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一向他国の風を似せ申間敷

2021年10月24日 16:07

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/24(日) 13:40:41.53 ID:ennThT4i
島津義弘公は若い頃、寒中に生竹を枕元に置かれ、毎朝目覚めると同時にその生竹をひたと握って
剛毅の気象を養成されたそうである。公の御意にも

「他国の風に似せてはならない。人の身成は国の風儀である。軽薄な所に心を寄せてしまえば、
正直も大仰に成り行くものだ。」と仰せに成られた。また、かねがね御側衆に向かって

「郷談(他国風、都風の言葉遣いのことか)を使い、他国の風を真似る時節ともなってしまえば、
薩州は則ち弱くなるだろう。
今日の勢いに於いてはたちまちに郷談流行し、身内までも余所者のようになるだろう。」と仰せられた。

義弘公の時代には、「一向他国の風を似せ申間敷」旨、上洛する諸侍は誓紙を差し上げたということである。

軍神島津義弘公



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仁愛を以て衆を率いるに若かず

2021年10月20日 18:00

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/20(水) 17:08:03.84 ID:OZ7buXZc
ある時、島津忠恒公より、父・義弘公へ申し上げられた。

「当国の諸士は我儘であり、触れ渡した事であっても間々背いてしまいます。
最近、私は上方に上った折に、他国の風を聞き申した所に、福島左衛門大夫(正則)などは
背く者には死罪を用いている故に、何事を申し渡しても家中の皆々畏まって受け入れるそうです。
当国も見せしめとして二、三人も成敗申し付けてはいかがでしょうか。」
そのように御相談された。すると義弘公の御返答に

「尤もな事を申される。ではあるが、私は悪しき者を見出すほどの横目を持っていないので、
御身もよくよく気をつけて、そういう人物を見出すように。私も気をつけて見出すようにしよう。

さてまた、福島左衛門大夫の事を申されたが、彼はきっと一代にて家が断絶するだろう。
諸人に死罪を当てて恐れさせるよりも、先ず我が身の行いを正しくし、仁愛を以て衆を率いるに若かず。」
との御意であった。

軍神島津義弘公



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/21(木) 22:12:23.94 ID:OldyoVL2
>>703
父親の忠言などどこ吹く風だった忠恒の悪い話かな?

殿様、お召し上がりください

2021年10月17日 16:25

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/17(日) 13:14:14.09 ID:bbP7T4U9
島津義弘公は、関ヶ原御退き口の砌、ある山中へ差し掛かった折に召し上がるものが全く無く、
従臣一同当惑した。中馬大蔵は夜に入って白坂大学坊と共に山中を忍び出て、付近の民家に押し入り、
若干の餅を徴発して来た。公は手ずからその餅を切って、悉くこれを従臣たちに分け与えた。

これを見て御側衆より「殿様、お召し上がりください。」と申し上げたが、公は頭を振って
「私には未だ干飯も残っている。各々などは私を大事に思ってくれているからこそ、このように
付き従って帰国するのであるから、もしも各々が草臥れては私が難渋をするのだぞ。」と
仰せになられ、如何に御勧め申し上げても、この餅の一切れも召し上がらなかった。
大蔵を始め御供の面々は、有難さに涙に掻き暮れ、暫くその頭を上げることが出来なかったという。

軍神島津義弘公



695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/17(日) 13:30:19.39 ID:HzHAbcB0
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-391.html
中馬大蔵、島津義弘の兵糧を奪う・悪い話


中馬さん「殿様はいざという時切腹するだけの体力があればいい
この馬の肉は駕籠を担いでいる我らが食うべきだ」

こっちの逸話の方が有名だけど真相は

寺は人を救けるために

2021年10月16日 15:17

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/16(土) 00:11:20.52 ID:MYzB5DE6
島津氏領内の寺院には、従来山門が設けられていなかった。
そこで島津義弘公の時代に、「山門が無ければ盗難の禍が有り、ついては何れの寺院も山門を建立すること
勝手たるべき。」旨の御許を受けたいと願い出た。

公は一応、その願いを聞き届けられたが、「ただし、寺は人を救けるために建てられたものである。
門を立てれば、人に追いかけられるなどして寺を頼み来る者に不便が多いだろう、であれば、門を
閉めても寺に入れるように、門の戸に添柱を立てて、これを登り越せるように致せ。」
との御諚であった。

そこで薩摩藩の寺院はその後、山門に添柱を立てて、横木を入れる事となった。
こういった事は他藩の寺院には絶えて無き事である。

軍神島津義弘公



老鼠死而猫憂

2021年10月13日 16:08

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 13:19:07.11 ID:vp1BtXuF
加藤清正死去の報が薩摩に伝わると、島津義弘の御家老衆は御居間に伺候して、目出度いことであると
祝辞を申し述べた。すると義弘公は以ての外の御不興にて、突と奥に入られた。皆々その御心底を
解しかねて当惑していた所、公は奥より御書付を持って出てこられ、それを近臣一同へ下し置かれた。
列座の諸士が恐る恐る拝見すると、そこには一枚の奉書に

 老鼠死而猫憂

との六文字が認めてあった。
これは清正存生の間は、この方にも備えが有ったが、彼が死んでしまえばそういった心がけも薄くなって
しまう事を、深く憂慮するとの御意を顕されたものであった。

軍神島津義弘公



670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 13:55:02.26 ID:zU7uTRPh
書状からもだけど
島津ほんと清正のことだいっきらいよね

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 22:57:42.30 ID:l1O4yBxb
>>670
それだけ清正が島津から見て優秀だったって事かね?

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:01:49.18 ID:JEQYkWX+
庄内の乱なんかでも清正が裏で画策してて家康から確か怒られてるし
関ヶ原の後も兵寄せていつでも攻められますって状態にしてたんで、表に裏に清正は島津に攻めたかったんだろな感
唐入りで領内財政傾いてたようなんで、隣国攻めて改善したかったのかもね

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:23:33.58 ID:1Mbk+OEt
隣の外様は潰したいでしょ
島津なら攻めても幕府に怒られないだろうという読みもあったのでは

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 03:05:32.35 ID:qyPo8WuQ
>>673
もっと後の西南戦争で、熊本城攻めに苦労した西郷どんが「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」って言うくらいだし

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 06:58:07.60 ID:UqMma+8p
武士が農兵に負けたからって惨めな言い訳だなあ

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 10:21:47.09 ID:tCMgCT74
それだけ城の縄張りが優れてたってことかな。
あと装備も違うだろうし。

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 11:29:38.38 ID:MtEDOuhq
近世城郭を近代兵装で破れないわけないから単に装備が不足だったってことだよね
そうは言えないから清正公にやられたってだけで

ところでこの話しは俺は司馬遼太郎の小説でしか知らんのだけど、司馬が引いてきた原典はなんなんだろ

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 15:54:05.97 ID:qyPo8WuQ
>>683
原典はともかく、薩摩人がこれを聞いたら「なら仕方ないな」って思ってしまうような空気はあったんだろうなと思う

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 16:02:17.43 ID:ClkTPPgG
創作でなければ、肥後の諸隊の誰かじゃないの、佐々友房とか

戦線を下げるにあたって見捨てた旧肥後藩士の歓心を買う必要もあったろうし
もともと熊本城は先祖菊池氏の旧跡で、薩摩藩の敵でもあった清正を
旧薩摩藩士の前で持ち上げる理由はなさそう

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:20:53.63 ID:s+R41qBP
清正は江戸時代になんの脈絡もなくお話に出しても盛り上がるくらい人気あるキャラになってたみたいだし、スーパーヒーロー化されてそう

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:22:25.04 ID:JgA33ZBN
出陣するとキヨマーコールが起こってたらしいな

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:07:04.53 ID:TyVjd+04
さしたる用もなかりせば、これにて御免
は義経だけかと思ったら清正もか

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:17:40.74 ID:9xaF32fH
清正は熱心な法華教徒だったことから、死後早い段階で
法華宗の守護神みたいに受け取られていたらしく、それが
江戸期の人気のベースに成ったらしい。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:46:27.96 ID:RaZ70FYM
そうかそうか

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:52:15.88 ID:X49hgEcq
ホーホケキョ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/16(土) 06:32:38.56 ID:TFPoCrbq
>>689
清正が生前に描かせた肖像の下書きが没後すぐに法華宗寺院に納められ、早くから御神影として拝まれていたというから
当時の法華宗信者には清正が自分達のヒーローであり死しては同じ宗旨の自分達の守護神となってくれると期待されたのは間違い無い。
ただそれとは別に熊本地域のみで清正人気は高かったらしく、清正神格化は日蓮・法華宗が全国的だが熊本だけ単に神として江戸時代神社に祀られた例もある。
全国的な清正神格化は明らかに日蓮・法華宗の影響だが、熊本単独での神格化は他県の人間には正直わからない。

明日は一緒に討ち死にじゃ

2021年10月10日 17:39

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/10(日) 00:23:46.01 ID:I/RT7GDO
島津義弘公が高麗在陣の砌、肥前の五島家より『兵糧が切れてしまったので貯穀をお貸し下されたい。』
との旨の申込みが来た。実はこの時、薩摩の陣中にも余分の貯穀は無く、僅かに三日間を支え得る
のみであった。そのため、家老衆をはじめ諸人皆、これを断るべきだとの旨を談合した。

しかし義弘公はこの事を聞いて頗る残念に思し召され、直ちに老臣を召されると、言葉厳かに言った

「偶々、武士が頼みに来たのに兵糧無しと返答するというのは、義理に外れている。
少しであっても遣わすように。明日は一緒に討ち死にじゃ。」

そのように仰せに成り、御家老衆も是非無く、貯米の半ばを割いて五島家へ送ることとした。
この時薩摩の陣中では

 五島若衆は浜千鳥
   みめはよけれど磯せせる

と、歌い囃したそうである。その後三日を経ない内に、本国より兵糧船が到来して皆々愁眉を開いた。

軍神島津義弘公



656 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 09:40:58.99 ID:WUvroWhc
どの程度必要だったのかというとこだが、まとめ過去のこれだと、五島家の軍勢は実戦部隊160人、輸送下働きが300人ってとこか

立花統虎(宗茂)8万国・(高橋)統増2万国に対する軍役等
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12691.html

658 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 23:19:07.78 ID:WUvroWhc
>>655-656
島津軍のあくまでも史料上の参戦当初の数値では総勢10800ね

659 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 23:21:05.45 ID:WUvroWhc
もちろん、自家よりはるかに小勢だから気前よく分けてやれよってお話でもありませんが

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 17:10:10.65 ID:QttkdCRV
まあ1万人の3日分で9万食分手持ちがあって、500人の同じ3日分で1500食分分けるなら
1.66%だから少し分けてやって恩を売っとくか、みんな少なめに食べとけとなるが

半分もやったんかーい

あれこの当時って1日2食だったりするか?

663 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/11(月) 20:48:03.95 ID:VItcYL67
>>662
江戸中期辺りから庶民が徐々に三食取るようになりだした。社会の安定化と米供給の安定・都市の肉体労働的職務の発達で自然と三食へ変化したらしい。
でも上流階級は基本三食取ってた訳でなく結構後まで三食というより二食と中間のオヤツ程度で、戦国時代なら上流低層問わず二食が普通で三食取る事自体無かった。
だからこの逸話の時期なら多分二食。

更に主従の区別も無いほどであった

2021年10月03日 16:29

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/03(日) 15:22:34.27 ID:BDVYgDQG
島津義弘公が高麗在陣の砌、綿入れ二枚を重ね着していた者をご覧になって
「男児たるものがそのように大着をするものではない!」
とお叱りに成られた。そのため出征の将士たちは、皆綿入れ一枚で羽織も着ず寒さを凌いだそうである。

また寒中滞陣の砌は、陣小屋に大囲炉裏を長く拵え、それに火をいっぱいに焚き、何れも両方より
足を差し出して、火に当たりながら夜を明かすのを例とした、義弘公もこの時ばかりは、
味方の雑兵と一緒に打ち交わって火に当たられ、更に主従の区別も無いほどであった。

加藤清正がこれを聞いて、「薩州は平生主従の区別無きまで親しみ合うが、一旦表立つ場合には
君臣の礼儀がしっかりと立ち分かれる事、実に以て感心の外無し」
と誉めたそうである。

軍神島津義弘公



ささ、存分に飲み候へ

2021年10月01日 17:02

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 20:45:03.75 ID:h5Dj7Yx0
島津義弘公が加治木在城のみぎり、御殿の語普請が有った。
その日は冬の最中で、北風強く吹きすさび猛烈な寒気で、耐えられないほどであった。
しかしながら義弘公はこの寒天にもかかわらず、折々作事場に出てこられた。

その時、御普請奉行である白尾帯刀は、今義弘公がその背後に居ることも知らず
「この寒天に御老人様が折々御出になるなど無用の儀じゃ!」
と独り言をした。

が、俄に気付いて後ろを振り向くと、何ということか、義弘公は仁王立ちに立ってその大きな目を
ぎょろつかせておられた。
白尾帯刀は即座に飛び下がって地面に平伏したが、義弘公は何事も仰せに成らずそのまま御居間に
入られた。

しかし、やがて使者を以て帯刀を召された。帯刀は「御手討ちであろう」と覚悟して、是非無く
御前に罷り出ると、どうしたことか義弘公は殊の外上機嫌で
「この寒天に大義である。」
と仰せになり、児小姓に命じて大杯を持って出させ、帯刀に向かって
「今日は一段と冷える。ささ、存分に飲み候へ」
と、この大杯を帯刀に下された。

軍神島津義弘公



643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 21:26:49.19 ID:IiZBsJ25
大工接待の逸話だけではなかったのか。

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/01(金) 07:50:00.94 ID:gEbcyYW5
>どうしたことか義弘公は殊の外上機嫌で
ここの理由が知りたいところだけど、この逸話が出来たときは書かなくても分かるような理由だったのかな