三斎は実は

2017年06月08日 00:27

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 02:47:35.45 ID:/PRBbIyV
幽斎は細川への養子で、本名は三淵である。幽斎の兄を三淵大和(藤英)
という。光源院殿(足利義輝)の弟(義昭)は幽斎を頼みにして信長に頼った。

(信長と義昭の間には)20ヶ条の掟があったが、(義昭は)後にこの掟を
用いずして槇島に籠城した。信長は(義昭を)熊野に追い込みなさった。

光源院殿の御宮妾が懐妊3ヶ月の時に、幽斎は御宮妾を与えられたので、
三斎は実は光源院殿の子である。三斎は光源院殿に顔が似ていた。

本願寺東泰院の父(教如)も光源院殿の落胤という。稲葉能登守(信通)は
三斎の孫である。

(光源院殿妾御宮。懐妊三月に幽斎は被下候ゆへ。三斎は実は光源院殿子
也。光源殿に顔似たり。本願寺東泰院父も。光源院落胤と云。稲葉能登守は
三斎の孫。)

――『武功雑記』


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永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

2017年02月07日 15:24

593 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:10.18 ID:l0/11MB8
永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

 塙(保己一)の『群書類従』の中に、『永禄六年諸役人附』というものがある。
これは足利氏の時代末期のものである。今その所載を抄書する。

「〔上略〕
外様衆 大名在国衆〔号国人〕
    山名次郎義祐改名左京大夫
御相伴 北条相模守氏康        御相伴 今川上総介氏実(真)  駿河
    上杉弾正弼輝虎  越後長尾      武田大膳大夫入道晴信 甲斐
    畠山修理大夫義継 能登之守護     織田尾張守信長    尾張
    嶋津(島津)陸奥守貴久         同修理大夫義久
相伴  伊東三位入道義祐 日向  
    毛利陸奥守元就            同少輔太郎輝元    安芸
    吉川駿河守              松浦肥前守隆信    肥前
    河野左京大夫通宜 伊予        有馬修理大夫義真 
    同太郎義純    肥前        嶋津(島津)薩摩守義俊
    宗刑部大輔    対馬        伊達次郎晴宗     奥州
    松平蔵人元康   三河        水野下野守      三河

関東衆〔以下略〕」

私、松浦清が説明を加える。
・山名義祐は、今交代寄合の山名靭負義問の祖先であろう。義問は六千七百石である。
・北条氏康は、今の相模守氏喬の先祖であろう。氏喬は狭山領主一万石。
・今川氏実は今の高家、侍従刑部大輔義用〔千石〕の祖先である。
・上杉輝虎は、米沢侯斉定の先祖、今十五万石。
・武田晴信は、今の高家、侍従大膳大夫信典〔五百石〕の先祖であろう。
・畠山義継もまた、高家で、侍従飛騨守義宜〔三千百石余り〕の先祖であろう。
・織田信長は、右大臣、今の羽州村山領主、若狭守信美の祖で、今二万石。
・嶋津貴久、義久は、薩摩侯隅州斉興の先祖で、今七十七万八百石。
・伊東義祐は、飫肥侯修理大夫祐相の先祖であろう。今の五万千八百石余り。
・毛利元就、輝元は、長州侯大膳大夫斉元の祖先で、今三十六万九千石余り。
・吉川駿州は、今の長州の属臣、吉川監物の祖であろう。防州岩国の城に居り、六万石を領している。
・松浦隆信は、わたくし清の十世の祖で、道可殿であられる。
・河野通宜は、今の久留島侯、予州の通嘉の祖先であろう。通嘉は今、豊後森領主で一万二千五百石である。
・有馬義真、義純は、今の丸岡侯徳純の祖先で、今越前で五万石。
・嶋津義俊は、誰か未詳だが、きっと今の薩摩侯の先祖であろう。
・宗は、今の対馬侯の先祖であろう。祖先の中に刑部大輔の称を見たことがある。
・伊達晴宗は、今の仙台侯の祖先で、元祖政宗の先祖であろう。今、斉邦は六十二万五千六百石余りを領している。
・松平元康は、かたじけなくも神君であられます。元康は始めの御諱であられる。
・水野下野守は、今水野越州、羽州、日州の先祖であろう。三氏は今それぞれ六万石、五万石、一万八千石。

594 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:34.61 ID:l0/11MB8
 以上のことを見よ。世の興廃はかくの如しだ。これは足利が公方と称したときの外様衆である。
しかし、かえって今は主君であった足利がわずかに御旗本の輩に入っているだけで、
大名在国衆なる者も、あるいは旗本または外藩護衛の身分となっている。

 予の先祖の公や有馬伊東の輩が、恐れ多くも神君の上にあれども、
今となっては皆、御当家を敬拝尊従することに至っている。
これというも、神君の御高徳は仁義知勇を備えられておられる御大勲で、
いわゆる立身行道し、名を後世に揚げて父母を顕す者であられるからだ。
上杉武田の両雄、織田の威顕もいつのまにか跡形もなく、
毛利嶋津伊達の強大も、今はわずかにその旧を保つも結局臣伏し、
ただ水野氏は御当家に新属し、かえって古より富めるに至ったのであろう。

 これというも、日光権宮の御深仁である。
明智は論ずるに足らず。
豊太閤は、まだこの時匹夫で名も無い。しかし、たちまち広大になって、
ついには外国を掠奪するに至っても、その道半ばにして身を喪った。
天がなしたのであろうか。
 我が隆信君の子の法印公(鎮信)君は、豊閤遠伐の役に随われ、
出色の勇武であったが、ついに外国で賊徒の名を負われた。
いまこのように太平の時に随従できて内外で非義不仁の名を負う事が無いのも、
まことに神祖の大恩・大恵に違いない。


(甲子夜話三篇)



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 07:07:58.26 ID:DeSn+Eio
>>593
山名義祐って赤松義祐のこと?

「三好」と人の言い伝えているのは

2017年01月30日 18:29

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 18:15:21.23 ID:eGddXOW8
「三好」と人の言い伝えているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
元々は細川の家臣であったが、細川を滅ぼして一家繁栄した。
修理太夫は光源院殿乱(永禄の変:足利義輝暗殺)以前に病死した。

この修理太夫の元に三人衆と言って、主だった3人の家臣があった。三好日向守というのも
その一人である。永禄8年に義輝を殺したのはこの三人衆である。

(老人雑話)

永禄の変は信長公記なんかでも「三好長慶が義輝を殺した」なんて書いていますが、成立年代は近いわりに、
老人雑話のほうが事件について正確に把握していますね。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 19:43:47.50 ID:hh70UDtF
船頭が多すぎて誰が主犯かわからないから長慶の名前で広まったとか?

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 22:58:16.15 ID:Y7G4vO1T
???「計画通り(ニヤリ」

此の寺の時の太鼓は磯の波

2016年09月01日 17:55

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/31(水) 22:33:15.10 ID:48wVr93/
 光源院(足利義輝)殿が京都四条の道場に陣をとっておられた時、
番の僧が夜九つの太鼓を寝ぼけて七つの時に打ってしまった。
 後で公方から御使いがあってその番の僧が呼ばれた。
きっと折檻に及ぶに違いないとぶるぶると参上すると
様子をお尋ねになられたので

「そうでございます。深く眠っていて、
目覚めると仰天してしまったためです。」

と、ありのままに申し上げると、思いのほかご機嫌が良く

此の寺の時の太鼓は磯の波 おきしたいにそうつといふなる
(この寺の時の太鼓は磯の波のようだ
押し寄せるので波打つというのだなあ)

と遊ばされ、僧には銭を与えられた。

(醒睡笑)




エムベロルの血の森

2016年02月16日 17:43

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 14:38:06.42 ID:ISKtEFxg
1564年、エムベロル公方(足利義輝)は日本を支配し、宮廷を都に有していた。しかしその時、
1万2千の逆徒はエムベロルに対し厳粛なる同盟を作りて反逆を謀り、最初の着手として都を襲い、
宮殿の四ヶ所に火を放った。公方は不慮の襲撃にあって、適応な防御手段を講ずることが出来ず、
自ら剣を抜いて大胆なる突撃をし、ただ200人を従えて血路を開かんと試みた。しかし衆寡敵せず、
敗れて数ヶ所を負傷し殺され、従臣もまた全て寸断された。

こうして反逆者は宮中に乱入し、公方の母および娘を見つけ出して惨殺した。
一人妻女は寺院の僧舎に隠れていたが、たちまち発見され、これもまた罪人として斬られた。

斯くの如くにして彼らは王族を完全に滅亡させ、ただ公方の弟のみを残した。これは彼が僧籍に在ったが
故である。反逆者たちは事件の後、この弟に対し安心を得るために、宗教上の契約を以って彼を拘束した。
しかし彼は、その契約後逃亡し、密かにロカの君主和田殿(Vatadono)の元に走った。和田殿は彼を
丁寧に待遇し、尾張(Bonari)の王信長に援助を乞わんことを勧めた。

信長は之を容れて6万の軍を戦場に出し、公方の殺害者と相対した。殺害者たちは抵抗し得ざるを見て
降伏し、首魁たる扇動者は罰せられた。

信長は血統において最も近い公方の弟を立てず、自ら都の都市および城の絶対的君主となった。
焼けた宮殿を再建するとしてその完成を急ぎ、費用と労力とを厭わず、土工を使用すること日に
1万5千人に及んだ。彼は抜刀を携えて此方彼方を巡視し、これがため何人も懈怠、又は時間を
徒消することは出来なかった。彼は、軍前通りかかった婦人の覆面を上げたと言って一人の木工の首を
刎ねたこともあった。

信長は威風堂々として短日月の間に30の王国を征服し、我が治下に立たしめ、継いでまた公方を廃して
エムベロルの冠を己が頭に頂いた。その後彼は、同じ王冠をヅボにおける彼の新たな肖像の頭に加え、
以って生存中に神として礼拝せされんとした。この目的のために、彼は彼に阿諛追従する宮廷の官人、
および市内の佞者を欠かすことが出来なかった。後者は彼の虚栄心を長ぜしめ、彼が細心、卓抜の行為、勇気に
よって斯くの如き驚嘆すべき事業を成し、斯くの如き多くの勝利を得たる上は、今の行為は正当にして
また栄誉であると自覚するに至ったのである。

しかし他人は、この虚栄の空想と傲慢なる企画を忌むこと甚だしかった。彼らは多くの君主で善行ある者に対し、
その死後これを神として祀ることには慣れていたので、このために彼を忌むことはなかったが、
彼の望む所は甚だ高く、生存中、すなわち人間が弱点に陥りやすい時において神となり、同時に人たらんとし、
特に霊界に在って永久に祝福される者にのみ捧ぐべき供物と犠牲を受けんとするのは、神聖を冒涜するものであり、
彼らが言うには

『人々は斯くの如く残虐、破約、偽誓をなせるものを神とすることを欲しない。例えば、いかなる国が
彼の君主たる面目、警言、寛仁を信頼して彼に降伏することがあっても、彼は攻撃の手を緩めず、これを略取し、
しかも暴力を以って侵入したかのように無慈悲にその国人を屠るのが常であるのを憎んでいる。』

信長を怨める者の中、最も甚だしいのは明智(Aquechi)王であった。
彼は大胆にして勇気ある君主であったが、信長の冒涜的傲慢を見て平然安堵する所を得なかった。
信長は多くの寵遇を明智に加え、彼を丹後の王となし、自己の全軍の大将としたが、宗教の名誉、並びに
正常なる神の真の礼拝が危機に瀕することを見るや、彼は信長の全軍をして彼に変心、反対せしめ、
1582年6月20日に都に進軍した。

こうして信長は不測に襲撃させられたが、自己の軍勢を以って囲まれた事でもあり脱走を企てる方法がなく、
敵の追跡を破り都に近い森林の中で殺された。
この森は以後、”エムベロルの血の森”の名を得るに至った。

(モンタヌス日本誌)

永禄の変から本能寺の変まで、モンタヌス日本史の記事である。



166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 16:09:51.32 ID:il9ecMq6
>>164
本能寺から逃げて都の外れの森林で殺されたとは面白い
歴史秘話ですね

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 16:18:37.32 ID:ZNRGt3ln
朝倉義景「ウチに公方の弟なんてこなかったよ?」

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 22:17:57.90 ID:1KdjBj4R
血乃森蒼紫

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 06:11:25.68 ID:7sCp75Ni
>>164
エムベロルって何?
エンペラー?

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 07:25:42.08 ID:YUNgAg2D
ポルトガル語のエンペラーだったかと

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 21:53:44.65 ID:1ckoV6Tq
>>164
”エムベロルの血の森”
やだカッコイイ

『今川の赤薬』

2015年05月12日 17:13

6 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/11(月) 19:23:16.44 ID:C/newK1P
こっちか

『今川家の赤薬』と言えば、世の中では急病に用いた場合効能の在る薬だと言われている。
この薬はそもそも、足利将軍光源院(足利義輝)の馬が患った時、乞食斎の僧が三条河原で
この馬を見て「たやすく治せる病なのに」と言っているのを、義輝が聞いて治療を望んだ所、
乞食が薬を用いると、たちまち患いは癒えた。

この時、義輝は一宮随巴という弓の師に言って、その薬法を学ばせ書き留めさせた。
そののち義輝が。永禄の変で斃れると、一宮随巴は駿河に下った。
駿河において、今川氏真は薬法などを面白がる人であったので、一宮は氏真にこれを教え、
そうして今川家の薬として世に広まったのである。

(明良洪範)



7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/12(火) 06:26:14.78 ID:VtUQjXB1
なぜ専門の医者ではなく、弓の師範の武士に学ばせたのか謎だ

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/12(火) 06:53:31.95 ID:5z1PL6WJ
すでに出家してるかもしれんじゃろ

天文20年・三好長慶暗殺未遂事件

2015年02月11日 17:23

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 23:28:24.88 ID:9EBoU/Mx
天文20年(1551)3月14日、京の勢州(伊勢伊勢守貞孝)の邸宅に三筑(三好筑前守)長慶を招いての
酒宴が行われた。
酒も半ばというところで、公方衆の進士九郎という人物が突然刀を抜き、長慶に向かって二刀まで突いたが
長慶はとっさにこれを避け無事であった。暗殺に失敗した進士九郎は、たちまちその場で自害して果てた。
この報が聞こえると、京も田舎も、仰天する他言葉も無い有り様であった。

この事件について、朽木に逃れていた御所様(将軍義輝)が仰せ付けたものであるとも、また所領を失った
恨みからであるとも、この両説が言われた。

勢州はせっかくの、入魂の接待の場でこのようなことが起こり、もうどうしようもないといった様子であった。

(細川兩家記)

三好長慶暗殺未遂事件についての記事である。
三好長慶は何度か暗殺の危機もうまく逃れて、武芸も達人であったと言われていますね。




388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 05:47:56.45 ID:2NZUPEZN
かわいい鴨の子を見せればよかったものを

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 08:45:28.41 ID:pVKppLYp
三好長慶の生涯って波乱万丈次から次に襲いかかる危機を
紙一重で切り抜けて大逆転の連続なんだけど
なぜか無茶苦茶地味な印象だよね。

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 09:44:06.48 ID:OyDfpt1N
長生きしてりゃなー
兄弟ともに短命だから没落が早い

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 10:09:29.24 ID:b1XVBnD/
長慶や長宗我部元親は終わりが微妙すぎて創作物の主役になりにくいし

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 17:49:14.54 ID:N8LSZkV5
終わりが微妙だとハッキリしてる人はやりづらいよね。
秀吉を扱う物語は多いが、晩年が超アレなだけにぼかしたり途中で強引に終わりにするケースも少なくない。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 20:44:42.64 ID:0tKMqMqe
松永久秀「せやな」

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/12(木) 12:24:42.75 ID:sNMXKtjp
三好長慶を書くといつの間にか弾正が主役になってるの多いキガスw

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/02/12(木) 13:04:07.90 ID:RewOE8VV
国盗り物語みたいに前後半で主役交代すればいけるかも

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/12(木) 16:36:44.79 ID:3NgPh+lS
長慶の場合は一次資料を俯瞰して研究できない状況にあるから何ともしがたい
確か東寺が大量に持ってるけどほとんど未公開に近い状況なんじゃなかったかな
今東大の史料編纂所が頑張って活字化してるみたいだが

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:00:35.02 ID:Ae1GIFRU
>>396
すごく興味あるなあ
東寺って凄く格式高いとこだし、おいそれとホイホイ公表したがらないのかな
もったいねえ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:13:01.02 ID:lIexy3PB
皇室関係も多いし東寺側も慎重になるだろ

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:21:17.75 ID:7SRVjEeI
東寺の持ってる文書は、ここでその内のかなりの数(百合文書)の写真が見られるよ。
差出・宛・年月日・キーワードは入力してあって、検索できる。
翻刻が終わってないから、自分で文字起こしするしか無いけど。

ttp://hyakugo.kyoto.jp/

百合文書は、所蔵が京都府で、東寺じゃない。売っちゃったから。
東寺文書自体は、他に京大に流出したのとか、東寺が手放さなかったのとか、いろいろあるけどね。

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:22:58.92 ID:7SRVjEeI
連投になるけど、三好は最近『戦国遺文三好編』の刊行が始まって、文書が通観できるようになりつつある。
ただ、日記史料とつきあわせて読まないといけないから、そもそも研究が難しいのよね。

永禄の変

2015年02月05日 18:46

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/05(木) 16:11:12.70 ID:vXXKuKaA
古今の将軍家並びに管領、その他天下に権威を振るった人々の事、時代の移り変わりの有り様を、
ある草庵に蟄居する老人に対し、若輩である私が尋ねて、その答えの内容をあらましを筆に表した。

その言われる事によると、光源院殿(足利義輝)のご自害、同じくご舎弟鹿苑寺殿(足利周暠)、その他
諸侯が討ち死にした事件(永禄の変)のそもそもの事の起こりは、細川右京太夫晴元の被官であった
三好筑前守長慶が、この管領の権威を受けて五畿内に勢力をめぐらし、それを誇って累代主従の義を忘れ、
ついに右京兆に敵対し、当時晴元殿には、他にも股肱の臣、肩を並べる朋輩など居たが、これらを尽く
摂州江口において天文年中に尽く討ち果たした。これによって細川家は没落、言葉も無い有り様であった。

そして三好は甚だしく驕慢を極め、かつて萬松院殿(足利義晴)が朝倉氏を御相伴衆に加えた例を出して
御相伴衆の地位を望み、その後三好長慶は御相伴衆に進み、松永弾正少弼久秀も御供衆に進み、
重ねてほしいままの義であった。

彼らは忝なくも将軍の直参となり、猶以って将軍のために馳せ働くべきであるのに、返ってさらに公儀に対して
違背するばかりであった。そのような状況だったので、双方に遺恨も生まれると察せられ、もしもの時に、
謀反が起こる可能性も考えられた。そうなっては一大事であるからと、将軍家は御館の四方に深溝、高塁、
長関といった堅固な防御施設を造営しはじめた。

しかしながら三好一党は、御門扉以下、未だ工事が完成する前に、急ぎ御所を包囲することに議決し、
永禄八年五月十九日、清水参拝と号して早朝より人数を集め、公方様に訴訟があると申し触れ、その訴状を
捧げ、その内容を受け入れるよう申し請うた。その間に御溝に人数を入れていた。

公方様の母君である慶寿院殿は、訴訟が叶えば公方様の身は恙無いと考え、「如何様なりとも受け入れるように」と
泣きながらご意見を様々申し上げられた。そのご心中は察するにあまりあるもので、見る人聞く者、皆袖を
濡らしたのである。

訴訟受け入れの是非を伝える御使が館を出ると同時に、土居の四方より軍勢が侵入し即座に鉄砲を放ち、
殿中へと乱入しようとした。これを防ぐ諸侯は数百人あった。中でも進士美作守はこの訴訟の御使として、
様々に折衝したことを不覚であったと憤り、その場で自害した。
同朋衆である福阿弥は鎌鑓で相戦い、この鑓にかかるものは数十人あった。

御所様は一同に最後の盃を下し、細川宮内少輔は御前に控える女中衆の装束を着て立ち上がり舞を舞った。
その姿は優にして遅れたる色もなかった。

さて、それから御所様は御前に利剣を数多立て置き、これを度々取り替えながら敵を切り崩し、
その勢いに三好勢は恐怖して、半ばは向かってこようともしなかった。そこで義輝は刀を放り投げ、
敵の処卒に取らせるようにして、近づいてきた所を斬った。こうして重ねて御手にかかる者達も数名あった。

近習の内志あるほどの者達は御先に進んで尽く討ち死にした。残ったのは女房衆と、まだ幼い者達ばかりであった。
彼らが御一緒となって幾千万の軍兵と戦ったのは、かつて項羽がその十万の騎兵をわずか二十八騎にまで討ち
減らされても、漢軍百万余騎を駆け破り、大将三人の首を取って鉾に貫いたという話に類するものであっただろう。
こうして、足利義輝はその最後を遂げた。

ご舎弟鹿苑寺殿の元へは、三好方より平田和泉という者が差し向けられ、同刻、御生害された。
彼の御供衆は尽く逃げ去ったが、その中に日ごろ目を掛けられていた美濃家小四郎と言う者が、
彼は若年であったが、即座にこの平田を討った。その身卑賤であったが、名を後代に残す者であった。

御次男である一乗院殿は御生害には及ばず、三好、松永を粗略にしない書面を提出した。
(永禄記)

永禄記より、将軍義輝が暗殺された永禄の変の模様である。





足利義輝の母について

2015年01月18日 17:13

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 19:10:21.80 ID:A1D2OVqA
足利義輝の母について
「仕えている侍女たちは、ヨーロッパと何ら変わるところはない。
ただ荘重さのために、髪を引きずって後から取らせ、一パルモか二パルモの長さだけ、地上に靡かせている点が
異なるだけである。
私には公方様の母君は修道院の女子修道院長のように、他の家の者達は修道女の教団のように見えた。
というのは、その屋敷の静寂、節度、それに秩序が大いなるものであったからであり、とくに公方様の母君が
阿弥陀像の、大変美しく、珍しい装飾を施した礼拝堂を背にしており、その阿弥陀像は幼子イエスのように
彩色され、金の冠と光背を頭にした大変美しいものだったからである」

ただしフロイスが「幼子イエスのように」としているのは宣教師として言語道断ということで「少年のように」
に変えられたらしい。
新井白石も「キリスト教ではロザリオだの洗礼だのやるそうだが、数珠と潅頂の影響だろう」
とかキリスト教と仏教の類似を指摘してたなそういえば




将軍足利義輝側室、小侍従殿の最期

2015年01月17日 17:16

262 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 21:56:54.43 ID:uH5L2ZRf
永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好三人衆や松永久秀による将軍・足利義輝の暗殺、
いわゆる「永禄の変」が起こる。三好勢は将軍義輝を殺すと、その刃は関係者に向かった

『三好殿はあらゆる物を焼きつくし、宮殿の一部たりとも残さないようにと命じた。
都における動乱と残虐行為は非情なもので、それを見たり聞いたりした人々に少なからず憐憫の情を催させた。
すなわち、公方様の家臣なり友人は、どこで見つかろうと直ちに殺され、その家財が没収されたからである。
さらに三好殿は、公方様に仕えていた人々が住んでいる郊外一里の所にあった二ヶ村を侵略し破壊するよう命じた。

(中略)

公方様の婦人は、実は正妻ではなかった(側室の進士晴舎娘・小侍従殿)。
だが彼女は懐胎していたし、すでに公方様は彼女から二人の娘をもうけていた。また彼女は上品であった
だけでなく、公方様から大いに愛されていたので、近日中には彼女にラィーニャ(奥方)の称号を与える
事は疑いないと思われていた。何故なら彼女は、既に呼び名以外のことでは公方様の正妻と同じように
人々から奉仕され敬われていたからである。
彼女はこの変による火災と混乱の中、変装して宮殿から逃れ得た。

謀反人たちは早速数多くの布告を掲げ、彼女を発見したものには多額の報酬を取らせ、彼女が身籠っており、
男児を出産すればいつしかその子は成長して自分たちの大敵となりえるので、是が非でも彼女を殺さねばならぬと
言っていた。

その報酬の約束が煽った貧欲の力、もしくは科された刑罰への極度の恐怖心は、いとも高貴で今は寄る辺ない
夫人に対して、当然抱かれるべき人間らしい感情や憐憫に勝ったらしく、彼女の居場所はたちまち暴君たちに
告げられた。彼らは彼女を、都の郊外の何処かで殺すように命じ、彼女を乗せる為のリテイラ(駕籠)を
彼女のところに遣わした。

この不当な命令を執行することになった人々は、彼女にこう言った
「御台様はもはや都にお留まりになる事、叶わなくなりました。よって別の所にお移り頂くため、この駕籠が
届けられた次第でございます。」

彼女は郊外の一寺院に籠っていた。そしてその知らせがもたらせるとただちに、三好殿と霜台(松永久秀)が
自分を殺すように命じたのだとはっきりと悟った。そこで彼女は紙と墨を求め、当時まだごく幼かった
自分の二人の娘に宛てて、非常に長文の書状をしたためた。それは後に、これを読んだ人々すべてを感動させ、
読み聞かされた者は誰しも皆涙を流した。ついで彼女はその書状を封じ、晴れ晴れとした顔つきで僧院を出、
仏僧たちに対して、自分がその僧院でいとも親切に迎えられたことや、三日間というもの、そこで客遇され
敬意を表せられたことに感謝した。

そこから、三好の使者たちは彼女を駕籠に乗せて、都から約半理隔たった東山、すなわち東の山にある
知恩院という阿弥陀の僧院の方向へ連れて行った。そして彼らが四条河原と呼ぶある川辺に来た時、
彼女は同行者たちに
「あなた方が私を殺すことに定めている場所はここなのですか?」
と尋ねた。彼らはそれを否定し、「安心されよ」と言った。そして彼女は知恩院に導かれると喜んだ、
というのは、彼女にとってそこで死出の準備をするのは非常に好都合だったからである。
内裏の親族で、甚だ高貴な僧侶であった同僧院の長老が彼女を出迎えると、彼女はその人に次のように語った、
それはそこに居合わせた人たちから、後で報じられた。

263 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 21:57:31.97 ID:uH5L2ZRf
「尊師はおそらく、今私を、このような有り様でご覧遊ばすとは、よもやお考えにならなかったでしょう。
ところで、この度の事は私の名誉にとってひどい仕打ちでありますが、公方様も宮殿もあのような惨めな結末と
なりましたからには、私一人この世に留まることは相応しくありません。さらにまた、私が公方様に
こうして早々とお伴出来ますことは良き巡り合わせと存じます。そして何にも増して、私に喜びをもたらし
お頼り出来るのは、まもなく阿弥陀の栄光のもとに公方様と再会できるという思いでございます。
そして私は身重でありますから、生きながらえる間に私がある重い罪を犯したことは疑いを容れません。
そのために私がこのような死を遂げることは、多分相応しいことだったのでございましょう。」

次いで彼女は自分のために葬儀を行ってくれるようにと僧侶に懇願して、袖から86クルザードの価値がある
金の延棒2本を取り出し、纏っていたマント(上衣)を添えて、布施として差し出した。

その仏僧は次のように答えた
「拙僧は修行者でありながら、御台のご様子、並びにご事情に接しますと落涙を禁じえません。
さりながら公方様は、先に述べられたように身罷り給い、そのお世継ぎも運命を共に遊ばしました。
御台の公方様に対する愛情はいとも深いものがあったからには、御台が公方様のお伴をお望み遊ばされるのは
いかにもご尤もと存じ上げます。御台のご葬儀とご供養の儀は、拙僧しかと相果たします。

御下賜のご布施は、拙僧の末寺の間に分け施し、その諸寺においても大いに心をこめて供養を相務めるでしょう。
これについて、ご安心遊ばされたい。」

ついで彼女は阿弥陀の名を十度唱え、その仏僧から、十念と称されている罪の完全な赦免を受けた。
それから彼女はもう一度阿弥陀の祭壇の前で合唱して祈った。そして彼女がある知人の墓を詣でようとして
寺院を出た時に、彼女の首を刎ねることになっていたナカジ・カンジョウという兵士が抜刀して彼女に
近づいた。彼女は時至ったことを認め、跪いて阿弥陀の名を呼んだ。そしてその兵士が来ると、公方の宮廷の
習わし通り、束ねないでたらしていた頭髪を、兵士は片手で高く持ち上げた。

ところが、彼が彼女の首を刎ねるつもりで与えた強い一撃は、彼女の顔を斜めに切りつけた、
小侍従殿と称されたこのプリンセゼ(奥方)は言った

「御身はこの勤めを果たすためにまいられたのに、いかにも無様でござろうぞ!」

そして第二の一撃で、兵士は彼女の首を切り落とした。

かくてその後の日本人たちは、彼女は身重であったから、その再二人を殺したことになると言っていた、
彼女が懐妊していた子供は生まれる前に殺されたのである。そしてその場に居合わせた人々の内、
この悲惨な情景に多くの涙を流さぬものは一人としていなかった。
ルイス・フロイス「日本史」)

将軍足利義輝の側室、小侍従殿の最期の模様である。



265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 01:43:31.56 ID:cQ0PWvRE
しかしフロイスの記述は臨場感溢れるものが多いな

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 02:26:54.33 ID:PzY251zO
小説家になれる才があるよ

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 14:18:26.67 ID:mjMt0GNe
フロイスはヨーロッパの「上流階級婦人の処刑シーン」の定型をそのまま当てはめたのでは。
将軍を皇帝に、僧侶を牧師に、阿弥陀をキリストに、名前も欧風にしたら、そのままヨーロッパでも通じるんじゃないか。

足利義輝の室町御所

2014年04月14日 18:53

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 16:35:50.80 ID:AUVkqdDj
足利義輝の室町御所

「公方(足利義輝)様の御殿は深い堀に囲まれ、幅の広く造りのよい木橋が架かっていた。
入口には伺候するために各地から集まって来た三四百人の貴人がいる様であった。
また御殿の外の広場には多数の馬や輿が停まっていた。」
「極めて清潔で親しみを覚え、快適であった。
窓の外には杉、松、小さなオレンジ(蜜柑)や我等の国では名も知らぬ種類のみずみずしく
青々とした珍しい木々が植えられた庭があり、実に巧妙に培い、手入れされていて、あるものは
ベル(鐘)の形、またあるものは塔の形及び様々な形をしている」

ルイス・フロイス『日本史』

織田信長によって造り変えられ、二条城になる前の室町御所の風景。
諸大名の居城だけでなく、将軍様の所にも宣教師が上がり込んでいた記録。





だがこの暴君は

2014年03月08日 18:57

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/07(金) 22:51:28.66 ID:ZVfTRYtl
その当時(1564年頃)、山口を支配していた国主は、安芸の毛利殿(毛利元就)と称した。
彼は既に高齢で、かつてその策略、並びに老獪さによって、残虐なやり方で彼の国を奪い取ったのである。

毛利殿は一向宗の信徒であった。そのために、また自らの性格から、彼は生存中自分の領国において、
バテレンやイルマンがデウスの教えを説いたり、古くからその国にいるキリシタンたちの世話をすることを
断じて許さなかった。それどころか彼は切支丹を圧迫し、かつて教会のあった敷地を彼らから奪った。
そういう次第でキリシタンたちは教会を再建することも、公然と集まってデウスのことを話すことも出来なかった。

山口のキリシタンたちは都に住んでいたガスパル・ヴィレラ師にこれを報告した。
司祭は公方様(足利義輝)の所に出向き、山口のキリシタン達が被っているこの不法行為について恩恵と救済を
乞うた。公方様は、自分の臣下で山口の国主である毛利殿に書状をしたため、『領地の切支丹を保護し、かつて
貴地にぴて破壊された教会を再建してもらえれば嬉しく思う』と述べた。

一人の非常に身分の高い貴人がこの書状を携えて毛利殿の元へ行ったが、折から毛利殿は戦争に従事していた。
山口のキリシタンたちは、公方様からの書状が届いたことを知って非常に喜んだ。だがこの暴君(毛利殿)は
彼らを憎悪していたので、公方様のこの好意を秘してしまったのである。

ルイス・フロイス『日本史』)

毛利元就、将軍からのキリシタン保護の依頼を無視する、というお話




675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/08(土) 01:01:10.22 ID:ip9lhqwI
まあ伴天連の教えは他教を迫害しろだったので元就からすれば論外だろうて

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/08(土) 10:17:14.99 ID:kNInOyCH
てか毛利氏って菩提寺は一向宗じゃなくて臨済宗だよね?
単なる事実誤認なのか、フロイスの中で乱暴なことをする奴は一向宗ってイメージがあったのか…

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/08(土) 11:35:50.26 ID:exdl8bBF
安芸はもともと浄土真宗の強い地域で対尼子戦に協力してもらうために
元就が浄土真宗を優遇してたことがフロイスには信徒に見えたんだろう

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/08(土) 11:36:11.26 ID:hhTjz8cY
>>680
元就は毎朝日の出に向かって念仏を唱える習慣を持ってたし、
安芸の国は本願寺を支援していた安芸門徒の巣窟。
この状況を考えれば、国主である毛利家は一向宗だと誤解しても
おかしくないのでは。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/08(土) 16:07:41.67 ID:kNInOyCH
>>685 >>686
確かに一神教的な考え方だとある宗派を支援する=その宗派の信者って考えそうだし、
あんまり利害関係なさげなのに本願寺の包囲網突破したりもしてたし、そうした情報から誤解してたのかもね
参考になった。ありがとう!

塚原ト伝、弟子に足利義輝公を評す

2010年10月04日 00:00

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 08:35:23 ID:xHXI6NFj
どちらかと言うと悪い話だと思うので投下

塚原ト伝、弟子に足利義輝公を評す
「義輝公の太刀筋、豪達にして優美、惜しむらくはその御身なり」

ト伝に武芸者としてはすっごい褒められてます。
只立場が悪いと言われています。
将軍として一番必要なものが足りない・・・
という良くも悪いとも取れるお話




427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/03(日) 08:40:29 ID:N8kD36ZM
甲斐性ですね、わかります

足利義輝と初老の僧・いい話?

2008年10月16日 10:34

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/21(月) 20:42:14 ID:+Rkb0OTe
足利義輝が将軍になった頃のお話。

ある初老の僧が、大変有能で気が利くので、義輝が「還俗して侍としてわしに仕えないか?」と言う。
しかしその僧は、

「わたくしは、8つ9つの頃に出家いたしまして、それから一心不乱に修行をし、ようやくこの齢になって
仏の道の何たるかが解るようになりました。もはや俗事に関わる気はございませぬ」

と、断った。
一同これに感じ入り、将軍はさらに仕官を勧める。そこで根負けしたこの僧は

「わたくしは無理ですが、私の息子ならば追い使って頂けますかと…」


義輝「…」
幕臣一同「…」

義輝「息子って…養子?」
僧「いいえ?実子。」
義輝「お前何歳のときに出家したって言った?」
僧「8つ9つ」
義輝「…」

僧「あ」