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赤松家の再興と赤松政則について

2020年04月04日 16:14

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 21:08:28.14 ID:ZqTGg4x8
赤松兵部少輔政則は、赤松則祐律師五世の孫である。則祐の長男が義則、義則の長男が左京大夫満祐入道性具である。
満祐は播備美の三州を領した、赤松一族の棟梁であった。然るに嘉吉年中に満祐は逆心を企て、将軍足利義教公を
弑し奉った。この大罪に依って満祐はその子教佑と共に誅せられ、満祐の領国は、播州を山名右衛門督持豊に賜り、
美作を山名教清に、備前を山名教之に賜った。これらは、満祐の誅伐に軍忠有るを以ての事であった。
ここに於いて、山名一族が三州を領し、赤松家は断絶に及んだ。

然るに長禄二年、赤松が郎従の石見某という者、朝廷に愁訴して赤松家の絶えたる事を嘆き、

「南帝を弑し奉って三種の神器を内裏に入れ奉るべし。この事成るに於いては赤松家を再興し奉るべきや」

と云えると、これを朝廷で詮議あり、また武家(将軍)へも叡慮の趣きを達せられ、石見の訴望に
勅許があった。

石見は喜び、間島何某という旧友と語らい、南朝へ忍び入って、南帝を弑し、三種の神宝を取って帰った。
吉野の郷民は頻りに彼を追いかけたが、石見は終に免れて、三種の神器を禁裏に捧げた。
これに於いて。赤松次郎政則、当時五歳であったのを召し出されて。加賀国を賜り一家を再興した。(長禄の変)

政則の父は義雅と言って、満祐の弟である(私に云う、政則は義雅の孫である。義雅の子が性在(赤松時勝)と云い、
その子が政則である)

応仁元年二月、細川勝元は将軍義政公へ推挙し、赤松政則に播磨備前を還し賜って、政則は播州へ赴いた。
播州、備前は赤松の本国であったので、早速に両国を打ち従え、帰洛して勝元に力を合わせた。
これは細川山名の合戦(応仁の乱)の最中であった。

明応五年二月、政則は従三位に叙任された。同四月に政則は病死。享年四十二歳であった。
南帝を弑し、神璽を取った功によって、三品に叙せられたのだと云われた。

備前文明亂記

赤松家の再興と赤松政則について。




880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 22:12:42.35 ID:x/RUxsoF
赤松家の浮き沈みはドラマチックだよな

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/04(土) 02:22:50.86 ID:5pXVBIfz
性具ってすごい名前だな

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/04(土) 23:52:04.55 ID:IKQ5srZX
親父さんも息子も戒名に性の字を使ってるから、たまたまじゃない?
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老人雑話より短い記述を抜粋

2019年04月09日 23:02

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 18:11:56.73 ID:6Y5P9yS6
・遊行上人の始祖を一遍上人という。隆蘭渓に法を開き、歌学に優れた。これ故に今に至ってもその法流の者
 は連歌をする。昔ある人が一遍上人を嘲って曰く、「躍り念仏をするのは仏の踊躍歓喜という意味であろう。
 しかしながら、これだけで成仏とは訝しい」と言う。上人は和歌で答えて曰く、「はねばはね躍らば躍れ春
 駒の 法の道にははやきばかりぞ」。これらの事を書いた書一巻があるという。

・多武峯について。鎌足が入鹿を討たんと欲した時、帝とこの山に入って談合した。これ故にこの峯を“談山”
 という。鎌足を祭って“談山権現”という。“談”と“多武”は音が近く、また入鹿を討って武功多しとい
 う意味で、“多武峯”という。

・得長寿院は今の三十三間堂にあらず。鳥羽院の御造営なので昔は鳥羽にあったのであろうか。蓮華王院は後
 白河院の御造営で、新千体仏を安置している。これが今の三十三間堂なり。『増鑑』『拾芥抄』の記述から
 も明らかである。大仏の寺号は“方広寺”なり。

・“赤松乱”というのは普光院殿(足利義教)を弑逆した時のことなり。初め山名と赤松は並んで普光院殿に
 出仕した。ある時、庭前に枯れた松があったのを山名が見て曰く「あの赤松を斬って捨て申さん」と公方の
 前で言った。赤松はさしも歌学に達した口利者なので「山なをか」と言った。山名にあててなり。これより
 ますます仲悪しく、ついに普光院殿を弑逆す。この赤松は円心の三男・律師則祐の子孫なり。満祐という。
 この事の首尾はつぶさに書に見えず、人の物語で言い伝えているものである。

・“美濃三人衆”という隠れ無き武勇の名ある者あり。信長の家臣である。1人は稲葉一徹(原注:今の能登
 守5代の先祖。右京の父なり)。1人は氏家卜全(原注:これは大垣にいる)。1人は伊賀伊賀守(安藤守
 就)なり。

・長尾謙信(上杉謙信)が「信玄を滅ぼさん。談合せん」と、紙子1つ小脇差1腰で山越えし、越前の朝倉の
 もとへ行くことがあったという。

・東照宮(徳川家康)は太閤に馬を繋ぎ給う。後に関八州を与えたといえども、実は6ヶ国なり。常陸を佐竹
 に与えたのである。

・太閤が東照宮を関東に封じて後、甲斐を信義不二の北条遠江(加藤光泰)に与えた。高麗より遠江が病死し
 たと注進があると、即日に浅野弾正(長政)に与えた。甲斐は関東の押さえ第一の要地なり。

・土佐は蓮池氏の人が昔より領して近代までその子孫あり。先祖は頼朝の弟の土佐冠者希義を殺して、土佐を
 取った者である。近世は長宗我部元親が討ち滅ぼして、土佐を領した。

・伊予は河野という者が領す。義経を伊予守に任ぜられた時、誅伐されることがあった。義経一代の不覚なり。
 その子孫は信長の時までいた。

・庄林隼人(一心。加藤清正の家臣)が鉄砲で頭悩(頭脳?)を撃ち抜かれたのは伊勢の嶺城を攻めた時(1
 583年)なり。

・公方の恵林院殿(足利義稙。足利義勝の誤り)は馬を乗りならそうとし、落馬して逝去した。少年の時なり。

・雪踏みはもとからあって、革を加えることは利休からと言い伝える。

・対馬から高麗へは48里の渡りを経て釜山海に到着する。そこは下官の者がいる。倭館というところがあり、
 日本人がそこにいる。釜山海から朝鮮の都に至るまでは20日程。その間に東莱というところあり。そこは
 上官の者がいる。

・惺窩翁(藤原惺窩)に儒道の事を少し聞いた人は、細川越中守(忠興)・浅野采女正(長重)・曽我丹波・
 小畑孫一・城和泉守(昌茂)などである。

・吉田素庵(角倉素庵。了以の子)のところにあった『文章達徳綱領』10巻を、戸田以春という者が借りて、
 「失った」と言ってついに返さなかった。今その10巻は失われた。

・神馬弾正左衛門は太閤の時分の播磨辺りの大名なり。

――『老人雑話』

老人雑話より短い記述を抜粋



781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 19:17:44.29 ID:o+3zPBBS
>>780
ほんとに雑話だな、幅広い

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 20:42:57.04 ID:Z/Q1MrlW
>>780
戸田以春は借りた本を質にでも出したん?

784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/09(火) 20:48:30.42 ID:CuJn7q/Y
こういう戦国ネタ好き
https://www.losershogiblog.net/entry/2019/03/30/131700

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 21:12:02.12 ID:sUxxlZm4
>>780
頭を撃ち抜かれても庄林はなんともなかったのか

786 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/10(水) 04:02:50.68 ID:5BCBSUsy
>>785
1583年に頭打ち抜かれて1631年に死んでるから不死身の肉体を手に入れたんじゃね?
口癖はWRYYYYとか貧弱貧弱ゥー!だったとか

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 20:23:36.03 ID:xGZ5zBzt
>>780
なお一遍上人も河野氏の模様
戦国期にも活躍した河野水軍と関わりなくもないから書くと

空海が四国を回ってる時に伊予国の衛門三郎という豪族にお布施を願ったところ
「こじき坊主にはやらん!」と托鉢の鉢を八つに割られ、
その後衛門三郎の子供8人全員が死亡したことからあの御坊さまの祟りに違いない!
と四国中を追いかけた結果、反時計回りに四国を回ると、時計回りに回っていた空海に出会い、罪の赦しを願った。
空海が「お前の罪は赦された。願いをいえ」と言ったところ
衛門三郎が伊予国の豪族に生まれたい、と言いそのまま死亡。
翌年、伊予国の領主河野息利の家に男児が手を握ったまま生まれ、その赤ん坊の手を開いてみると「衛門三郎」という文字を書いた石がでてきた。
この衛門三郎の転生した男児、長じて7代目の河野息方から降って23代目が屋島や壇ノ浦などで活躍した河野通信であり、その孫が一遍上人という
四国出身の高僧二人に因縁があったとする四国遍路始まりのありがたくないお話
(踊り念仏が一遍上人の故郷の伊予で巡礼していたのを、讃岐出身の空海が修行した阿波と土佐にも拡大したのが四国遍路の始まりのようで
高僧二人に深い因縁が必要ということでくっつけられた)

なお伊予大三島の大山祇神社は河野氏の祖先神を祀っており、河野水軍の拠点でもあったことから八十八箇所の55番目は本来この大山祇神社であったが、
島に渡らなきゃいけないということで四国の今治に南光坊という別当ができて今ではそこがお遍路のコースとなっているという、
四国遍路の創始者の一人、一遍上人の出身河野氏としては残念なお話


ご存知ですか。町人どもは将軍義教を殺した赤松満祐を

2010年09月03日 00:01

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/01(水) 23:54:14 ID:6/ABmZ/y
小山田信茂が馬場信房にこう言った。
「ご存知ですか。町人どもは将軍義教を殺した赤松満祐
三百人力なんて言ってもてはやしたそうです。
アホですよね、手柄を立てる奴は怪力だと思ってるんですよ。」

これに馬場は答えた。
「逆もまたしかりではないだろうか。
町人どもは侍が商売についてあれこれ言うのを馬鹿にしていることだろう。
自分がよく知らないことをどうこう言えば、誰とてそうなる。」




833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/01(水) 23:58:49 ID:qbf46KH+
小人で有名だった赤松さんね