78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/04(金) 19:06:52.10 ID:yxs+maSQ
或る本に、細川忠興の父は兵部少輔藤孝と云う。剃髪して幽斎と称し、従二位法印に叙任された。
彼は(足利)尊氏将軍十二代の後胤・義晴公の四男であった。母は環翠軒宣賢(清原宣賢)の息女であり、
飯川妙佐の妹であった。
(別記に、幽斎は三淵伊賀守(晴員)の子であると云う)
義晴公が東山鹿ヶ谷に移住された時に、清原宣賢の娘が寵愛され、程なく懐妊して男児を産んだ。
義晴公の嫡男は義輝公、二男は北山鹿苑院の周暠という。三男は南都一乗院の御門主覚慶(後に還俗され
将軍となり義昭公と称し、慶長二年八月二十八日、六十八歳で薨去された。霊陽院殿と諡す)
四男が即ち藤孝であるが、彼の母が藤孝を連れて、三淵伊賀守に嫁いだ。
後年、藤孝は細川右馬頭元常の養子となった。また現在、細川氏を長岡氏と言うのは、昔日藤孝が、
京都勝竜寺での合戦に戦功があり、故に織田信長公より、その息忠興へ、別に長岡の荘を所領として
拝領したことに依るのだという。
(新東鑑)
細川藤孝の出生などについて
79 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/05(土) 15:13:49.23 ID:Eoip3YAd
新東鑑は刊本の序文、跋文によると、安永2年(1773年)までに氏名不詳の近江人某氏が編纂したということですが、
誰が書いたにしろこの頃までにそういう話が広まってて、細川家でもいちいち否定とかはしなかったってことか
80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/05(土) 15:53:35.20 ID:n7DgMSO6
そもそも細川家の家史である
「綿考輯録」の初っ端に「実は将軍義晴公御胤」と書かれているわけで
或る本に、細川忠興の父は兵部少輔藤孝と云う。剃髪して幽斎と称し、従二位法印に叙任された。
彼は(足利)尊氏将軍十二代の後胤・義晴公の四男であった。母は環翠軒宣賢(清原宣賢)の息女であり、
飯川妙佐の妹であった。
(別記に、幽斎は三淵伊賀守(晴員)の子であると云う)
義晴公が東山鹿ヶ谷に移住された時に、清原宣賢の娘が寵愛され、程なく懐妊して男児を産んだ。
義晴公の嫡男は義輝公、二男は北山鹿苑院の周暠という。三男は南都一乗院の御門主覚慶(後に還俗され
将軍となり義昭公と称し、慶長二年八月二十八日、六十八歳で薨去された。霊陽院殿と諡す)
四男が即ち藤孝であるが、彼の母が藤孝を連れて、三淵伊賀守に嫁いだ。
後年、藤孝は細川右馬頭元常の養子となった。また現在、細川氏を長岡氏と言うのは、昔日藤孝が、
京都勝竜寺での合戦に戦功があり、故に織田信長公より、その息忠興へ、別に長岡の荘を所領として
拝領したことに依るのだという。
(新東鑑)
細川藤孝の出生などについて
79 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/05(土) 15:13:49.23 ID:Eoip3YAd
新東鑑は刊本の序文、跋文によると、安永2年(1773年)までに氏名不詳の近江人某氏が編纂したということですが、
誰が書いたにしろこの頃までにそういう話が広まってて、細川家でもいちいち否定とかはしなかったってことか
80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/05(土) 15:53:35.20 ID:n7DgMSO6
そもそも細川家の家史である
「綿考輯録」の初っ端に「実は将軍義晴公御胤」と書かれているわけで
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