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船岡山合戦

2018年03月10日 18:47

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/10(土) 05:34:38.36 ID:3d2Fy6J6
このために澄元(細川澄元)よりもなおさら三好筑前守之長は無念に思い、都への望みをなさった。

さて、永正8年(1511)辛未7月に、澄元は武略を巡らせて赤松殿(赤松義村)を御頼みになり、
播磨勢を催しなさった。先軍の大将には、御一門の右馬頭政賢、同和泉守護殿(細川元常)、他にも
山中遠江守(為俊)や諸牢人を御立てになった。

また畠山上総介(義英)より遊佐河内守(順盛)などが立てられた。こうしてまず和泉国へ切り入り
なさった。この由を高国(細川高国)は聞こし召され、「追討せよ!」と摂津国勢を差し下された。
さて、澄元方の諸勢は和泉深井に陣を取り、高国方の諸勢は同万代庄というところに陣取り、同7月
13日に深井へ押し寄せて合戦となった。(深井の合戦)

京の高国方は1万余騎、阿波方は城中には無勢で籠の中の鳥であったという。漏れ出ることができる
様子ではないので、阿波方は思い切り面も振らずに高国方へ切り掛かった。高国方の衆は切り負けて
大将格は皆々討死し、雑兵以下3百余人が死んでしまった。残る勢は和泉堺へようやく逃げ入った。

こうして、その日に澄元方は欠郡中島まで切り上った。このため、淡路守殿(細川尚春)は摂津国
兵庫口へ渡り、灘へ上りなさった。ここに高国方の兵・河原林対馬守正頼(瓦林正頼)は摂津芦屋庄
の上鷹尾城に立て籠った。淡路守殿は「この城を攻めるべし!」と、灘深井というところに陣取り

なさった。この由を正頼より京の高国へ注進申し、高国は聞こし召して今度は馬廻の柳本又次郎入道
宗雄、子息の波多野孫右衛門、能勢因幡守(頼則)、荒木大蔵らをはじめとして30余頭を差し下し
なされた。この人々は思い切って、同7月26日に芦屋河原で合戦となる。(芦屋河原の合戦)

また鷹尾より河原林の手勢を合わせて戦ったところ、京の高国方は打ち勝って、淡路衆の首を百余り
討ち取り、京勢はすなわち明くる27日に上洛してこの由を申し上げられると、高国は聞こし召して、
たいへんな御感であった。このため、播磨衆はこの合戦のことを聞き思案に及びなさったが、

一度約束した上のことなので8月の初め頃に播磨国を立ち、同8月9日に鷹尾城を取り巻き、険しい
谷とも高い岸ともいわずに攻めなさった。そのため城内でもここを先途と戦ったのでその日は暮れて
攻め手も麓へ退いた。しかしながら、正頼は「城の中でこの分では叶わない」と思い、

同10日の夜半に城を開けてしまった。播磨勢は喜んですぐに伊丹城へ取り掛かった。そのため河内
からと播磨からの二手になって京へ切り上ったため、叶わないと思ったのか、

8月16日に公方様(足利義稙)と高国、大内左京大夫殿(義興)は都を他所に見なしつつ、丹波国
へ落ち行きなさった。その後、御談合されてやがて丹波より切り上りなさり、同8月24日、船岡山
で合戦となる。(船岡山合戦)

阿波澄元方は切り負けて大将の典厩政賢、畠山方の遊佐河内守が討死し、この他の人々も1千余人
が討死した。すなわち諸陣が破れたため、御所様(義稙)、高国、大内殿は悦の眉を開き、都へ
入りなさった。播磨勢は播磨伊丹城を攻め戦ったが“一陣破れて残党全からず”という本文の如く、

船岡山合戦のことを聞き同26日に生瀬口へ落ちて行った。此度の合戦において大内方の太刀打ちの
有様を褒めない人はいなかった。

――『細川両家記』


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この自慢の赤松家

2018年01月18日 17:26

485 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/17(水) 23:56:55.25 ID:NgrWvH92
信長の野望シリーズで唯一、永正の錯乱や船岡山の合戦を扱っている蒼天録PKには「自家自慢」というコマンドが存在した。(何分古いことなので効果等は覚えていない。)

この作品にも登場している赤松義村は、盛大な自家自慢を後世の我々にも仕掛けてきている。
彼は自著『秘事枕』に次のように記しているのだ。


「天盃を賜るということは一大事であるが、当家の政則はいただかれた。
また、塗り込めの輿を許され、幼稚のころから乗っておられた。京都屋敷も重厚な造りである。

さらに禁中より「雲井の松」を頂戴し、公方より「御所桜」を下されている。
「雲井の松」とは五階の松で相生になっており、高さ3尺5寸ほどのものである。薬師寺次郎左衛門という者に守られ、おしほ(置塩)屋形に移された。
「御所桜」は高さ4尺で、橋本源之允が警備した。
それらの木は前払いの雑色左右10人ずつ、素袍左右5人ずつ、刀帯左右5人ずつ、跡備一行立、弓10挺、矢固め2荷、長鑓10筋、左右刀帯5人ずつ、長刀、両鑓2人共馬上にて美々しく下ってきたそうで、「雲上拝受雲井松、御所拝領桜樹」という札を立てた。

他にも内室を御方と称し、国名の使用、鳳桐の御紋の使用を御免下され、屋敷を屋形というなど、当家の規模はとても測れるようなものではない。
政則の三品(三位)叙位ももったいないことである。幼稚の頃には規模など無に等しかったというのに。」

この自慢の赤松家と自分の身が、後々ああいうことになろうとは・・・。



486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/18(木) 23:41:03.49 ID:XxdQT9o1
赤松って嘉吉の変で取り潰されてるよね
この松と桜はなんで貰えたの?
三種の神器を取り戻したからかな

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 01:35:32.10 ID:szW9i48Q
>>486
嘉吉の乱の後、再興した政則の代でいろいろ賜った、って話なんだから、そうじゃね?

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 08:34:43.54 ID:Jl20+8tX
赤松氏もその後に復興して応仁の乱にも絡んでいるのよ

復興のくだりは「後南朝」「禁闕の変」「長禄の変」で検索すれば

赤松家の女性たち

2013年08月02日 19:50

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 09:08:41.64 ID:aP8Lb7CL
赤松義村の著作『秘事枕』には戦国初期、政則~義村の頃の赤松家の女性たちについて詳しく書かれた箇所がある。
大名自らこういう記録を残してくれたのは後世の者にとっていい話ということで、整理して書いてみようと思う。

○まずは女性たちの身分と名前について。

一、当家の当時の女は、
そばめ(妾也):身馴、色香

膝本(妾):八重

奥:滝野 

家見:小梁

中居:七、梶本、貝、糸竹、松(半下)、山路、小雪、小重、才、小糸、岩

まゝたゝき:田巻(上方)、若江(同)、もミぢ(次方)、柳(同)、坂本女、杉、松、塩、吉

筆取:井筒(中居)、縁(上)

下女:藤、梅、玉、なべ。以上。

○外出する時は
一、傍女、妾、ひざもと(膝本)ハのりもの。

一、奥、家見、次(の)のりもの。中居以下歩行。
中居ハぼうし、その上「奥かミ」麻かつぎ、ひざもとより上ハ衣かつぎ(の使用を許されていた)。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 09:10:56.40 ID:aP8Lb7CL
○次に、身分別のファッションについて。
一、政則の時より、
・傍女には、ひたい櫛、根櫛(べつがう<鼈甲>)ぞうげ)、銀まきゑ。髪は片曲結。
下に白むくりんず<綸子>、上に紫かのこ<鹿の子>上ほりに、ぬいちらし小袖。
帯ハぬいの帯、織紋帯にうしろ帯。
銀のかんざし、帯は五尺さがり、三重りんず、手おゝひ、白きぬたび、しゅすさげ帯(是ハ節日)
夏ハすゞしの織。色は右に同じ。

・妾女は、ぞうげ根櫛、つげの添櫛、髪は片曲。
下に白むく、上に紫かのこ上ほりに、しゅす<繻子>小袖、
帯は織紋うしろ帯、
帯は五尺さがり、二重白衣、手おゝひ、白たび、染衣、さげ帯。

・奥かミは、ぞうげ根櫛、髪は片曲。
下に白むく、上にしゅす、りんず、色小袖、上ほりしゅす。
帯はちりめん、りんず。
右袖下三尺さがり、二重さげ帯なし。白衣、手おゝひ、白たび。
夏は右に準ず。以上。

・節日の中居は、兵庫わけかミ<髪>、
染小袖、下に白むく。さげ帯ならず。前おび、櫛は根ぐし計、ぞうげ又ハつげ、
手おゝひ、たび、ならず。

・そばめは、高雄、吉野のるい。

・妾は、右に同じ。或ハ巻絹、小琴。

・奥かミは、小梶るいなど。

・中居は、七、梁、梶のるい。

・以下は、若な、もみぢのるい。

一、内室は、根櫛:ぞうげ、金まきゑ。ひたい櫛:べつかう、金まきゑ。
下にりんず、或ハしゅす。上に紅紫、ぬひちらし、上ほり金入織紋。
髪はさげ髪。金のかんざし、
金織紋、おび三重五尺、うしろ帯、しゅちんのさげ帯。
白りんずたび、織赤紋、ておゝい、色のふく面。
節日、夏も右に準ず。
そばめ、妾女、ふく面はまれ也。名は国名又は何の御方。
当時、身馴ばかり白衣ふくめん。

(秘事枕(播陽万宝知恵袋に収録))





817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 23:39:37.14 ID:FGrSjeTP
赤松家はさすがに豪華だな


戦国の秘法

2013年07月23日 19:52

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 20:19:01.83 ID:2aZxhEOM
播磨・備前・美作の太守、赤松義村の著作に『秘事枕』がある。

「この一巻は、とし頃心にかけて、要用の事ども秘書の中より撰、又智ある人にたづねもとめ、家の宝と記し置侍るもの也。」
として、文学や和歌の解釈や、しきたりの解説など、有職故実の秘伝を著したものである。

中には当時の赤松家の格式や、家中の女たちの名と身分別の服飾について詳しく述べている部分もある
貴重な資料でもあるが、それだけではない。
日々の生活の中で役に立つ(かもしれない)秘術も、いくつか書き残してくれているのだ。

以下に書き出してみよう。

一、おもふ人を恋しくバ、あまがいる(雨蛙)に名を書て、其おもふ人の戸の口に入るべし、必出来るぞ。

一、ぬす人の呪い(まじない)にハ猋符をかく。
(猋=ひょう(犬という字を3つ書く)。犬が群れになって駆けるさま。転じて「つむじ風」)

一、おもふ女恋敷バ、あり原と書、狐のほこらへ入る。

一、犬きびしくおそひなば、五ツのゆびの内四ツのゆびを、未申酉戌と四本の指をしかとおさへ、戌にむくべし、退くべし。

あの魔法使いの甥(ただし養子)が伝える戦国の秘法、試してみてはいかがかな?





赤松家、そして大物崩れの事

2013年04月03日 19:50

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 15:38:49.79 ID:vI2wcPwD
播磨の赤松殿の事を、蓬庵様(蜂須賀家政)が安太夫にお尋ねになり、私が参って物語をした。

その内容は、性因様(赤松義村)はその身長が3尺(約1メートル)ほどだったが、
ご器量のある方で備前播磨美作3ヶ国の国主の座を守っておられた。

ところが備前の浦上(村宗)と、性雲様(義村の養父・赤松政則)の北の方(洞松院)が
仲良くなられ、義村様に毒を盛り、相果てられた。

これにより浦上は、その御後に赤松晴政様が立てられた。この時晴政様はご幼少であったので、
その経緯を全くご存じなかった。
晴政様が16歳になられた時、小姓衆が密かに囁き申し上げたため、初めて自分が擁立された経緯を
知ったのである。

晴政様は阿波の御屋形様(細川持隆か)の婿であったため、阿波との間に浦上を殺す密謀を
交わした。

そのうちに、阿波と播磨の間に合戦が起き、播磨衆は摂津国天王寺に陣取り、阿波衆は堺に陣取った。
(享禄4年(1531年)大物崩れの戦い)
この時、晴政様は兵庫の高山で寝返りの合図の狼煙を上げられ、この寝返りにより
天王寺の播磨衆は崩れ、大物と西宮の横河にて水に溺れ、1万人が死んだ。

このように安太夫に申し上げた。

この合戦について阿波では、『溺れ死んだ戦死者は皆蟹になった、その蟹の甲羅は
人の顔のようであった』と言われた。
これは歌念仏に作られ、その念仏の名は「しまむら念仏」と呼ばれた。

このことを覚えていた人が慶長の年号の頃まで存命であり、語られていたのである。
(三好記)

三好記より、大物崩れについての証言である




144 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/03(水) 17:14:46.53 ID:ziJWCEde
平家以外にもカニになった人たちがいたのか。

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 17:21:43.04 ID:wE8I+kH0
>>143
   (~)
 γ´⌒`ヽ
  {i:i:i:i:i:i:i:i:}
 ( ´・ω・)  観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄
  (:::::::::::::)  舎利子 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色
   し─J

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 18:13:20.26 ID:/eUye+tw
>>143
蟹になったのが、宇喜多能家を夜討した島村豊後守の父と言われてるんですね。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 21:54:30.76 ID:47EmYUcI
蟹食い放題だな。
てか、西宮の川ってどこだろう?
武庫川かな?

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 12:37:25.40 ID:5fI42eIS
>>143
>性因様(赤松義村)はその身長が3尺(約1メートル)ほどだったが、
まだ子供という意味かと思ったら推定没年30歳前後だった
ちっちゃいおっさんで有名な山県昌景より更に一尺短いって最早妖精かなんかじゃないのかw

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 17:28:37.38 ID:bc5BS2dc
>>154
三尺入道、赤松義則も満祐もちっちゃかったし
赤松一族はコロポックルの親戚と考えるのが妥当

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 17:56:30.79 ID:SY64RZc2
>>156
http://en.wikipedia.org/wiki/Ovitz_family

室町幕府第12代将軍足利義晴誕生

2012年02月19日 21:50

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 17:22:03.32 ID:ab8T0jwT
室町幕府第12代将軍足利義晴誕生


赤松家落日の時(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5907.html)の後の話。
浦上村宗によって全てを奪われたかに見えた赤松義村であったが、彼はまだ復権を諦めたわけではなかった。
義村は京を追われた足利義澄の子である足利亀王丸を引き取って養育していたが、
この子どもの身柄はまだ村宗にはまだ掴まっていなかったのである。

永正17年(1520年)12月、義村は亀王丸を伴って置塩城を脱出し、海路で明石へと渡り衣笠範弘を頼る。
義村はそれから東播磨の諸将に呼びかけて村宗討伐の兵を結集させて最後の賭けに出のであった。

翌永正18年(1521年)2月義村方の先方の赤松村秀・弘岡左京らが室津まで進軍した村宗軍と対峙。
「いよいよ決戦」・・・そう思われた矢先になんと弘岡がそのまま村宗の陣へと駆け込み裏切ってしまった。
いきなりプランが崩壊した義村軍に早くも勝ち目が無くなり、義村は兵を一旦引くことを余儀なくされた。

しかし、ここで優勢である村宗の方から義村へと和議の申し込みが入る。
京都で足利義稙と細川高国の対立が激化しており、高国は新将軍擁立を目論み村宗に連絡して亀王丸の上洛を打診していたのである。
復権への欲が出たか、義村は村宗と誓紙を交わして和睦し、同年7月6日に亀王丸の身柄を高国へと引き渡した。

だが亀王丸の上洛が済んだ後、村宗は誓紙を一方的に破棄し義村の身柄を拘束して幽閉した。
そして9月17日、赤松義村は村宗の放った刺客に襲われ、刺客の一人の左手首を切り落とすなど抵抗したものの切り殺された。
同年12月25日、亀王丸は育ての親の死について知らぬまま上洛してついに征夷大将軍となり、「足利義晴」を名乗った。


余談だが後年、足利義晴浦上村宗が上洛した時に「将軍襲職の恩人である」としてその再開を喜んでいたと伝わる。




109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 18:43:29.34 ID:MvK+LWGf
養育されていたつもりもなかったのか

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 19:42:36.24 ID:o7VjYBPQ
赤松家ここで終わったな。二度と守護三国に影響力が及ば無くなった。

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 20:03:32.05 ID:da2LXFMF
足利義晴自体は影薄いけど、偏諱受けた大名は多いよな

武田晴信、伊達晴宗、尼子晴久、南部晴政

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 20:35:29.81 ID:2pVPU0wl
>>111
ちょうど黄金世代の親の代だからね

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 03:29:16.54 ID:Qc+QZG8A
>>111
赤松晴政「赤松義村の子供なのに…」

まぁ大物崩れで晴政が浦上を背後から襲って殺すのも道理だな。
どうせ大物崩れが起こらなかったら晴政も用済みで始末されたはず。

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 09:13:08.87 ID:x+0Yv8HS
>>108
この時代も面白いよなー
信長の野望はこの時代を舞台にしたゲームを出すべき
蒼天録なんて無かった


115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 11:06:48.87 ID:bkyxPwdY
そうなるともう「信長」の野望じゃなくなるんだけどなw
昔、源平を扱った光栄のゲームあったな~

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 12:56:53.14 ID:6iZObSRe
>>108
相手が優勢な場合に和議に応じるのは馬鹿。


117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 22:58:03.98 ID:HvdNzsJ5
>>116
相手が優勢なら当然和議に応じるだろうさ。
むしろまずいのはその後。

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 07:37:29.17 ID:4CjbdSAD
上杉朝定「相手が劣勢なのに和議するとかありえんよねー」

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 11:18:16.97 ID:S5QUgtuu
真田パパン「それは時によりけりだ。くくく・・・」

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 16:02:49.32 ID:lke3g88j
信長から降伏勧告きたら100%罠だな
北畠とか伊勢長島とか遠山城とか...

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 17:16:15.91 ID:u2zSX/im
>>120
信長は、だいぶ経ってから追放したり処刑したりするから怖い。
家康辺りは、どうやって死亡フラグを回避したんだろう。


122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 17:45:05.07 ID:+4rptUCo
>>121
息子と嫁さんで華麗に回避

赤松家落日の時

2011年10月23日 22:00

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 16:13:18.25 ID:rmL9jZXQ
赤松家落日の時


応仁の乱後に復活した赤松家の当主、赤松政則が死亡した後にその名籍を就いだのは
七条家からの養子である赤松義村という人物であった。
しかしながら相続時に幼少であったために浦上則宗など譜代の老臣が亡くなった後も実権を握ったのは
政則の正室である洞松院であり、義村は長らく「神輿」のような状態に置かれた。

しかしながら義村も成長するに伴って洞松院や家中を牛耳る老臣の存在を疎ましく思うようになり、やがて
家中の改革に乗り出した。
その手始めが永正14年(1517年)に敷いた浦上村宗・小寺則職の2宿老と自身の側近から選抜した3奉行による
合議制であった。
ここで最大の狙いが洞松院との癒着の強い浦上村宗の排斥である。
やがて狙い通りに合議の中で主権争いが始まり、小寺や3奉行の讒言によって村宗を追い込み、やがて
義村は村宗の出仕を差し止めた。

もちろん納得できない村宗は永正16年(1519年)に兵を集めて居城の三石城に篭り対決姿勢を見せたが、
村宗の弟の宗久(備前守護代)はこれには従わずに赤松側に付いた。
村宗の失脚に加えて浦上の分裂…あとは三石の反乱軍を討伐すれば義村の野望は果たされるはずであった。
だが要害に築かれた三石城はなかなか落ちず、やがて村宗は根回しによって西備前に勢力を誇る松田元陸と同盟し、
松田が三石を攻める赤松の背後を突くという噂が立つと兵を退かざるを得なかった。

「まさか長年浦上と対立していた松田が味方するとは…」義村としては大誤算である。
しかも悪い流れは続くもので永正17年(1520年)、今度は村宗派に美作守護代の中村則久などが転じて
赤松家に対して反旗を翻した。
今度は小寺則職を総大将にして美作に向かわせたが、宇喜多能家の撹乱などで200日以上経っても中村の篭る
岩屋城を攻略できず、
やがては浦上と松田の連合軍に則職が逆に討たれるという無惨な結果に終わった。

備前・美作戦線で優勢に立った浦上軍はついに播磨へと侵攻し、赤松軍を蹴散らし、ついには義村は
正室(洞松院の娘)と離縁させられ、嫡子である才松丸の身柄を引き渡した上で隠居に追い込まれた。
そして村宗は若干8歳の才松丸(後の赤松晴政)を元服させて傀儡とし、自らがその後見人となって
赤松家を掌握したのであった。




464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 19:48:13.39 ID:Vf6Z+BE9
>>458
名君名将の子で有能と見られていた二世が、
「意外と、甘いようで」と足元救われるのも
戦国でよくある興亡史の一典型なんだろうな。

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 20:06:08.19 ID:7hbCiVGx
守護代の弟はどうなったんだろう…殺したのかなぁ