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松平信康を介錯した天方通綱のその後

2023年05月22日 20:38

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/21(日) 21:38:55.38 ID:8ODzLh+/
貝原益軒「朝野雑載」から松平信康を介錯した天方通綱のその後
前半部分は有名だけど一応載せておく

天正七年(1579年)九月十五日、信康卿が二俣城で切腹することになり、渡辺半蔵(ママ)と天方山城守(通綱)が検使として遣わされた。
信康は両人に「いまさら申し上げても意味がないが、子供の身で親に逆心を起こすような人倫の道に外れたことがあろうか。
我が武田勝頼に心を合わせ当地に武田勢を引き入れよう話など、日本中の神々に誓っても言うが、虚説である。
我の死後、どうかこのよしを申してくれ」とおっしゃった。
両人とも承諾したため信康卿は御満悦のお顔で「半蔵は幼少の時分よりの馴染みなのでそなたに介錯を頼むぞ」とおっしゃった。
しかし腹をお切りになり「半蔵半蔵」と呼ぶも、半蔵は大いに震えどうにもならなかったため天方が介錯した。
両人が浜松に帰り信康卿の御遺言を申し上げたが、家康公は平生のお顔で何もおっしゃらなかった。
榊原康政、本多忠勝は声を上げて泣き出したため御前を退いた。
家康公は天方の脇差の銘をお尋ねになり、千鳥村正と聞くと
「我が祖父清康卿が殺害されたのも、我が幼少の時分駿河で削刀で手を切ったのも、村正であった。村正は当家に不吉である」
とおっしゃった。

そののち天方山城守は当家を逐電して高野山に遁世したという。
しかし年来天方と親しかった朋輩が有馬に湯治のついでに高野山に行ったところ天方に出くわした。
世間話をしたのち
朋輩「貴殿はどうして浜松を立ち退かれたのか?」と尋ねたところ
天方「別に理由もないが、貴殿も御存じのように若殿を手にかけ、その後世の中が味気なくなり鬱々としたためだ」
朋輩「戦国の世なのにさほどのことで無常を感じ気弱になるとは。ほかに理由があるのでは?」
天方「正直に言うと、渡辺半蔵が介錯の時に大いに震え、このままでは若殿もお苦しみだろうと見かねて介錯をした。
そののち家康公が我の脇差を見て
「千鳥村正は当家に不吉である」とおっしゃり、
そののち御近習との御雑談で家康公が
「渡辺半蔵は槍半蔵と呼ばれる武辺者であるが主人の子供の首を切る段においては腰を抜かしてふるえよった」
などとおっしゃったと聞くと、それでは我を主人の子供の首を切ったと思われるのか、と思うと御奉公もいらぬと思ったわけだ」
結城秀康卿はこのことをお聞きになり、不憫に思われたのか越前を拝領の時、高野山の天方を召し出され、高禄を与えて召し抱えられたということだ。



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貝原益軒「朝野雑載」から大友宗麟の和歌

2023年04月06日 19:18

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/05(水) 19:27:04.81 ID:jWaTSmOW
貝原益軒朝野雑載」から大友宗麟の和歌

大友義鎮(宗麟)は諸芸に通じ、歌道にも達していた。
あるとき戯れにオウムの歌を詠んだ
「なびくなよ、しめておく野の女郎花 思ふかたより風はふくとも」
「なびくまじ、しめて置のの女郎花 思ふかたより風はふくとも」
この両首をどうしたわけか天子が聞こしめし、「雪の中の早苗」「蛍火の灰」という難題を豊後国に下されたため、この禁題にて義鎮が詠んだ

雪中早苗
富士うつる田子の浦わの里人は 雪の中にもさなへとるなり

蛍火灰
夜もすがらともす蛍の火も消て いけの真こもに、はひかかりけり

天子より題を下されたるこころを
思ひきや筑紫の海の果までも 和歌の浦波かかるべしとは

この三首を奏聞したため、叡感があったという。

※存斎(貝原益軒の兄)が言うには、終わりの歌は難題二つの歌に対する天子の賞賛の御製であろう

なびくなよ…なびくまじ…の両歌は
細川忠興「なびくなよ我が姫垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
ガラシャ「なびくまじ我がませ垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
に似ているが、本歌があるのだろうか

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/05(水) 19:31:53.70 ID:jWaTSmOW
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3316.html
名門武家の若者、後奈良天皇の求めに

こちらの話だと宗麟が若い頃に参内して後奈良天皇の前で「雪中早苗」一首を詠んだことになっていた



日比半右衛門と米村市之丞

2022年12月22日 19:08

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/21(水) 20:02:33.26 ID:6asqkaLX
朝野雑載」から日比半右衛門米村市之丞

片桐且元の従士である日比半右衛門は武功ある者であった。
大坂冬の陣の時、大野の属兵・米村市之丞と闘ったが、半右衛門の嫡子・半十郎が横から出てきて、父と入れ替わって米村と斬り合った。
半右衛門は勝負を見物しつつ「討つも討たれるも武士の習い。踏み込んで勝負をいたせ」と言うと
半十郎は父の言葉を力にし、米村の肩先を斬った。
一方、米村も半十郎の左の頭に切りつけ、弱るところを斬り伏せて半十郎の首を取った。
息子を討たれた半右衛門は米村を引っ立てて
「今貴殿を討つのはたやすいが、その方にも父があり、今われが感じているように不憫に思うことだろう。
その方一人を討とうが助けようが戦の流れは変わらぬのだから、早く帰って恩賞に預かられよ」
と矢立を取り出し、半十郎の姓名を書きつけて与えた。
城内に馳せ帰った米村がことの次第を報告すると、秀頼公も感動し米村に黄金十枚を褒賞として与えた。
これを聞いた人々はみな「半右衛門の計らいは勇ありて情け深い」と感嘆した。

私(貝原益軒)が思案するに、半右衛門の計らいは主人の敵を討たず、他人の子を愛して自分の子を愛さないようなものではないか。
このような異常な行いを見て世人が感動すると言うためしがあるとは。
識者の論をまって是非を判断するべきだろうか。



松平信康に見出された踊り手

2022年12月09日 19:45

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/09(金) 17:57:02.08 ID:uhIMmw+J
貝原益軒朝野雑載」から松平信康に見出された踊り手

天正六年(1578年)?ごろ、三河・遠江に踊りが一年中流行したが、これは岡崎三郎殿(松平信康)が好んだためであった。
先年、駿河で踊りが流行した時には今川氏真が滅んだので不吉である、と諸人は申した。
三郎殿はたいへん乱暴な方で、下手な踊り手がいれば弓で射殺した。
そのため踊りはずいぶんけっこうなものとなった。
そのころ大浜の踊り子のなかに、太鼓を打っている十五ほどの容顔美麗な童がいた。
三郎殿が父の名を尋ねると「大浜明神の社人・長田平右衛門(長田重元、一説には永田徳本の兄)の息子です」と申した。
平右衛門は有名な勇士であったため、すぐにその子を召し使った。
長田伝八という名で出世したが、三郎殿の死(1579年)ののちは家康公に召し出された。
長田壱岐(源義朝を殺害した長田忠致)の末裔であったため、苗字を永井と改めさせた。
長久手の戦いで池田勝入(池田恒興)を討ち取るという功名を成し遂げた永井右近大夫(永井直勝)その人である



506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/09(金) 22:13:12.98 ID:mCa/kIWL
親子で穴兄弟か

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/10(土) 20:25:42.27 ID:LP3IGkV/
>>505
信康の死の前年ごろと思ったため、天正六年としましたが
「三河後風土記」巻第十六 三遠両国踊流行・付永井伝八直勝の事
では「天正四年丙子夏の始めより」となっていました。
また、信康については
「信康君は御年若く猛勇血気の大将、この踊りをめでたまうこと斜めならず。日夜日夜踊りをのみ御覧ぜらる。
もし踊子ども麁服(粗末な服)を着し、踊りも思召しにかないぬは忽ちに射殺したまえば、後々は錦繍を取り重ね金銀をちりばめ日夜日夜士民これがために財宝を費やしける。
心ある御家人どもは先年今川氏真踊りを好み士民ども家業をわすれ踊りに財費を費やしけるほどに
国中は武備すたれゆるみし虚に乗じ武田信玄駿州を奪いとり、大殿もこの時遠州をば御手に入れたまう
前車の覆るを見て後車の戒め(轍を踏まない)、殷鑑遠からず、御心得あらせたまうべきにや、と諫める者も少なからず」
と踊りの上手い下手とともに、衣装が豪華かどうかも射殺の基準となっていました。

一条兼定、暗殺事件について

2022年04月23日 16:20

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/22(金) 20:59:28.49 ID:BLpusYEu
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2285.html
一条兼定、暗殺事件
では一条兼定暗殺の実行犯、入江左近は元親に殺されたことになっているが別のパターンもある。

※入江生存パターン
大友興廃記」より
一条康政公は長曾我部元親により四国を追われ、豊後に逃れた。
このとき康政公の御台所(大友宗麟の娘)は土佐に置かれたままだったため、宗麟公は元親と交渉し、御幼少の姫君を豊後に返してもらった。
そののち康政公は豊後でわびしい暮らしをしていたため再起をはかり、伊予国の住人で法花津の城主・播磨守則延の援けで元親にしたがう三ヶ城を落とし、伊予戸島に居住した。
この時の書状
「二三年之間御弓箭を尽くし、懇意の段、悦喜浅からず候。
わけて干戈を方々に取り鎮められたるを以って、一城を預け置くべき者なり。
 三月八日 康政
  法花津播磨守殿」
そんな時、土佐において元親は康政公の侍・入江左近を近づけ、予州戸島へ入りて康政公をうつべしと言い含めた。
左近はかたじけなくも譜代の家臣でありながら元親に同心し、戸島に入って康政公に言うことには
入江「代々主従の縁を忘れがたくそうらえば、ここまで参り候」
康政公は企みとは思し召さず御喜悦して
康政「うちの侍にもうとみ果てられて、尋ね来るものなきに、入江ばかりは神妙なり」と信じてしまった。
こうして種々の物語をしているうちに夜がふけると
入江「今晩は私が番をいたしましょう」と言ったため、その他の御近習は皆宿所に帰ってしまった。
康政公が枕につき、側には児扈従一人だけとなった頃、入江は近づき康政公に一太刀浴びせた。
しかし夜着が厚く、切れなかった。
康政公は早業を習得していたため、刀を抜こうとしたところ、入江は二の太刀で左腕を打ち落としてしまった。
康政公は太刀を膝の間に挟んで、入江に一太刀入れたところ、入江は妻戸をくぐって浜に出て、船に飛び乗って逃げ延びた。
駆けつけてきた康政公の侍たちが追おうとしたが、他の船のともづなはとうに入江により切られていたため、他の船は全て流れてしまっていた。
こうして入江は難なく逃げ延びた。
そののち、康政公は法花津則延により道後に送られたが、そこで病死してしまったという。

※「大友興廃記」では一条兼定の名前を誤って、文書発給者の源康政の名前にしている。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/22(金) 21:03:48.02 ID:BLpusYEu
※入江が狼に食い殺されたパターン

貝原益軒朝野雑載」より
一条関白房家公の子孫にして、土佐の公方である一条頼房公は、元親の逆心により追い出され、縁続きの豊後の大友義統を頼った。
しかしここでも追い出され、伊予の栗木に要害を構えたところ、一条殿の家臣である入江兵庫太夫というものが頼房の首を斬り、元親に捧げてほうびを得た。
ある夜、兵庫が山路を通っていると、狼が数百出てきて兵庫を食い殺し、白骨さえもなく、刀脇差だけが残った。
そののち長曾我部もだんだんに滅んだということだ。

朝野雑載」には「大友興廃記」から採ったとおぼしき話が色々あるが、この出典は別っぽい。
入江の最後も、前に出た話では元親に斬られたことになっているが、こちらだと狼に食い殺されている。
しかし一条頼房という名前はどこから出たのだろう



「朝野雑載」から八丈島の話

2022年02月27日 12:21

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/26(土) 22:17:47.71 ID:C/KFd0uw
朝野雑載」から八丈島の話

豆州の住人、朝比奈六郎知明という者、軍兵を集め、大船を催し、数年用意して、下田より船を出し、八丈島に着き、島中を従え、
今後より日本伊豆国の内なるべしと定め帰り、北条早雲へ申し、氏直まで五代領知し、日本の内となれり。下田より未申にあたる。
島の風俗、家主は女にて、男は入り婿なり。
女は髪長く、色白く、容艶にして、日本人にさしてかわることなし。
女は多く、男は少なし、女をうめば悦び、男をうめば捨てもののように思う。
知明渡海の頃は永正の初めなり。

おそらく「北条五代記」の記事をまとめたものと思われる。
「北条五代記」ではこのあと板部岡江雪斎の八丈島報告が書かれているが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3820.html
板部岡江雪と「八丈島」
で出ていたのでそちらを参照

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/26(土) 22:21:19.29 ID:C/KFd0uw
ついでに択捉島に立っていたロシアの十字架を倒して「大日本恵土呂府」の標識を立てて日本の領有権を主張した事で有名な、
近藤重蔵の息子である近藤富蔵は殺傷事件を起こし、八丈島に流され「八丈実記」を記しているが、その中の話で「綜嶼噺話」という書物を引用し、
「大津波が起きて妊婦一人だけが助かり、男子を生み、母子が交わって子孫を作った」
という、小松左京「日本沈没」でも言及されていることで有名な「丹那婆伝説」について書いているが、
実は引用元の「綜嶼噺話」には「妊婦は女子を産んだ、これが女護島のゆえんである」と書かれている。
本来は上の話にもあるように、女性中心の神秘的な島の始祖伝説のはずだったのに母子相姦の始祖伝説にされるとは



72 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/26(土) 22:58:28.36 ID:9qpY0v6i
>>70
現時点で史実とされる経緯とは大分相違している。

八丈島は山内上杉の所領だった。
朝比奈は三浦の被官で、山内方或いは扇谷方の奥山という者と共に八丈島の支配に当たっていた。
後に伊勢宗瑞方で下田に拠る御簾という者の強襲を受けて争った結果、敗北して下田に抑留された。
伊勢が対上杉宣戦に踏み切る伏線を成す在地抗争の一つとみられている。

『北條五代記』では論じても詮方無いが…。

二ノ谷は一ノ谷に並び、銕蓋は一ノ谷より上なりという

2022年02月26日 18:58

66 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/26(土) 15:45:14.97 ID:d3tQWrTi
美濃菩提の城主竹中半兵衛重治が一ノ谷、明智左馬助秀俊が二ノ谷、柴田伊賀守勝豊が銕蓋が峯、
この三冑、二ノ谷は一ノ谷に並び、銕蓋は一ノ谷より上なりという心をもって名付けたり。
矢田作十郎が鯉ノ冑、浦野若狭守が小水牛、黒田筑前守長政の大水牛、日根織部正が唐冠、
原隠岐守が十王、福島正則の四股鹿角、本田中書の忠信が冑、蒲生氏郷の鯰尾、伏見久内がワリ蛤、
細川三斎の山鳥、武田信玄の諏訪法性、秀吉公の八日ノ月、加藤清正の長烏帽子、藤堂新七郎が帽子、
秀忠公の角頭巾、各名ある?なり。
志士清談

志士清談からの引用が多いようなので、その投稿者さんとは別の者ですが同じく志士清談から。

志士清談』は岡山藩士南条正修(1655-1724)の作で、蝦夷地探検で有名な近藤重蔵(1771-1829)が刊行本に寄せた
序文によれば、岡山藩の儒学者熊沢淡庵(1629-1691)が、同藩の吉田源之丞家の文書を整理したものが『武将感状記』で、
その残余を編集したものがこれであるという。


しかしながらほぼ同じものが過去まとめにあります。

総じて名物の兜というものは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11825.html

こちらの引用先『安斉随筆』は伊勢貞丈(1718-1784)の著作。これは貞丈が冒頭で『武隠叢話』の引用と書いてますね。

過去ログにも解説されていましたが、『武隠叢話(武辺話聞書)』は、会津陣物語(杉原彦左衛門物語)、近世軍記などのタイトルと共に、
それぞれ延宝8年(1680)上杉景勝ファンを自称する近江大津の国枝清軒が諸文献をまとめたものであります。


元ネタが何処にあったか、どう書写されていったか、いろいろ考えてみると楽しいかもしれません。

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/26(土) 16:59:07.48 ID:d3tQWrTi
>>66
末尾の文字化けは「務」の下に「金」で読みはボウです。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/26(土) 15:48:23.18 ID:d3tQWrTi
挟箱は明智日向守光秀が製に初れり、昔は竹に挟て持たせけるによって、挟箱の名に負けるとなん
志士清談


69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/26(土) 21:06:14.15 ID:C/KFd0uw
貝原益軒朝野雑載」だとこんな感じ

秀忠公ご所望にて、細川越中守忠興より御召しの御胄差し上らる。
角頭巾の角屹と立たる形なり。その御胄を土井大炊頭利勝披露ありしに、秀忠公御意に叶い、御感ななめならず。
すなわち越中守を御前に召され、御懇意の御会遇なり。
御胄の忍の緒に、ねりくりの打緒を附けたるをよく見給いて
「忍の緒は麻布のくけひもがよきと聞き及びたり。此打緒がよきか」と御不審有しに、
越中守大炊頭に向いて、「打緒を付置候は御祝儀にて御座候。是は御肌に付候物故、別に仕置候」とて、
麻の忍の緒を入たる桐の匣を懐中より取出して差し上られければ、秀忠公いよいよ御機嫌克ち、「越中守心遣い満足なり」と仰せらる。
此御冑を大阪御陣にも召されけるとなり。
是より先、関ヶ原御陣の時、御先手より細川忠興ただ一騎御旗本へ参られけるが、山鳥の尾の冑に、銀の天衝の差物なり。是を遠見するに、さながら舞鶴の如し。
家康公御覧なされ「忠興武具のこのみ勝れて見事なり。なかんずく冑と立物の取合よし」と仰られしが、其後銀の天衝の差物は家康公御所望なされ、秀忠公へ進ぜられしとなり。

摂州一の谷二の谷は、ならびてそびえけるが、一の谷の絶頂を鐵蓋が峯というなり。
竹中半兵衛重次が胄は一の谷という。
明智左馬介が胄は、かの一の谷の胄に推ならびたる名物なりとて、二の谷という。
柴田伊賀守勝豊が胄は、一の谷より上なりとて、鐵蓋が峯という。
およそ世に名高き冑は武田信玄の諏訪法性、秀吉公の八日の月、加藤清正の長烏帽子、浦野若狭守が水牛、日根野織部が唐冠、原隠岐守が十王頭、休木久内が破蛤、
竹中半兵衛が一の谷、明智左馬介が二の谷、柴田伊賀守が鐵蓋が峯、矢田作十郎が鯉の冑、藤堂新七が帽子、蒲生氏郷の鯰尾、福島正則の鹿の四股角、本多忠勝の忠信が冑、黒田長政の大水牛、細川忠興の山鳥、秀忠公の角頭巾の御胄、
これらはみな世に隠れなき重器なり。



73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/27(日) 21:47:00.75 ID:4i6LJsXj
>>66
ついでにそれぞれの逸話

黒田筑前守長政の大水牛
竹中半兵衛の一の谷(福島正則に贈られた)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1543.html

日根織部正が唐冠
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3358.html

本田中書の忠信が冑
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1989.html

蒲生氏郷の鯰尾
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11462.html

武田信玄の諏訪法性
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1162.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11578.html
秀忠公の角頭巾
>>69