fc2ブログ

花よりも 団子の京となりにけり

2022年08月22日 18:28

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/21(日) 21:39:56.39 ID:2Xr6PBKW
かくれなき藤戸石(現在京都醍醐寺三宝院の庭園の主石として設置されている名石)を、上京細川殿の御屋敷より、
室町畠山殿御屋敷へと、織田信長公が引かれたのだが(永禄12年の義昭二条城建設の時の輸送)、
これを引くのに数日間の御手間がかかった事について、京の徒者たちはこのように詠んだ

『花よりも 団子の京となりにけり けふもいしいしあすもいしいし』
                    ※いしいしは女房詞で団子の意味

この年の御普請には、江州衆が別して精を入れられたため、その事についても又徒者たちが

『なまなりの すしとぞ見ゆる あふみ衆 おもさの石をもたぬるはなし』

寒川入道筆記



スポンサーサイト



公方義輝公を弑し奉った事について

2021年08月23日 16:27

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/23(月) 14:51:42.36 ID:X36Q9D4/
永禄八年五月十九日、京都に於いて三好左京大夫義継、松永右衛門佐久通らが逆心し、公方義輝公が
御生害された。これにより畿内は大いに乱れ、公方の御弟である一乗院覚慶は南都を落ちて江州矢島に
至り、公方家再興のために還俗、義昭と号した。

七月、上杉謙信は二万の軍勢で越府を立ち越中へ入り、そのまま直に進んで加賀国へ攻め入り、
若林長門守、蕪木右衛門尉、石黒、宮崎、南保、高楯、入善等を攻められた。
この後、長尾兵部尉景盛、島山因幡守両使を江州矢島へ遣わし、義昭公へ御兄公方光源院殿と
御弔いを申し上げられた。

この時三好義継が逆心にて、公方義輝公を弑し奉った事について、その七ヵ年以前、永禄二年の夏に
謙信が上洛して十月に至った頃、三好長慶を始めその一門、並びに松永、岩成、松山党などの
驕り甚だしく、公方を蔑ろに致している様子を謙信は見届け、いずれ三好逆心の相有りと察した。
そこで京を立ち越後へ帰る砌、御暇乞を申し上げ、密々に言上したことには、

「三好一家無礼にして終には反逆の相が御座候。もしそういった様子が見られたときは、早々に
私に仰せ下されますように。馳せ上がり退治いたします。」

という旨を申し置かれたが、これに公方義輝公は御喜悦斜め成らなず、御手づから藤林という名物の
國綱の御太刀を下され、必ず御頼りあるべき旨を、懇ろに御堅約された。

去る年、子七月四日、三好修理太夫長慶が病死した。三好一門、家人はこれを秘して喪礼を致さず、
病中と申す沙汰を致したのだが、これが密々に公方の上聴に達し、不審に思われている内に、反逆の
様子が徐々に顕れた故に、公方は大和兵部少輔を御使として越後に下され、早々に謙信が上洛するよう、
密々に御内書を下された。しかしこれを三好が聞きつけ、
「謙信が上洛すれば中々叶うべからず。その前に取り掛かるべし。」
と、俄に思い立ち逆心し、公方を弑し奉ったのだと云われた。

太祖一代軍記



足利義昭への謁見

2020年11月04日 16:48

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/04(水) 15:34:53.38 ID:bivcHs1J
尾張の王(信長)への訪問後二日を経て、和田殿(惟政)は多数の兵を率いて当地に来たり、
「公方様(足利義昭)が私を引見することを協議したので、速やかに準備すべし」
と云った。

彼はすぐに宮殿に到って、私を待ち受けた。公方様は彼を甚だ寵愛しているがゆえに、私が何人で
あるかを告げ、パードレの名誉・地位を月の角の上に置かんとした。
私は人を堺に遣わし、ローケよし借り受けた美麗なる孔雀の尾を持参した。

公方様はその盃を私に与え、和田殿は私の次にこれを受けた。尊師の知られる如く、公方様は日本の
彫像にして、これを訪問する者に、一言をも述べるのは極めて稀な事であるが、この時は二回、和田殿に対し
私に勧めて飲ましむべしと云い、次に、彼に贈った品を喜んでいることを告げた。

私が座を立った時、彼は後より密かに座敷の戸を見、私の身長がどれほどかを計った。
我等が外に出た後、和田殿に対し常例の挨拶をなし、「公方様がもし、印度の品にて好むものが有れば、
我等は喜んでその命に応ずべし。」と述べると、彼はこの事に付き尽力し、支那の船が来た後、自分に
告げるようにと伝えた。

この訪問は、我等が都に滞在するための手始めであるが、主要にして最も確実なのは、ゴシュインと称する、
朱の印の免許状、すなわち我が国の国語にて、信長の命令、及び公方様の免許状、即ちゴゼンジ(御宣旨)
を入手する事であり、中でも信長の免許状は特にこれを請うたが、和田殿はこの交渉を引き受けた。

『一五六九年六月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

フロイス等の足利義昭への謁見について



678 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/11/04(水) 20:51:01.23 ID:kyhY7BdG
>>677
月の角の上ってなんでしょ
原文が日本語の直訳で再翻訳したらよく分かんなくなった感じ?

日本の諸宗教の中で最も傲慢、自尊にして放恣なのは

2020年10月30日 16:39

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/30(金) 00:12:55.21 ID:S2VucTA+
私は、我等が主デウスが現世に於いても、その裁判によって悪人に悪事の報いを與え給う大いなる摂理を
賛美すべき他の一事を尊師に告ぐべし。

日本の諸宗教の中で最も傲慢、自尊にして放恣なのは、釈迦を尊信する法華宗と称するもので、その坊主は
福音の教え(キリスト教)の最大の敵にして、排斥者である。
その寺院の中に、ロチオ(六条本圀寺)と称し、甚だ富み、恐るべき罪を犯す者達が有る。

この寺院は尊師も既にご存知のように、弾正殿(松永久秀)が公方様(足利義輝)を殺した時、これに
千五百クルサドを贈り、ガスパル・ビレラ、及び私を殺すよう命ずることを請うたという多くの証拠がある。
しかし我等の所持していた免許状により、この事は不可能だったので、せめて我等を都より追放し、会堂を
奪うことを求め、これを実行した。我等が都を出る時、同寺の坊主は悉く来て、我等の追放を喜び、おおいに嘲笑した。
その後、寺院の側に、ギナイ(寺内)を造った。即ち美麗なる別荘にして、自由にその悪事を行い、
またこの世の富を増加する為である。

我等の主デウスがキリシタンの敵であることにより、ソータイ(霜台:弾正の唐名、松永久秀)に與え給いし
第一の罰は、約二年半、彼を敵の攻囲中に置いたことであり、第二は公方様(足利義昭)の赦免を得、
尾張の王(信長)の寵を受ける為に、一万クルザド余の最も良き品物を贈ったことである。
第三は、その世俗の権力を、十の内八を失い、今彼を重んずる者は居なくなるに至った事である。

ロチオの寺院の坊主たちは、尾張の王がこの公方様(義昭)を、その兄弟の位に復せん事を知り、遥か以前より
越前及び尾張の国に至り、公方様、及び上総殿より特許状(禁制)を得、軍隊が都に入る時、その寺院は何ら
害を被らず、またこれを宿舎としないよう計った。このために一万クルザドを消費した。
彼等は大いに安堵して喜び、その寺院に帰ったが、公方様(義輝)と共に、その母を殺した時、彼女の家が
甚だ佳い為、坊主たちは弾正殿の寵により、これを破壊して持ち出した事を聞いたと見え、
公方様(義昭)は都に入った時、その報いとして、部下を同寺に宿泊せしめた。
彼等はこのような大いなる圧迫を加えられないよう願ったが、彼(義昭)はこれを嘲笑した。

カンニシュ(三人衆)等が、公方様の滞在した寺院を囲もうとした時、第一に行ったのは、彼等の造った
新しいギナイを焼き、一軒も残さなかった事である。然れども、未だ坊主には、このような不幸によって
気づくものが無かった故に、彼等の艱難と不安はこれによって終わると考えていたが、その後、信長は
(二条城の)石材工事は既に終わったが、もし公方様の宮殿を新たに建設する時は、非常に遅延し、
公方様がまた、速やかに城に入ることが出来ないと思い、何ら躊躇すること無く、同寺の美麗なる座敷、
その他の部屋を破壊し、悉く屏風(画いた布の折り畳むもの)及び、甚だ良き絵画を出させ、直ぐにこれを
公方様の城を飾る為に用いた。

坊主等一同は弾正殿の元に赴いて、彼等のために信長に取りなすことを請うたが、王の一度定めたことを
変更する事は出来ない故に、これを為すことは能わざると答えた。
市の法華宗徒約千五百人が会合し、「殿下の望みに任せ、金銀如何程にても出し、日本全国に有名たる
かの寺院に対し、このような屈辱を加えることを中止するよう信長に請願してほしい」として、
内裏、及び公方様の元に赴いたが、何等の功無くして、悉く破壊され、坊主たちは涕泣した。

先に伝えたキリシタンは、公方様の家臣である故に、上記の座敷の甚だ良い道具を、我等も滞在する
当家に持ち来た。
傲慢なる悪魔の堂は、このような不幸に遭遇したが、我等の主がその霊魂に幸福を与え給わん事を。
(一五六九年六月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰)



言継卿記より、本圀寺の変について

2020年10月28日 17:49

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/27(火) 22:08:30.83 ID:AXIGWCDj
永禄十二年
一月四日
南方より敵(三好三人衆)が出張し、塩小路まで出てきたという。東岩倉の山本は敵になったという。
勝軍の城が焼かれ、その他田中、粟田口、角社一間、法性寺など、多く焼かれた。ぬかの小路は殆ど焼かれた。
京中は以ての外の騒動と成っている。

五日
三好日向守(長逸)、同下野入道釣竿(宗渭)、石成主税助(友道)以下、今日悉く本圀寺に取り詰め
これを攻め、午の刻(正午頃)に合戦、寺の外は焼かれ、中堂寺、不動堂、竹田などが放火された。
武家(足利義昭)の御足軽衆以下二十余名が討ち死にしたという。攻め手の衆も、死人手負いが数多あるという。

六日
内侍所の簀子より遠見をした。南方は所々放火され、四、五百ほどの人数が如意寺の嶽を越え、志賀は
少々放火されている。晩頭に帰る。南方(三好三人衆勢)の事について聞くと、方々で彼等は敗北したと言っている。

三好日向守以下は七條に向かったが、これに西より池田、伊丹衆、北より奉公衆、南より三好左京大夫(義継)が
彼等と戦い、三好義継が鑓を入れ、三方より斬りかかったため、三人衆以下は申の刻(午後四時頃)敗軍し、
多くが討ち死にしたという。その後黄昏に及んだため、殊更の事は無かった。

七日
七條において、昨日討ち死にした衆は千余人という。ただし彼等の名字や特徴は解らないという。
石成主税助は北野の松梅院に逃げ入ったという。そこに各々討ち入り、松梅院は破却されたという。
久我入道愚庵(晴通)によると、細川兵部大輔(藤孝)、池田筑後守(勝正)の姿が見えないという。
三好日向入道以下は、各々八幡へ落ちていったという。

九日
耆波宮内大輔が礼に来て、盃を勧めた。三好左京大夫、細川兵部大輔、池田筑後守等は西岡の
勝隆寺へ、昨夜入ったと言うことを雑談した。

十日
美濃より織田弾正忠(信長)上洛、松永弾正少弼(久秀)も同道したという

言継卿記

言継卿記より、本圀寺の変について



義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について

2020年10月27日 16:25

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/27(火) 00:30:24.00 ID:AXIGWCDj
永禄十二年(1569)四月二日
織田弾正忠(信長)の所へ罷り向かった所、留守であったので二条城の普請を見物して帰った。
石垣三重は悉く出来上がり、また南巽のだしの石垣も出来、今は東のだしについて、少々出来ている。
この方にあった近衛の敷地は、悉く奉公衆の屋敷となった。不運の至である。

織田信長の使いの木下藤吉郎が岡殿の所へ参ったので、私も参った。丹州の知行、佐伯の南北両庄について、
細川右馬頭が代官職を内藤五郎に渡さないため、この内藤に、木下が相添えてこれを進め、代官を
仰せ付けると申したことで、近く両人に様々に問答を加え、この両庄より八十石を岡殿に進納することに
定まったという。羨ましい事である(御浦山敷事也)
藤吉郎と対面し、盃を下した。

言継卿記

義昭二条城普請の様子と、当時の秀吉の働きの一端について



竜造寺隆信は念入りに世の転変を了簡した

2020年07月21日 18:10

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/21(火) 00:19:32.56 ID:kYKXU6n9
元亀二年毛利元就、芸州に卒去す。
嫡孫輝元家を継ぎ、二男、小早川隆景が家のことを執り行った。
竜造寺隆信は念入りに世の転変を了簡した。
「その昔、大内氏全盛の時は、かの家に通じて家業を落とさなかった。大内は既に滅んで、毛利氏中国を呑む。
 我は初めより元就に志を運んだ。元就既に卒去し輝元その跡を継ぎ、今、義昭将軍は、輝元のもとにおわします。どうして弔い申さないでおられよう。」
かくして鍋島信生を使節とし、隆景に付いて義昭卿に通じられた。
将軍ことに御悦喜なさり、九州平均の命を隆信にくだされた。
隆景と信生は関係良好であったので、将来のことなど談ぜられ、信生は帰国された。
隆信は将軍の命を受けた後は、いよいよ弓矢の工夫を怠られることなく、九州平治の計略の外他事なかった。

肥陽軍記



十七ヶ条の意見書

2020年06月30日 18:00

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/30(火) 01:40:08.43 ID:G1TABAxh
元亀三年の冬、織田信長は十七ヶ条の書付を以て足利義昭に諫言を遂げた。
この諫言の書は信長記(信長公記)にこれ有り、右は何れも忠言である。
後に武田信玄はこれを見て、信長を「ただ人ならず」と云ったという。

元亀四年(天正元年)正月十日、松永久秀は織田信長に降参し、岐阜へ参上した、
この時、不動国行の刀、薬研藤四郎の脇差を進上した。これらは何れも天下無双の名物であった。
このように松永が降参したのは、佐久間右衛門(信盛)の取り扱いを以てであった。

この頃、将軍足利義昭は信長を亡ぼす旨を思い立てられた。これは去る年の冬に信長が出した
諫言の書(十七条の意見書)が御耳に逆らう故であると聞こえた。

当代記



存命は 又信長や忍ばれん

2020年06月13日 17:26

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/13(土) 01:31:09.72 ID:C/rfgG4J
永禄十二年(1569)五月二十日、織田信長は勢州の北畠が上洛しないため征伐するとして、数万人を率いて
彼の国へ発向し、同十一月まで百余日在陣し、所々の城を攻め破り、或いはまた和議を知れて、勢州を残らず
一統に退治すると、直ぐに同十一月十一日、勢州より上洛し、この事を将軍・足利義昭に言上すると、
公方家は大いに御感有って、國光の御脇差を下賜され、御暇を賜り帰国して、長陣の疲労を休息し、大将も士卒も
相悦んで越年した。

そのような中、信長より任命された朝山日乗村井貞勝島田秀満の三人の奉行は、諸公家と相談し、旧式
先例を正し、禁中の御修理の事も三ヶ年で成就したため、今上の御移徒があった。
諸公家、堂上の面々も皆、信長より宅地を修理され、乱中に領地を奪われた人には、旧規証文の旨に任せて
各領地を還付されたため、朝廷も諸公家も皆々安堵の思いを成し、

「織田弾正忠信長は近代無双の執権也」

と、都鄙遠近ではそう美談した。然れども、京童の曲として、その頃このような一首の落首があった

「存命は 又信長や忍ばれん 憂と三好ぞ今は恋しき」

續應仁後記

本圀寺の変の後くらいの、信長の評判について



【雑談】信長と”天下”の関わりについて

2020年04月11日 14:49

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 14:22:51.90 ID:E6v72Oay
そも天下人なる気満々ですって大名いないって言いきってしまっていいんじゃない?
信長も成り行きで義昭追放しちゃっていつの間にか天下人にならざるを得ないって感じだし

みんな成り行きでそうなっちゃってるだけで信長の野望みたいなみんな天下狙ってるってのは幻想じゃないかね
二天戴かずが前提思想の三国時代の皇帝とはまた全然違うんだしさ

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 21:03:16.67 ID:6VXTQWG8
天下統一なんて言い出したら、周りの大名全員敵になるんだし、なかなかそんなこと言えないわな

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:34:41.43 ID:8eO/gKZ8
言えないし、そんな言えもしないこと狙わないわな
基本的に戦国大名権力て中央から自立した地方政権目指してる

元々三好政権は管領家の有力家臣だったからこそそれに代わって
中央政権を握ったわけだしちょっと意味合いが違う

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:40:59.69 ID:ML/TB4kM
信長は義昭連れて上洛してから一年後にはもう天下を差配する気満々だっただろ

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 23:13:46.94 ID:fCteDSrE
天下を差配ってのが義昭を盛り立ててって意味ならそうかも

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 20:25:12.48 ID:8cJCxjG2
>>942
秋に義昭を上洛させて年明けすぐに殿中御掟で義昭縛ってるんだから義昭なんかお飾り程度、せいぜい和睦便利ツールの認識だろ

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 20:45:15.98 ID:tmPlr+RY
殿中御掟は至極当然のものってのが今の研究よ
あれは縛りでもなんでもなく、当時の将軍の慣習をそのまましたためたと見るべきって感じなんだそうな

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:11:50.75 ID:8cJCxjG2
という体裁で義昭をコントロールしてるわけだが
本当に義昭親政を望んでるなら御内書の発給をやめろとかましてや上意を得るに及ばずとか言わんわ

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:21:02.64 ID:tmPlr+RY
うーん、その辺りもちゃんと理由があって信長は蔑ろにしたわけじゃないんだけど
多分説明をいくら重ねてもあなたは納得しないだろうから
とりあえず最近の信長研究のいくつか追うのをおすすめするよ

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:35:41.94 ID:8cJCxjG2
>>957
君こそ新しい研究に振り回されすぎ
歴史研究ってのは前の研究否定しないと始まんないから一般人は騙されやすい
気をつけな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:43:04.83 ID:tmPlr+RY
その辺りも読んだうえで納得できる研究として最近の研究読んでるから、振り回されてないと自負してるよ

とりあえず最近の研究だからって理由で読まない信じないとかしないで読んでみてね

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:48:02.59 ID:q/S1iuqm
事実として、殿中御掟は出されたあともまるで守られていないし、
信長側もそれを、少なくとも記録上は問題視して無いんだよな。

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 22:09:39.65 ID:8cJCxjG2
>>960
追加の五ヶ条を何のために出したと思ってんのか

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 22:19:19.41 ID:tmPlr+RY
信長の求めてるのは今までの慣例の室町公方としての義昭であって
節操なくそこらじゅうにお手紙攻勢しかけて将軍親政を目指したかったであろう義昭の思惑とは別やからね

ただそれはおみこしにしたいとは別やろって話
それこそ最初から言う事聞かせたいなら追加なんて形じゃなく最初から出すわけでな

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 22:59:05.69 ID:8cJCxjG2
>>962
なんで義昭に従うつもりの信長が義昭の目指したい思惑を無視してコントロールしようとするんや?自分でおかしなこと言ってると思わんのか?
そもそも室町幕府のオーソドックスな幕臣であることに甘んじるならなんで義昭からの職を受けんのや?
なんで慣例通りに京に住まずに岐阜に留まり続けたんや?
信長は追放するまでは義昭に従って室町幕府を盛り立てようとしたって視点は面白いかもしれんが色々説明できんことが多すぎると思わんのか
まぁもうスレと関係無くなりすぎたんでもうこれで仕舞いにしますわ
すんませんな皆さん

964 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/10(金) 23:07:37.57 ID:mN+/uhzy
学者の新説ってのは主に業績アッピルのためだからな
最近は「実は~~」ってのに弱いやつが増えたおかげで新説のバーゲンセール状態

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 23:08:09.38 ID:9u0C0cg2
将軍より幕府が大事っておかしなもんじゃない、この時代でもいくらでも例があるし
その後もある、お家を守るために藩主を押し込めるってね

最近の研究だと、信長は管領と同等の扱いを幕府・朝廷から受けていたという説もある

京都に邸は、実はなんどかしようとした、義昭の斡旋もあった
その都度いろんな理由で案が潰れているけど

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 23:18:03.47 ID:tmPlr+RY
君はそこ疑問に思うのか
いや従うって別に将軍に好きなようにさせる事でもなんでもないでしょ?
ましてや今までの将軍家の慣習を完全に無視して行動しようとするなら猶更

義昭からの職を断るってのはどこの話をしているのかちょっとわからなかったので返答を控えさせていただきます

また慣例通りも何も信長は幕臣でありつつも国の当主です、住まないのは義昭なんてどうでもいいってのは暴論が過ぎるかと

それこそ義昭追放は義昭をおみこしにしたかったからだっていう結論のために無理くり行動をいくらか無視したり無理のある動機付けばかりじゃないですか、改めて言いますが偏見持たずに一度最新研究も読んでみてください
こちらもお騒がせしたことをお詫びします、皆さん申し訳ありません

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 23:55:07.04 ID:RKKErLK6
俺は評価するよ

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 00:06:07.03 ID:7FRNHSYh
最新研究連呼するだけで具体的な論拠無し

豊前陣撤退から毛利隆元の死去まで

2020年04月09日 18:07

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 22:36:47.37 ID:7j1OFAgQ
山中鹿介による尼子再興軍挙兵の報が)毛利元就に注進され、山口の高峯城へと告げられると、
この頃元就は、山口の隙きを明け諸勢を豊前に渡そうと思っていたのだが、思いの外の報の到来に、
豊前での取り合いを嫡男・隆元に任せ、豊前に派遣する予定だった軍勢を召し連れ山口を打ち立ち、
夜日を継いで雲州上日郡(原文ママ)に陣を据えた。山中鹿介も雲州に打ち出て山際に陣を取って対陣した。

このような中、豊前国の毛利隆元の陣に、その御代の公方・光源院殿(足利義輝)より、毛利大友和平の
御扱いとして(筆者注:実際には足利義昭による扱いである)、毛利家へは聖護院(道増)、大友へは
久我殿が御下向し、上意の旨は、

『前々大内が分国、防長両国の義は毛利元就が切り取った地であるので、毛利の分国とするものである。
西海九ヶ国の内、豊前筑前の義は存ずべからず。大友が只今保持しているものである。
諸士はこの旨に相従い、国々を堅固とするように。』

との仰せであった。上意に任せ、大友の軍は引き退き、毛利隆元も松山の城に籠め置いた口羽常吉、
その他諸軍を召し連れ長門国に帰陣した。そして聖護院殿のお供申し、宮島に渡った。
聖護院殿の御宿は座主、隆元の御宿は大願寺であった。

また、元就は雲州上日郡より聖護院殿に使者として福原貞俊を派遣して、
『御尊顔を拝する事が尤もであるのですが、軍陣の状況のため御免させて頂きます。畏まり、
忝ない事ですが、隆元がそこに居りますので、御請方々、頼み奉ります。』
と伝えた。

宮島には二十日ほど御逗留し、御馳走として神前にて能などが仰せ付けられ、御会釈相調い、
聖護院殿は御帰洛された。

そこから毛利隆元は直に雲州へ登られ、吉田郡山の麓も通られたのだが、元就は先陣に在るという事で、
その時は郡山城に御立ち寄りなく、佐々郡と申す所まで御越しになり、人数を揃えるためとして
一両日逗留したのだが、この時、不意に頓死された。享年四十一歳であった。
各々仰天したが、是非無く、この事を元就が聞くと、心の塞がりようは浅からぬものであった。
さりながら、「隆元を弔うための手切れの合戦であるべし」と、山中鹿介の陣山近くに陣を寄せた。

毛利元就記

毛利隆元の死去までについて。



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:13:19.77 ID:FV4Nvjb2
何も前触れのない突然死だったんだな。毒殺とも言われてるんだっけか。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:34:26.86 ID:uuQ9h7Na
赤川さんを殺してしまった元就の悪い話…和智もほんとに暗殺したのかわからんけど

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 21:06:33.59 ID:6VXTQWG8
そういえば、3本の矢の話が、「元就が死に際に3人の息子に言った」みたいに紹介されてることがあるけど、何をどう間違えばそういう話になるんだろうな

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:52:12.88 ID:uuQ9h7Na
>>958
戦前の教科書にのってたらしいしその影響じゃないの
自分はドリフのコントで知ったけどw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 02:07:49.95 ID:pF+bUfNd
>>958
あれ、元の話だと、隆元元春隆景じゃなくて、庶子三人だったらしいぞ
修身の教科書になるぐらいで、隆元以下に改変されたらしい

三村家謀反

2019年12月28日 16:24

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/28(土) 12:32:23.90 ID:MegngOMD
ここに源家の末葉、備中守護、松山の住人である三村修理進元親が、先父・家親の亡魂を休めんがために
よしなき謀反を企てた。その発端は、将軍・足利義昭が既に西国に御下向あって、中国は悉くその武名に
傾き、御帰洛の謀がしきりと聞こえてきたため、京の平(織田)信長は驚き、謀を廻らして、当国の
元親に密使を立て、自身に味方すれば備後備中両国を宛行うと伝えた。

これに三村元親の一族が馳せ集まり「これぞ願う所の幸いである。何故なら父・三村備中守家親は累年
宇喜多(直家)に遺恨を含み、数回に渡って戦ったが、宇喜多の一族である河内守(遠藤秀清)が備前の
徳良城に在って、家親を暗殺し、剰え当国佐井田庄に攻め入り嫡子・少輔元祐も討ち果たした。
その二代の怨敵を追討する時を待っていた所に、信長より一味を求める使いを得た。急ぎ微運の大樹(足利義昭
を攻め討ち、忠を尽くし功を立て、信長の助力を以て宇喜多一族を攻め滅ぼし、一家鬱憤の眸を開くべきである。」
そう躍り上がって一議した。

ところがこの中で、同国成羽城主・三村孫兵衛尉親成、同男子孫太郎親宣はこれに同意しなかった
「父の怨敵を討つのにどうして他の力を借りるのか。凡そ武士は忠に止みて仁義を宗とする。たとえ君が
無道であったとしても臣は臣たるべきを道とする。信長の虎狼の謀に従って一家不義の逆臣と成ることも
口惜しい。今信長は不義に誇っているが、これでどうして世が治められるのか。剰え逆心に翻る志は、
人の為す行跡ではない。このような不仁の大将に頼みを掛けて一体どんな益があるというのか。」

このように、義を専らに誠を尽くして諫言したが、良薬口に苦く忠言耳に逆らう習いであれば、一族は
この諫言を憎み、既に彼らを誅殺しようとした。これに親成父子は驚き、天正二年十一月七日の夜、急ぎ
将軍義昭の在る鞆の津へと馳せた。

この事態に元親の家臣が集まり、親成を引き返らせ一族和睦すべきだと議したが、元親の舎弟である宮内少輔元範、
上田孫次郎実親を初めとして「その儀は叶わない事だ。既に神詞を固めており、和睦の余地はない。」と言った。

こうして三村親成父子は鞆の津に到着し、一族謀反の事を訴えた。これに将軍義昭は驚き給い
「私は遠く(織田信長)を慮っていたが、近く足元に敵が在るとは思わなかった。この事いかがすべきか。」
と、早速三原に御使いを立てた。三原の小早川左衛門佐隆景はこれを聞いて「当家の大事これに過ぎず、
誅伐のために時をうつすべきではない。」と、即座に山陰山陽四国西海道に早馬を立て、将軍の御内書に隆景の
廻文を添状として、『時を延べず備中鞆に馳せ上がるべし』と触れた。

霜月八日、小早川左衛門佐隆景、江羽、福原、宍戸、熊谷といった歴々馳せ集まり、毛利輝元も出陣して、程なく
笠岡の浦に至った。その他追々に諸卒馳せ加わり、その勢は八万余騎と記録されている。

(備中兵亂記)

『備中兵乱』の始まりとされる三村元親の毛利氏からの離反について。



697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/28(土) 17:34:46.59 ID:25b58Vzd
義昭さんやっぱり殺しとくべくだったのかしら

今度織田事、依難遁天命、令自滅候

2019年06月16日 17:23

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/16(日) 01:45:44.25 ID:kYm8Gowg
足利義昭島津義久ノ物ヲ贈レルヲ謝シ、近ク京都ニ復帰セントスルヲ以テ、更ニ義久ノ助力ヲ請ウ、

『薩藩旧記雑録』

今度の織田の事は、天命を逃れた難により自滅せしめたものである。それにつき、残る輩が帰洛する
ことを切々と申すので示し合わせ、きっと入洛するものである。この節にとりわけての馳走は喜悦の
ことであろう。よって太刀1腰と黄金10両が到来したことには喜び入る。なお、昭光(注釈:真木
島)と明秀(注釈:一色)が詳細を申すものである。

(今度織田事、依難遁天命、令自滅候、就夫相残輩帰洛儀、切々申条示合、急度可入洛候、此節別而
馳走可悦喜、仍太刀一腰、黄金拾両到来喜入候、猶昭光、明秀可申候也、)

     天正10年(注釈:朱書き)

         11月2日        (花押)(注釈:足利義昭


           嶋津修理大夫とのへ(島津義久

(注釈:義昭が毛利輝元を頼って京都に帰ろうとして果たせず、輝元をもって秀吉に説かせたことは
10月21日の条に見える)

――『大日本史料』



定直を“乾内蔵允義直”となされ給う

2019年06月03日 18:15

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 18:06:07.99 ID:LHCbPT9u
義昭(足利義昭)を都に据え置かれたが、信長と不和になって天正の初めに山城宇治にて合戦あり
(槇島城の戦い)。義昭公はたちまち敗軍して河内若江庄へ落ち行き、左京太夫義誥(三好義継
を頼みなさったけれども、どのように思ったのか城中へも入らなかった。

そのようなところで同じ若江の住人・乾太郎右衛門定直という者は、先年に義冬(足利義維)が都
から阿波へ下向した時に下った者であるが、義冬が周防へ下向した時に子細あって暇を乞い、故郷
若江に帰り義誥の旗下になっていた。定直は義昭公の有様をいたましく思い、自分の館へ招待した。

義昭公は定直の先祖を尋ねなさって、定直を“乾内蔵允義直”となされ給う。義昭公は乾の館で数日
過ごされなさったが、取り立てる人もいなかった。

――『阿州将裔記』



109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 08:55:14.01 ID:yjPfJm9C
義昭さんは信長さんの言うこと聞いとけば良かった

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 14:03:19.65 ID:19lOBpdD
統治機構パクれた時点で用済みではあるからなぁ

三好義継三家老の別心

2019年05月31日 15:25

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 14:30:07.73 ID:lX7j0Ovy
霜月4日。信長御上洛、二条妙覚寺に御寄宿。

三好左京太夫殿(義継)が非儀を構えられたことにより、家老の衆である多羅尾右近(綱知)・池田丹
後守(教正)・野間佐吉(長前)の両三人が別心を企てる。

金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので、(両三人は)金山駿河を生害させて佐久間右衛門(信
盛)を引き入れて天守の下まで攻め込んだところ、(左京太夫殿は)叶い難しと思し召して御女房衆と
御子息達を皆刺し殺して切って出た。数多の者に手を負わせると、その後に左京太夫殿は腹を十文字に
切って比類なき御働きをされた。哀れなる有様なり。

御相伴の人数は那須久右衛門・岡飛騨守・江川。この3人が追腹仕って名誉の次第はこの節なり。若江
の城は両三人の御忠節に付き、(両三人に)預け置かれた。

――『信長公記』


義詰(義継)

長慶の息男である(実際は十河一存の子)。三好左京太夫と号す。天文の末より河内国若江に居住した。
将軍義昭公の妹婿なり。

天正の初めに義昭公を信長公が配流なされた時に「義詰は義昭公の妹婿で三好の惣頭なれば、とにかく
討ち果たせ」と、信長公が若江の城へ攻め寄せなさると、義詰の家老3人が信長公へ返忠した。

義詰は「この上は戦うべきにあらず」と大手の矢倉に上がって腹を十文字に掻き切り、臓を掴み出して
投げ捨てた。そして遊佐与伝という者を呼んで「介錯せよ」と申せば、与伝は畏まって太刀を振り上げ
るも、兜に妨げられて「介錯ならず!」と申した。

すると義詰は両手で兜を押し上げなされ、与伝は両手をかけて義詰の首を打ち落とし、差し上げて敵に
見せると、矢倉に火を掛けて同じく腹を掻き切って死んだ。

信長公は見なさって「天晴、大将かな。このような主君を持って逆心をなした家老どもの浅ましさよ」
と、惜しみなさったと聞く。

また一説に義詰は病死と言われている。誤りなり(三好義興との混同か)。

――『阿州将裔記』



961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 17:07:14.84 ID:iWjrhi5I
>金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので

ここはどういう事を指してるんだろう

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/01(土) 08:55:47.76 ID:tqmeloYc
オラ達は信長様に逆らっちゃなんねえってあれほど口酸っぱく言ったのに主君を唆してひどい奴だ!そうなんですコイツが悪いんですよ佐久間様!金山責任とれ切腹だ!

義昭公の御果報のほどこそ

2019年04月18日 16:17

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 07:15:51.40 ID:nuv0nMir
足利義昭公は「どうしてもこの信長を滅ぼさねば、公方の家は成り立ち難い」と思し召され、江州の
佐々木(六角)承禎、浅井備前守(長政)などと語らうと、彼らは即時に同心したため、「何時なりとも、
出陣に於いてはあらかじめ内意を聞かせる。」と申し下した。こうして両人は加勢を催し、昼夜暇なく
信長に対する敵対行動を行った。これに拠って義昭公は心強くなられ、いよいよ信長との一戦を決意した。

こうして義昭公は、御領分の人数ならびに京勢を加えて、四千騎ばかりにて都を立たせ給い、山田、
矢橋、志賀、唐崎、比良、小松、和邇、堅田などの漁船を奪い取り、数百艘にうち乗り、これにてすぐに
安土へと発向すると聞こえた。

この情報に信長は驚き、「忠が不忠になるとはこの事ではないか。しかし今日このごろの公方の御身で、
この信長を倒すなどというのは、まさに蟷螂の斧であり身の程を知らない。しかしそうは言っても、
佐々木、浅井が手を合わせるのなら、(比叡山の)山法師たちもこれに加わることにも成るだろう。
万が一公方に多勢が付いては大変である。ならばすぐに打ち立ち追い散らさん。」
そして三万余にて馳せ上り、公方勢を散々に蹴散らし、公方勢が接収した船共も悉く元通りに繋がせ、
義昭公も都へ移し、そこに警護を数多付けられた。

信長は帰陣してつらつら案ずるに「とかくこの君を都に置いていては、私の出世の妨げと成る。」と思われ、
堺に下して或る寺に追い籠め奉り、番を堅く付けて置かれた。義昭公の御果報のほどこそ、おもいやられて
あわれである。

(室町殿物語)



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:25:29.89 ID:hrCSpIgA
>忠が不忠になるとはこの事ではないか

将軍をナチュラルに家臣扱いしててくっそ笑うw

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:41:45.66 ID:/+XOGeZR
公方謀反とか主上御謀反とか
謀反とはなんぞや

883 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/18(木) 11:44:02.74 ID:8GdWClx3
>>882
後鳥羽上皇「せやせや」

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:57:13.59 ID:LDmTFWvv
>>880
忠誠を尽くしてきたのに、将軍に裏切られたってことだと思うよ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 12:42:16.48 ID:QnIcR7fO
>>882
既存の秩序体制を乱す行為

日頃思し召していた恩謝を忽ちに翻し

2019年04月17日 17:26

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 17:03:58.26 ID:Yukg+d+g
織田信長は尾州より義兵を挙げ、近国を切り広げ、その余威を以て七道へ鉾を振るうに、その利を
得ないということ無く、日往月来、既に15,6ヶ国の太守と成った。されば江州安土と言う所に、
咸陽宮を凌ぐほどの城郭を拵えて、諸国の大名を引きつけて、朝暮にその出仕を請け、取り巻かれ
尊崇されるその様子は、ただ四海の権将に等しいものであった。(このあたり時系列が異なっている)

そのようであったので、この頃は公方を公方とも扱わず、自分の被官の会釈で取りなしており、義昭公も
日頃思し召していた恩謝を忽ちに翻し、怨をむすばん事を思し召しに成った。

ある時、信長は義昭公へ使札を遣わし、その中に
『義昭公は数年浪々ましましけるを、信長の力を以て京都に遷らせ給い、大敵の筑前義長(三好義継の事か)を
一戦の内に追い詰め、先祖代々の家督に備わり給う上は、位官に不足は無いはずです。であるのに、公卿との
交わりや、禁中の御祭り事などを、よくよく執り行われる事なく、どうして諸国の大名、小名を近づけ、
馬具、武具の類を所望され、蓄え置かれる事、更に心得がたい。今後有るまじきことです。』
そう書かれていた。

しかしながらそれから、甲州武田信玄と信長の関係が悪化し、既に甲信の兵が上洛するとの風聞があり、
信長は義昭公へ「両将の間を仲立ちされ、無事をお計りなさいますように」と望んだ。しかし公方も
御腹立ちの折節であったため少しも取り上げず。何と言う返事もしなかった。

(室町殿物語)



「在る甲斐もない身の上かな」

2019年04月16日 17:35

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 05:04:01.24 ID:Am9ByBAt
足利義昭公が上洛に成功し京に遷られ、武将(将軍)の家督を継がれたと言っても、尊氏公より代々
蓄積された和漢の珍器、武具の類は、三好のために一時に炎滅したため(永禄の変)、万事について
調わないことばかりであった。御領分はわずかであり、将軍の体裁にかなうほどの奉行、役人を
抱えられたが、人を抱えれば日々に負担がかかるものであり、また御道具も乏しく、かくして義昭公は
「在る甲斐もない身の上かな」と、よろずに思い乱れ給われた。

ある時、義昭公は旧臣達を集めて御談合の事あり、織田信長へ使者を遣わした。これは
「よろずの道具について、少しづつ援助してもらいたい」旨を、条数をあげて(箇条書きにして)、
杉原を使者として尾張へ下したものであった。

やがて信長にこの書状を差し上げると、彼はこれを詳細に見て「こちらから後で御返事申すであろう。」と
使者に対面せずにこれを帰した。義昭公はその後数ヶ月待ったが、遂に返事すら無く時は過ぎた。
「いかなる所存を差し挟んでいるのか」と、都において怪しくのみ思し召しに成った。

(室町殿物語)



862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 07:53:39.76 ID:lmq9B1rw
どんだけ高い要求したのか気になる

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 11:20:21.79 ID:6J5IrijJ
そのあと色々用意して対面したんじゃなかったか

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 12:18:40.10 ID:PvNFj2NX
センゴクの超人信長ですら、京都関係の出費は辛そうだったな

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 13:12:00.11 ID:78rrwr85
信長? ああ、上京焼き討ちしたやつな。

足利義昭の最後

2019年04月13日 12:46

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 01:16:19.42 ID:rxTT5let
さるほどに足利義昭公は、持病に癪があったのだが、突然大きな発作を起こされて、世の常成らず
苦しまれた。されば御内の人々も、昼夜御前にあって看病した。また毛利より派遣された御伽の僧たちが、
芸州にこの事を報告すると、やがて毛利から名医が派遣された。これが医術を尽くして治療にあたったが、
前世の行いによって定まった寿命に限りがおとずれたのか、日に日に御気色衰えられた。
人々は「これではどうにも成らない」と、今更ながら驚き嘆いた。

このような中義昭公は、鑑首座という禅僧を御枕近くに召して仰せに成った

「私はたまたま武将(将軍)の家門に生を受けたと言っても、戒力薄くしてその徳備わらず、
そのため織田信長に一度救われ、厚恩謝し難く思っていたが、やがて信長自身が時めくために、
忽ち私を捨てた。しかし秀吉がそんな私を情を以て労り、どうにかこうにか光陰を送っていた所、
毛利輝元よりは大分の扶持を加え参らせ、その上種々の懇志、この世成らず、後世までも忘れないだろう。
この旨を心得ていてほしい。」

などと仰せに成ると、首座も涙にむせび、ややあって

「上意の通り、つぶさに畏まりました。さりながら、心細く思し召しに成ってはなりません。
御気色は未だ普段と変わりませんから、程なく御快気なされるでしょう。今回は御持病がたまたま
甚だしい発作を起こしたので、いつもよりも弱らせているのです。」
そう励ました。

その後義昭公は侍女を召して、「御料紙箱に色紙が2枚有る。ここへ持って参れ。」と命じ、
「首座、お主がいつぞやに色紙を望んだことが有ったが、ついとかくにして放置していた。
今はこの世の名残であるから、これを取って、形見にしてほしい。」

そう仰せられて、首座に下された。首座は頂戴し、涙を流しながらそれを見ると、そこに
古歌が書かれていた

 いずくにも こゝろとまらば すみかへよ
         ながらへばまた もとのふるさと

 朝露は きえのこりても ありぬべし
         たれかこの世に のこりはつべき

かくて2,3日あって、いよいよ衰弱されたが、暁の頃に、監物入道(柳沢元政)と侍女を召して、
密かに仰せられること暫く有って、其後は仏号をひたすらに唱えられ、明け方に眠るように臨終した。
紅顔は忽ち変じて青色の肌となって生気を失い、浮世の面影も無くなってしまった。
無常のならいでは有るが、あわれに儚く覚える。
御遺言にまかせて、火葬にされ、御骨を拾い上げ、高野山へと納められた。
御戒名は、入道なされた時の号『霊陽院昌山道休大居士』と申し奉った。

こうして御後のいとなみは、このように執り行われ、そうして御中陰が過ぎると、御局は京へと
送られた。万事、御遺言にまかせて行われた。

(室町殿物語)

足利義昭の最後についての記事。



850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 07:56:06.56 ID:g5p7ulF5
>>849
前政権のトップにしては幸せな老後だったといえそう

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 11:23:47.15 ID:Pbv+XVB/
確かに
人生全うできたのは大切
本人はまた違ったのかもしれんが

春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様

2018年11月13日 21:16

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:04:49.28 ID:L+t9VgNU
織田上総介信長はこの度足利義昭を守護して近江より切り上り、三好・松永などの逆徒を誅伐して足利家
再興の功を成就し、中国へ旗を立て将軍家を堅く抱えて四海を令すれば、斉の桓公や晋の文公のような

覇業も瞬息のうちに定まるであろうと喜び勇み、その旨早く近国へ触れ渡されると美濃・尾張・伊勢3国
は言うまでもなく近国の諸軍勢は我劣らじと、美濃岐阜城下へ馳せ集まる者は雲霞の如し。

信長は近江一円の地図をもって軍議を凝らして、永禄11年(1568)9月7日、5ヶ国の大軍を引き
連れて早く出陣すべしと、まずは義昭の旅館・立政寺に参上して細川藤孝をもって申し上げられ、

「5ヶ国の大軍は早くも参着しました。よって速やかに上洛を急ぐべきといえど、近江の佐々木六角承禎
父子は内々に三好・松永などの逆徒と志を通じ、伊勢国司・北畠の加勢を受けてこの度の主君御上洛の

御道を遮らんとすると聞きます。まず承禎父子を誅し、彼らの首を刎ねて軍神を祭り、その後に御迎えを
奉りましょう」と御伝えすると、義昭も対面されて世にも嬉し気に「当家再興の事をひとえに頼み参らす」
と礼を厚くへりくだって仰せになれば、信長も「畏まり候」と返答なさって退出された。

(中略)

都合4万余騎と聞こえる織田勢は先陣がすでに近江平尾辺りに至るも、後陣は未だ美濃垂井・赤坂辺りで
遮られるほどの数だった。信長は先祖・平相国清盛より相伝の蝶1羽を染め出した赤旗と、この度義昭

より賜った桐紋・二引両紋の旗、斯波武衛家より伝えられた瓜紋の旗、また織田殿の馬前には黄絹1幅に
永楽通宝の銭を墨で描いた1流の旗、また妙法蓮華経と題目を書いた馬印9本を立てて、この日は

平尾村に着陣された。8日には近江南宮山に滞留されて人馬の息を休めなさった。茫々たる平原に色々な
旌旗が翻っている有様は、春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様に異ならず。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 22:42:11.03 ID:E/F+EuE0
桓公に文公とはまるで漢書のような