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今川義忠討死の後の内乱と和睦

2020年12月02日 19:36

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/02(水) 12:52:32.92 ID:X4bDmgcV
駿河国は、今川義忠討死の後大いに乱れ、合戦が数度に及んだこと関東に聞こえると。伊豆の御所より
上杉治部少輔政憲を大将として、三百余騎にて馳せ向かった。また上杉扇谷修理太夫殿(定正)より
代官として、太田左衛門大夫(道灌)、三百余騎にて馳せ登り、両陣は狐ヶ崎八幡山に陣取って、
対立している駿河衆の両陣へ使いを以て申した

『今度、豆州様(足利政知)、扇谷殿より我々が派遣された理由は、今川殿御討死の跡、御息幼少にて
上を軽んじ、各々わたくしの闘争を行うとは何事であろうか。どちらであっても、今川殿に逆心ある方に
向かって一矢仕り候との上命をふくみ、罷り向かったのである。定めて一方は御敵であろう。
御返答次第に、一合戦仕るべし。』

と、委細申し送ったが、今川の両陣ともその返答に及ばず、きまりも悪くなり陣を引いた。しかし
猶も和談はなかったため、大田、上杉は御館へ参り評定し、和談のはかりごとをめぐらせていた。

このような所に、今川義忠の嫡男である龍王殿の御母は、北川殿と申して、京公方の御執事である
伊勢守殿の御姪であり、先年、義忠御上洛の時、ふとしたことで御迎えになり、若君が誕生されたため、
北川殿として新殿を作りそこに居られた。

この北川殿の弟は、伊勢新九郎長氏と申す人で、その頃備中国より京に上り、今出川殿(足利義視)に
付けられていたが、今出川殿が伊勢御下向の時お供をして下り、それより姉君を尋ねて駿河国に下向されたが、
折節この乱に参り遭い、関東より加勢の両大将に相談をした

「かように家来の人々が二つに分かれて合戦をするのは、今川家滅亡の基となります。尤も主人に対して
意趣が無いのであれば、謀反人では有りませんが、主の家を滅ぼすのは、これに過ぎる悪事はありません。
各々の御扱いを用いず、和融の儀が無いのであれば、京都の御下知を承り、豆州様と申し合わせ、一方を
退治仕りましょう。
もし又、御扱いを承り、尤もと一同し、和談のことが定まれば、私は龍王殿の御在所を存じておりますので、
お迎えに参り御館へ返し奉ります。」

これに関東の両大将も、尤もであると一同し、この条々を駿河衆の両陣へ申し送った。駿河衆も、よしなき
私の戦を起こし、主の行方さえ知れず迷惑の砌に、このような扱いが有ることを大いに喜び、早々に両陣を
引いて、御館より共に、惣社浅間の神前にて神水を呑み、両方和談は相調った。

この時龍王殿は、山西の有徳人と聞こえる小川法栄の元に御座していた、法栄は「このような乱が
なければ、どうして譜代の主君が、このような山家に入られ、数日も御座あるべきでしょうか。」と、
龍王殿、御母公諸共に色々ともてなし慰められていた。そして和談が調うと伊勢新九郎が迎えにまいったため、
「これは目出度き次第である。」と喜び、新九郎を初めとして、御迎えの人々に、馬鞍以下、数々の引出物を
贈り、法栄父子も御供申し、駿府の御館は入り奉った。

駿府に戻られるとすぐに、龍王殿は御元服あり、今川新五郎氏親と申し奉った。
その頃、豆州様が御改名あり、始めは政知と申していたのを、『氏満』と御改めになっていた。これは
鎌倉殿(鎌倉公方)の御名乗り(通字)であり、御早世の御一門の御名乗りを、この方で取るのは、
かの幸いをこの方にて継ぐという事であり、必ず御名乗りを取るという習慣が有ったのである。
これによって氏満と御改名されたという。
龍王殿は、豆州様を御烏帽子親に頼まれた故に、氏満の氏の字を付けられ給いて、『氏親』と名乗られたと
聞こえる。

法栄の子は、今川殿近習となった、長谷川等是である。
伊勢新九郎は今度の忠功莫大であるとして、富士郡下方庄を給わり、高国寺(興国寺)の城に在城した。

今川記

今川記』より、今川義忠討死の後の内乱と和睦について



753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/06(日) 17:46:00.04 ID:DKqmNioT
>>751

ここまで詳しい記述があるのに北条早雲が牢人扱いされていたのは何故?

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/06(日) 21:08:16.61 ID:zY8ldDsB
>>753
北条氏や伊勢氏、今川氏に伝わる系図などで食い違いが多くあやふやな部分が多かったことと講談の影響
今川記』の記事だけ見ても、
「幕府の意向で今川家の調停に派遣された幕臣」って近年の(蓋然性が高いとされる)説も全く触れられていないし
伊勢で義視の元を致仕し姉の縁を頼って駿河に下ったと解釈すれば、身分は牢人といえる
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「享徳の乱」

2020年04月28日 17:34

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 01:55:04.92 ID:Q9hZfobb
近年京都の乱(応仁の乱)より起こって、近隣諸郷はみな兵革の岐と成るのみではなく、関東の乱逆は
年久しく、騒動は更に止まず、日を逐って蜂起が起こった。

この概略は、去る享徳の頃より、関東では兵乱が再興して、鎌倉の新御所(足利)成氏朝臣は公儀を
蔑ろにし、恣に戦伐を行ったため、執事である上杉の一党は京に言上し、これによって公方家より、
成氏御退治のため、駿河の国主、今川上総介範忠を大将として御旗を賜り、多勢を付けられ鎌倉へ
発向した。また関東では上杉の一党。その他国人が大軍を促し、これも鎌倉へと攻め寄せた。
これによって成氏た忽ち一戦に打ち負け、野州古河へ没落した。この時享徳四年(1455)六月十六日、
鎌倉は兵火のために焼き払われ、治承以来の幕府の地は、ただ一片の赤土となって、これにより後も永く
里民の郊居となった。

今川範忠はこれより帰陣したが、その頃、東国の古家として、千葉、小山、宇都宮、結城、佐竹、那須、
小田、壬生を関東の八家と称し、大名であったが、それ故に、上杉の幕下であることを恥じ、無二に
御所方へ心を寄せ、上杉との合戦止まず、関東は治まらなかった。これによって、去る長禄元年(1457)、
京都より御下知があり、渋川左衛門佐義鏡を、関東の探題職として指し下し、上杉を愈々以て関東の管領とし、
諸家その下知に従って成氏を退治すべき旨を相触れたのだが、東国の者共は猶も御下知を用いなかった。
これによって上杉らは又京に訴望し、公方家の御舎弟である政知卿を申し下し奉って、寛正年中(1460~66)
この政知を関東の御所と称し、東国の大名高家、みなこの御所へ拝謁させ、上杉をその管領として
関東の乱を鎮めようとした。鎌倉炎上の後に御所無き故、政知卿は豆州堀越に御寓居あって、堀越御所と称した。

こうして上杉勢と成氏勢は、武州五十子という所で数年対陣し、未だ雌雄を決せざる所に、文正元年(1466)
二月十二日、上杉家の大将である、兵部太夫(上杉)房顕が病死し、翌年より応仁の大乱が起こり、都鄙悉く
戦国と成り、ただ騒動に月日を送ったが、終に文明十年(1478)の春、上杉方と成氏朝臣の和睦あって、
古河城に安居され、近隣を少々領知された。またこれによって堀越公方の政知卿は、威勢尽き果て、誰も
取り立てる者が無く、僅かの所帯を領して堀越に御住居あったという。

『應仁廣記』

戦国初期の関東、いわゆる「享徳の乱」についての記事ですね。



堀越公方のこと

2019年08月14日 17:22

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/14(水) 10:13:55.16 ID:W0NEcpVc
伊豆国下田から北に二里半ほど隔てて、堀の内村がある。ここが堀越御所の旧跡である。
御所の跡は今は田畑と成り、堀の内村の傍らに法(報)本寺という寺が有り、かの堀越御所の
追福供養を、今以て毎年日時を決めて執り行っているそうだ。この法会を執り行わなければ
疫病などが流行するなどと、現地の土俗では申し習わしているという。

この堀越御所というのは足利将軍の支族である政知が初代であり、その子義通(足利義澄)は
将軍を相続したともいう。その子茶々丸は北条早雲に攻められ、堀の内村の紅花畑の内に隠れたが、
その畑の中から鶏が飛び出してきたのを北条の追手が疑い、茶々丸を探し出し遂に害された。
この事よりこの村においては鶏を飼わず、紅花も作らなく成ったのだとか。

ただし茶々丸は政知の子であるとも、義通の子であるともいう。茶々丸は代々の幼名であり、
その通りに名乗ったのか、又は次男であったのだろうか。
中古治乱記(中古日本治乱記)という書には、茶々丸は北条の勢に逐われて山の麓の寺にて
自害したとある。

(耳嚢)



320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/14(水) 10:45:01.75 ID:TJIU/2V8
この名を見るといつも思うんだが
茶々丸って元服させてもらえなかったのかな?