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足利義材の脱出

2020年05月04日 18:41

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/03(日) 22:03:19.95 ID:lGyj4K0H
(明応の政変によって)この年四月、前公方(足利義材)は、上原左衛門大夫(元秀)と云う者によって
大和筒井城で身柄を確保され、直ぐに細川政元に計らい、将軍職を解官あって、忝なくも前将軍
義稙(義材)公を、伯々下部紀伊守に預け置き奉り、獄舎を造って入れ置き参らせ、遁世者ただ一人を
配膳の役に侍らせた。そして男女ともにかの獄舎に出入りすることは堅く制禁したが、前将軍家の
伯母御前の比丘尼御所が、通賢寺におられ、ただこの御方だけは、番人の免許を得られ、折々に
獄中へ御見廻さて、御物語あられた。

ある時、配膳役の遁世者が密かに、前将軍へ申した
「君、いかにもして早速にこの御所を落ちさせ給い、何方にも御座を移し、御運を開かれて下さい。
もし御本意を遂げられたならば、某の子孫を必ず取り立てて下さい。某は御跡に残り留まって、
水火の責めに遭おうとも、御行方は申しません。」

このように年頃に申し上げると、前将軍家はこれを聞き召され
「ならば、その意に任すべし。汝が忠義のほど、生々世々に忘れるべからず。子孫に至りては
必ず取り立て召し仕わん」と御約束有あった。

その後、前将軍家はすぐに御伯母御前と同じ乗輿に召されて獄舎の中を忍び出、安々と遁れ落ちられ、
北国へ御下向あった。

さて、その御跡にかの遁世者は、この事を深く隠し、何事も無かったかのように御座の場所に毎日
御膳を捧げつつ、また一人で御物語を申し上げ、今も前将軍家がここに御座有るようにもてなし、人知れぬ
ようにしていた。これは昔、鎌倉における頼朝卿の御時、清水冠者(源)義高が囚われ、落ち行き難き
状況だったのを、乳母子の海野小太郎幸氏が計らった事に相似ている。(源頼朝が木曽義仲の子である源義高を
誅殺しようとしたのを、彼の妻で頼朝の娘であった大姫の頼みで、海野幸氏が助けた故事)

こうして、十日ばかり過ぎてこの事は隠れなく顕れた。政元よりこの遁世者を搦め捕り、様々に拷問し
公方の御行方を尋問したが、ついにこの者は落ちず、後には河原に引き出され頸を刎ね捨てられた。

その日、伯々下部紀伊守の父である豊前守が頓死した。これを世の人々は皆、「伯々下部が公方に
悪しくあたり申せし御罰である。」と言い合った。また、この遁世者の行動を褒めぬものも居なかった。

應仁後記

明応の政変で幽閉された足利義材の脱出について



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公方である足利義稙公は、近江の六角殿を頼まれていた

2019年11月12日 18:16

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 12:40:00.14 ID:F9dW7hQx
その頃、公方である足利義稙公は、近江の六角殿を頼まれていた。
江州の両佐々木と申すが、六角が惣領であり、近江国の国人たちは六角氏の下知に従った。
京極は庶子なのだが、その祖である(佐々木)道誉判官の、足利尊氏公への忠功が莫大であったため、
公方よりこれを賞して現在は四職の一つとなっている。

応仁の乱より京極は細川勝元に一味し、六角は山名と一味して、互いに敵と成った。
応仁の乱は結果として山名方の負けとなったが、六角は独り京都に順じずこれを討つための
将軍の御動座も度々であった。

しかしながら公方からも、また細川高国からも(永正の錯乱以後)頻りに六角高頼を御頼みあり、
六角殿は義稙方に参られたのである。

この時既に六角高頼は老齢であり、長男の亀樹丸(亀王丸)に家を譲った。彼は後に氏綱と名乗ったが、
彼は片足が短く立居が不自由であり、現在のような大事の時に彼を立て続けるのは難しいとして、
次男に吉侍者という、相国寺に入り禅門の修行をしている者があったが、彼には武勇の器量が有ると、
六角家の重臣である多賀豊後守、蒲生下野守、田中史朗兵衛尉らが相談して公方へ申し上げ、この度
還俗して高頼の名代として公方の前に奉り、諱を定頼と号した。

公方義稙はこれを大いに喜び、彼を任官させ佐々木弾正少弼とした。この六角定頼は木刀を
腰に指して公方の御前に参った。公方が「それはどうしたのだ?」と尋ねられると、定頼は
「私は元々出家ですから、刀を持っていないのです。」と申し上げた。
公方は笑って、彼に国行の刀を与えた。

(足利季世記)

永正の錯乱のあたりの近江六角氏について。六角氏綱が片足が短かった云々は現在では
否定的な見解が多く、どうも実際には戦傷などでかなり健康を損ない、結果的に弟に家督を譲った、
という事のようです。



剣豪公方は義輝だけではないのだぞ

2018年08月07日 18:17

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/07(火) 17:31:45.81 ID:+jaNSi8i
永正6年10月26日の夜、将軍足利義稙は酒宴の後寝所へ入り、その夜は番衆たちも沈酔していた。
その隙きを伺って、その夜子の刻ばかり(0時頃)に、盗賊たちが殿中に忍び入り、御重宝を奪い取った。
酔臥していた当番の面々は油断しておりこれに気が付かず、盗賊共は安々と、将軍の寝所へと侵入した。

しかしこれに気がついた義稙は少しも騒がず、寝間着の小袖だけを召し、太刀を抜いて夜盗の輩を即時に4人
切り伏せた。しかしながらこの時、自身も9ヶ所の手傷を負ったという。別の説には手傷は7ヶ所であったという。

観阿弥という同朋が盗賊の手引きをしたと言うが、何れにしても非常に危険な事件であり、天運に叶われていた
故では有るが、天晴武勇の行動であると、人々はみな感じ入った。

この傷は治療され程なく平癒し、同12月19日、表御所へ出御あり、大名小名はこぞって太刀、馬などを
献上して各々参賀し、その祝儀は非常に盛り上がった。
また禁中よりもこの時、従二位に任じられた。

(應仁後記)

剣豪公方は義輝だけではないのだぞ



118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/07(火) 18:14:25.35 ID:wgRhe7ED
>>117
カッコイイ!

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/07(火) 19:25:04.00 ID:vI9T1A5l
流れ公方かっこいいな

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/07(火) 19:39:05.89 ID:DeVenh7R
都を戦火に包んだ二大陣営の申し子で魔法を操る細川政元
彼に裏切られて追放された元将軍の足利義材
10年以上の流浪の末、将軍に返り咲く

創作にはうってつけ

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 00:50:17.40 ID:PGGz+tkY
>>117
観阿弥って茶坊主とかでよくある名前なんだろうか、いろんな人の逸話でよく見るような気がするが
勘気を受けて殺されたり、他の家士と揉めて殺されてやった方が出奔したり、そんな役回りで登場する名前

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 09:57:45.24 ID:xDZttUE8
●阿弥は大名の御伽衆

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 11:10:20.02 ID:IZol+537
全員眠りこけて盗賊の侵入を許す近習がクソすぎる

恵林院殿御事

2014年03月23日 19:16

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/23(日) 02:11:42.81 ID:Lz8X/cqC
恵林院殿御事

先の将軍義稙公(十代将軍足利義稙)は、お心正直にて優しき生まれつきであり、武臣家僕のともがらは
言うに及ばず、公家の人々へも心を配らせ、不便の無いようにされていた。
しかし乱世の国主であったので、将軍と言っても名前ばかりの存在であり、下の者達が計らって
上意と称し我儘をふるい、これによって領地を無くした者達により、批判されることも些かあった。

こういった状況のため、武臣たちの罪によって将軍である義稙が恨まれ、いよいよ騒動も静まり難く見えた。

この頃の公方の様子を観察すると、将軍というものは寺院の長老のようなものであり、武臣は
その塔頭の寺僧であると言えた。長老は尊い。しかし寺僧たちがその前に横たわって、住持をも
排除してその寺院を思いのままにする。この頃の公方はそう言う風情であったのだ。

ある時、義稙公は大納言の某というものを召されて談笑した。そこで仰られたことには

「私は書物を読むのも乏しくはないし、天下の広さを一瞬で見ることも難しくはない。
何でも心にかなう四海の主であるので、多くの人民が、毎日痛ましきことを訴えに来る。
その事は耳に入ると不憫であるが、目の当たりにしたわけではないので、身にしみるような
哀しみはない。
畢竟、自分が苦しんだことがなければ、人の悲しみを理解できないものなのだ。

私は先年、政元(細川政元)によって苦しめられたことにより(明応の政変)、下民への労りを
思う事を学んだ。

これは、死を恐れたわけではないのだが、近くに味方が居ない時は、非常に心細いものであった。
そこから、鰥寡孤独(身寄りの居ない孤独な状態)の者が普段どんなに無力な心でいるかを
推し量ることが出来た。

慈悲の心がない者には、生きるかいもない。ましてや天下を知る者ならなおそうではないか。
第一に不憫の心を先に立てねばならない。
つらつらと古今の歴史について考えてみたが、北条泰時、北条時頼は唯人ではない。
我が朝の武賢と呼ぶべきは、彼らの振る舞いであろう。

私は壮年の頃から、常に下僕を撫で匹夫を憐れむの心を持っていたが、今は我が身さえ
心に任せることのできない世の中であるので、人々に対してその気持ちを充分に表すことも出来す、
時ばかり過ぎてしまった。いま少し世の中にあって状況を伺い、我が志を遂げたいと思うのだが、
月日ばかり過ぎていき、人生ももはや終盤となってしまった。終にはその思いも虚しくして、
憤りを胸にいだいたまま泉下に行くのだろうと思っている。

人々は衰朽の状態になれば、自らを察して心を諦めてしまう。だから、一日でも生きているうちは、
その身に応じて人を扶助するべきなのだ。」

そう、しめやかに雑談されると、大納言の某もこれを聞いて、涙で狩衣の袖を絞られ、返答することも
出来なかった。誠に大樹(将軍)の身として、このような御心ばえは世に有難きことである。
義稙公が都落ちして田舎に移られた後は、京の貴賎は皆、灯火が消え暗くなったように思ったものである。
その時にも公は人々に暇乞いをされ、仰せおかれたことに関して、皆、優しきお振る舞いであったと、
現在でもそのことを語る人が多く居るのである。
(塵塚物語)

足利義稙の、下々を想う心についての記事である。





通玄寺襲撃

2012年04月13日 21:33

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 18:39:21.53 ID:TYX8umqh
明応2年(1493)4月22日、右京兆・細川政元によるクーデター、いわゆる『明応の政変』が起こる。
京では足利義材派の畠山政長、葉室光忠などの屋敷が次々と破壊された。

さてその時、河内に出陣していた将軍足利義材の後室など、将軍家の女性たちは多くが、
義材の姉が尼として入っている通玄寺に避難していたが、クーデター派はこの尼寺にすぎない
通玄寺も襲撃に及んだ。

と、ここで襲撃部隊は残忍な仕打ちをした。
彼らはここに避難していた将軍後室、その女官たち、さらには義材姉をはじめとした寺の尼達まで
衣服を全て剥ぎ取って京の町中に放り出した。

赤裸にされたこの高貴な女性たちは、致し方なく、ある者は筵を身にまとい、ある者は経典を体に巻き付け、
泣き叫びながらあちこちに逃げ惑い、路頭をさまよった。

『北野社家日記』には「前代未聞の事件であり、筆にするのもはばかられる」と、
この事件を憤りを持って記録している。

明応の政変で高貴な女性たちに降りかかった悲劇についての記録である。





633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 19:15:31.52 ID:UNIoX2XR
義材も将軍なのに身一つで政元の陪臣に過ぎない上原元秀に降伏するという屈辱を味わったな

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 22:02:50.07 ID:JQzYxAtY
さすがに高貴な女性たちの中身には手を出さなかったのか

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 22:08:37.01 ID:BldyANpm
出されたけどそこまで書き残すのは憚ったんじゃない?

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 23:22:09.91 ID:CTSV4MoP
尼寺を襲撃して身ぐるみ剥ぐほどの無法者たちだからな…

筆者自身が書き残した通り、「筆にするのもはばかられ」たんだろう