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武田の家があらん限りは

2022年12月01日 19:07

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/30(水) 19:50:13.49 ID:9cUq6Z2A
寅(1566)の六月二十四日に、武田信虎公より同年五月五日の日付にて、信玄公へ書状が使わされた。
その内容は、

『去る甲子(1564)三月、公方光源院殿(足利義輝)へ信虎が御礼申し上げ罷り帰る所、
公方様は広縁まで私をお見送りになった。そのためこの信虎は、頭を地に付けて申し上げた。

「武田の家があらん限りは、広縁まで公方が御送りある。我が家の系図是成。」

しかしながら三好が道なき故に、光源院殿の御妹の聟となる御恩を抛ち、去年乙丑(1565)、
義輝様を討ち奉る。(永禄の変)
そのような事があっても、侍という存在が有る限りは、公方が絶え給う事は無い。
その心得有るべし。」

このように折々、信玄公へ信虎公より仰せ越された。かの強くまします信虎公も、御父子の間なれば、
信玄公御吉事の義を折々仰せに成ると、武田の家老たちも涙を流した。

甲陽軍鑑

武田信虎から見た将軍義輝や永禄の変について



487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/01(木) 03:25:54.83 ID:8YHKCnPj
>>486



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/01(木) 08:25:51.64 ID:nEsIqGw1
>>486
家康「おう俺も公方だぞ伏して拝めや信玄坊主」
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公方義輝公を弑し奉った事について

2021年08月23日 16:27

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/23(月) 14:51:42.36 ID:X36Q9D4/
永禄八年五月十九日、京都に於いて三好左京大夫義継、松永右衛門佐久通らが逆心し、公方義輝公が
御生害された。これにより畿内は大いに乱れ、公方の御弟である一乗院覚慶は南都を落ちて江州矢島に
至り、公方家再興のために還俗、義昭と号した。

七月、上杉謙信は二万の軍勢で越府を立ち越中へ入り、そのまま直に進んで加賀国へ攻め入り、
若林長門守、蕪木右衛門尉、石黒、宮崎、南保、高楯、入善等を攻められた。
この後、長尾兵部尉景盛、島山因幡守両使を江州矢島へ遣わし、義昭公へ御兄公方光源院殿と
御弔いを申し上げられた。

この時三好義継が逆心にて、公方義輝公を弑し奉った事について、その七ヵ年以前、永禄二年の夏に
謙信が上洛して十月に至った頃、三好長慶を始めその一門、並びに松永、岩成、松山党などの
驕り甚だしく、公方を蔑ろに致している様子を謙信は見届け、いずれ三好逆心の相有りと察した。
そこで京を立ち越後へ帰る砌、御暇乞を申し上げ、密々に言上したことには、

「三好一家無礼にして終には反逆の相が御座候。もしそういった様子が見られたときは、早々に
私に仰せ下されますように。馳せ上がり退治いたします。」

という旨を申し置かれたが、これに公方義輝公は御喜悦斜め成らなず、御手づから藤林という名物の
國綱の御太刀を下され、必ず御頼りあるべき旨を、懇ろに御堅約された。

去る年、子七月四日、三好修理太夫長慶が病死した。三好一門、家人はこれを秘して喪礼を致さず、
病中と申す沙汰を致したのだが、これが密々に公方の上聴に達し、不審に思われている内に、反逆の
様子が徐々に顕れた故に、公方は大和兵部少輔を御使として越後に下され、早々に謙信が上洛するよう、
密々に御内書を下された。しかしこれを三好が聞きつけ、
「謙信が上洛すれば中々叶うべからず。その前に取り掛かるべし。」
と、俄に思い立ち逆心し、公方を弑し奉ったのだと云われた。

太祖一代軍記



輝虎は斯くの如くの

2021年08月21日 17:56

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/21(土) 16:43:19.91 ID:cQDwS0uU
永禄二年の四月上旬、上杉景虎は二度目の上洛をした。

(中略)

同月二十六日に、上使大館左衛門佐輝氏が御内書持参にて、景虎の文の裏書き、並びに
塗輿、朱柄傘を御免になり、屋形号、並びに「輝」の字を下され、斯波、細川、畠山の三管領に
準ずると云々。景虎はこれを拝受した。その御礼として宿舎より京に入った。これより景虎を改め、
輝虎と号した。

その御礼に向かう途中において、三好の家来の士と松永弾正少弼久秀の家人が馬上にて行き合い、
無礼であったために輝虎は怒り従士に下知して、たちまち討ち捨て頭を刎ねた。
近年三好、松永の威勢強く、これに並び立てるような者も無かったのだが、輝虎は斯くの如くの
対応をし、これに貴賤上下、輝虎を恐れること斜め成らずであった。
そして三好、松永はこれに一言も云うことが出来なかった。

(中略)

世に伝わる話に、堺に宿泊した折、旅宿の主人が草足袋を履いて見目に出たことに、輝虎は
「その体無礼なり」と怒り、その主人を手討ちにした。これに堺の者達千人ほどが怒って輝虎の
旅宿を囲んだ。そこで輝虎はその家に火を懸け切って出て彼らを追い散らした後、静かに京へと
帰った。輝虎の懸けた火は延焼し、堺において数千軒が焼失した。

太祖一代軍記

二度目の上洛でいろいろ大暴れしたらしい謙信公



謙信と猛猿

2021年08月20日 16:52

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 16:04:56.65 ID:R9Sq4sPr
天文二十二年、二十四歳、閏二月、長尾景虎は上洛した。

伝に云う、この時将軍である足利義輝公は宣われた
「景虎は若年より弓箭を取って、その武名は世に知らないものは居ない。
ちょうど今、土佐の長宗我部元親が献上してきた猛き猿がある。これは世に稀な猛獣であり、
檻に入れ、鉄でその檻を包んでいるほどだ。そこで景虎出仕の際、これを檻より出して路次に
繋ぎ置き、景虎の勇を試みよう。」

この猿は行き交う人を見ては必ず牙を鳴らして躍り上がり、叫声も凄まじいものであった。
この猿を以て景虎を試すという事は洛中に聞こえ、世の人は皆、景虎出仕の日を待って見物した。

景虎は洛中に間諜を置いていたので、この事を素早く聞きつけ、近習の士である鬼小島弥太郎という
大力の兵に下知して、巡礼の姿をさせて猿の餌食を持たせ、かの檻の方へ遣わした。

鬼小島は往来の人に交わり、番所に近づくと番士に話しかけ、件の猿に近づくと、猿は鬼小島を見つけ、
牙を鳴らし喚き叫んだ。そこで鬼小島は餌食を出しこれを与えると、猿は喜んでこれを食うこと三度にして
猿も殊の外静まった。この時、鬼小島はまた餌食を、今度は檻の外に置いた。

猿はこれを見て格子より手を出して取ろうとしたが、鬼小島は無双の大力であり、去る年、
越府往下の橋を修理した時、三十人持の大木を軽々と持ち上げた。これ故に世の人は彼を「鬼小島」
と呼んだのである。このような大力故に、猿の手をむずと捕らえ、格子の角木に押し当てて、
しばらく押し付けると、大力に痛めつけられ猿は涙を流して苦悩した。鬼小島は手を離さず、
半時ばかり痛めつけると、猿は弱って地に伏して啼いた。そして鬼小島は旅宿に還った。

翌日、景虎出仕の時、鬼小島も側に供した。洛中の貴賤は景虎が猿に遭った時の剛臆を見ようと
群衆した。公方家の諸士も景虎の出仕の様子、また猿の有様を見ようと皆々伺候した。
景虎は猿の前を洋々と通るが、猿は側に在る鬼小島を見知っていたため、恐怖した様子で
地に伏した。鬼小島は猿を睨んで通ったが、猿は頭を垂れ平伏した。

これを見た公方も管領も三好一門も奇特の思いを成し、御前首尾よく退出して帰られたが、
公方を初め奉り、細川右京太夫氏綱、三好筑前守長慶以下も
「景虎は若年より弓馬のみに心を寄せ、礼儀など知らないと思っていたが、出仕の礼神妙であった」
と褒め称えたと云われる。

太祖一代軍記

猛猿のお話の上杉謙信バージョン。長宗我部元親は天文八年生まれなのでこの時十四歳ですね。
家督もまだ継いでないので足利義輝に猿を贈るのはちょっと難しいかな。




445 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 21:22:23.14 ID:QWEeROo3
>>444
> 猛猿のお話の上杉謙信バージョン

やいこの縮緬坊主エテ公一匹躾けンのに子分の手ェ借りるたァ臍が茶ァ沸かすぜ若僧それっくれェも手前ェで出来ねえくせに軍神様が聞いて呆れらァ第一(でーいち)手前ェァ不敗だ何だ豪傑風ェ吹かしてやがるが本当(ふんと)ァ何遍も負けてベソかいて逃げてやがんの知ってんだぞこの童貞野郎こちとらァ本物の生涯(しょうげー)負け無しだあんな猿なんざ自分(てめえ)で四つに畳んで座布団に敷いちまわァ手前ェみてぇな張子の蛇のお兄ィさんたァお兄ィさんが違うんでぃ解ったか篦棒奴解ったら一昨日出直して来やがれっ。

※太田道灌は江戸者なので一切噛まず一息で二秒以内にこの啖呵を切ります。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 23:05:45.08 ID:46XUOyEh
その太田道灌、山吹の歌を家来に聞かされたら
「なな屁、や屁?なんだかくさそうな感じだなあ」
とか言いそうだ

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 23:23:43.09 ID:BUA5xDqI
>>445
そのセリフ読んでたら森山未來が出てきた

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 23:34:44.65 ID:ewp9KiJx
>>446
おいおい、坂東武者は土蜘蛛や蝦夷の類じゃないんだぜ。

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 07:22:08.67 ID:unjCq8w5
>>444
猛猿注意
https://i.imgur.com/ZaqmVog.jpg
ZaqmVog.jpg


451 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 13:17:17.10 ID:2oZ3rl14
>>447
> 森山未來

何者だ其奴ぁ?と思って調べたら関西者じゃねえか。
口跡が薄汚く粘る関西弁じゃこの啖呵ァ切れやしねェよ。

453 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 17:36:18.57 ID:unjCq8w5
>>451
烏にゃ越えられぬ、富士より向こうのお国言葉は大層威勢が良いですね。人が沢山下って
合い集まる東国ならではの江戸っ子気質に溢れチャキチャキの威勢に満ちた、大
衆文化の新境地。鎌倉から戦国期に戊辰戦争、数々の大戦を経て育まれた土地ならではですね。

支配に弾正が威を振るったので

2021年06月13日 16:27

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/13(日) 12:58:26.15 ID:eUZaO4BL
天文19年、万松院(足利義晴)御逝去の時、光厳院公(足利義輝)御年5才ま
で守り立て、公方14代相続奉るように三好殿へ仰せあり。

三好細川修理大夫の家人で和泉境の牢人・松永弾正は平跡良くして、阿波の三好
家へ奉公に出て、後に和州南都東大寺の北の山城、多門造城を持つ。

三好修理殿は以後左京殿(三好義継か)の御乳母を松永の嫁とし、内縁故に都の
支配に弾正が威を振るったので、長臣衆と不和になる。

――『三河東泉記



806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/13(日) 13:06:16.29 ID:Sgq1CfgC
15歳じゃないのか
14代については義稙を2回数えるとして

その他の注進状は、皆偽作と見え、

2021年06月01日 18:12

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/01(火) 15:07:35.12 ID:K4eUfYaZ
近年、世間に出ている記録を見るに、当家(上杉家)に於いて、嘗て聞いたこともないものが多い。
川中島合戦を、公方(足利)義輝公に注進した書状という物が有るが、みな後世の人の偽作である。

ただし、天文二十二年霜月二十八日、川中島下米宮での合戦(第一次川中島合戦)の次第を、
京都の大館伊予守(大舘晴光か)方へ書き付け送られた書状は、真の書状であり、実物が京都にある。

この内容は横田源助、武田大坊、坂垣三郎、穴山主膳、半菅善四郎、粟田讃岐守、染田三郎左衛門、
帯兼刑部、并びに駿河今川よりの加勢・朝比奈左京進、武田飛騨守などを始め、五千余騎を討ち取った、
という文言である。この書状は確かなる本物である。その他の注進状は、皆偽作と見え、信用なり難い。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



『三好』と人に云い伝わっているのは

2020年11月22日 15:37

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/22(日) 14:01:02.62 ID:w52fk8aL
『三好』と人に云い伝わっているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
彼は細川を亡ぼして、一家繁盛した。

修理太夫は光源院殿(足利義輝)の乱(永禄の変)の以前に病死した。

彼の家中に、三人衆といって、主だった三人の家臣があった。三好日向守(長逸)という者も
その一人である。永禄八年に義輝を弑したのはこの三人衆である。

修理を、昔は人呼んで「作左」と云ったという。また三人衆とは不和であったという。

老人雑話

老人雑話成立の頃には、永禄の変の時に三好長慶は既に死んでいたというのが知られていたんですね。



「御小袖」鳴動

2020年10月19日 17:51

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/19(月) 13:29:43.01 ID:dubGELOS
永禄八年六月十五日

大和(大和三位入道宗恕家乗)と、武家(将軍家)の御小袖(足利尊氏が着用し、将軍家伝来の白威の大鎧)の
間での、鳴動について雑談した。

普広院殿(足利義教)が殺された時、兼日鳴動した。慈照院(足利義政)の御代にも鳴動し、そのため
御座所を改めた所、常の御座所は悉く転倒したという。
そして今度(永禄の変)でも鳴動し、また後日に重ねて、一日に三度鳴動したという。であるのに、
足利義輝は)御用心がまったく無く、故に御運が盡きたのだろう。

言継卿記

「御小袖」鳴動について



423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/20(火) 14:42:26.52 ID:WJP5InwS
二条御所の防衛強化したり
フロイス日本史だと、
前日に京都脱出しようとして説得されて思いとどまってるなど
間違いなく危機感があったようだけどね

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/20(火) 15:27:53.81 ID:klQ4c8bJ
長慶の死亡を知らないのにどうして危機感を覚えたんだろ
なんか最近三好勢の当たりが強いみたいなのがあったのかな

光源院殿の葬礼

2020年10月17日 17:27

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 22:28:43.99 ID:O+cHCO8f
永禄八年六月九日

光源院殿(足利義輝)の葬礼が等持寺に於いて、寅刻(午前四時)より、夜明けに及ぶまで行われたという。
しかし、前々には悉く参っていた昵懇の公家たちは、今日、一人も参らなかった。また五山十刹、諸宗などによる
読経も悉く無かったという。ご子孫がなかった故であろうか。
葬礼に在ったのは、相国寺衆、奉公衆、奉行衆ばかりであったそうだ。

言継卿記

言継卿記より、足利義輝の葬儀について。三好に睨まれるという恐れもあったのでしょうが、薄情なものですね。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 00:32:01.78 ID:Nku6hMSe
山科卿も伝聞ってことは行ってないのか

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 00:41:15.72 ID:B76PdEkK
言継は義輝の昵近公家じゃないしね。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 01:51:51.31 ID:ed/YEY0g
暗殺した連中に葬儀されてたら誰もこんわと思ってたけど、それは政元だったかな?

永禄の変についてのフロイスの報告

2020年10月14日 17:06

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 15:27:20.15 ID:fVPTpVlb
翌日、即ち一昨日、聖三位一体の日曜日の朝、三好殿(フロイスは長慶としているが義継)は騎馬の士約七十を
率い、偽って(京都)市外約七十レグワの寺院(清水観世寺)に遊ぶとして、少しばかり市外に出た後忽ち
引き返して、公方(足利義輝)の宮城に向かった。朝のことであり公方様の邸に在った者は二百人に過ぎなかった。
しかも多くは都の主だった大身であったが、直ぐに三好勢一万二千人に囲まれ、三好殿は宮城の堀に架けた
一の橋に至る一門に向かい、他二人の領主(松永久通、三好長逸か)は他の門に向かった。

城内にては、このような意外の叛逆を予想せず、門は悉く開かれていたため、銃手の大集団が侵入し、
公方様に対し、書付を呈したいと欲した故に、こちらに来てこれを受け取るようにと述べた。

前に報告したように、我々の教会に招待したこともあり、また公方様の昵近者にて我々を公方様に紹介した
老人(進士晴舎)が出て書付を受け取り、直ぐに読んだ所、第一に、公方様がその妻(側室)、即ち同老人の
娘を殺し、又他の多数の大身達を殺す事で。それが行われれば平穏に退出する、と云うことであった。
老人はこれに欺瞞を見て、書付を地に投げ捨て、主君である国王に対し、この如き叛逆を起こす者の、畏れ無く
恥無きを大いに責め、既にこのような状況であれば、彼自ら腹を切るべしと云った。

諸侯が敵に抵抗すること能わざる時は、短剣を取っておのれの腹を切るのが日本一般の最も古い習慣にして、
君臣共にこれを行う。

老人は内に入り、公方様の前に於いて自殺した。そして我等の親友であるその子(進士主馬允)が邸より出て
三好勢と暫く戦ったが、間もなくこれは殺され、外より邸に向かって激しく銃が放たれた。
この時公方様の武士四人が門前に来て、門を敲いて開くように求めたが、内より今これを開く事は出来ないと
答えられると、彼らは短剣を抜いて腹を切って死んだ。

暴君らの悪心は益々増長し、この上彼らの希望を延期することは出来ないと、宮殿に火を放つよう命じた。
公方様は外に出ようと欲し、その母と抱き合った。彼女は我等が大いなる歓待を受けた老婦人である。
公方様は火災、及び必要に迫られ、部下とともに戦を始め、腹に一鑓、頭に一矢、背に刀傷二つを受けて死んだ。

公方様の兄弟である、二十歳の青年の坊主(周暠)はその母とももに家に在ったが、(三好勢は)直ぐに
これを殺し、母を捕らえた。彼女の命を助けるべしと云う者、またこれを殺すべきという者があったが、多くの
刀傷を与え、子の側においてこれを殺した。

大身達の娘である宮中の婦人たちは、焼失した宮殿より出てきた所を、兵士たちはこれを斬り始めた。
十五人、乃至二十人が武器を恐れて宮殿の一の家に入ったが、その後火を逃れることが出来ず悉く焼死した。
また数人、外に出た者があったが、兵士たちはその衣服を奪った。その中に王妃(近衛稙家娘)が在ったと
云われるも未だ発見できず、今、刑に処するためこれを捜索し、その居る家を告げる者には巨額の金銭を与え、
またその髪を取って(捕縛して)彼らの前に連れてきた者には一層巨額の金銭を約束した。

公方様の娘二人が、兵士の足下に捨てられていたが、一人のキリシタンがこれを見つけて、救って屋内に
収容することを請うた。
十三、四歳の少年武士は、公方様の面前にて戦を始めたが、叛逆者たちは生きながらこれを捕え、殺さない
ようにと努力した。少年は公方様が死んだのを見て、生存するのは大いなる不名誉と考え、手中の剣を捨て、
短剣を取って少しばかり喉を切り、次に腹に当ててその上に伏した。
最も愛する者よ、これによってこの国民の、生命を惜しまない事がいかに甚だしいかを見るべし。

『一五六五年六月十九日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

永禄の変についてのフロイスの報告。これを素直に読むと、進士晴舎の切腹に激昂した息子の主馬允が
取り囲んでいた三好勢に戦闘を仕掛け、それに三好勢も反撃して戦闘が拡大した感じですね。



408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 15:39:12.60 ID:W9XfORRk
長慶の死亡の秘匿の保持されっぷりはなんなんだろうね
信玄とか秒でばれてるのに

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 16:17:46.24 ID:blxpQOBl
想像だけど、長く臥せていたから死の前後であまり変化がなかったんじゃないかと
信玄なんかは勝ってたのがいきなり撤退してこれからは勝頼が~だもの

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 17:31:21.23 ID:KvZqtLJB
長慶は晩年がアレなんで、政治的には死んでも大した影響が出ていなかったので隠せたのかもしれない。

足利義輝に対する正月の進物儀礼

2020年10月10日 16:04

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/10(土) 00:43:35.73 ID:p7Z90aGV
本年(1565・永禄八年)の日本の新年は、我々の暦の二月一日に当たる。
当国各地においては、月の九日より十五日、又は二十日まで、諸侯は国王を訪問し。進物を献ずる
習慣であり、特に都においては、公方様(足利義輝)は至高の皇帝である故に、この習慣を守っていた。

公方様を訪問する者は、彼に服従しているわけではないが、みな高貴なる諸侯、又は身分高き坊主であり、
その際には各人、我が国の紙に比べて甚だ大きい紙(杉原紙)十帖と金扇を携帯するのが、古来の習慣
である。これらは献上の後、武士である僕がこれを受け取るのが例である。
そして公方様の母、及び后を同様に訪問し、或いは高価なる品、及び武器を献ずる者もある。

王は何人に対しても一言も発せず、ただ収入、及び所領多き数人の坊主に対し、少しばかりその手に
携えた扇を傾けるのみであった。

公方様を訪問出来るのは、その地位の名誉あり、また尊貴なるに因る。身分低き者は、たとえ黄金の家を
贈ったとしても訪問を許されることはない。
パードレ・ガスパル・ピレラはキリシタンたちの幸福のため、并びに異教徒がデウスの教えを軽蔑しない為に、
公方様を訪問する必要があった。また、これを成すことにより、パードレは公方様の保護を受けるに至る
ためにも、一人の大身の武士を介して、年頭にあたって拝謁をした。この人(大身)はおおいに
キリシタンに成ることを望んでいたが、戦争の際殺された。

日本人は外形を整えていなければ、その人を崇敬しないが故に、パードレはこの際、平常のごとくに
していては宮廷に入ることを許されず、主の栄光とキリシタンの幸福のため盛装をする必要があった。
最初の二回の訪問には。法衣と袈裟を着け、頭には朱頭巾を被ったが、他の二回はキモノを着し、
その上にポルトガルの羅紗のマントを着た。

『一五六五年三月六日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

足利義輝に対する正月の進物儀礼について



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/10(土) 08:31:38.87 ID:CvXxK6f+
旧正月か

現在、公方様はただ

2020年09月30日 17:55

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/30(水) 13:07:20.15 ID:y9xqxqNT
日本においては、諸人が日本全国の首である都に居住し、公方様と称する至高の君に服従すること、
(諸記録によれば)約四百年であるが(頼朝開幕より三百八十二年)、本来これに服従していた諸侯が
次第に興隆し、六十六ヶ国に別れるに至った。

現在、公方様はただ威厳の尊号を有するのみで、実力乏しく、他の諸王は少しもその優越を認めず、
またこれを尊敬せず、諸侯は欲をほしいままにして各地の諸侯を服従させ、その国を奪おうとし、
このために戦争が絶えることがなかった。日本に福音の教の平和を植え付ける事への、最大の妨害は
これである。

都には、宗旨の尊位にある他の君がある(天皇)。日本人はこれを日本の頭として、殆ど神の如く尊崇している。

『一五六五年二月二十日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(耶蘇会士日本通信

足利義輝の時代の、室町将軍に対する認識について。



公方家又京都御退座の事

2020年06月02日 18:52

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/02(火) 16:01:22.45 ID:tp5E/GjB
公方家又京都御退座の事

そのころ公方家(足利義輝)は、洛外の霊山に御城構え有るべしとして、今度天文二十一年(1552)十月十七日、
かの山に御普請初めがあった。細川晴元方の浪人である香西越後守元成等は先の三好長慶との和平を用いず、
また悉く蜂起して、同十月二十日、丹波国桑田郡へ打ち入って、細川氏綱方の内藤備前守と合戦し、内藤を
撃ち散らして勝利を得、その勢いで同十一月、丹波の篠口辺りを放火した。この時建仁寺の塔頭も炎上した。

そのような中、三好義賢(実休)がその主君である細川持隆を殺すという事件があり、それより都鄙では雑説が
しきりに起こり、三好長慶と言えどもまたこう言った心があれば、虎狼の野心を挟んで公方家も如何有らんかと、
諸人心安からず、公方家もまた御用心有って、貴賤皆危ぶみ暮れた。

翌天文二十二年の春、正月二十七日、三好長慶は上洛し、伊勢守貞孝と相談して営中洛中の政事を沙汰し、
京都は暫時静謐となったが、猶も人心は安からず、同三月、晴元方の浪人、一揆等が山城国の畑という場所で
蜂起したのを、長慶の執事である松永弾正久秀が馳せ向かって退散させた。

そうした中、三好長慶は摂州の芥川孫十郎が逆心したのを退治の為、同七月、京都を立って多勢で直に
芥川城に押し寄せ、城の向いと成る帯山に陣を取って向城を築き、遠攻めにせんと支度し日を送っていた
所に、この隙を見透かし、細川晴元が上洛して秘計をめぐらせ、様々に公方家に歎訴して長慶の事を讒言
した所、公方家も軽々しく御同意有って、晴元入道、江州の六角父子、その他の人数を催されれ、長慶を
誅伐有るべしとして、和睦は忽ち御改変あった。

かくして晴元入道も再度公方家の権を取って、縁者の六角父子その他所々の味方、譜代の輩、諸一揆を催し
京都に在る三好方の居宅などを一々に焼き払って悉く蜂起した。

この事が芥川へ注進されると、長慶は聞いて
「何ほどの事があろうか。しかし、先ず上洛して事の体を伺い見るべし」
と、芥川城には抑えの勢を差し置き、長慶は自身の人数、並びに河州の畠山高政、安見美作守等
都合二万余人を率いて、同八月朔日、芥川を引き払って直に上洛した。その威勢は辺りを払い、これに対して
中々一戦にも及び難く見えたため。公方家も晴元も早々に京都を開け、近江路へ御没落あり、朽木谷へ
入られた。

毎回のこのような軽々しき御事に、京童共も嘲りあった。この時、もし長慶が追尾して一戦に及んだなら
中々御滅亡疑い無い所であったが、長慶はいつもそういった沙汰に及ばなかった。
そして公方家に従わず京都に残っていた伊勢守貞孝などと洛中平安の政事をし、長慶はまた芥川に帰陣した。

それより公方家は朽木谷に居られたが、晴元や六角義賢の他に味方申す者も無く、次第に御衰微され、
この年の秋より永禄元年まで五年の間ここに御潜居あり、中々長慶を滅ぼされるべき御企ても思いつかぬまま
過ごされた。

續應仁後記

足利義輝二度目の京都からの没落について



103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/02(火) 16:18:05.67 ID:1uSSZG/t
続応仁後記の時点ですでに三好実休之相は名前間違えられてるのか

将軍義輝の帰洛

2020年05月30日 17:08

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/30(土) 13:22:42.00 ID:pexHAR2w
明けて天文二十一年(1552)春になると、去年以来、佐々木六角義賢より三好筑前守長慶へ様々の計議を
廻らせて、公方家(足利義輝)御入洛の義を取り扱い、この春に又、楢崎某を使いとして猶この事を催した。
長慶方よりも、日野上人を使節として色々の陳答有り、徐々に和平が相調った。
この時、三好長慶の申し述べる趣きは

『私は公方家に対し、元より異心はありませんが、私の父の仇である細川右京兆晴元が猶も私を亡ぼそうと
される故に、度々合戦に及び、この時公方家も晴元に一味ましますに依って、私は心ならずも御敵と成った
事は、世の通知する所です。然れども、公方家の御命の危うい時は、私はわざと陣を引き去って忠志を立てた
事多い。

然るにかの晴元は、私の一族である宗三入道(三好政長)の讒言を信じて、亡父海雲入道(三好元長)が
忠功の者であるのに、忽ちに殺された。その恨みは骨髄に徹するものではありますが、元来晴元は主君の
筋目であり、その上、私は武功を以て宗三を討ち取ったので、先ず父の仇は報じたるものであります。

今は、晴元が世に望み無く隠居され、その御子に家督を譲った上でこの長慶に渡されるという事であれば、
三好家が後見してその御子を取り立て参らせます。そうなれば、我等は晴元の御命を失うまでの事は
要求しません。この条件に同心され、晴元が剃髪の姿と成って居館を開かれれば、現在の管領には
細川氏綱を申し成し、右京太夫に補任有らしめ、その後、晴元の御子成人の時、管領職を与奪せしめ、
再度かの御子に京兆の家を相続させ、管領に申すべきです。

この条件を受け入れ、公方家は元のように御入洛され、御政務有るべし。』

長慶が申す趣、愚ならずして、公儀御内談一決の上で、御約条を交わし、和睦はここに調った。
これによって、同正月二十八日、公方家は江州朽木谷を立って御帰洛され、元の如く二條の御所に
お入りに成った。

この時、細川晴元の嫡子・聡明丸(細川昭元)といって五歳であるのを御供に召し連れられ、人質のようにして
三好家に渡された。これは六角定頼の息女、義賢にとっては妹の儲けた一男である。二男は義賢の元に
預かり置かれた。この時、六角義賢も公方家の御供をして上洛し、御帰京の義を賀し申した。

細川右京兆晴元は、心ならずも髪を剃り、永川斎心月一清と名を改め、江州堅田より父子相別れて流浪した。
晴元の家人たちも、思い思いに髻を切り、出家の姿と成った者は八十人余りであった。
主従散り散りに落魄し、皆人に哀れを催した。

さて、三好長慶は日時を移さず公方家に出仕を勤め、洛中に権威を振るった。
同二月二十六日、細川次郎氏綱が上洛有って、故武州禅門常桓(細川高国)の跡目と号し、則ち家督を
相続して管領職に備わると、同三月十一日には右京太夫に補任された。舎弟の四郎藤賢も同日、右馬頭に
任じられ、典厩の家を相続した。誠に栄枯一時に変じ、皆人奇異の思いを成した。

續應仁後記

将軍足利義輝の帰洛について。



信長は京の町衆の面前で

2019年12月23日 18:36

432 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/23(月) 07:50:34.05 ID:njmClHvo
織田信長が若かりし頃の事、尾張統一を果たした1559年、彼は80人の側近を連れて室町将軍・足利義輝との謁見のため上洛する事になった。
その情報を得た隣国の斎藤義龍は好機到来と信長を暗殺するための刺客を選抜して信長一行の後を追わせた。
背後より刺客が迫り来ているとは知らず、京を目指す信長一行であったがこの時美濃からの刺客とは別に、尾張から信長一行を追う者があった。
男色でも知られる那古野弥五郎の配下で丹羽兵蔵と言う侍である。
丹羽と美濃の刺客らは偶然にも琵琶湖を渡る舟の上で鉢合わせ、互いに身の上話をする事になったが、相手の美濃衆を怪しいと感じた丹羽は、三河者を装い巧みに情報を聞き出すと、何と彼らは信長への刺客であると判明。
丹羽は素知らぬフリで京における彼ら刺客連中の宿舎を見定めると、そこに目印(柱を削ったとか)を付け信長一行が逗留する宿舎へ急行。
赤母衣衆の金森長近と蜂屋頼隆に報告。金森と蜂屋が信長にこれを報告した所、信長は美濃の出である金森長近に対し顔見知りも居るだろうから、
彼ら美濃衆に対し信長の元へ「挨拶」に来る様、伝達する旨を命じた。
金森は丹羽に案内され、刺客らの宿舎に向かうと彼らに面会し、暗殺計画が既にバレている事を告げると今なら穏便に済ますから信長の元へ「挨拶」に来る様伝え、刺客らの宿舎を後にした。
刺客らは翌日、今日の町を見物中の、信長と対面。信長は彼ら美濃衆に対し京の町衆の面前で

「この信長を殺しにわざわざ美濃より参った事、祝着至極である。だが、そなたらごときがワシに歯向かうのは蟷螂の斧が如しである。それでもやるかね!?」

と、啖呵を切った為刺客の者達は信長に対して詫びを入れると、はうはうの体で美濃へと逃げ帰ったと言う。

(信長公記)(名将言行録)

余談であるが、丹羽兵蔵が暗殺計画の情報を引き出したのは、刺客一行のなかの最年少の童であったと伝わるが、その方法が如何様な物だったのかは伝わっていない。



434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/23(月) 08:05:55.81 ID:1nldD7ts
>>432
原哲夫に採用されそうだな

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/23(月) 08:39:56.69 ID:z+pALg4m
信長公記の若き信長暗殺計画といえばまとめの2907
信長暗殺計画~比良の奥地に大蛇を見た!~

池の水、全部抜く
みたいな話があったっけ

437 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/23(月) 12:37:50.41 ID:DNuEgi6u
>>434
調べ直したら、30名くらいの徒党組んだ刺客集団を率いる6名の武士(小池吉内、平美作、近松田面、宮川八右衛門、野木次左衛門)に出会した丹羽兵蔵が、ただ事では無いと感じ、三河の人間を名乗って接近するも斎藤義龍の大事な用事とだけ答えて、後は喋らない。
そこで丹羽は賢い子どもを手懐けて、言葉巧みに彼らの目的を聞き出させた後に刺客連中の宿所を突き止め、金森長近と蜂屋に報告。
信長は金森長近を遣わし、金森は旧知の美濃衆に対し信長は君ら美濃衆の上洛知ってるから自分を挨拶に遣わせた。明日返礼の挨拶に来いと伝達。
ビビった美濃衆は指定された京小川表の管領屋敷で信長と対面して、>>432の通りの啖呵を切られてその迫力に黙り込み退散。
その後、信長一行は近江から念のためルートを変えて八風峠を越えて尾張に帰還。と言う流れの様だ。

尊公を一度御代に立てて、三好一族も安堵申したい

2019年07月04日 15:42

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 01:54:58.94 ID:lsPqjLpR
一、天文21年(1552)に阿波国の館・細川讃岐守持隆を、家臣の三好豊前守義賢が討ち取った後は、
  細川の領地はすべて義賢が知行した。三好家はますます威勢を増した。さて義賢は弘治の頃、法体して
  “実休”と号し、五畿内所々に一門を居置いて、おのずから天下の執権を司る。

  しかしながら三好家は細川の家来であることにより、三好の執権を諸国の守護は大いに嫉み、そのうえ
  奢りを極めて我意に任せた故、将軍義輝公も以ての外憎みなさった。

一、三好山城守(康長)・同下野守(宗渭)・同日向守(長逸)・松永(久秀)らが評議したことには、

  「今回の両度の合戦(>>111)はまさしく義輝の御計らいである。そうであるからには我々の行末はしか
  るべからず。深慮を巡らせて義輝を討ち奉り、中国の義冬(足利義維)を都に据え置いて、一族中を心
  安くするべきである」

  と、永禄6年(1563)の秋に三好日向守は周防へ下り、義冬へ申したことには、

  「徳雲院殿(細川持隆)が果てられなさったことにより、ここへ御下向されたことは我々にとって面目
  もなきことですが、しかしながらその折に、我らが実休に組しなかったことは御存じなさることでしょ
  う。実休は天命によって高政(畠山高政)に討ち果たされました。

  さて高政と喜三の両陣は、義輝公の御計らいでございます。実休のことはもっとも悪逆の者なので(義
  維が)御憎みなさるのも道理です。別儀なき我らを御憎みなさることは以ての外です。そうであるから
  には、行末でさえも心安からぬのです。かれこれ時節は到来仕りました。このうえは、三好一家として
  兵を起こし、尊公(義維)を一度御代に立てて三好一族も安堵申したいのです。

  しかしながら尊公が遠国におられては評議もなり難く、まずは阿州へ御帰りなされませ。実休の息男・
  長治は阿州におりますが、かつては幼少でございました。そのうえ父の実休も尊公を疎略には存じてお
  りませんでしたし、また彦次郎(三好長治)は義輝を親の仇と存じていますから、尊公へ少しも別心は
  ありません。早々に思し召し立ちなされよ。そのために一家中より某が御迎えに罷り下り申しました」

  と色々道理を尽くして申したので、義冬は満足なされて早々に思し召し立ちなさったが、「この事を一
  先ず大内介(大内義長)に知らせなければ」との内意があると、大内ももっともとは思いながらも、他
  家の取り仕切りで義冬を代に立て申しては、大内の外聞は良からずと思ったのか、「仰せはもっともで
  すが、私めに存ずる子細がありますので、まず今回は御無用になされませ」と、強いて止め申すことに
  より義冬も日向守もどうしようもなくして、日向守は「罷り上ります」と港まで出て行った。

  義冬は名残惜しく思いなされて、義親(足利義栄)と2人で船着きまで送りなさったところ、三好は船
  から申し越して「今一度申しておきたいことがございます。恐れながら少しの間、船へ御召しなされま
  せ」と申せば、何の思案もなく義冬親子は共に船に乗りなさった。

  すると日向守はかねて家来の者に言い含めており、そのまま船を押し出した。義冬はどうしようもなく
  おられ、折しも順風で難無く阿州に到着して、元の平島の庄に帰る。彦次郎を始めとして三好一家は残
  らず伺候致した。そして日向守は諸事を計らい、領地も相違なく渡した。

――『阿州将裔記』



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 03:31:42.40 ID:ggM6iep6
>>226
永禄6年なら大内義長は死んでますね
年次の誤りか別の誰か?

【雑談】足利義輝謀殺について

2019年06月06日 15:45

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 18:41:52.30 ID:yjPfJm9C
義輝さんて松永久秀から悪人呼ばわりされたこともあるとかなんかで見た
将軍家ってやっぱり少なからず陰謀しないと生きてけないんだろな

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 10:59:20.07 ID:d8YutnuM
>>112
義輝殺しって本当は義輝を操ってた側近を誅殺しようと引き渡しを要求したのに義輝が庇って要求を突っぱねたので攻め落とされたものらしいな

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 13:38:29.79 ID:ARU3QTOf
君側の奸を除くって、一番アレな挙兵理由じゃないですかー

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 14:27:08.64 ID:ktSs7bxg
永楽帝「君側の奸を除くために挙兵したというのに、
建文帝が自殺されてしまうとは、なんということだ」

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 14:34:44.85 ID:4tF7vR8z
>>117
安禄山「楊国忠を排除するための義兵だお」

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 14:43:41.92 ID:ktSs7bxg
今昔物語集巻10第7話 唐玄宗后楊貴妃依皇寵被殺語 だと
安禄山という「心賢く、思慮深い」大臣が
玄宗皇帝が楊貴妃に溺れ、その兄の楊国忠に政治を任せてるのに愁えて
世を正すために宮殿に兵を率いて押し行ったら、玄宗皇帝が勘違いして逃げちゃった
ってことになってるからセーフ

足利義輝の陰謀

2019年06月04日 17:01

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 14:53:53.73 ID:cSFIfsi/
一、畠山右衛門督高政は前将軍の時から牢人して紀州広という所にいたが、将軍(足利義輝)より密かに免
  状を差し遣わし、「実休(三好実休)を討ち取るべし」との由を仰せ付けられた。高政と細川・三好家
  は年来の仇敵である故なり。

  高政は畏まって紀州の諸侍や熊野根来まで借り催し、その勢1万5千余騎。永禄3年(1560)2月
  下旬に紀州を出立し、まず和泉岸和田城を攻めた。これは阿波から実休を誘き出そうとの謀なり。

  岸和田城は実休上洛中の宿りの城で、舎弟の安宅摂津守(冬康)を籠め置いていた。案の定、この由を
  聞き付けて阿波から実休が人数を引き連れ、後巻を仕る。さて久米田という所で一戦に打ち負け、同年
  3月5日に実休自害す。これにより高政はたちまちに運を開いた。

一、その後、和泉の筒井喜三という者は人数2万ばかりで阿波木本という所に打って出て、三好家と度々戦
  うが、ついに三好宗三(政長)に討たれた。これも義輝から喜三方への内意と聞く。その子細はこれほ
  どの大乱で三好左京太夫義誥(義継)は、両度の合戦に虚病を構えて出合わなかった。

  義誥は義輝公の従弟婿であることにより、両陣ともに出立しないようにとの由で、義輝公からの内書が
  あった故である。さて喜三討死の後は、義誥の他の三好家は義輝と不和になったという。

――『阿州将裔記』

史実と合いませんが義輝の策謀を伝えるものでしょうか



112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 18:41:52.30 ID:yjPfJm9C
義輝さんて松永久秀から悪人呼ばわりされたこともあるとかなんかで見た
将軍家ってやっぱり少なからず陰謀しないと生きてけないんだろな

武田の家のあらん限りは

2019年05月23日 17:11

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/22(水) 20:54:19.06 ID:/jjf8gGf
寅の6月24日(永禄9年(丙寅)。1565年)に、信虎公(武田信虎)より同年5月5日の日付で
信玄公へ御書を遣しなされた。その趣きは、

「去る甲子3月に公方光源院殿(足利義輝)へ信虎は御礼申し上げて帰るところで、広縁まで
光源院殿が御送りになられたので、信虎は頭を地に付けて申し上げた。

『武田の家のあらん限りは公方が広縁まで御送りになられる。我が家の系図これなり』

と申し上げ候。しかれば三好は道無き故、光源院殿の御妹婿になった御恩を投げ打ち、去る年
乙丑に、義輝公を討ち奉った。そうであっても、侍のある内は公方の絶えなさることはない。
その心得あるべく候」

と折々信玄公へ信虎公より仰せ越しなされた。「かの強くいらっしゃる信虎公も、御父子の間
だから信玄公に御吉事のことを折々仰せられるのだ」と武田の家老各々は涙を流したのである。

以上。

――『甲陽軍鑑』



大森伝七郎、切死の事

2019年05月09日 17:04

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 12:40:57.59 ID:fz55kaSk
大森伝七郎、切死の事

西岡東村に、公方(足利将軍家)数代の家の子で、大森伝七郎という侍が有った。
御所(足利義輝)すでに御滅亡(永禄の変)の後、隠れる場所もなかったが、かつて抱え置き、
懇ろに待遇していた者が西岡に在ったため、彼のもとに暫く滞在したいと思い、密かにそこを尋ねた。

ところがこの者は、大森が来たことを三好長慶方に知らせた(この頃三好長慶は既に死去している。
三好家が長慶の死を秘匿していたためか)。そこで三好方より薄武左衛門磯上甚六郎の両名に、
上下十人の頑強な足軽を添えて、討ち手として向かわされた。

薄武左衛門磯上甚六郎は到着すると、かの者の家の中に入り、大森伝七郎に向かって声をかけた。
「ここに大森殿が居られると承り、迎えにこの両人が参り候。はやく御出なされよ!」

大森は感の鋭い人物であったので、これを聞くより早く覚悟を据えて、立ち向かって聞いた
「私をどこへ召されるというのか」
三好長慶が探しておられる。はやく出させられよ!」
「それがしは入道(長慶)の元へ参っても何の用もない。また言うべきこともない。よって
参る必要はない。」
「そなたはそう思っているかも知れないが、筑前守(長慶)には尋ねたいことが有るとの事である。
はやくはやく、出て参られよ!」

そう、両名が大森に近付こうとすると、「しからば、いざ参らん!」そう言うと同時に、2尺3寸の
打物(太刀)を引き抜くと、薄武左衛門の頸に押し当て、左側の肩先まで斬りぬいた。
磯上甚六郎はこれを見るや「やるまじ!」と抜き打ちに斬りかかったが、この時二階の竹垂木に箕笠が
下げ置かれており、これを斬りつけてしまい、「あっ」と思い太刀を引く間に、大森はすかさず磯上の
高股を両断し、磯上は戌亥(西北)を頭にして倒れた。

続く三好方の郎党たちは、これを見て「逃さじ!」と斬ってかかったが、そこは茅葺きの小さな家のため
働き自由に成らず、天井が低いため斬り損じ、大森に寄る者は斬られ入れ替わる中、六人が同じ枕に伏した。
そして大森伝七郎

「今はもはや、罪造りにお前たちを殺しても何の意味があるのか。」と、座敷へつと走り上がり、
腹を十文字に切って死んだ。見る人聴く者、「天晴、かかる剛強のつはものを殺してしまった。一騎当千とは
ああいう者の事を言うのに。」と、彼を惜しまぬものは居なかった。
三好長慶もこれを聴いて大いに驚き、思わず手を打って、暫く物も言わなかった。

(室町殿物語)



14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 14:16:57.26 ID:xv5IJncU
>>11
六人「もう少し早く気づいて(´;ω;`)」
まあ武士の意地というもんかなぁ
全員殺しても次の追っ手がきていつかはやられるだろうし

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 14:26:43.35 ID:sLXFenpt
いや義輝死んだし