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三左衛門が中納言殿を薩摩へ下したことを

2021年04月12日 18:03

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/12(月) 16:27:43.98 ID:8nMd6PWi
関ヶ原の合戦の後、宇喜多秀家は近江に潜伏していたが、ここにおいて三右衛門(進藤正次、実際には
三左衛門。以下三左衛門とする)が申し上げた

「大阪へ参上したいと思いますので、御状を遊ばされますように。」

そう言って四寸四方ほどの神に書状を書いて頂き、これを編笠の緒に拠り付けて、二日に大阪に行き着き、
中納言殿(秀家)の屋敷の御台所に這い入ったが、流石に大名の御台所であり、人も多く夥しい様子で
あったが、先の御合戦の沙汰をする人も無く、また殊に三左衛門は新参者であり、誰に申し継ぎを
伝えれば良いかも知らず、一日の間、朝から台所の庭に立ち休んでいたが、これを改めようとする者も
居なかった。

台所より奥へ参った所に番の者が有り、その人を頼み「御局(豪姫)に御目に掛かりたいと呼び出して
頂きたい。」と申した所、程なく局が出て会われた。編笠の緒に撚り結んだ御状を取り出し
広げて見せると、一見された後奥に入られ、黄金二十五枚を持って出てきて、三左衛門へ渡された。
彼は金を受け取り首に掛け、夜通し大津まで走り着いた。この時大御所様(徳川家康)は大津城に、
先手の衆は醍醐山、山科辺りに陣取っていた。

三左衛門は大津の海辺(琵琶湖の浜辺)に出て「船にて参るべきか、陸を行くべきか」と思案したが、
「黄金能き程有り、(このまま秀家を見捨てて逃げて)これを元にして世渡りしても成るだろう。また
中納言殿が御座候所に参りても、もし既に失わられ給っていれば、一体どうすればいいのか。」と
思い悩み、先へ二歩進んでも跡に三歩下がるほどであった。
しかし

「とにかく、中納言殿は新参の私を頼みに思し召されたのだ。船では海上がどのようになるか
解らない。」と、思い切って陸地を歩み、その日に潜伏先に参着したところ、中納言殿は無事であった。

そこで三左衛門はその家の亭主に黄金二十枚を与え、残りの五枚は自分が持ち、翌朝、中納言殿を
駄賃馬に乗せ編笠を着せ、大津、醍醐を通り過ぎ、伏見京橋にて川船に乗せ、大阪天満において、
黄金一枚にて船を借り、「この人を薩摩まで御供申し、あちらに無事着かれたなら、御状を取って
戻るように。」と約束して、黄金二枚を中納言殿にお渡しした。これは、中納言殿が生まれつきの
大名であったため、黄金一枚がいかほどの用を調えられるのかもご存知無かったためであった。

彼を薩摩に送った船主は、御状を持ち上がるようにとの約束の通り、船主は大阪に、御自筆の御状を
持ち帰った。三左衛門の手元に残った二枚の黄金は、江州から大阪まで御供をした折の路銀に遣い、
余ったのもはそのまま自分が持った。

中納言殿が薩摩に落ちられたことを承ると、本多上野介(正純)の所に出て、
「備前中納言殿の最期まで付き従った者であります。」
と罷り出た。秀家が死亡した証拠を尋ねられたが、この時宇喜多家相伝の刀である鳥飼國次を
取り出した。

大御所様は三左衛門に、伊勢国にて知行を与えると仰せに成った、知行の高は御意無く、
これにて心得あるべしとの事であった。

三年過ぎて、三左衛門が中納言殿を薩摩へ下したことを諸人も知った。

この時代は万事大雑把であったので、三左衛門が大阪において中納言殿の台所の庭に一日
立ち休んでいても、これを改める者が無く、また奥に参る入り口の番衆も局を呼び出し、
用所を調えるという事がうまく行ったが、これは天下の大小名共に、同じようなものであった。
この頃は屋敷より下々の出入りの札も無く、目付という事もなく諸国は治まり、上下はその
治世を楽しんだ。商人百姓もそれぞれに楽しんでいた。

慶長年中卜齋記



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「宇喜多の狐憑き」について、甲子夜話

2019年05月25日 19:26

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 09:39:09.14 ID:rLzlw2E3
『雑談集』に曰く、宇喜多中納言秀家は備前一ヶ国の太守であったが、故あって一人娘(実際には妻の豪姫)に
妖狐が憑いて、様々なことを尽くしても退かず、このため秀家も心気鬱して出仕をも止めてしまった。

これを豊臣秀吉が聞かれ、かの娘を城へ召し、速やかに退くよう命を下すと、狐は忽ち退いたという。
かの狐は退く時このように言った

『我は車裂きの罪に逢うとも退くまじと思っていたが、秀吉の命を背けば、諸大名に命じ、西国、四国の
狐まで悉く狩り平らげるという心中を察したが故に、今退くのだ。我のために多くの狐が命を亡くすこと
如何ともしがたき故なり。』
そう涕泣して立ち去ったという。

翌日、秀家は礼射として登城し、その始末を言上した。秀吉は頷いて微笑したという。
(巻二十二・十九)

安芸の宮島には狐憑きというものが無く、また他所にて狐に憑かれた者をこの島に連れて来ると、
必ず狐が落ちる。また狐憑きの人を、この社頭の鳥居の中に引き入れると、苦悶大叫して即座に狐は
落ちる。霊験かくの如しで、近頃私(松浦静山)の小臣も、これは実説であると言っていた。

これによると、昔宇喜多氏の女が蟲狐が落ちず、太閤秀吉が西国四国の狐狩りをせんと言ったという話は
疑わしい。宇喜多氏の領国である備前と宮島はさほど離れていない。であるのに秀家は鼻の先程の場所にある
霊験を知らずに、憂鬱に日を重ねていたことに成る。実に訝しい。(巻二十二・二十九)

(甲子夜話)

「宇喜多の狐憑き」についての甲子夜話の記事



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 10:53:54.78 ID:pkUWqy7a
狐のくせに四国には狐がいないを知らないとか

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 11:07:47.02 ID:SLI61bsq
>>64
>蟲狐
なんかすげー怖い…。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 11:19:44.25 ID:8K1a1MKB
こきつね

速やかに退去せよ。

2016年05月22日 11:00

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:39:05.74 ID:MJ+Dsnbs
備前中納言殿(宇喜多秀家)御簾中(豪姫)が、最近産後のご病中に、物の怪が憑いたとあい見える。
きっと野狐の所為と太閤殿下は思し召され、御朱印を以ってこのように決定された。

日本の領域において、誰が公儀を軽んずるだろうか。天下において生命あるものから生命無きものまで、
すべて上意を重んじている。いわんや畜類がそれを畏れ従わないということが有るだろうか。
速やかに退去せよ。

こうなった上は、尚も取り憑き、この物の怪のために不慮の事態が出来すれば、当社(伏見稲荷社)は
即座に破却する。その上で日本国中に狐狩りを毎年かたく仰せ付けられ、その類を断ち、尽く殺し果たす
旨を御意として表明された。

社人はその旨をよく理解し、肝胆を砕いて御簾中が回復する為の祈祷をする事に専念すべきである。
恐々謹言


拾月廿日       石田治部少輔
               三成(花押)
           増田右衛門尉
               長盛(花押)

(伏見稲荷社宛文禄四年書状)

有名な秀吉による、豪姫狐憑きに対する反応である。



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:55:34.87 ID:DObW0O0V
産後鬱だったんじゃないのかね

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 20:56:51.50 ID:pHCqulG8
ラスボスの恫喝が怖い

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 21:53:32.60 ID:teJVoUjd
犬千代がラスボスから 国宝大典太光世を借りパクする
ためのイベント

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 00:49:25.25 ID:3/b36sce
>>642
今でいうとそういう医学的な言い回しがあることでも、
当時だと経験的にそういうことがあって原因は「物の怪じゃないかな」って話結構あるのかな

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 08:43:01.02 ID:00wt5hra
レビー小体型認知症が知られたのって結構最近
幽霊見たって話は大抵これで説明出来る