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建部政長、父の所領等を安堵される

2018年09月01日 21:23

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 11:28:42.71 ID:Zzgw7J2Y
建部政長、父の所領等を安堵される


建部政長の祖父・寿徳は信長の家臣として中川重政、丹羽長秀の代官を勤め
本能寺の変後には秀吉家臣として、摂津尼崎三万石の郡代となった。
跡を継いだ寿徳の嫡男・光重は秀頼の近習を勤め、豊臣家の作事奉行として
吉野水分神社をはじめ寺社造営に関わったが慶長15年、33歳で没した。

政長はそのとき僅か8歳だったので、政長の外祖父*にあたる池田輝政
秀頼が幼少を理由に所領等を没収するつもりであることを知り、それを嘆いて
東照宮(家康)や台徳院殿(秀忠)に言上したため、片桐且元に仰せがあり
(秀頼に没収を撤回させて)政長は無事に、父・光重の跡を継ぐこととなった。


――『寛政重修諸家譜』

* 政長の母は池田輝政の異父姉の七条の娘で、輝政の養女として光重に嫁いだ。



248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 18:20:34.68 ID:8csF2RtP
こういう時に頼りになる口を利いてくれる者が人望を集めてくんだろな

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 18:47:59.20 ID:UhKkcb2m
秀頼もたいしてかわらんから、あったとしたら淀か大野か
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これより攻め滅ぼさせていただく

2018年08月09日 12:20

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 21:49:54.59 ID:xiowr2gD
関ヶ原の合戦の後、9月24日、大阪表に徳川秀忠が大名16名を引き連れ現れ、大阪に着陣するや、
すぐに大阪城へ使いを立てた

『今回の戦乱中、伏見城にて討ち死にを遂げた鳥居元忠、松平家忠、同五左衛門三名の首を
当地に取り寄せ実検を行ったとある上は、この一乱、秀頼公の企てであるのは紛れも無い事であり、
これより攻め滅ぼさせていただく。』

この口上に大阪城中は驚愕し、秀頼の母である淀殿はこれを請けて申した

『秀頼は未だ幼年であり、一乱を企てることは申すに及ばず、首実検の事も毛利輝元、その他奉行たちの
仕業であり、秀頼の存ずる義ではない』

そう一々に詫言したため、秀忠は京へ戻った。
そこで徳川家康がこの事を聞き、
「秀頼公については赦免し、今後は御蔵70万石ほど宛行うように。」
と仰せになった。

その発言までは諸家も旗を張り立て一戦の支度をしていたが、秀頼安堵の情報が伝わると、諸手ともに
旗を治め休息した。

(駿河土産)

これはおそらく史実ではないのでしょうけど、ここでも対豊臣強硬派が秀忠で、穏健派が家康なんですね。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 06:29:43.59 ID:3X1txoR3
若いのが積極で老人が慎重なのは今昔いつも同じ

大阪の陣の前兆っぽい事

2018年07月12日 10:56

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 00:32:05.26 ID:dWRGVtRJ
大阪冬の陣は慶長19年の事であったが、その年の春より、下々が「門屋木戸屋」という言葉を
多く口にするように成った。また小歌に「十五にならば前に垣をめされよ」という歌が専ら歌われた。

5月の晦日に大雨が降り、摂津河内和泉全体が水害に見舞われた。この時摂津国の大堤が切れた事が
「今ぎれ」と呼ばれた。

6月末より、お伊勢踊りという踊りが流行り、諸国より集まった人々が大阪も通り、かまわずに踊った。

9月、天下輝くほどの光物が東から西へ飛んだ。暮れの六つ時ころ(午後6時ころ)であった。

10月15日、大地震が有った。

その他様々な事が、その年のうちにあった。

(長澤聞書)

大阪の陣の前兆っぽい事が沢山あったらしい、というお話。



926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 11:22:03.55 ID:ckxWvSyp
ただの認知バイアスだよな
災害なら平成の今でも毎年のように何かが起こってるし

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 08:36:07.35 ID:LVuhrboZ
お伊勢踊りは、政治的緊張をある程度反映している可能性があるけど・・・

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 18:21:14.87 ID:yKRA+Q2p
>>926
いまと違って天変地異には何らかの意味があると思われていたわけやん?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 18:28:45.61 ID:BBT1hpwE
豪雨災害は麻原処刑のせい、と大真面目に語る奴が2018年の今いるぐらいだ

合戦というものは結局、気負い次第

2018年07月01日 21:07

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 00:49:51.09 ID:QOgqRimO
大阪の陣の時、権現様(徳川家康)はこのように仰った
「何度やっても本当に理解できるものではないが、しかし合戦というものは結局、気負い次第なのだ。
今回ならば、秀頼と組み合い、最後に上になった者が勝つということだ。」

これ以外に、大阪の陣に置いて軍法に関する仰せ出は無かったという。

(諸士軍談)



43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 13:56:04.98 ID:xUOsaneP
最後は気合い。

大野修理襲撃事件のこと

2018年06月30日 21:12

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 22:51:44.49 ID:d3bXhUj1
大阪冬の陣の講和の後、大野修理が御城より帰り、内御門の脇にて小便をして居た。
ここに30ばかりの、撫で付けにした小紋の袷を着て、一尺三寸ばかりの脇差を持った男が、
大野の60人ばかりの供の者に紛れていた。

その時は夜の五つ時分(午後八時頃)であっただろうか、男は大野に飛びかかった。
脇差が大野の身に刺さったまま、男は駆け逃げた。
闇夜であったので大野の供の者たちは方々を探したが男は見つからなかった。
しかし大野の小姓が、焼き崩された片桐且元の屋敷跡の、石垣の際にて男に追いつき、肩先から
一太刀で討ち留めた。
この小姓は後で豊臣秀頼より、過分のご褒美を下されたという。

そして、かの討ち取られた男についてだが、大阪城より、金子五十枚を賞金としてかの男の
身元を知る者は訴えるよう属託したところ、翌日には二人のものが訴え出て金子を受け取った。
すると本町に住む牢人が、家に火をかけ自害するということが置きた。

後に下々の者は、この事件は片桐且元が起こした事だと申していた。

(長澤聞書)

大野治長襲撃事件のお話。一般には治長の弟の大野治房などによる襲撃と言われますが、大阪では
片桐且元の仕業」という噂が流れていたのですね。



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 23:29:33.60 ID:UkJDX4f0
へうげものに出た大野兄襲撃エピソードって元ネタがあったんだな

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 11:53:43.89 ID:FfwUYCBs
死人に口なしってのが、暗殺事件の基本だわな。

伊藤武蔵守、馬験を拾う事

2018年06月30日 21:12

899 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/06/30(土) 12:04:43.19 ID:FfwUYCBs
伊藤武蔵守、馬験を拾う事

同じ日秀頼は楼門に打出でて、灑金を緋威にしたる物具著て、太閤の時より伝えられし金
の切っさき二十本、茜染の吹貫十本、玳瑁の千本槍を並べたて、太平楽と名付けたる七寸
有りし黒の馬引立てられし所に、先陣皆敗北しけると聞こえければ、今は是迄なり、敵の
中に駈入り討死せん、と進まれしを、速水時之、今打って出たりとも勝利候まじ、疾く本
丸に入らせ給え、とて引返す。斯りければ士卒散々になりて馬標を棄てたりしに、伊藤武
蔵守遅れて帰りは入りしに、是を見て、朝鮮迄聞こえし豊臣家の馬標を敵拾いなば、大坂
城中に男子は一人も無きと日本国中の物笑いとならん、と言う儘に、手づから振りかたか
けて、城中千畳敷に帰り入りけり。

(常山紀談)

 大坂夏の陣の終局場面、5月7日の話。
 数千の秀頼馬廻り衆が、戦わずして壊乱か。最終的にほとんどが討死したとされるが、どのように戦ったのだろう。

 玳瑁の槍千本って、ものすごく高価そう。キンキラキンの豊臣家らしい武装。

※玳瑁(タイマイ)


大阪冬の陣の和睦の時

2018年06月24日 14:44

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/24(日) 00:07:50.74 ID:AYWzaaZT
大阪冬の陣の和睦の時、大阪城内では、城の弾薬、兵糧米などが尽きようとしているので、
豊臣秀頼一人が腹を切る事で、籠城衆を助けるのだと取り沙汰された。
そして、例え兵粮が多く有ったのとしても、大阪城から5里隔てた幕府方の附城4ヶ所ほどに
それぞれに大名衆を置き、結局兵糧攻めにされるのだとも言われた。

その時城内より遣いとして参ったのは松の丸殿孝蔵主であったという。
大阪章(ふみ)と申すのは文英清韓長老が書いたものだという。

(長澤聞書)

冬の陣講和の時に、大阪城内で言われていたこと



879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/24(日) 15:54:28.25 ID:u7rojT8f
結局、遅かれ早かれだったな。

大阪方の人々

2018年06月22日 10:32

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 09:17:50.00 ID:+Vch1/Y2
豊臣秀頼公は、大阪冬の陣のおりには御歳23であった。世の中に無いほどのお太りであった。
木村長門も同年である。
大野修理はその頃、47,8くらいに見えた。
後藤又兵衛は60あまりに見えた。男ぶりは百人頭という風情の人であった。
真田左衛門佐は44,5くらいに見えた。額に2,3寸ほどの傷跡があり、小兵なる人であった。
秀頼の御子8歳と長宗我部の二人は戦後生け捕られ、京にて御成敗された。

(長澤聞書)

大阪の陣で後藤又兵衛に従った長沢九郎兵衛による、大阪方の人々の印象



32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 10:47:30.98 ID:K53k58Oq
何でそんなに太っちゃったんだろう・・・

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 12:11:36.59 ID:tpZc7hd2
蒲鉾が大好きだったんだよね

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 16:21:57.96 ID:L0H/Woxq
北の将軍様もお太りになってるよな

【ニュース】 <歴史>「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級

2018年04月04日 17:52

752 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/04(水) 15:06:01.88 ID:2/N52Qoq
<歴史>「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180404-00000029-mai-soci.view-000

徳川家康が豊臣家を滅ぼした大坂冬の陣(1614年)、夏の陣(15年)の詳細な陣形を記録した
最古級、最大級の陣図が見つかった、と広島県立歴史博物館(福山市)が4日、発表した。
大阪歴史博物館(大阪市中央区)は「主戦場だった城外の部隊配置まで詳しく示された陣図は過去に例がなく、
戦いの様子を知る重要な史料といえる」としている。


DZ6gfe0WAAIhzvf.jpg



753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/04(水) 18:49:19.67 ID:yipZGTqw
この調子で関ヶ原も頼む

秀頼公が降らせたとしたら

2018年03月04日 21:07

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 18:25:56.35 ID:dDdfXZzE
寛永八年五月八日、江戸にて霰が降る。
この霰はとても大きく屋根をつきぬけ死人が出たほどであるという。
この日は豊臣秀頼の十七回忌であり秀頼の祟りであると皆噂した。
そんなときに三斎様が忠利への手紙に書いた一言
「秀頼公が降らせたとしたら小米ほどの霰にしかならねーだろ」

ひどい言いようである。



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 21:52:24.34 ID:1/g86kDk
>>575
面白いw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 02:35:05.49 ID:WZikKtO0
なんで小米なのか説明よろしく

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 08:12:54.52 ID:SRBMFBnt
小物だから、てことじゃダメなのか

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 20:27:09.16 ID:+GYwg/Yu
普通に考えて 、秀頼は高く評価仕様がない

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 22:42:42.32 ID:E7L7esSF
確かにひどいなw

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:10:37.02 ID:22URxcVa
後のシャオミである

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/05(月) 23:12:06.25 ID:ib5vEmNz
信雄や足利義昭のようにはいかなかったんだな。

調略を討ち果たす

2018年01月21日 17:40

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/20(土) 20:36:47.37 ID:0TMGCboN
大阪冬の陣の折、幕府の軍勢が大阪城を包囲している最中、幕府方によって捕縛された
吉河瀬兵衛と言う者が、豊臣秀頼から藤堂高虎への書状を持参していた。

それはすぐに徳川家康の元へ届けられたが、その書状にはこのように書いてあった

『最前より約束のごとく、東(幕府方)人数引き出し候事、秀頼公御感に思し召し候。
いよいよ、後ろぎり(裏切り)の手立て肝要に候。御褒美の儀は、望み次第たるべきと
おおせ遊ばせ候。』

これを読んだ家康は言った

「良き臣下を討ち果たさせるための、昔からこういった調略は、大唐にも日本にもあった。
和泉(高虎)の心は、昔からよく知っている。別心などあるわけがない。ただ一筋に、
我らのためを考えてくれている。
従ってこれは、討ち果たすべき調略である。」

そう考え
「かの瀬兵衛を和泉に引き渡しこう言え、彼の十本の指をすべて切り、額に秀頼と書いた
焼印を当てて、城中に追い返すように、と。」

吉河瀬兵衛を引き渡された高虎は、家康に言われたとおりにせよと命じ、瀬兵衛は
大野主馬の持ち口であるせんばの門前へ送り遣わされた。

(藤堂家覚書)



491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/20(土) 21:48:33.65 ID:RKYI0gsk
裏切りが真実ならこうするぞ!という脅しか

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/20(土) 21:54:13.27 ID:x2e4wzOq
葵でもそのようなくだりがあったな

そして、高虎さんは夏の陣で無茶をするんだよな…

近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で

2017年07月27日 10:45

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/27(木) 10:41:11.98 ID:BmOTs3V3
近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で


関ヶ原の戦いが終わり初めての慶長6年の歳賀は、家康の体調不良により
諸大名は1月15日、公家衆は29日に秀頼と家康にそれぞれ賀す形で行われた。

近衛信尹は自身の日記で、そのときの愚痴を書き留めている。

正月二十九日、(大坂城)西の丸の内府(家康)へ御礼、此時内府は病気で
中納言殿(秀忠)が名代をした。中納言殿へと父子への礼で太刀代二つだ。
(家康父子の)取次は池田三左衛門(輝政)一人だった。秀頼であるならば
三左衛門でもいいが、ここでは本多榊原大久保などであるべきではないのか。
――『三藐院記』

輝政は去る18日には秀頼の名代として朝廷に歳賀をしているが
前後から推測するにどうも信尹は、輝政は名目上は豊臣家臣なのに
まるで徳川家の直臣のようにして出てくるのは不適切だと思ったらしい。



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 06:43:40.19 ID:Io2U+32W
>>18
解釈は逆だと思うなぁ
近衛信尹は秀吉のせいでエライ目にあってばかりだし

終始の勝敗は、終始の政による

2017年06月21日 20:02

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 19:41:24.04 ID:D+B63afb
大阪夏の陣、5月7日に、大野修理は茶臼山の近くまで進出していたが、秀頼の出馬あるよう申し上げるとして
城中に引き返したが、その時大纏を持たせて城中に急ぎ退くのを、他の味方から見ると敗北して城に
逃げ帰るように見え、七手組の人数その他城外に出て戦っていた秀頼方は、悉く気後れし敗北の機が出来、
共に城に入る者も多かった。
寄せ手はこれに気を得て、いよいよ勢い強くなり、これによって豊臣勢は総敗軍となりたちまちに城中周章し、
程なく落城に及んだ。そう語る人がいる。

しかし、大阪の落城の原因はこれではない。ただ秀頼の謀の不足、群臣の異議不全によるものである。
さらに推して言えば、太閤秀吉は一旦の勢いに乗じて天下を従え、道の道たる理由を知らず、
己の私智に任せた事の余映に寄ることである。
また、この時についても、大野が不功者にて事理を糾明し得なかったため、こういうことも起きたのである。

その日、速やかに破れたのはその日の謀により、終始の勝敗はまた、終始の政によるべき事である。

(士談)

大河の真田丸なんかでも豊臣敗北の原因とされた大野の行動ですが、それは真の敗因じゃないよと
山鹿素行がすでに批判していたというお話。


900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:16:56.75 ID:i1njUqXZ
夏の陣は仕方ない

秀頼藪之事

2017年03月26日 19:26

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 23:30:42.64 ID:BU1a2z98
〔領内志佐〕秀頼藪之事

 大坂落城のとき、秀頼は薩州へ逃れ行きその蹟があることを前に言った。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9991.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10320.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10623.html
実事だとみえる。

 そういったところこの頃ある話を聞いた。
領内の志佐地方というところに、秀頼藪と呼ぶ所が在ると。
もしかしたら薩州への道にしばらくここに隠れ居たのか。
訝しい。

(甲子夜話三篇)


此の方の宛名は何と書いた

2017年03月13日 09:35

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/12(日) 21:11:39.63 ID:Ss9DL0Db
慶長19年、大阪冬の陣和睦の際、大阪城からは木村長門守重成を以て、神盟の御判元拝見に
さし寄越された。木村は家康の御座近くに参るための支度はしていたが、彼の気色が怪しいため、
家康側近くの者達は、彼を遠ざけ置いた。

この時、大阪城へも豊臣秀頼の判元を確認するため、幕府より使者が遣わされたが、人々は
「きっと侍大将の中から選ばれるだろう」と噂していた所、『若者のうちより、分別があって
事がもし破れたときに一己の働きのできる忠士』として、板倉内膳正重昌が選ばれた。

家康は重昌を召すと「和睦の誓紙を見て参れ」と命じた。
板倉重昌はこの時18歳。近習として召し使われ、心やすく思っている者であったので遣わされる、
との事であった。
大阪においては「関東勇功の老臣が派遣されるであろう」り心支度していたものの、それは相違した。

さて、板倉重昌は秀頼の御前に出て、御判をされる時、座を立ってその膝元に寄り、左右を顧みて
申し上げた

「右丞相(秀頼)の御器量、関東にて承り及ぶよりも、ことに勇々しく見奉りました。
関東にては秀頼功の御膝が、扇子丈ほどもあると承り伝えられているばかりであります。
このような機会に拝し奉り、関東への土産としたいと思います。」

そう言うと腰の扇子を抜いて座を立ち、膝を計ろうとするふりをして、御判元をしっかりと確認した。

その後秀頼より、「宛名は何処にすべきか」と尋ねられた。重昌は
「その事について特別に仰せ付けられてはおりませんが、関東・大阪御和睦の儀にて候へば、
現代の将軍である秀忠公に宛てるべきでしょう。」と申し上げた。このため宛名は
『江戸将軍へ』と書かれた。

この頃徳川家康は「内膳正に第一に言っておくべきことを忘れていた!」と、大変気にしている様子だったので、
人々は「一体何事だろう」と心配していた所、重昌は程なく帰ってきた。この報告を受けると
家康は御次の間まで出てきて

「どうであった内膳、判元を見て参ったか。
実は第一に申し付けるべきことを忘れていた。此の方の宛名は何と書いた?」

重昌畏まって
「その段、仰せ付けは承りませんでしたが、関東・大阪御和睦でありますから、新将軍家へと
望みました。」

そう申し上げると、家康は甚だ御機嫌にて「でかしたり!でかしたり!」と、大いに喜び、
また全体の首尾が報告されると、一入感じ入ったとか。

(武野燭談)


種子島蔵人

2017年03月08日 11:27

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/08(水) 10:15:43.86 ID:b0jUgklp
或る本によると、豊臣秀頼は大阪落城の後薩州に下向されて島津家を頼み蟄居、
種子島蔵人と改名されたという。

寛永の頃、京都の具足師何某の所に、薩摩より鎧の修復が依頼された。
具足師はそれを見るや

「この鎧は常人の所持するようなものではない。かつて太閤秀吉公がお召になったという
鎧についての言い伝えと全く同じだ!」

そう思っていたが、その後再び具足の修復を依頼され、その具足には『先年秀頼公御召の具足』
と有り、先の修復の時の疑問が解決したと言ったそうだ。

また伊勢奉幣の目録に、『豊臣某』と書かれているものもあるとか。

(翁草)


真田幸村の遺跡付秀頼

2017年03月07日 21:40

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 01:06:36.77 ID:XljhnUxf
真田幸村の遺跡付秀頼

 続編の五巻に、松代侯の物語を記した中に、幸村が薩摩にいたことを言った。
その後薩州の者との文通を見せてきた。

「熊本藩の斎藤孝寿(孝寿は、権之助と称す。細川侯の町奉行。犬追物に精通す。)が甲寅(1794年)に南の方薩摩へ遊行した。
官工の伊正良に刀剣を造らせるためであり、ここに三十日程いた。
かつて私は『豊公秀頼は大坂城を逃れて、西の方薩摩に逃れた。』というのを聞いた。
もしその事があるのなら、必ず墳墓や子孫があるはずだ。
この地で北や南、西から東へ行き広く尋ねたり相談したりして求めたが、
邦の人々は皆知らないと言う。

ところがある人が言った。
『遠く府の南三十里に谿山市という市が有る。
その西隣に一村落が有る。名を木下という。』
たぶんその所だ。私は一日ここへ遊びにいき、近くの諸村老に『豊公の家の跡はあるか』と問うた。
その広さは一段ばかりで、中に二松有る。その大きさは両手で三回抱えるほどであった。
枝葉は霞の中に生い茂り、花の香りは遠近にたちこめている。
ここがまさしく豊公の居た所だ。
その距離東に百歩ばかりに一小堂があり、仏が安置されている。
その側に多くの墳墓がある。そのなかで抜きん出て偉大なものが豊公の墳であろう。
その後ろに墳が有り、すなわち臣僕の墓だという。銘が皆明らかではない。
その廃墟に家にしているものがおり、脇木下という。(本木下は本家で、脇木下は別家という。)
その北へ五・六十歩ぐらいのところの家に住んでいる者が本木下という。

私は秘かに聞いた。
元和の役で、豊臣公は秘かにその臣の真田幸村等と謀り、大坂城で死んだと偽って薩摩に逃げたのだと。
豊臣公は谿山に在り、真田君は頴娃に在ったという。
しかし世人はこれを知られるのを恐れ、よってその名を悔い改めて木下としたと。
これから後世の人は遂に邑の名を木下と言った。
公の人となりは甚だしく肥大で、身長は殆ど六尺。
公は常に都下に往来し、酔えば必ず道路に縦横した。
真田君のなりは役小角の遺風のようだった。これらから今に至っても諺で
谿山(タニヤマ)ノ酔人(エクロ)、頴娃(エノフ)ノ山伏と也云々
(エクロは薩摩の方言で酒酔人を言う。秀頼、薩摩で大酒であったことは前編四巻にも見える。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html
河村宗澹曰く今の番頭役谿山孫右衛門は秀頼の末葉だそうだ。但し、谿山の苗字は多くあるが統は右孫衛門だと話した。)」

 これに拠れば、幸村は大坂で戦死してはいない。大助もまた、第五巻松代侯の話を証拠とすべきだ。
これも生害ではない。また秀頼の容貌もここで知れる。またすでに前編六十一巻にもこのことを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10006.html
通観すべきだ。

(甲子夜話続編)



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 14:26:14.59 ID:vISgFD1K
>>704
>木下
改名がガバガバすぎて草

この説虚実を知らず

2017年02月28日 08:08

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 20:29:57.84 ID:EACPwTQf
豊臣秀頼の最期については、異説が非常に多くて事実を分明できない。
おおよそ世の説を以ってすると、秀頼は大阪落城のあと薩摩へ退いたとされる。
薩州において客分として安居し、しかもかなりの長寿を得て、延宝か天和の頃(1673~83)
90歳あまりで亡くなられたという。

その頃、薩摩の太守が参勤の御挨拶の砌に、将軍家に対し御人払いをして言上する、という事が
あったそうだ。この時薬研藤四郎の短刀が献上されたそうだが、それ以外に何が語られたのか、
全く知られていない。(この説虚実を知らず)

また、この時の随員のなかに真田を名乗る武士がいたそうだが、彼は世を憚って「マナ田」と
称していたという。真田大助の子孫だろうか。(この説も虚実を知らず)

(翁草)



626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/28(火) 01:26:27.42 ID:QzRy6CAa
昔読んだ小説に真田大助が主人公の話があったけど
武者修行中にチン子切り落とされてそれを哀れんだ実母とセクロスするとかって内容だったから
ずっと架空の人物だと思ってた

愛宕に武運を

2016年12月23日 21:10

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 22:21:14.83 ID:QUkoz0tZ
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が終わって後日のこと。

家康は近臣と雑談している時、こんな事を言った
「去る三月、加藤清正は秀頼に供奉して上洛したが、彼は退出の時、西天の方に目を注いだ。
これについてお前達は何故だと思うか?」

しかしこの問に、答えられるものは一人も居なかった。

暫くして家康は言った
「秀頼の上洛に供奉するのは非常に大切な役目であった。だから清正は、二条城の西方にある愛宕山に
大願を掛けたのだろう。そして、恙無く帰城に及んだ。故に心の中で、愛宕の方を拝したのであろう。」

後に清正の家臣であった中井氏の著述した爲人妙という書にも、愛宕の勝軍地蔵において、この時清正が当山の
大善院で護摩を執行し、秀頼の武運を祈ったと書かれている。

(慶元記)



「この度、奇特の死をした」

2016年11月30日 17:27

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 01:50:51.23 ID:qUu/M8Tn
下旬(慶長15年5月)に、建部内匠(光重)が死去した。当月18日から患って
いたという。

この内匠は大坂の秀頼公の近習である。刀や脇差すべての金物の目利き
だった。江戸や駿河の若き衆に、弟子が8百人余りいたという。

この内匠の小姓・長吉は、内匠が死去して8日目に追腹を切った。当時の人に
これを誉めない者はいなかった。

去る3月に内匠が駿府に逗留していた時、長吉は傍輩とともに逐電し、三河国
吉田で押し止められた。傍輩の侍2人は成敗となるも、この長吉は別状なく前々
のように使われたが、「この度、奇特の死をした」として人々はこれを誉めた。

――『当代記』