639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/20(土) 17:31:49.71 ID:F/WYy8iT
武蔵坊弁慶借状之事
昔慈照院殿(足利義政)が在世の頃、様々の道具、古き筆簡など、もろこし、わが朝の名人を尽くして
高覧あった。これによって将軍家に拝謁する人々は皆、珍しき筆跡を各々参らせられた。
或いは宸翰の類、その他掛け物など、あたかも山の如くに集まった。
その品々は、申すに違わず類なき見ものであったと言い伝えられている。
その中に、武蔵坊弁慶が手跡として、文が二十通ばかり、あなたこなたより集まった。
そこに書かれた言葉は、皆借用状であった。
或いは「痩せたる馬一疋御借し候へ」、或いは「砂金すこし預け給え」、或いは「絹一反、粮米一表
貸し給え」と、些細なものまで借りようとした文どもであった。
これは第一の見ものであるとして、上下喜悦して笑いあったという。
これに対して、将軍が仰せに成ったことには
「わずかに現代に残った文どもさえ、かくの如くの借用状である。弁慶が在世の頃には、一体どれほどの
ものを借りていたのだろうかと思うと、大変面白い。
そしてこの文を見れば、彼が無欲の者であったという事も明らかである。一日の蓄えが有っても、明日はまた
人の労志によって日を暮らしていたのだろう。このようであるのだから、定めてその借り物を返弁する事も
無かったのではないだろうか。
つまるところ、蓄財するつもりのない者という所が顕れていて、殊勝である。」
と、大樹(義政)も御感あったという。
現在の僧俗も弁慶のように振る舞うならば、人に疎まれることも無いだろう。
また、弁慶の姿が恐ろしく醜く絵に書かれるが、これは大いなる僻事と見えたり。
右の反故の中に、弁慶を「美僧なり」という事、数多その当時の僧共の文がある。
各別千万の事である。
(塵塚物語)
足利義政の収拾した文書の中に有ったという、弁慶の借用状について
武蔵坊弁慶借状之事
昔慈照院殿(足利義政)が在世の頃、様々の道具、古き筆簡など、もろこし、わが朝の名人を尽くして
高覧あった。これによって将軍家に拝謁する人々は皆、珍しき筆跡を各々参らせられた。
或いは宸翰の類、その他掛け物など、あたかも山の如くに集まった。
その品々は、申すに違わず類なき見ものであったと言い伝えられている。
その中に、武蔵坊弁慶が手跡として、文が二十通ばかり、あなたこなたより集まった。
そこに書かれた言葉は、皆借用状であった。
或いは「痩せたる馬一疋御借し候へ」、或いは「砂金すこし預け給え」、或いは「絹一反、粮米一表
貸し給え」と、些細なものまで借りようとした文どもであった。
これは第一の見ものであるとして、上下喜悦して笑いあったという。
これに対して、将軍が仰せに成ったことには
「わずかに現代に残った文どもさえ、かくの如くの借用状である。弁慶が在世の頃には、一体どれほどの
ものを借りていたのだろうかと思うと、大変面白い。
そしてこの文を見れば、彼が無欲の者であったという事も明らかである。一日の蓄えが有っても、明日はまた
人の労志によって日を暮らしていたのだろう。このようであるのだから、定めてその借り物を返弁する事も
無かったのではないだろうか。
つまるところ、蓄財するつもりのない者という所が顕れていて、殊勝である。」
と、大樹(義政)も御感あったという。
現在の僧俗も弁慶のように振る舞うならば、人に疎まれることも無いだろう。
また、弁慶の姿が恐ろしく醜く絵に書かれるが、これは大いなる僻事と見えたり。
右の反故の中に、弁慶を「美僧なり」という事、数多その当時の僧共の文がある。
各別千万の事である。
(塵塚物語)
足利義政の収拾した文書の中に有ったという、弁慶の借用状について
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