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北野大茶会の事

2019年08月22日 17:05

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 00:46:12.19 ID:rcvPK52I
私(久保長闇堂)が茶湯を初めたのは、北野大茶会の年にあたる。調べてみると、天正十三年十月一日の
事である。秀吉公は八月二日に高札を五畿七道に立てさせ、天下の茶湯を志す者は北野の松原に茶席を設けよ、
との上意であった。南都(奈良)よりは、東大寺、興福寺、春日の禰宜、町方合わせて三十六人が出かけた。
私は幼年であったが、この道が好きだったので見物のため同行した。以下、覚えていることを記す

北野の聖廟の前には葭垣があり、東と西に出切り口があった。上様(秀吉)の茶席四つは、礼堂四方の
隅にそれぞれ囲わせ、秀吉公、宗易(千利休)、(津田)宗及、(今井)宗久という四人のお点前であった。
その時の道具の記録も残っている。
大和大納言殿(豊臣秀長)は南門筋西側で、大和郡山の武家衆、それに続いて南都寺社、町方であった。

松原中の茶席は思い思いの工夫が有ったが、その中でも覚えているのは、奥の小松原に、美濃国のある人が
芝より草を葺き上げ、内を二畳敷とし、中の四方に砂をまき、残る一畳敷に瓦を縁とした炉を作って釜を
かけていた事である。通い口の内に主人が居て、垣に柄杓を掛け、瓶子の蓋を茶碗として、焦がしを入れた
丸瓢の茶器をその中に仕込んでいた。

さて前日にお触れがあり、その日の日の出より御社の東口で籤を取り。五人一組として、先の四つの茶席の
どこかで御茶を下された後、西口からすぐに出る形であった。そのため数百人の客が、朝五つ(午前八時ころ)
にはもう御茶を飲み終えた。

秀吉公は食事を終えると昼前より松原に御出でになり、一ヶ所も残らず御覧になった。
先の美濃国の人は名を「一化」と言ったが、茶席の脇で松葉を焚き、その煙が立ち上っていた。秀吉公は
彼のことを以前よりご存知であったそうで、「一服」との御意があり、直ぐにその焦がしが差し上げられた。
大変にご機嫌よく、手に持たれていた白扇を一化は拝領し、今日一番の幸運者と評された。

また経堂東方の京衆の末席に、「へち貫」という者が一間半(約2.7メートル)の大傘を朱塗りにし、柄を
七尺(約2,1メートル)ばかりに立て、二尺(約60センチ)ほど間を置いて葭垣で囲っていた。
照日に朱傘が輝き渡り、人の目を驚かせた。
これについても秀吉公は一入興を催され、彼を諸役御免とされた。

八つ(午後2時ころ)過ぎには皆々にお暇を下され、それより互いに桟敷を片付け、その日の内に、また
元の松原に戻した。内々には、『諸方の茶道具を召し上げられるつもりであろう』と噂されたが、そのような
事はなかった。また「十日間茶湯をせよ」とも言われていたのだが、その日だけで終わった。
このため見物した人もそう多くはなかった。

私はこれを見物し、心勇んだ。どうにか出来るものだと考え、親の家の裏にわずか4畳敷の小屋が有ったので、
これを改造して二畳半を茶室、一畳を勝手とし、残る一畳を寝所と定め、足の方には棚を釣り。昼はそこに
寝具を上げた。
そんな茶室に、今思えば身分の高い客も呼んだものだ。しかし志さえしっかり持ち続け、勇気を持てば、人に
恥じる事はない。今の世で誰がこのような仕方をしているだろうか。ただ志が強くないため、勇気もなく、
他人に対しても自分に対しても恥じてしまい、道に至る人が少ないように見える。

(長闇堂記)

北野大茶会についての記事



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まことに良将が軍を統べる故なり

2019年03月09日 21:24

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 18:40:43.12 ID:6ECJ3CPn
(賤ヶ岳の戦いの時)

清秀(中川清秀)はこれ以前に度々に及んで武辺に落ち度を取らず、勇力を世間に知られた侍なり。

「度々の晴れ戦、万一鈍兵の名を得ては生涯の不覚!」と思い定めた清秀は「運は天にあり、進ん
で退くことなかれ! 」と諸卒に言葉を掛け、1千余騎が塁を離れて突き出た。玄蕃助(佐久間盛
政)の兵はこれを見て、余さず漏らさず押っ取り込めて、数刻攻め戦う。

清秀は我劣らじと、兵5,60騎が弓手馬手に並び、散々に切り合い割り入り追い立てた。清秀は
一旦は勝利を得たものの、敵は多勢をもって手負い死人を顧みず、風の発するが如く河の決するが
如く乱入して、ついに清秀は討死した。

その時、玄蕃助は勝ちに乗じて太刀場を取り、前は鯨波が地を響かし後ろは狼煙が天をかすませた。
風はふるい、旌旗は光を添えて日に輝く。甲冑は影を並べ、その威光は誰をもって争えようか。

この時、清秀が速やかに引き取っていれば、一化先は敵の勝手をなすとしても“勢に因りて之を破
る”との諺をもって、その尽くが居陣となったものであろう。

秀長(豊臣秀長)の陣所を始めとして、先手の陣取りは各々堅固の備であった。一陣が敗れて残党
も無事ではないといえど、士衆は一致して軍は心を結んだ。これまことに良将が軍を統べる故なり。

そうして江北の戦は相果てた。事が済んだ時、それより羽檄をもって件の注進あり。秀吉はこれを
聞いて清秀が討たれたために、甚だ深く哀憐した。

――『天正記(柴田退治記)』



これにより杉原・荒・仙石が先をなし

2019年03月04日 18:27

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/04(月) 17:51:38.81 ID:5DaS4Rjq
さて、羽柴筑前守秀吉は舎弟の小一郎秀長を伴って、さる天正6年(1578年)に播磨へ下り、
別所と対峙して以来、西国征伐の軍主を奉り、備前美作の守護・宇喜多は手に属し、播磨・但馬・
因幡以上五か国の人数を引率し、天正10年(1582)3月15日、備中国へ向かって冠城に
押し寄せた。敵の備はもっとも剛強なり。

さてこの城は、たとえ人数を損おうとも無二に攻め破り西国の響きにする旨を、かねてより定めて
いた。これにより杉原七郎左衛門尉家次・荒木平太夫(木下重堅)・仙石権兵衛秀久が先をなし、
かの地で肝要の践をなして水手を攻め入りこれを取った。

秀吉は感悦して3人ともに馬・太刀を遣わしたのである。城からはとりどりに懇望を尽くしたが、
これを聞かずに万牛五丁の攻めをなして即時に乗り込み、ことごとく首を刎ね終えたのである。

――『天正記(惟任退治記)』

わざわざ名前が挙がるあたりこの3人当時は期待されてたのかなぁと思った。


奈良かしや この天下殿二重取り

2017年02月24日 17:27

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/24(金) 00:20:47.23 ID:rjLhinUl
秀吉公の御時、「ならかし」と言う事があった。金を貸し出した金融業者は、元金を失った上に、
なお放埒な営業の罪が軽くないとして、罰金として再び黄金を提出させられた。
そこでこのような落首が出た

 奈良かしや この天下殿二重取り とにもかくにもねだれ人かな
 (奈良貸しで秀吉公は黄金を二重取りされた。なんという狡猾な人であろうか)

  ※ねだれ人:色々な計略、策を用いて人に損害を与えようと他人を欺く人、狡猾な人【日葡辞書】
(醒睡笑)

この「ならかし」、はじまりはこういうものであった

『奈良中へは大納言殿(豊臣秀長)より金子一枚を代米四石ずつにして、一万石ばかり町々へ借用。
押してかくのごとし、金は来年の春に取るべきよしなり』
(奈良において豊臣秀長は金子一枚を代米四石とした上で、米一万石を奈良の町々に貸し付けた。
その利息を来年春に「金」で支払うようにとした。」
(多聞院日記天正十七年十月五日条)

つまり秀長が、奈良の金融業者を通じて人々に米を貸し付け、その利息を金で受け取っていた、
という事である。
しかしその結果、天正二〇年九月二日付「奈良惣中」より秀吉側近、木下半助(吉隆)、
山中橘内(長俊)にあてた直訴状の第四条によると

『一、大光院様(豊臣秀長)は御金五百枚あまりに利息をつけて奈良に御貸しなされました。
しかし、毎月利子を銀子にて、奈良奉行の井上源五殿は過分に徴収されました。
しかも井上源五殿は私的な金二百枚あまりも、これも大光院様の御金であるとして、奈良中に
貸し付けられ、ここからも過分の利息を取られました。』
(庁中漫録)

奈良においてはこの借金のため、殺人事件や一家心中が起こるなど、社会問題化していたという。
そしてこの直訴の結果は

『直訴のさまは、ことごとく地下人の勝ち』
(多聞院日記天正二〇年九月八日条)

となり、これにかかわる奈良の金商人(金融業者)が尽く牢に入れられた。
しかし訴訟した者達も一時的に牢に入れられ、また奈良奉行の井上源五には何の処分もなかった。

ところでこの「ならかし」で、何のために資金が集められたのか。
天正二〇年十月十日、豊臣秀吉より、豊臣秀次宛の朱印状にこうある

『一,今度奈良借について出だしそうろう金銀、これらをも右の船(安宅船)の用に入ること
そうらわば、あい渡すべきこと』
(今度の奈良借しで得られた金銀について、安宅船の建造に必要であればそちらに流用するように)

「ならかし」で集めた金銀を、秀吉の「唐入り」のための、軍船建造費に使うように、との内容である。
ここで「ならかし」が、秀吉の政権による施策であったことが判明するのである。
金融業者たちを牢に入れたのは、責任を彼らに転嫁するためであったのだろう。

以上、醒睡笑の「ならかし」の逸話と、それについて、河内将芳 著「落日の豊臣政権」のより、解説を抜粋。


このように、大阪方の手立て、仕置は

2015年10月27日 14:57

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 13:52:38.37 ID:DVPqIe60
かつて大和大納言(豊臣秀長)に仕えていた国島道喜は、左手が手首から切り落とされ、
右手ばかりであった。彼は大和豊臣家の滅亡後牢人していたが、大阪の陣の勃発に
大野修理(治長)によって呼び出され、鉄砲隊を預けられた。
大阪落城のあと、武士を辞めていたのだが、松平下総(忠明)殿に呼び出され、御伽衆のように仕えた。

この道喜が語ったことに、大阪夏の陣の5月4日、豊臣方では、幕府方蜂須賀の軍勢を、毛利豊前(勝永)の軍勢
一手にて打つべしとの事であったのに、作戦は相違し失敗した。

また5月6日の明け方七つ(午前4時頃)に大野修理が毛利豊前と共に国府まで出兵する約束であったのに、
支障があるとして六つ(午前6時頃)まで引き延べ、さらにまた五つ(午前8時)にすべしと、
3度も変更してようやく出馬した。この陣のなかに道喜も居た。

さらに平野のあたりで、大野修理は「豊前と相談することがあるので今一度言って話をする。人数を下げよ!」
そういって手廻り5,6騎にて引き返した。大野が率いていた豊臣方の諸軍勢は、疑いながらも引き上げた。
その道すがら、立派な騎兵4万ばかりと行き合った。これは大阪城の七手組の軍勢であった。

この時、大野修理が出馬のため鹿毛三寸ばかりの馬に乗ろうとした所、どうしたわけか馬が修理を乗せようとせず、
何度もやりなおして漸く騎乗したという。

このように、大阪方の手立て、仕置は、相違することばかりであった。

(武功雑記)



544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:38:01.69 ID:Z6+pZqxx
>鹿毛三寸ばかりの馬

何のサイズが三寸なんだろう?
まさか体高じゃないよね・・・

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:44:09.82 ID:DVPqIe60
>>544
原文のままなのですが、多分三尺の間違いじゃないかなとは思います。

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:44:51.21 ID:awa9htJ4
尺が抜けてそうだよな
つか既出や

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:54:32.38 ID:XVncGBb9
三寸は体高四尺三寸って意味だよ。
馬は4尺あって当たり前なので、そこは略して単に○寸と表現する。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 21:12:54.74 ID:Z6+pZqxx
>>547
>三寸は体高四尺三寸って意味だよ。
>馬は4尺あって当たり前なので、そこは略して単に○寸と表現する。

そういうことなんだね。
どうもありがとう。
しかし、いつも思うんだけど、みんな物識りだね~

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 22:23:19.75 ID:X5C7r9E2
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6508.html
これでもその話題があったな
後はこの四尺以下は農民に払い下げた話とか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3526.html

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 00:02:58.75 ID:h+07QPAW
しかし東国大名はむしろ体高が低めの馬を使うようにと推奨してるけどな
四尺一寸~三寸あたりの

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 10:46:38.21 ID:P96eNA4e
だいたい乗り手の肩の高さ=馬の体高くらいが基準だよな

豊臣秀長の事

2015年07月22日 12:51

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 21:04:35.30 ID:PSm1DkDK
天正19年

この年、太閤秀吉は伏見の城を築き隠居所として、大阪の城と掛け持ちにした。諸大名以下は伏見に
屋敷を構え、代わる代わる出仕した。

4月、太閤の側室が男子(鶴松)を産んだ。太閤は50を越えるまで子がなかった所、若君の誕生に
喜び限りなかった。国持大名、旗本の面々、ことごとくこれを賀した。

このような目出度い折に、太閤の舎弟である大和大納言秀長卿は、久しく病に臥せっていたが、
遂に空しくなられた。太閤の連枝、男子はこの秀長卿一人であった。

当時は戦国の頃であり、人倫の法も乱れ、兄弟で争うような者達も多かったが、
秀長は秀吉によく従い、いつも先陣を務め、或いは一方の大将として戦功度々多く、武勇優れ、
秀吉をよく助けたため、秀吉よりの友愛も深く、官位も大納言に昇り、禄は大和、泉、紀伊三ヵ国を
領して、国家の柱石となられ、天下の人々は彼を仰ぎ尊んだが、たちまち黄泉の人となってしまった。

太閤の嘆き悲しみは浅くなく、これこそ大いなる憂いであると考えられたが、その秋の頃、
この年4月に生まれた若君もにわかにかくれられた。太閤は悲しみのあまりであろうか、清水寺に
3日逗留されたが、近臣を集めて仰せに成った

「日本国は既に、ことごとく手の中に入った。この上は秀次に日本を渡し、大明国に入って四百余州の
王となろう!去年朝鮮より使者が来た時。書簡を朝鮮に贈り、大明を討つときは朝鮮は必ずその
先手をせよと告げたにも関わらず、未だその返書はこない。ならば、先ずは朝鮮を征伐すべし。

朝鮮が我に従うのなら、先手として大明に入るべし。もし従わないのなら、先の朝鮮を滅ぼしてその後
大明に入るべし!来春は必ず、大軍を朝鮮に出撃させる!」

そう、諸将に触れられたのである.

(黒田家譜)

黒田家譜より、豊臣秀長への評価と、朝鮮出兵の宣言についての記述である。

太閤秀吉の別種同腹の弟を

2014年05月28日 18:57

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 21:14:06.58 ID:PM0SZ7y0
太閤秀吉の別種同腹の弟を、大和大納言(秀長)という。
彼は秀吉によって、大和、紀伊、和泉三ヶ国に封じられた。

この秀長は、賤ヶ岳の合戦で中川清秀敗死の時、その様子を見ていながら救出に向かわず、
非常に首尾の悪いものであった。
秀吉はそんな秀長の体たらくに激怒し、諸大名が居並ぶ中で

「お前はわしと、種が違うのだ!」

との言葉を叩きつけた。

この大和大納言には子がなく、関白秀次の子(弟)を養子とした。
これを大和中納言(豊臣秀保)と言う。

(老人雑話)

老人雑話の、豊臣秀長に関する記事である。





玉置直和の変転

2014年05月04日 18:47

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 07:58:42.14 ID:lnSzv3gR
紀伊国日高郡に、玉置直和という国人がいた。
玉置氏は太平記に登場する玉置荘司の子孫と言われており、居城・手取城の周りの領地は
3千5百石ほどの石高とされていた。(※徳川時代の検地では1万6千石ほどであった)
羽柴秀吉の紀州征伐が始まると、直和は秀吉への帰順を決意し、
徹底抗戦を叫ぶ舅の湯川直春や相婿の山本主膳と袂を分かった。
その結果直和は湯川氏に攻撃されたが、その後湯川氏も征伐軍に降ったので、
直和の地位も安泰かと思われた。


そして直和は新たに紀伊の領主となった羽柴秀長に挨拶するため、大和郡山城に赴いた。
秀長との対面では所領の石高を尋ねられたので、直和は3千5百石という
自分が知っている石高を返答したのだが・・・

その後、秀長が玉置氏の領地に対して検地を行ったところ、実際の石高は本人の申告よりもかなり多い事が判明、
これを知った秀長は玉置氏の領地を没収し、その上で直和には新たに申告通りの3千5百石を与えることにした。
直和はこの仕打ちに情けなさがこみ上げ、城を家臣の三十木右馬之丞に預けると、
高野山に上って剃髪してしまった。

ところが、ここで直和の境遇をを憐れんでくれた人物がいた。
秀長の兄・羽柴秀吉である。

秀吉は秀長に命じて、出家して千光院と名乗っていた直和を慰撫させ、
直和の方も、一時の感情で城を飛び出してしまったのを少し後悔していたので
高野山を降りて新封を受けることになったのであった。


その後直和は慶長4年に亡くなり、息子の小平太は関ヶ原・大坂と西軍についてしまったが
後に尾張藩に仕えることができたという。

「紀伊続風土記」より


太閤検地がらみで地方の領主が酷い目に遭うお話
秀吉自らフォロー入れて丸く収まってるので、一応いい話ってことで…




878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 10:16:56.22 ID:gYXHuHPK
あら珍しい

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 10:53:20.87 ID:fX2fjI+L
自領の(実際の)石高を把握してなかっただけで減封は可哀想と思われたのか?
太閤様もこの頃の寛大さを最後まで保っていられたらよかったのに

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 11:44:28.61 ID:rTyi5c7F
柳生「・・・」

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 12:13:56.96 ID:bBTVdTLY
紀州征伐の際に秀吉側に付いた勢力が少なかったから目にかけたんじゃないか

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 13:02:21.25 ID:K4fySxTS
>>880
秀吉「流石に陰田するような奴はフォローできねーわ」

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 14:24:37.06 ID:LcVWaVfl
所領の把握とかじゃなくて、この当時によくあった大幅な打出しを計上して
在地領主から所領を巻き上げるための検地じゃなかろーか

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 14:59:35.46 ID:eHCx+N3j
湯川さんと主膳さんはどうなったのかとぐぐって見たら徹底抗戦して本領安堵を勝ち取ったと思ったら、挨拶に出かけた大和郡山城で二人とも毒殺されてるのね。
地理的にしょうがないとはいえ、やっぱり酷い話では。

「感状は主君のためならず」

2013年06月17日 19:56

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 19:44:16.37 ID:jbZl6Min
島津家の武将、山田有信は九州征伐に際し日向高城に籠もって奮戦したが、主君義久の説得によりやむなく降伏に至った。
攻城側の羽柴秀長はその人物と才覚を惜しみ、兄秀吉の直臣となるよう誘いを掛けたが、有信は「とんでもないこと」と言下に断った。
秀長はこの態度を却って気に入り「では他に望む物はないか」と重ねて持ち掛けた所、
「我ら一族郎党が主君義久の元へ戻ることを認めて頂ければ、他には何も望みませぬ」と願い出たのでこれを快諾した。

薩摩への帰国を許された有信とその部下達だったが、日向は数年前までは伊東家の領地。殆ど敵地も同然である。
帰国の途上で伊東の遺臣に付け狙われることもあり、山伏に身を窶して薩摩へ帰還したという。
義久は彼の帰還を大いに喜び、感状を与えたが、有信はそこに加増の旨を認めるとその部分だけを消して拝受し、
頑として加増を受けようとしなかった。

これを伝えきいた諸人は多いに感嘆し、その後の朝鮮の役や関ヶ原で功を上げた中馬大蔵に浜田永臨、
押川強兵衛、山田有栄、指宿清左衛門といった剛の者たちは有信の事例を引き合いに出し
「感状は主君のためならず」と加増を断り、みな清貧に甘んじたという




512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 22:30:10.57 ID:7AcLyGz5
進んでサービス残業や休日出勤をするワーカーホリックのせいで
誰も残業代を受け取れないブラック企業の話を思い出してしまった・・・

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 22:55:26.73 ID:evhdrLdX
ワ○ミみたいな企業みたいな話だと思うと悪い話みたいになるからやめなさい!

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 23:04:59.12 ID:E1i6Xco3
一応、終身雇用どころか代々雇用があってだから・・・

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 23:40:46.20 ID:BENzQbRB
武士の忠義は家意識もあるから、
現代の新卒中途で縁もゆかりもない他人ばかりの企業に就職するのとは違うわな
ワタミの社長は論語の解説書みたいなの出してたなw
でも一代限りの上下間に中世ばりの忠義発揮する人間はなかなかいないだろ。
いたらある意味尊敬するけど。
現代でやれるなら逆にすごい忠義心だし仲間を信じる気持ちの強い人だよな

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 02:06:22.54 ID:IZie7/be
例の社長は社員に24時間労働するのは奉仕だとか言って
労働者を不当に搾取して富を築く、時代遅れの卑怯者

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 08:21:01.15 ID:WlUSF5eT
出来ないとか無理なんて言わせないのがあの社長のモットーなんだろ
それで従業員の心身を壊してるんだからどうかしてるだろ
本気で政治家になるつもりなんかね
冗談であってほしいわ

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 12:56:28.09 ID:KHYbwo1p
>>516
時代遅れ所か、戦国時代なら押込か追放、下手すりゃ宇喜多メソッドの対象だろう

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:54:27.32 ID:YbkXtjY1
三河のややこしい人らはまず黙ってないな

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 14:40:19.48 ID:fisDmLvD
主君が上手く乗せればそれに近いこと平気でするだろうけどな。

上から押さえつけたら退転するわ刃向けるわでもう大変だろう

藤堂高虎、敵要害に潜入す

2013年05月21日 19:51

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:05:56.66 ID:Mg0CMXgc
藤堂高虎が羽柴秀長の家臣と成って間もなくの頃
但馬の国人達が所々で一揆を起こし、立て籠もるという事があった。

この時、「大屋」という地点は一揆勢が出撃する際の通過地点に当たる、重要な地域であったため、
秀長は藤堂高虎に鉄砲の者を付けて、ここを防衛させた。

こう言った状況で、宇塚尾白という場所に一揆勢が押し出してきた。
高虎はわずかの手勢で終日これと戦い、数ヶ所にわたって負傷したが、それでも終に打ち破り、
特に一揆の大将の一人である、富安という者を討ち取った。

その後、一揆勢は横伊喜という場所に山籠りし、要害を構え小屋掛けをした。

藤堂高虎は深夜、これに密かに忍び込んだ。
所がこの気配に内から気付かれ、敵兵に板の垣越しに鑓で突かれてしまった!

しかし高虎、冷静に、自分に突き刺さった鑓を羽織で拭った。
アクション時代劇などで天井に忍んで鑓で突かれた忍者がたまにやるアレである。

敵兵は鑓に血が付いてないのを見て、さては先ほどの気配は人ではなかったのかと油断し、
兵を呼び出すことをしなかった。

こうして危機一髪のところを助かった高虎であったが、敵から傷を被ったまま戻るのも
非常に残念多いことだと考えた。そして「火が出た!火事であるぞ、出会え出会え!」と叫ぶ。
このため端々から驚いた敵兵がゾロゾロ出てきた。結局自分で呼び出すのかよ。

そこを襲いかかり自身で一人討ち取り、またこの時共をしていた居相孫作も一人討ち取り、
そうして自陣へと帰った。

それまで高虎の知行は三百石であったが、この但馬の一揆が平定された後、一挙に
三千石が加増され、合計三千三百石と成ったのである。
(藤堂家覺書)

それにしても高虎さん、敵の基地に忍び込んで鑓で突かれる負傷をしながらこの大暴れ。
素でアクション映画の主人公みたいな人である。




318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:15:55.29 ID:V6ns/YWh
一気に三千石加増ってすごいもんだな

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:27:15.63 ID:kaCLPvV8
人並み外れた巨体でよく忍び込めるよなあ

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 20:34:18.06 ID:HGFZ4pVY
いや、気付かれてるじゃんw

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 21:37:43.93 ID:FBpMFycF
一揆勢はランボーに襲われたようなもんだな

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 23:24:02.73 ID:vQNRgNm7
当時の平均身長と高虎の体格で考えると、「そんなでかいババァ、じゃなくて間者がいるか」って状態だろうな。
いきなり目の前にラオウがたってる状態。

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 09:24:45.58 ID:G3YpY67V
こいつ絶対ニンジャだろ・・・

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 10:18:21.69 ID:6Wm7rRKu
>結局自分で呼び出すのかよ

「敵だ!」と叫ばれて武器持って出て来られるのと
「火事だ!」と叫んで裸同然で出て来られるのでは
とんでもなく違いますがな。

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 18:29:41.87 ID:i86wmNCt
史実版「げぇ━っ、関羽!!!」だと聞いて

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 10:12:45.59 ID:4jeW38s4
>319、出羽のシスコンさんが興味を持ちそうだなw

谷忠兵衛忠澄の事

2013年05月21日 19:50

谷忠澄   
667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 07:45:37.59 ID:EsphktCK
天正十五年の夏、豊臣秀吉の四国攻めの軍勢が迫る中、長宗我部元親は城ごとに軍勢を配置し、
一之宮城は江村孫左エ門、谷忠兵衛(忠澄)の両名に仰せ付けられた。
しかしここに大和大納言・豊臣秀長の軍勢が迫る。

谷忠兵衛は周りからも知慮ある者と呼ばれていたが、事ここに到っては、城攻めの始まる前に、元親公に
講和のための交渉を始めるべきだと考え、江村孫左エ門とも相談し、矢止め(停戦)のための神文を請うため、
元親の居る羽久地城へと参上した。

しかし元親は、谷忠兵衛の進言を聞いて以ての外に激怒し、忠兵衛は全く面目を失った。

それでも現在は一大事の時であると忠兵衛は考え、在城している重臣たち全てと話し合い、何れも
忠兵衛の見解に同心するに至った。

忠兵衛は3日ここに留まり、重臣一同の総意として、豊臣軍との講和をするよう元親に諫言した。
そのため終には元親も、忠兵衛の言う通りにするとした。

忠兵衛はこの講和を認める重臣一同の一札を取ると、一之宮城に帰り、豊臣秀長にこの旨を申し上げ、
降参の首尾を相整えた。

この時、城中よりも軍勢が出て、豊臣軍と対面したが、豊臣の上方勢は何よりも馬が大きく、武装も華やかで、
千騎が二千騎にも見えるようであった。
一方の四国勢は、馬も細く武装も侘しいもので、こちらは千騎が五百騎に見えるようであったと語り伝えられている。

同年12月には元親が降参のため大阪に向かった折にそのお供をし、秀吉にお目見えされ、直々に刀を拝領し
人々から名誉の侍であると大いに褒め称えられた。

豊後の戸次川の戦では、谷忠兵衛はその嫡男が、長宗我部信親と共に討死をした。
このことも有り元親は、信親の遺骸を受け取る使者として、島津の新納忠元の元に使わされた。

この谷忠兵衛は土佐中村城を任され、慶長五年(1600)11月7日、関ヶ原の結果長宗我部が崩壊する中、その地で病死した。
享年67歳であった。
(長曾我部覺書)





雑談・豊臣秀長に関する議論

2012年11月06日 19:59

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 22:29:04.20 ID:vPe2MraC
無能な人間百人よりは、秀吉と信長がそうであったように
確実な成果が期待できる優秀な人間一人に依頼するだろな
その他大勢である百人からは憎悪されるかもしれんが
本来それは上司である秀吉がフォローアップすべきことだし

222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/05(月) 20:29:46.18 ID:PiXUy448
>>197

そこのフォローは秀長がやってたんじゃないのかなー、と。豊臣政権空中分解したのは結局のところ
秀長が死んだ影響大なんじゃないかな?

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 20:44:54.30 ID:dh2eVboB
頭でっかち石頭と能筋でバランスの取れた人材に乏しかったから

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 21:51:56.71 ID:mek9p20d
秀長みたいに出来た調整役なんて他には隆景ぐらいしか思いつかんな

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 22:03:40.58 ID:sIbB3lqJ
>>224
イメージとしては武田信繁なんかもそんな感じ

ただ、秀長と信繁に関しては早めに?死んだからこそ余計に評価されてる気がする
両方共一人の人格者がいたらどうのこうのっていうような甘い状況じゃない気がするし

>>220
ものすごくざっくり見れば作左と兼続やってること一緒なんだな
やっぱそっちのタイプの人間だな

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 02:54:25.87 ID:PM8FwmD6
秀吉は若年期に殿様としての教育(自己抑制)を受けてないために
老年期は大陸の独裁皇帝並みの自己肥大になったとしたら
同じ母集団から出て同じように階層が上昇したにもかかわらず
人格破綻を起こさなかった秀長や寧々って凄くね?

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 05:43:02.82 ID:VmFqHNiw
秀長は史料が少なくて過大評価されてる部分が多いだろうなぁ

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 05:46:33.77 ID:OxuERoyM
武功夜話で蔓延したのイメージもあるだろうな

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 09:21:30.98 ID:ZT4NF8NB
秀長は残ってる史料が接待ばかりだから
優秀な調停役だったと勝手にキャラ付けされてる様に見える

231 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/06(火) 12:31:05.30 ID:Yi4Igwyp
>>228

そうか?俺はむしろ過小評価されてると感じているが。
実際秀長が生きてる時は秀吉もラスボス化しなかったわけだし、三成ら近江閥と浅野長政ら
尾張閥との対立も表面化しなかったでしょう?



232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 12:43:00.24 ID:TerQt6Ow
>>231
それと秀長との因果関係を示す資料ってあったっけ?

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 15:10:14.44 ID:NbK2TydX
>>228
歴史に興味無い人には過小評価され
歴史好きの中には過大評価する奴もいるってだけ

俺は秀吉の偉業は秀長、クロカン、秀吉で3等分できると思うけど

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 15:50:03.96 ID:ZT4NF8NB
史料上の如水はあごで使われる前線の将
秀吉どころか秀長とも比べられない格下だろ

235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/06(火) 15:58:08.52 ID:I+BY/ICP
でもNHK の魔手にかかれば・・・
戦国の英雄や朝廷も一目置くキーマンに化けるのだ。
ついでに奥さんも超重要人物化して
一武家の夫婦愛や家族愛が全国の行く末を左右する物語のいっちょ上がり。

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 17:35:00.71 ID:T54cWOMY
秀長が病気になったからラスボス化が始まったわけではなくて
北条征伐あたりでそろそろ周りに危険な勢力がなくなり
信長のかわりとして地位が確立されたことが原因だろ

秀長は優秀であっても過大評価されているように感じるわ

加藤光泰失脚事件

2012年10月24日 20:02

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 20:02:54.74 ID:Pn8DLQrX
天正13年、越中の佐々攻めで軍功のあった加藤光泰は、近江国より美濃大垣に所替えとなり、
知行4万石を拝領するとともに、美濃における秀吉の蔵入地2万石と国侍を預けられることになった。
そのお礼として京都へ参勤した光泰は、秀吉の御前でついつい、余計なことを言ってしまった。

「今度ご加増いただき、多くの侍を召抱えました。ですから、蔵入地からの収入については
お望みになりませんように。」

これを聞いた秀吉は激怒した。
「なにぃ!預け置かれた蔵米まで自分の家来に宛がうだと!そんなやり方が許されるとでも思っているのか!
出仕を停止するゆえ、今後、二度とわしの前に姿を現すな!」

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 20:04:49.59 ID:Pn8DLQrX
光泰は謹んで言上する。
「恐れながら申し上げます。お預かりした蔵入地を家人に遣わしたのではありません。
自分の禄を私のために蓄えず、家人にことごとく遣わしたのです。言葉のあや、言い間違いでございます。」

この男、「蔵入地の収入を家来にあげちゃったらまずいけど、預かっている僕自身が使うんだから、
もちろんOKに決まってるよね!」とでも思っているのか?
さすがは戦国の不思議ちゃんである。さすがは「兵糧が無いなら砂を食えばいいじゃない!」という迷言を
残した人である。

彼は他にも色々と申し上げたが、聞き届けられるはずもなく、大和大納言秀長へ御預けとなってしまう。

大和ではなぜか、秋山城2万6千石(一書に1万6千石)を秀長から下されていたのだが、彼が秀吉から
正式に赦免され、佐和山城主・遠江守に任ぜられるまで、数年という時間を要したのである。
加藤光泰貞泰軍功記)

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 20:06:21.25 ID:Pn8DLQrX
なお、加藤光泰貞泰軍功記には、『一書に』として、この光泰失脚事件についての別バージョンが
併記されている。

光泰が大垣在城の頃、飛騨国に武田勝頼の残党があり、討伐のための軍勢が派遣された。
この時、石田三成が先陣を望んだのだが、光泰が進み出て、
「今度の軍勢は大軍ゆえ、若輩者の先陣というのは大変に危のうござる。先陣はそれがしに
仰せ付けられますように」と献策し、軍勢を発向させてしまった。

これを恨んだ三成は、光泰を讒言。飛騨から帰陣した彼は、秀吉の勘気を蒙って流浪の身となり、
大和大納言の懇意によって宇多郡に蟄居する。

彼が秀吉の赦免を受けて、秋山城を拝領するのは3年後のことである。




981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 21:14:04.57 ID:eEA/Ukp+
光泰は不思議ちゃんだったのか

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 23:47:58.24 ID:7WzrrOpI
>「恐れながら申し上げます。お預かりした蔵入地を家人に遣わしたのではありません。
>自分の禄を私のために蓄えず、家人にことごとく遣わしたのです。言葉のあや、言い間違いでございます。」

お前は何を言っているんだ。


983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 00:14:51.91 ID:muuCJ20h
地味加藤よりひどい空気加藤と呼ばれていたが
不思議ちゃんというキャラ付けできてよかったな

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 00:28:26.25 ID:omz+zevW
自分の禄を皆家人に遣わして、自分の分がないから蔵入地で賄うからゴメンネ(・ω<)

うーん、これは許されないな

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 00:42:47.75 ID:1RNc34g3
>大和ではなぜか、秋山城2万6千石(一書に1万6千石)を秀長から下されていたのだが

秀長さん優しすぎ

蔵入地という仕組みがよくわかっていなかったのだろうか

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 00:45:24.02 ID:LyMdmEsP
管理任されてるだけで自分のもんじゃねーのに
勝手に手を付けたら斬られてもしょうがないだろ
守護の土地を守護代とか国人が勝手に横領したのと一緒だぞ

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 01:29:23.81 ID:LkotQpqW
>>985
代官の意味すらわかってないことになるぞ

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 07:37:40.50 ID:lrZY34+v
こっちの加藤はバ加藤って呼んじゃえばいい

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 09:49:22.67 ID:x8iJzT2J
バカトゥーー!!

芸人か!

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 11:09:44.47 ID:4cIIG4mP
よく改易程度で済んだなこれ

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 11:19:32.94 ID:8TiDJuTm
完全な横領だな勝手に会社の土地を経理担当者が売り払ったようなもんだろ

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 11:28:31.29 ID:oJ3MEW99
やっぱり砂なんか食べるから頭が・・・

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 15:41:57.76 ID:6WQFK4aF
>>977-979
結局どっちが正しいんだろうか?
前者だといくらなんでも光泰がアホすぎると思うし(代官という役職を理解してないようなもん)
後者は後者で如何にも後世の創作っぽいテンプレ的な佞臣三成像だし(そもそも佐々攻めの時点で
三成にそこまでの権力は無い)

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 15:46:19.55 ID:SqGp2EqN
自分の知行だけでは新規の国侍の知行を出せないので、蔵入地からの上がりで、預けられた
国侍の知行を出したんじゃないの
無理矢理預けられた奴らの知行なんだから、おまえの土地からの上がりでそいつらを養うぞと、
俺個人の知行では足りないからな

というわけなんだろ

酒と返礼

2012年09月12日 20:31

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 08:31:53.66 ID:50PrEYgu
織田軍の中国毛利攻めにおいて、羽柴秀吉の部将、羽柴秀長が毛利方の因幡丸山城を囲んだ時の話である。
秀長軍は丸山城を厳重に取り囲んだが、丸山城も守将・山県九衛門を中心に堅く守り、戦況は膠着。
この攻防戦は長くなった。

その様な中、ある時城のある丸山の中腹に棲んでいた狼が火縄銃の音に驚き茂木の中から姿を表した。
狼を見た寄せ手の秀長軍からは、これを撃とうと鉄砲を放ったが、狼は再び林の中に戻っていった。

こんな事があって、秀長は丸山城中に遣いを出した。

『この山中に狼がいるのを見つけました。お互いに人数を出して、長陣の眠気覚ましに狼狩りをいたしませんか?』

この申し入れに山県九衛門は応諾し、双方の士卒が協力してたちまちのうちに狼を狩り取った。

さて、この獲物に羽柴秀長は、狼を分断して頭の方を自分の得分とし、尾の方に美酒十樽、良き肴の折り詰め十合を
副えて城中に贈った。
丸山城中の者たちは上下皆、長い籠城に水さえ尽きようとしていた状況であったので、酒盃の噂を聞いただけでも
口に唾が湧き、我先に飲もうとした。

が、ある者が言う
「ちょっと待て!これに酖毒などが混ぜてあったらどうするのか。これは飲んでいいものなのか!?」
皆、飲もうとした手を止める。と、この時籠城衆の一人、境三右衛門が声を発した。
ちなみにこの境三右衛門、この地に普請で来ていた所を、巻き込まれて籠城するはめになった者である。
ともかくも、境

「その疑問は確かにアリだな。だが疑うばかりというのも良くないだろう。まあいい、ここは俺が試しに飲んでみる!」

そう言って飯椀で6,7杯も飲み、そのまま酔っ払って寝てしまった。
境があまりにぐっすり寝ているので、籠城衆の中には彼が酖毒にやられてしまったのかと考え、彼の呼吸が有るかと
確認するものも居た。しかし泥酔していたので全く起きる気配もなく、さては毒殺されたのだと恐れるものもあった。

そうやきもきしていた所、薄暮れ燭台に火の灯る時分になって境三右衛門、茫々然として起き上がり目をこすり
欠伸をしながら曰く

「この酒は各地の銘酒にも負けない上物であるぞ!」

これを聞いた籠城衆、では我も飲まんと酒樽の前に蝿のように集まった。全く現金なものである。が、境は

「まてまて、ここで大酒して沈酔している間に敵が寄せてくれば、防御することも出来ないぞ!ここは俺に任せろ」と、
上戸下戸の分限に応じて過不足無く与えて飲ませた。

さてさて、酒を飲み干すと籠城衆、この謝礼に何を秀長の陣に遣わすかを話し合った。
こういう所、実に律儀である。
しかし兵糧さえ尽きかけており、余っているものなど何もなく、ただ鉄砲の弾薬が二十斤ばかり在るのみであった。
そこでまた境三右衛門、「では、この弾薬を贈ってやればいいんじゃないか?」

当然ながら他の籠城衆は反対した。「敵が寄せてきた時の用心のため、これは残しておくべきである!」
しかし境はこれを聞くと

「二十斤程度の弾薬なんてあっても、どれほどの役に立つっていうんだ?敵が猛勢で乗り込んでくれば、
こんな飢渇に疲れきっている城中に兵じゃ、たとえ何百斤の弾薬があってもどうやって勝利できるっていうのさ?
みんな刀を抜き連れて一文字に斬死するしかないよ。だから、あいつらに贈ってやればいいさ。」

この言葉に守将の山県九衛門も同意し、弾薬を積んで敵陣の前に置き、慇懃に酒肴の礼を述べた、とのことである。
(陰徳太平記)

丸山城攻防戦における敵味方の、酒とその返礼に関するエピソードである。





437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 08:49:32.17 ID:pn7vjQcF
もう降参したらいいのにw

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 09:16:02.89 ID:9xDUJjoA
境さん、巻き込まれて入城した割には人徳あり過ぎだろ…

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 09:56:41.64 ID:tnas0R4k
酒の返礼に鉛玉送るって秀吉の小田原攻めでもあったな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 12:34:19.08 ID:imopRN8v
歌を贈ったり舞を踊ったり…日本の戦って
ほのぼのするようなムズムズするようなw

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 15:36:13.73 ID:5ZKU6dU9
粋だねぇ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 16:03:18.08 ID:pn7vjQcF
>>441
共通の文化を持つ同士の内戦だからな
異民族が相手ならこうはいかない

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 16:28:46.27 ID:qqkt/iTn
西欧なんて捕虜をもてなして祝宴だぜ
ただし身分の高い捕虜に限る

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 17:18:11.69 ID:szRimrgY
>>444
おもてなししても身代金でペイできるからね
捕虜取るのは身代金目的だし
したがって身分の低いものは捕虜にしない

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 17:28:57.92 ID:qqkt/iTn
しかもこの回とこの回は俺(捕虜)の主催だから
身代金に上乗せしといてとか言っちゃうからこっちがクラクラしちゃうよ

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 17:34:08.07 ID:9xDUJjoA
>>446
シャルル5世「親父のために払う身代金無いから帰って来なくていいよ」

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 17:44:38.34 ID:nt03bDac
父親の身代金集めるのに苦労してなかったか?
実はハナから恒常的な税収アップを狙ってた、というはなしだが

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 18:19:25.35 ID:pG/zhTHO
王弟ジョンがどうして重税をかけたかと言えば……

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 19:17:51.71 ID:m5DSgVvi
イタリアの戦争なんて死んだのが数人とかザラだし。戦列歩兵の時代だと3割4割死ぬが
>449、ライオンハートがマジキチな出兵するからだろ・・・ジョンのほうがマシかもしれんw

長宗我部元親の初上洛の顛末とその影響

2012年06月15日 21:00

919 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 19:39:48.53 ID:SOUk2O/k
天正13年(1585)の10月はじめ、土佐の長宗我部元親は家老たちの反対をあえて聞かず、
秀吉への臣従のため上阪した。

10月20日浦戸を出港し、程なく堺の港につく。そこで津田宗及の屋敷を宿舎とすると、
ここに羽柴美濃守(秀長)と藤堂与右衛門(高虎)が来訪。秀長は「早々の上洛に、秀吉卿は
御感に思召しておられます。」と伝え、大阪出仕の支度をするよう促した。
藤堂高虎はこの堺から案内として元親に同道した。

大阪に入ると町家で装束を整え登城。桜の門に入ると警固のものが50人、金棒を持って左右に
並び、元親の共の者たちを
「これより先、小姓一人、草履取り一人のみしか同道出来ぬ!」
と押し留めた。これに共をしていた長宗我部家臣団は激昂。
「こんな事は見たこともない!主の供をするのを一体誰が止めるというのか!?」と
大声で叫んだ。この騒ぎを聞いた高虎は警固のものに
「長宗我部の共の衆なら問題はない。入れてやるのだ。」と云えば、警固の者共は金棒を引いて
彼らを門内に入れた。

ここで羽柴秀長が迎えに罷り出て、元親と同道し奥の間に通らせた。ここで高虎は立ち戻り、
「共の衆はここに居よ」と、彼らを侍所に連れて行った。

元親は小袖20,馬代銀百枚、一文字の太刀一腰を進上し秀吉に御礼を申し上げる。
秀吉は対面を許し、「長宗我部早々上洛、感じ入るぞ」との御意を伝え饗膳を下し、
「美濃守(秀長)、施薬院(全宗)相伴せよ」と言って、自分は奥へと下がった。

さてここで元親の前には、七五三の膳部、金銀の造花、京堺の魚鳥、そういった珍しいものが
尽きることがないほど出されて来た。元親は四国の主であったが、このような膳部は見たこともなかった。
正直ビビっていたがそれでも臆せぬ体でこれを賜り、酒を数回やりとりしていると
秀吉卿が再び現れ「長宗我部の折角の上洛だというのに、肴も出していないではないか!」と、
さらに元親の度肝を抜かせる事をいう。これを施薬院を通して聞かされた元親は、「この長曾我部、
結構な膳部を頂きました、有難き幸せ。」と挨拶をし、秀吉は盃を取るとこれを元親に下し、
元親は頂戴して酒を賜った。

このあと元親に引き出物が出され、腰の物(二尺五寸備前兼光)、黄金百枚、梨地の鞍鐙をつけた鬼葦毛の馬、
などが下される。そして秀吉は言う

「長宗我部は酒も数盃となり、酔も出ただろうが珍しい肴があるのだ、もう一献参られよ。
珍しい肴とはな、その方が上洛するというのを、家老たちがそれは無用だと止めただろう?だがその方一人の
覚悟によって上洛をした、と、わしは聞いておる。

この上はお前が人質に出した津野孫次郎(親忠・元親三男)を返してやる。これを肴に、さあ、
もう一献参られよ。」

元親「かたじけなし」と、それを飲み干した。

元親は明日京に上り羽柴秀次に御礼申し上げる予定であったが、秀吉はそれも免除し、すぐに津野親忠と共に
帰国することを許した。翌日、元親親子は堺を出港した。


920 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 19:40:59.85 ID:SOUk2O/k
元親が帰国すると、土佐の侍町人たちはこれを出迎え、口々に千秋万歳を叫び喜んだ。
翌日、元親は城に家中の者たちを集めると今回の上洛の次第を語り、そして下賜されたもののうち、
最初に太刀を見せた。

「なんと!金で装飾されている!?」土佐者たちは早くも仰天した。

次に黄金百枚を見せた。

「これが判金という物ですか…。はなしには聞いたことがありますが、初めて見た。」

としげしげと眺めていた。そして最期に葦毛の馬に鞍を置いて出すと土佐者たちの驚愕は頂点に達した

「上方という国は一体どんな国なんだ!?こんな馬が存在するなんて!!」

彼らにとって馬といえば、体高一寸ほどの土佐駒であった。上方から来た五寸の馬を見て、
舌を震わせて驚いたのも、仕方のない事であろう。
そして梨地の鞍鐙を見て

「これ光ってる!どうして!?」

などと騒いだ。全く田舎者にも程がある事である。

ところで津野親忠は人質として長く上方に逗留していたので、御供衆まで上方めいた男になって帰ってきた。
これに土佐の者たちは羨み。月代の剃り方から服装まで、土佐の者たちは一斉に真似をした。

それまで土佐の者たちは着物を小袖といい、袖は短く綿をたくさん入れ、帯ははいはたと言う木綿帯をして、袴の
裾も短く、その姿はモグラのようであった。
月代は大きく剃りあげ、刀は三尺ほど、脇差は二尺ほどもある物を差し、顔には武勇を貼り付けていた。

しかしながらそんなモグラ侍を上方侍に見比べると、そのあたりで暴れてるガキ大将すらそんな異風な者はいない。
津野親忠の共の衆に皆習い、着物の脇をすき、袴や袖を長くすれば、男ぶりも良くなり、土佐者たちは
その姿を鏡で見て大いに喜んだという。

翌年、元親が再び上洛した時は、みな上方風の服装をしていた。
この時長宗我部家の諸侍はより合って先年のことを話し、大笑いしたという。

以上、長宗我部元親の初上洛の顛末とその影響、である。
(土佐軍記)




921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 21:12:14.44 ID:C/Wz0oVj
酷い田舎者(´・ω・`)

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 22:01:56.01 ID:InXLPFz0
>>920
体高一寸…土佐駒とやらはエオヒップスか何かか!?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 22:29:54.20 ID:9jvgbY92
>>928
 四尺一寸と四尺五寸の四尺が省略されてるんだろう

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 22:43:54.05 ID:DnS5F/ik
手乗り馬かわいい

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 23:03:28.23 ID:jkSOzJsf
>>919-920
秀吉の人たらしっぷりには毎度関心させられる

長宗我部の奴らも、田舎者丸出しでダサさ全開の昔の自分達を
こうやって省みて記録に残せるっていうのはある意味いい話なのかも

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 23:13:36.53 ID:STIaeafI
四国征伐中にも上方の軍勢は金ぴかだし馬もでかいしマジ無理だから降伏しようって言ってる家臣いたよね

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 23:19:26.46 ID:6SKDqa6T
私です。

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 01:11:30.27 ID:Dxanh6MH
>>919-920
いつ饅頭が出てくるかと思いながら読んでいたw

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 10:03:17.59 ID:J5R7cgVf
>>920
土佐っぽ田舎者すぎてかわいいwww

千利休、松井佐渡宛書状

2012年02月25日 21:52

千利休   
156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 21:51:56.44 ID:DqvOt9Ce
天正19年正月2日 利休が奥州一揆鎮圧に向かった細川家重臣松井佐渡へあてた手紙
当時忠興と松井康之は二本松にいた

一、 浅野弾正と一緒に二本松に同陣していることは、奇特というか名誉なことです。
   上様(秀吉)の耳にもそのことは入っています。
一、 奥州の一揆が蜂起したのは、ひとえに政宗が謀反を企てているからだと上様のお耳に入れ申しました。
一、 政宗は羽忠(蒲生氏郷)を攻略するつもりのようだが、氏郷が油断しているように見えるので、
   (原文だと羽忠政宗武略之覚悟、羽忠油断無様に被思食候)
   上様は去年二八日中様(秀次)、家康様両名に折紙をよこし、
   そちらへ向かわせることにしました。このことは弾様(浅野長政)へも取次があったと思います。
一、 政宗は去年4日黒川に陣替えして、会津と二本松の間を通行できないようにしてしまった。
   これはまぎれもなく謀反の意図があるということだ。氏郷が会津に無事帰城するまでは、
   政宗が何を言おうと、すべて裏表がある、と上様はおっしゃっていました。
一、 霜台(浅野長政)から政宗へ、ご返事があったことは承っています。上様と全く同じ思し召しです。
   会津への通路を切り取った以上、政宗が何を言っても、申し開きは無理でしょう。
一、 上様は三月一日奥州へ出馬することに決まりました。

この年の1月22日秀長死去、2月28日利休は秀吉に切腹を命じられる




157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 22:22:39.12 ID:RBnHfnfy
利休が凄い真面目に仕事してるな
政宗もインパクトあるが、ここからの利休切腹の唐突さもだな

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 22:40:42.09 ID:Rb5F36R7
一枚の書状中で浅野の呼び方がコロコロ変わるのが面白いな

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 23:27:00.54 ID:a+L0bCZ7
原文でも家康は家康なのかな?

160 名前:156補足[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 01:37:56.69 ID:aPkWpTbf
書き忘れたけどこの年は閏月があって、政宗はその間に秀吉と清州城で会って上洛命令を受ける
2月4日に鶺鴒の花押云々の申し開き。

原文でも政宗は呼び捨て、家康は「家康様」になってます

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 01:44:40.88 ID:zvE23jAL
政宗の呼び捨て安定っぷり
やはり本人がそう呼ばせた説を採用したくなる

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 02:32:25.55 ID:Dy7+zov0
政宗は諱呼び捨てされてないと落ち着かないぜwww

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 06:50:02.74 ID:xPON8ctP
名門もあって政宗はこの時点で官位は既に左京大夫だし
普通はこっちで呼ばれるものだよな

やっぱり本人も政宗と諱で呼び捨てられるのを気に入ってたのかもな

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 07:00:19.17 ID:iawcxI+t
諱で呼ばれる俺かっこいい!って本気で思ってそうだな

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 07:56:41.49 ID:9BQRiRce
正宗
「諱で呼ばれる こいつはすげえぜ」

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 08:45:29.07 ID:3lD6q11i
>>166
誤植のようで誤植じゃない!不思議!    いくらなんでもメタルダーは古いと思うんだ。

政宗「あ?なんだよ、オメーら、左京大夫とか呼ぶんじゃねえよ。ダチじゃねえか、政宗って呼べよ」
特攻の拓とかあの辺のイメージだなー

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 10:23:06.30 ID:4CDCr6mD
家康あたりには「気楽に本名で呼ばせてりゃ野望も隠せるだろ」で説明がつくな。しかし他の椰子にまで言わせるってことはよほど名前が気に入っていたのか?

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 10:26:42.32 ID:AUm7LWfq
政宗「俺の名を言ってみろぉぉぉ!」

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 11:03:43.55 ID:q0oKbO/f
まさかこのスレで説教ソングの大御所の名前を聞くとは・・・

秀長の説得、蜂須賀党を動かす

2012年02月13日 22:05

900 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/13(月) 15:58:26.79 ID:8f2U2jKn
1566年ごろ、織田信長に仕える木下藤吉郎秀吉が斉藤家との戦いの拠点として敵地である美濃国墨俣に
砦を築くように命じられた。異母弟の秀長を従え、木曽川の水運を取り仕切る蜂須賀党(川並衆)の首領であった
蜂須賀正勝の元に赴いて協力を求めた秀吉は旧知の間柄であった正勝を得意の弁舌で説得したが、
色よい返事は得られなかった。
場に重苦しい空気が流れる中、それまで無言だった秀長は

「この戦いは兄の出世ばかりではなく、戦乱の世を治める足掛かりになります。大した名声も持たぬ我らは
この度の戦に全てを賭ける覚悟です。
 ぜひ協力願いたい。」

と発言。その誠実な人柄を感じさせる切々とした語り口は、秀吉の能弁振りよりも強く正勝の心を動かし、
正勝の協力を得た兄弟は
砦を完成させて、信長の美濃平定に貢献したという。 「武功夜話」より、
秀長の説得が蜂須賀党を動かした逸話である





901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:04:25.24 ID:+uSZYDLv
秀長無双ですなw

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:10:24.14 ID:Gp6ex8vX
前野さん関係の文献だから秀吉を下げようとして秀長上げてるんかね?

903 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/13(月) 16:16:37.01 ID:nnXPDbvE
秀長と良いてんきゅー信繁と良い
こう言う控えめ実直な有能№2って日本人の心にきやすいよな

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:29:33.99 ID:8SjeKcY2
「武功夜話」の史料評価ってどんなもん?
ある程度は認められてる?

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:36:09.05 ID:huiNTWR0
死ぬ順番が逆なら世が乱れることもなくうまく収まったのかな

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:38:10.48 ID:a2SdNpSM
逆に二人共先に死んだからこそ評価が高いのかもしれない
生きていれば兄の死という重大事件によって失態をさらして評価だだ下がりだったかも

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:38:29.93 ID:ENSG7cdH
>>904
ぶっちゃけると資料価値はほぼ0。
よくて江戸後期の創作。
そしておそらくは戦後に創作されたもの。>武功夜話

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:41:45.03 ID:xmvm4Ky7
秀吉の弁舌でグラグラ来て迷って、でも決め切れないって時にポンと置いた言葉だろうから
やっぱり両方共いないと機能しない良いコンビだったって事じゃないかな

そんな解釈しちゃうと武功夜話が近世近代の作り話っぽくなっちゃう訳ですが

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 17:08:35.17 ID:eO402xW+
その話が出来たころにどう見られてたか、ってのを類推するくらいかな

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 17:11:47.71 ID:Cg0eUmlC
秀長さんは理想的なNo.2だったよな。斬新だけど大雑把な兄貴をうまくフォローしてたと思う
秀長が長く生きていれば、と思わずにはいられない

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 17:18:17.82 ID:KaZFxktm
生きてても秀吉が同じようにラスボス化が進行してたら、止められなかった気もなあ

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 17:29:05.25 ID:ENSG7cdH
ちょっと面白い話で言うと、秀長は徳川家康と非常に関係が良くて、三河一向一揆以来断絶していた
家康と本願寺との和解を斡旋したりしてる。
家康も秀長が病に倒れてから何度も見舞いに行ってる。

秀吉政権で東西の2トップとして徳川家康と小早川隆景があったのだけど、どちらも秀長と
非常に関係が深く、秀長がまさに、大名政策における扇の要となっていたフシがある。

秀長はおもむろに扇を開き

2012年02月12日 21:52

881 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/12(日) 20:25:55.08 ID:73pbmnvl
1577年、北陸地方の平定を任されていた柴田勝家のもとに援軍として派遣された羽柴秀吉は
勝家と意見を対立させた末に無断で戦線を離脱した。この事に激怒した織田信長から秀吉は謹慎を命ぜられてしまう。
この時秀吉の弟の秀長も謝罪と釈明の為に安土城を訪れた兄に同行し、控えの間で待機していたのだが、共に来ていた浅野長政

「秀吉は切腹させられるのではあるまいか・・・」

と気が気でなく、蜂須賀正勝に至っては

「もはや生きて城を出られぬかも知れぬ。だが、わしは無抵抗で死ぬつもりはない。」

と短刀を握りしめる始末で、室内の緊張感は高まっていた。すると、兄の窮地であるにもかかわらず冷静さを保っていた秀長は
おもむろに扇を開き、庭に咲く菊の香りを室内に届けるかの様に無言で仰いだのである。続いて竹中半兵衛

「控えめに咲くあの菊の様に、我々も驕らずにいれば誠意は通じるでしょう。」

と静かに語ったため周囲も落ち着きを取り戻し、やがて秀吉が許されたこと知った一同は手を取り合って喜んだという。

「武功夜話」より、扇で皆を落ち着かせた秀長の逸話である。





882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 20:57:40.35 ID:IO/178gk
武功夜話での蜂須賀を始めとした川並衆の信長嫌いは話として面白い。
荒くれ河川労働者と信長じゃ気が合わなさそうだし

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 21:45:40.24 ID:k1kweMZi
確かに、荒くれ河川労働者じゃ秀吉の方が相性良さそうだね
荒くれ労働者の後家なら家康にお任せだけど

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 21:53:30.47 ID:4B0umsjS
蜂須賀、前野は秀吉と苦労を共にしてそうなのに扱い悪いな

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:02:42.52 ID:PvSieo2p
>>885
蜂須賀さんなんて明治に至るまで盗賊の子孫扱いだったはず。


887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:13:34.71 ID:pxMPt5Z8
蜂須賀さん明治には侯爵まで上り詰めているぞ
明治天皇に冗談でからかわれはしたけど(笑)

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:22:54.04 ID:9xgL0Bcx
明治天皇にからかわれた蜂須賀さんは、徳川家から養子に入ったので、蜂須賀の血筋じゃ無いのに可哀相に。

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:26:07.24 ID:XQmJY4nL
そもそも蜂須賀の盗賊伝説は江戸中期以降、絵本太功記の創作から。

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:55:37.70 ID:pxMPt5Z8
蜂須賀侯爵
「陛下、お言葉ですが、
そもそも蜂須賀の盗賊伝説は江戸中期以降、
絵本太功記の創作でございます。
まして私は徳川から蜂須賀に養子に入った身。」

明治天皇
「・・・・・(いや、実際煙草とられてんだけど)」


な三河武士な展開にしてほしかったなw

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:57:04.31 ID:DQbO/mcF
まとめサイトのその話の解説では
実は明治天皇に蜂須賀小六の血が流れてたという、衝撃の事実が

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 23:02:19.91 ID:XQmJY4nL
要は家風の問題であって血が云々ってあまり関係ないんだけどね、日本では。

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 23:25:04.25 ID:aZe8Uzdl
家柄も教養もばっちりな幽斎さんが油を盗んだり柿を盗んだり(ry

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 23:53:05.26 ID:PvSieo2p
結局どこも戦国からの血筋は残ってないんでない?
大名家も養子ばかりだしな。幕末なんか水戸家からの
養子ばっかり

そういう意味で水戸家最強だな。水戸藩は幕末前半で消えたけど
そのあとの将軍や主要な藩の藩主は水戸藩系ばかり会津や桑名の
松平、尾張の徳川も親父かその祖父が水戸家出身だから
それ含めると越前松平を超える最強の連枝集団だな

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 00:06:43.93 ID:8f2U2jKn
島津とか毛利などの外様大名は血が残ってるんじゃ?

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 00:30:16.11 ID:selISkyR
足利(喜連川)は養子入ってるのかな?

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 00:40:15.83 ID:TgcyyrdD
本多忠勝の家は女系の子孫を必ず養子にしてる
榊原家なんかも血族は続いていたはず

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 02:25:19.42 ID:A27AQDfe
それはそうと大和守△
風流過ぎる

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 06:12:44.45 ID:LGIIVCVg
センゴク絵のイメージになってるから
風流されると戸惑う

天正13年(1585)9月24日、小早川隆景宛、羽柴秀長書状

2011年11月19日 22:21

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 01:00:06.66 ID:oZs//48J
天正13年(1585)9月24日、小早川隆景宛、羽柴秀長書状

『貴殿とは四国征伐以来互いに連絡を取りませんでした。これはお互い、いささか離れた場所にあった為ですが、
今回ご連絡をいただき、伊予のこと残らず仰せ付けられ御拝領とのご報告、誠に喜ばしく思います。
それにつけて鷹二羽を私に贈っていただいたこと、その御懇情浅からず思っています。

私の方も又、大和を拝領仕り、そちらに在住しております。こちら(畿内)に何か御用があれば、
どうぞ私の方までお聞かせください。きっと粗略にすることはありません。

なお、安国寺(恵瓊)に多くのことを申し入れましたが、その内容はここには書きません。恐々謹厳。

九月二十四日

小早川左衛門佐殿
                       秀長(花押)
             御返報』


片や親族の代表として、片や外様の重要人物として、初期の豊臣政権を支えた秀長と小早川隆景の、
関係の深さが垣間見られる書状であろう。
それにしても秀長は安国寺を通じてどんな事を伝えたのか、大変気になるところである。

(小早川家文書)




665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 01:18:30.39 ID:WYCAd8ej
>>663
秀長はほんとに色々気配り大変だったんだな
権力者の弟だっつーてそっくり返る奴もいるだろうに
頭が下がるわー

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 05:38:41.36 ID:NXWCJ0Ex
秀長あっての秀吉だったんだな

豊臣秀長の賤ヶ岳

2011年10月29日 22:00

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:04:43.54 ID:9Qm7ZXcp
太閤(豊臣秀吉)の別種同腹の弟を大和大納言殿(豊臣秀長)と云う。
大和、紀伊、和泉三ヶ国に封す。

彼は賤ヶ岳の合戦の時、中川清秀の敗死の時、それを見ながら救おうとせず、戦の首尾が非常に悪かった。
そのため秀吉は怒り、諸大名の居並ぶ座中で秀長を

「お前は俺とは種が違うわ!(身とは違種たり)」

と怒鳴りつけた。

この大和大納言には子がなく、秀次の弟を養子とした、これを大和中納言と云う。
(老人雑話)

賤ヶ岳の折の、豊臣秀長の戦ぶりについてのお話。




577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:11:08.59 ID:8gkfzpGY
>>576
豊臣絡みの養子はどこかクセがある

秀勝・・・若死
秀次・・・ラスボスのジェノサイド
秀秋・・・空気ブレイカー
秀家・・・世間知らず

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:12:24.93 ID:uD6DEZs5
人には向き不向きがあるだろうに…
時代が悪かったのか、兄貴が悪かったのか

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:13:11.33 ID:eGAHmx0f
秀長って娘いなかったっけ?

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:19:09.79 ID:8gkfzpGY
>>578
織田信長「アニキが悪い?」
伊達政宗「さてさて」
長宗我部信親「人によるでしょう」
武田信玄「そうなのか」
長尾晴景「アニキの苦労がわからないから言えるんだよ」
毛利隆元「ですよね」

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 20:32:57.08 ID:VS/j/0Kl
秀長は諸々を信じればかなりの年齢になるまで農民やってた計算になるが、その割に色々多芸だよな
武芸は知らんが書も和歌も領地経営もまぁこなしてるし
少なくとも負けるにしろ他の武将と比較されるレベルには達してるように思う
まぁ兄が色々酷かった(特に書とか)と言うのもあるが

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 21:15:55.95 ID:CkTUFiVV
>>584
三好吉房が結構教養あった人物なんじゃね
その縁で身についたとかとか>書

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 00:56:46.88 ID:7hXNx9WP
>>576
この逸話、戦死したのがあの中川清秀だから、
見殺されて可哀想とも思えないなw

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 01:01:32.09 ID:17zPE6cd
そういやへうげで、清秀さん討ち死にシーンなかったから残念だった…