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『浅井一政自記』より、大坂城の混乱

2020年09月25日 17:50

353 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 00:44:34.27 ID:C8PZ88rV
(前略。慶長十九年二月二十三日、片桐且元が登城しないことに対し、且元から理由を聞いてきた
浅井一政が大阪城に戻り)

御城に出て、小々姓を以て「御用が有るので、奥へ入れて下さい。」と申し上げたが、何とも御意が無く、
また重ねて申し上げると、秀頼公は既に座を立っておられ、この時我等は装束の間の縁に居たのだが、
帝鑑の間へ入るように言われ、我等は召し連れられ入った。この時あいは殿(饗庭局カ)に申して
「ここに誰もお入りにならないで下さい。あいは殿もそこに居られるべきでしょうか。」と申して、
その後秀頼に申し上げると、
「不慮の事が出来したとは、何事か?」と仰せになった

「市正(片桐且元)を成敗すると聞こえたため、彼は今日罷り出ず、屋敷に立てこもりました。」と申した所
「天道も照覧あれ、俺は知らない!」(天道も照覧あれ、おれハ不知)との御意であった。
そして「ではどうしたら良いとお前は思うか」と仰せになられたので、
「市正の心中について八右衛門に尋ねた所、市正は毛頭二心あるというような事は有りません。
周辺で悪しく御耳に立てられたものでは無いでしょうか。」と申し、「また市正からも承りましたが、
彼は人質を出すと申しております。これにて彼の心中も知れると思います。御手廻の衆を少々召し連れ、
市正の屋敷に行かれ、御頼まれるのが然るべしと考えます。
昔織田信長様のおとな(重臣)が謀反をされたとき、このようにされたと承っております。その上市正は
人質を出すと申しております。この上お疑いに成るような事では無いと考えます。」

そう申し上げると、暫くご思案されて
「しかしながら、市正の心中は知れぬ事である。またどうしたら良いと思うか?」
「この上は、只今御誓文によってその旨を書いて遣わし、市正の心中をお聞きになるべきです。」
「尤もである、であれば御書を遣わそう。」

そう仰せに成っている間に、御袋(淀殿)より追々に使いにて「奥へ入られるように。」と、お使いに
宮内卿、右京太夫が参った、そこで秀頼は帝鑑の間の奥と表の間の廊下に御出になられると。市正殿の
屋敷へ、下屋敷に引きも切らず人数が籠められている様子が目の下に見られた。

御書の内容について廊下にて我等と御相談遊ばし、白い文箱に入れられた。符は我等が付けた。
これを土肥少五郎に持たせ遣わした。返事を待って廊下に入られると、奥より
「心もとない。先ず奥に入られるように」と頻りにお使いがあった。我等も申し上げにくい
事であったが「このようなことは女房衆の存ずることでは有りません」(かやうの事ハ女房衆の存事
にてハ無之候)と申した所、秀頼は使いの者を尽くお叱りに成ったため、二度と使いは参らなかった。

354 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 00:47:05.98 ID:C8PZ88rV
(中略。その後再び浅井一政らが且元の元に行き、且元邸に籠もっている軍勢と織田有楽邸に籠もっている
軍勢双方を撤退させることで同意したが)

市正殿の元に参ると、居間より奥、南の方の座敷に連れてお入りに成り、二心無き段々を仰せ聞いた様を
承り、その上で甲斐守と私の両人は御城へ参ると、焚き火の間の中の柱に秀頼はもたれて入られており、
大蔵卿、正永がその左の方に伺候していた。奥と表の間には菊の屏風が立って、御袋が入られ、
その返事を聞かれた。

「知っての通り、甲州(速水守久)は無口であるので、お主がまずあらましを申し上げ、その上で
様子を我等に詳しく申し上げるように。」
そう言われたため、私が市正殿の申したことを残らす申し上げた。そこで正永が脇より申した

「市正殿が屋敷に人数をお集めに成っているのは何事か」
私は答えた
「市正を御成敗有るという事を、彼の家来たちが聞きつけたため籠もっているのだと思われます。」
この事についてこの場では、特段のあしらいはなかった。秀頼は奥に入られたあと、槇島玄蕃を召され
「市正の心中を聞くことが出来、御満足であった」との事で、召して居られた呉服を我等だけに
下された。

八右、多羅尾半左衛門は芭蕉の間に参り、甲州、私を呼んで「只今御両人へ市正は申し上げた通り、
『御同心に於いては、今夜の内に有楽の屋敷に籠められている御人数を退去されますように。
市正屋敷に籠もっている者共も皆追い出します。この通り、御両人様(秀頼・淀殿)へ御意を得られます
ように。』と市正が申しております。この通り、秀頼が奥に居られるので、使いを以て申し上げられますように。」

ところがこの事を秀頼の耳に入れず、御袋より返事があり
「まず市正の人数を退去させ、その後有楽の所の人数を退去させる。」と仰せになった。
これを聞いた甲州は頭をかきながら「こんな事では何も成らぬ」と申した。
私は「『畏まりました』と申しておいて、同時に退去させれば良い。」と答えた。
「尤もである。ならばその通りに奥へ申し、市正にも返事をしよう。」ということに相済み、
また市正殿へは、甲州と私が検使に参り、有楽へは槇島玄蕃、永翁が参った。
これは二十三日夜のことであった。

『浅井一政自記』

片桐且元をめぐる大坂城の混乱の記録。これに対する淀殿周辺の介入に豊臣家中は相当苛立っていたようで



355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 02:14:27.61 ID:M9a/G0h0
恐らく秀頼幼少の際は淀殿が家中差配をしてて、秀頼成人後そこの指示系統がややこしくなってる感じかな
そんだけ秀頼が頼りないと認識されていたか淀殿が出しゃばりすぎか

どうしたらいいと思う?って聞きすぎじゃねーかな秀頼、供廻りつけて直接聞きに行ったら?って提案スルーするし、略された所でもやたらどうしたらいいと思う連発してるんだっけ?
なんというか頼りなさげだなぁ、他家中でもこういう時こんなもんなのかね?

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/25(金) 08:56:19.58 ID:I+5YGX1a
清須会議みたいにドラマ化してほしいな
大坂の陣省略じゃ盛り上がりに欠けるからだめか
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『駿府記』より、大阪冬の陣の勃発について

2020年09月24日 18:35

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 17:28:03.64 ID:tQa17/WK
慶長十九年
九月二十五日、今日大阪の片桐市正(且元)より駿府に飛脚が参着した。その状に云わく、
去る十八日駿河より大阪に帰り、御意の旨を申し上げ、末々将軍家と不和に成るのは如何かとして、
秀頼が江戸に在府するか、御母(淀殿)が江戸に在府するか、そうでなければ大坂城より退き、
御国替えが然るべしとの旨を申し上げたところ、これを秀頼并びに御母は不快に思われ、
市正を殺害するとの内存があると知らせてきた者が有ったため、出仕を止め引き籠もった、
という内容を上野介(本多正純)が上聞に入れた。大御所(家康)はいよいよご立腹なされた。

十月朔日、京都より伊賀守(板倉勝重)の飛脚が到来した。その状に云わく、去る二十五日、
大阪において大野修理、青木民部少、石川伊豆、薄田隼人正、渡辺右衛門佐、木村長門守、
織田左門、その他十余輩が、秀頼の仰せによって市正を殺そうとしたが、市正はこれを知って
私邸に引き籠もっているという旨を、本多上野介、板倉内膳正(重昌)が大御所に言上した。

これに対してご立腹甚だしく、大阪へ御出馬する事を、近江、伊勢、美濃、尾張、三河、遠江へ
仰せ触れられた。また江戸の幕下(秀忠)にも仰せ遣わされた。

また伊賀守より飛脚が到来し、その書状に云わく、市正が駿府に下向したなら。秀頼をも城から出して、
織田常真(信雄)を大坂城に入れ、彼を大将として籠城するとの旨を、織田左門その他が談合していると云う。

六日、京都の伊賀守より飛脚到来。織田有楽が伊賀守方へ一通の書状を遣わした。その書状に云わく、
今度の大阪の雑説について、市正の駿河への御使いの内容が悪しき故に、秀頼公が御折檻に及んだ所、
市正とその弟の主膳が摂津棘木(茨木・市正領)へ立ち退き、これによって大阪は以ての外の騒動と
なったが、我等は全く両御所(家康・秀忠)に対して野心は存ぜず、という旨が宣われているという。

七日、今日、片桐市正・主膳の使者である小島勝兵衛、梅津忠介が来て、大阪より茨木へ立ち退いた
事について、本多上野介を通して言上した。両使は召し出され、御服、御羽織を拝領した。
また御書が遣わされ、その内容は『今度佞人達が様々に申した事により、茨木まで立ち退いたとの事、
神妙に思う。なお本多上野介に報告するように。』というものだという。

駿府記

大阪冬の陣の勃発について。



352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 23:54:48.52 ID:T4NDgTeu
織田左門は頼長か、こいつ織田の血筋使って悪さしようとしてんなぁ
親父の有楽はさすがに状況のやばさ理解してすぐに書状送ってるのね

『駿府記』より、方広寺鐘銘事件について

2020年09月23日 18:41

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:18:37.90 ID:Nl3xNW4I
慶長十九年
七月二十一日、大御所が源氏物語の講釈を受けられた。飛鳥井(雅庸)が講読し、御数寄屋次之間にて
行われた。その後近習四、五輩、および伝長老、板倉内膳(重昌)の両人が召された。仰せに曰く
「(方広寺)大仏の鐘銘に関東不吉の語があり、また上棟の日も吉日ではない。」
とお腹立ちだったという。

二十六日、今日、片桐市正(且元)より一通の書状、并びに板倉伊賀守(勝重)の書状が駿府に
到来した。その内容は、

『方広寺大仏の供養を来月三日、開眼を十八日に成す予定であるが、その十八日には豊国臨時祭が有るため、
三日の早朝に開眼を行い、その後供養を行いたいのだと、秀頼が仰せに成っている』という。

大御所は「今度の大仏供養については、棟札といい鐘の銘といい、遺憾で不快である。
また往時源頼朝の時代も、開眼と堂供養の間は十年を隔てている。先例を考え、諸事後難無きように。」
と仰せ遣わし、本多上野介(正純)、伝長老がこれを奉った。

八月二日、方広寺大仏殿の鐘銘の正確な写しが駿府に到来した。中井大和守(正清)がこれを捧げた。
件の鐘銘は東福寺の韓長老がこれを書いたが、『国家安康』の語が不快であり、その他にも文章の中に
所々不快の語があった。一通を写し、これを江戸に遣わした。林道春がこれを奉った。

四日、大仏殿の棟札の写しが駿府に到来した。中井大和守がこれを奉った。照高院道勝法親王がこれを
書かれたのだが、大御所の御意に叶わず、ご不快にて、仰せに曰く
「鐘銘については、奈良大仏の鐘銘に准ずるべき旨を云っていたのだが、相違え、また秀頼より、
彼が出京するために、供奉の者たちを諸大夫に任じたいと云ってきたため、諸大夫に任官させたのだが、
その秀頼の出京は中止に成ったという。頗る不審である。」

五日、今日、大仏の鐘銘と棟札の内容を、大阪より片桐市正が大御所に捧げ、御前において、金地院崇伝が
これを読み、中井大和守が差し上げた。その内容はそれまでに報告されていた書付の内容と相違無く、
件の鐘銘の善悪について、五山衆に評価させ、それを書き記して提出するようにと仰せに成った。
この御使いとして、板倉内膳正が京都に赴くようにと仰せに成られた。

駿府記

方広寺鐘銘事件について。実は棟札の問題とセットだったんですね。



347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:52:42.97 ID:XZPd+AJg
丸島氏が言っていたと思うけど
豊臣家が何個もやらかしててそのうちの1個が鐘銘ってだけなのよね、しかも鐘銘に関しては確認とって西国じゃそういうのもあるんだろうぐらいで落ち着いてるようで
出兵の決定打は取次の片桐の追放とのことみたいね

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:03:18.16 ID:aMwBT9L+
追放じゃなくて退転じゃないの
関東にとっては同じことだろうけど

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:54:08.28 ID:FN2WPn7a
>>348
片桐且元・織田信雄が暗殺されかねない危険な状況だったのだし、
同時期に多数の重臣が退去しているのだから、より酷いわな。

徳川が腹黒いとか言われる方広寺鐘銘事件とか福島・加藤など豊臣恩顧の大名の改易とかは、
調べれば調べるほど、こりゃ当然そうなるわな…という感じ。

もちろん、大久保長安事件とか宇都宮城釣天井事件とか、
徳川内部での騒動だとアレだけど。

『秀頼』と焼き印を

2020年09月20日 17:48

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/20(日) 12:03:46.31 ID:u8VnV0o8
慶長十九年十一月二十五日

(大阪冬の陣の最中)城中の下臈の者が、浅野但馬守(長晟)の手に走り入った。
この者を大御所(徳川家康)が御前に召され、参上すると彼に城中の様子を問われた。
かの者は申して曰く

「藤堂和泉守(高虎)、浅野但馬守以下、各々秀頼に音信を致している。」

これに対し家康は「偽を申している。」として、彼の額に『秀頼』と焼き印をして城中に追い返した。

当代記



『当代記』より、大阪冬の陣の和睦

2020年09月15日 16:47

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/15(火) 00:24:06.07 ID:NWu9CDs1
慶長十九年十二月十四日、
大阪冬の陣は、これ以前より和睦の扱いが有った。秀頼公よりは、四国の内二ヶ国を給われば、大阪を退城する、
との条件を出し、大御所・将軍(家康・秀忠)からは、安房・上総の両国を進ずるとの案を出した。
しかし関東への下向は全くありえないと秀頼は堅く思われ、この和睦は調わなかった。

大御所は阿茶局(雲光院・家康側室)を召され、陣中に参られた。

同日、女性である阿茶局が、若狭衆(京極忠高)の大阪城に対する仕寄に参り、大坂城中からも、
大蔵卿局、并びに若狭宰相老女(常高院)が出合、対談に及び、専ら和睦について語った。

十九日、また両度、先の女性衆出合、和睦が調った、これによって大御所将軍より、起請文を以て
異変有るべからずの旨を示した。

城中より、織田有楽の息子・武蔵守、大野修理(治長)息子・信濃守が、証人(人質)として出された。
これに対し、後藤庄三郎(銀師、四、五年大御所の近習の如き人物である)、并びに本多上野(正純)の
両使を以て、この証人を請取、すなわち上野の陣所へ同道した。

この和睦については、惣構、并びに三の丸は破却され、秀頼公も母台(淀殿)も、関東下向の事は
沙汰無く、領地も以前のまま、本丸二の丸は前々のごとく破却沙汰は無かった。

城中について、兵糧は沢山あり、その他も特に欠けたものはなかったが、その中で鉄砲薬は欠乏していたという。
その故は、城中では皆大鉄砲を用いたためで、これまでに八百石の弾薬を消費したという。
彼らは三匁筒などはほとんど用いず、十匁、二十匁、三十匁、五十匁、百匁の鉄砲を撃ち、そのため
欠乏に至ったという。

この度の籠城の最中、秀頼はいつも惣構を廻り、少しのことでも精を入れて働く者には、その内容によって
褒美が有った。人々はみな、これを美談としないものは居なかった。

今回、大坂城中の兵たちは、『六本鑓の衆こわき』などと云って悪口した。
これは大工大和(中井正清)、後藤庄三郎(銀師)、永仁(京町人)、同茶屋又四郎らで、彼らは皆
大御所の宿直の者共であった。

大阪三の丸、惣構は破却された。

二十四日、大御所は茶臼山を立たれ上洛され、二十五日に入洛された。

『当代記』

大阪冬の陣の和睦について



秀頼の御袋は武具を着て

2020年09月13日 15:51

淀殿   
340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/13(日) 12:56:53.07 ID:ek8NO7bt
慶長十九年十月二十八日、(大坂冬の陣の勃発後)、大坂城中より脱出してきた者が二条城に召され、
城内の様子を尋ねられた。

彼の者の言上によると、秀頼の御袋(淀殿)は武具を着て、自ら番所改めを行われており、
これに従う女性三、四人も武具を着ているという。
そして大阪籠城の勢は三万あまりという事である。(但し雑兵を含む)
兵糧、薪、塩、味噌などは形のごとく貯められているという。

当代記



大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため

2020年09月12日 16:33

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/12(土) 12:08:21.19 ID:QHtbi35F
慶長十九年十月二日、雷が頻繁に鳴り響いた。美濃国加納の松平摂津守(奥平忠政)が逝去した。

大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため、兵糧を貯め、去る八月、近国に金銀を遣わして相調えた。
福島左衛門大夫(正則)は大阪に八万石の兵糧が有ったが(この時江戸に在った)、秀頼より
借用したいと言ってきた。これに対し正則は飛脚にて『兎も角も秀頼御意次第』の旨を返答した。
その他、家康公の蔵米が三万石、諸国大名の米三万石、并びに町方の売買する米が二万石、
これらを大坂城に収納した。町人の米は代銀を以て速やかに決済した。

また秀頼は去る慶長五年(関ヶ原)の敵方の士、所々に隠れ居た所を、今これを招き、数百人扶持した(但し
人質を出さない者は抱えなかったと云々)。

これらに対し大御所自ら、大阪に使者を遣わした。それは大野修理(治長)の弟で、大野壱岐守(治純)であった。

当代記

大阪冬の陣直前の様相について



秀頼と家康の二条城会見について

2020年08月31日 17:17

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 13:27:20.93 ID:ybV1B4VU
慶長十六年三月二十七日、豊臣秀頼公が大阪を発って淀に到着され。これの迎えとして
右兵衛(家康公息、年十二歳(義直))、常陸介(家康公息、年十歳(頼宣))、并びに
池田三左衛門(輝政)、加東肥後守(清正)が淀に参向した。
秀頼公が大阪を発つ時、虚空が光ったと云々。

二十八日辰の刻(午前八時頃)、秀頼公は入洛され、すぐに家康公の御所である二条に御越しになった。
家康公は庭上まで出られ、秀頼公も慇懃に礼謝された。

家康公が座中に入られた後、秀頼公は庭上より座中に上がられ、先ず秀頼公が御成の間に入られ、
その後、家康公の出御があった。
互いの御礼有るべきとの旨を家康公は仰ったが、秀頼公は堅く斟酌有り、家康公が御成の間に
出奉り、秀頼公は礼を遂げられた。

膳部はかれこれ美麗に出来ていたのだが、還って隔心があるだろうかと言うことで、ただお吸い物
までであった。
大政所(これは秀吉公北の方也)も出られ相伴された。

その後、秀頼公はすぐに発たれ、右兵衛督、常陸介が途中まで送った。
秀頼公は直に豊国社に参詣され、大仏を見られ、伏見より船にて、その日の酉刻(午後六時頃)、大阪に
帰着された。大阪の上下万民については申すに及ばず、京畿の庶民の悦びはただこの事であった。
この時も大阪に光が出たと云々。

当代記

秀頼と家康の二条城会見について



もし達ってその儀に及べば、

2020年08月06日 18:40

淀殿   
242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/06(木) 16:36:58.69 ID:R/RiIQk5
慶長十年五月の七、八日頃、大阪では下民がしきりに荷物を運び出そうとし、人心が非常に動揺していた。
これはこの頃、徳川秀忠の将軍任官の祝儀として、豊臣秀頼公が伏見に上がられ、その上で上洛して頂きたい
との事を、右府家康公の内存があり、この旨に京都の大政所も従った。これは故太閤の北政所である。
そして大阪にこれを伝えた所、秀頼公の母台(淀殿)はこれを拒否し、

「そのような儀は有るまじき事である。もし達ってその儀に及べば、秀頼公を生害し、我が身も自害する。」

と頻りに宣われたため、これを聞いた下民達は大変に慌てふためいたのだ。
また秀頼公が伏見に上がられるのは勿体ないと、上方大名共の中より、大阪に内通した者もあると
噂された。これによって秀頼公の上洛は引き延べとなった。

当代記



安房守の死と大坂の陣の左衛門佐

2020年02月28日 16:37

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 01:22:07.17 ID:eWP8eY2H
或いは云う。真田安房守(昌幸)は大阪の一戦(大坂の陣)の三年前に、高野山の麓、瀬良という場所で病死した。
その死に至ろうという時、息子の左衛門佐(信繁)にこのように語った

「私が今から三年存命していれば、秀頼公へ容易く天下を取って進上すべきものを。」

左衛門佐はこれを聞くと、「いかにして天下が秀頼公に服させるのでしょうか?」と尋ねた。
しかし安房守は
「重病故に、心乱れて筋無き事どもを申してしまった。どうやって、今や乞食同然に成り果てた私が、
天下を取って秀頼公に進上するというのか。」と、答えなかった。

左衛門佐これに
「私に対して御慎みはあるまじき事です。是非、思っておられることを仰せ聞かせて下さい。これは懺悔の御物語とも
なるでしょう。」と、たって所望したため、安房守は

「そういう事であれば、懺悔の物語として聞かせよう。おそらくここ三年の内に、家康は叛逆して軍兵を催し、
秀頼と討ち果たそうとする事は必定、掌の如くである。その時私が存命ならば、人数三戦ばかりを引き連れ勢州
桑名を越えて備えを堅く立てれば、家康は私が数度手並みを見せているので、真田が出向くと聞けば家康も
容易く懸け向かう事は無い。そして暫くこれを相支える内に、太閤の御恩賞の諸大名多ければ、大阪へ馳せ集まる
人も多いであろう。そして家康勢が押しかかって来れば、桑名へ撤退し、また先のように相支え、又押し懸けて
一戦せんとするならば、さらに撤退してそこで支える。そのようにしている内に、こちらは悉く人数が集まるであろう。

さて、我等は勢多まで撤退し、勢多の橋を焼き落とし、こちら側には柵を付けて相支えれば、数日ほども経す内に
畿内の人数が馳せ集まる事、掌の如きである。然らば天下を治めること、手の裏に有り。

…と云うものの、これは皆妄念の戯言である。長物語に、胸が苦しくなった。水を飲もう。」

そう言って水を飲み干すと、そのまま死んだという。

その後、左衛門佐は大阪に籠城した折、安房守の末期の一句の謀術を献案したものの、諸将の評議紛々となり、
その意に任せることが出来なかった。秀頼校も諸将の言に迷い、左衛門佐の申すに任せなかった。

そのような中、左衛門佐が柱にもたれていた所、武見の者来て、「大和口より猛勢が押し入りました。
伊達陸奥守(政宗)です!」と申す所に、また一人来て「陸奥守の勢の跡より猛勢が押し入りました。
越前少将(松平忠直)です!」と報告した。しかし左衛門佐は少しも変わる気色無く、

「よしよし、悉く入り込ませ、一度に打ち殺そう。」

と、さにあらぬ体であったので、諸士、その器量を感じたという。その後、左衛門佐が人数を出した所、伊達の
先手騎馬鉄砲と言って、馬上にて鉄砲を撃つ兵五百騎が、鉄砲を並び立てて、敵の向かってくる所に馬を乗り入れ、
駆け乱た所に、後ろの勢が押し込んで切り崩すという備えであった。
左衛門佐はこれを見て士卒悉くを伏せさせ、鑓衾を作り前に鉄砲を並べて打ち立てさせ、そのしおをみて
一度にどっと、牛起きに起きて突き懸れば、騎馬鉄砲は却って敗軍した。

左衛門佐は勝って兜の緒を締めた。伊達方の兵再び集まり向かって来る間に、左衛門佐は諸卒に下知して曰く
「炎天の事なれば、皆々兜を脱げ」
と言って兜を脱がせたのだ。伊達勢が近々となった時、諸卒は兜を着けようとしたが、左衛門佐はそれを着けさせ
なかった。敵との間が一町の内に及んだ時、
「では兜を着けよ!」
と下知した。その時悉く兜を着けたが、心が金石のように成り、その勢いで切って懸かると、伊達の備えを
切り崩したという。

この他、左衛門佐の数々の軍略は、人の耳口にあまねき事であるので皆記すに及ばず。
大阪合戦で諸将の働き、秀でたる事ども有りと言えども、左衛門佐が第一に秀でていたのは、
その器量ある上に、平生より武術の学びを怠らなかった顕れであると、人皆感ずる事也。

眞田記



彼の十の指を切り、額に丸の中に”秀頼”と書いた焼印を当てて

2020年01月07日 15:14

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/07(火) 11:17:33.65 ID:TMu6ehAY
大阪冬の陣で、大阪城を取り囲んでいる最中、城中よりのそくたく(属託:報酬を払って依頼すること)にて、
秀頼公より和泉様(藤堂高虎)の元へ御書状を、吉河瀬兵衛と申す者が持ち参った。
和泉様はこれを直ぐに権現様(徳川家康)の元に持ち参った。その書状には

『最前より約束の如く、東の人数を引き出した事、秀頼公は御感に思召して居られる。うしろぎり(寝返り)の
手立が肝要である。御褒美の儀は望み次第である。』

このように書かれていた。権現様はこれを見ると
「良き臣下を討ち果たさせるための、こういった調略は昔から大唐にも日本にもあったものだ。
和泉については、昔からその心を知っている。別心などはありえない。彼は一筋に私の為を考えている。
だからこそ、彼を討ち果たさせるため調略を仕掛けたのであろう。」

そうお考えに成り、この書状を持ち来た瀬兵衛についへ和泉様へ
「彼の十の指を切り、額に丸の中に”秀頼”と書いた焼印を当てて城中に追い返すように。」
との御意を仰せになった。和泉様はその御錠の通りに仰せ付け、大野主馬持口であるせんばの門前まで
送り遣わせた。

(藤堂家覺書)

藤堂高虎に対する大阪方の調略について。



734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 09:15:27.34 ID:wuaUlWLR
秀頼焼印は夏の陣まで活躍してそう

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 13:20:37.67 ID:9coiYBvL
>>733
あの時代に指10本切るって酷いな、その後どうなったんだろう…。

その用意をしている内に、和睦となった

2020年01月06日 17:21

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 23:32:00.28 ID:Np6vwiTb
慶長十九年、大阪陣の刻、和泉様(藤堂高虎)は先手をお受け取りに成り、諸勢の動向に御かまいなく
河内の国府へ十月二十六日に御討ち出られ、それより次第次第に陣替えがあり、和泉様の仕寄場は
天王寺口で、これに対する城中黒川の持口は大野主馬(治房)、矢倉は木村長門守(重成)の持口であった。

この場所は大阪城惣構の近くで、築山を築き井楼を上げ、火矢、鉄砲、石火矢を油断なく昼夜撃たせた。
このため木村長門守の持口である矢倉は打ち破られ、大阪城の人々がそこから出入りする事は出来なくなった。
また、金掘を入れ、堀きわまで掘りつけた。その上竹束も堀きわまで七間(13メートル弱)まで付け寄せた。

極月(十二月)二十日の夜、堀の中に設置されていた柵を引き取るようにと和泉様が仰せ付けられ、
その用意をしている内に、和睦となった。

(藤堂家覺書)

藤堂家の覚書にある大阪冬の陣の記録。大阪城惣構の中への突撃準備が整うまさに直前に和睦がなされたと
ありますね。



489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 23:55:38.58 ID:10v8Qglc
お話なんかじゃ攻めあぐねての和睦ってテイストにされやすいけど
実際はもう落城のボーダーラインぎりぎりね

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 00:23:26.10 ID:vGqvWph/
真田丸に仕掛けて大敗北した後は、にらみ合い &大砲撃ちまくりというのが通説だけど、
当然、ただにらんでいるだけじゃないわな。

太夫殿からの意見

2019年12月16日 18:36

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/16(月) 14:57:54.04 ID:r8/T39Ix
慶長十九年八月下旬、片桐市正(且元)は江戸に呼ばれ、家康公より
豊臣秀頼による大仏再建の成し様が悪い。」との事で、御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るように、
との仰せがあった。市正は大阪に帰るとその通りに申し上げたが、御袋様も秀頼も「江戸に下る
事は出来ない。」との意向で、秀頼に至っては、市正が江戸にて心変わりしてこのような事を
言っているのだと思った。その後色々有って、太夫殿(福島正則)の意見を聞きたいという事になり、
太夫殿より、堀田角左衛門という侍が大阪によしみが有ったためこれを上らせ、このように申し上げた

「ここは御袋様が江戸に御下りになり、家康公と御対面あった上でまた大阪に戻るべきです。
御姉妹方(妹のお江の方)へ御挨拶遊ばすという事にすれば宜しいでしょう。」

太夫殿からの意見はこのようなものであったが、全く御同心無く、逆に非常に御立腹されて
「重ねてこのような意見を申してはならない。」との返答をされた。

この返事が持ち帰られると、太夫殿は未だ見ぬ内に、使者の堀田に申し付けた
「大坂からの御返事を頂いた以上、これは直に家康公に差し上げるべきだ。」
こうして返事は家康公の元に届けられ、家康公はこれを一覧すると以ての外に御腹立ちに成り、
即座に京への出陣を命じ、諸大名も尽く軍勢を連れ大阪へと向かった。

この時太夫殿はこのように申し上げた
「私は秀頼を攻めることは出来ません。ですので嫡男の備後守(福島忠勝)を上らせたいと思います。
この太夫には江戸の留守を仰せ付けられますように。」
これを「如何にも尤もな事だ。」と思われ、「備後守を急ぎ上らせるように。」として、
備後守は大阪へと上った。

(福島太夫殿御事)

秀頼から福島正則への返答に家康公激怒し大坂の陣に



常々変わり者であった故

2019年08月12日 18:49

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/12(月) 18:41:01.21 ID:noQSFKLS
織田左門(頼長。有楽斎の次男)が秀頼(豊臣秀頼)から家康公へ御使に参った時、御当家(徳川
家)の御家老衆が玄関へ迎えに出られた。

左門は家老衆に向かいなさり「出たか」と立ちながら不礼に致され、御書院へ通り上座におられた。
いかにも鷹揚の顔色でおられ、小姓衆は覗き見て(左門が)元来変わり者なので密かに笑った。

その様子を左門は見なさり小姓が茶を持参などすると、いかにも不礼を申されて小姓衆を憎み、大
茶碗に熱き茶を持って来たのを見ぬ顔をして、長くそのままにして小姓衆は耐え難く、難儀させた。

その後大茶碗を取ると熱いまま食らいなさり、「しゃ!」と罵って投げ出し御座敷を汚した(其後
取テアツクテクラワレテ社トテ抛出御座敷ヲヨコシ)。家老衆が出ておられたのにこの通りである。

さて家康公が御出になり御返答が済んで帰る時にまた御家老衆が出られると、「さてさて迷惑を仕
りました。こちらへおいでなされ」と下礼を厚くして(左門が)申されるには、「先刻は上使なの
でやむを得ず不礼の仕方でしたが、今は元の左門になりました」と申されたのだという。

常々変わり者であった故という。

――『烈公間話』

「社トテ」は次の意味にしました
しゃ( 感 )
人をあざけったり、ののしったりするときに発する語。 「 -何事かあらん/浄瑠璃・最明寺殿」



七月の盆灯籠

2019年08月08日 17:39

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/08(木) 14:57:11.00 ID:agSFkwq2
京都では盆中に、家ごとに灯籠を30日の間灯すという事がある。これはかつて、明智光秀が京都の
地子(宅地税)を免す事があったのを、かの土地の人々は嬉しき事に思って、明智滅亡の後、その追善の
気持ちで7月中灯籠を門に吊すという。

大阪では5月の幟を、市中では節句の四つ時分(午前10時ころ)までに残らず取り仕舞うという。
これは大阪において秀頼落城の城攻めの事、5月節句に当たった故に、その当時は小児などが節句の幟を
上げられるような状況ではなく、これもまたまた秀頼滅亡の後はその追善を思う故である、と昔は
言っていたようだが、現在ではそのような理由付けもなく、京都において盆灯籠を7月中家々が灯し、
大阪において5月の幟を昼には仕舞うとというのも、自然とその風土の慣習と成ったのだと、
度々上方に行く人が語った。

(耳嚢)



大阪城開かずの間

2019年06月07日 16:28

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 20:49:45.58 ID:ePlAaJVM
大坂の御城内、御城代の居所の中に、明かずの間というものがあるそうだ。それは大きな廊下の側にあるという。
ここは(大阪夏の陣による)5月落城の時から閉じたままにて、今まで一度も開いたことがないといい、
代々のことであるので、もし戸に損じた所があれば板でこれを補い、開かぬようにと成し置いていた。

ここは落城の時、宮中婦女の生害した場所と云われ、そういった由来の故か、今なおその幽魂が残って、
ここに入る者があれば必ず変異災いを成すという。また、その部屋の前の廊下で寝る者があっても、また変異の
事に逢うという。

観世新九郎の弟宗三郎、その家技の事によって、稲葉丹州が御城代の時これに従って大阪城に入った。
ある日、丹州の宴席に侍って飲酒し、覚えずかの廊下で酔臥した。

翌日、丹州が彼に問うた「昨夜怪しいことはなかったか?」宗三郎が、そういう覚えはない事を答えると、
丹州曰く「ならば良し、ここはもし臥す者があると、かくかくの変がある。汝は元来この事を知らず、
よって冥霊も免す所あったのだろう。」
これを聞いて宗三郎は初めて怖れ、戦慄居るところを知らずという。

またこの宗三郎が語る所によれば、天気快晴の時、かの部屋の戸の隙間から覗い見ると、その奥に
蚊帳と思しきものが、半ば外れ、なかば鈎にかかっているのがほのかに見えた。また半挿(湯水を注ぐための器)
のようなもの、その他の器物などが取り散らしている体に見えた。であるが数年久しく陰閉の場所故、
ただその状況を察するのみであると、いかにも身の毛もよだつ様子で話した。

また聞いた話では、とある御城代某候がここをその威権を以て開いたことが有ったが、忽ち狂を発せられ
それを止めたという。誰のことであろうか。

この事を林氏(林述斎か)に話した所、彼は大笑いして
「今の大阪城は豊臣氏の時代のものではなく、元和偃武のあとに築き改められたもので、まして家屋のたぐいは
勿論みな後世のものです。総じて世の中には、そういった実説らしい作り話が多いものです。その御城代という
人も、旧事の詮索がないばかりに、斉東野人(物を知らない田舎者)の語を信じたというのは、まったく
気の毒千万です。」と言っていた。

林氏の説はまた勿論なのだが、世の中には意外の実跡というものもあり、また暗記の言は的證とも成し難い
もので、故にここに両端を叩いて後の確定を待つ。

(甲子夜話)



122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 21:51:35.32 ID:48Km5ZhF
>>121
面白いwいつの時代も人間は変わらんなぁ。

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 22:49:04.93 ID:5yCAa8rV
林氏「なんだこれ、創作乙ww」
松浦静山「いや、でもこれ本当の話かもしれんよ?」

戦国ちょっといい悪い話スレ・まとめブログみたいなw

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 23:33:00.37 ID:hBrP2F1J
火薬で鉄砲撃つ時代に何言ってんだと思うが当時の人的にはそうなんだな

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 07:45:07.39 ID:fzkd+7XF
>>123
そういうやり取りがこうして>>121残ってるのもまた良いなぁ

>>124
電灯もない時代は今よりずっと夜が怖くて不気味だったろうし、いろいろ違うんだろうね

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 08:12:05.47 ID:AktD/lec
>>125
肝試しに行って背後の気配に振り返り打ちかかって逃げる
翌朝になって確かめると地蔵だったなんて定番だし

今日の明け方、パンパンパンと濡れタオルを広げるような音をさせながら何かが近づいてきて俺の布団に潜り込んだところで目が覚めた
金縛りにもならんかったし普通の夢なんだろうけど、近づかれているときはちょっと怖かったなあ

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 12:45:53.27 ID:6P9hJ6Th
現代の学校や廃墟ですらみんなキャッキャ言ってるのに、大坂城という実績ありの場所じゃしょうがない

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 14:29:58.48 ID:8rE4HOLf
国会議事堂でもあるのかな

生死の気

2019年05月31日 15:24

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 13:29:29.80 ID:FGlWUgeb
陣中においては人気が立つものと云う。その気に生死吉兆があり、物慣れた人はこれをよく見分けるのだそうだ。

大坂御陣の時、冬陣に城中の気を見ると、晴天でも薄暗く、ものの見分けが出来ないほどであった。
しかし夏陣では曇った日であっても、これを見るに城中白けて良く見え渡ったと云う。
これは生死の気と云う。

(甲子夜話)



豊国大明神石灯籠

2019年05月02日 17:58

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/02(木) 10:11:07.14 ID:iLBBhkOz
前の(方広寺)大仏殿縁起の中に、堂前に建てられている石灯籠には、列国大小名の姓名を刻し、鋪石
ならびに正面石塔の大石には、諸侯の紋所、又はその石が産出された場所の名を記されたと書かれているが、
これについてはどういうわけか、先ごろ私(松浦静山)も、これについて、私の祖先が献納した燈も
きっと有るだろうと思い、京都に家来が居たため、これに命じてこの事を書記してくるように申し遣わした所、
その返答によると、この事については何とも分明ならぬというものであった。

その中、大野氏の名はその中にあり、かつ豊国大明神へ寄付された石灯籠について、その当時これを
請け負ったと言い伝えの残る旧家の者などあり、その中で当時の帳面に記録が残っている者もあった。
非常に珍しい珍しいものなので写して贈らせた。こう言ったものも現在では分かり難いものであるが、
以下に綴る。

また現在石灯籠に諸氏称号等が無いのは、御当家(徳川)の時代に成ってから、それが忌み憚るためか、
これを削り去ったのだと疑う者も居るという。

豊国大明神石灯籠の覚写し

二つ 寺澤志摩守殿 二つ 羽柴肥前守殿 一つ あいは殿 一つ 木民部殿 一つ 伊藤石見守殿
二つ 京極修理殿 一つ 藤堂佐渡殿 一つ 青木右京殿 二つ 堀監物殿 二つ 片桐主膳殿
一つ 二位殿 一つ 伊藤丹後守殿 一つ 三位殿 一つ 堀田図書殿 一つ 速水甲斐殿
一つ 右京太夫殿 一つ 吉田豊後殿 一つ 大角与左衛門殿 二つ 木下法印 一つ 杉原喜左衛門
一つ 木下右衛門太夫殿 一つ 桑山法印 一つ 祐泉 一つ 太田和泉殿 二つ 若狭宰相殿
一つ 大野修理殿 一つ 大蔵卿殿 一つ 佐竹殿 一つ 羽柴美作殿 一つ 加賀国およめ
二つ 田中筑後殿 二つ 堀尾帯刀殿
奥院一つ 片桐市正殿 奥院一つ ?大炊殿 一つ 真野大蔵殿 一つ 羽柴蔵人殿 一つ 大進殿
一つ 安藤宰相殿 内殿一つ 片桐市正殿 内殿一つ 同主膳殿 二つ浅野紀伊守殿 以上五十六

石灯籠別紙に
政所様 一つ 康蔵主(孝蔵主) 一つ 浅野弾正殿 二つ 瑞龍寺殿 一つ 藤堂佐渡殿 一つ
安芸中納言殿 一つ 毛利伊勢守殿 二つ 金森兵部卿法印 一つ 石川千菊殿 一つ

(甲子夜話続編)



秀頼は5歳の時に参内され、伏見より行列をなす

2019年03月18日 18:27

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/18(月) 17:52:35.05 ID:/+YEHpXf
秀頼は5歳の時に参内され、伏見より行列をなす。太閤は2,3日前に入洛されて中立売最上殿の屋敷に
おられ、参内の日に迎えに御出になり室町通を南へ目指す。これに見物人が群集した。

太閤は立髪の馬に乗り、むりやうの闊袖の羽織に鳥を背縫いにして襟は摺箔で、底なしの投げ頭巾を着て
いた。馬の左右には50人ほど徒立がおり、半町ほど間があって又者1千人ほどが従った。

大仏辺りで秀頼公に御出合い、太閤は輿に乗り移って秀頼を前に置いた。銭を箱に入れると舞る(回る?)
人形を輿の先に持たせ、諸大名は大房の馬に乗って2列で供奉した。

これは聚楽の城終わりて後、中一年あっての事である。

――『老人雑話』



さて、因果というものは

2019年01月20日 19:05

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/19(土) 21:30:54.95 ID:r3vm1I6O
さて、因果というものは有るものだろうか。太閤秀吉、いにしえは松下嘉兵衛の草履を取っていた者であったが、
織田信長の御取立を以て人となり、今太閤の地位にまで至ったというのに、信長の御恩を忘れたか、
その御子である三七殿(信孝)をぬまの内海にて御腹を切らせ給い、尾張内府(信雄)の御知行を召し
北国に押し込め、御扶持の宛てがいもなく置いた。

さて又、太閤の御子秀頼も、相国様(徳川家康)を打ち奉らんと、大阪にて一度(家康暗殺騒動)、また伏見
にて諸大名に仰せ打ち奉らんと二度目(婚姻問題騒動)、会津御陣の御跡に諸大名を催して伏見の城を攻め殺し、
相国へ向かわせ給い、これが三度目(関ヶ原)、また去年謀反の企てをし諸牢人を扶持して敵対したこと
四度目(大阪冬の陣)、又当年手を出し合戦をし給う事五度目なり。(大阪夏の陣)

相国は御慈悲の有る方なので、四度目まではゆるしたが、助けたいとは思われたが、この上は是非無き次第、
助け置くものならば、又謀反を企てるだろう、よって腹を切り給えとて、御腹を切らせ給ふ。
これを見る時には、因果と言うものは、有るものだと感じる。

(三河物語)