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密かに申し上げたき儀あり

2023年03月21日 19:18

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 12:21:09.53 ID:skfkcONT
譚海に、さらにツッコミどころ満載の秀頼生存説がもう一つあったので

享保年間中、薩摩の家老の猿渡なにがしが江戸に出て、老中松平左近将監(松平乗邑)殿のところへ、密かに申し上げたき儀ありと対面を願った。猿渡、封印してある墨塗の箱を差し出して、「薩摩守より申し上げまする。去年薩摩にてかの人死去されました故、このようなものを所持していては、恐れながら将軍家のお恥ともなり兼ねぬと存じまして、密かにお返し申そうと持参いたしました」と申し上げた。
左近将監殿、すぐさまその箱を持って登城して言上すると、有徳院公方様開封してご覧になられた。なかには東照院より豊臣家へ遣わされた起請文が入っていて、秀頼が十五歳に達したら政務を返上する旨が書いてあった。これについては何の仰せもなく、ただ、かの人は何歳で死去されたのか、子孫はいるのかなど詳しく聞いてくるようにと上意あり、左近将監殿帰宅して猿渡を召して委細を尋ねられた。
猿渡申し上げていわく、「かの人去年百三十七歳で死去され、百二十一歳の時に男子が生まれ、この子は今も生きております。以前も男子一人出生しましたが、すでに亡くなっており、ほかに女子三人ありますが、いずれも家老どもへ縁組いたしました」
このことが上聞に達すると、来春薩摩守参勤のせつにその男子を同道せよと上意あった。翌年薩摩守が同道して参勤すると、何事もなくお目見えを許され、その男子に知行五百石下賜され、赤坂山王の神主に仰せつけられ、樹下民部という名前も下された。子孫は今も続いていて、樹下はすなわち木下の意であるとのことだ。

樹下民部で検索すると、山王の日枝神社の神主が樹下姓で、元禄十年に幕命により神主職を継いだという話が出てくるので、樹下=木下を思いついた誰かが作った話ですかね。



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 14:21:20.83 ID:07kYylV9
日吉権現に願ったら猿似の男子が生まれたため日吉丸と名付けた
とか「絵本太閤記」とかに書かれてるから
山王権現の神主が樹下姓なら自然と思いつきそう

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 15:46:17.00 ID:s91iSmcn
秀頼生存説も良い話というより、百姓より天下人になった秀吉の子供である秀頼は天下人から百姓になった、という天道説的没落物語っぽくてなんか…

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 15:55:29.97 ID:ZbYnv9vr
一方生まれながらの将軍は女に目覚めてからは百姓女とパコパコするのが好きな変態だったという
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ちょっと都市伝説風味の話

2023年03月20日 19:53

726 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:45:51.31 ID:3oOcadZo
いい話かは微妙だが、秀頼つながりで。秀頼が薩摩に逃げ延びたという話が譚海にあったので。ちょっと都市伝説風味の話。

阿波の南の海から薩摩へはほど近く、船でたやすく一日で往復できる。それゆえ昔は阿波の漁師が釣りをしながら薩摩まで行き、そこで休息して阿波に帰るといったことが時々あり、自然と知り合いもできて、船を寄せて煙草の火をもらったりもするようになった。その船をよせる場所は薩摩の南海の浜辺で、岸の上には厳重な番所のようなものがあった。とはいえ、海のすぐそばで番人も一人か二人、人のいない寥々たるところで、何を守っているかも定かではない。そんなところだから、阿波の漁師たちも気楽に世間話をしにたびたび集まって番人たちと仲良くなった。

 ある漁師が船を寄せた時のこと。番人は一人もおらず、しばらく待っても誰も来ないので、火をもらいに岸に上がり、番所の中へ入った。すると、いつも閉めている番所の後ろの扉が今日は開いている。何だろうと思って何の気なしに入ってみると、綺麗に掃除が行き届いていて人っ子一人いない。びくびくしながら奥に進むと、大きな石の五輪塔が二、三基ある。不思議に思いながらさらに進むと、最奥に美々しく作った五輪塔が一基あって、神廟か何かのようにしてあった。ほかには何もないので船に戻って待っていると、いつもの番人が薪を背負って山から帰ってきたので、船から上がって雑談をした。
ふと、「この奥にあるお墓のようなものは何ですか」と尋ねると、番人大いに驚いて「あなた方、あれを見られたのか。あれは非常な秘事なので、決して口外しないでください。今日はあそこの掃除をした後、山へ木を刈りに行ったので、つい鍵をかけ忘れてしまった。とにかく、決して口外なさいますな」と何度も念を押した。漁師たちもさては豊臣秀頼のお墓をはじめ、真田左衛門尉、そのほかの人々の墓なのであろうと心づいた。こののちは、番人たちも心掛けて漁師と親しくせず、決して他国の船が岸に寄せるのを許さぬようになったということだ。



「武家閑談」から真田大助と三人の小姓

2023年02月23日 18:43

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/22(水) 21:55:36.40 ID:ZjICsJeG
武家閑談」から真田大助と三人の小姓

秀頼公に御供した三十二人のうち、高橋半三郎は十五歳、土肥庄五郎は十七歳、高橋十三郎は十三歳で、三人はいずれも秀頼公の御小姓であった。
秀頼公御自害の時、秀頼公の上意により、上﨟どもは皆介錯を受けることとなった。
三人の児小姓と真田大助は幼少であり、加藤弥平太と武田左吉が介錯を申しつけられた。
三人の児小姓と真田大助はいずれも具足を脱ぎ、四人とも西に向かって並んで手を合せ、念仏を高らかに唱え、
雪のような肌をおし脱ぐと、四人一度に声をかけ、いさぎよく切腹した。
弥平太と左吉は介錯し終わると刀を捨て、涙をむせび泣いたという。



677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/22(水) 23:07:30.48 ID:muSIJZw6
誰が見たんだよその場面

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/22(水) 23:15:28.01 ID:QsUorrkW
神君です

「武家閑談」から真田大助

2023年02月22日 19:04

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/21(火) 20:27:41.98 ID:bL5twcMw
「武家閑談」から真田大助

五月七日の合戦前に真田左衛門佐(真田信繁)は秀頼公が御出馬されないため、子息大助を人質に城へ置き、自身は出陣することにした。
大助は十五歳であったが
「父上はお討死を決意されているようです。
私は父母の懐に生まれてより、これまで片時も離れずいました。
去年、大坂城に入る時に母上とは生き別れ、その後の母からの文でも
「互いに会うことはもうないでしょう。
どうか父の御最後を見届けなさい。生きようとせず、同じ枕で討ち死にして真田の名を挙げなさい」
と常々言われております。
ただ今父を見捨てて城に戻ることはできません」
と左衛門佐の袖に取り付いて泣いた。
左衛門佐も真田の軍兵も泣かぬものはなかった。
左衛門佐は涙を拭い、はったと大助を見つめて
「武士の家に生れた者は忠義名利を大切にして父母を忘れ、自分の身を忘れるものだ。城へ入れ。
秀頼公御屋形の御側で死ねばすぐに冥途にて巡り合うだろう。
暫時の別れを悲しむのは弓箭の家に生まれた者として甚だ未練がましい。早く城へ入れ」
と取り付く手を引き離すと、大助は名残惜しげに父を見て
「さようであればお城に参ります。来世でまたお会いしましょう」と別れた。
左衛門佐は気にしないふりをしていたものの、涙で東西がわからぬほどであった。

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/21(火) 20:29:36.12 ID:bL5twcMw
大助は城に入り、郎等たちを拒み、ただ一人で秀頼公の御供をして芦田曲輪の朱三矢倉へ籠った。
七日の朝食時から翌八日の午の刻まで、秀頼公とその御供三十二人は矢倉に詰めていた。
大助は父の行方を気にして、城中に逃れた人に父について尋ねたところ
「真田殿は天王寺前で大勢の敵陣に駆け入り、馬上で戦い、そののち槍十本ほどに槍玉にかけられてお討死されました」
と詳しく申す者があったため、大助は涙をおしぬぐい、
母と別れた時「最期にはこれを持って討ち死にせよ」と渡された水晶の数珠を取り出し、念仏を唱えた。
こうして秀頼公の御自害を待っていると、速水甲斐(速水守久)は不憫に思い
「貴殿は一昨日誉田の戦いで股に槍傷を負ったと聞きます。
療養のためにここを出なされ。真田の縁者のところまで送り届けさせましょう」
と言ったが、大助は返答せず、念仏だけを唱えた。
八日午の刻、秀頼公は御自害なさり、供の男女三十二人も自害し、矢倉に火をかけ同じ煙に昇った。
大助も腹を十文字に掻き切り自害したため、見る人聞く人「さすが武士の子孫である」と誉めぬものはなかったという。



日比半右衛門と米村市之丞

2022年12月22日 19:08

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/21(水) 20:02:33.26 ID:6asqkaLX
朝野雑載」から日比半右衛門米村市之丞

片桐且元の従士である日比半右衛門は武功ある者であった。
大坂冬の陣の時、大野の属兵・米村市之丞と闘ったが、半右衛門の嫡子・半十郎が横から出てきて、父と入れ替わって米村と斬り合った。
半右衛門は勝負を見物しつつ「討つも討たれるも武士の習い。踏み込んで勝負をいたせ」と言うと
半十郎は父の言葉を力にし、米村の肩先を斬った。
一方、米村も半十郎の左の頭に切りつけ、弱るところを斬り伏せて半十郎の首を取った。
息子を討たれた半右衛門は米村を引っ立てて
「今貴殿を討つのはたやすいが、その方にも父があり、今われが感じているように不憫に思うことだろう。
その方一人を討とうが助けようが戦の流れは変わらぬのだから、早く帰って恩賞に預かられよ」
と矢立を取り出し、半十郎の姓名を書きつけて与えた。
城内に馳せ帰った米村がことの次第を報告すると、秀頼公も感動し米村に黄金十枚を褒賞として与えた。
これを聞いた人々はみな「半右衛門の計らいは勇ありて情け深い」と感嘆した。

私(貝原益軒)が思案するに、半右衛門の計らいは主人の敵を討たず、他人の子を愛して自分の子を愛さないようなものではないか。
このような異常な行いを見て世人が感動すると言うためしがあるとは。
識者の論をまって是非を判断するべきだろうか。



秀頼薩摩落の事

2022年08月01日 18:36

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/01(月) 18:21:41.22 ID:8IK/SbBS
大分県郷土史料集成収録」の「日田郡志」から「秀頼薩摩落の事」

とある朝鮮人(李文長か)が平戸の士に言うことには
「日田三隈川の南の河原、北高瀬村の今市河原で後藤又兵衛と予は秀頼公より別れの盃を賜った。
そののち後藤又兵衛と予も散り散りになった」そうである。
そのあとの順路を考えると、秀頼公は真田・木村などの屈強の輩、十二騎を従え、北高瀬村→南高瀬村→大野村→梅野村→肥後国・穴川村→隈府と至ったのではないか。
また秀頼公一行が今市河原にくるまでに山国中摩村の真言宗明円寺で昼御膳を召されたと言う伝がある。
この路程とは外れるが、日田の五馬市には秀頼公宿泊の宿があるという。
後藤又兵衛は秀頼公と別れたのち豊前国下毛郡山国金吉村伊福に隠れ住んだと言う。
傍碑、後藤屋敷、後藤又兵衛の墓があると言う。
後藤又兵衛は伊福で隠棲すること二年、承応三年(1654年)正月二十九日の深更に村人が訪ねたところ、戸を固く閉じ、一人灯の下で古い箱から書簡とおぼしきものを取り出し、一通一通涙を流して書見し、みな火中に投じたという。
翌早朝に村人が後藤又兵衛を訪ねたところ、すでに自殺していたという。
村人は哀れに思い、近くに墓を建てたそうだ。

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/01(月) 18:36:38.46 ID:8IK/SbBS
ついでに金吉村伊福後藤碑銘

義刃智光居士
居士。俗名又兵衛。
何処の人か知らず。往昔この邑に来たりて寓居すること二年。
其の人となりにおけるや、志気英威、武徳俊高にて眼光人を射る。
ああ諸侯大夫たる者の逆世において謫居する者かな。
承応三甲午歳正月廿九日夜、剣を旨とし自殺す。
歳をへること久しく、石碑闕落す。
これによりて里人、古を慕い新たに石碑を立つ。冥福に資助する者なり。

宝暦十三年癸未歳六月 日
願雲 金吉村伊福 茂助


「朝野雑載」から仏教と神仏批判ネタ

2022年07月20日 17:06

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/19(火) 19:34:12.24 ID:RWsIYOYi
朝野雑載」から仏教と神仏批判ネタ

美濃の愚堂東寔(臨済宗の高僧)を後水尾院が仙洞御所にお召しになられた時、院はもちろん上段にお座りになっていた。
愚堂は御許可もないのに、院と同じ上段に上がってきた。
御酒が運ばれてきて、院が「まずあれへ」と愚堂の方に目をお向けになると、公家衆が御盃を愚堂の前に置いた。
愚堂は辞せずして「身どもに食べよ、と仰られるのか」とすぐに盃をとって飲み、その盃を院のもとに回した。
「沙門は王者を尊ばず(沙門不敬王者論)」と仏典にあるためこのような無礼をなしたのであろう。

秀頼公は多くの寺社を建立したが七福は生じず、七難により滅んでしまったのに、世の人は弁えないのだろうか。
前田利家公は不動山(石動山?)を焼亡し僧徒を打ち捨てられたが、武運長久で二位大納言まで昇り、子孫は繁栄している。



四国九州の往来を差し防ぐべし

2022年07月01日 20:01

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/01(金) 18:57:25.14 ID:ZLDkYfIn
大阪籠城(大坂の陣)の砌、豊臣秀頼公は篠原又左衛門という者を召し、

「汝が生国は淡路であるから、能く案内を知っているだろう。また親類、好の者も有るだろうから、
それらとも語らい、同心の者があれば、由良城を攻め、かの島を固め、由良、岩屋表に番船を置き、
四国九州の往来を差し防ぐべし。」

と命ぜられた故に、篠原は内々これを謀ったが、大野修理亮(治長)がこれを聞いて

「海を隔てての働き心得ず、始めの手段を仕損じては如何なり。」

と制し、支度の船共を焼き捨てたため、篠原の謀略も徒になったという。

(新東鑑)

篠原というと、阿波三好家重臣の篠原氏の縁者なのかな?



穴沢主殿助 薙刀を以て名を得る事

2022年06月01日 15:02

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/31(火) 22:53:53.38 ID:IFhEYclx
ついでに「武将感状記」の「穴沢主殿助 薙刀を以て名を得る事」

穴沢主殿助盛秀は、薙刀に名を得て、豊臣秀頼の師なり。
相手に竹槍を持たせ、二人前に立てて術を試みるに、危うげもなく必ず勝ちぬ。
大坂冬陣に上杉景勝の将、直江が兵士、折下外記とわたりあう。
折下は素槍、穴沢は薙刀なり。
穴沢薙刀のそりにかけて素槍をはね、飛び入りでこれを斬る。
(折下が)肩に傷つきながら槍を捨て引き組むところを、折下が従者多くあつまりて、穴沢ついに討たれたり。

「朝野雑載」の方はおそらく穴沢を討った折下外記と名乗りを混同している。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10626.html
坂田五郎左衛門、穴沢左近と勝負之こと 付異聞

前に出ていた甲子夜話のこの話では穴沢の死について他にも異説が二つ

ついでに寛永年間に家光の御前で行われたとされる寛永御前試合には穴沢主殿助も出ているようだが、魔界転生でもしたのかな



別記に、天海大僧正は

2022年05月27日 18:20

天海   
205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/27(金) 15:18:13.77 ID:1yQqJgug
元和三年二月二十一日、故・徳川家康に対し、東照大権現の贈号がなされた。

或る記に、始めは大権現ではなく大明神の神号然るべきとの計議あって、それに決定せんとしたのだが、
天海僧正はこれを聞いて、「明神は非なり。権現とあって然るべし。」と言ったのだが、その場の衆は皆
「権現は(神仏)習合なのだから如何か。」と言った。
そうではあったが、天海の言う所も無視するわけにはいかず、事決せずして結論は延引された。

この事について、徳川秀忠公は老中をして議定せしめ給うたが、この時も皆、明神号を以て是なりとし、
将に定まらんとした。しかしこの時天海は黙して何も発言しなかった。そのため老中は再三天海
尋ねられた所、彼は
「豊国大明神、幸ありや。」
と言った。

これに何れも答えること出来ず、権現に定まった。

後に神体を、吉田(吉田兼起カ)に命じて鎮斎しようとしたが、天海
「吉田何をか知らん。愚僧勧請せん」と言ったため、皆疑って、この言葉を秀忠公に申し上げた。
そこで秀忠公は老中を以てこの事を尋ねられた所、天海は一軸を献じた。それは後陽成院帝より
天海に賜った、神体勧請伝の宸筆であった。殿中の者達、大いに驚いた。

今の東照宮の神体は、天海上人が鎮斎したものである。
総じて東叡山寛永寺の僧徒が神体を勧請する事を得るのは、その縁である。

天海がこの勅伝を得た経緯は、慶長の末に家康公、豊臣秀頼公を伐たんと思し召し、後陽成帝に
請い給う所、帝は愍みに思し召され、東西を和解なさしめんとの叡慮を持たれていた。故に
秀頼征伐の執奏が再三に及ぶと雖も、許し給わなかった。これに家康公は御憤あり、故にこの事を
後老中も皆恐れて敢えて言い出す者は無かった。

この時、天海は家康公を諌めた。その辞は甚だ激しく、終に家康公も後承引あった。
天海はすぐに上京し、この事を帝に奏聞した。帝は天海の功を奇とし、「その願う所を訟えよ」との
勅定があった。天海はすなわち、この神体勧請伝を以て奏じた。帝はそれを許し給うたという。

別記に、天海大僧正は足利公方・義澄公の末子であり(一説に、俗姓三浦の末葉・鈴木氏であるという)、
母は会津蘆名盛隆の娘で、永正七年に誕生、義澄公薨去に付き、母と同道し会津へ下向し、外祖の氏を
称して平氏となり、寛永十九年十月二日に寂した。百三十四歳であったという。

慶安元年四月、慈眼大師と諡を賜ったという。

新東鑑

天海僧正、明智光秀どころか足利将軍の落とし胤説まで有ったんですね。



206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 19:00:22.20 ID:13JLuMtD
噂でもいいんだけど天海ちゃん本人はどう思ってたのかねえ
本人に聞く奴も結構いたと思うんだよね

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 19:37:58.79 ID:OVmpUAW9
ほっとい天海とか思ってたんじゃないの

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 19:48:02.73 ID:13JLuMtD
豊国大明神、幸ありや
ひどい豊臣憎しの言葉だな

209 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/28(土) 22:20:06.53 ID:BBDU84zs
天海「権現、私の好きな言葉です」

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 22:36:46.38 ID:FtB32KSb
出生関連には「お前が思うならそうなんだろ、お前の中ではな」的な返ししてなかったっけ天海

211 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/28(土) 22:52:19.77 ID:BBDU84zs
川中島合戦史仲裁案「拙僧がソース」とかもね

近頃笑止なる事に御座候

2022年04月25日 17:56

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/24(日) 19:18:43.37 ID:oi+Wmvg6
慶長二十年(1615)五月七日、大御所(徳川家康)は茶臼山より四、五丁という所まで至った時、
大阪城本丸の辺りから煙が立ち上った。
丁度この頃、小出大隅守三尹が大御所のもとに馳せ来た。
大御所は大隅守に「かの煙を見よ」と仰せになった。
これに三尹答えて曰く

「近頃笑止なる事に御座候(最近になく気の毒なことです)」

と申し上げた。群臣たちは「奇怪の詞かな」とささやきあったが、家康公は仰せられた

「汝は秀頼に筋目があるのだから、尤もの一言である。」
そして、哀れに思し召す御気色にさえ見えた。

この様子に、大阪落城の悦びを申し遅れじと、ここに参り集まった人々の中でも、豊臣家の御恩を被った輩は、
世に恥ずかしきことに思ったという。
この後も大御所は、宿老の者に向かって「大隅守が申した事、神妙の至りである。」と、
御感最も浅からざる様子であった。

或る本に、小出大隅守の父秀政は、尾州中村の人であり、秀吉公と同じ地に生まれたため、
幼い頃より相親しく、その後秀吉公に仕えて奉公の労を積み、ついに泉州岸和田を給わったという。

また或る本に、新井白石先生曰く、小出播磨守(秀政)は大政所の妹(栄松院)を妻にしたという。

新東鑑



151 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/04/24(日) 19:53:20.62 ID:VIZvEaiS
笑止は現代の意味で捉えちゃうと危ういなホントw

「鑓」について

2022年04月17日 17:07

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/17(日) 16:54:42.08 ID:sJ6g5wvU
或る本に、大阪夏の陣、五月七日の合戦で、徳川秀忠公の御先鋒・青山伯耆守(忠俊)の組の
土方宇右衛門、花房又七郎が先駆けして鑓を合わせた時、味方二人が突き伏せられ、さらに敵兵が
掛かってきたところを、土方、花房はその手負いの味方を肩に掛けて退いた。
この事を人々は「両人とも鑓を突いた」と申したが、家康公がこれを聞かれ、
「七日の合戦、総て鑓は無し。両人の者、鑓を突きたるにはあらず」
と仰せになられたが、各々に千石の加増があった。

古には弓箭にて戦ったが、楠木正成が異朝の鉾戦を模して、鑓を用い始めたのだが、猶弓箭についての
評価はしても、鑓についての評価はなかった。
武田信玄の時代より、専ら鑓についての穿鑿がされるようになった。

凡そ、敵味方が備を立ち寄せ、弓鉄砲にて迫り合い、その後戦いが激しくなってなって弓鉄砲も放ち難き時は
鉾矢形(ほうしぎょう)となる。その時進んで鑓を入れるのを「一番鑓」と名付けた。
それより二番鑓、或いは太刀鉄砲にて一番鑓の脇を結ぶのを「鑓脇」といい、またその時首を取ったのを、
鑓下の功名と言う。
又、この場で負傷した味方を肩にかけて退くことを、「場中に高名」と言い習わした。
又、敗軍の時、敵が小返しして働くのを突き伏せて首を取ることは「印」と言い、鑓とは言わなかった。
何れにおいても、強き働きのことを「鑓」と名付けたのである。

されば天文十一年八月、今川駿河守義元と、織田備後守信秀の合戦の時、三州小豆坂に於いて合戦があったが、
今川勢の四万騎が、一度に咄と討って掛かった所、織田勢の四千騎、乱れ立って敗北したが、
信秀の先陣である織田孫三郎引き返し討って向かった。続いて織田造酒之丞、下方左近、岡田左近、
岡田助右衛門尉、佐々隼人正、同孫助の七騎進んで敵を突き立てた、故に「七本鑓」と名付けられた。

又天正十一年四月、秀吉公と柴田勝家の合戦で「賤ヶ岳の七本鑓」と言うのも、敵兵が崩れて色づいた時の、
総懸かりの鑓である。

また未森城攻めで、前田利家卿の家人・山崎六左衛門は小太刀、山崎彦右衛門、野村巳下は鑓で戦ったが
(これは天正十二年、敵は佐々内蔵助(成政)である)、六左衛門が一番に首を取った事で、
利家卿より一番鑓の感状、並びに一万石の加増があった。
この時彦右衛門が「それがしこそ一番鑓なり」と争ったが、利家卿は御許容なく
「太刀は鑓よりも短い、故に先に進んでいたこと分明である」
と批判された。

また、垣越、狭間越、投突は「犬鑓」と言って弱き鑓とされているのだが、狭間より鉄砲を撃ち出す時に、
鑓にて狭間を閉じるに於いては「鑓」とすべき。又垣越もその時の状況によって判断される。
又投突も、合渡川の戦いの時杉江勘兵衛は踏み止まり、激しい戦いの場であったので投突にしたが、
これは犬鑓とは言い難いとされた。

さて、家康公が五月七日の戦いに「鑓は無し」と宣われたのは、仮にも秀頼公は主君である故の
ご思慮であったと言える。それは冬夏両度の御陣を、「相手は淀殿」と仰せになっていた事からも
思い量るべきである。名将の御一言は表向きの事ではなく、深い御智計があるものだと云われている。

新東鑑

「鑓」についてのお話



伊木半七の事

2022年04月09日 15:25

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/09(土) 11:16:59.24 ID:/cGAqrGu
ある本に、伊木七郎右衛門常紀(伊木遠雄)は幼若の時、遠雄半七と称していた。
彼の祖父は式馬大和守と称し、下総国より上って織田信秀に仕えた。
父は式馬七右衛門と言ったが、続いて信長公に仕えた。

そのような中、濃州各務郡に、木曽川を隔てて東は尾州犬山、西には濃州伊木山があった。
その頃、伊木山香川と云う将が籠城して、信長公に敵対していた。
これに対して、式馬七右衛門は先登して力戦し、かの伊木山を攻め落とした。
これに信長公は感悦斜めならず、「末代の誉れに、氏を改めよ」と有ったため、この後氏を伊木とした。
また、この白の本丸に、石の井桁があったが、その場所において働き抜群であった故に、それまでの
月に星の家紋を替えて、井桁紋にした。

又、七郎右衛門は十六歳の時、秀吉公の児小姓に召し出され、翌天正十一年、江州賤ヶ岳合戦において
太刀打ちして、新発田型の使番の、指物を差した武者を討ち取った、この働きは七本槍と左右に立ち並んだ
手柄であるとして、世に『七本槍。三振太刀』と云った。(その他の二人は石河兵介、櫻井左吉である)

同十八年の小田原陣では黄母衣を掛けた。

大坂夏の陣での落城の時に命を遁れたが、その後方々より高禄を与えるとして招いたが、所存あって
応じず、片桐氏の後見として、現米五百石、嫡子は千石を領した。
その後京極安智(高広)の招きに応じ、丹後国に赴き、父子三人にて三千石を領した。
二代目七郎右衛門は千二百石の采地にて、同丹後守の家老職を勤めたという。

(新東鑑)

「三振太刀」や大坂の陣後の話はどうも後世の創作らしいですが、
伊木半七の名で有名な、秀吉の近習で黄母衣衆でもあった伊木遠雄についての様々な伝承。



これを味方が為したものと思い

2022年04月06日 15:06

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/05(火) 21:33:03.97 ID:pTJG6TRQ
或る本に、大坂夏の陣の時、大阪の城兵たちは、冬の陣のときと同じように、幕府方が早々に
攻め寄せてくることは無いと思っており、上下油断していたが、その中で毛利豊前守(勝永)の組の
鉄砲大将・松岡彦兵衛、雨森三右衛門らは、敵付の方を見おかんと、五月七日の未明に、両人
打ち連れて素肌(鎧をつけないこと)になり、刀を若党に持たせ、乱髪の体にて天王寺まで来た。

この時寄手は大御所(徳川家康)の仰せにより、井水、或いは溜水、また切門には、皆引裂紙を竹に
付けて立て置いていたが、松岡、雨森はこれを味方が為したものと思い、「さても早きものかな」と
語り合った。

さて、夜が明けると両人はその場を離れ、平野・岡山筋、東南五里の間に至ったところ、村里と覚しきものが
有った。霧によってそのように見えるのかと疑いながら能く見てみると、森林だと思っていたのは、
みな寄手の旗指物、長柄などであり、村里と思っていたのは、東国勢の備であった。
日が出るに従い、長柄などがきらめき渡り、八尾、若江、南は平野境へかかり、三里ほどが一面となって
押し来ていた。

松岡らはこれに驚き、毛利・真田の方へ右の趣を申し遣わした所、何れも周章てて足軽を張り出し、
備えを立てたという。

(新東鑑)

大坂夏の陣直前にも大阪方は油断していたというお話



下野九兵衛の最期

2022年02月06日 15:18

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/05(土) 23:07:33.73 ID:kxU3JDkp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1861.html
黒田長政と家臣たちの異見・いい話


黒田長政の「腹立たずの会」のきっかけとなった下野九兵衛の最期を
「福岡藩 吉田家伝録」から

大坂の陣の際、長政君は大阪屋敷に下野九兵衛というものを置き、筑前から大坂へ上る米穀の管理を任せていた。
九兵衛は内々に秀頼卿に通じ、ひそかに蔵を開いて多くの米穀を大坂城に入れていた。
秀頼卿は大いに悦び九兵衛に金子と感謝の書状を渡していた。
大坂城没落ののち、長政君が米穀の勘定を九兵衛に命じたところ、露見は免れないと思い九兵衛は妻子とともに逐電した。
なお孝高君(如水)・長政君ともに秀吉公に忠義を尽くしたことは世に知られていたため、九兵衛の独断ではないだろうと言う人もあったとか。
長政君は深く憂え、吉田重成に九兵衛の捕縛を命じた。
重成は瘧を病み、まだ癒えていなかったが長政君の許可を得て無紋の帆を上げた船を出し、家臣三人とともに福岡を立った。
こうして酒樽や魚籠の商人の扮装で兵庫を探索していると下野九兵衛が長く使っていた下人がいたため村山理兵衛が尾行し、山上の小さな寺に入ったのを確認した。
病が小康に入った重成は大いに喜び、寺に行き様子を伺うと、九兵衛は臥して謡をうたっていた。
重成は直ちに庭の戸を開け入ると九兵衛は確認するや刀を取り
「吾子(ごし)尋ね来たるべしと兼ねて思いもうけたり」と刀を抜いて立ち向かってきた。
重成も刀を抜き、家臣三人も棒や刀で取り囲んだ。
九兵衛は重成に斬りかかってきたが重成も刀で受け、理兵衛は九兵衛の右腕を掴み、後の二人も前後から抑えて縄をかけた。
九兵衛の家人三人も裏から出てきて脇差を抜いて斬りかかってきたが、重成と家臣たちが立ち向かうと逃げていった。
こうして九兵衛、その妻、幼い娘、下女二人をからめとり船に乗せて筑前に帰還した。
長政君は大いに悦び、九兵衛を怡土郡高祖村に籠居させ、門番に堅く守らせ、駿府にことを告げた後、誅伐なさったという。



豊臣家二世にして、亡ぶべき時至る

2022年01月25日 17:00

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/24(月) 20:30:23.62 ID:mtcjsHOY
大阪冬の陣の和睦の時のこと

或る本に、この時真田左衛門佐(信繁)は秀頼公を諌めて

「敵味方、甲冑を脱ぎ万歳を唱えています。
今宵、敵の虚に乗じてこれを討てば勝利必然であり、両御所(家康・秀忠)を打ち取ること、
掌の中です。」

そのような事を申したが、淀殿の仰せに
「今日和議を約したというのに、言下に違変などできるわけがない。」
と、御承引無かった。真田は再々諌めたが、織田有楽、大野修理亮などは頻りにこれを制止した。

そのような中、真田は間諜を以て両将軍の陣営を窺ったが、それによると両御所も予めこれを慮って、
三軍の守りは非常に厳整であり、もし誤って城兵が夜襲すれば、たちまち粉々にされてしまうだろう、
との事であった。

これを聞いて真田も大いに感じ、豊臣家二世にして、亡ぶべき時至るを嘆いたという。

新東鑑



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/24(月) 21:34:08.49 ID:HJjNCmQ0
ええと、つまり真田のこわっぱ程度の悪だくみなど、
神君はまるっとお見通しだったって悪い話?

最初に片桐が申していた所

2022年01月20日 19:06

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/20(木) 15:07:22.97 ID:sapmit/h
一本に、(慶長十九年)十二月十六日、大阪冬の陣において大御所(家康)の下知として、備前島
菅沼織部正の寄せ口より、大銃百挺を揃え城中に打ち入れた。その他玉造口の寄場よりも、大阪城の
千畳敷を目当てに大銃を発した所、即ち淀殿の屋形の内三の間に女中多く集まって居たのだが、
そこに弾落ちて茶箪笥を打ち砕いた。女中各々肝を消し、淀殿の御居間も震え動いた。

淀殿は流石に女性であったので、その砌より御心弱くなられ、御和談の為なら江戸にも御下向あるべしと
仰せに成られたため、これを織田有楽、大野修理(治長)承り、秀頼公に段々と諌めたのであるが、
御承引無かった。この上は出頭の近臣に諫言致させるのが然るべしと、その人選をしたが、渡辺内蔵助(糺)は、
去る鴨野合戦以来不首尾であり、また薄田隼人正は日頃の広言に似合わぬと、城中の沙汰悪しきにより、
木村長門守(重成)宜しかるべしと、この趣を申したが、重成は承諾しなかった。

「今、各々の宣う所は、最初に片桐(且元)が申していた所です。只今に至って左様の儀、
この重成には申し上げることは出来ません。各々両所が股肱の臣として、左様に惑われる事に、
御運の末を嘆き入り奉る。」

との旨を述べると、両人も汗顔赤面して、重ねての言葉もなかった。

その後淀殿より色々仰せ進められたため、ようやく秀頼公も、御和談の評議を行ったという。

新東鑑



284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/20(木) 18:43:36.01 ID:M79NcYgQ
女に口出しさせたのと、大野の無能がな・・

怨みを恩にて報ず

2021年12月29日 16:04

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/29(水) 12:17:45.64 ID:RkB427sL
或る記に、博労淵は大阪冬の陣において、大阪方第一の要害の地であった故に、豊臣家はこれを
薄田隼人正(兼相)に守らせていたのだが、一戦にも及ばず陥落し、その上頼み切った平子(正貞)父子を
討たせたのは、薄田の不覚より生じたことであった。さらにこの博労淵攻めのあった夜に彼は
陣所に在らず、そのため『これは関東へ内通したのだろう。』と秀頼公に訴える者もあった。
これによって秀頼は大野治長を召され、糾明の上薄田を誅殺するよう以ての外に命じた。

大野は仰せを奉り御前を立ったものの、薄田は大剛の勇士であり、さらに気早き者であるので
卒爾の振る舞いをすべきではないと、直ぐに織田有楽の元へ立ち寄り、この旨を相談した。
有楽はこのように申した。

「薄田が内通したとの事は、全くの虚説である。彼は去る頃、平野を焼き払う功成らず、またこの度の
不覚により、東国(幕府方)がこのような噂を流したのだ。
怨みを恩にて報ずという事がある。貴殿は御前を宜しきに執り成し、薄田の御免を願われるべきだ。」

大野も尤も同意し、「然る上は私一人で申し上げても御承引頂くことは計り難い。貴殿と諸共に御諫言
申すべし。」と、両人打連れ御前に出、有楽が理を尽くして弁護したことで、遂に御免あった。

その後、大野の陣所が出火した時、それを期に池田武蔵守、同左衛門督、森右近太夫等の軍兵が
侵入しようと進んできたのを。薄田が勇戦して防いだため、幕府方は攻め倦み引き取った。
これは全く薄田の働き故であったと云われる。

新東鑑



何れの諸大名も、斯くの如く致している以上

2021年12月16日 16:44

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/15(水) 21:23:09.42 ID:vX+zcGAJ
慶長十九年(1614)十一月二十日、大阪冬の陣の最中、
この日大御所(徳川家康)は本多上野介正純を召され、大阪城中の織田有楽・並びに大野修理(治長)方は
内状を遣わすよう仰せ付けられた。

これは先月より大野壱岐守氏治(治純)を以て、御和談の事を仰せ入れられていたのだが、重ねて秀頼公が
合点あるようにとの上意によって、後藤庄三郎を城中に遣わしたものの、大阪方では御承引の御請が
無かったため、このようにされたのである。
この時後藤庄三郎には御褒美として、銀子三十枚を給わった。

然るにその後、大阪方の落人を搦め捕ったが、かの者を尋問したところ大野修理亮の足軽であると申す故、
これを大野壱岐守に引き合わせたところ、壱岐守曰く「旧好の者にて、名は与助と申します。」との内容を
言上した。そのため速やかに縄を許し、壱岐守に預け於いて、城中の御使にこの者を仰せ付けたという。

(中略)

或る記に、二十三日、この日大野壱岐守に仰せ付けられ、先だって捕えた与助を御使の者とされた。
その御使によって、『兎角書状にては埒が明かない。口上にて申し入れたい事があるので、織田有楽
大野修理方より慥かな者を一人づつ差し越してほしい。』との本多上野介(正純)の考えを伝えたところ、
織田有楽より村田吉蔵、大野修理亮より米村権右衛門という者を差し越した。

本多上野介は彼等に立ち向かい、御和談についての事を口上にて申し渡した。その上で、今度の戦に際し、
秀頼公より諸大名に給わった御廻文と、それとともに織田有楽や大野修理などによって遣わされた
御請の留書を集め、かの両使に渡して言った

「何れの諸大名も、斯くの如く(豊臣家からの文書をそのまま幕府へ提出)致している以上、
秀頼公への忠節をいたす衆など一人も無い。諸大名の別心などを頼みに思召しても、詮無き事である。
この廻文をそちらでご覧になれるよう進呈する。」

と、残らず大阪城中へ遣わしたという。

新東鑑

大阪冬の陣で、秀頼が自分に味方するよう諸大名に送った廻文が、まとめて幕府から返されたというお話。



豊国大明神祭礼「風流踊り」の怪異

2021年12月15日 16:49

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/15(水) 16:18:55.11 ID:9XAdt7ZK
西垣源五左衛門浄観筆記」から豊国大明神祭礼「風流踊り」の怪異

慶長九年(1604年)八月十五日、京都全体総出で太閤秀吉の七回忌の豊国大明神臨時祭礼(八月十二日から八月十八日)のメインイベントである風流踊りが行われた。
踊りには上京、下京の町組から一組約百人の集団がくりだし、組を表す大団扇を掲げ、それぞれ贅を凝らした衣装で着飾り、
豊国神社の社頭で踊り狂った後、禁裏へとくり込んだ。また桟敷も町のあちこちに設けられた。
午の刻、群衆はいずくからともなく現れた風流踊りの一団を見て思わず粛然となった。
一団の女たちは辻ヶ花(桃山時代に流行し姿を消した絞り染め、幻の染めと呼ばれる)や縫い絞り小袖をまとい、男たちは上布でつくった小紋帷子を着ていたが
踊りには鳴り物がつかず、みな死人のように蒼ざめた顔をしていた。
かれらは群衆に見守られながら、豊国神社の大石垣の中に、静かに消えていった。
「人々消えしあと、群衆口々にあれは(秀次)関白御家の人と騒げり。
みな消えし大石のほとりに、女人被衣(かつぎ)とせし金襴落ちたり。
この被衣のちに洛中の名刹に蔵され、名物裂となれり。」


浄観筆記」について
時代小説家、澤田ふじ子氏の「染織草紙」によれば(この話も同書の孫引き)、
江戸中期の宝暦年間に近江小室藩、京都屋敷の用人を勤めた西垣源五左衛門(法名を浄観)による、京都の市井の話を書き留めたもので、
近江小室藩が藩祖・小堀遠州の遺風を受けてか風流な人物を輩出したためか、源五左衛門の記す内容も芸事に関することが多いのだとか。
なお資料としては未紹介であるらしく(少なくとも1984年時点では)、「浄観筆記」で検索してもほとんどが澤田ふじこ氏関連でしか出ず、どこに所蔵されてるかはわからなかった。