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尊公を一度御代に立てて、三好一族も安堵申したい

2019年07月04日 15:42

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 01:54:58.94 ID:lsPqjLpR
一、天文21年(1552)に阿波国の館・細川讃岐守持隆を、家臣の三好豊前守義賢が討ち取った後は、
  細川の領地はすべて義賢が知行した。三好家はますます威勢を増した。さて義賢は弘治の頃、法体して
  “実休”と号し、五畿内所々に一門を居置いて、おのずから天下の執権を司る。

  しかしながら三好家は細川の家来であることにより、三好の執権を諸国の守護は大いに嫉み、そのうえ
  奢りを極めて我意に任せた故、将軍義輝公も以ての外憎みなさった。

一、三好山城守(康長)・同下野守(宗渭)・同日向守(長逸)・松永(久秀)らが評議したことには、

  「今回の両度の合戦(>>111)はまさしく義輝の御計らいである。そうであるからには我々の行末はしか
  るべからず。深慮を巡らせて義輝を討ち奉り、中国の義冬(足利義維)を都に据え置いて、一族中を心
  安くするべきである」

  と、永禄6年(1563)の秋に三好日向守は周防へ下り、義冬へ申したことには、

  「徳雲院殿(細川持隆)が果てられなさったことにより、ここへ御下向されたことは我々にとって面目
  もなきことですが、しかしながらその折に、我らが実休に組しなかったことは御存じなさることでしょ
  う。実休は天命によって高政(畠山高政)に討ち果たされました。

  さて高政と喜三の両陣は、義輝公の御計らいでございます。実休のことはもっとも悪逆の者なので(義
  維が)御憎みなさるのも道理です。別儀なき我らを御憎みなさることは以ての外です。そうであるから
  には、行末でさえも心安からぬのです。かれこれ時節は到来仕りました。このうえは、三好一家として
  兵を起こし、尊公(義維)を一度御代に立てて三好一族も安堵申したいのです。

  しかしながら尊公が遠国におられては評議もなり難く、まずは阿州へ御帰りなされませ。実休の息男・
  長治は阿州におりますが、かつては幼少でございました。そのうえ父の実休も尊公を疎略には存じてお
  りませんでしたし、また彦次郎(三好長治)は義輝を親の仇と存じていますから、尊公へ少しも別心は
  ありません。早々に思し召し立ちなされよ。そのために一家中より某が御迎えに罷り下り申しました」

  と色々道理を尽くして申したので、義冬は満足なされて早々に思し召し立ちなさったが、「この事を一
  先ず大内介(大内義長)に知らせなければ」との内意があると、大内ももっともとは思いながらも、他
  家の取り仕切りで義冬を代に立て申しては、大内の外聞は良からずと思ったのか、「仰せはもっともで
  すが、私めに存ずる子細がありますので、まず今回は御無用になされませ」と、強いて止め申すことに
  より義冬も日向守もどうしようもなくして、日向守は「罷り上ります」と港まで出て行った。

  義冬は名残惜しく思いなされて、義親(足利義栄)と2人で船着きまで送りなさったところ、三好は船
  から申し越して「今一度申しておきたいことがございます。恐れながら少しの間、船へ御召しなされま
  せ」と申せば、何の思案もなく義冬親子は共に船に乗りなさった。

  すると日向守はかねて家来の者に言い含めており、そのまま船を押し出した。義冬はどうしようもなく
  おられ、折しも順風で難無く阿州に到着して、元の平島の庄に帰る。彦次郎を始めとして三好一家は残
  らず伺候致した。そして日向守は諸事を計らい、領地も相違なく渡した。

――『阿州将裔記』



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 03:31:42.40 ID:ggM6iep6
>>226
永禄6年なら大内義長は死んでますね
年次の誤りか別の誰か?
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【雑談】足利義輝謀殺について

2019年06月06日 15:45

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 18:41:52.30 ID:yjPfJm9C
義輝さんて松永久秀から悪人呼ばわりされたこともあるとかなんかで見た
将軍家ってやっぱり少なからず陰謀しないと生きてけないんだろな

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 10:59:20.07 ID:d8YutnuM
>>112
義輝殺しって本当は義輝を操ってた側近を誅殺しようと引き渡しを要求したのに義輝が庇って要求を突っぱねたので攻め落とされたものらしいな

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 13:38:29.79 ID:ARU3QTOf
君側の奸を除くって、一番アレな挙兵理由じゃないですかー

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 14:27:08.64 ID:ktSs7bxg
永楽帝「君側の奸を除くために挙兵したというのに、
建文帝が自殺されてしまうとは、なんということだ」

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 14:34:44.85 ID:4tF7vR8z
>>117
安禄山「楊国忠を排除するための義兵だお」

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 14:43:41.92 ID:ktSs7bxg
今昔物語集巻10第7話 唐玄宗后楊貴妃依皇寵被殺語 だと
安禄山という「心賢く、思慮深い」大臣が
玄宗皇帝が楊貴妃に溺れ、その兄の楊国忠に政治を任せてるのに愁えて
世を正すために宮殿に兵を率いて押し行ったら、玄宗皇帝が勘違いして逃げちゃった
ってことになってるからセーフ

足利義輝の陰謀

2019年06月04日 17:01

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 14:53:53.73 ID:cSFIfsi/
一、畠山右衛門督高政は前将軍の時から牢人して紀州広という所にいたが、将軍(足利義輝)より密かに免
  状を差し遣わし、「実休(三好実休)を討ち取るべし」との由を仰せ付けられた。高政と細川・三好家
  は年来の仇敵である故なり。

  高政は畏まって紀州の諸侍や熊野根来まで借り催し、その勢1万5千余騎。永禄3年(1560)2月
  下旬に紀州を出立し、まず和泉岸和田城を攻めた。これは阿波から実休を誘き出そうとの謀なり。

  岸和田城は実休上洛中の宿りの城で、舎弟の安宅摂津守(冬康)を籠め置いていた。案の定、この由を
  聞き付けて阿波から実休が人数を引き連れ、後巻を仕る。さて久米田という所で一戦に打ち負け、同年
  3月5日に実休自害す。これにより高政はたちまちに運を開いた。

一、その後、和泉の筒井喜三という者は人数2万ばかりで阿波木本という所に打って出て、三好家と度々戦
  うが、ついに三好宗三(政長)に討たれた。これも義輝から喜三方への内意と聞く。その子細はこれほ
  どの大乱で三好左京太夫義誥(義継)は、両度の合戦に虚病を構えて出合わなかった。

  義誥は義輝公の従弟婿であることにより、両陣ともに出立しないようにとの由で、義輝公からの内書が
  あった故である。さて喜三討死の後は、義誥の他の三好家は義輝と不和になったという。

――『阿州将裔記』

史実と合いませんが義輝の策謀を伝えるものでしょうか



112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 18:41:52.30 ID:yjPfJm9C
義輝さんて松永久秀から悪人呼ばわりされたこともあるとかなんかで見た
将軍家ってやっぱり少なからず陰謀しないと生きてけないんだろな

武田の家のあらん限りは

2019年05月23日 17:11

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/22(水) 20:54:19.06 ID:/jjf8gGf
寅の6月24日(永禄9年(丙寅)。1565年)に、信虎公(武田信虎)より同年5月5日の日付で
信玄公へ御書を遣しなされた。その趣きは、

「去る甲子3月に公方光源院殿(足利義輝)へ信虎は御礼申し上げて帰るところで、広縁まで
光源院殿が御送りになられたので、信虎は頭を地に付けて申し上げた。

『武田の家のあらん限りは公方が広縁まで御送りになられる。我が家の系図これなり』

と申し上げ候。しかれば三好は道無き故、光源院殿の御妹婿になった御恩を投げ打ち、去る年
乙丑に、義輝公を討ち奉った。そうであっても、侍のある内は公方の絶えなさることはない。
その心得あるべく候」

と折々信玄公へ信虎公より仰せ越しなされた。「かの強くいらっしゃる信虎公も、御父子の間
だから信玄公に御吉事のことを折々仰せられるのだ」と武田の家老各々は涙を流したのである。

以上。

――『甲陽軍鑑』



大森伝七郎、切死の事

2019年05月09日 17:04

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 12:40:57.59 ID:fz55kaSk
大森伝七郎、切死の事

西岡東村に、公方(足利将軍家)数代の家の子で、大森伝七郎という侍が有った。
御所(足利義輝)すでに御滅亡(永禄の変)の後、隠れる場所もなかったが、かつて抱え置き、
懇ろに待遇していた者が西岡に在ったため、彼のもとに暫く滞在したいと思い、密かにそこを尋ねた。

ところがこの者は、大森が来たことを三好長慶方に知らせた(この頃三好長慶は既に死去している。
三好家が長慶の死を秘匿していたためか)。そこで三好方より薄武左衛門磯上甚六郎の両名に、
上下十人の頑強な足軽を添えて、討ち手として向かわされた。

薄武左衛門磯上甚六郎は到着すると、かの者の家の中に入り、大森伝七郎に向かって声をかけた。
「ここに大森殿が居られると承り、迎えにこの両人が参り候。はやく御出なされよ!」

大森は感の鋭い人物であったので、これを聞くより早く覚悟を据えて、立ち向かって聞いた
「私をどこへ召されるというのか」
三好長慶が探しておられる。はやく出させられよ!」
「それがしは入道(長慶)の元へ参っても何の用もない。また言うべきこともない。よって
参る必要はない。」
「そなたはそう思っているかも知れないが、筑前守(長慶)には尋ねたいことが有るとの事である。
はやくはやく、出て参られよ!」

そう、両名が大森に近付こうとすると、「しからば、いざ参らん!」そう言うと同時に、2尺3寸の
打物(太刀)を引き抜くと、薄武左衛門の頸に押し当て、左側の肩先まで斬りぬいた。
磯上甚六郎はこれを見るや「やるまじ!」と抜き打ちに斬りかかったが、この時二階の竹垂木に箕笠が
下げ置かれており、これを斬りつけてしまい、「あっ」と思い太刀を引く間に、大森はすかさず磯上の
高股を両断し、磯上は戌亥(西北)を頭にして倒れた。

続く三好方の郎党たちは、これを見て「逃さじ!」と斬ってかかったが、そこは茅葺きの小さな家のため
働き自由に成らず、天井が低いため斬り損じ、大森に寄る者は斬られ入れ替わる中、六人が同じ枕に伏した。
そして大森伝七郎

「今はもはや、罪造りにお前たちを殺しても何の意味があるのか。」と、座敷へつと走り上がり、
腹を十文字に切って死んだ。見る人聴く者、「天晴、かかる剛強のつはものを殺してしまった。一騎当千とは
ああいう者の事を言うのに。」と、彼を惜しまぬものは居なかった。
三好長慶もこれを聴いて大いに驚き、思わず手を打って、暫く物も言わなかった。

(室町殿物語)



14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 14:16:57.26 ID:xv5IJncU
>>11
六人「もう少し早く気づいて(´;ω;`)」
まあ武士の意地というもんかなぁ
全員殺しても次の追っ手がきていつかはやられるだろうし

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 14:26:43.35 ID:sLXFenpt
いや義輝死んだし

それも義輝公が愚弱だったため

2019年02月03日 21:25

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/02(土) 20:51:07.26 ID:AAgREs3T
楢村長高(長教)の室町殿日記を参照すると、三好筑前守義長(義興)は、将軍足利義輝の命を奉じて
泉州備前入道并びに同伊勢守(伊勢貞孝)を誅伐した。であるのに賞が行われず、義長はこのため、
備前入道の闕所を賜って従卒を扶助しその功を賞せんと考え、これを所望したが、賜ること無く、
義輝は彼の地を一円に伊勢加賀守(貞助)に与えた。これ故に三好義長は公方の御料所の代官を
私的に置き換えてその年貢を抑えようとした。公方は役人を下して三好の代官を追い払おうとするも、
三好は家人を遣わして公方の役人を追い払い年貢を横領した。

これ以降、公方より度々討手が向けられたが、毎回討手は敗北し、終には三好が御所を囲み攻めた。
そのため義輝は自害した。永禄8年5月19日の事である。尊氏将軍の嫡流は13代にて滅亡した、
それも義輝公が愚弱だったためである。

(安斉随筆)

伊勢貞丈先生、さすが足利義輝に厳しい。



716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/02(土) 23:46:05.23 ID:wsG0sIic
山科言継の日記でも義輝はあっさり切腹してるけど、討手と派手に斬り合いをして討死する話は後世の創作なのかな

和田新五郎の処刑

2019年01月31日 17:25

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 13:45:06.32 ID:h4t6uh2G
天文十三年八月十一日、一条戻橋にて一人の男が処刑された。
男の名は和田新五郎三好長慶の配下である。
新五郎は将軍足利義晴の嫡男、菊童丸(義輝)の世話係の女房と密通した罪で捕縛されたのだ。

新五郎の処刑は後に長慶と対立することとなる義晴・晴元の裁定によって行われたという。
その方法は凄惨なものだった。
新五郎への刑罰は「鋸挽き」と決まったのだが、まずはじめに縛り上げられ身動きの取れない新五郎の右手が鋸で切り落とされた。
次に苦しみ悶える新五郎の左手が切り落とされる。最後に頸を落とされ、漸く新五郎は絶命した。
続いて新五郎と密通した女房も一糸纏わぬ姿で洛中を引き回された上で、六条河原で首を打たれた。
この処刑は当時としても残忍な仕打ちとして都の人々に受け止められ、山科言継は日記に「前代未聞」と記している。

後に長慶は主君・晴元に対して反旗を掲げることになるが、この頃には既に晴元(と義晴)との暗闘が始まっていたっぽい話。


武士は病に依りて死せず、戦争に於て死する

2018年11月16日 17:55

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/16(金) 17:32:58.59 ID:r88jfdPt
日本の島は六十六ヶ國に分れ、昔時は悉くダイリ(内裏)と称する君主に服従し、此君の下に
公方と称する軍隊司令長官(征夷大将軍)ありしが、互に争ひ司令長官は全國を領し、主なる君に服従せざるに至れり。
而して更に分裂し、各國の長官起ちて主なる君にも司令長官にも服従せざるに至れり。

主なる君(正親町天皇)は当都にあり、尊大にして地を踏むこと能はず、若し地を踏めば廃せらる(天皇が禁苑外
に出ないことか)。彼は少しも兵力を有せず、之が爲め常に困窮せりと難も諸人に尊崇せらる。但し服従する者なし。
軍隊司令長官(足利義輝)も都に在り、少しの兵力を有すれども頭を挙げて其地位を回復する程度に非ず。

此の如き状態は四百年来の事にして、頭なき爲め平和安寧なく、各人其兵数と勢力に應じ、各國を領す。
是彼等間に絶えず戦争ある原因なり。
彼等は大に武器を重んずるが故に其値甚高し。五千クルサドの値のものもあれど少数にして、千クルサドのもの
之より多く、五百クルサドのものは多数あり。短剣も又千クルサド、千五百クルサドのものあり。其他は値低し。
予が今之を述ぶるは如何に武器を尊重するか示さん爲めなり。
武士は病に依りて死せず、戦争に於て死する爲め生まるる者なりと信ぜり。

(一五六四年七月十五日附、都發、パードレ・ガスパル・ビレラよりポルトガルのパードレ、イルマン等に贈りし書翰)


今世武道に正しき将なし

2018年08月11日 18:30

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 15:23:21.09 ID:ZG86LWeA
天文21年(1552)2月26日、細川二郎氏綱とその弟・藤賢が摂津より上洛し、
三好長慶が供奉、翌日に将軍・義藤公(足利義輝)に謁見した。

3月11日、細川氏綱は右京大夫に任じられ管領に補任された。弟の藤賢は右馬頭に
任じられる。時に三好長慶、天下の権を執る。

この時、三好の家人・松永弾正忠久秀は、長慶の長男・義長(義興)の乳母と嫁して
諸事を沙汰した。その奢りは甚だし。長慶はこの松永を京都に留めて万事を下知した。

松永は西岡の凡下の者であったが方々に移り変わり、終いに三好に仕えるに至って
内縁に懸かることはこの如し。

6月10日、越前国主・朝倉左近将監延景が上洛し、将軍家(義輝)に謁見した。
延景は偏諱を賜って義景と号した。

義景は実は近江佐々木の管領・佐々木氏綱朝臣(六角氏綱)の二男で、朝倉弾正忠
孝景がこれを養子とした。

7月8日、朝倉義景は帰国、この時に左衛門督に任じられ従四下に叙された。義景は
近江に滞留し、浅井下野守久政の館・小谷の城において軍事を評論した。

(久政曰く)「今の世に武道に正しき将なし。運に乗じて一旦の功ありといえども、
後代、武の亀鑑に備わるべき者なし」

義景曰く「我が武は子孫の繁栄をもたらすとしても、私自身は非道(正道ではない)
なので身を立てることはないであろう」

(今世武道に正しき将なし。運に乗じて一旦功ありといふども、後代亀鑑に備ふべき者
なしと、義景曰、夫れ吾が武は子孫の繁栄を能くすと雖も、非道にして身を立てずと。)

――『浅井日記』


今の武将(将軍)は有名無実なり。

2018年08月10日 18:59

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 16:54:32.36 ID:Wo/D1KX8
天分22年(1553)正月3日、六角義秀朝臣が元三会を勤行された。精進代
雞足院導賀、浅井久政が代官として登山した。

7月28日、将軍家(足利義輝)の許容により、前右京大夫晴元父子が上洛した。
これは佐々木左京大夫義賢(六角義賢)があらかじめ申しなしたからである。

久政はこれを嘆いて「ああ、これは乱のもとか。今の武将(将軍)は有名無実なり。
足利家の滅亡はほとんど近きものとなった」と言った。

8月朔日、三好長慶は前の右京大夫晴元父子が許されて上洛したと聞き、摂津・
河内両国の兵2万余人を引き連れて上洛した。将軍家は防戦に

及ばず、京都を去って丹波国山国に下りなさった。同13日、義藤公(義輝)は
勅命により上洛された。

――『浅井日記』

浅井日記は久政を悪く描いてないのは面白いけど六角義秀がバンバン出てくるし、
久政隠居もスルーされててうーんとなる。



24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 17:58:55.02 ID:knCl25iW
存在してると都合が悪いから抹消されたんだろうな
秀吉に

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 18:59:07.54 ID:1tByHFeu
>>24
つまらん。ありえん。

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 19:22:17.15 ID:RFs/7dHc
もう六角家中の人間にしか見えん

毛利隆元と芸豊和平

2018年07月24日 17:54

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:51:59.22 ID:lDBGrq6m
永禄6年、大友宗麟毛利元就とは昔日は和睦していたのだが、大内義長切腹の後不和となった。
元就は考えた、「大友宗麟は無双の弓取りである。その上防長両国には大内義長に好の有る者達も
多い。彼らは何か有れば、志を変じ大友に靡き従う可能性もある。」
そこで元就は長男隆元を両国の押さえとして周防に下し、岩国の永興寺に在陣した。

このような所に、大友宗麟はこの年の2月中旬、豊前国神田の松山城を2万余騎もいぇ取り囲み
攻め破ろうとしたが、ここを守る天野紀伊守が能く城を守り、非常に堅固であったため。大友は
遠攻めへと戦術を切り替えた。

しかしこの事は、九州の高橋、長野といった国衆達が元より毛利に志深かったため、毛利隆元
飛脚を以って知らされた。隆元は即座に「後詰めの軍勢を出す!」と彼自身が防府まで進み防長の
軍勢を集結させた。

ここで、京の将軍である光源院(足利)義輝公より、毛利には聖護院、大友へは久我大納言殿が
使いとして派遣された

『近年諸国兵乱の事、これらは偏に、上を蔑ろにするが如き所業である。然らば、大友毛利は
速やかに和睦し、中国九州を静謐にする事こそ肝要である。』

こう言った旨が仰せ下され、両家は大樹の高命に従い和平を成した。

これによって九州表は無為となったが、隆元は「今なら大友も強く反発しない」と判断し、
門司、下関の城に兵卒を入れその支配を固めた。
その上で周防を出立し出雲へと向かったが、途中の芸州佐々部の宿にて急病を患い、8月14日、
享年41にて終に逝去されたのである。

(安西軍策)

毛利隆元が、将軍による大友との和平を利用して関門海峡を確保していたというお話。しかし直後…。



102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:58:21.15 ID:UveR13y3
隆元といい義信、信康といい長男早死にの呪いでもかけられてたんか??

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 22:49:38.07 ID:ADf4FCYr
>>102
真田信之「ですよねー」

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 04:18:49.02 ID:009fkQrR
>>102
義信じゃなくて義興だろ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 05:33:19.95 ID:RtqkchvC
>>102
武田信繁「せやろか?」

誠に多年旧功の主従であり

2018年04月10日 09:49

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/10(火) 08:48:28.09 ID:TUp17M1l
永禄4年(1561)正月十五日、三好修理太夫長慶父子は上洛し、公方様(足利義輝)方へ
出仕あり、子息筑前守慶興は、「義」の一字を賜り義興となり、父長慶と共に
御相伴衆に任じられ、桐の御紋を下された。これは斯波氏の家臣で陪臣であった
朝倉弾正左衛門家(越前朝倉家)を、英林院殿(朝倉孝景)より御相伴衆にした
先例に寄ったのである。

同年三月二十九日、右の御祝いの御悦として、公方義輝が三好館へ御成があった。
御遊あり、御能もあり、その後義輝より三好に対して、細川晴元入道との和親を
促された。

同年五月六日、細川晴元入道一清を、三好より迎え入れ、摂津国富田庄普門寺へ入れ、
富田庄を御知行あるべしと贈呈した。

誠に多年旧功の主従であり、三好殿は旧懐の涙しきりであったという。

(足利季世記)

優しい世界


足利義輝のクーデターの顛末

2018年04月06日 10:36

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/06(金) 09:30:29.36 ID:ZsWuJQrI
天文二十二年七月三日、三好長慶が芥川城攻めを行うため京を留守にすると、同月二十八日、
長慶と和解し帰京していた将軍足利義輝は、その和解の際に切り捨てたはずの細川晴元(入道一清)
の旧功捨てがたく思し召し、彼を赦免し京へ帰還させた。

すると晴元方の牢人千人余りも各所より入洛し、三好衆の宿所へ放火した。

この知らせを聞いた長慶は、芥川城に抑えの兵を置くとすぐに京へ取って返し、八月一日には
長慶勢に加え、河内の畠山政安、同美作守勢も引き連れ、二万あまりにて攻め上がった。

この三好勢の勢いに、義輝も晴元も戦いにもならぬと恐れ、取るものも取りあえず都より
逃亡し近江国へと落ちていった。

(足利季世記)

足利義輝細川晴元勢と起こした反三好のクーデターの顛末


大内家滅亡

2018年04月05日 17:54

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/04(水) 20:58:14.12 ID:Y93a5UA7
天文二十年七月、細川右京太夫晴元の軍勢が近江坂本より打ち立て京の相国寺に陣を取った。
しかしこれに敵対する三好筑前守長慶は、七月十四日、相国寺へ押し寄せ火をかけ攻め込むと、
晴元勢は一戦にも及べず散々に落ちていった。(相国寺の戦い)

この時、京はこのように乱れきっているが、西国は猶静謐であるため、公方足利義輝、および
細川晴元は、猶も三好が京に迫ることあらば、慧林院殿(足利義稙)の時のように、中国の
大内の元へ御動座あるべき由、内々に評定がなされた。

ところが、その年の天文二十年九月二日、大内義隆の家老である陶晴賢が謀反を起こし、
大内殿を攻めたところ、不慮の一戦叶わずして、義隆は長門国に落ちていった。

その頃、京都の大乱の故に、公家衆も多く大内殿を頼んで周防へ下向され、
禁裏様(天皇)をも山口に行幸されるようにと、大内は多年に渡り支度をしていた。

しかしこのような災い起こり、前関白二条尹房、持明院中納言元規、前左大臣三条公頼といった
人々がここにて自害した。
大内殿は長門国深川にて自害。御年四十五歳であったという。藤三位親世、藤中将良豊も
自害された。

この人々は都の乱を避けてこの国に下られ、このように亡んだこと。一業所感(人はいずれも、
同一の善悪の業ならば同一の果を得るということ)とも言うべきであろう。

陶晴賢は主を亡ぼし、豊後の大友義鎮(宗麟)を頼み、次弟を申し受けて大内八郎義長と号し、
山口の館に移しこれを主とし、自分は執事となり、心のまま振る舞った。
そして子息の阿波守(長房)に家督を譲り、入道して法名全羨と号した。

(足利季世記)

足利義輝細川晴元の周防亡命の計画が有ったとか、大内は山口に天皇まで迎え入れようとしていた
らしいとか、大内が亡びなかったら戦国史はどうなっていたんでしょうかね。



進士九郎による三好長慶暗殺未遂事件

2018年04月04日 17:47

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 19:27:55.95 ID:HTQMyVaV
天文二十年二月七日、三好筑前守長慶の家老である松永甚助兄弟(久秀、長頼)、江州志賀表へ
侵出したが、六角義賢勢がこれを聞いてすぐに、琵琶湖を押し渡り攻撃したため、松永兄弟は
この一戦に駆け負け引き退いた。
近江勢は去年より数度打ち負け勢いを失っていただけに、今回の勝利に皆喜んだ。

この頃、公方様(足利義輝)は猶も比叡の法泉寺にあったが、伊勢守貞孝父子は在京し、
万事制法を糺しており、三好も細川晴元への恨み故に公儀に背いたのであるが、将軍に対し
別儀の事無く、伊勢守と公方の帰京について相談を行った。

この事に京中は大いに喜んだのであるが、天文二十年三月十四日、伊勢守貞孝の館にて、
三好長慶への饗応がなされた時、公方衆・進士美作守の甥である進士九郎賢光という者、
伊勢守邸へ来訪すると、即座に走り出て腰刀を抜くままに、二刀まで三好長慶を突いた。

この時、長慶の相伴に同朋の者があったが、彼らが進士九郎を抱き留め、その間に人々が
走り寄ると、進士九郎は自害した。

三好長慶は反応の素早い人であったので、とっさに床にあった枕を取り、これにて刃を受け止めた
ため、一刀は体に触れず、もう一刀も浅手であった。

この進士九郎賢光は大功の人であったのだが、運が尽きたのであろうか、心が逸って仕損じたの
であると、評判された、

この事件は、進士九郎足利義輝より仰せを蒙ったものであるとも、又は彼の本領を三好に
没収されたことを恨んでの犯行であるとも聞こえたが、ともあれ当時、三好長慶を一刀でも
恨まんとした心根は非常に甚だしいものであった。

(足利季世記)

進士九郎による三好長慶暗殺未遂事件について



655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 23:50:03.95 ID:W+UsiL5z
長慶は腕も立つ方だったのか

三斎は実は

2017年06月08日 00:27

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 02:47:35.45 ID:/PRBbIyV
幽斎は細川への養子で、本名は三淵である。幽斎の兄を三淵大和(藤英)
という。光源院殿(足利義輝)の弟(義昭)は幽斎を頼みにして信長に頼った。

(信長と義昭の間には)20ヶ条の掟があったが、(義昭は)後にこの掟を
用いずして槇島に籠城した。信長は(義昭を)熊野に追い込みなさった。

光源院殿の御宮妾が懐妊3ヶ月の時に、幽斎は御宮妾を与えられたので、
三斎は実は光源院殿の子である。三斎は光源院殿に顔が似ていた。

本願寺東泰院の父(教如)も光源院殿の落胤という。稲葉能登守(信通)は
三斎の孫である。

(光源院殿妾御宮。懐妊三月に幽斎は被下候ゆへ。三斎は実は光源院殿子
也。光源殿に顔似たり。本願寺東泰院父も。光源院落胤と云。稲葉能登守は
三斎の孫。)

――『武功雑記』


永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

2017年02月07日 15:24

593 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:10.18 ID:l0/11MB8
永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

 塙(保己一)の『群書類従』の中に、『永禄六年諸役人附』というものがある。
これは足利氏の時代末期のものである。今その所載を抄書する。

「〔上略〕
外様衆 大名在国衆〔号国人〕
    山名次郎義祐改名左京大夫
御相伴 北条相模守氏康        御相伴 今川上総介氏実(真)  駿河
    上杉弾正弼輝虎  越後長尾      武田大膳大夫入道晴信 甲斐
    畠山修理大夫義継 能登之守護     織田尾張守信長    尾張
    嶋津(島津)陸奥守貴久         同修理大夫義久
相伴  伊東三位入道義祐 日向  
    毛利陸奥守元就            同少輔太郎輝元    安芸
    吉川駿河守              松浦肥前守隆信    肥前
    河野左京大夫通宜 伊予        有馬修理大夫義真 
    同太郎義純    肥前        嶋津(島津)薩摩守義俊
    宗刑部大輔    対馬        伊達次郎晴宗     奥州
    松平蔵人元康   三河        水野下野守      三河

関東衆〔以下略〕」

私、松浦清が説明を加える。
・山名義祐は、今交代寄合の山名靭負義問の祖先であろう。義問は六千七百石である。
・北条氏康は、今の相模守氏喬の先祖であろう。氏喬は狭山領主一万石。
・今川氏実は今の高家、侍従刑部大輔義用〔千石〕の祖先である。
・上杉輝虎は、米沢侯斉定の先祖、今十五万石。
・武田晴信は、今の高家、侍従大膳大夫信典〔五百石〕の先祖であろう。
・畠山義継もまた、高家で、侍従飛騨守義宜〔三千百石余り〕の先祖であろう。
・織田信長は、右大臣、今の羽州村山領主、若狭守信美の祖で、今二万石。
・嶋津貴久、義久は、薩摩侯隅州斉興の先祖で、今七十七万八百石。
・伊東義祐は、飫肥侯修理大夫祐相の先祖であろう。今の五万千八百石余り。
・毛利元就、輝元は、長州侯大膳大夫斉元の祖先で、今三十六万九千石余り。
・吉川駿州は、今の長州の属臣、吉川監物の祖であろう。防州岩国の城に居り、六万石を領している。
・松浦隆信は、わたくし清の十世の祖で、道可殿であられる。
・河野通宜は、今の久留島侯、予州の通嘉の祖先であろう。通嘉は今、豊後森領主で一万二千五百石である。
・有馬義真、義純は、今の丸岡侯徳純の祖先で、今越前で五万石。
・嶋津義俊は、誰か未詳だが、きっと今の薩摩侯の先祖であろう。
・宗は、今の対馬侯の先祖であろう。祖先の中に刑部大輔の称を見たことがある。
・伊達晴宗は、今の仙台侯の祖先で、元祖政宗の先祖であろう。今、斉邦は六十二万五千六百石余りを領している。
・松平元康は、かたじけなくも神君であられます。元康は始めの御諱であられる。
・水野下野守は、今水野越州、羽州、日州の先祖であろう。三氏は今それぞれ六万石、五万石、一万八千石。

594 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:34.61 ID:l0/11MB8
 以上のことを見よ。世の興廃はかくの如しだ。これは足利が公方と称したときの外様衆である。
しかし、かえって今は主君であった足利がわずかに御旗本の輩に入っているだけで、
大名在国衆なる者も、あるいは旗本または外藩護衛の身分となっている。

 予の先祖の公や有馬伊東の輩が、恐れ多くも神君の上にあれども、
今となっては皆、御当家を敬拝尊従することに至っている。
これというも、神君の御高徳は仁義知勇を備えられておられる御大勲で、
いわゆる立身行道し、名を後世に揚げて父母を顕す者であられるからだ。
上杉武田の両雄、織田の威顕もいつのまにか跡形もなく、
毛利嶋津伊達の強大も、今はわずかにその旧を保つも結局臣伏し、
ただ水野氏は御当家に新属し、かえって古より富めるに至ったのであろう。

 これというも、日光権宮の御深仁である。
明智は論ずるに足らず。
豊太閤は、まだこの時匹夫で名も無い。しかし、たちまち広大になって、
ついには外国を掠奪するに至っても、その道半ばにして身を喪った。
天がなしたのであろうか。
 我が隆信君の子の法印公(鎮信)君は、豊閤遠伐の役に随われ、
出色の勇武であったが、ついに外国で賊徒の名を負われた。
いまこのように太平の時に随従できて内外で非義不仁の名を負う事が無いのも、
まことに神祖の大恩・大恵に違いない。


(甲子夜話三篇)



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 07:07:58.26 ID:DeSn+Eio
>>593
山名義祐って赤松義祐のこと?

「三好」と人の言い伝えているのは

2017年01月30日 18:29

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 18:15:21.23 ID:eGddXOW8
「三好」と人の言い伝えているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
元々は細川の家臣であったが、細川を滅ぼして一家繁栄した。
修理太夫は光源院殿乱(永禄の変:足利義輝暗殺)以前に病死した。

この修理太夫の元に三人衆と言って、主だった3人の家臣があった。三好日向守というのも
その一人である。永禄8年に義輝を殺したのはこの三人衆である。

(老人雑話)

永禄の変は信長公記なんかでも「三好長慶が義輝を殺した」なんて書いていますが、成立年代は近いわりに、
老人雑話のほうが事件について正確に把握していますね。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 19:43:47.50 ID:hh70UDtF
船頭が多すぎて誰が主犯かわからないから長慶の名前で広まったとか?

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 22:58:16.15 ID:Y7G4vO1T
???「計画通り(ニヤリ」

此の寺の時の太鼓は磯の波

2016年09月01日 17:55

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/31(水) 22:33:15.10 ID:48wVr93/
 光源院(足利義輝)殿が京都四条の道場に陣をとっておられた時、
番の僧が夜九つの太鼓を寝ぼけて七つの時に打ってしまった。
 後で公方から御使いがあってその番の僧が呼ばれた。
きっと折檻に及ぶに違いないとぶるぶると参上すると
様子をお尋ねになられたので

「そうでございます。深く眠っていて、
目覚めると仰天してしまったためです。」

と、ありのままに申し上げると、思いのほかご機嫌が良く

此の寺の時の太鼓は磯の波 おきしたいにそうつといふなる
(この寺の時の太鼓は磯の波のようだ
押し寄せるので波打つというのだなあ)

と遊ばされ、僧には銭を与えられた。

(醒睡笑)




エムベロルの血の森

2016年02月16日 17:43

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 14:38:06.42 ID:ISKtEFxg
1564年、エムベロル公方(足利義輝)は日本を支配し、宮廷を都に有していた。しかしその時、
1万2千の逆徒はエムベロルに対し厳粛なる同盟を作りて反逆を謀り、最初の着手として都を襲い、
宮殿の四ヶ所に火を放った。公方は不慮の襲撃にあって、適応な防御手段を講ずることが出来ず、
自ら剣を抜いて大胆なる突撃をし、ただ200人を従えて血路を開かんと試みた。しかし衆寡敵せず、
敗れて数ヶ所を負傷し殺され、従臣もまた全て寸断された。

こうして反逆者は宮中に乱入し、公方の母および娘を見つけ出して惨殺した。
一人妻女は寺院の僧舎に隠れていたが、たちまち発見され、これもまた罪人として斬られた。

斯くの如くにして彼らは王族を完全に滅亡させ、ただ公方の弟のみを残した。これは彼が僧籍に在ったが
故である。反逆者たちは事件の後、この弟に対し安心を得るために、宗教上の契約を以って彼を拘束した。
しかし彼は、その契約後逃亡し、密かにロカの君主和田殿(Vatadono)の元に走った。和田殿は彼を
丁寧に待遇し、尾張(Bonari)の王信長に援助を乞わんことを勧めた。

信長は之を容れて6万の軍を戦場に出し、公方の殺害者と相対した。殺害者たちは抵抗し得ざるを見て
降伏し、首魁たる扇動者は罰せられた。

信長は血統において最も近い公方の弟を立てず、自ら都の都市および城の絶対的君主となった。
焼けた宮殿を再建するとしてその完成を急ぎ、費用と労力とを厭わず、土工を使用すること日に
1万5千人に及んだ。彼は抜刀を携えて此方彼方を巡視し、これがため何人も懈怠、又は時間を
徒消することは出来なかった。彼は、軍前通りかかった婦人の覆面を上げたと言って一人の木工の首を
刎ねたこともあった。

信長は威風堂々として短日月の間に30の王国を征服し、我が治下に立たしめ、継いでまた公方を廃して
エムベロルの冠を己が頭に頂いた。その後彼は、同じ王冠をヅボにおける彼の新たな肖像の頭に加え、
以って生存中に神として礼拝せされんとした。この目的のために、彼は彼に阿諛追従する宮廷の官人、
および市内の佞者を欠かすことが出来なかった。後者は彼の虚栄心を長ぜしめ、彼が細心、卓抜の行為、勇気に
よって斯くの如き驚嘆すべき事業を成し、斯くの如き多くの勝利を得たる上は、今の行為は正当にして
また栄誉であると自覚するに至ったのである。

しかし他人は、この虚栄の空想と傲慢なる企画を忌むこと甚だしかった。彼らは多くの君主で善行ある者に対し、
その死後これを神として祀ることには慣れていたので、このために彼を忌むことはなかったが、
彼の望む所は甚だ高く、生存中、すなわち人間が弱点に陥りやすい時において神となり、同時に人たらんとし、
特に霊界に在って永久に祝福される者にのみ捧ぐべき供物と犠牲を受けんとするのは、神聖を冒涜するものであり、
彼らが言うには

『人々は斯くの如く残虐、破約、偽誓をなせるものを神とすることを欲しない。例えば、いかなる国が
彼の君主たる面目、警言、寛仁を信頼して彼に降伏することがあっても、彼は攻撃の手を緩めず、これを略取し、
しかも暴力を以って侵入したかのように無慈悲にその国人を屠るのが常であるのを憎んでいる。』

信長を怨める者の中、最も甚だしいのは明智(Aquechi)王であった。
彼は大胆にして勇気ある君主であったが、信長の冒涜的傲慢を見て平然安堵する所を得なかった。
信長は多くの寵遇を明智に加え、彼を丹後の王となし、自己の全軍の大将としたが、宗教の名誉、並びに
正常なる神の真の礼拝が危機に瀕することを見るや、彼は信長の全軍をして彼に変心、反対せしめ、
1582年6月20日に都に進軍した。

こうして信長は不測に襲撃させられたが、自己の軍勢を以って囲まれた事でもあり脱走を企てる方法がなく、
敵の追跡を破り都に近い森林の中で殺された。
この森は以後、”エムベロルの血の森”の名を得るに至った。

(モンタヌス日本誌)

永禄の変から本能寺の変まで、モンタヌス日本史の記事である。



166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 16:09:51.32 ID:il9ecMq6
>>164
本能寺から逃げて都の外れの森林で殺されたとは面白い
歴史秘話ですね

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 16:18:37.32 ID:ZNRGt3ln
朝倉義景「ウチに公方の弟なんてこなかったよ?」

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 22:17:57.90 ID:1KdjBj4R
血乃森蒼紫

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 06:11:25.68 ID:7sCp75Ni
>>164
エムベロルって何?
エンペラー?

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 07:25:42.08 ID:YUNgAg2D
ポルトガル語のエンペラーだったかと

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 21:53:44.65 ID:1ckoV6Tq
>>164
”エムベロルの血の森”
やだカッコイイ