657 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/04/09(木) 22:54:13.33 ID:rq4UcmKN
上月城は西播磨の端にある城で、美作・備前・因幡の国境にある要衝であった。
1557年に赤松晴政の兄である政元が入城した。
彼は「西播磨殿」と呼ばれ、周辺勢力から攻められても負けることはなかった。
宇喜多直家に敗れるまで………。
ちなみに直家の三顧の礼を拒否して直家単身の訪問でやっと毛利方に従属した。
さて、そんな話はどうでもいいので今回の本題に移る。
上月城を政元の次男・政範が家督を継いだ。
彼も父同様「西播磨殿」と呼ばれて武勇優れた武将であった。
政範の代になると佐用・赤穂・揖東・揖西・宍粟の5郡約15万石を領する勢力になっていた。
1577年10月、あの羽柴秀吉が黒田官兵衛を引き連れて播磨に登場!
中央播磨~東播磨に位置する赤松則房や別所長治らが従う。
翌11月には上月城にも織田家に従うよう通達が届いた。
そのころ上月城では評定が行われていたがなかなか意見がまとまらなかった。
織田方家臣「織田家には勢いがある。魅力もあるし我らも付くべし!」
毛利方家臣「いやいや、毛利は我らが降伏しても事実上領土を安堵してくれた。その御恩に背いていいのか?」
赤松政範「(今最も勢いがあり京を掌握している織田にしようか………、義を貫いて毛利にしようか………)」
政範が優柔不断であったせいでなかなか答えが出なかった。
なかなか答えを出さない政範に秀吉は攻め込むことを決意し、3万の兵で攻め込むことにした。
ここに至り、政範も秀吉と戦うことを決意し、宇喜多に援軍を要請した。
赤松軍本隊7千(赤松方の全城の城兵を含む)+宇喜多家援軍3千VS羽柴秀吉3万の戦いが始まった。
秀吉軍の各個撃破により赤松軍は不利となり、上月城を包囲された。
(尚、途中の戦いで堀尾吉晴が援軍の宇喜多軍により深手の傷を負い、宮田光次はこの戦いで戦死したという。)
いよいよ落城の日が近づいた時、政範は内応者により追い込まれて先に妻を刺殺し自害して果てた。
自害するとき政範は「わしの首を持って降伏せよ。」と言った。
政範の首を持って降伏した兵たちであったが、秀吉はこれを拒否し、黒田官兵衛らに命じて総攻撃して落とした。
(政範が降伏したが、秀吉がこれを拒否したという記述もある。)
政範に殉じた武将は高島正澄(叔父)、早瀬正義(義祐の弟?)、宇喜多広維(政範の妹婿)、国府寺入道、中村伊勢入道らであった。
また、政範の弟・政直と政茂は討死、または自害。
一門の戦死者では正澄(兄・正満の子で甥にあたる)、高島正友(正澄の子)、川島頼村・頼春父子と頼村の弟・義行(頼村・義行兄弟の兄は赤松政秀)らである。
落城後の上月城ではご存知の通り、秀吉軍は上月城内にいた残兵の首を皆刎ねて、子供は串刺しにし、女は磔にしたという。
上月城にいた残兵女子供は皆殺しとされているが、政範の弟という政之は落城の前に兄の子達を密かに引き連れて脱出したという。
なんというか色々と悪い話。
(一部播州佐用軍記より)
上月城は西播磨の端にある城で、美作・備前・因幡の国境にある要衝であった。
1557年に赤松晴政の兄である政元が入城した。
彼は「西播磨殿」と呼ばれ、周辺勢力から攻められても負けることはなかった。
宇喜多直家に敗れるまで………。
ちなみに直家の三顧の礼を拒否して直家単身の訪問でやっと毛利方に従属した。
さて、そんな話はどうでもいいので今回の本題に移る。
上月城を政元の次男・政範が家督を継いだ。
彼も父同様「西播磨殿」と呼ばれて武勇優れた武将であった。
政範の代になると佐用・赤穂・揖東・揖西・宍粟の5郡約15万石を領する勢力になっていた。
1577年10月、あの羽柴秀吉が黒田官兵衛を引き連れて播磨に登場!
中央播磨~東播磨に位置する赤松則房や別所長治らが従う。
翌11月には上月城にも織田家に従うよう通達が届いた。
そのころ上月城では評定が行われていたがなかなか意見がまとまらなかった。
織田方家臣「織田家には勢いがある。魅力もあるし我らも付くべし!」
毛利方家臣「いやいや、毛利は我らが降伏しても事実上領土を安堵してくれた。その御恩に背いていいのか?」
赤松政範「(今最も勢いがあり京を掌握している織田にしようか………、義を貫いて毛利にしようか………)」
政範が優柔不断であったせいでなかなか答えが出なかった。
なかなか答えを出さない政範に秀吉は攻め込むことを決意し、3万の兵で攻め込むことにした。
ここに至り、政範も秀吉と戦うことを決意し、宇喜多に援軍を要請した。
赤松軍本隊7千(赤松方の全城の城兵を含む)+宇喜多家援軍3千VS羽柴秀吉3万の戦いが始まった。
秀吉軍の各個撃破により赤松軍は不利となり、上月城を包囲された。
(尚、途中の戦いで堀尾吉晴が援軍の宇喜多軍により深手の傷を負い、宮田光次はこの戦いで戦死したという。)
いよいよ落城の日が近づいた時、政範は内応者により追い込まれて先に妻を刺殺し自害して果てた。
自害するとき政範は「わしの首を持って降伏せよ。」と言った。
政範の首を持って降伏した兵たちであったが、秀吉はこれを拒否し、黒田官兵衛らに命じて総攻撃して落とした。
(政範が降伏したが、秀吉がこれを拒否したという記述もある。)
政範に殉じた武将は高島正澄(叔父)、早瀬正義(義祐の弟?)、宇喜多広維(政範の妹婿)、国府寺入道、中村伊勢入道らであった。
また、政範の弟・政直と政茂は討死、または自害。
一門の戦死者では正澄(兄・正満の子で甥にあたる)、高島正友(正澄の子)、川島頼村・頼春父子と頼村の弟・義行(頼村・義行兄弟の兄は赤松政秀)らである。
落城後の上月城ではご存知の通り、秀吉軍は上月城内にいた残兵の首を皆刎ねて、子供は串刺しにし、女は磔にしたという。
上月城にいた残兵女子供は皆殺しとされているが、政範の弟という政之は落城の前に兄の子達を密かに引き連れて脱出したという。
なんというか色々と悪い話。
(一部播州佐用軍記より)
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