近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で

2017年07月27日 10:45

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/27(木) 10:41:11.98 ID:BmOTs3V3
近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で


関ヶ原の戦いが終わり初めての慶長6年の歳賀は、家康の体調不良により
諸大名は1月15日、公家衆は29日に秀頼と家康にそれぞれ賀す形で行われた。

近衛信尹は自身の日記で、そのときの愚痴を書き留めている。

正月二十九日、(大坂城)西の丸の内府(家康)へ御礼、此時内府は病気で
中納言殿(秀忠)が名代をした。中納言殿へと父子への礼で太刀代二つだ。
(家康父子の)取次は池田三左衛門(輝政)一人だった。秀頼であるならば
三左衛門でもいいが、ここでは本多榊原大久保などであるべきではないのか。
――『三藐院記』

輝政は去る18日には秀頼の名代として朝廷に歳賀をしているが
前後から推測するにどうも信尹は、輝政は名目上は豊臣家臣なのに
まるで徳川家の直臣のようにして出てくるのは不適切だと思ったらしい。



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 06:43:40.19 ID:Io2U+32W
>>18
解釈は逆だと思うなぁ
近衛信尹は秀吉のせいでエライ目にあってばかりだし
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終始の勝敗は、終始の政による

2017年06月21日 20:02

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 19:41:24.04 ID:D+B63afb
大阪夏の陣、5月7日に、大野修理は茶臼山の近くまで進出していたが、秀頼の出馬あるよう申し上げるとして
城中に引き返したが、その時大纏を持たせて城中に急ぎ退くのを、他の味方から見ると敗北して城に
逃げ帰るように見え、七手組の人数その他城外に出て戦っていた秀頼方は、悉く気後れし敗北の機が出来、
共に城に入る者も多かった。
寄せ手はこれに気を得て、いよいよ勢い強くなり、これによって豊臣勢は総敗軍となりたちまちに城中周章し、
程なく落城に及んだ。そう語る人がいる。

しかし、大阪の落城の原因はこれではない。ただ秀頼の謀の不足、群臣の異議不全によるものである。
さらに推して言えば、太閤秀吉は一旦の勢いに乗じて天下を従え、道の道たる理由を知らず、
己の私智に任せた事の余映に寄ることである。
また、この時についても、大野が不功者にて事理を糾明し得なかったため、こういうことも起きたのである。

その日、速やかに破れたのはその日の謀により、終始の勝敗はまた、終始の政によるべき事である。

(士談)

大河の真田丸なんかでも豊臣敗北の原因とされた大野の行動ですが、それは真の敗因じゃないよと
山鹿素行がすでに批判していたというお話。


900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:16:56.75 ID:i1njUqXZ
夏の陣は仕方ない

秀頼藪之事

2017年03月26日 19:26

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 23:30:42.64 ID:BU1a2z98
〔領内志佐〕秀頼藪之事

 大坂落城のとき、秀頼は薩州へ逃れ行きその蹟があることを前に言った。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9991.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10320.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10623.html
実事だとみえる。

 そういったところこの頃ある話を聞いた。
領内の志佐地方というところに、秀頼藪と呼ぶ所が在ると。
もしかしたら薩州への道にしばらくここに隠れ居たのか。
訝しい。

(甲子夜話三篇)


此の方の宛名は何と書いた

2017年03月13日 09:35

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/12(日) 21:11:39.63 ID:Ss9DL0Db
慶長19年、大阪冬の陣和睦の際、大阪城からは木村長門守重成を以て、神盟の御判元拝見に
さし寄越された。木村は家康の御座近くに参るための支度はしていたが、彼の気色が怪しいため、
家康側近くの者達は、彼を遠ざけ置いた。

この時、大阪城へも豊臣秀頼の判元を確認するため、幕府より使者が遣わされたが、人々は
「きっと侍大将の中から選ばれるだろう」と噂していた所、『若者のうちより、分別があって
事がもし破れたときに一己の働きのできる忠士』として、板倉内膳正重昌が選ばれた。

家康は重昌を召すと「和睦の誓紙を見て参れ」と命じた。
板倉重昌はこの時18歳。近習として召し使われ、心やすく思っている者であったので遣わされる、
との事であった。
大阪においては「関東勇功の老臣が派遣されるであろう」り心支度していたものの、それは相違した。

さて、板倉重昌は秀頼の御前に出て、御判をされる時、座を立ってその膝元に寄り、左右を顧みて
申し上げた

「右丞相(秀頼)の御器量、関東にて承り及ぶよりも、ことに勇々しく見奉りました。
関東にては秀頼功の御膝が、扇子丈ほどもあると承り伝えられているばかりであります。
このような機会に拝し奉り、関東への土産としたいと思います。」

そう言うと腰の扇子を抜いて座を立ち、膝を計ろうとするふりをして、御判元をしっかりと確認した。

その後秀頼より、「宛名は何処にすべきか」と尋ねられた。重昌は
「その事について特別に仰せ付けられてはおりませんが、関東・大阪御和睦の儀にて候へば、
現代の将軍である秀忠公に宛てるべきでしょう。」と申し上げた。このため宛名は
『江戸将軍へ』と書かれた。

この頃徳川家康は「内膳正に第一に言っておくべきことを忘れていた!」と、大変気にしている様子だったので、
人々は「一体何事だろう」と心配していた所、重昌は程なく帰ってきた。この報告を受けると
家康は御次の間まで出てきて

「どうであった内膳、判元を見て参ったか。
実は第一に申し付けるべきことを忘れていた。此の方の宛名は何と書いた?」

重昌畏まって
「その段、仰せ付けは承りませんでしたが、関東・大阪御和睦でありますから、新将軍家へと
望みました。」

そう申し上げると、家康は甚だ御機嫌にて「でかしたり!でかしたり!」と、大いに喜び、
また全体の首尾が報告されると、一入感じ入ったとか。

(武野燭談)


種子島蔵人

2017年03月08日 11:27

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/08(水) 10:15:43.86 ID:b0jUgklp
或る本によると、豊臣秀頼は大阪落城の後薩州に下向されて島津家を頼み蟄居、
種子島蔵人と改名されたという。

寛永の頃、京都の具足師何某の所に、薩摩より鎧の修復が依頼された。
具足師はそれを見るや

「この鎧は常人の所持するようなものではない。かつて太閤秀吉公がお召になったという
鎧についての言い伝えと全く同じだ!」

そう思っていたが、その後再び具足の修復を依頼され、その具足には『先年秀頼公御召の具足』
と有り、先の修復の時の疑問が解決したと言ったそうだ。

また伊勢奉幣の目録に、『豊臣某』と書かれているものもあるとか。

(翁草)


真田幸村の遺跡付秀頼

2017年03月07日 21:40

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 01:06:36.77 ID:XljhnUxf
真田幸村の遺跡付秀頼

 続編の五巻に、松代侯の物語を記した中に、幸村が薩摩にいたことを言った。
その後薩州の者との文通を見せてきた。

「熊本藩の斎藤孝寿(孝寿は、権之助と称す。細川侯の町奉行。犬追物に精通す。)が甲寅(1794年)に南の方薩摩へ遊行した。
官工の伊正良に刀剣を造らせるためであり、ここに三十日程いた。
かつて私は『豊公秀頼は大坂城を逃れて、西の方薩摩に逃れた。』というのを聞いた。
もしその事があるのなら、必ず墳墓や子孫があるはずだ。
この地で北や南、西から東へ行き広く尋ねたり相談したりして求めたが、
邦の人々は皆知らないと言う。

ところがある人が言った。
『遠く府の南三十里に谿山市という市が有る。
その西隣に一村落が有る。名を木下という。』
たぶんその所だ。私は一日ここへ遊びにいき、近くの諸村老に『豊公の家の跡はあるか』と問うた。
その広さは一段ばかりで、中に二松有る。その大きさは両手で三回抱えるほどであった。
枝葉は霞の中に生い茂り、花の香りは遠近にたちこめている。
ここがまさしく豊公の居た所だ。
その距離東に百歩ばかりに一小堂があり、仏が安置されている。
その側に多くの墳墓がある。そのなかで抜きん出て偉大なものが豊公の墳であろう。
その後ろに墳が有り、すなわち臣僕の墓だという。銘が皆明らかではない。
その廃墟に家にしているものがおり、脇木下という。(本木下は本家で、脇木下は別家という。)
その北へ五・六十歩ぐらいのところの家に住んでいる者が本木下という。

私は秘かに聞いた。
元和の役で、豊臣公は秘かにその臣の真田幸村等と謀り、大坂城で死んだと偽って薩摩に逃げたのだと。
豊臣公は谿山に在り、真田君は頴娃に在ったという。
しかし世人はこれを知られるのを恐れ、よってその名を悔い改めて木下としたと。
これから後世の人は遂に邑の名を木下と言った。
公の人となりは甚だしく肥大で、身長は殆ど六尺。
公は常に都下に往来し、酔えば必ず道路に縦横した。
真田君のなりは役小角の遺風のようだった。これらから今に至っても諺で
谿山(タニヤマ)ノ酔人(エクロ)、頴娃(エノフ)ノ山伏と也云々
(エクロは薩摩の方言で酒酔人を言う。秀頼、薩摩で大酒であったことは前編四巻にも見える。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html
河村宗澹曰く今の番頭役谿山孫右衛門は秀頼の末葉だそうだ。但し、谿山の苗字は多くあるが統は右孫衛門だと話した。)」

 これに拠れば、幸村は大坂で戦死してはいない。大助もまた、第五巻松代侯の話を証拠とすべきだ。
これも生害ではない。また秀頼の容貌もここで知れる。またすでに前編六十一巻にもこのことを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10006.html
通観すべきだ。

(甲子夜話続編)



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 14:26:14.59 ID:vISgFD1K
>>704
>木下
改名がガバガバすぎて草

この説虚実を知らず

2017年02月28日 08:08

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 20:29:57.84 ID:EACPwTQf
豊臣秀頼の最期については、異説が非常に多くて事実を分明できない。
おおよそ世の説を以ってすると、秀頼は大阪落城のあと薩摩へ退いたとされる。
薩州において客分として安居し、しかもかなりの長寿を得て、延宝か天和の頃(1673~83)
90歳あまりで亡くなられたという。

その頃、薩摩の太守が参勤の御挨拶の砌に、将軍家に対し御人払いをして言上する、という事が
あったそうだ。この時薬研藤四郎の短刀が献上されたそうだが、それ以外に何が語られたのか、
全く知られていない。(この説虚実を知らず)

また、この時の随員のなかに真田を名乗る武士がいたそうだが、彼は世を憚って「マナ田」と
称していたという。真田大助の子孫だろうか。(この説も虚実を知らず)

(翁草)



626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/28(火) 01:26:27.42 ID:QzRy6CAa
昔読んだ小説に真田大助が主人公の話があったけど
武者修行中にチン子切り落とされてそれを哀れんだ実母とセクロスするとかって内容だったから
ずっと架空の人物だと思ってた

愛宕に武運を

2016年12月23日 21:10

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 22:21:14.83 ID:QUkoz0tZ
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が終わって後日のこと。

家康は近臣と雑談している時、こんな事を言った
「去る三月、加藤清正は秀頼に供奉して上洛したが、彼は退出の時、西天の方に目を注いだ。
これについてお前達は何故だと思うか?」

しかしこの問に、答えられるものは一人も居なかった。

暫くして家康は言った
「秀頼の上洛に供奉するのは非常に大切な役目であった。だから清正は、二条城の西方にある愛宕山に
大願を掛けたのだろう。そして、恙無く帰城に及んだ。故に心の中で、愛宕の方を拝したのであろう。」

後に清正の家臣であった中井氏の著述した爲人妙という書にも、愛宕の勝軍地蔵において、この時清正が当山の
大善院で護摩を執行し、秀頼の武運を祈ったと書かれている。

(慶元記)



「この度、奇特の死をした」

2016年11月30日 17:27

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 01:50:51.23 ID:qUu/M8Tn
下旬(慶長15年5月)に、建部内匠(光重)が死去した。当月18日から患って
いたという。

この内匠は大坂の秀頼公の近習である。刀や脇差すべての金物の目利き
だった。江戸や駿河の若き衆に、弟子が8百人余りいたという。

この内匠の小姓・長吉は、内匠が死去して8日目に追腹を切った。当時の人に
これを誉めない者はいなかった。

去る3月に内匠が駿府に逗留していた時、長吉は傍輩とともに逐電し、三河国
吉田で押し止められた。傍輩の侍2人は成敗となるも、この長吉は別状なく前々
のように使われたが、「この度、奇特の死をした」として人々はこれを誉めた。

――『当代記』



秀頼は毎度、惣構を巡って、

2016年11月24日 14:37

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 03:17:03.16 ID:vSSs2BW6
今回の籠城中(大坂冬の陣)、秀頼は毎度、惣構を巡って、小事でも
精を入れる者には、その身分に応じて、褒美を与えた。人々にこれを
美談とせぬ者はいなかった。

――『当代記』



343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 08:46:31.68 ID:h78xrH/D
秀頼はぼんくらだったのかちっとは出来た人間だったのか
顔は秀吉の面影はあったのか似ても似つかなかったのか
実際がさっぱりだなあ

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 09:06:12.48 ID:GifEEbwp
>>343
あの時代で20過ぎて個性がさっぱり見えないってのは、まあその程度の人物だったのでしょうよ。

秀頼の御袋は武具を着けて番所を改めなさり

2016年11月23日 14:04

淀殿   
340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 02:37:23.98 ID:tdgiVhfs
28日(慶長19年10月)、大坂の城中から出た者が二条に召し寄され質問された。

かの者が申し上げるには、秀頼の御袋(淀殿)は武具を着けて番所を改めなさり、
これに従う女性3,4人も武具を着けていたという。

また、大坂に籠城の勢は3万余り(但し雑兵共に)という。兵糧・薪・塩・味噌は形式
どおりに蓄えていたという。

――『当代記』




北野天神の奇特

2016年11月16日 22:02

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 02:56:44.66 ID:IXpkThrf
・この春(慶長13年2月)、秀頼公が疱瘡をお患いになった時、天神の御使い
によって、色々な吉瑞があったという。

・この頃、大坂の秀頼公は疱瘡をお患いになり、はなはだ危急であった。
西国・中国衆は密々に秀頼公を見舞った。これは家康公の前を憚りなさった
ものか。中でも、福島左衛門太夫(正則)は、急いで大坂に参上したという。

・秀頼公の患いがようやく本復した。北野天神が影向する奇特があったという。

――『当代記』



方広寺鐘銘事件について

2016年09月03日 10:48

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/03(土) 10:00:07.73 ID:K223baAA
方広寺鐘銘事件について、難波戦記、片桐伝記、北川覚書などに記される所によると、
これが幕府から豊臣家を咎めた第一の理由であり、大坂の陣はこの事を理由に起こったように
記せられている。これは甚だしい妄説である。

幕府が片桐且元を召して告げた七ヶ条の御難題と、鐘銘事件は関係がない。
もちろんその七ヶ条の末の一ヶ条に、鐘銘に関東呪詛の文有りとの文言があるが、この事について
強く諌めてはいない。

いまここに、この鐘銘について記しているのは、世の人々皆が、この鐘銘より兵乱が起こったという説を
疑わず、童すらそう知っているためである。

この鐘銘の草案は前年の冬、片桐且元より本多佐渡守に遣わされ、「何か問題が有ればすぐに伝えてほしい」と
言いおかれている。しかしあえて供養の日に至って、板倉勝重より「関東調伏の文有りし故、供養は
延期するように」とその停止を求めた。これは本多正信板倉勝重らの謀臣がこのように謀ったのでは
ないだろうか?
その奥意は深く計り難い。

(慶元記)



56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/03(土) 19:52:23.95 ID:wB+53SAg
今でも通説だよね

大阪が社稷を失う基

2016年09月02日 19:55

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/01(木) 19:03:25.11 ID:szwZYy7K
将軍秀忠の娘(千姫)と豊臣秀頼との婚姻の沙汰有り、この執成を行ったのは加藤肥後守清正であった。
肥後守はこの当時、肥後熊本に在城して本知行70万石、御預り地24万石を支配し、誠に秀頼にとって
補佐の臣であった。

この姫君が大阪に輿を入れた後、暫くの間は天下無為の思いをなした。

このお輿入れは慶長8年7月28日という説があり、また慶長10年7月28日だったともいうが、これらは共に
妄説である。徳川家の実録によると千姫のお輿入れ慶長13年7月28日、輿添は池田輝政、浅野幸長とある。

しかしこの時豊臣秀頼は、関東(幕府)の仕方を悪み、そのため御台所とも不和であり、淀殿も後々には
対面すらしなくなった。この事は関東が、豊臣家に対する感情を悪化させる最初の出来事であった。

加藤清正は秀頼と千姫の不和を聞くと大いに嘆き、数ヶ条の言葉を以って諫言をしたが、秀頼は
全くその意見を聞かなかった。そしてこれは、大阪が社稷を失う基となったのである。

(慶元記)




基次最後の挨拶

2016年06月28日 15:23

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 22:30:31.39 ID:xIwt/IjX
元和元年五月二日、後藤基次は大和口の大将としてまさに出立する時、『今度は生きて再び
帰ることが無いであろうから、秀頼公に最後のお暇を申し上げよう』と、御広間へ向かい、
速水出来丸(速水甲斐守息子・当時24歳)を通して斯くと言上すると、秀頼も早速に出御し、
「早や、出陣か」
と声をかけた。

基次は謹んで畏まり
「私は不肖の身ではありますが、去年召し出して頂き、直ぐに諸大夫に仰せ付けられ、殊に
大将の号を許された事、弓矢の面目死後の思い出、何事がこれに勝るでしょうか。
であるのに私は、尺寸もこの御恩に対して報いておらず、この事、返す返すも口惜しく思っていました。

この基次、今度は一番に東兵に相当たり、千変万化に戦って、これぞと思う敵と引き組み討ち死にし、
せめてもの忠を泉下に報い奉ろうと決心しています。然らば、今生において御尊顔を拝するのも
これが限りであり、一層名残惜しく存じます。」

さしもの猛き基次も、この時はしきりに涙を拭っていた。秀頼もまた涙を流しながら

「汝の忠貞は感ずるに余りある。私も宿運拙く、いまやこの体になってしまい、一日も安堵の思いなく、
遺恨余りある。しかしこれも、前世からの宿業なのであろう。

汝と真田を私は、我が両翼と思っている。例え討ち死にの覚悟であったとしても必ず、
再びこの城に帰って、私と死を共にするのだ。この事、必ず忘れてはならぬぞ。」

基次はこの上意の有り難さに感涙を流していたが、率然と叫んだ
「天晴!名君の仰せであるかな!今生の望みもこれにて満たされました。上意の趣、畏まり
奉ります。」

そう言って御前に在った傍輩たちにも皆、暇乞いをして広間を立った。
そして襖障子に一種の歌を書き付けた

『主命ぞ 親子も捨つる武士の道 辞ひとつの命もろとも』

これを見る者は皆感動し、世の口碑に刻まれたのである。

(慶元記)



894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 22:51:58.81 ID:KCWhgknx
>>893
このままドラマにできそうなクォリティだ…

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 16:37:08.04 ID:gsTyxJTG
>>893 は実話かなあ?。秀頼の発言が詳しく載っているところをみると
創作だろうけど。

天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

2016年05月29日 13:07

658 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 00:04:09.47 ID:BEJ0ECpz
大阪冬の陣の和睦後も、畿内の情勢は安定せず、大阪勢が京都を襲うとの風聞が流れると
京は大混乱に陥った。この知らせを受け取った徳川家康は大いに驚き、これは未だ豊臣秀頼
大阪城に在るために、大阪方諸浪人の者達の策動が収まらないのだと判断し、
秀頼に書状を送った

『連々考えるに、秀頼公が大阪城に在ることが、人々に疑心暗鬼を生んでいる。
であれば、国家安穏のためにひとまず大阪城を明け渡し、大和の郡山に移られよ。
その間に畿内を安定させ、大阪城も元通りに普請してお返しするだろう。
七十に余る私であるから、悪しきことは申し入れはしない。織田有楽、大野修理も
よくよく理解して秀頼公を諌めてほしい。

承知なければやむを得ず出馬となるだろうが、和睦から間もなく再び確執に及ぶのは
信を天下に失うに似たり。よくよく了解して、豊家の社稷を絶やさないよう計ってほしい。』

この知らせを受け取った大野治長は驚愕して秀頼に伝える。秀頼は諸士を千畳敷に集め評定を行ったが、
この時真田、後藤は思う所あって出席しなかった。

秀頼は今度の事態に「諸将の心底を聞きたい」と発言を促したが、一大事の儀であり、互いに目を見合わせ
誰も言葉を発せようとしなかった。

が、ここで長宗我部盛親が進み出た

「このように申すのは、思慮が短いかもしれません。ですが道理に合わなければ用いぬまでのことです。
去冬の扱いについて、天下の規範になるような証拠もなければ、和睦の儀は然るべからずと真田、後藤が
言っていたのは、つまりこの事であったのです。
あの時、和平が永く続かないことは、この私ですら解っていました。

今、関東の望みに任せてこの城を去って和州郡山にお移りあらば、一時的には穏便に済むでしょう。
しかし程なくまた難題を申しかけられ、さらに他境へ御座を移されることもあるでしょう。
そうなった時、七手組の者達は勿論、この城に集まった渡りの諸士たちまでも、郡山から他に移ると
成れば、どれほど志のある勇士であっても、望みを失い離散する者も多いことでしょう。
その頃になると今この城にある古老の者達は、寿命で尽く死に果てているでしょう。
であれば、一体誰があって君を守護するのでしょうか?御本懐を果たし申すべき者もなく、もはや
自滅より他ありません、

万一、十分な幸運を得たとしても、織田常真(信雄)と同程度の格式を得るくらいです。
秀吉公の時代、人はみな、この織田常真を卑怯の人として爪弾きにし、信長公の雄才までも、
この人のために罵られたのです。誠に口惜しきことではないでしょうか?

不義卑怯の名を被って生きるのは、武士としてこれ以上の恥辱は有りません。ならば潔く討ち死にして
武名を千歳に残すことこそ願うべきです。
ですが、この城の要害は既に破却され、ここで大敵を防ぐというのは不可能です。
去年、真田、後藤は、美濃尾張までも進出し、また宇治瀬田において防ぐと言上しました。
これも去年であればこの作戦で充分勝利を得ることが出来たでしょうが、今は勝利も覚束ない状況です。
同計同束にてその勝敗が変わることは時の勢いです。

ですが、もはや要害不堅固の城に敵を引き受けても、あたかも籠の中の鳥が殺されるようで無念の第一です。
ですから、何れも討ち死にと覚悟の上は、遠境へ切って出て、五度も十度も強戦して両将軍家の旗本と見れば
左右を顧みず駆け入って奮戦して死にましょう。
木村殿と森殿が言い合わせて二条城に向かえば、京都所司代の板倉も、頭を出すことすら出来ないでしょう。
伏見や茨木に至っては恐るるに足らず。
かくなる上は例えこの城で君には万一御生害あるも、豊家の御恥辱にはなりません!」

この言葉に一座の者達は目の覚めた覚えを成し、「潔し!潔し!」「しからばそのようにしよう!」
そう異口同音に言い合った。

659 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 00:06:14.29 ID:BEJ0ECpz
が、ここに小幡景憲があった。小幡は松平定勝、板倉勝重と申し合わせて大阪城に入っていた。
彼は武田二十四将の一人、小幡昌盛の次男であり武田兵法を良くすること、大阪城中に知られ、
大野主馬介治房が取り持って豊臣秀頼によって召し出された。
新参ではあったが弓矢の智識(合戦の専門家)であるとのことで、大野治長は彼を評定の席に
召し出し、その末座に在ったのだ。

彼は先程の盛親の言葉が、関東のために甚だよろしくないと判断した。
そこで進み出て申し上げた

「古参の歴々を差し置いて末座から異見するのは憚りあることですが、心頭に浮かんだことをそのまま
差し置くのは不忠の至りですから、その一通りを言上いたします。

徳川家康公は近代の良将たちと、あるいは敵対しあるいは従い、大いにその兵法を学ばれ、
治乱盛衰の機微を察し、欲を抑えることを心がけ、権謀に通じ、その知識の高さは現在において
万々の上に出ています。

聞いた所によると、京都伏見方面には既に段々と軍勢が登っているとのことです。
これは能く状況を知っているということでしょう。
大御所は必ず、盛親殿のような雄偉の将が京都を抑え、美濃の近くまで進出すれば
事難しくなると推察された事でしょう。それを知ったからこそ早速軍兵を登らせたのです。
そのような所にもし諸国の假武者(傭兵)を以って向かえば、敵のために捕虜にされに行くような
ものです。

この大阪城は、城郭の破却こそされたと言っても、七重の曲輪などはなお残っており、敵を防ぐに
便利です。そして八万の兵にその兵糧、玉薬は何れも欠けることなく、ことに城兵の武勇は、去年
両将軍にもみせつけたのですから、敵も簡単には攻め掛かって来ないでしょう。

城兵たちはただ、心を一つにして九死に一生の合戦を遂げるのです。そうすれば、特に西国の者達は、
去年の大阪の勝ち戦によって我々への見方を変えていますから、今度も暫く持久戦を遂げれば、その結果
我らに加担するものも多く出るでしょう。であれば、頼み有る戦となります。

それにこの大阪城本丸は、太閤御苦労の縄張りをして残した物ですから、仮に1,2の曲輪が
破却されても、この城を守衛する事こそ孝子の御本意というべきでしょう。」

そう雄弁を以って語った。
この時、大野治長は元から他境へ軍を出すこと好まなかったため、小幡の意見に方針を決定した
のである。
これは秀頼公の不運であり、天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

(慶元記)



661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 11:44:32.98 ID:kKdVXExc
大野主馬って悪い話ばっかだね。いい話といったら逃げずに死んだことくらいか。

生存したとて死と同じである。

2016年05月29日 13:05

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 01:45:53.35 ID:cAiDNTPK
 大阪落城のとき、秀頼が薩摩に行ったことは前にも言った。
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html


 さてこの頃聞いたことに、初めは肥後の隈本に立ち退いたとのことである。
従者が五人いたが、三人はかの所で暇を出したそうだ。
肥後でも関東を憚り、薩摩に送り遣わしたという。
(この次第は、人名等を『白石紳書』に見えるという。予の書は戊寅(1818年・文化15年、文政元年)に焼亡したので、人がいうままに記す)


薩州でも関東を恐れて、内々にその実を申し上げると、

「すでに大坂落城して、秀頼生害と披露したので、生存したとて死と同じである。
そのままにしておけ。しかし他国へは出してはならない。」

との御沙汰があり、秀頼は91、92まで存命したという。
その子孫は、今四世ばかりになって、木下谷山村というところに住居して、次郎兵衛という百姓であるとのことだ。


 朝川鼎(善庵)が西遊したとき、まさしく会って聞いてきたという。
秀頼の墓というのも行って見てきたが、同村の普門寺という寺にあって、無銘の石塔であった。
(この谷山村は鹿子嶋から二三里にあるという)
 かの百姓の家に秀頼の鎧、太刀、刀が今でも残り、その他の物は一切無い。
それは、秀頼が亡くなった後、所持の品はことごとく売り払い、それで田畑を買い取り百姓になったためだという。薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
以上も次郎兵衛が鼎に話したことだという。
これは関東を憚ったためであろう。


 これらを思うと、今の天下の御勢を観ることができよう。
また豊氏の全盛の成果も憐れに思われよう。
(甲子夜話)



662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 13:07:00.87 ID:9kCyK6as
>>660
>薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
創作なのに妙にリアルだw

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 13:31:15.80 ID:T5Pmts09
護衛や監視役はつかんのか

大坂落城の時、豊臣秀頼は

2016年05月27日 17:52

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 23:09:30.66 ID:YW3TXSxA
 大坂落城の時、豊臣秀頼は秘かに薩摩に行かれたという一説がある。
このことは異域でも聞こえていると見えて、『湧幢小品』に(明の朱国禎が著したもので、第三十に見える)
「秀頼が敗走して和泉に入り城を焚て死す。又逃て薩摩に入ると言ふ者有り。」
と書かれている。「和泉に入る」とは誤聴である。

 また何で見たのだろうか、落城の時、神祖は天守に火がかかっているのをご覧なされて、
「早く場所を他に移せ。」
と仰せられた。
左右からは
「まだ秀頼の安否が分かっていません。」
と言上があったが、
「天守に火がかかれば落城である。」
との仰せなので、すぐに場所を移されたという。

 またある人が言うに、秀頼が薩摩に行った後、大酒で所々で困ったという。
酒の負債が多くあったともいう。


因みに、今高崎候の居間の襖には秀頼の画というものがある。
金地に老松を描き、その上に一体に空き間もなく廉を描いてある。
廉外に見える体である。もっとも着色である。
その筆は雅楽助、山楽などと見える。
(甲子夜話)

秀頼作の絵というものを一度は見てみたいですね



655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 23:33:24.77 ID:aTn+OOyq
明の人「似たような話を聞いたことがあるな
父親が乞食から成り上がって天下とった後、子供のために粛清しまくったら
父親の死後、息子が叔父に(一応旭姫の夫だし)攻められ落城
焼死したということになってるが、実はどこかで生存しているという話を」

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/27(金) 18:48:52.10 ID:/TJu3MHx
>>654
秀頼作
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Maple_viewers.jpg/1280px-Maple_viewers.jpg
1280px-Maple_viewers.jpg







狩野秀頼だけど

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/27(金) 19:30:34.87 ID:8hj2j5oy
>>656
そっちは"すえより"なんだよなあ

片桐の忠言はこの時に顕れた

2016年05月26日 15:34

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 22:58:06.80 ID:4/B3iYED
大阪冬の陣の講和に向けた動きが始まる中、大阪城の首脳である織田有楽、大野治長
豊臣秀頼の御前にて、このように講和の受け入れを勧めた。

「両将軍家より、御和睦の事を再三仰せ遣わっています。その上意疎意あるまじと、
神文を進ぜられるとの事です。

この度の合戦においては、日本国中の軍勢が雲霞のごとく集まり昼夜攻め戦いましたが、
我々にはさほどまでの負けもなく、これによって君のご威光は天下に秀で、人々はその武威を
皆恐れるほどです。然れば、また重ねて時節到来の時期が来れば、味方に属するものも多いでしょう。
また大御所も既に七十余歳。御余名も久しくはないでしょう。彼が薨去すれば必ず変があります。
その時は天下の大名2つに分かれ、合戦が起こり我らの存在が大きくなること疑いありません。」

秀頼はこれを聞くと
「お前たちが申すこと、一々道理が有る。だがその内容は結局、この戦が始まる前に片桐且元
私を諌めたものと同じではないか?

であるのに、その諌めを排除して今度の難儀に及び、ようやく今になって片桐の諫言に従うとは、
運の極まりである。
しかし運を天に任せ敵を討ち果たそうと思っても、今は皆和睦を好む。ここに至っては恥を忍んで
降を乞い、士卒の生命を継ぐ事を以って、軍勢の恩賞とするしかない。
早く和睦を調えよ。

片桐の忠言はこの時に顕れた。私は後世から嘲笑をうけ、その恥辱を雪ぐことも出来ない。」

そう、目に涙を浮かべて言った。有楽も治長も顔を赤らめたものの、秀頼が和睦を許諾したことに
喜悦して退出した。

(新東鑑)




651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 00:09:41.77 ID:36WfMBtD
その恥辱を雪ぐことも出来ないって断定しちゃダメでしょう。
家康の寿命尽きたら合戦になるって話てるんだから勝てばいいんだし、
そして結果がわかってる後世に書かれたってわかっちゃうという二重の意味で

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:29:40.29 ID:kWfovEN6


653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:56:11.27 ID:o5U5k782
最初に且元の進言を退けたのに結局はそれに従うことになったからだろ
後に合戦に勝てばよいとかそういうことではない

増田長盛の切腹

2016年05月25日 19:52

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 15:12:33.35 ID:4/B3iYED
増田長盛は関ヶ原の合戦のあと、高野山に登り出家し、その後高力左近太夫(忠房)に預けられ
武蔵国岩槻に置かれた。

大坂の陣が始まろうとした頃、高力は台命を承り、増田に面して

「御辺は太閤に御恩のある方ですから、豊臣家の様子を見たいという願いの有ることでしょう。
であれば、大阪に上られよ。

これはわたしの私的な考えでは有りません。駿府より免しのあった事です。」

増田はこれを聞くと
「大御所は天下の人君なればこそ、いまこの仰せを承りました。
しかし、私はもう老人です。これから大阪に上り、新付の兵を下知しても、たいした働きは出来ず、
返って私を抜擢した太閤の御眼力に徒なす恐れもあります。
ですのでこのまま、配所にて生命を終わりたいと考えています。」

大御所・徳川家康はこの報告を聞くと、「兎にも角にも本人の心に任せよ」と答えた。

その後、豊臣家が滅亡すると、増田は高力に対面し
「両御所が大阪に御出陣の時より、どうにかして主君の終わりを承らないようにと祈り続けていましたが、
天命によって終に滅びました。であるのに私は、今後何を楽しみに存命すべきでしょうか?
身の御暇給わり候らへ」

そう申し乞うて、切腹したという。

(新東鑑)




766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 18:50:30.94 ID:6Eq4MEMp
あれ、増田って息子を大坂方にしたせいで切腹したんじゃなかった