391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/01(日) 11:19:45.27 ID:+TBKw16C
薩摩の島津に対し秀吉公が上洛を命じた所、それを拒否したとのことで島津征伐となり(九州の役)、
毛利家にその御先手を頼まれ、検使として黒田官兵衛が差し下された。
先ず吉川元春、小早川隆景が九州に渡海し、翌日毛利輝元公が渡海され小倉城に入られた。
宇留津の城には賀久孫兵衛という者が入っていたが、彼の親類である東堂(引退した禅宗の住職)を
通して、降伏して城を明け渡すよう説得したが、孫兵衛は
「親である宇留津専慶が薩摩方であり、現在香原岡に居るのを捨てることが出来ない。
御公儀に対し奉り御敵仕るのは九牛の一毛(比較に成らないほど小さい)ではありますが、
攻めかかって来ればこれを引き受け、戦った上で切腹仕りましょう。」
そのように降伏を拒絶したため、暮方より城への攻撃が始まった。双方に手負い、死者が多く出た。
この時、城の尾首の高見にあった黒田官兵衛は、攻め口より自分の指物を城の中に投げ入れた。
敵方はこれを取ると、(分捕品という事か)城内にて振り回した。
ところが寄せ手の諸人はこれを見て「はやくも官兵衛は城に乗り込んだか!」と思い、
これに負けじと惣陣より一度に城に乗り込んだ。これは未明より取り掛かり、その日の七つ過ぎ
(午前四時頃)に落城した。城主の孫兵衛を始めとして城方は討ち果たされた。
(老翁物語)
官兵衛さんもやっていた旗指し物案件。
薩摩の島津に対し秀吉公が上洛を命じた所、それを拒否したとのことで島津征伐となり(九州の役)、
毛利家にその御先手を頼まれ、検使として黒田官兵衛が差し下された。
先ず吉川元春、小早川隆景が九州に渡海し、翌日毛利輝元公が渡海され小倉城に入られた。
宇留津の城には賀久孫兵衛という者が入っていたが、彼の親類である東堂(引退した禅宗の住職)を
通して、降伏して城を明け渡すよう説得したが、孫兵衛は
「親である宇留津専慶が薩摩方であり、現在香原岡に居るのを捨てることが出来ない。
御公儀に対し奉り御敵仕るのは九牛の一毛(比較に成らないほど小さい)ではありますが、
攻めかかって来ればこれを引き受け、戦った上で切腹仕りましょう。」
そのように降伏を拒絶したため、暮方より城への攻撃が始まった。双方に手負い、死者が多く出た。
この時、城の尾首の高見にあった黒田官兵衛は、攻め口より自分の指物を城の中に投げ入れた。
敵方はこれを取ると、(分捕品という事か)城内にて振り回した。
ところが寄せ手の諸人はこれを見て「はやくも官兵衛は城に乗り込んだか!」と思い、
これに負けじと惣陣より一度に城に乗り込んだ。これは未明より取り掛かり、その日の七つ過ぎ
(午前四時頃)に落城した。城主の孫兵衛を始めとして城方は討ち果たされた。
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官兵衛さんもやっていた旗指し物案件。
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