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【雑談】信長と”天下”の関わりについて

2020年04月11日 14:49

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 14:22:51.90 ID:E6v72Oay
そも天下人なる気満々ですって大名いないって言いきってしまっていいんじゃない?
信長も成り行きで義昭追放しちゃっていつの間にか天下人にならざるを得ないって感じだし

みんな成り行きでそうなっちゃってるだけで信長の野望みたいなみんな天下狙ってるってのは幻想じゃないかね
二天戴かずが前提思想の三国時代の皇帝とはまた全然違うんだしさ

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 21:03:16.67 ID:6VXTQWG8
天下統一なんて言い出したら、周りの大名全員敵になるんだし、なかなかそんなこと言えないわな

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:34:41.43 ID:8eO/gKZ8
言えないし、そんな言えもしないこと狙わないわな
基本的に戦国大名権力て中央から自立した地方政権目指してる

元々三好政権は管領家の有力家臣だったからこそそれに代わって
中央政権を握ったわけだしちょっと意味合いが違う

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:40:59.69 ID:ML/TB4kM
信長は義昭連れて上洛してから一年後にはもう天下を差配する気満々だっただろ

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 23:13:46.94 ID:fCteDSrE
天下を差配ってのが義昭を盛り立ててって意味ならそうかも

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 20:25:12.48 ID:8cJCxjG2
>>942
秋に義昭を上洛させて年明けすぐに殿中御掟で義昭縛ってるんだから義昭なんかお飾り程度、せいぜい和睦便利ツールの認識だろ

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 20:45:15.98 ID:tmPlr+RY
殿中御掟は至極当然のものってのが今の研究よ
あれは縛りでもなんでもなく、当時の将軍の慣習をそのまましたためたと見るべきって感じなんだそうな

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:11:50.75 ID:8cJCxjG2
という体裁で義昭をコントロールしてるわけだが
本当に義昭親政を望んでるなら御内書の発給をやめろとかましてや上意を得るに及ばずとか言わんわ

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:21:02.64 ID:tmPlr+RY
うーん、その辺りもちゃんと理由があって信長は蔑ろにしたわけじゃないんだけど
多分説明をいくら重ねてもあなたは納得しないだろうから
とりあえず最近の信長研究のいくつか追うのをおすすめするよ

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:35:41.94 ID:8cJCxjG2
>>957
君こそ新しい研究に振り回されすぎ
歴史研究ってのは前の研究否定しないと始まんないから一般人は騙されやすい
気をつけな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:43:04.83 ID:tmPlr+RY
その辺りも読んだうえで納得できる研究として最近の研究読んでるから、振り回されてないと自負してるよ

とりあえず最近の研究だからって理由で読まない信じないとかしないで読んでみてね

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:48:02.59 ID:q/S1iuqm
事実として、殿中御掟は出されたあともまるで守られていないし、
信長側もそれを、少なくとも記録上は問題視して無いんだよな。

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 22:09:39.65 ID:8cJCxjG2
>>960
追加の五ヶ条を何のために出したと思ってんのか

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 22:19:19.41 ID:tmPlr+RY
信長の求めてるのは今までの慣例の室町公方としての義昭であって
節操なくそこらじゅうにお手紙攻勢しかけて将軍親政を目指したかったであろう義昭の思惑とは別やからね

ただそれはおみこしにしたいとは別やろって話
それこそ最初から言う事聞かせたいなら追加なんて形じゃなく最初から出すわけでな

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 22:59:05.69 ID:8cJCxjG2
>>962
なんで義昭に従うつもりの信長が義昭の目指したい思惑を無視してコントロールしようとするんや?自分でおかしなこと言ってると思わんのか?
そもそも室町幕府のオーソドックスな幕臣であることに甘んじるならなんで義昭からの職を受けんのや?
なんで慣例通りに京に住まずに岐阜に留まり続けたんや?
信長は追放するまでは義昭に従って室町幕府を盛り立てようとしたって視点は面白いかもしれんが色々説明できんことが多すぎると思わんのか
まぁもうスレと関係無くなりすぎたんでもうこれで仕舞いにしますわ
すんませんな皆さん

964 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/10(金) 23:07:37.57 ID:mN+/uhzy
学者の新説ってのは主に業績アッピルのためだからな
最近は「実は~~」ってのに弱いやつが増えたおかげで新説のバーゲンセール状態

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 23:08:09.38 ID:9u0C0cg2
将軍より幕府が大事っておかしなもんじゃない、この時代でもいくらでも例があるし
その後もある、お家を守るために藩主を押し込めるってね

最近の研究だと、信長は管領と同等の扱いを幕府・朝廷から受けていたという説もある

京都に邸は、実はなんどかしようとした、義昭の斡旋もあった
その都度いろんな理由で案が潰れているけど

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 23:18:03.47 ID:tmPlr+RY
君はそこ疑問に思うのか
いや従うって別に将軍に好きなようにさせる事でもなんでもないでしょ?
ましてや今までの将軍家の慣習を完全に無視して行動しようとするなら猶更

義昭からの職を断るってのはどこの話をしているのかちょっとわからなかったので返答を控えさせていただきます

また慣例通りも何も信長は幕臣でありつつも国の当主です、住まないのは義昭なんてどうでもいいってのは暴論が過ぎるかと

それこそ義昭追放は義昭をおみこしにしたかったからだっていう結論のために無理くり行動をいくらか無視したり無理のある動機付けばかりじゃないですか、改めて言いますが偏見持たずに一度最新研究も読んでみてください
こちらもお騒がせしたことをお詫びします、皆さん申し訳ありません

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 23:55:07.04 ID:RKKErLK6
俺は評価するよ

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 00:06:07.03 ID:7FRNHSYh
最新研究連呼するだけで具体的な論拠無し
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豊前陣撤退から毛利隆元の死去まで

2020年04月09日 18:07

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 22:36:47.37 ID:7j1OFAgQ
山中鹿介による尼子再興軍挙兵の報が)毛利元就に注進され、山口の高峯城へと告げられると、
この頃元就は、山口の隙きを明け諸勢を豊前に渡そうと思っていたのだが、思いの外の報の到来に、
豊前での取り合いを嫡男・隆元に任せ、豊前に派遣する予定だった軍勢を召し連れ山口を打ち立ち、
夜日を継いで雲州上日郡(原文ママ)に陣を据えた。山中鹿介も雲州に打ち出て山際に陣を取って対陣した。

このような中、豊前国の毛利隆元の陣に、その御代の公方・光源院殿(足利義輝)より、毛利大友和平の
御扱いとして(筆者注:実際には足利義昭による扱いである)、毛利家へは聖護院(道増)、大友へは
久我殿が御下向し、上意の旨は、

『前々大内が分国、防長両国の義は毛利元就が切り取った地であるので、毛利の分国とするものである。
西海九ヶ国の内、豊前筑前の義は存ずべからず。大友が只今保持しているものである。
諸士はこの旨に相従い、国々を堅固とするように。』

との仰せであった。上意に任せ、大友の軍は引き退き、毛利隆元も松山の城に籠め置いた口羽常吉、
その他諸軍を召し連れ長門国に帰陣した。そして聖護院殿のお供申し、宮島に渡った。
聖護院殿の御宿は座主、隆元の御宿は大願寺であった。

また、元就は雲州上日郡より聖護院殿に使者として福原貞俊を派遣して、
『御尊顔を拝する事が尤もであるのですが、軍陣の状況のため御免させて頂きます。畏まり、
忝ない事ですが、隆元がそこに居りますので、御請方々、頼み奉ります。』
と伝えた。

宮島には二十日ほど御逗留し、御馳走として神前にて能などが仰せ付けられ、御会釈相調い、
聖護院殿は御帰洛された。

そこから毛利隆元は直に雲州へ登られ、吉田郡山の麓も通られたのだが、元就は先陣に在るという事で、
その時は郡山城に御立ち寄りなく、佐々郡と申す所まで御越しになり、人数を揃えるためとして
一両日逗留したのだが、この時、不意に頓死された。享年四十一歳であった。
各々仰天したが、是非無く、この事を元就が聞くと、心の塞がりようは浅からぬものであった。
さりながら、「隆元を弔うための手切れの合戦であるべし」と、山中鹿介の陣山近くに陣を寄せた。

毛利元就記

毛利隆元の死去までについて。



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:13:19.77 ID:FV4Nvjb2
何も前触れのない突然死だったんだな。毒殺とも言われてるんだっけか。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:34:26.86 ID:uuQ9h7Na
赤川さんを殺してしまった元就の悪い話…和智もほんとに暗殺したのかわからんけど

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 21:06:33.59 ID:6VXTQWG8
そういえば、3本の矢の話が、「元就が死に際に3人の息子に言った」みたいに紹介されてることがあるけど、何をどう間違えばそういう話になるんだろうな

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:52:12.88 ID:uuQ9h7Na
>>958
戦前の教科書にのってたらしいしその影響じゃないの
自分はドリフのコントで知ったけどw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 02:07:49.95 ID:pF+bUfNd
>>958
あれ、元の話だと、隆元元春隆景じゃなくて、庶子三人だったらしいぞ
修身の教科書になるぐらいで、隆元以下に改変されたらしい

三村家謀反

2019年12月28日 16:24

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/28(土) 12:32:23.90 ID:MegngOMD
ここに源家の末葉、備中守護、松山の住人である三村修理進元親が、先父・家親の亡魂を休めんがために
よしなき謀反を企てた。その発端は、将軍・足利義昭が既に西国に御下向あって、中国は悉くその武名に
傾き、御帰洛の謀がしきりと聞こえてきたため、京の平(織田)信長は驚き、謀を廻らして、当国の
元親に密使を立て、自身に味方すれば備後備中両国を宛行うと伝えた。

これに三村元親の一族が馳せ集まり「これぞ願う所の幸いである。何故なら父・三村備中守家親は累年
宇喜多(直家)に遺恨を含み、数回に渡って戦ったが、宇喜多の一族である河内守(遠藤秀清)が備前の
徳良城に在って、家親を暗殺し、剰え当国佐井田庄に攻め入り嫡子・少輔元祐も討ち果たした。
その二代の怨敵を追討する時を待っていた所に、信長より一味を求める使いを得た。急ぎ微運の大樹(足利義昭
を攻め討ち、忠を尽くし功を立て、信長の助力を以て宇喜多一族を攻め滅ぼし、一家鬱憤の眸を開くべきである。」
そう躍り上がって一議した。

ところがこの中で、同国成羽城主・三村孫兵衛尉親成、同男子孫太郎親宣はこれに同意しなかった
「父の怨敵を討つのにどうして他の力を借りるのか。凡そ武士は忠に止みて仁義を宗とする。たとえ君が
無道であったとしても臣は臣たるべきを道とする。信長の虎狼の謀に従って一家不義の逆臣と成ることも
口惜しい。今信長は不義に誇っているが、これでどうして世が治められるのか。剰え逆心に翻る志は、
人の為す行跡ではない。このような不仁の大将に頼みを掛けて一体どんな益があるというのか。」

このように、義を専らに誠を尽くして諫言したが、良薬口に苦く忠言耳に逆らう習いであれば、一族は
この諫言を憎み、既に彼らを誅殺しようとした。これに親成父子は驚き、天正二年十一月七日の夜、急ぎ
将軍義昭の在る鞆の津へと馳せた。

この事態に元親の家臣が集まり、親成を引き返らせ一族和睦すべきだと議したが、元親の舎弟である宮内少輔元範、
上田孫次郎実親を初めとして「その儀は叶わない事だ。既に神詞を固めており、和睦の余地はない。」と言った。

こうして三村親成父子は鞆の津に到着し、一族謀反の事を訴えた。これに将軍義昭は驚き給い
「私は遠く(織田信長)を慮っていたが、近く足元に敵が在るとは思わなかった。この事いかがすべきか。」
と、早速三原に御使いを立てた。三原の小早川左衛門佐隆景はこれを聞いて「当家の大事これに過ぎず、
誅伐のために時をうつすべきではない。」と、即座に山陰山陽四国西海道に早馬を立て、将軍の御内書に隆景の
廻文を添状として、『時を延べず備中鞆に馳せ上がるべし』と触れた。

霜月八日、小早川左衛門佐隆景、江羽、福原、宍戸、熊谷といった歴々馳せ集まり、毛利輝元も出陣して、程なく
笠岡の浦に至った。その他追々に諸卒馳せ加わり、その勢は八万余騎と記録されている。

(備中兵亂記)

『備中兵乱』の始まりとされる三村元親の毛利氏からの離反について。



697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/28(土) 17:34:46.59 ID:25b58Vzd
義昭さんやっぱり殺しとくべくだったのかしら

今度織田事、依難遁天命、令自滅候

2019年06月16日 17:23

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/16(日) 01:45:44.25 ID:kYm8Gowg
足利義昭島津義久ノ物ヲ贈レルヲ謝シ、近ク京都ニ復帰セントスルヲ以テ、更ニ義久ノ助力ヲ請ウ、

『薩藩旧記雑録』

今度の織田の事は、天命を逃れた難により自滅せしめたものである。それにつき、残る輩が帰洛する
ことを切々と申すので示し合わせ、きっと入洛するものである。この節にとりわけての馳走は喜悦の
ことであろう。よって太刀1腰と黄金10両が到来したことには喜び入る。なお、昭光(注釈:真木
島)と明秀(注釈:一色)が詳細を申すものである。

(今度織田事、依難遁天命、令自滅候、就夫相残輩帰洛儀、切々申条示合、急度可入洛候、此節別而
馳走可悦喜、仍太刀一腰、黄金拾両到来喜入候、猶昭光、明秀可申候也、)

     天正10年(注釈:朱書き)

         11月2日        (花押)(注釈:足利義昭


           嶋津修理大夫とのへ(島津義久

(注釈:義昭が毛利輝元を頼って京都に帰ろうとして果たせず、輝元をもって秀吉に説かせたことは
10月21日の条に見える)

――『大日本史料』



定直を“乾内蔵允義直”となされ給う

2019年06月03日 18:15

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 18:06:07.99 ID:LHCbPT9u
義昭(足利義昭)を都に据え置かれたが、信長と不和になって天正の初めに山城宇治にて合戦あり
(槇島城の戦い)。義昭公はたちまち敗軍して河内若江庄へ落ち行き、左京太夫義誥(三好義継
を頼みなさったけれども、どのように思ったのか城中へも入らなかった。

そのようなところで同じ若江の住人・乾太郎右衛門定直という者は、先年に義冬(足利義維)が都
から阿波へ下向した時に下った者であるが、義冬が周防へ下向した時に子細あって暇を乞い、故郷
若江に帰り義誥の旗下になっていた。定直は義昭公の有様をいたましく思い、自分の館へ招待した。

義昭公は定直の先祖を尋ねなさって、定直を“乾内蔵允義直”となされ給う。義昭公は乾の館で数日
過ごされなさったが、取り立てる人もいなかった。

――『阿州将裔記』



109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 08:55:14.01 ID:yjPfJm9C
義昭さんは信長さんの言うこと聞いとけば良かった

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 14:03:19.65 ID:19lOBpdD
統治機構パクれた時点で用済みではあるからなぁ

三好義継三家老の別心

2019年05月31日 15:25

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 14:30:07.73 ID:lX7j0Ovy
霜月4日。信長御上洛、二条妙覚寺に御寄宿。

三好左京太夫殿(義継)が非儀を構えられたことにより、家老の衆である多羅尾右近(綱知)・池田丹
後守(教正)・野間佐吉(長前)の両三人が別心を企てる。

金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので、(両三人は)金山駿河を生害させて佐久間右衛門(信
盛)を引き入れて天守の下まで攻め込んだところ、(左京太夫殿は)叶い難しと思し召して御女房衆と
御子息達を皆刺し殺して切って出た。数多の者に手を負わせると、その後に左京太夫殿は腹を十文字に
切って比類なき御働きをされた。哀れなる有様なり。

御相伴の人数は那須久右衛門・岡飛騨守・江川。この3人が追腹仕って名誉の次第はこの節なり。若江
の城は両三人の御忠節に付き、(両三人に)預け置かれた。

――『信長公記』


義詰(義継)

長慶の息男である(実際は十河一存の子)。三好左京太夫と号す。天文の末より河内国若江に居住した。
将軍義昭公の妹婿なり。

天正の初めに義昭公を信長公が配流なされた時に「義詰は義昭公の妹婿で三好の惣頭なれば、とにかく
討ち果たせ」と、信長公が若江の城へ攻め寄せなさると、義詰の家老3人が信長公へ返忠した。

義詰は「この上は戦うべきにあらず」と大手の矢倉に上がって腹を十文字に掻き切り、臓を掴み出して
投げ捨てた。そして遊佐与伝という者を呼んで「介錯せよ」と申せば、与伝は畏まって太刀を振り上げ
るも、兜に妨げられて「介錯ならず!」と申した。

すると義詰は両手で兜を押し上げなされ、与伝は両手をかけて義詰の首を打ち落とし、差し上げて敵に
見せると、矢倉に火を掛けて同じく腹を掻き切って死んだ。

信長公は見なさって「天晴、大将かな。このような主君を持って逆心をなした家老どもの浅ましさよ」
と、惜しみなさったと聞く。

また一説に義詰は病死と言われている。誤りなり(三好義興との混同か)。

――『阿州将裔記』



961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 17:07:14.84 ID:iWjrhi5I
>金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので

ここはどういう事を指してるんだろう

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/01(土) 08:55:47.76 ID:tqmeloYc
オラ達は信長様に逆らっちゃなんねえってあれほど口酸っぱく言ったのに主君を唆してひどい奴だ!そうなんですコイツが悪いんですよ佐久間様!金山責任とれ切腹だ!

義昭公の御果報のほどこそ

2019年04月18日 16:17

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 07:15:51.40 ID:nuv0nMir
足利義昭公は「どうしてもこの信長を滅ぼさねば、公方の家は成り立ち難い」と思し召され、江州の
佐々木(六角)承禎、浅井備前守(長政)などと語らうと、彼らは即時に同心したため、「何時なりとも、
出陣に於いてはあらかじめ内意を聞かせる。」と申し下した。こうして両人は加勢を催し、昼夜暇なく
信長に対する敵対行動を行った。これに拠って義昭公は心強くなられ、いよいよ信長との一戦を決意した。

こうして義昭公は、御領分の人数ならびに京勢を加えて、四千騎ばかりにて都を立たせ給い、山田、
矢橋、志賀、唐崎、比良、小松、和邇、堅田などの漁船を奪い取り、数百艘にうち乗り、これにてすぐに
安土へと発向すると聞こえた。

この情報に信長は驚き、「忠が不忠になるとはこの事ではないか。しかし今日このごろの公方の御身で、
この信長を倒すなどというのは、まさに蟷螂の斧であり身の程を知らない。しかしそうは言っても、
佐々木、浅井が手を合わせるのなら、(比叡山の)山法師たちもこれに加わることにも成るだろう。
万が一公方に多勢が付いては大変である。ならばすぐに打ち立ち追い散らさん。」
そして三万余にて馳せ上り、公方勢を散々に蹴散らし、公方勢が接収した船共も悉く元通りに繋がせ、
義昭公も都へ移し、そこに警護を数多付けられた。

信長は帰陣してつらつら案ずるに「とかくこの君を都に置いていては、私の出世の妨げと成る。」と思われ、
堺に下して或る寺に追い籠め奉り、番を堅く付けて置かれた。義昭公の御果報のほどこそ、おもいやられて
あわれである。

(室町殿物語)



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:25:29.89 ID:hrCSpIgA
>忠が不忠になるとはこの事ではないか

将軍をナチュラルに家臣扱いしててくっそ笑うw

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:41:45.66 ID:/+XOGeZR
公方謀反とか主上御謀反とか
謀反とはなんぞや

883 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/18(木) 11:44:02.74 ID:8GdWClx3
>>882
後鳥羽上皇「せやせや」

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:57:13.59 ID:LDmTFWvv
>>880
忠誠を尽くしてきたのに、将軍に裏切られたってことだと思うよ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 12:42:16.48 ID:QnIcR7fO
>>882
既存の秩序体制を乱す行為

日頃思し召していた恩謝を忽ちに翻し

2019年04月17日 17:26

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 17:03:58.26 ID:Yukg+d+g
織田信長は尾州より義兵を挙げ、近国を切り広げ、その余威を以て七道へ鉾を振るうに、その利を
得ないということ無く、日往月来、既に15,6ヶ国の太守と成った。されば江州安土と言う所に、
咸陽宮を凌ぐほどの城郭を拵えて、諸国の大名を引きつけて、朝暮にその出仕を請け、取り巻かれ
尊崇されるその様子は、ただ四海の権将に等しいものであった。(このあたり時系列が異なっている)

そのようであったので、この頃は公方を公方とも扱わず、自分の被官の会釈で取りなしており、義昭公も
日頃思し召していた恩謝を忽ちに翻し、怨をむすばん事を思し召しに成った。

ある時、信長は義昭公へ使札を遣わし、その中に
『義昭公は数年浪々ましましけるを、信長の力を以て京都に遷らせ給い、大敵の筑前義長(三好義継の事か)を
一戦の内に追い詰め、先祖代々の家督に備わり給う上は、位官に不足は無いはずです。であるのに、公卿との
交わりや、禁中の御祭り事などを、よくよく執り行われる事なく、どうして諸国の大名、小名を近づけ、
馬具、武具の類を所望され、蓄え置かれる事、更に心得がたい。今後有るまじきことです。』
そう書かれていた。

しかしながらそれから、甲州武田信玄と信長の関係が悪化し、既に甲信の兵が上洛するとの風聞があり、
信長は義昭公へ「両将の間を仲立ちされ、無事をお計りなさいますように」と望んだ。しかし公方も
御腹立ちの折節であったため少しも取り上げず。何と言う返事もしなかった。

(室町殿物語)



「在る甲斐もない身の上かな」

2019年04月16日 17:35

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 05:04:01.24 ID:Am9ByBAt
足利義昭公が上洛に成功し京に遷られ、武将(将軍)の家督を継がれたと言っても、尊氏公より代々
蓄積された和漢の珍器、武具の類は、三好のために一時に炎滅したため(永禄の変)、万事について
調わないことばかりであった。御領分はわずかであり、将軍の体裁にかなうほどの奉行、役人を
抱えられたが、人を抱えれば日々に負担がかかるものであり、また御道具も乏しく、かくして義昭公は
「在る甲斐もない身の上かな」と、よろずに思い乱れ給われた。

ある時、義昭公は旧臣達を集めて御談合の事あり、織田信長へ使者を遣わした。これは
「よろずの道具について、少しづつ援助してもらいたい」旨を、条数をあげて(箇条書きにして)、
杉原を使者として尾張へ下したものであった。

やがて信長にこの書状を差し上げると、彼はこれを詳細に見て「こちらから後で御返事申すであろう。」と
使者に対面せずにこれを帰した。義昭公はその後数ヶ月待ったが、遂に返事すら無く時は過ぎた。
「いかなる所存を差し挟んでいるのか」と、都において怪しくのみ思し召しに成った。

(室町殿物語)



862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 07:53:39.76 ID:lmq9B1rw
どんだけ高い要求したのか気になる

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 11:20:21.79 ID:6J5IrijJ
そのあと色々用意して対面したんじゃなかったか

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 12:18:40.10 ID:PvNFj2NX
センゴクの超人信長ですら、京都関係の出費は辛そうだったな

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 13:12:00.11 ID:78rrwr85
信長? ああ、上京焼き討ちしたやつな。

足利義昭の最後

2019年04月13日 12:46

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 01:16:19.42 ID:rxTT5let
さるほどに足利義昭公は、持病に癪があったのだが、突然大きな発作を起こされて、世の常成らず
苦しまれた。されば御内の人々も、昼夜御前にあって看病した。また毛利より派遣された御伽の僧たちが、
芸州にこの事を報告すると、やがて毛利から名医が派遣された。これが医術を尽くして治療にあたったが、
前世の行いによって定まった寿命に限りがおとずれたのか、日に日に御気色衰えられた。
人々は「これではどうにも成らない」と、今更ながら驚き嘆いた。

このような中義昭公は、鑑首座という禅僧を御枕近くに召して仰せに成った

「私はたまたま武将(将軍)の家門に生を受けたと言っても、戒力薄くしてその徳備わらず、
そのため織田信長に一度救われ、厚恩謝し難く思っていたが、やがて信長自身が時めくために、
忽ち私を捨てた。しかし秀吉がそんな私を情を以て労り、どうにかこうにか光陰を送っていた所、
毛利輝元よりは大分の扶持を加え参らせ、その上種々の懇志、この世成らず、後世までも忘れないだろう。
この旨を心得ていてほしい。」

などと仰せに成ると、首座も涙にむせび、ややあって

「上意の通り、つぶさに畏まりました。さりながら、心細く思し召しに成ってはなりません。
御気色は未だ普段と変わりませんから、程なく御快気なされるでしょう。今回は御持病がたまたま
甚だしい発作を起こしたので、いつもよりも弱らせているのです。」
そう励ました。

その後義昭公は侍女を召して、「御料紙箱に色紙が2枚有る。ここへ持って参れ。」と命じ、
「首座、お主がいつぞやに色紙を望んだことが有ったが、ついとかくにして放置していた。
今はこの世の名残であるから、これを取って、形見にしてほしい。」

そう仰せられて、首座に下された。首座は頂戴し、涙を流しながらそれを見ると、そこに
古歌が書かれていた

 いずくにも こゝろとまらば すみかへよ
         ながらへばまた もとのふるさと

 朝露は きえのこりても ありぬべし
         たれかこの世に のこりはつべき

かくて2,3日あって、いよいよ衰弱されたが、暁の頃に、監物入道(柳沢元政)と侍女を召して、
密かに仰せられること暫く有って、其後は仏号をひたすらに唱えられ、明け方に眠るように臨終した。
紅顔は忽ち変じて青色の肌となって生気を失い、浮世の面影も無くなってしまった。
無常のならいでは有るが、あわれに儚く覚える。
御遺言にまかせて、火葬にされ、御骨を拾い上げ、高野山へと納められた。
御戒名は、入道なされた時の号『霊陽院昌山道休大居士』と申し奉った。

こうして御後のいとなみは、このように執り行われ、そうして御中陰が過ぎると、御局は京へと
送られた。万事、御遺言にまかせて行われた。

(室町殿物語)

足利義昭の最後についての記事。



850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 07:56:06.56 ID:g5p7ulF5
>>849
前政権のトップにしては幸せな老後だったといえそう

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 11:23:47.15 ID:Pbv+XVB/
確かに
人生全うできたのは大切
本人はまた違ったのかもしれんが

春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様

2018年11月13日 21:16

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:04:49.28 ID:L+t9VgNU
織田上総介信長はこの度足利義昭を守護して近江より切り上り、三好・松永などの逆徒を誅伐して足利家
再興の功を成就し、中国へ旗を立て将軍家を堅く抱えて四海を令すれば、斉の桓公や晋の文公のような

覇業も瞬息のうちに定まるであろうと喜び勇み、その旨早く近国へ触れ渡されると美濃・尾張・伊勢3国
は言うまでもなく近国の諸軍勢は我劣らじと、美濃岐阜城下へ馳せ集まる者は雲霞の如し。

信長は近江一円の地図をもって軍議を凝らして、永禄11年(1568)9月7日、5ヶ国の大軍を引き
連れて早く出陣すべしと、まずは義昭の旅館・立政寺に参上して細川藤孝をもって申し上げられ、

「5ヶ国の大軍は早くも参着しました。よって速やかに上洛を急ぐべきといえど、近江の佐々木六角承禎
父子は内々に三好・松永などの逆徒と志を通じ、伊勢国司・北畠の加勢を受けてこの度の主君御上洛の

御道を遮らんとすると聞きます。まず承禎父子を誅し、彼らの首を刎ねて軍神を祭り、その後に御迎えを
奉りましょう」と御伝えすると、義昭も対面されて世にも嬉し気に「当家再興の事をひとえに頼み参らす」
と礼を厚くへりくだって仰せになれば、信長も「畏まり候」と返答なさって退出された。

(中略)

都合4万余騎と聞こえる織田勢は先陣がすでに近江平尾辺りに至るも、後陣は未だ美濃垂井・赤坂辺りで
遮られるほどの数だった。信長は先祖・平相国清盛より相伝の蝶1羽を染め出した赤旗と、この度義昭

より賜った桐紋・二引両紋の旗、斯波武衛家より伝えられた瓜紋の旗、また織田殿の馬前には黄絹1幅に
永楽通宝の銭を墨で描いた1流の旗、また妙法蓮華経と題目を書いた馬印9本を立てて、この日は

平尾村に着陣された。8日には近江南宮山に滞留されて人馬の息を休めなさった。茫々たる平原に色々な
旌旗が翻っている有様は、春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様に異ならず。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 22:42:11.03 ID:E/F+EuE0
桓公に文公とはまるで漢書のような

御父 織田弾正忠殿

2018年11月07日 19:38

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/07(水) 04:36:39.32 ID:yJTjxHUj
足利義昭将軍宣下の時)

信長が帰国の暇を申し上げられると、義昭は不日に逆徒を退治し将軍家を再興した御感激のあまりに3通の
御内書を賜った。そのうち一通は信長を左兵衛督にと仰せ出されたものだったが信長はこれも辞退された。

その他には、

 今度国々の凶徒らを日を経ず時を移さずして退治せしめたのは武勇天下第一なり。当家再興の大忠として
 これ以上のものはない。ますます国家の安治をひとえに頼み入り候。この他に頼み入る他事はなし。なお
 子細は藤孝(細川藤孝)と惟政(和田惟政)が申すものである。

  永禄11年10月24日 判

    御父 織田弾正忠殿

また1通には、

 今度の大忠により桐紋と引両筋の紋を遣わし候。武功の力を受けることだろう。祝儀である。

  永禄11年10月24日 判

    御父 織田弾正忠殿

信長は大いに面目を施され、ただちに暇を賜り25日に京を発って、28日に美濃岐阜城へ帰陣され諸軍勢
に銘々賞禄を施して帰国せしめられた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』


本圀寺襲撃と入札

2018年08月31日 17:29

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 10:36:09.89 ID:Nd9a42yo
永禄11年、織田信長は将軍・足利義昭を帰洛せしめ、六条本圀寺を以て仮の御所とした。
翌年正月3日、三好山城守、日向守、下野守、岩城主税等、一族蜂起して京中に乱入し、
六条本圀寺を取り囲みに懸った。

これに足利義昭は、自らの諸勢に下知して本国寺を持ちこたえさせた。
この時、門役(警備役)は入札(投票)を行い、入札の内17枚までが『明智十兵衛尉(光秀)』と
書かれた。また武者奉行の入札の内7枚までが野村越中守とあり、双方過半を超えもはや他の入札を
開く必要なく、これによって入札で決定される指揮官役は両名に命じられた。

彼らの指揮は著しく、何れもその剛操を以て、この襲撃は不意に起こったにもかかわらず
六条を持ち固め、三好の一党はついに引き上げた。

(士談)

三好三人衆の本国寺襲撃の時、義昭の側で指揮者を投票で決めていたらしいというお話。
光秀人望有ったのね



244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 12:43:53.84 ID:ENxn/IaS
それを言うなら投票で指揮官を決めさせた義昭の企画力だろうな
流石は信長包囲網を編み出した知将だわ
場当たり的な謀反で横死したハゲとは違うんですよ

信長の度量

2017年12月08日 21:24

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:42:06.30 ID:ZG2/Mmcy
織田信長は二十年あまり、憤怒を抑えていたが、石山本願寺が和睦し開城すると、
天下はここに平均成った。

すると天正八年、信長は林佐渡守を流罪とした。
彼がかつて、名古屋において信長を謀ろうとした罪によってであった。
また安藤伊賀守を流罪とした。
これは、彼がかつて武田信玄に内通したためであった。

小さなことであっても、自分が恨みに思ったことを、後に自身が世に盛んになってから、
報復することを考えるのは、おおよそその人に度量があるとはいい難い。
我が身の遺恨故に人を害し、損なおうというのは、大丈夫の心とはいい難い。

織田信長にはこう言った誤りがあった故に、荒木村重、松永久秀らは安んずること出来ず、
天下に乱逆を成した。惟任光秀による禍も、この故であると言えるだろう。

一方秀吉は、毛利が柴田と内通し、室町殿(足利義昭)を再び京に復帰させようとしたことを
知りながら、後に毛利や義昭に対し、聊かもそういった気色を見せなかった。
信長と比べ、その度量大きく違うと言うべきであろう。

(士談)



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:46:35.05 ID:ek3nQsgY
毛利そんなことしたの

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/08(金) 07:31:31.32 ID:H32lLvCl
>>397
史実で言うと本能寺の変後にあった義昭の京復帰話は秀吉や家康も絡んでて
史料を見てるとかなりの進展を見せていた時期もあったようです。

柴田に内通うんぬんは秀吉と勝家のどっちが勝つか分からんので片方に加担せず
様子見を続けたってのが真相ですね。

そういった事で勝家滅亡後に秀吉から隆景へ送られる脅迫状としか思えない書状へとつながる訳ですが....

武田左吉の子

2017年11月03日 20:57

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 21:10:59.46 ID:j17J6I/M
織田信長足利義昭を戴いた上洛戦の時、近江北郡にて坂井右近将監の子である久蔵が、この時わずか13歳にて
鑓を合わせ、彼の働きに義昭ならびに信長より感状が与えられた。
その頃、武田左吉という者の子も同じ13歳で、信長の側に仕えていたが、久蔵の振る舞いを羨ましく思った。

信長は入京すると、京より青龍寺、山崎あたりに退いていた三好勢を続けて攻めた。
この時、武田左吉の子が一番に、三好の陣へ馬を入れた。彼は敵との距離が良い所で馬より降りて
闘おうと思っていたが、其の身、未だ幼く、また馬は癇が強く逸っていたため、降りること出来ず
そのまま敵陣の中に引き込まれ、討たれた。
志は猛しといえども、本意無きことである。

武田左吉はこの他に子が無く、後に土方彦三郎という者の弟を養子とし、その者は武田宮内と名乗った。

(士談)



【ニュース】明智光秀が土橋重治に宛てた書状

2017年09月13日 18:26

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 22:50:10.86 ID:BmQuoTzP
良い話か悪い話か迷うけど
幕府再興を掲げた良い話?

明智光秀土橋重治に宛てた書状

毎日
https://mainichi.jp/articles/20170912/k00/00m/040/159000c
産経
http://www.sankei.com/life/news/170912/lif1709120003-n1.html
読売
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170912-OYT1T50009.html
朝日
http://www.asahi.com/articles/ASK9C45WPK9CONFB00F.html
日経
https://www.nikkei.com/article/DGXLZO21007030R10C17A9CR8000/
伊勢新聞
http://www.isenp.co.jp/2017/09/12/7440/



※管理人注
個人的にはこのニュース、光秀が室町幕府再興のために本能寺を起こした、というよりも、
時期的にも内容的にも、追い詰められた光秀が手当たり次第に味方を募っていた事を表すもの、
じゃないかなと判断しています。

贔屓が強い、ということは

2017年05月05日 10:48

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/05(金) 08:40:12.58 ID:vJCIQxW/
霊陽院(足利)義昭は、贔屓の強いのは頼もしきことであり、武士の本意であるとして、上手を憎み
下手を崇敬し、いつも自分が気に入ったものを良しと定めた。

彼は乱舞を好んだが、観世彦右衛門という小鼓の上手を憎み、また当時の大鼓の上手をも憎み、
下手であっても奈良の者を贔屓した。これは、義昭が初め、奈良一乗院に居たためであったという。

親しいか疎遠かで差別するのは古からの道であり、慣れ親しむ由緒ある輩に対して、これに親しむのは
理である。しかしそのために、理を非にいたし、上手を下手に取りなすことは、すべて物事の理を
理解していない故である。

贔屓が強い、ということは善きことに似ているが、その成り行きを見ると、依怙というものに成ってしまうのである。

(士談)


公方が御謀反された時

2016年06月14日 17:46

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 17:15:53.28 ID:ZCjPkN6A
信長公に対し、公方が御謀反された時、
信長公が御出馬されて、上京を放火なされたことがあった。
その後連一検校が御前に出て
「このたびの御陣の洛中での騒ぎで、上下が怖がり恐れることは前代未聞のことです。」
と申し上げれば、信長公が
「そうであろう。さてその恐れたる様子とは?」
と仰せられたので、連一検校は以下の話をされた。

「上京に火がかかったと見ると、二条にいた者の妻が、
まず我が子だけでも連れて逃げればすむと思い、
三つか四つの子を背中に負い、慌てて走り、四条の橋のたもとまで逃げきった。
あまりに苦しくて、ちょっと子を降ろして休もうと思って地面の上にどっと置いてみると、
石臼でございました。」
(醒睡笑)



712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 18:27:43.12 ID:rxTBNthZ
>>711
落語みたいw

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 20:03:03.72 ID:ceKeV3cO
>>711
>信長公に対し、公方が御謀反された時、

謀反ってw

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 21:36:16.80 ID:tavheLe0
天皇御謀反ともいうんだから公方が謀反したっていいだろ

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 21:53:46.47 ID:F7+1vUHt
室町将軍が都を追い出されるのはよくあった事だけど
義昭の場合、昵近公家衆がついて行かなかったんだよな。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 23:48:29.32 ID:xgZWF6Y2
義輝の時点であまりついていかなかったそうだ
正確には京を退去するまでは従ったが、亡命先までは付いて行かなかった

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 23:54:02.95 ID:zYwTxKAt
>>713
信長公なんだから信長が主人公、公方は敵役

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 00:12:22.96 ID:twXBwpVX
東洋史学の岡崎文夫は魏の皇帝である曹髦が臣下のはずの司馬昭に対してクーデタを図ったのを
「浪漫的な反抗」と評してたが
義昭に対してそういう言葉を使う人はいないんかな
それともナポレオン3世の自己クーデタ(こっちは成功)のような喜劇扱いだろうか

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 02:53:59.02 ID:MKd78BCA
すでに傀儡だったじゃん。実権ねえから謀叛なんだって。

(●Д゚)伊達昭宗

2015年07月20日 13:22

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 04:15:14.47 ID:8TeZX/ko
(●Д゚)伊達昭宗

伊達家の当主は足利将軍から諱名の一字を拝領する慣わしがあったが、
伊達政宗公の元服の際に時の将軍義昭公が織田信長によって京を追われていた事により、中興の祖政宗公の名をそのまま頂く事となった

「伊達治家記録」

本来なら仙台藩主伊達政宗の名は伊達昭宗であったかも知れない話




『織田上総は果報の者也』

2015年05月11日 19:10

2 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/10(日) 22:31:24.31 ID:0KWMipET
織田信長が将軍足利義昭を補佐し、帰洛せしめ、本国である美濃に戻ると、三好三人衆が
不意に挙兵し将軍の在る六条本圀寺を攻めた。

信長は岐阜城でこれを聞くと同時に、一騎駆けに上洛し近江の柏原にて馬を倒し、その所の百姓家に入り、
ありあわせの馬に乗って上京し本圀寺に乗り付けた。
義昭はこの思いも依らぬ速き着陣に、嬉しさのあまり信長に抱きついたという。

さて信長は湯漬けをさらさらと食すと諸軍に命じた
「私が早速に上京したため、三吉の軍勢共は肝をつぶした体である!
その臆病心が冷めぬ内に討ち取るべし!

その間に我々は、慰めとして歌を作って歌おう。皆々、ここに付いて歌え。
ただし、その唱う間は各々一所にあって、膝を組み鑓を膝の上に横たえて持って、
歌を三編歌い、済んだら直ぐに立ち上がり、大音上げて敵を突き崩すように!」

そう下知した。この時の歌に
『織田上総は果報の者也 一番槍を突くほどに しかも主上の御前を』
と歌い、その後槍を入れて敵を討ち取って帰陣した。

その後、将軍の御所が新たに建築された頃の正月、御所の門前の石畳の上に、欠けた蛤の貝殻が9つ並べて
置いてあった。一体どういう者が何のつもりでこんな事をしたのか、知る者は居なかったが、
信長はこれを聞くと
「これは、上様の心うつけて位が欠けていると言うことを、京童が笑ってこんな事をしたのだろう。」
と宣ったとか。

(明良洪範)

九貝が欠けている→くらいがかけている、ということですね。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5540.html
↑とも解釈が違っていたので。

前スレ落ちててびっくりしたわ



3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/11(月) 10:06:13.67 ID:IO1dOxPW
その辺はさすが信長だけあって敏感だな