席の脇で松葉を焚き、その煙が立ち上っていた。秀吉公は
彼のことを以前よりご存知であったそうで、「一服」との御意があり、直ぐにその焦がしが差し上げられた。
大変にご機嫌よく、手に持たれていた白扇を一化は拝領し、今日一番の幸運者と評された。

また経堂東方の京衆の末席に、「へち貫」という者が一間半(約2.7メートル)の大傘を朱塗りにし、柄を
七尺(約2,1メートル)ばかりに立て、二尺(約60センチ)ほど間を置いて葭垣で囲っていた。
照日に朱傘が輝き渡り、人の目を驚かせた。
これについても秀吉公は一入興を催され、彼を諸役御免とされた。

八つ(午後2時ころ)過ぎには皆々にお暇を下され、それより互いに桟敷を片付け、その日の内に、また
元の松原に戻した。内々には、『諸方の茶道具を召し上げられるつもりであろう』と噂されたが、そのような
事はなかった。また「十日間茶湯をせよ」とも言われていたのだが、その日だけで終わった。
このため見物した人もそう多くはなかった。

私はこれを見物し、心勇んだ。どうにか出来るものだと考え、親の家の裏にわずか4畳敷の小屋が有ったので、
これを改造して二畳半を茶室、一畳を勝手とし、残る一畳を寝所と定め、足の方には棚を釣り。昼はそこに
寝具を上げた。
そんな茶室に、今思えば身分の高い客も呼んだものだ。しかし志さえしっかり持ち続け、勇気を持てば、人に
恥じる事はない。今の世で誰がこのような仕方をしているだろうか。ただ志が強くないため、勇気もなく、
他人に対しても自分に対しても恥じてしまい、道に至る人が少ないように見える。

(長闇堂記)

北野大茶会についての記事



まことに良将が軍を統べる故なり

2019年03月09日 21:24

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 18:40:43.12 ID:6ECJ3CPn
(賤ヶ岳の戦いの時)

清秀(中川清秀)はこれ以前に度々に及んで武辺に落ち度を取らず、勇力を世間に知られた侍なり。

「度々の晴れ戦、万一鈍兵の名を得ては生涯の不覚!」と思い定めた清秀は「運は天にあり、進ん
で退くことなかれ! 」と諸卒に言葉を掛け、1千余騎が塁を離れて突き出た。玄蕃助(佐久間盛
政)の兵はこれを見て、余さず漏らさず押っ取り込めて、数刻攻め戦う。

清秀は我劣らじと、兵5,60騎が弓手馬手に並び、散々に切り合い割り入り追い立てた。清秀は
一旦は勝利を得たものの、敵は多勢をもって手負い死人を顧みず、風の発するが如く河の決するが
如く乱入して、ついに清秀は討死した。

その時、玄蕃助は勝ちに乗じて太刀場を取り、前は鯨波が地を響かし後ろは狼煙が天をかすませた。
風はふるい、旌旗は光を添えて日に輝く。甲冑は影を並べ、その威光は誰をもって争えようか。

この時、清秀が速やかに引き取っていれば、一化先は敵の勝手をなすとしても“勢に因りて之を破
る”との諺をもって、その尽くが居陣となったものであろう。

秀長(豊臣秀長)の陣所を始めとして、先手の陣取りは各々堅固の備であった。一陣が敗れて残党
も無事ではないといえど、士衆は一致して軍は心を結んだ。これまことに良将が軍を統べる故なり。

そうして江北の戦は相果てた。事が済んだ時、それより羽檄をもって件の注進あり。秀吉はこれを
聞いて清秀が討たれたために、甚だ深く哀憐した。

――『天正記(柴田退治記)』



これにより杉原・荒・仙石が先をなし

2019年03月04日 18:27

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/04(月) 17:51:38.81 ID:5DaS4Rjq
さて、羽柴筑前守秀吉は舎弟の小一郎秀長を伴って、さる天正6年(1578年)に播磨へ下り、
別所と対峙して以来、西国征伐の軍主を奉り、備前美作の守護・宇喜多は手に属し、播磨・但馬・
因幡以上五か国の人数を引率し、天正10年(1582)3月15日、備中国へ向かって冠城に
押し寄せた。敵の備はもっとも剛強なり。

さてこの城は、たとえ人数を損おうとも無二に攻め破り西国の響きにする旨を、かねてより定めて
いた。これにより杉原七郎左衛門尉家次・荒木平太夫(木下重堅)・仙石権兵衛秀久が先をなし、
かの地で肝要の践をなして水手を攻め入りこれを取った。

秀吉は感悦して3人ともに馬・太刀を遣わしたのである。城からはとりどりに懇望を尽くしたが、
これを聞かずに万牛五丁の攻めをなして即時に乗り込み、ことごとく首を刎ね終えたのである。

――『天正記(惟任退治記)』

わざわざ名前が挙がるあたりこの3人当時は期待されてたのかなぁと思った。


奈良かしや この天下殿二重取り

2017年02月24日 17:27

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/24(金) 00:20:47.23 ID:rjLhinUl
秀吉公の御時、「ならかし」と言う事があった。金を貸し出した金融業者は、元金を失った上に、
なお放埒な営業の罪が軽くないとして、罰金として再び黄金を提出させられた。
そこでこのような落首が出た

 奈良かしや この天下殿二重取り とにもかくにもねだれ人かな
 (奈良貸しで秀吉公は黄金を二重取りされた。なんという狡猾な人であろうか)

  ※ねだれ人:色々な計略、策を用いて人に損害を与えようと他人を欺く人、狡猾な人【日葡辞書】
(醒睡笑)

この「ならかし」、はじまりはこういうものであった

『奈良中へは大納言殿(豊臣秀長)より金子一枚を代米四石ずつにして、一万石ばかり町々へ借用。
押してかくのごとし、金は来年の春に取るべきよしなり』
(奈良において豊臣秀長は金子一枚を代米四石とした上で、米一万石を奈良の町々に貸し付けた。
その利息を来年春に「金」で支払うようにとした。」
(多聞院日記天正十七年十月五日条)

つまり秀長が、奈良の金融業者を通じて人々に米を貸し付け、その利息を金で受け取っていた、
という事である。
しかしその結果、天正二〇年九月二日付「奈良惣中」より秀吉側近、木下半助(吉隆)、
山中橘内(長俊)にあてた直訴状の第四条によると

『一、大光院様(豊臣秀長)は御金五百枚あまりに利息をつけて奈良に御貸しなされました。
しかし、毎月利子を銀子にて、奈良奉行の井上源五殿は過分に徴収されました。
しかも井上源五殿は私的な金二百枚あまりも、これも大光院様の御金であるとして、奈良中に
貸し付けられ、ここからも過分の利息を取られました。』
(庁中漫録)

奈良においてはこの借金のため、殺人事件や一家心中が起こるなど、社会問題化していたという。
そしてこの直訴の結果は

『直訴のさまは、ことごとく地下人の勝ち』
(多聞院日記天正二〇年九月八日条)

となり、これにかかわる奈良の金商人(金融業者)が尽く牢に入れられた。
しかし訴訟した者達も一時的に牢に入れられ、また奈良奉行の井上源五には何の処分もなかった。

ところでこの「ならかし」で、何のために資金が集められたのか。
天正二〇年十月十日、豊臣秀吉より、豊臣秀次宛の朱印状にこうある

『一,今度奈良借について出だしそうろう金銀、これらをも右の船(安宅船)の用に入ること
そうらわば、あい渡すべきこと』
(今度の奈良借しで得られた金銀について、安宅船の建造に必要であればそちらに流用するように)

「ならかし」で集めた金銀を、秀吉の「唐入り」のための、軍船建造費に使うように、との内容である。
ここで「ならかし」が、秀吉の政権による施策であったことが判明するのである。
金融業者たちを牢に入れたのは、責任を彼らに転嫁するためであったのだろう。

以上、醒睡笑の「ならかし」の逸話と、それについて、河内将芳 著「落日の豊臣政権」のより、解説を抜粋。


このように、大阪方の手立て、仕置は

2015年10月27日 14:57

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 13:52:38.37 ID:DVPqIe60
かつて大和大納言(豊臣秀長)に仕えていた国島道喜は、左手が手首から切り落とされ、
右手ばかりであった。彼は大和豊臣家の滅亡後牢人していたが、大阪の陣の勃発に
大野修理(治長)によって呼び出され、鉄砲隊を預けられた。
大阪落城のあと、武士を辞めていたのだが、松平下総(忠明)殿に呼び出され、御伽衆のように仕えた。

この道喜が語ったことに、大阪夏の陣の5月4日、豊臣方では、幕府方蜂須賀の軍勢を、毛利豊前(勝永)の軍勢
一手にて打つべしとの事であったのに、作戦は相違し失敗した。

また5月6日の明け方七つ(午前4時頃)に大野修理が毛利豊前と共に国府まで出兵する約束であったのに、
支障があるとして六つ(午前6時頃)まで引き延べ、さらにまた五つ(午前8時)にすべしと、
3度も変更してようやく出馬した。この陣のなかに道喜も居た。

さらに平野のあたりで、大野修理は「豊前と相談することがあるので今一度言って話をする。人数を下げよ!」
そういって手廻り5,6騎にて引き返した。大野が率いていた豊臣方の諸軍勢は、疑いながらも引き上げた。
その道すがら、立派な騎兵4万ばかりと行き合った。これは大阪城の七手組の軍勢であった。

この時、大野修理が出馬のため鹿毛三寸ばかりの馬に乗ろうとした所、どうしたわけか馬が修理を乗せようとせず、
何度もやりなおして漸く騎乗したという。

このように、大阪方の手立て、仕置は、相違することばかりであった。

(武功雑記)



544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:38:01.69 ID:Z6+pZqxx
>鹿毛三寸ばかりの馬

何のサイズが三寸なんだろう?
まさか体高じゃないよね・・・

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:44:09.82 ID:DVPqIe60
>>544
原文のままなのですが、多分三尺の間違いじゃないかなとは思います。

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:44:51.21 ID:awa9htJ4
尺が抜けてそうだよな
つか既出や

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:54:32.38 ID:XVncGBb9
三寸は体高四尺三寸って意味だよ。
馬は4尺あって当たり前なので、そこは略して単に○寸と表現する。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 21:12:54.74 ID:Z6+pZqxx
>>547
>三寸は体高四尺三寸って意味だよ。
>馬は4尺あって当たり前なので、そこは略して単に○寸と表現する。

そういうことなんだね。
どうもありがとう。
しかし、いつも思うんだけど、みんな物識りだね~

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 22:23:19.75 ID:X5C7r9E2
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6508.html
これでもその話題があったな
後はこの四尺以下は農民に払い下げた話とか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3526.html

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 00:02:58.75 ID:h+07QPAW
しかし東国大名はむしろ体高が低めの馬を使うようにと推奨してるけどな
四尺一寸~三寸あたりの

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 10:46:38.21 ID:P96eNA4e
だいたい乗り手の肩の高さ=馬の体高くらいが基準だよな

豊臣秀長の事

2015年07月22日 12:51

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 21:04:35.30 ID:PSm1DkDK
天正19年

この年、太閤秀吉は伏見の城を築き隠居所として、大阪の城と掛け持ちにした。諸大名以下は伏見に
屋敷を構え、代わる代わる出仕した。

4月、太閤の側室が男子(鶴松)を産んだ。太閤は50を越えるまで子がなかった所、若君の誕生に
喜び限りなかった。国持大名、旗本の面々、ことごとくこれを賀した。

このような目出度い折に、太閤の舎弟である大和大納言秀長卿は、久しく病に臥せっていたが、
遂に空しくなられた。太閤の連枝、男子はこの秀長卿一人であった。

当時は戦国の頃であり、人倫の法も乱れ、兄弟で争うような者達も多かったが、
秀長は秀吉によく従い、いつも先陣を務め、或いは一方の大将として戦功度々多く、武勇優れ、
秀吉をよく助けたため、秀吉よりの友愛も深く、官位も大納言に昇り、禄は大和、泉、紀伊三ヵ国を
領して、国家の柱石となられ、天下の人々は彼を仰ぎ尊んだが、たちまち黄泉の人となってしまった。

太閤の嘆き悲しみは浅くなく、これこそ大いなる憂いであると考えられたが、その秋の頃、
この年4月に生まれた若君もにわかにかくれられた。太閤は悲しみのあまりであろうか、清水寺に
3日逗留されたが、近臣を集めて仰せに成った

「日本国は既に、ことごとく手の中に入った。この上は秀次に日本を渡し、大明国に入って四百余州の
王となろう!去年朝鮮より使者が来た時。書簡を朝鮮に贈り、大明を討つときは朝鮮は必ずその
先手をせよと告げたにも関わらず、未だその返書はこない。ならば、先ずは朝鮮を征伐すべし。

朝鮮が我に従うのなら、先手として大明に入るべし。もし従わないのなら、先の朝鮮を滅ぼしてその後
大明に入るべし!来春は必ず、大軍を朝鮮に出撃させる!」

そう、諸将に触れられたのである.

(黒田家譜)

黒田家譜より、豊臣秀長への評価と、朝鮮出兵の宣言についての記述である。

太閤秀吉の別種同腹の弟を

2014年05月28日 18:57

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 21:14:06.58 ID:PM0SZ7y0
太閤秀吉の別種同腹の弟を、大和大納言(秀長)という。
彼は秀吉によって、大和、紀伊、和泉三ヶ国に封じられた。

この秀長は、賤ヶ岳の合戦で中川清秀敗死の時、その様子を見ていながら救出に向かわず、
非常に首尾の悪いものであった。
秀吉はそんな秀長の体たらくに激怒し、諸大名が居並ぶ中で

「お前はわしと、種が違うのだ!」

との言葉を叩きつけた。

この大和大納言には子がなく、関白秀次の子(弟)を養子とした。
これを大和中納言(豊臣秀保)と言う。

(老人雑話)

老人雑話の、豊臣秀長に関する記事である。





玉置直和の変転

2014年05月04日 18:47

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 07:58:42.14 ID:lnSzv3gR
紀伊国日高郡に、玉置直和という国人がいた。
玉置氏は太平記に登場する玉置荘司の子孫と言われており、居城・手取城の周りの領地は
3千5百石ほどの石高とされていた。(※徳川時代の検地では1万6千石ほどであった)
羽柴秀吉の紀州征伐が始まると、直和は秀吉への帰順を決意し、
徹底抗戦を叫ぶ舅の湯川直春や相婿の山本主膳と袂を分かった。
その結果直和は湯川氏に攻撃されたが、その後湯川氏も征伐軍に降ったので、
直和の地位も安泰かと思われた。


そして直和は新たに紀伊の領主となった羽柴秀長に挨拶するため、大和郡山城に赴いた。
秀長との対面では所領の石高を尋ねられたので、直和は3千5百石という
自分が知っている石高を返答したのだが・・・

その後、秀長が玉置氏の領地に対して検地を行ったところ、実際の石高は本人の申告よりもかなり多い事が判明、
これを知った秀長は玉置氏の領地を没収し、その上で直和には新たに申告通りの3千5百石を与えることにした。
直和はこの仕打ちに情けなさがこみ上げ、城を家臣の三十木右馬之丞に預けると、
高野山に上って剃髪してしまった。

ところが、ここで直和の境遇をを憐れんでくれた人物がいた。
秀長の兄・羽柴秀吉である。

秀吉は秀長に命じて、出家して千光院と名乗っていた直和を慰撫させ、
直和の方も、一時の感情で城を飛び出してしまったのを少し後悔していたので
高野山を降りて新封を受けることになったのであった。


その後直和は慶長4年に亡くなり、息子の小平太は関ヶ原・大坂と西軍についてしまったが
後に尾張藩に仕えることができたという。

「紀伊続風土記」より


太閤検地がらみで地方の領主が酷い目に遭うお話
秀吉自らフォロー入れて丸く収まってるので、一応いい話ってことで…




878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 10:16:56.22 ID:gYXHuHPK
あら珍しい

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 10:53:20.87 ID:fX2fjI+L
自領の(実際の)石高を把握してなかっただけで減封は可哀想と思われたのか?
太閤様もこの頃の寛大さを最後まで保っていられたらよかったのに

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 11:44:28.61 ID:rTyi5c7F
柳生「・・・」

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 12:13:56.96 ID:bBTVdTLY
紀州征伐の際に秀吉側に付いた勢力が少なかったから目にかけたんじゃないか

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 13:02:21.25 ID:K4fySxTS
>>880
秀吉「流石に陰田するような奴はフォローできねーわ」

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 14:24:37.06 ID:LcVWaVfl
所領の把握とかじゃなくて、この当時によくあった大幅な打出しを計上して
在地領主から所領を巻き上げるための検地じゃなかろーか

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 14:59:35.46 ID:eHCx+N3j
湯川さんと主膳さんはどうなったのかとぐぐって見たら徹底抗戦して本領安堵を勝ち取ったと思ったら、挨拶に出かけた大和郡山城で二人とも毒殺されてるのね。
地理的にしょうがないとはいえ、やっぱり酷い話では。

「感状は主君のためならず」

2013年06月17日 19:56

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 19:44:16.37 ID:jbZl6Min
島津家の武将、山田有信は九州征伐に際し日向高城に籠もって奮戦したが、主君義久の説得によりやむなく降伏に至った。
攻城側の羽柴秀長はその人物と才覚を惜しみ、兄秀吉の直臣となるよう誘いを掛けたが、有信は「とんでもないこと」と言下に断った。
秀長はこの態度を却って気に入り「では他に望む物はないか」と重ねて持ち掛けた所、
「我ら一族郎党が主君義久の元へ戻ることを認めて頂ければ、他には何も望みませぬ」と願い出たのでこれを快諾した。

薩摩への帰国を許された有信とその部下達だったが、日向は数年前までは伊東家の領地。殆ど敵地も同然である。
帰国の途上で伊東の遺臣に付け狙われることもあり、山伏に身を窶して薩摩へ帰還したという。
義久は彼の帰還を大いに喜び、感状を与えたが、有信はそこに加増の旨を認めるとその部分だけを消して拝受し、
頑として加増を受けようとしなかった。

これを伝えきいた諸人は多いに感嘆し、その後の朝鮮の役や関ヶ原で功を上げた中馬大蔵に浜田永臨、
押川強兵衛、山田有栄、指宿清左衛門といった剛の者たちは有信の事例を引き合いに出し
「感状は主君のためならず」と加増を断り、みな清貧に甘んじたという




512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 22:30:10.57 ID:7AcLyGz5
進んでサービス残業や休日出勤をするワーカーホリックのせいで
誰も残業代を受け取れないブラック企業の話を思い出してしまった・・・

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 22:55:26.73 ID:evhdrLdX
ワ○ミみたいな企業みたいな話だと思うと悪い話みたいになるからやめなさい!

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 23:04:59.12 ID:E1i6Xco3
一応、終身雇用どころか代々雇用があってだから・・・

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 23:40:46.20 ID:BENzQbRB
武士の忠義は家意識もあるから、
現代の新卒中途で縁もゆかりもない他人ばかりの企業に就職するのとは違うわな
ワタミの社長は論語の解説書みたいなの出してたなw
でも一代限りの上下間に中世ばりの忠義発揮する人間はなかなかいないだろ。
いたらある意味尊敬するけど。
現代でやれるなら逆にすごい忠義心だし仲間を信じる気持ちの強い人だよな

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 02:06:22.54 ID:IZie7/be
例の社長は社員に24時間労働するのは奉仕だとか言って
労働者を不当に搾取して富を築く、時代遅れの卑怯者

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 08:21:01.15 ID:WlUSF5eT
出来ないとか無理なんて言わせないのがあの社長のモットーなんだろ
それで従業員の心身を壊してるんだからどうかしてるだろ
本気で政治家になるつもりなんかね
冗談であってほしいわ

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 12:56:28.09 ID:KHYbwo1p
>>516
時代遅れ所か、戦国時代なら押込か追放、下手すりゃ宇喜多メソッドの対象だろう

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:54:27.32 ID:YbkXtjY1
三河のややこしい人らはまず黙ってないな

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 14:40:19.48 ID:fisDmLvD
主君が上手く乗せればそれに近いこと平気でするだろうけどな。

上から押さえつけたら退転するわ刃向けるわでもう大変だろう

藤堂高虎、敵要害に潜入す

2013年05月21日 19:51

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:05:56.66 ID:Mg0CMXgc
藤堂高虎が羽柴秀長の家臣と成って間もなくの頃
但馬の国人達が所々で一揆を起こし、立て籠もるという事があった。

この時、「大屋」という地点は一揆勢が出撃する際の通過地点に当たる、重要な地域であったため、
秀長は藤堂高虎に鉄砲の者を付けて、ここを防衛させた。

こう言った状況で、宇塚尾白という場所に一揆勢が押し出してきた。
高虎はわずかの手勢で終日これと戦い、数ヶ所にわたって負傷したが、それでも終に打ち破り、
特に一揆の大将の一人である、富安という者を討ち取った。

その後、一揆勢は横伊喜という場所に山籠りし、要害を構え小屋掛けをした。

藤堂高虎は深夜、これに密かに忍び込んだ。
所がこの気配に内から気付かれ、敵兵に板の垣越しに鑓で突かれてしまった!

しかし高虎、冷静に、自分に突き刺さった鑓を羽織で拭った。
アクション時代劇などで天井に忍んで鑓で突かれた忍者がたまにやるアレである。

敵兵は鑓に血が付いてないのを見て、さては先ほどの気配は人ではなかったのかと油断し、
兵を呼び出すことをしなかった。

こうして危機一髪のところを助かった高虎であったが、敵から傷を被ったまま戻るのも
非常に残念多いことだと考えた。そして「火が出た!火事であるぞ、出会え出会え!」と叫ぶ。
このため端々から驚いた敵兵がゾロゾロ出てきた。結局自分で呼び出すのかよ。

そこを襲いかかり自身で一人討ち取り、またこの時共をしていた居相孫作も一人討ち取り、
そうして自陣へと帰った。

それまで高虎の知行は三百石であったが、この但馬の一揆が平定された後、一挙に
三千石が加増され、合計三千三百石と成ったのである。
(藤堂家覺書)

それにしても高虎さん、敵の基地に忍び込んで鑓で突かれる負傷をしながらこの大暴れ。
素でアクション映画の主人公みたいな人である。




318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:15:55.29 ID:V6ns/YWh
一気に三千石加増ってすごいもんだな

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:27:15.63 ID:kaCLPvV8
人並み外れた巨体でよく忍び込めるよなあ

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:34:18.06 ID:HGFZ4pVY
いや、気付かれてるじゃんw

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 21:37:43.93 ID:FBpMFycF
一揆勢はランボーに襲われたようなもんだな

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 23:24:02.73 ID:vQNRgNm7
当時の平均身長と高虎の体格で考えると、「そんなでかいババァ、じゃなくて間者がいるか」って状態だろうな。
いきなり目の前にラオウがたってる状態。

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 09:24:45.58 ID:G3YpY67V
こいつ絶対ニンジャだろ・・・

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 10:18:21.69 ID:6Wm7rRKu
>結局自分で呼び出すのかよ

「敵だ!」と叫ばれて武器持って出て来られるのと
「火事だ!」と叫んで裸同然で出て来られるのでは
とんでもなく違いますがな。

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 18:29:41.87 ID:i86wmNCt
史実版「げぇ━っ、関羽!!!」だと聞いて

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 10:12:45.59 ID:4jeW38s4
>319、出羽のシスコンさんが興味を持ちそうだなw

谷忠兵衛忠澄の事

2013年05月21日 19:50

谷忠澄   
667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 07:45:37.59 ID:EsphktCK
天正十五年の夏、豊臣秀吉の四国攻めの軍勢が迫る中、長宗我部元親は城ごとに軍勢を配置し、
一之宮城は江村孫左エ門、谷忠兵衛(忠澄)の両名に仰せ付けられた。
しかしここに大和大納言・豊臣秀長の軍勢が迫る。

谷忠兵衛は周りからも知慮ある者と呼ばれていたが、事ここに到っては、城攻めの始まる前に、元親公に
講和のための交渉を始めるべきだと考え、江村孫左エ門とも相談し、矢止め(停戦)のための神文を請うため、
元親の居る羽久地城へと参上した。

しかし元親は、谷忠兵衛の進言を聞いて以ての外に激怒し、忠兵衛は全く面目を失った。

それでも現在は一大事の時であると忠兵衛は考え、在城している重臣たち全てと話し合い、何れも
忠兵衛の見解に同心するに至った。

忠兵衛は3日ここに留まり、重臣一同の総意として、豊臣軍との講和をするよう元親に諫言した。
そのため終には元親も、忠兵衛の言う通りにするとした。

忠兵衛はこの講和を認める重臣一同の一札を取ると、一之宮城に帰り、豊臣秀長にこの旨を申し上げ、
降参の首尾を相整えた。

この時、城中よりも軍勢が出て、豊臣軍と対面したが、豊臣の上方勢は何よりも馬が大きく、武装も華やかで、
千騎が二千騎にも見えるようであった。
一方の四国勢は、馬も細く武装も侘しいもので、こちらは千騎が五百騎に見えるようであったと語り伝えられている。

同年12月には元親が降参のため大阪に向かった折にそのお供をし、秀吉にお目見えされ、直々に刀を拝領し
人々から名誉の侍であると大いに褒め称えられた。

豊後の戸次川の戦では、谷忠兵衛はその嫡男が、長宗我部信親と共に討死をした。
このことも有り元親は、信親の遺骸を受け取る使者として、島津の新納忠元の元に使わされた。

この谷忠兵衛は土佐中村城を任され、慶長五年(1600)11月7日、関ヶ原の結果長宗我部が崩壊する中、その地で病死した。
享年67歳であった。
(長曾我部覺書)





雑談・豊臣秀長に関する議論

2012年11月06日 19:59

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 22:29:04.20 ID:vPe2MraC
無能な人間百人よりは、秀吉と信長がそうであったように
確実な成果が期待できる優秀な人間一人に依頼するだろな
その他大勢である百人からは憎悪されるかもしれんが
本来それは上司である秀吉がフォローアップすべきことだし

222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/05(月) 20:29:46.18 ID:PiXUy448
>>197

そこのフォローは秀長がやってたんじゃないのかなー、と。豊臣政権空中分解したのは結局のところ
秀長が死んだ影響大なんじゃないかな?

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 20:44:54.30 ID:dh2eVboB
頭でっかち石頭と能筋でバランスの取れた人材に乏しかったから

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 21:51:56.71 ID:mek9p20d
秀長みたいに出来た調整役なんて他には隆景ぐらいしか思いつかんな

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 22:03:40.58 ID:sIbB3lqJ
>>224
イメージとしては武田信繁なんかもそんな感じ

ただ、秀長と信繁に関しては早めに?死んだからこそ余計に評価されてる気がする
両方共一人の人格者がいたらどうのこうのっていうような甘い状況じゃない気がするし

>>220
ものすごくざっくり見れば作左と兼続やってること一緒なんだな
やっぱそっちのタイプの人間だな

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 02:54:25.87 ID:PM8FwmD6
秀吉は若年期に殿様としての教育(自己抑制)を受けてないために
老年期は大陸の独裁皇帝並みの自己肥大になったとしたら
同じ母集団から出て同じように階層が上昇したにもかかわらず
人格破綻を起こさなかった秀長や寧々って凄くね?

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 05:43:02.82 ID:VmFqHNiw
秀長は史料が少なくて過大評価されてる部分が多いだろうなぁ

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 05:46:33.77 ID:OxuERoyM
武功夜話で蔓延したのイメージもあるだろうな

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 09:21:30.98 ID:ZT4NF8NB
秀長は残ってる史料が接待ばかりだから
優秀な調停役だったと勝手にキャラ付けされてる様に見える

231 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/06(火) 12:31:05.30 ID:Yi4Igwyp
>>228

そうか?俺はむしろ過小評価されてると感じているが。
実際秀長が生きてる時は秀吉もラスボス化しなかったわけだし、三成ら近江閥と浅野長政ら
尾張閥との対立も表面化しなかったでしょう?



232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 12:43:00.24 ID:TerQt6Ow
>>231
それと秀長との因果関係を示す資料ってあったっけ?

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 15:10:14.44 ID:NbK2TydX
>>228
歴史に興味無い人には過小評価され
歴史好きの中には過大評価する奴もいるってだけ

俺は秀吉の偉業は秀長、クロカン、秀吉で3等分できると思うけど

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 15:50:03.96 ID:ZT4NF8NB
史料上の如水はあごで使われる前線の将
秀吉どころか秀長とも比べられない格下だろ

235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/06(火) 15:58:08.52 ID:I+BY/ICP
でもNHK の魔手にかかれば・・・
戦国の英雄や朝廷も一目置くキーマンに化けるのだ。
ついでに奥さんも超重要人物化して
一武家の夫婦愛や家族愛が全国の行く末を左右する物語のいっちょ上がり。

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 17:35:00.71 ID:T54cWOMY
秀長が病気になったからラスボス化が始まったわけではなくて
北条征伐あたりでそろそろ周りに危険な勢力がなくなり
信長のかわりとして地位が確立されたことが原因だろ

秀長は優秀であっても過大評価されているように感じるわ

加藤光泰失脚事件

2012年10月24日 20:02

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 20:02:54.74 ID:Pn8DLQrX
天正13年、越中の佐々攻めで軍功のあった加藤光泰は、近江国より美濃大垣に所替えとなり、
知行4万石を拝領するとともに、美濃における秀吉の蔵入地2万石と国侍を預けられることになった。
そのお礼として京都へ参勤した光泰は、秀吉の御前でついつい、余計なことを言ってしまった。

「今度ご加増いただき、多くの侍を召抱えました。ですから、蔵入地からの収入については
お望みになりませんように。」

これを聞いた秀吉は激怒した。
「なにぃ!預け置かれた蔵米まで自分の家来に宛がうだと!そんなやり方が許されるとでも思っているのか!
出仕を停止するゆえ、今後、二度とわしの前に姿を現すな!」

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 20:04:49.59 ID:Pn8DLQrX
光泰は謹んで言上する。
「恐れながら申し上げます。お預かりした蔵入地を家人に遣わしたのではありません。
自分の禄を私のために蓄えず、家人にことごとく遣わしたのです。言葉のあや、言い間違いでございます。」

この男、「蔵入地の収入を家来にあげちゃったらまずいけど、預かっている僕自身が使うんだから、
もちろんOKに決まってるよね!」とでも思っているのか?
さすがは戦国の不思議ちゃんである。さすがは「兵糧が無いなら砂を食えばいいじゃない!」という迷言を
残した人である。

彼は他にも色々と申し上げたが、聞き届けられるはずもなく、大和大納言秀長へ御預けとなってしまう。

大和ではなぜか、秋山城2万6千石(一書に1万6千石)を秀長から下されていたのだが、彼が秀吉から
正式に赦免され、佐和山城主・遠江守に任ぜられるまで、数年という時間を要したのである。
加藤光泰貞泰軍功記)

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 20:06:21.25 ID:Pn8DLQrX
なお、加藤光泰貞泰軍功記には、『一書に』として、この光泰失脚事件についての別バージョンが
併記されている。

光泰が大垣在城の頃、飛騨国に武田勝頼の残党があり、討伐のための軍勢が派遣された。
この時、石田三成が先陣を望んだのだが、光泰が進み出て、
「今度の軍勢は大軍ゆえ、若輩者の先陣というのは大変に危のうござる。先陣はそれがしに
仰せ付けられますように」と献策し、軍勢を発向させてしまった。

これを恨んだ三成は、光泰を讒言。飛騨から帰陣した彼は、秀吉の勘気を蒙って流浪の身となり、
大和大納言の懇意によって宇多郡に蟄居する。

彼が秀吉の赦免を受けて、秋山城を拝領するのは3年後のことである。




981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 21:14:04.57 ID:eEA/Ukp+
光泰は不思議ちゃんだったのか

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 23:47:58.24 ID:7WzrrOpI
>「恐れながら申し上げます。お預かりした蔵入地を家人に遣わしたのではありません。
>自分の禄を私のために蓄えず、家人にことごとく遣わしたのです。言葉のあや、言い間違いでございます。」

お前は何を言っているんだ。


983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 00:14:51.91 ID:muuCJ20h
地味加藤よりひどい空気加藤と呼ばれていたが
不思議ちゃんというキャラ付けできてよかったな

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 00:28:26.25 ID:omz+zevW
自分の禄を皆家人に遣わして、自分の分がないから蔵入地で賄うからゴメンネ(・ω<)

うーん、これは許されないな

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 00:42:47.75 ID:1RNc34g3
>大和ではなぜか、秋山城2万6千石(一書に1万6千石)を秀長から下されていたのだが

秀長さん優しすぎ

蔵入地という仕組みがよくわかっていなかったのだろうか

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 00:45:24.02 ID:LyMdmEsP
管理任されてるだけで自分のもんじゃねーのに
勝手に手を付けたら斬られてもしょうがないだろ
守護の土地を守護代とか国人が勝手に横領したのと一緒だぞ

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 01:29:23.81 ID:LkotQpqW
>>985
代官の意味すらわかってないことになるぞ

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 07:37:40.50 ID:lrZY34+v
こっちの加藤はバ加藤って呼んじゃえばいい

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 09:49:22.67 ID:x8iJzT2J
バカトゥーー!!

芸人か!

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 11:09:44.47 ID:4cIIG4mP
よく改易程度で済んだなこれ

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 11:19:32.94 ID:8TiDJuTm
完全な横領だな勝手に会社の土地を経理担当者が売り払ったようなもんだろ

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 11:28:31.29 ID:oJ3MEW99
やっぱり砂なんか食べるから頭が・・・

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 15:41:57.76 ID:6WQFK4aF
>>977-979
結局どっちが正しいんだろうか?
前者だといくらなんでも光泰がアホすぎると思うし(代官という役職を理解してないようなもん)
後者は後者で如何にも後世の創作っぽいテンプレ的な佞臣三成像だし(そもそも佐々攻めの時点で
三成にそこまでの権力は無い)

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 15:46:19.55 ID:SqGp2EqN
自分の知行だけでは新規の国侍の知行を出せないので、蔵入地からの上がりで、預けられた
国侍の知行を出したんじゃないの
無理矢理預けられた奴らの知行なんだから、おまえの土地からの上がりでそいつらを養うぞと、
俺個人の知行では足りないからな

というわけなんだろ