【ニュース】明智光秀が土橋重治に宛てた書状

2017年09月13日 18:26

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 22:50:10.86 ID:BmQuoTzP
良い話か悪い話か迷うけど
幕府再興を掲げた良い話?

明智光秀土橋重治に宛てた書状

毎日
https://mainichi.jp/articles/20170912/k00/00m/040/159000c
産経
http://www.sankei.com/life/news/170912/lif1709120003-n1.html
読売
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170912-OYT1T50009.html
朝日
http://www.asahi.com/articles/ASK9C45WPK9CONFB00F.html
日経
https://www.nikkei.com/article/DGXLZO21007030R10C17A9CR8000/
伊勢新聞
http://www.isenp.co.jp/2017/09/12/7440/



※管理人注
個人的にはこのニュース、光秀が室町幕府再興のために本能寺を起こした、というよりも、
時期的にも内容的にも、追い詰められた光秀が手当たり次第に味方を募っていた事を表すもの、
じゃないかなと判断しています。

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贔屓が強い、ということは

2017年05月05日 10:48

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/05(金) 08:40:12.58 ID:vJCIQxW/
霊陽院(足利)義昭は、贔屓の強いのは頼もしきことであり、武士の本意であるとして、上手を憎み
下手を崇敬し、いつも自分が気に入ったものを良しと定めた。

彼は乱舞を好んだが、観世彦右衛門という小鼓の上手を憎み、また当時の大鼓の上手をも憎み、
下手であっても奈良の者を贔屓した。これは、義昭が初め、奈良一乗院に居たためであったという。

親しいか疎遠かで差別するのは古からの道であり、慣れ親しむ由緒ある輩に対して、これに親しむのは
理である。しかしそのために、理を非にいたし、上手を下手に取りなすことは、すべて物事の理を
理解していない故である。

贔屓が強い、ということは善きことに似ているが、その成り行きを見ると、依怙というものに成ってしまうのである。

(士談)


公方が御謀反された時

2016年06月14日 17:46

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 17:15:53.28 ID:ZCjPkN6A
信長公に対し、公方が御謀反された時、
信長公が御出馬されて、上京を放火なされたことがあった。
その後連一検校が御前に出て
「このたびの御陣の洛中での騒ぎで、上下が怖がり恐れることは前代未聞のことです。」
と申し上げれば、信長公が
「そうであろう。さてその恐れたる様子とは?」
と仰せられたので、連一検校は以下の話をされた。

「上京に火がかかったと見ると、二条にいた者の妻が、
まず我が子だけでも連れて逃げればすむと思い、
三つか四つの子を背中に負い、慌てて走り、四条の橋のたもとまで逃げきった。
あまりに苦しくて、ちょっと子を降ろして休もうと思って地面の上にどっと置いてみると、
石臼でございました。」
(醒睡笑)



712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 18:27:43.12 ID:rxTBNthZ
>>711
落語みたいw

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 20:03:03.72 ID:ceKeV3cO
>>711
>信長公に対し、公方が御謀反された時、

謀反ってw

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 21:36:16.80 ID:tavheLe0
天皇御謀反ともいうんだから公方が謀反したっていいだろ

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 21:53:46.47 ID:F7+1vUHt
室町将軍が都を追い出されるのはよくあった事だけど
義昭の場合、昵近公家衆がついて行かなかったんだよな。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 23:48:29.32 ID:xgZWF6Y2
義輝の時点であまりついていかなかったそうだ
正確には京を退去するまでは従ったが、亡命先までは付いて行かなかった

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 23:54:02.95 ID:zYwTxKAt
>>713
信長公なんだから信長が主人公、公方は敵役

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 00:12:22.96 ID:twXBwpVX
東洋史学の岡崎文夫は魏の皇帝である曹髦が臣下のはずの司馬昭に対してクーデタを図ったのを
「浪漫的な反抗」と評してたが
義昭に対してそういう言葉を使う人はいないんかな
それともナポレオン3世の自己クーデタ(こっちは成功)のような喜劇扱いだろうか

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 02:53:59.02 ID:MKd78BCA
すでに傀儡だったじゃん。実権ねえから謀叛なんだって。

(●Д゚)伊達昭宗

2015年07月20日 13:22

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 04:15:14.47 ID:8TeZX/ko
(●Д゚)伊達昭宗

伊達家の当主は足利将軍から諱名の一字を拝領する慣わしがあったが、
伊達政宗公の元服の際に時の将軍義昭公が織田信長によって京を追われていた事により、中興の祖政宗公の名をそのまま頂く事となった

「伊達治家記録」

本来なら仙台藩主伊達政宗の名は伊達昭宗であったかも知れない話




『織田上総は果報の者也』

2015年05月11日 19:10

2 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/10(日) 22:31:24.31 ID:0KWMipET
織田信長が将軍足利義昭を補佐し、帰洛せしめ、本国である美濃に戻ると、三好三人衆が
不意に挙兵し将軍の在る六条本圀寺を攻めた。

信長は岐阜城でこれを聞くと同時に、一騎駆けに上洛し近江の柏原にて馬を倒し、その所の百姓家に入り、
ありあわせの馬に乗って上京し本圀寺に乗り付けた。
義昭はこの思いも依らぬ速き着陣に、嬉しさのあまり信長に抱きついたという。

さて信長は湯漬けをさらさらと食すと諸軍に命じた
「私が早速に上京したため、三吉の軍勢共は肝をつぶした体である!
その臆病心が冷めぬ内に討ち取るべし!

その間に我々は、慰めとして歌を作って歌おう。皆々、ここに付いて歌え。
ただし、その唱う間は各々一所にあって、膝を組み鑓を膝の上に横たえて持って、
歌を三編歌い、済んだら直ぐに立ち上がり、大音上げて敵を突き崩すように!」

そう下知した。この時の歌に
『織田上総は果報の者也 一番槍を突くほどに しかも主上の御前を』
と歌い、その後槍を入れて敵を討ち取って帰陣した。

その後、将軍の御所が新たに建築された頃の正月、御所の門前の石畳の上に、欠けた蛤の貝殻が9つ並べて
置いてあった。一体どういう者が何のつもりでこんな事をしたのか、知る者は居なかったが、
信長はこれを聞くと
「これは、上様の心うつけて位が欠けていると言うことを、京童が笑ってこんな事をしたのだろう。」
と宣ったとか。

(明良洪範)

九貝が欠けている→くらいがかけている、ということですね。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5540.html
↑とも解釈が違っていたので。

前スレ落ちててびっくりしたわ



3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/11(月) 10:06:13.67 ID:IO1dOxPW
その辺はさすが信長だけあって敏感だな

足利義昭の追放

2015年02月27日 18:39

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 00:06:52.74 ID:KNEpf6x+
永禄12年(1569)の、三好三人衆による足利義昭襲撃(本圀寺の変)の後、織田信長は在洛して
勘解由小路に武館(二条城)を構え、ここに義昭が遷移して、治世6、7年に及んだ。

このように義昭と信長は互いに深く重く思い合っていたのだが、土岐一族の明智十兵衛尉光秀の
讒言によって、義昭・信長の間は不快となり、天下の人々は皆嘆いた。
義昭は京から宇治槇島に退くが、この時両者は和解するように思われたものの、
双方に虎口の讒言(人を陥れるための告げ口)が有り和解は成立せず、義昭は河内・紀州を流浪する
体となり、その姿は誰もが愁涙を催すばかりであった。
この両国の国人たちも、信長の武威を恐れて、義昭の御座所に駆けつける者もなかった。
そのため中国は遼遠の境(畿内と遠国との境)であったので、そこに暫く御座所を定めた。

この上は天下は信長一人の政道に、皆帰伏するように成った。然る上は太政大臣にも勅許有るべきとの
叡慮であったが、一天雲なうして雨三日を期ざる所、御思慮があって、高官は子孫に譲ってほしいとの
御内証にて、右大臣さえ辞し申し上げた事は、まさに跼天蹐地(高い天の下でからだを縮め、
厚い大地の上を抜き足で歩く:慎み恐れるの意)と言うべきだろう。これこそ聖人の教えである。

(永禄記)

永禄記の、足利義昭追放についての記事である。
両者不快の原因が光秀の讒言、となっているのが面白い。



477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 08:00:04.61 ID:/RtI4YtR
室町将軍の彷徨う感は異常
周りもなれてそう
天皇「まーた将軍さまよいだしちゃったよw」
こんな感じで

その実態はこれら全て

2014年07月13日 18:50

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 20:14:14.74 ID:KXc9SQgL
姉川合戦、三方ヶ原合戦、長篠合戦の三大戦は、当家(徳川家)において最も険難危急のものであったが、
その実態はこれら全て、将軍足利義昭の策謀によって起こったものであった。
浅倉、武田といった大名たちを己の奸計を以って、また簒奪の志を成就せんとしたものである。

すべて、等持院将軍(足利尊氏)よりこのかた、室町将軍家は人の力を借りて功をなし、
その功成りてあと、また他人の力を借りてその功臣を除く事を以って、万古不易の良法として
国を建る習いであった。

室町将軍15代の間、この故知を用いらざる者はいなかった。そして終にはこの故知により、
国家を失ったのである。

(徳川実記)

徳川実記より、足利将軍家についての評論である。




674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 21:03:49.05 ID:fkiG8AFP
将軍家に対して、「簒奪の志」とかどうなの…

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 21:11:12.05 ID:6rOuTHZo
現状のトップが過去の権力者下げはよくあること
言っても徳川実紀編纂はもう幕末ごろだった気がするけど

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 00:10:39.38 ID:imnKG5pK
足利将軍木像梟首事件の時は大騒ぎしたのに…

二条城落成式の日の思い出

2014年06月24日 18:54

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 05:34:38.01 ID:tSLvIleb
織田信長は、永禄12年(1569)の三好三人衆による京都襲撃のあと、防衛を固めるため
武衛陣に新たな城を築いた(二条城)。この築城が完成すると、足利義昭を据えての慶賀の能が
行われた。老人(江村専斎)も当時4歳ばかりであったが、乳母に抱かれてこれを見物した。

その日、信長は小鼓を打っていた。長岡三斎(細川忠興)は老人より年上で6歳ほどであったが、
猩々を一番舞われた。

その後、帰りに門外において、盗人に後の紐を切られたことを覚えている。
この頃は、盗人が刀の口蓋、小刀などを抜き取るということをがよくあったのだ。
そのため盗みのことを『ぬき』と呼んでいた。今の『すり』と言うのと同じである。

(老人雑話)

老人雑話より、二条城落成式の日の思い出、である。





織田信長より、公方足利義昭への申状

2014年04月29日 18:51

133 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 19:10:13.93 ID:dM3EMjqW
織田信長より、公方足利義昭への申状

『そもそも武田入道信玄は、讒訴して五ヶ条を掲げて将軍に訴えた輩であることを知られました。
このような事は、誠に狂言綺語(仏教十悪の一つ)と言うべきでしょう。

元はといえば、三好左京大夫(義継)の逆心があって、そのために光源院殿(足利義輝)が
自害なされ、誠実な者達の大半が討ち死にし、将軍家が最大の危機に達したところで、
当御所様(足利義昭)が南都から脱出なされ、伊賀・甲賀路を経て近江の矢嶋に御座を移されたのに、
佐々木承禎(六角義賢)が先祖の遺言に背き、主従の道を忘れ、無常にも追い出したので、越前に
下られた事に始まったのです。

朝倉は元来それほどの者ではないのに、父(朝倉孝景)が将軍の意向を眩ませて御相伴衆の地位に
付き、それに続いて自国において勝手気ままに我意を通しました。そのような者によって将軍の
御帰洛がなされるなど、前代未聞と言うべきでしょう。
そのため公方様はどうにも仕方がなく、岐阜に御座を移され、私に寄りかかって下されたので、この信長は
頼りにならぬ者ではありますが、公儀御用を承ったと言うことなのです。

そういう訳で、天下の新たな統一への忠功に尽力いたそうと心がけ、国家のために一命をとして御伴いたして
おりました所、近江においては佐々木(六角)が所々の城でこれを妨げましたが、忽ちにして攻め崩しました。
そこで畿内の逆党たちは数ヶ所に砦を構えて抗戦いたしましたが、一要害も残らず、14日の内に
攻め落としましたので、畿内のことは言うに及ばず、四国、中国、遠島遠路に至るまで皆味方に馳せ参じて、
将軍に仕え初め、そのため宮中に御参内なさる事が出来たというのは、偏に信長の成功の賜ではなかったかと
存じております。

134 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 19:11:16.22 ID:dM3EMjqW
一、信玄のことですが、彼の父信虎は既に八十歳に及ぶ老父となったのに、追放した後京の不便な土地で
  途方に暮れていて、巷にて飢えている風情だというのは、前代未聞の事です。
一、嫡子太郎(義信)を理由もなく牢に入れて、鴆毒で殺したことは、無法この上ありません。
  父を追放し子息を殺し、その他親類の多くを討ち死にさせました。
一、年来の眷属に一戦を勧めておいて、傷ついた侍たちを一所に押し込めて焼き殺す、という行為に至っては
  大悪行の最たるものです。誰がこのような彼に、心から信じて従うものでしょうか?
  特に信玄の与力であった浅井(長政)は、この信長の身分と比べれば相応しくありませんでしたが、
  妻女として我が妹を遣わし、その上近江一帯の支配に加勢してやったというのに、どうしたわけか
  信長が金ヶ崎に出陣した時、寝返って後陣をしたことは、前代未聞と言うより他ありません。
一、信玄は剃髪染衣して仏門に入った姿となったのに、他国を領有しようと貧欲になり、民を害し、内では
  破戒の業をなし、外では五常(仁・義・礼・智・信)に背く、をれは売僧の如くです。
  これについて特に、比叡山、伝教大師の、桓武天皇国家護持の霊場において、衆徒が近年つまらぬ
  行動を起こし、潔戎を破り牛馬の糞尿で伽藍仏前を汚し、魚鳥を食していました。
  なので天道からの神罰が下って、山上山下、尽く燃え尽きたのです、これは信長が断行したのでは
  ありません、自業自得の結果です。
一、信玄は時節を伺って、支那・震旦にもその例を見ないような、俗人であるのに大僧正を称しているのは
  例がありません。
一、駿河の今川氏真は、信玄にとっては甥になるのに、そこに家老を送って甥の国を乗っ取るのは、前代未聞の
  態度です。
一、関東の北条氏政は信玄にとって聟であります。ところが関東に乱入し、あまつさえ氏政の門前まで焼き払って、
  北条家の縁者郎党を尽く斬捨て、聟に対し天下の恥をかかせたことは、前代未聞の次第です。
  事に諏訪頼重の娘を、信玄が自分の妾にし、末子とはいえ四郎勝頼を産みながら、頼重を騙し、甲府へ
  招待しておいて、接待のため猿楽を催し舞楽を興行してなだめ、隙を突いて近習のものに命じ頼重を
  討たせたことも、前代未聞の次第です。

このように無軌道であることを仏神も憎悪されたのか、信玄には10も国を領有させません。
一方この信長は五常をしっかり弁えており、禁中を尊重し、公方を敬い、民を憐れむこころざしが天道にも通じ、
天下を統治するべき位置に立ち、国家を興隆し子孫を繁栄しようとすること、祈願しなくても仏神の道に
かなって、このように上手く行っているのです。信玄の言う偽り言を、もし信じてお認めになるのなら、
天下が混乱することは確実です。古い諺にも、君主が人に阿る奸智に長けた人物を取り立てれば災禍を招くと
言うではありませんか。讒臣の訴えは大乱の原因となるということ、宜しくご配慮いただきたい。
 信長 誠惶誠恐謹言

天正元年正月二十七日 
上野中務大輔殿

(甲陽軍鑑)

織田信長による、>>115の信玄の書状への反論である


関連
武田信玄より、将軍足利義昭方への書状


135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 21:20:17.15 ID:BDRM4HUu
色々言い草はあるものだなと思わされる書状だねw

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 07:45:04.19 ID:Xgkcyqel
大義名分を作るための方便とは言え信長も信玄も、どの口が言うか、って感じの内容だな

武田信玄より、将軍足利義昭方への書状

2014年04月27日 18:45

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 11:26:23.56 ID:xDcLNJh0
武田信玄より、将軍足利義昭方への書状

『遠州・三州両国の如きは、信長・家康の輩が神社仏閣、諸寺を横領、侵入し、民を迫害して
自分たちの利益のみに走り、ほしいままに暴威を振るっていることは、前代未聞と言った次第です。
従ってこの信玄が、正義の兵を挙げて大軍をなびかせ出陣したのです。

敵勢はあちこちに集結してこれに応戦しましたが、掛川、二俣をはじめその他数ヶ所の要害の
大半を破却させて、残党も尽く降伏させましたので、この行動をご容認される御教書をお出し下さい。
主君の御意としては黙視できぬことと存じますが、彼らが幾重にも犯した諸悪は数え切れぬことですから、
このままにしては置けません。すなわち、信長・家康以下の逆徒を誅伐、降伏させて、天下を鎮めることを
お引き受け致す旨、ここに謹んで申し上げます。

そもそも信長・家康は、逆乱を企て諸寺を焼き払い、諸仏を破壊、略奪し、自分たちの事のみ考え
栄華を極めて、それに対して人々には口を閉ざし、眉をひそめさせることしか出来ないように
追い込みました。ここには偏に仏法王法の破滅の相が見えており、彼らは欲界の天魔の権化と言うべきでしょう。
とりわけ勅許も受けないのに自ら昇殿し、高官尊体を称する咎は逃れようがありません。この罪が一つ。

自分が匹夫の身分低い血統であることを弁えず、月卿雲客をしてみだりに口出しをさせ、権門を侮る
無礼の咎は浅くありません。この罪が二つ。

京の市中郊外を徘徊して、課税を多くし労役を課し、戦って降伏した者達の財産も略奪した咎。この罪が三つ。

長年の戦乱で、各地で敵となったり味方となったりしていますが、そうする中で一度ゆるした後に、
高槻、今中城、高宮の兵をたちまち処刑しました。これでは籠の中の鳥を殺すのと同じです。何を真実とし、
何を信頼すればいいのでしょうか?誰がこういうことを憎まずにいられるでしょう。この罪が四つ。

去る永禄12年、坂本において朝倉義景と信長が雌雄を決しようとした時は、忝なくも勅命を受けて
将軍のご命令を賜り、そこで数通の起請文を以って和睦がなり、共に各々の領国へ引き下がりました。
ところが信長は翌年7月上洛して、神社仏閣を灰燼に期すようなことをしました。これは勅命に背くだけでなく、
将軍のご命令にも背くもので、天罰を受けるだろうというだけでは足りません。悪逆無道の咎、これが罪の五つ。

右の五つの罪を犯した者など、千古にあったということを聞きません。いわんや最近においては全く例の
無いものです。もしこうした悪逆をこのまま黙認されるならば、悪臣がますます国を荒らすでしょう。
また窮鼠かえって怨敵となり国を横領しようと企てることになります。しかしこういうことは心に隠して
居るものですから、公方様のお耳には未だ達していないかと存じますが、諸国の者にあまねく知れ渡っている
所です。

もし御処置もされずにこのまま放置なされるのは、虎の尾を踏み、豺狼のような残酷、貪欲な人物を懐にして
いるのと同じことです。これでは諸国の御敵を蜂起させ、大混乱の元を作るというものです。

早く信長・家康以下の凶徒を誅殺すべきとの御命令を賜れば、彼らの舘を攻め、我が身がどうなろうとも
たちまち凶党を滅ぼし、その屍を軍門に晒し、首を獄門にかけて御覧に入れます。そうすれば万人は
安心し、安寧に戻るというものではありませんか。

いやしくもこの信玄は正義を尽くし政策を帷幄の内に巡らせ、四海の混乱を鎮めて、台嶺(比叡山)の諸伽藍、
七社の霊藍を復興し、再び顕教密教を同時に学べる霊地となして、現世の安寧のために政を正し、
正義、道徳で世を照らし、天下を静謐にする功績を残したい旨を、宜しく将軍にお伝えして頂きたい。
 信玄 誠惶誠恐謹言

正月七日   大僧正法性院 徳栄軒
     上野中務大輔殿(義昭側近・上野清信)』

(甲陽軍鑑)

武田信玄が、信長・家康討伐の許可を将軍義昭に求めた書状である。


関連
織田信長より、公方足利義昭への申状



武田信玄、信長退治の依頼に

2014年02月20日 19:01

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 05:31:57.70 ID:t9cuorse
元亀2年(1571)の9月初め、公方足利義昭公より、松原道友、尼子新左衛門の両人を使者として
甲府に遣わされ、武田信玄公に御依頼があった。その趣旨は

織田信長は、公方を助け天下を治め、2,3年の間は大切に扱っていたのだが、、去年の7月、都に上って
三好を倒し、自分の家臣を天下の所司代に据え、五畿内から、丹波、播磨、若狭、丹後までも、ほぼ手中に
収めた所、最近では公方を殊のほか侮って、酒を飲めば盃を将軍に差し、茶を飲み残しては、『これを
将軍に飲ませろ』などと申し、さらに公家の近衛殿(前久)などにも、『やい近衛』などと言い、
様々な無礼を働いている。であるので、この信長を倒すように』

との希望が綴られていた。

『なお、越後の上杉謙信入道輝虎にも、右のとおり申し付けたところ、謙信は『委細かしこまって候』と
これを受け入れたので、信玄も謙信と申し合わせ、両軍によって信長を退治するように』と、
公方よりの申し入れであった。

信玄公はかねてから心に決められていた事であると、毘沙門堂の一室で御使者に対面し

「信長が無行儀の故にご成敗を仰せ付けられる将軍の上意は、ご尤もに存じます。
このことについて、上杉輝虎がたやすくお受けしたことは、格別の事情があるかと推察します。
彼は一段と合戦の道に優れ、素質もある人物ですから、ほどなくご希望通りに信長の誅伐に成功
なされること、疑いないものと存じます。

さて、私達も輝虎同様にお受けしたい、とは思うのですが、ご覧のとおり出家の身となり、
弓矢を取るすべも忘れ果てておりますゆえ、これからどこか、国境のあたりで合戦の鍛錬を
少しした上でお受け申す所存です。

今のこの信玄が将軍家へのご奉公としてできることは、護摩を焚き、ご祈祷をして、武運長久、
息災延命のお礼を進上申すことです。何卒、よろしくお伝え下さいますように。」

このように返答し、都よりの使者を馳走・応対して、御刀と馬を進呈してお帰しした。

その後、喜見寺の仙海法印に信玄公は

「将軍家の使者両人と盃を交わした後、肴を挟んでもてなしたが、彼らは、その肴を食べた手を
畳でぬぐっていた。その無作法振りを見ても、将軍家が全く落ち目となっているのは明らかである。
なのに輝虎は信長退治を引き受けたとの事で、その返事の書状も将軍家から寄越してきた。

輝虎は武道については誠に優れた者だが、”分別工夫”という四字を心得ていない。だからああ言う事を
すぐに引き受けるのである。国持大名の言ったことは、その日のうちに、五日路、十日路
(5日、10日かかる距離)の遠国にまで届くものだ。だからこそ、うっかりしたことは言わないのが、
国主の法というものである。」

と語られたという。

(甲陽軍鑑)

将軍義昭からの、信長退治の依頼への信玄の反応である。




550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 06:49:07.45 ID:pFbu7ybl
では将軍様、退治いたしますのでその信長を京から追い立てて下さいませ

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 09:03:33.75 ID:Ed69NGKm
さすが信玄公しびれるわ

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 14:38:45.03 ID:7vkze9SN
信玄に牛耳られるだけじゃね?魔王よりやばいだろきたないお館様は

里村紹巴、足利義昭を取り成す

2013年02月20日 19:52

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 19:01:16.37 ID:ozj3vlf9
里村紹巴足利義昭が都にいた頃には懇志な間柄で、詩連句や和歌の御伽をして
一日中傍を離れなかったほどだが、いまは秀吉のもとで和歌の指南を務めていた。

心に義昭のことをどうしたらよいかと折々思ってはいたが、公儀に忙しく疎遠になっていた。
しかし、秀吉の機嫌をうかがって義昭のことを取り成して度々申し上げるので、
秀吉もどうにかしたいものだと思ってはいたが、天下の大将軍にして数代相続の的流なので、
並々の武士に申し付けては恐れ多いと思慮を巡らして、兎角の計らいもなかった。

ある時、秀吉は紹巴を呼んで「義昭公のもてなしを誰に任せようかと案じ続けたのだが、
尋常の大名には差し障りもあろう。毛利輝元ならば、名誉累代にして現在無双の大身だから、
これに預けることにしよう」と言ったので、紹巴は「義昭公は大慶にお思いになることでしょう」
と大いに喜んだ。

かくして義昭は移され、輝元は畏まって請待し様々に饗応した。また備後深津に御館を造り、
五千石の知行を附けた。秀吉はこれを聞いて大いに感心し「これで身上を安心なさることであろう。
だが田舎では物足りなく、退屈で暮らし難いことだろう」ということで秘蔵の御局を義昭のもとへ
参らせた。義昭は秀吉の懇志を来世までも忘れ難く思った。

――『室町殿物語』





465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 20:51:46.97 ID:K0B673KS
>>461
現在無双のTERU△

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 21:32:27.81 ID:otbWvL4y
>名誉累代にして現在無双の大身

TERU個人の能力には全然触れてない褒め言葉でワロタ

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:07:35.09 ID:UCrLU+aF
と、ゆーかTERUの所にいたのを当人の希望で京へ戻したんだよなぁ

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:32:10.87 ID:ETjR6Mv2
>毛利輝元ならば、名誉累代にして現在無双の大身だから、

島津や佐竹なら累代の大身ってのも分かるけど、
毛利なんてTERUが実質2代目じゃないかw

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:43:38.91 ID:Y9dVhO/Q
まぁ義昭は鞆にいたんだし、輝元起用は出来レースだったんじゃね?

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:46:40.06 ID:nPgpkKPp
>>461
秘蔵の御局

絶対に秘蔵されてないだろ(´・ω・`)

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 23:15:15.85 ID:e6ubEhM2
ラスボスは将軍様と穴兄弟になりたかったんだよ。。。

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 23:38:25.79 ID:bdBW1f2C
>>468
「名誉累代」は所領のことじゃなくて、先祖代々の名誉、ってことだから、
大江広元嫡流の毛利家の家名をたたえた言葉だと思うよ?

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 01:48:52.29 ID:od810Ey9
では殿下秘蔵の姉上を…

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 03:56:06.96 ID:DRwA7j4S
文化の香のなさそうなド田舎に流されてどんな気分だったんだろう

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 07:38:34.97 ID:M2m4REjN
体よく厄介者をTERUに押し付けただけのような・・・

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 10:18:17.60 ID:7hBVIyPC
>>472
流石に嫡流ではないよ

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 10:23:56.04 ID:ZV5H+s/J
>475
でも信長に京都を追い出されてから、ずっと世話になってから適任じゃね?

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 12:40:11.22 ID:EsH3EX8N
ラスボスの中古払い下げとか公方様涙目

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 13:19:43.15 ID:79ozRLbH
薄口だと帰って塩分多いんだっけ?
・・・中古品でもタヌキとか伊達のタネ宗あたりなら気にしないかもしれん。
大内の遺産で多少は残ってないかな

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 13:44:49.25 ID:MT/ovAuy
田舎の落ち目に下げ渡されちゃった御局さん気の毒・・・
と思ったが、こーいうのって渡されちゃう人にもメリットあったんだっけ?

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 17:10:41.05 ID:8DfXhC16
仮にも前の公方様だから非常に名誉なことではあるんだよね
厄介払いって側面は否定できないけど

そういえば昔戦国大名ってボードゲームで将軍様(義輝or義昭)を引くと
強制雇用&給料馬鹿高いかわりに威信ってステータスが1上がるってあったのを思い出した

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 20:39:11.29 ID:FU/FH/Wt
>>481
公方なんぞ飾り物と申すかッ


義昭帰洛に関する天正11年の輝元宛家康書状

2013年02月20日 19:51

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 11:39:42.16 ID:7hBVIyPC
いい話スレで輝元と義昭の話が出てたので、義昭帰洛に関する
天正11年の輝元宛家康書状を紹介
----
公方様の帰洛について書状を受け取りました。
信雄、羽柴、その他家老の衆の請書も添えられており、即座に読みました。
拙者としては各々次第ですのでいささかも問題ありません。
他に東国に御用の際は仰せください、恐々謹言

  二月十四日 三河守家康(花押)
 謹上毛利右馬頭殿
----
足利義昭は本能寺の変の後、都へ帰洛しようと各所へ工作を行っていたが
この書状にも見えるとおり天正11年の初頭には、織田政権の合意を取り付け
帰洛は目前とも言える状況だった。

書状の主である家康は「みんなにお任せ」って感じでスルーっぽい対応。

このまま帰洛が実現すれば良かったんだけど、織田政権内部の抗争が
激化して「賤ヶ岳の戦い」や「小牧・長久手の戦い」が続発した事により、
義昭の帰洛は九州征伐後まで延びてしまったので、ちょっと悪い話だろうか。





足利義昭の最期

2013年01月05日 19:50

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/05(土) 17:51:19.54 ID:LwzvXhLM
ある時、毛利輝元が老臣を召して「公方義昭公は退屈な日々を送っている
ことだろう。かといって武家在家の人などでは安らかに伽することはできまい。
そこで我が領国の禅宗役に三人当たり一年代わりで伽を申し付ける。
この公方は詩連句を詠み秀才であると聞くから、相応の相手でなくてはならぬ」

と、命じた。老臣は承って寺領千から三千石などを寄付して、秀才の僧侶たちに
義昭を慰撫させた。義昭は大層喜び、彼等に慰めさせて一日を過ごすようになった。

それから歳月を経たある年に、鑑首座という禅律僧がいた。彼は天龍寺妙智院で
修行した悟道発明の僧であったので、義昭は仏法を皆首座に聴聞し、少しも側を
離さなかった。春秋に至っては山野の樹木、紅錦の林を飾る風情を観覧する時でも
この首座と同道して一日を過ごしていた。

さて、義昭には持病があった。この持病が殊の外悪くなり尋常ではない苦しみよう
だったので、人々は何かと義昭を労わった。御伽の僧たちが芸州へしかじかと
報せるとただちに名医が遣されて来た。医術を尽くして治療が施されたが、日々
容態は悪くなっていったので、人々は「どうなってしまうのだろう」と今になって
驚いた。そんな時に義昭は首座を枕元近くへ呼びよせた。

「我は武将の家門に生を受けながら戒力は薄く、その徳は備わらなかった。
だから織田信長に一度は救われ厚恩は感謝しきれないほどであったが、己身有世の
為にたちまちに我を排除した。そこを秀吉が情をもっていたわり、輝元が大分の扶持を
参らせ、そのうえに諸々の懇志があったことは後世までも忘れ難い。この旨を心得てくれ」

首座は涙に咽び、少し間を置いて上意を承った。そして「そのように心細く
思われますな。御顔の色はいつも通りですから程なく御快気することでしょう。
きっと御持病の程度がひどいので弱ってしまわれたのですよ」と義昭を慰めた。

その後、義昭は采女を召して「御料紙箱に色紙が二枚あるはずだ。持って参れ」と
命じた。首座は以前に色紙を望んだが今日まで打ち過ぎていた。義昭は「この世を
去ることになるから、これを取って筐に見てくれ」と言った。首座が頂戴して涙ながら
に見ると、そこには古歌があった。

「いづくにも心とまらば住かへよながらへばまたもとの故郷」
「朝露は消え残りてもありぬべし誰かこの世に残りはつべき」

二、三日経って義昭はますます弱っていた。暁方に監物入道と采女を召して
密かに話すことがしばらくあって、その後は仏号を静かに唱えていたが、明方に
眠るようにこの世を去った。遺言通り火葬にされ、遺骨は高野山に納められた。
また、かつて豊臣秀吉が田舎暮らしは退屈だろうと参らせた秘蔵の御局は中陰後に
京へ参らせた。万事遺言の通りに処理されたのであった。

――『室町殿物語』




40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/05(土) 20:32:02.34 ID:LwzvXhLM
>>39
ちなみに持病はさしこみだそうで。

義昭の暗躍

2012年06月22日 21:00

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/22(金) 16:26:37.14 ID:/ftld+HA
義昭の暗躍


秀吉の九州攻めの最中、司祭ガスパル・コエリョは秀吉を訪問するため、先に博多で待機していた。
そこでコエリョは、同地に足利義昭がいることを知った。
秀吉が備後から連れてきていたのだ。
コエリョは日本の風習通り、贈り物を携えて彼を訪問した。


『公方様は司祭を特に優遇し、きわめて教養ある言葉を用いて彼と語らい、手ずから杯と肴を供し、
日本式の麻衣であるカタビラ(帷子)二着を贈与した。
彼は談話の間、しばしば、かつ長時間にわたって、すでにデウスの教えについては幾ばくかの事を聞いているが、それらはことごとく神聖、
また正当な宗教であり、全く道理に基づいているものと思われる。
よって自分が当初の将軍職に復帰した暁には、当日本66ヵ国の全てにおいて、デウスの教え以外には
いかなる教えも説いてはならぬと厳命するであろう。
下関においては、その地を通過する際に1、2度キリシタンの話を聞きはしたが、なにぶんにも道中のことで
引き続き聴聞できなかったことゆえ、予に説教するため修道士を派遣してくれるよう尊師に願う次第だ、
と語った』



どう見てもこの話とリンクしていると思われたので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6516.html





足利義昭、九州にて暗躍

2012年06月17日 21:06

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 21:29:28.94 ID:MEQFHb/L
この時の公方は足利16代(原文ママ)権大納言源義昭であった。しかれども当時は
京都が荒廃の極みであったので、義昭公はこのころ、毛利右馬頭輝元を御頼りなされて中国に御下向され、
小早川隆景の領地、備前国深津へご住居されていた。

そうではあったが、将軍家の天下の再興の望みがあったので、今年(天正12年・1584)御帰洛したいとの理由で、
去る8月に上使として一色駿河守昭秀、槇島玄蕃充昭元を以って、九州の諸将へ御内書を発した。
この時輝元からも、その二人の上使に自分の使節として柳沢新右衛門を差し添えた。

別けても大友左兵衛督義統、龍造寺民部大輔政家、島津修理太夫義久のもとに上意の趣を伝えたのだが、
この三家はこの頃鼎の如く立ち並び、闘争の最中であったので義昭を援助する余裕はなく、上意に対しての
返答をとにかく引き伸ばし、このため上使たちは何も得るものなく帰っていった。

(北肥戦誌)

ちなみにこの頃の足利義昭による九州諸侯への協力要請は実際にあった話のようで、『寛政重修諸家譜』には
「島津義久、(天正12年)9月4日、義昭また書をたまわりて義久が力を借り帰洛せむことをこわれ、康次の太刀一振、
鞍一口を贈らるる」とある。

東国では小牧長久手により秀吉の拡大が停滞していた中、西国においても足利義昭が色々と暗躍していた、
という記録である。




985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 01:39:06.80 ID:H3WCTj/O
「16代」なのは再任官を代数に数えたからか

天正11年卯月六日・毛利輝元宛足利義昭書状

2012年05月12日 21:02

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 09:16:33.37 ID:DUenkhcI
天正11年(1583)4月、柴田勝家と羽柴秀吉の賤ヶ岳の合戦が進行する中、
備後国は鞆にあった足利義昭が、毛利輝元に対して発した書状


『度々そちらに申し寄越したように、柴田勝家勢が既に北近江まで進出しました。
上方で合戦が起こるのは至急の事だと認識するのが肝要です。
私の方からは小林家孝、今村を上方に遣わしました。
今、この事態に対しもし油断があれば、たちまち後悔する事になるでしょう。

并びに、当家(足利将軍家)の再興はこの時にあります。別して、毛利家が軍勢を上方に出すことを
頼み入ります。

猶、この事については真木島昭光が詳しく話します。

卯月(4月)六日                   義昭(花押)
     毛利右馬頭(輝元)とのへ     』

全く同文のものを吉川元春・元長親子にも送っている。
どうもこれは、柴田勝家を助けるための行動であった模様である。義昭は自身の京都帰還を条件に、
柴田勝家に毛利輝元、徳川家康などを結びつけようとしていたようなのだ。

賤ヶ岳の合戦を前にした、足利義昭の策動の一端である。
(徳山毛利文書)




136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 09:20:13.08 ID:4jftyOGG
ずれてやがる・・・義昭

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 09:39:05.90 ID:DzEURu8a
輝元「ま~た始まった。さっさと秀吉にこの居候を引き取ってもらおう。」

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 09:44:49.12 ID:gcWAO0CT
そういえば、光秀が上杉に宛てた
「上様の御上洛を手伝う約束をしてくれてありがとう」
的な手紙が、最近になって実は本能寺の変の時期に書いた手紙だったって説が有力になったらしい
この点から、光秀煽って信長殺させたのは義昭なんじゃないかって
「その時歴史が動いた」で放送してた

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 09:53:35.18 ID:TewGXaFI
歴史が動いたは作家が自分の妄想を披露する番組でしかないような

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 10:28:23.82 ID:6fw1/gKu
たぶん小牧・長久手の戦いの時にも同じ内容の手紙を出してるんだろうな

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 11:11:50.64 ID:MQWBSPIs
>>138
その時期に書いたもんだったならそもそも上様って信長のことだったりしねえか?

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 11:16:57.40 ID:qBbek2Ml
>>135
義昭=ルーピーのイメージ

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 11:25:10.71 ID:bJ+qhSHj
義昭の書状って返事も待たずに書き散らかした代物で
後から見た人間が勝手に騒いで遊ぶ玩具以上の物じゃないよなぁ

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 11:59:07.41 ID:gcWAO0CT
>>142
天皇か将軍にしか使われない文章ルールが使われてたからどちらかは確定らしい。
で、天皇が上洛って意味不明だから消去法で義昭宛って事を言ってた

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 13:35:37.74 ID:WKdDn7Jl
義昭はアフォって言うよりインケツって感じ。
信長包囲網とか、たまたま信玄が死ななければ、成功したんじゃないかな。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 14:19:43.80 ID:pKSFgug4
信玄が死んだ時はすでに瓦解してただろ。

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 14:38:01.07 ID:DzEURu8a
朝倉が退いて包囲網の瓦解が確定したから信玄ブチ切れしてたよね

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 14:48:08.00 ID:gcWAO0CT
それ以前にも信長死にそうだったじゃん
秀吉光秀のチート家臣コンビのお蔭で助かったけど

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 16:09:35.85 ID:CtL9kiUh
つまり信玄なんていらんかったんや!
ってか信玄が死んだ後に義昭は挙兵する、という全く情報収集を欠いた姿勢で自滅しとるよね。

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 16:14:53.12 ID:CtL9kiUh
>>149
志賀の陣のことなら、その二人は決定的働きしてないよ。
朝倉びいきの江戸期の軍談だと信長の土下座外交が決め手。
当時資料だと、帰路が雪に閉ざされる朝倉軍が根を上げて義昭に頼んで和睦。

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 16:15:27.51 ID:1gZWadSc
一向宗と畿内の諸大名との間に渡りをつけることができたら織田家を妥当できたかもね
とはいえ、現実には包囲網もずさんで連合の実質的な盟主として活躍していたとは言い難い
情報収集力のみならず調整力の欠如からして、将軍の器ではなかったのだろう

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 17:01:31.97 ID:dj0URJpg
そんな器量あれば幽斎様が離反しなかったろう

只今は如何如何に

2012年05月03日 21:03

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/03(木) 11:45:07.69 ID:4oDYZnOV
秀吉は信長の仇の明智を討ち、また柴田を滅ぼしたので、もはや天下に自分の敵はないと思っていた。
そのためこの軍功の賞として征夷大将軍職が欲しいと願っていた。

その頃、足利尊氏初代将軍から十四代後の将軍足利義昭はいまだ中国地方にいたので秀吉は使者を送り
「私を養子にして下さり征夷大将軍職をお譲り頂ければ、あなた様を敬い奉り富と栄誉を回復させてあげましょう!」
(吾を養子に被成下、征夷大将軍をゆづり給はらば、敬し奉り富貴栄花をひらかせ申さん)
と義昭に訴えた。

が義昭は天然の馬鹿(天性愚生)だったのでこの絶好のチャンスに
「卑しい身分の分際でよくここに来れたな!」(卑姓の身として是推参なり)と怒ってそのまま使者を追い払ってしまった。
秀吉はムカついたがどうしようもなかったので菊亭晴季に相談して、関白に就任し朝廷から豊臣姓を賜った。

その後秀吉は毛利輝元の館に行ったときに義昭が輝元の庭の前に立っているのを見かけたのでこう言った。
「今ちょっといいかな~?かな~?」(只今は如何如何に)

義昭は手をついて腰を折り大いに秀吉を敬っている様子だったとさ。

元禎筆記より




9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/03(木) 16:24:02.56 ID:iUXj9ZBD
こんな感じか 

                       ∩___∩
     __ _,, -ー ,,             / ⌒  ⌒ 丶|     只今は如何如何に?
      (/   "つ`..,:         (●)  (●)  丶        只今は如何如何に?
   :/       :::::i:.        ミ  (_●_ )    |
   :i        ─::!,,     ハッ  ミ 、  |∪|    、彡____
     ヽ.....:::::::::  ::::ij(_::●    ハッ    / ヽノ      ___/
    r "     .r ミノ~.      ハッ   〉 /\    丶
  :|::|    ::::| :::i ゚。            ̄   \    丶
  :|::|    ::::| :::|:                  \   丶
  :`.|    ::::| :::|_:                    /⌒_)
   :.,'    ::(  :::}:                    } ヘ /
   :i      `.-‐"                    J´ ((

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/03(木) 16:29:41.30 ID:3gRWC64H
. 0ニニニ)而}ニニニニニ),リリニニ)
.   L| |_____|____| |
    l | |._______| |  ,:
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  |\゙;三三゙';三三三,;゙三三\ ;'
  |\\三三゙三ジジ三三,''三;'\,;'  ;'
  |、 \\三゙;三三ジジ・'三三三;\ ;
  0ト、\\\;'三三;'三三三;''三三,;'\
    \\\| 炎炎炎炎炎炎炎炎炎 |
      \\| 二I二二I二二I二二I二 |
       \LI二二I二二I二二I二二」
        0」            0」

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/03(木) 17:34:54.24 ID:YDAW1rsX
>「今ちょっといいかな~?かな~?」(只今は如何如何に)
これ、近況聞いてるんだと思うんだが
「おう、お前んとこの景気どうよ?わいの申し出断ったんやからさぞ景気ええんやろうなあ(ニヤニヤ」
みたいな

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/03(木) 21:30:44.75 ID:pdWNygIe
「最近調子どう~?(ヘラヘラ」くらいの意味だろうな

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 17:37:48.52 ID:FjlMaFMg
>>9
糞ワロタ

毛利家、賤ヶ岳の裏で

2011年10月05日 22:03

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:51:34.89 ID:ipCvu13n
天正11年4月、近江では賤ヶ岳の戦いが進行していた。

さて、柴田勝家は3月より備後鞆にある将軍足利義昭と連絡を取り、義昭の上洛を支持し、
義昭を通じて毛利が対秀吉の軍を出すことを求めた。
ちなみにこの義昭の上洛に関しては、徳川家康も支持を表明しているので、かなり大掛かりな
政治的策動があった模様である。

この義昭よりの要請に毛利家当主毛利輝元は、談合衆(毛利家最高幹部)の吉川元春小早川隆景
福原貞俊に意見を求めた。

彼らの出した結論は

『両軍の強弱が解らない以上、我らは両方にいい顔をして、動静を見守っているのが良いでしょう。』

方針はそのように決まった。

現実的といえば実に現実的、野心がないといえば実に野心の無い、なんとも毛利的な政治判断と言えるだろう。
(毛利家文書)




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 00:10:45.93 ID:wZjgziK+
佐竹さんが羨ましそうな眼差しでこちらを見ています

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 08:50:36.51 ID:+/YwN+r7
関ヶ原とは状況が違うから比較できないけどな

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 15:58:58.06 ID:EJ5Trvwq
よっぽど秀吉軍がトラウマだったのか?

足利義秋への落首

2011年09月09日 22:22

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 21:35:22.93 ID:rlYfoPek
有名な落首のお話。既出でしたら御容赦を。


永禄8年(1565年)5月、松永・三好の軍勢により将軍足利義輝は暗殺される。
義輝弟で奈良興福寺一乗院の覚慶も厳重な監視下に置かれたが、幕臣らの働きに
より、7月末、近江国甲賀郡の和田惟政の許へ脱出した。まもなく同国矢島に移った
覚慶は、還俗して名を義秋と改め、諸国大名へ手紙による援助要請を開始する。

上杉輝虎、北条氏康、武田信玄、朝倉義景、六角承禎、畠山義綱、織田信長、斎藤龍興
島津貴久、相良義陽、etc etc

だが、どの大名も動かない。
奈良脱出に尽力した朝倉義景は上洛構想を持ち合わせず、武田信玄は遠方を理由に
拒否、上杉輝虎も武田・北条の動きを懸念し動くに動けない。一旦は講和を了承した
織田信長と斎藤龍興は再び干戈を交える有様である。そのうちにお膝元の六角氏の
様子も怪しくなり、三好軍も攻め込んで来る。やむなく京よりさらに遠方となる
若狭国へと脱出、のち越前へ移ることとなる。


二進も三進もいかなくなったこの頃の義秋を皮肉ってこんな落首が作られたという。


『こよこよと すりあけ物の奈良刀 みのながいとて 頼まれもせず』

こよこよと  →「出兵してちょうだい」という義秋の叫び
         (「うちにおいでよ」というばかりの朝倉義景のことを指すとも)
すりあけ物の →剃髪者、すなわち覚慶=義秋

奈良刀    →奈良で作られた刀、粗悪品が多く鈍刀の代名詞
        すなわち奈良興福寺にいた覚慶=義秋

みのながいとて→刀身が長いからといって  美濃の長井氏(斎藤氏の前姓)だって

頼まれもせず →誰が買うもんか  頼みにならんわ(嘲笑)


辛辣だねえ…やっぱり作者は京の公家あたり?




790 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/08(木) 21:39:11.13 ID:3zF9S54S
私です。

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 21:41:39.33 ID:rlYfoPek
>>790
名乗られよ

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 21:50:39.63 ID:lK534Zs3
>>789
思い違いだったら悪いんだけんども、義昭でねえべか

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 21:54:23.90 ID:tJHSZLtm
>>792
義昭は
覚慶→義秋→義昭
と改名してる。「義昭」の改名は永禄11年(1568)4月15日

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 22:01:31.70 ID:lK534Zs3
なる。ありがとうです

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 23:34:50.44 ID:A4ZoQvuK
仮に島津、相良が動こうとしても九州だし動けないよな。

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 01:13:25.26 ID:I8ULHjBE
足利氏は嫌われていたってことか

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 01:17:13.74 ID:GQDIxff8
動けなかったんじゃないのかな?
三好や義栄のこともあるし

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 01:23:34.55 ID:bG0sHAHA
大友なんかは何かある事に「ホントは都に上って公方様にご奉公したいのに大内(毛利)が邪魔して
できないんですよー(棒)」って言ってきてるなw

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 09:29:54.32 ID:L3K9Pxy9
はるばる京都まで行って、その隙に領地を他国に落とされたりしたらそれこそ笑いものだしなあ

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 09:56:12.94 ID:OvixDAxa
景虎さんは上洛する事を周知してから、少人数で上洛
したことあるよね

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 10:06:20.95 ID:sOte0jDb
>>801
大内義興は上洛したけど畿内に拠点を築けないまま
尼子の活発化で帰国したんだっけ

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 12:56:47.64 ID:PCPFy3SN
「すりあけ」は、刀の磨上げの意味もかけてんのかね