205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/27(金) 15:18:13.77 ID:1yQqJgug
元和三年二月二十一日、故・徳川家康に対し、東照大権現の贈号がなされた。
或る記に、始めは大権現ではなく大明神の神号然るべきとの計議あって、それに決定せんとしたのだが、
天海僧正はこれを聞いて、「明神は非なり。権現とあって然るべし。」と言ったのだが、その場の衆は皆
「権現は(神仏)習合なのだから如何か。」と言った。
そうではあったが、天海の言う所も無視するわけにはいかず、事決せずして結論は延引された。
この事について、徳川秀忠公は老中をして議定せしめ給うたが、この時も皆、明神号を以て是なりとし、
将に定まらんとした。しかしこの時天海は黙して何も発言しなかった。そのため老中は再三天海に
尋ねられた所、彼は
「豊国大明神、幸ありや。」
と言った。
これに何れも答えること出来ず、権現に定まった。
後に神体を、吉田(吉田兼起カ)に命じて鎮斎しようとしたが、天海が
「吉田何をか知らん。愚僧勧請せん」と言ったため、皆疑って、この言葉を秀忠公に申し上げた。
そこで秀忠公は老中を以てこの事を尋ねられた所、天海は一軸を献じた。それは後陽成院帝より
天海に賜った、神体勧請伝の宸筆であった。殿中の者達、大いに驚いた。
今の東照宮の神体は、天海上人が鎮斎したものである。
総じて東叡山寛永寺の僧徒が神体を勧請する事を得るのは、その縁である。
天海がこの勅伝を得た経緯は、慶長の末に家康公、豊臣秀頼公を伐たんと思し召し、後陽成帝に
請い給う所、帝は愍みに思し召され、東西を和解なさしめんとの叡慮を持たれていた。故に
秀頼征伐の執奏が再三に及ぶと雖も、許し給わなかった。これに家康公は御憤あり、故にこの事を
後老中も皆恐れて敢えて言い出す者は無かった。
この時、天海は家康公を諌めた。その辞は甚だ激しく、終に家康公も後承引あった。
天海はすぐに上京し、この事を帝に奏聞した。帝は天海の功を奇とし、「その願う所を訟えよ」との
勅定があった。天海はすなわち、この神体勧請伝を以て奏じた。帝はそれを許し給うたという。
別記に、天海大僧正は足利公方・義澄公の末子であり(一説に、俗姓三浦の末葉・鈴木氏であるという)、
母は会津蘆名盛隆の娘で、永正七年に誕生、義澄公薨去に付き、母と同道し会津へ下向し、外祖の氏を
称して平氏となり、寛永十九年十月二日に寂した。百三十四歳であったという。
慶安元年四月、慈眼大師と諡を賜ったという。
(新東鑑)
天海僧正、明智光秀どころか足利将軍の落とし胤説まで有ったんですね。
206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 19:00:22.20 ID:13JLuMtD
噂でもいいんだけど天海ちゃん本人はどう思ってたのかねえ
本人に聞く奴も結構いたと思うんだよね
207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 19:37:58.79 ID:OVmpUAW9
ほっとい天海とか思ってたんじゃないの
208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 19:48:02.73 ID:13JLuMtD
豊国大明神、幸ありや
ひどい豊臣憎しの言葉だな
209 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/28(土) 22:20:06.53 ID:BBDU84zs
天海「権現、私の好きな言葉です」
210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 22:36:46.38 ID:FtB32KSb
出生関連には「お前が思うならそうなんだろ、お前の中ではな」的な返ししてなかったっけ天海
211 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/28(土) 22:52:19.77 ID:BBDU84zs
川中島合戦史仲裁案「拙僧がソース」とかもね
元和三年二月二十一日、故・徳川家康に対し、東照大権現の贈号がなされた。
或る記に、始めは大権現ではなく大明神の神号然るべきとの計議あって、それに決定せんとしたのだが、
天海僧正はこれを聞いて、「明神は非なり。権現とあって然るべし。」と言ったのだが、その場の衆は皆
「権現は(神仏)習合なのだから如何か。」と言った。
そうではあったが、天海の言う所も無視するわけにはいかず、事決せずして結論は延引された。
この事について、徳川秀忠公は老中をして議定せしめ給うたが、この時も皆、明神号を以て是なりとし、
将に定まらんとした。しかしこの時天海は黙して何も発言しなかった。そのため老中は再三天海に
尋ねられた所、彼は
「豊国大明神、幸ありや。」
と言った。
これに何れも答えること出来ず、権現に定まった。
後に神体を、吉田(吉田兼起カ)に命じて鎮斎しようとしたが、天海が
「吉田何をか知らん。愚僧勧請せん」と言ったため、皆疑って、この言葉を秀忠公に申し上げた。
そこで秀忠公は老中を以てこの事を尋ねられた所、天海は一軸を献じた。それは後陽成院帝より
天海に賜った、神体勧請伝の宸筆であった。殿中の者達、大いに驚いた。
今の東照宮の神体は、天海上人が鎮斎したものである。
総じて東叡山寛永寺の僧徒が神体を勧請する事を得るのは、その縁である。
天海がこの勅伝を得た経緯は、慶長の末に家康公、豊臣秀頼公を伐たんと思し召し、後陽成帝に
請い給う所、帝は愍みに思し召され、東西を和解なさしめんとの叡慮を持たれていた。故に
秀頼征伐の執奏が再三に及ぶと雖も、許し給わなかった。これに家康公は御憤あり、故にこの事を
後老中も皆恐れて敢えて言い出す者は無かった。
この時、天海は家康公を諌めた。その辞は甚だ激しく、終に家康公も後承引あった。
天海はすぐに上京し、この事を帝に奏聞した。帝は天海の功を奇とし、「その願う所を訟えよ」との
勅定があった。天海はすなわち、この神体勧請伝を以て奏じた。帝はそれを許し給うたという。
別記に、天海大僧正は足利公方・義澄公の末子であり(一説に、俗姓三浦の末葉・鈴木氏であるという)、
母は会津蘆名盛隆の娘で、永正七年に誕生、義澄公薨去に付き、母と同道し会津へ下向し、外祖の氏を
称して平氏となり、寛永十九年十月二日に寂した。百三十四歳であったという。
慶安元年四月、慈眼大師と諡を賜ったという。
(新東鑑)
天海僧正、明智光秀どころか足利将軍の落とし胤説まで有ったんですね。
206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 19:00:22.20 ID:13JLuMtD
噂でもいいんだけど天海ちゃん本人はどう思ってたのかねえ
本人に聞く奴も結構いたと思うんだよね
207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 19:37:58.79 ID:OVmpUAW9
ほっとい天海とか思ってたんじゃないの
208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 19:48:02.73 ID:13JLuMtD
豊国大明神、幸ありや
ひどい豊臣憎しの言葉だな
209 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/28(土) 22:20:06.53 ID:BBDU84zs
天海「権現、私の好きな言葉です」
210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/28(土) 22:36:46.38 ID:FtB32KSb
出生関連には「お前が思うならそうなんだろ、お前の中ではな」的な返ししてなかったっけ天海
211 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/28(土) 22:52:19.77 ID:BBDU84zs
川中島合戦史仲裁案「拙僧がソース」とかもね
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