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阿波国にも公方家あり

2019年04月29日 16:44

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/29(月) 06:53:07.30 ID:vwrP0kNg
公方の大智院殿(足利義視。足利義晴の誤りか)の頃、阿波国にも公方家あり。京と両公方の
ようであった。阿波の公方(足利義維か)が軍を発し、京の公方を攻めに上ることがあった。
打ち負けて阿波へ帰ったという。

老人(江村専斎)が少年の頃(1565年生まれ)は俗の諺に「阿波衆の上りたる様ならん」
と言って、近頃の事のように言っていたという。

――『老人雑話』



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天文九年の徳政令

2019年04月04日 17:26

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/04(木) 14:15:33.45 ID:WgAZnRxq
諸国が惣劇の状態になり、諸大名は分国に新関を立てたため、往来の旅人も安定した移動が出来なくなり、
都鄙を巡る商人も途絶した。

このため京都の工商は家業を虚しくし、日を追って糧も尽き、家財を蓄えていた者はそれを質物に入れて
暫く妻子を育んだ。財宝なき者は行く当てもなく逐電した者多かった。人々がこのように窮迫したため、
公方役や地子役を成すことも出来ず、きびしく催促されても、財産は概ね質物として払底していたので、
致し方なく、上下京衆一同は、検断所に訴訟を上げた

「近年、京都の諸商売は全く生活の糧を得ることが出来ず、暮らしに非常に困っています。
そういうことで家財を質物に入れ、又は売り払うことでなんとか年月を過ごしていますが、それでも
ついに糧尽き、既に飢渇に及ぼうとしています。このため御公儀役も勤めること出来ません。
こうした事情でありますから、御慈悲を加えられ、徳政を御赦免くだされば有り難く存じ奉ります。」
こう言上すると、早速老中(重臣)たちが披見し、上聞に達した。公方(足利義晴)はつくづく御覧に
なって、翌日人々を召してこう仰せになった

「住民たちは近年家業の利を失い、飢渇に及ぶとのこと、非常に不憫である。そもそも士農工商というものは、
昼夜心骨を刻み、上を育み、上はまた下が豊かになるよう常に注意し、安全を守るべきものである。
ではあるが当世は睡世であり、政道もまた無きが如し。

それについて、徳政を望むこと、もとより米銭に富んでいる者は、利益を上げるために質物を取る。
質物を取るほどの輩は、たとえその財産を悉く取られたとしても、飢渇に及ぶほどのことは無いだろう。
有徳(裕福)の者は百人に一人二人である。しかれば、小を殺して大を救う事こそ法である。
その上に先例も無きにしもあらず。常徳院(足利義尚)、法住院(足利義澄)の例に従い、
急ぎ徳政を行い、貧窮を暖和するように」

そう仰せ付けに成ったため、人々承り、すなわち評定所にて案分を作成した。新規ではなく、ほぼ先例を踏襲した。


      徳政      城州(山城国)
一、借銭、借米の事。
一、武器の類に於いては   廿四ヶ月
一、絹布の類は   一二ヶ月
一、仏具、絵賛の物、家具の類は   一二ヶ月
一、家屋を抵当にしたとき、貸主から徳政のがれのため沽券(家を売ったという証明書)を書き、
  その形式も正しいとしても、利子を取っている場合は借銭同然とみなす。

  右の五ヶ条、元金の十分の一を以て白昼取り戻すことが出来る。もしこれに違反する輩が
  有る場合は、処罰の対象であり、申し出るように。仍って下知件の如し

   天文九年三月
                   (中沢)光俊
                   (不明)貞長
                   (楢林)長高 (判)

こうして質物を入れた者たちは、九月の干魃の時に大雨を得るような思いをして、喜ぶこと大方ならず、
質屋の内外に人の出入りは限りなかった。ところがこのような時に、洛外に隠れ住む浮浪人たちは、
良い幸いと悦び、五人十人づつ押し入り、質物に事寄せて財宝を奪い取った。これに異議を述べようとすれば
狼藉に至ったため、質屋は大いに迷惑し、この事を訴訟した。諸奉行はこれを聞いて、重ねて高札を立てた。

      掟
一、今度徳政を免除された所、在々所々に隠れ住む不浪人たちが質屋方へ押し込みをし、資財を奪い取る
  との事聞き及んだ。今後この浮浪人たちの近辺に在る者たちは、事前に申し合わせをし、不浪人たちが
  出てくれば即座に出合い、できるだけ打ち留めるように。生け捕りした場合は大功であり、
  それが侍であれば何であっても望みを叶え、平人であれば当座の褒美として銭二百文を与える、
  仍って下知、件の如し

この高札が洛中を初め、在々所々に残らず立てられた。
(室町殿物語)

天文九年にあったとされる(史実的には怪しい)徳政令についての記事


和田新五郎の処刑

2019年01月31日 17:25

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 13:45:06.32 ID:h4t6uh2G
天文十三年八月十一日、一条戻橋にて一人の男が処刑された。
男の名は和田新五郎三好長慶の配下である。
新五郎は将軍足利義晴の嫡男、菊童丸(義輝)の世話係の女房と密通した罪で捕縛されたのだ。

新五郎の処刑は後に長慶と対立することとなる義晴・晴元の裁定によって行われたという。
その方法は凄惨なものだった。
新五郎への刑罰は「鋸挽き」と決まったのだが、まずはじめに縛り上げられ身動きの取れない新五郎の右手が鋸で切り落とされた。
次に苦しみ悶える新五郎の左手が切り落とされる。最後に頸を落とされ、漸く新五郎は絶命した。
続いて新五郎と密通した女房も一糸纏わぬ姿で洛中を引き回された上で、六条河原で首を打たれた。
この処刑は当時としても残忍な仕打ちとして都の人々に受け止められ、山科言継は日記に「前代未聞」と記している。

後に長慶は主君・晴元に対して反旗を掲げることになるが、この頃には既に晴元(と義晴)との暗闘が始まっていたっぽい話。


ああ、将軍家が他界されれば三好が時を得て

2018年08月09日 12:18

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 10:50:39.07 ID:8eEbnfec
(江口の戦い敗戦後)

天文18年(1549)11月26日より、将軍大御所(足利義晴)は御病気となる。
上池院法印紹弼が御薬を調進し奉る。

12月4日、御所御快気により伊勢国の住人・加多兵庫助教員が所持する竟花と号する
大鷹を、彦部雅楽頭晴直をもって召され長等山で御狩をされた。近衛准后父子、細川家
以下が供奉し、三井の衆徒ら多くが出迎え夜に入って御帰りとなった。

浅井久政は進藤山城守貞治に語って曰く、「将軍家の様子を見るに、武の御器量は甚だ
少なし。伊勢の加多が秘蔵する鷹を召して御慰みとなさるのは、今なさることではない。

ただ義士を集めて武林のもとに慰みなされば、何ともなく御運も開かれるであろう。
人はその作用に疎き時、必ず家を失うものぞ。

将軍家は和歌に達しなさるよりも武に達しなされば、まことに先祖の大功もおのずから
輝かせなさることだろう」とのことであった。

同21日よりまた将軍大御所は御病気となる。今度は片岡大和守晴親が御薬を奉った。

19年正月5日より、足に腫気があり、また上池院が御薬を奉った。同8日には山徒
正覚房法印の勧めによって御近習12人が登山して、中堂まで千度巡礼を行った。

久政はこれを聞いて曰く「人は必ず滅びんとする時に、まず空しく物事にかかって内に
留まらない。よって物を頼むのだ。これが前触れである。

鬼神には常に祈るもので事に臨み祈るべきものではない。ああ、将軍家が他界されれば
三好が時を得て、天下は三好のものとなるであろう。

これは武将の勤めてはならぬ過ちである。自己の神明を磨き出す人は希であるから、
皆々がこのようなものである」と言ったのだという。

――『浅井日記』


このころ、安芸国中は平穏であったので

2014年06月14日 19:09

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 19:09:30.82 ID:MIV+5nsd
このころ、安芸国中は平穏であったので、大永7年(1527)の春、毛利元就は上洛して、
将軍足利義晴公に謁見した。元就は大江広元の苗裔として、江家の嫡流であったので、
将軍からは、他の国侍に準ずるべきではないと、高家に劣らぬほど高く待遇された。
その上将軍家の推挙によって、元就は従五位に叙せられた。
くわえて、その武功が雲上にまで聞こえたことで、帝より錦の直垂を下されたのである。

かくして元就は3年間在洛して、享禄2年の秋、芸州へと戻った。

(芸侯三家誌)

なんと毛利元就が上洛していた、という記事である。
ちなみに似たような話は『陰徳記』にもありますが、どこからこんな話が生まれたのかは、謎。





500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 20:27:08.61 ID:0VuA6E4T
>>499
ツッコミ入れるのは上洛の部分じゃないだろw

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 22:21:36.86 ID:/kupN35R
元就は大内義隆の斡旋で従五位下右馬頭という国人領主としては破格の位階をもらっという話があるから、
 これほどの高位についたからには上洛してるだろう
 叙位の理由は本姓の大江朝臣だろう
 年齢は30前後の適当な歳にしておくか
という感じかな。

上洛といっても軍勢を引き連れて京都を支配下におくとは限らず、
鮭様や謙信だって上洛はしてるから元就が上洛したというのもあり得ない訳じゃない。
してないとは思うけど。

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 22:25:25.62 ID:UXRWRJQp
兄と元就を混ぜただけに見える

503 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/14(土) 01:25:03.03 ID:FYG5C0pX
3年も京にいたのかよ・・・

504 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/14(土) 02:22:42.94 ID:TNQVx7ib
>>499
ありえてもおかしくない話ではある。

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 03:40:54.44 ID:hKBUg8ku
安芸国中が平穏・・・?

506 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/14(土) 12:47:13.72 ID:1OTQn+lf
1527年から30年辺りだと尼子は備後で大内に敗れた直後で、毛利は石見の高橋氏を打った後だし
3年後位には尼子経久三男の塩冶興久が大規模な反乱起こすし、
安芸の不安要素は武田家一党位だけど、熊谷と内輪揉め始める頃だし
割と平和だったかもね…

確かに、兄の興元とない交ぜになった話の様な気もするが

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 12:54:51.32 ID:7UWJqytY
んなもん突っ込み入れようと思ったら全行に入れられるわ

仮名の注文書

2013年05月05日 19:10

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 20:06:07.77 ID:FpbL+zkr
ある人が紺屋(染物屋)に着物の染付を頼むため、注文書にその内容を細かく、仮名で書いて持たせた。

『せなかにふとうを、いかにも手際よくありありと付けるへし』

紺屋はこれを見て、「これは一興なる事を好むものだろうか。しかし必要あるものだろう。」と考え、
絵の上手に頼んで型紙を彫り、背中に染め付けたものを見れば、
不動明王が巌に立ち、火炎凄まじく描かれ、剣を持たせていかにも厳しくありありと染め付けられていた。

これを見た注文主は大いに驚いた。何故なら彼が頼んだのは「不動」ではなく「葡萄」だったからである。

「これは何だ!?何と心得てこんなことになったのか?これはりょうけん違いである!!
早く染め直すのだ!」」

そう言われ突き返されてきた。紺屋は注文書を見なおして

「不動はどんなものを見ても、剣は片手に持っているものばかりである。両手に剣を持たせよとは、
馬鹿げた好みであるとは思うが、客の注文である以上仕方がない。」

そして今度は両手に剣をもたせ、さらに凄まじい染付を付けた。
実にナイスな”りょうけん違い”である

これを見た注文主はもはや呆れ果て、もう仕方がないと諦めこれを受け取り、そのまま
捨ててしまったそうである。

総じて文章を書くときに、仮名だけで書いたものは読みにくくて役に立たないことが多い。
また仮名で書いたとしても、にごり(濁点)をきちんと書いておくべきなのである。

万松院殿(足利義晴)の御治世の前後では、京においてすら文字を書けるものは千人に一人も無かった。
しかし書を成すと云われる程の人は、後の世にも見られないほど見事な書を書かれた。
(義殘後覺)




530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 20:24:45.96 ID:bdi90EW+
その注文した人って誰ですか?

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 20:35:21.87 ID:h9nKfsL2
私です

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 20:52:22.00 ID:Q+WJvxjR
かぶいた人に高く売れただろうにw

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 21:02:58.85 ID:i1SOR+Xn
悪い話というよりは面白い話だなw

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 22:08:02.61 ID:Ir4DzAB2
濁点がきちんとつくようになるまでさらに300年以上かかるのか

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 22:23:26.06 ID:AlGe84Sf
落語かよw

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 00:06:15.91 ID:fmTYy2Wi
何で昔は濁点付けなかったんだろうな

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 00:41:38.47 ID:wsoNoVcB
この中に1人、正純がいる!

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 07:19:24.10 ID:ueyNyR2P
>>536
濁点がなくても分かるのがまっとうな学のある者で、
濁点は学の浅い初学者などのためのものとかそういう感じだったんかねえ

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 08:19:48.56 ID:UdwvAnAs
つか、まともな学のある人は漢文でしょ?
かな書きは字の読めない人のための走り書きで

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 08:20:11.65 ID:6XnixMhK
>>539
句読点なんてまさにそうだったねい

542 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/05(日) 08:36:30.58 ID:5HShZpQM
そもそも句読点ないだろ当時は

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 21:13:31.59 ID:lxZ66NJN
>>529
「りょうけん違い」と言われて両手に剣を持たせちゃうほんとバカな紺屋じゃあ、
ちゃんと濁点つけて書いても「武道」だと思って剣道着着た人の絵を描いちゃうかもしれないな

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 21:48:54.76 ID:CP05TOK6
紺屋の白バカめ

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 22:00:28.09 ID:7Ky2t4g3
>>554
どこの完璧超人だよ

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 22:04:27.54 ID:7wlvYMVy
てんかいちのふへんもの

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 22:04:31.47 ID:z1SzEs6S
>>554
まだ武道とは言わないだろ

昔阿波衆鑓突きと申し伝わり候事

2013年03月26日 19:50

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 22:40:35.14 ID:WSOpR7a2
昔阿波衆鑓突きと申し伝わり候事

越前のくわうりん(朝倉家家臣・佐々布光林坊)と申す者、2万人の軍勢で都まで進出した。
(これは大永7年(1527)、細川晴元と対立し、京から逃亡していた将軍足利義晴が、
朝倉教景の軍勢を引き連れ上洛しようとし、京都泉乗寺口で三好勢との戦いとなった時のことである)

越前衆は手に持つ武器として、柄を堅木にて如何にも強靭にし、長さ1間(約1.8メートル)程に
拵えた鑓に、黒鉄製の菱を一つ持っていた。
彼らはこの菱を地面に撒きそれを敵に踏ませ、混乱した所を攻撃して勝つことに
巧みであった。

一方の阿波衆は、鑓の柄を四方竹にして如何にも軽くして、長さ3間(約5,5メートル)ほどもあった。

しかしこの時、阿波衆は3千に過ぎず、敵の越前衆は2万人であり、とても合戦において
勝てるとは思えなかった。

越前衆は阿波勢の人数の少ないのを見て取り、「細工など要らない!ただ懸かれ!」と言って、
菱も捨てて力攻めに攻め懸った。

この時阿波衆は
「我等は人数少なく、このまま攻め懸ってこられれば、まともに戦う事すら出来ず、
皆殺されるだろう。
であれば、思い切ってこちらから撃ち懸り、討ち死にしようではないか!」

そう決心し越前衆の先陣を手元に寄せ、長鑓にて散々に突いた。
するとそのうちに越前衆の後方が崩れ下がり始めた。ところがこの時越前衆は、自分たちが先に捨てた
菱に足を貫かれ大混乱となった。

ここぞと阿波衆は「首は取るな、切り捨てにせよ!」と一気に攻め、1万人を殺したという。

京衆や堺衆は天正の年号の頃までこの合戦のことを話題にし、阿波衆の事を「鑓突き」と
呼んでいたそうである。
この合戦より後、阿波衆の鑓は皆、四方竹の柄になったそうだ。
(三好記)




840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 22:57:21.76 ID:AwM0kfZf
>自分たちが先に捨てた菱に足を貫かれ大混乱となった
ってコントかよw

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 23:05:15.67 ID:52LjMvOs
宗滴は何してたんだよ

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 23:38:14.19 ID:v5XHUDW2
忍たまでも撒き菱を間違って自分の手前に投げるシーンがあったなあ

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 03:58:50.55 ID:V/xdGEAT
初代佐々布光林坊である光林坊掟運ってこの戦で戦死してしまったんだよね
こんな間抜けなエピソードで討取られていたとは…

某歴史ゲームの影響で佐々布一族って越前府中の神官って認識されがちだけど
本当は近江の元国人領主で越前に落ち延びて入仏後に還俗したれっきとした武士なんだよな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 10:49:22.25 ID:yj+zb7F9
我が国におけるファランクスであった。

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 10:59:13.57 ID:A5Kj6Pcu
寡兵を侮るエピソードは人間くさいなぁw

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 21:14:18.30 ID:1CJ4D3rR
>>839
長慶?当時何歳だよ?

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 02:23:14.85 ID:8yQGX7cC
泉乗寺合戦(東山の合戦?)なら三好は三好でも親父さんの元長の方だろうなぁ、長慶さん1522年生まれだし
※修正しました

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 15:58:52.97 ID:oqbLfgEf
三好側の資料だと2万の軍勢を破ってその半分を討取った事になってるんだな
朝倉側の資料だと宗滴率いる朝倉軍先陣は約1万(細川や六角の軍を入れると3万5千)
それでこの泉乗寺での合戦の事は小競り合いがあったぐらいの記述しか無くて
その後、宗滴や景紀が大活躍した川勝寺や東寺での合戦の記述しかないんだよな

「児手柏」

2012年07月08日 20:58

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 16:25:32.29 ID:VkmQLypR
ある時、細川藤孝(幽斉)は足利義晴から大和手掻派の棟梁、包永の名刀を下賜された。
以後、この大和包永は藤孝お気に入りの佩刀となる。
そして元亀二年、大和多聞山城攻めにおいて、藤孝は奈良興福寺の僧兵 荒三位と一騎打ち。
この時、どうにか組み伏せた上で首をとったのだが・・・

「・・・・・・この刀、実戦で使うには長すぎるわ。マジやばかった」

これに閉口した藤孝は、2尺6寸強(約80cm)の刀を2尺2寸(約67cm)に磨上げた。
ところで、刀は表と裏がおなじような刃文になるのが普通なのだが、
この包永の刃文は、表は焼きの高い乱れ刃、裏は焼きの低い直刃であった。
そこで藤孝は万葉集にある

奈良山の児の手柏の両面(ふたおも)に  かにもかくにもねじけ人の徒(とも)

と言う歌にかけて表と裏がまるっきり違うと言う意味で「児手柏」と銘を刻んだという。


どちらの逸話にしようか迷ったが、まあ幽斎が珍しくミス?した話ということで。




422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/08(日) 17:08:54.64 ID:7HwaJRNq
件の僧兵は暴れ牛より手強かったのか?

室町幕府第12代将軍足利義晴誕生

2012年02月19日 21:50

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 17:22:03.32 ID:ab8T0jwT
室町幕府第12代将軍足利義晴誕生


赤松家落日の時(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5907.html)の後の話。
浦上村宗によって全てを奪われたかに見えた赤松義村であったが、彼はまだ復権を諦めたわけではなかった。
義村は京を追われた足利義澄の子である足利亀王丸を引き取って養育していたが、
この子どもの身柄はまだ村宗にはまだ掴まっていなかったのである。

永正17年(1520年)12月、義村は亀王丸を伴って置塩城を脱出し、海路で明石へと渡り衣笠範弘を頼る。
義村はそれから東播磨の諸将に呼びかけて村宗討伐の兵を結集させて最後の賭けに出のであった。

翌永正18年(1521年)2月義村方の先方の赤松村秀・弘岡左京らが室津まで進軍した村宗軍と対峙。
「いよいよ決戦」・・・そう思われた矢先になんと弘岡がそのまま村宗の陣へと駆け込み裏切ってしまった。
いきなりプランが崩壊した義村軍に早くも勝ち目が無くなり、義村は兵を一旦引くことを余儀なくされた。

しかし、ここで優勢である村宗の方から義村へと和議の申し込みが入る。
京都で足利義稙と細川高国の対立が激化しており、高国は新将軍擁立を目論み村宗に連絡して亀王丸の上洛を打診していたのである。
復権への欲が出たか、義村は村宗と誓紙を交わして和睦し、同年7月6日に亀王丸の身柄を高国へと引き渡した。

だが亀王丸の上洛が済んだ後、村宗は誓紙を一方的に破棄し義村の身柄を拘束して幽閉した。
そして9月17日、赤松義村は村宗の放った刺客に襲われ、刺客の一人の左手首を切り落とすなど抵抗したものの切り殺された。
同年12月25日、亀王丸は育ての親の死について知らぬまま上洛してついに征夷大将軍となり、「足利義晴」を名乗った。


余談だが後年、足利義晴浦上村宗が上洛した時に「将軍襲職の恩人である」としてその再開を喜んでいたと伝わる。




109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 18:43:29.34 ID:MvK+LWGf
養育されていたつもりもなかったのか

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 19:42:36.24 ID:o7VjYBPQ
赤松家ここで終わったな。二度と守護三国に影響力が及ば無くなった。

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 20:03:32.05 ID:da2LXFMF
足利義晴自体は影薄いけど、偏諱受けた大名は多いよな

武田晴信、伊達晴宗、尼子晴久、南部晴政

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 20:35:29.81 ID:2pVPU0wl
>>111
ちょうど黄金世代の親の代だからね

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 03:29:16.54 ID:Qc+QZG8A
>>111
赤松晴政「赤松義村の子供なのに…」

まぁ大物崩れで晴政が浦上を背後から襲って殺すのも道理だな。
どうせ大物崩れが起こらなかったら晴政も用済みで始末されたはず。

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 09:13:08.87 ID:x+0Yv8HS
>>108
この時代も面白いよなー
信長の野望はこの時代を舞台にしたゲームを出すべき
蒼天録なんて無かった


115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 11:06:48.87 ID:bkyxPwdY
そうなるともう「信長」の野望じゃなくなるんだけどなw
昔、源平を扱った光栄のゲームあったな~

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 12:56:53.14 ID:6iZObSRe
>>108
相手が優勢な場合に和議に応じるのは馬鹿。


117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 22:58:03.98 ID:HvdNzsJ5
>>116
相手が優勢なら当然和議に応じるだろうさ。
むしろまずいのはその後。

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 07:37:29.17 ID:4CjbdSAD
上杉朝定「相手が劣勢なのに和議するとかありえんよねー」

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 11:18:16.97 ID:S5QUgtuu
真田パパン「それは時によりけりだ。くくく・・・」

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 16:02:49.32 ID:lke3g88j
信長から降伏勧告きたら100%罠だな
北畠とか伊勢長島とか遠山城とか...

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 17:16:15.91 ID:u2zSX/im
>>120
信長は、だいぶ経ってから追放したり処刑したりするから怖い。
家康辺りは、どうやって死亡フラグを回避したんだろう。


122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 17:45:05.07 ID:+4rptUCo
>>121
息子と嫁さんで華麗に回避

本願寺証如と将軍の献金要請

2011年08月15日 23:00

証如   
419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 12:32:33.35 ID:MsxwqlMW
天文六年( 1537)、石山本願寺の法主・証如は困っていた。
京の将軍足利義晴より、『献金せよ!』との上意を受けたからだ。

無理な話であった。本願寺がそれまでの本拠地であった山科本願寺を攻め滅ぼされたのは
6年前の天文元年の事である。本願寺は未だそこからの再建途上にあり、はっきり言えば
財政がかつかつで、献金する余裕など無いのである。
証如はそれを理由に、献金の免除を懇願した。

しばらくして、証如のもとにこんな情報がもたらされた

『公方様(義晴)が、本願寺の態度に激怒している』
しかもそれだけではない

「彼の要脚のこと、進上せざれば御敵たるべし」
(献金の要請に応じないのなら、本願寺を将軍の『御敵』と認定するぞ!)
との意向を表明しているというのだ。

証如と本願寺指導部はこれに慌てた。先にも言ったように山科本願寺落城の記憶も
未だ生々しい時期である。将軍の御敵とされれば、今度こそ本願寺の存続が危ういかもしれない。

結局本願寺は無い袖を振りどうにかして金を集め、将軍への献金を行ったということである。

軽視されがちな室町将軍の、実際の権威というものが見えてくる逸話である
(天文日記)




420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 13:47:33.53 ID:2ON0MfmL
この頃の足利将軍の兵力ってどのくらいかな?
義輝の頃はろくに兵がいなくて将軍自ら孤軍奮闘してるんだよな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 13:56:31.21 ID:sC2nee+u
>>420
奉公衆(騎馬の旗本)が約2000なので、直属軍全体では1万前後。

ちなみに永禄の変で義輝は孤軍奮闘では無い。
不意打ちだったので数は多くないものの、その場にいた奉公衆の多くも義輝と共に抵抗し、
松永・三好三人衆の大軍相手に2時間以上戦い続けた。

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 14:26:14.91 ID:8bNDRU9e
一万?落ち目の足利家にそんな大大名クラスの動員力があったのか?
従いそうなのは摂津・山城の一部の地侍くらいしか思いつかんが

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 14:31:08.14 ID:2ON0MfmL
そうなのか義輝公が所有の名刀を畳に十数本突き刺して切れが悪くなると
交換して戦ったとか言う逸話を真に受けたから勘違いしてた

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 14:52:25.51 ID:sC2nee+u
>>422
それに加えて足利将軍は京都市民を動員することも出来た。
実際に足利義昭が信長に対抗して二条城に立てこもった際には、京都市民は将軍の命により
信長派の人間を襲撃している。信長はそれに対抗するため京都郊外の村々に、年貢免除の条件で
洛中への一揆を要請してる。

何のかんので足利将軍には、最後まで大大名クラスの動員力があったと考えていい。
だからこそ京兆家や三好や織田にとって厄介だった。

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 15:18:44.76 ID:1fGHnDqK
>>423
それはもうギリギリのとこだろ
本能寺みたいに連れてきた兵が少数だったらともかく自分家で・・・

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/15(月) 19:59:45.89 ID:1+nKOAXy
>>419
んー、確かこの山科本願寺の話は山科言継さんがかなり奮闘していたような

>>421
長慶が死んだ事は伏せられてたけど直ぐに義輝は二条城の改修を始めているから
ぶっちゃけ不意打ちって程じゃない、義輝自信も解っててやってる。

>>424
京都市民を動員ってそりゃ無茶
当時の足利義輝に三好長慶を凌ぐだけカリスマと人格が備わっていたら別だけど
それだけ権威は残ってたら何度も朽木に逃げないし一・二回目の長慶暗殺未遂は成功してるだろう。
正親町天皇が長慶の改元を優先した時点で京にいようが朽木にいようが長慶>足利だから
だから長慶が死んでから三好義継+久秀・長逸は義輝の殺害に踏み切った(他にも理由があるし)。

守護・守護代・豪族を自由に動かす事が出来た足利
本当の意味での動員力を持ってた将軍は足利義植(義材)で終わり。

厄介だったのは勿論足利の権威が残ってたからだけど何より脅威だったのは
義輝が死兵だったから、長慶唯一の判断ミス、と言いたい所だけど本当にどうしようもなかったなぁ。

秋月文種の御供衆任官運動

2011年08月13日 23:00

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 16:13:52.86 ID:NlIHsOTA
天文9年(1540)のこと。筑前の秋月文種は将軍足利義晴の『御供衆』に任じられることを欲していた。
しかしこの頃、秋月氏が属していた大内義隆は、なかなかその事を幕府に推挙してくれない。
そこで、である。
秋月文種はついに、大内氏に黙って内々に、幕府への運動を始めたのだ。
しかも将軍家に求めたのは、後で大内氏との関係がこじれ無いよう

『あくまで将軍が秋月文種の忠義に喜び、自発的に御供衆の地位を授与した形にしてください』

というものであった。

「こんな都合のいい話が認められるか」
と将軍が思ったかどうか。結局、運動空しく秋月文種は御供衆の座を手にすることは出来なかった。

そして翌天文10年、秋月文種は驚愕する

自分と同じ筑前の国人で、同じく大内氏に属する麻生氏が、大内義隆の推挙により御供衆の座を授与されたのだ。

秋月文種は慌てて大内義隆に「自分も御供衆に推挙していただきたい!」と懇願した。
ところが義隆

「麻生氏はもともと、将軍直臣の家柄なので御供衆に推挙したんだが、秋月はそういう家ではないから
御供衆に推挙することはできないね。しかし五番衆なら推挙して差し上げられるのだが…」

五番衆は御供衆より格下なのである。同じ筑前の国人として、麻生氏より下だとされてはたまったものではない
ではないか!
どうも大内義隆、秋月文種が自分を通さず独自に幕府に接触したことを知り、そこでこのような目に合わせた節がある。

この後も秋月文種は大内義隆に、御供衆への推挙を懸命に働きかけたが、それを得ることはついに出来なかったという。

まさに藪をつついて蛇を出す結果となった、秋月文種の御供衆任官運動の顛末である
(常興日記)




402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 17:27:00.02 ID:uAix8GJx
御供衆になると何かメリットがあるの?

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 17:46:29.38 ID:NlIHsOTA
>>402
一番簡単なメリットを言えば公的な「信用」が違ってくる。
例えば今の社会でいえば、同じ事業をするにしても、公的な肩書きが何も無い人と、
元国会議員とか元高級官僚とか、そう言った肩書きを持っている人とではやはり後者の方が
広く信用され有利に成るでしょ。多くの人はその肩書きの後ろにある経験や人脈を見るから。

あと戦国時代で言えば、実力で圧倒していれば肩書きの影響は少ないが、実力で拮抗していれば
一般的にやはり肩書きのランクの高い人間の方に人は集まるんだよ。
これも現代も一緒だと思う。

もっといろんな意味や理由があるけど、とりあえず一番直接的なメリットはそういったところだな。

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 18:52:14.95 ID:VHD2YWD7
高い官位や役職は、そのための付け届けに必要な財力の証明であったり、
仲立ちをしてくれる人との親密さのアピールであったりするんだよ。

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 19:09:57.92 ID:Gl8YjL7n
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BE%9B%E8%A1%86#.E7.BE.A9.E6.99.B4.E6.9C.9F

ここに秋月種方って文種の別名が載ってるけど、どういうことなん?


406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/14(日) 14:36:15.94 ID:2ddWbF0U
さーっと見てみると、番衆あるいは供衆になったと書いてる所があるから、なんらかの役職に就いたんじゃないの
ただ中央の記録に残ってないからよくわからないとかだったりしてw