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蒲生氏郷との関東侍

2013年09月08日 19:05

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 08:15:26.33 ID:uYQMvhav
天正19年…
九戸政実の乱の際、九戸城包囲の陣中でのこと。

蒲生氏郷の陣では、馬を放つ事・喧嘩・大声・抜け駆け等は法度で堅く禁じられていた。
しかし、このとき蒲生家に仕えていた関東侍どもは、そんなことも知らない新参者どもであり、
己の勇気の命ずるがまま、抜け駆けして名を上げ、褒賞に与ってやろうと思ったか、
二騎の関東侍が連れ立って、勝手に城の堀際まで進んで行ってしまった。

これを軍奉行や横目の面々が氏郷に報告し、
氏郷は「志は勇ましいが、法度で禁じてあること故、その者らを切腹させよ」と申しつけた。
二人の関東侍はこれを聞いて津軽勢の小屋に逃げ込んだが、そこまで押し掛けて二人に腹を切らせた。

ところが今度は陣中の車丹波守が同じ関東侍と喧嘩を始め、
頭にきた氏郷は、「関東の奴らほど、法度を守らん連中はおらぬな!」
と蒲生家中の関東侍たちに一人残らず暇を出してしまった。

かの車丹波守は、元は佐竹義宣に仕えた高名な勇士であったが、
その後は蒲生郷可から扶持を受けたということだ(陪臣として仕えるならよかったらしい)。

(氏郷記)より


坂東武者の好き勝手に流石の氏郷も手を焼く、というお話。
ところでこの車丹波、後に上杉家に行くことになるのだが、
そこでも直江兼続に「こんな自分勝手な奴はクビにしてしまえ!」と言われていたりする…
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2935.html)




287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 09:23:28.87 ID:1WybXo7F
車丹波は一夢庵風流記で名前が上がってたね

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 19:00:55.98 ID:HcnRaQ8K
車善七の父親なのか
しかし武士の息子が、いくら役得があるとはいえ非人ってのも不思議な話

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佐竹の秋田転封と南方三十三館

2011年05月03日 00:00

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 18:32:36.45 ID:Refvpm/f
慶長7年(1602)5月8日、伏見城に召された佐竹義宣は、幕府によりその領地常陸の公収と、
出羽秋田への国替えを命ぜられた。

同日、幕府は常陸へも御使を送り、義宣の父である佐竹義重を始め、佐竹家中一同に
その旨を伝えた。

これを受け入れた佐竹義宣に家臣団は大いに反発、重臣、群馬(車)丹波守は面と向かって
彼を諌めた

「我が国の軍兵、4,5万はございます!その上兵糧は、10年は耐えられるほど備蓄があります!
なのにどうして、抗戦すること無く幕府の命に従い、出羽に下ろうとされるのですか!?」

これに義宣

「現在、日本六十余州の中に徳川殿に従わぬものは一人も居ない。我が国の勢をもって
天下の敵となるというのはどう考えても現実的ではない。

それ以前の問題として、我々のために滅ぼされた南方三十三館の残党がまだ国内に多く有る。
彼らがこの時とばかり、主君の仇を報じようと国中で蜂起すればどうなる?
天下の軍への対応どころではない。
そのような混乱の中雑兵の手に懸る様な事態になれば、無念この上ない。

今はただ、兎にも角にも我が家が絶えないようにすることこそ重要なのだ。」

と、同年6月14日、先祖伝来の地を去り秋田へと入ったのだという。
(藩翰譜)


南方三十三館仕置の問題が、佐竹の秋田転封にも影響を与えていた。と言うお話。




983 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/02(月) 20:23:26.13 ID:nq/zLnX9
まだ幕府は出来てないよ

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 20:32:06.10 ID:Refvpm/f
すまん。便宜上幕府としたが「徳川公儀」とでも脳内変換してくれ。