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伊達の加勢

2021年09月14日 18:45

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 15:06:35.11 ID:q8uyA47f
慶長出羽合戦、始め最上義光上杉景勝の大軍が押し寄せると聞いた時、子息修理太夫家親に申された

「この度、直江山城守(兼続)大将にて四万余りの軍兵を引率し攻め来たるという事であり、
敵勢は定めて、雲霞のごとくであろう。
私は山形の城を以て。出来る限り防ぎ戦い、叶わずば腹を切る。その方は早々に奥州岩手沢に赴き、
加勢を伊達政宗に乞うように。

但し、我が姉(義姫、実際には妹)は政宗の実母であり、その方と政宗は従兄弟であるのだが、
先の鮎貝藤太郎(宗信)の事で政宗との関係が悪化し多年となっている(鮎貝宗信謀反事件)。
既に弓矢も数度に及んでおり、伊達家も我々に加勢する事は中々合点しないとは思う。

しかし政宗も関東方無二の味方であるのだから、私からの要請を聞く時は、関東(家康)の後聞を憚り、
加勢すること必定である。
その内に山形が落城すれば、私は討ち死にする。その方は生き残って、家名を相続するのだ。
父子が一所にあって討たれるなど、言い甲斐もない事だ。」

そう言って今生の暇乞いの盃を取り交わし、家親は馬に打ち乗って奥州岩手沢を指して駆けた。

九月八日、岩手沢に到着して政宗に対面した。家親は言った
「この度、関東の御下知により義光も軍兵を催促し、米沢口より会津に取り掛かるべしと支度をしていた
所に、治部(石田三成)が大阪に討って出て、京都、畿内がこれに一味し、伏見の城を攻め落とし、
既に治部の先勢は美濃口に充満しているとの事で、関東の御勢は会津攻めを止められ、江戸に引き入り、
上洛されました。これによって直江山城はその利に乗じ、この隙を伺って、四万余りの軍兵にて近日、
最上を攻め潰すべき支度をしているとの情報が申し来ました、そのため味方にも数ヶ所の砦を構えさせ
待ち受けていますが、大敵であれば、此の方が打ち負けること必定です。

事新しき申絛ではありますが、貴殿の御母堂は我が叔母であり、従兄弟のよしみ浅からず。
然れども先年の鮎貝藤太郎の事により、伊達・最上は確執に及び敵味方となり、数年争いましたが、
これは頗る本意では有りません。

この度直江が最上を攻め平らげれば、則ち、さらに下湯の原にかかり、岩手沢に取り掛かること、
隴を得て蜀を望むの勢いはとどまることは無いでしょう。これはいわゆる、唇亡びて歯寒しという
警句です。

今度、多年の宿意を咎めること無く、加勢を出され、最上の急難を救われれば、外には関東への奉公、
家は一家を救う所、名実ともに全き所であります。
正に今、最上は大事に及んでいます。貴殿が加勢されず、直江が最上を攻め取れば、一体何の面目が
あって、御所(家康)に見えられるのでしょうか?」

このように理を尽くして申されると、政宗もこれを聞いて「尤も至極」と同心し、
「追っ付け、加勢を出すので、貴殿は父義光と一所に、山形を持ちこたえるように。」と家親を反し、
則ち最上へ加勢を差し越した。
(中略)
政宗総軍は旗の紋に、琵琶の図を書いた。『我は琵琶なり。敵ひけ。』という事である。

近世軍記

慶長出羽合戦に於ける、最上から伊達政宗への救援要請について



525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 18:41:05.76 ID:Ovha0XjA
今となってはいろいろ突っ込みはあるが一番は家親じゃなくて義康の誤りか
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諸人は秀康卿を褒め奉った

2021年09月13日 17:32

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/13(月) 14:35:51.44 ID:mazs0ERa
石田三成らの挙兵を聞き、徳川家康が小山より引き返した時、
結城少将秀康卿は宇都宮の御陣を召し、会津の上杉景勝に対する押さえとして置かれた。

この時景勝は長沼に在ったが、御所(家康)が小山を引き払ったとの情報を聞いて、
彼が長沼を打ち立ち、七万余騎にて江戸を指して切って上がるという内容の雑説がしきりに
流れた。那須七党の人々も、景勝が討って出てきては矢も盾もたまらない事で、とんでもない
事だと日々に騒いだ。

秀康卿は当時二十七歳であったが、勇猛さは御父家康公、御養父秀吉公に似られたのか、
使者二人を景勝に遣わされ、

『この度京都大乱に付き、家康公はこの表を引き払い上洛されました。留守居として私はここに罷り有ります。
安閑として日を送るのは待遠ですので、貴殿と一合戦仕りましょう。
御同心であるのなら、私がそちらに取り掛かるか、又はそちらから此の方に御出馬されるのか、
御返答次第にいたしましょう。』

このように仰せ遣わされた。景勝はこの返事に

『御使、忝なく存じ候。
我らは輝虎以来、人の留守に仕掛たことはありません。御所が御上洛に付き、御留守として貴殿が
御在陣との事ですが、何にしても似合の用事を承るものです。

一戦の儀は、重ねて御所がこちらに出張なされた時に、先手をなさって下さい。
その時、一戦仕りましょう。
只今、御所御留守の間に若き人が居る所に取りかけるような事は、中々思いもよりません。』

と返答した。すると此の頃の雑説はたちまちに止み、諸人は秀康卿を褒め奉った。

近世軍記



521 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/13(月) 17:26:54.04 ID:LSVUugA4
>>520
坊ちゃんはお呼びじゃねぇ
親父が戻ってくるまで大人しく留守番してろ


と、暗に言われてるようにしか見えん。
花の慶次でも秀康が景勝に挑もうとして袖にされるこの通りの話あって秀康が凄く悔しそうに戦するんじゃぁ!って出て行こうとして止められてたけど、景勝にしても面白くないよなぁ

522 名前:羊羹録 ◆cA7oIM8fok [] 投稿日:2021/09/14(火) 12:21:06.87 ID:ytdXkE9W
>>521
景勝・・・百姓一揆であわわ
兼続・・・最上のロートル兵にあわわ
慶次・・・最上のロートル兵にあわわ
秀康・・・余裕
政宗・・・(最上領にいる)ママ大丈夫かな?
小十郎・・・最上も上杉もどちらも潰し合わねーかなー

と言うのが実情

524 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/14(火) 16:38:24.04 ID:3LbuLjP1
>>522
>景勝・・・百姓一揆であわわ


慶長出羽合戦とその前後、上杉家は二手に分かれて最上領を侵略しながら一揆勢も相手にしてたの?

裏切りは御免候へ

2021年09月12日 16:14

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/12(日) 14:45:20.23 ID:ofsTfoaa
蒲生秀行と申すのは、童名は鶴千代、その後藤三郎と号した、蒲生氏郷の嫡子である。
家老・蒲生四郎兵衛(郷安)の所業により家中が二つに割れる、大きな騒乱が起こった(蒲生騒動)。
その咎により、百二十万石の会津を召し上げられ、ただ十八万石にて宇都宮に移されたため、
譜代の侍共の多くが会津に残り、新たに入部した上杉景勝に召し抱えられた。

そして徳川家康による会津征伐が行われると、秀行は密かに、自筆の書状を使者に持たせて
会津に残る元蒲生家の侍共に遣わし、このように伝えた

『お前たちは何れも、元々は蒲生家譜代の侍である。一旦上杉家に付いたといっても、
きっと旧恩を忘れてはいないと思う。

この度、お前たちには秀行に対して、宇都宮が関東方の一の手先である事を以て、関東の先手で
あるとして向かってくるのではなく、昔の契を思って、景勝を裏切ってほしい。
それ私にとって本望であるし、その上に大分の恩賞を出す。』

これに対し、栗生美濃守(初めは寺村平左衛門)、岡野(岡)左内、志賀与右衛門、布施次郎右衛門、
外池甚五右衛門、小田切所左衛門、高力圖書、安田勘介、北側圖書、等は何れも秀行の直書を
拝見し、返状を送った。その内容は

『思し召しの所、誠に以て浅からず、忝なく存じ奉ります。
さりながら古より申し伝わる事にも、人の禄を食む者は、その人のために死すとあります。
古主の御恩浅からずと申しながらも、差し当たって上杉の恩を受けながら裏切ることは
罷りなりません。殊更、景勝は現在天下を敵として受けられ、危ういことは目前に見えます。
こういった時に挑み、二心を差し挟むというのは、武士の恥辱です。

ではありますが今後御一戦に及んだ時に、秀行様が御難儀に及ばれた所を見かけた場合は、
我等は何れも馬を控え、進むこともしないでしょう。どうかこれを御恩報と思し召しになり、
裏切りは御免候へ。』

これを見た秀行は感涙を流し、聞く人も皆称嘆した。

近世軍記

左様のうつけたる同類に

2021年09月10日 18:08

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 16:24:19.47 ID:Y2Q3SaZT
堀久太郎(秀治)が越前から越後へ入部した折り、家老の堀監物(直政)より国中に触れ渡し、
当年の年貢を納め取ろうとした、
この時百姓たちは言った

「時分は既に冬になっています。年貢の半分は既に、転封された上杉殿に納めていますので、
その分を納めることは罷りなりません。」

そこで監物方より上杉家の直江山城守(兼続)へ申し遣わし
『納め取られた越後の当年貢半分を、こちらに返されますように。』
と伝えた。直江はこの返答に

「久太郎殿が越前を出られる砌に、越前の当年貢半分を納め取っておくべきでした。
会津領においても、前の地頭である蒲生秀行は当年貢半分を納め取った上で宇都宮へと移られた。
そのため(上杉)景勝も会津に移って、その残り半分を納めました。
越後に於いて納めた半分を、返納するいわれはない。」

そう言って堀監物の要求に肯かなかった。
しかし監物は重ねて使者を以て、

『越前の当年貢は残しておいて蔵に納め置き、公儀へと差し上げたのです。
ですので越後半分を戻されますように。』

と乞うたのだが、直江は笑って

「越前の年貢半分を納め取らなかったのは、監物の誤りである。
左様なうつけ者の同類に、我々が成る事はない!」
(左様のうつけたる同類に、此方には罷りならず)

そう嘲り愚弄した。そのため、堀監物はこれを根深く遺恨に思ったという。

近世軍記

そういえば堀家が移った後の越前北ノ庄城には、当初小早川秀秋が入る予定だったな。



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 18:04:38.61 ID:21GKIKTf
そういう決まりがあったならともかく、公儀へ年貢渡す前に上杉と調整してなかった堀のミスだな

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 20:14:16.94 ID:0w+T8jRj
年貢については通例で国替えの時はそうするってなってた筈
ただ黒田と細川も同じ事で揉めてるし(黒田が持ち逃げ)
その時に細川から提訴受けた家康は裁定しなかったので
法で決まってた訳ではない模様

ちなみに黒田が移る先の小早川も持ち逃げしてたので
黒田が持ち逃げしてなければ黒田も困ってた
細川や堀の脇が甘いといえば甘いか

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 23:02:29.70 ID:KX7wPrkn
黒田細川堀と、ガメツもといしっかりしてそうな家が被害者側なのがなんか面白いな

33 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 23:45:05.05 ID:z9qVs5NZ
まぁ堀家は名人Q太郎じゃなくて若年の二代目Q太郎だし舐められてたのかも知らん

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 10:57:35.23 ID:jXOTE7+0
この話し一年分持ち去ってたのかと思ってた

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 13:18:11.10 ID:7XTJHesh
正直年貢持ってかれたどうこうよりも、秀吉に朱印状で全員会津へ連れてくよう言われた上杉家臣が残ってる事のがよほど堀からしたら問題よね
実際乱になった際に上杉が煽って一揆起こしてたし

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 16:50:23.87 ID:jWvq4BOh
農民は一切連れて行くなだから帰農されるとどうしようもないし

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 16:58:15.14 ID:9KDPLPok
いやー、家臣全員連れてくよう言われたんですけどーたまたま家臣たちが一斉に帰農しましたー
ってさすがに無理があるくない?

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 19:31:52.06 ID:YwIdib8P
上杉の遺民一気ってだいたい越後風土記が元の記述?
堀毛の家譜とかにも載っている?

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 19:34:40.46 ID:YwIdib8P
地元が蜂起に参加していたらしい記述見かけたんだけど
該当箇所が見当たらない

40 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 20:55:43.02 ID:hllB7l4p
( ●Д`)y━・~~ 旧臣使って一揆の煽動とか酷い奴も居たもんだな

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 21:03:35.30 ID:u236VH5d
輝元「どこのどいつだよ」

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 21:31:43.99 ID:WBGVVljn
>>40
お前はネズミ汁でも喰ってろ

43 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 23:11:53.00 ID:MGyRhaXZ
上杉謙信・山内忠義・島津義弘・福島正則「イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!(エンドレス)」

44 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 23:16:41.44 ID:hllB7l4p
>>43
母里太兵衛「ウェーイ!」

蒲生氏郷は藤原房前の大臣六代の嫡孫

2021年09月07日 18:08

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/07(火) 17:03:23.04 ID:3jQ6lCF7
蒲生氏郷は藤原房前の大臣六代の嫡孫、鎮守府将軍俵藤太秀郷の後胤である。

永禄十一年に織田信長公は江州に討って入り、佐々木(六角)を攻め傾けられた時、
氏郷の父である蒲生兵部太夫賢秀が信長の味方に参り、子息鶴千代十三歳の時、証人として
信長へ進じると、近習に伺候され、奉公した。

彼は他と異なるほど利根発明であったため、信長の御意に叶い、ある時宣われた、
「汝が眼晴は常ならない。おそらく只者ではない。我が婿にするぞ。」
と、契約された。

元亀元年、信長が越前国に発馬の時、氏郷は十五歳にて鑓を合わせ高名を成した。これが初陣であった。
その後濃州岐阜の城にて元服あり、その頃信長は弾正忠であったため、「忠」の字を給わって、
蒲生忠三郎賦秀(または教秀)と名付けられた。
秀吉公の代に至り、「秀」の字を憚って氏郷と改められた。
元亀元年の初陣より文禄四年まで、氏郷自身の高名は三十六度であった。

太閤秀吉の時、氏郷を羽柴飛騨守参議宰相に叙任された。初めて南伊勢五郡十二万石を領した。
その後数度の忠戦、秀吉公の感心斜めならず、その賞とりて奥州会津七十万石を給わり、また
奥州での軍功によって二十万石の加恩地が下され、それらを合わせて百二十万石となった。

しかし、石田三成が企んだ如く、関白秀次公を思いのままに亡ぼしてから、直江兼続との密談の通り
蒲生氏郷を失わせる事を図って、文禄四年の春の頃、瀬多野掃部と内通し、能く示し合わせて
氏郷を掃部の茶の会盟に招き酒を勧め、毒を飼った事によって、同年二月七日、氏郷は四十歳にして
俄に心身悩乱し逝去されたのは、いたわしいことである。

近世軍記

氏郷の通称の忠三郎が、信長の官途名の弾正忠から、というのは珍しいパターンの気がするのだけど、
こう言った例って他にあるのかな?

参考
思いのままに謀を廻らせた


豊臣秀次の切腹

2021年09月06日 17:11

16 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/09/06(月) 14:57:33.61 ID:rIgZ8UGP
文禄四年、秀次事件の勃発により、秀吉の嫌疑を受けた豊臣秀次は高野山に登り、法体にならせ給い、道意居士と
申された。供奉の人々もみな髻を切って、偏に後世を祈り、上使を今や今やと待っている所に、
福島左衛門大夫(正則)、福原左馬助(長堯)、池田伊予守(秀雄)を大将として、都合一万余騎が、
七月十三日の申の刻に伏見を立ち、十四日の暮れ方に高野山へ到着した。

三人の上使は上人の庵室に参ったが、そのころ入道殿(秀次)は大師の御廟所に詣でようと奥の院に
居られ、木喰上人よりこの旨が伝えられると、すぐに下向され三人の上使と対面された。

左衛門大夫は畏まって、御姿がすっかり変わられたのを見て涙を流したが、これを入道殿はご覧になって
「いかに汝等は、この入道の討手に来たのだな。この法師一人を討つために、事々しく振る舞うものだ」
と仰せになると、池田左馬助畏まって「さん候。御介錯仕れとの上意に候。」と申した。
これを聞くと秀次は

「さては我が首をお前が討つつもりか。いかなる剣を持っているのか。入道も腹切れば、その首を
討たせるためにこのように太刀を持っているぞ。汝等に見せよう。」と言って、三尺五寸ある
金作りの御佩刀をするりと抜き、「これを見よ」と仰せになった。
これは池田左馬助が若輩でありながら推参を申すと思われ、重ねて物申せば討って捨てようとの
ご所存のように見えた。
秀次公の三人の小姓衆は、御気色を見奉り、『上使たちが少しでも動くようなら、中々秀次公の
御手を煩わせるようなことはしない』と、互いに目と目を見合わせて、刀の柄に手を掛けて控える
その形勢は、いかなる天魔・鬼神も退くように見えた。

入道殿は御佩刀を鞘に収め、「いかに汝等、入道がこの時に至るまで、命を惜しんでいると、
臆しているように思っているだろう。これまでの路において、如何にもなるべしと思ってはいたが、
上意を待たずに相果てれば、『やはり身に誤りがあったからこそ切腹したのだ』と、それに連座して
故なき者共が多く失われる事の不憫さに、このように長らえている。

しかし、今は最後の用意をしよう。私は故なき讒言によって相果てるのであるが、仕えている者共は
一人も罪ある者は居ない。この事を秀吉公の御前に宜しく申し上げ、この入道の供養として、命を助け
得させよ。面々、頼むぞ。」
と宣われたのは、有難き御心底であると一同感じ入った。

それより座を立たれ奥に入られたが、ここで木喰上人を始め一山の衆徒会合して、三人の上使に向かい
「当山七百余年以来、この山に登った人の命を取ったこと、更に無し。一旦この事を秀吉公に言上し、
御願い申し上げる。」と、大衆一同が申したが、上使の三人はこれを聞くと
「そういう事ではあるのだろうが、とても叶うまじき事である。」と再三断り、衆徒たちと問答となった。
衆徒の意見が止まらない中、福島正則が進み出て言った

「衆徒の評議、尤も殊勝であると私も思う。さりながらこれ以上時間がかかれば我々も秀吉公の御勘気を
蒙り、切腹しなければならなくなるだろう。そなたたちが是非にも言上すべきと思慮しているのであれば、
まずこのように申している私を、各々の手にかけて殺すべし。その後は心次第にせよ。」
そう、膝を立てて申し直された。

17 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/09/06(月) 14:58:17.28 ID:rIgZ8UGP
その夜はこの評議に時移った。翌日の巳の刻頃(午前十時頃)、入道殿は付き従っていた人々を
召されて、「汝等これまで来たる志、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、五人、三人が
最後の供をするのも前世の宿縁なのだろう。」と、御涙を浮かべられ、三人の小姓に対し
「どうしても若者であるから、最後の程も心許ない。その上私が腹を切ったと聞けば
雑兵共が入り乱れ、事騒がしく見苦しい状況になるだろう。」

そう言って、先ず山本主殿に國吉の脇差を下され、「これにて腹切れ」と仰せになると、主殿承り
「私は御後にこそと思っていましたが、御先へ参り、死出の山、三途にて
倶生神(が生まれた時から、その左右の肩の上にあってその人の善悪の所行を記録するという二神)に
路を清めさせましょう。」と、にっこりと笑い戯れた様子は、悠々とした態度に見えた。そして
かの脇差を推し頂き、西に向かって十念して、腹十文字に掻き切って、五臓をつまみだした所で、
秀次公が御手にかけて討たれた。この年で十九歳であった。

次に岡三十郎を召して、「汝もこれにて腹切れ」と、原藤四郎の九寸八分あるものを下された。
「承り候。」と、これも十九歳であったが、さも神妙に切腹すると、また御手にかけられ討たれた。

三番目は不破万作であった。これにしのぎ藤四郎を下され、「汝も我が手にかかれ。」と仰せになると、
「忝なし。」と、御脇差を頂戴した。生年十七歳。当時、日本に隠れ無き美少年であり、雪に見紛うほどの
白き肌をおし肌脱ぎ、初花が漸くほころぶ風情であるのを、嵐に吹き散らされる気色にて、弓手の乳の上に
突き立て、馬手の細腰まで曳き下げたのをご覧になり、「いみじくも仕りたり。」と太刀を上げると、
首は前に落ちた。

誠に彼等を人手にはかけないと思し召す、その御寵愛の程こそ浅からぬものであった。

そして入道殿は立西堂を召して「その方は出家であるのだから、誰が咎めるだろうか。急ぎ都に上り、
我が後世を弔うように。」と仰せに成られたが、「これまで供奉仕り、只今暇を給わって都に上っても、
一体何の楽しみがあるでしょうか。私は厚恩深き者ですから、出家であっても遁れられないでしょう。
僅かに命を永らえようとして都まで上がり、人手にかかるなど、思いもよりません。」と申し切って
居られた。この僧は博学多才にして、和漢の書に明るく、当檀那の辯を持っていたため、秀次公の御前を
去らず伺候して、酒宴遊興の伽僧となられ、最後の供まで致されたのは、他生の縁であったのだろう。

さて、篠部淡路守を召されて、
「この度、跡を慕いここまで参ったその志は、生々世々報じがたい。汝はどうか、私の介錯をした後
その供をせよ。」と仰せになった。淡路守は畏まって、
「今度、御供を仕りたいと思っている者がいかばかりも有る中に、私が武運に叶い、御最後の御供を
申すのみならず、御介錯まで仰せ付けられたことは。一生の望み、何事かこれに過ぎるでしょうか。」
と、大いに悦んだ。

これを見て入道殿は心地よさげに笑われ、その後両眼を塞ぎ、「迷悟三界誠悟十方空」と観念あって、
「では、腰の物を」と仰せになった。この時、篠部は三尺三寸の正宗の中巻きしたものを差し上げた。
秀次公はこれを右手に取り、左手にて胸元を繰り下げ、弓手の脇に突き立て、馬手へキッと引き廻し、
御腰骨に少し懸ると見えた所で、篠部淡路守が立ち廻ろうとしたが。「暫く待て」と宣ってまた取り直し、
胸先より押し下げられた所で、御首を討ち奉った。惜しいかな、御年三十一を一期として、南山千秋の露と
消え給わった。哀れと言うにも余りある。

立西堂は御遺骸を治め奉って、これも供を致した。篠部淡路守は関白殿の御遺骸を拝し奉って後、
三人の検使の所に向かい、「その身不詳に候へども、この度慕い参った恩分として、介錯を仰せ付けられた
事は、誠に弓矢取っての面目と存じます。」と言うやいなや、一尺三寸の平作の脇差を太腹に二刀差したが、
切っ先が五寸ばかり後ろまで突き通し、さらに取り直し、首に押し当てて左右の手をかけて前にふつと
押し落とすと、首は膝に抱かれ、骸は上に重なった。見る人目を驚かし、
「天晴大剛の者かな。腹を切る者は世に多いが、このような有り様は伝えて聞いたこともない。」と
諸人一同に感嘆して感じ入った。

近世軍記

豊臣秀次の切腹について


思いのままに謀を廻らせた

2021年09月05日 17:57

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/05(日) 15:51:47.61 ID:Icad6qo4
ある時、石田三成は直江山城守(兼続)と、ただ両人差し向かい、深夜まで酒宴して遊んだが、
密かに山城守に向かって申した

「侍と生まれ弓矢に携わる者で、天下に望みがないのは男子と称するに足りない。
差し当たって秀吉公は、匹夫であったと雖も天下をその掌握に帰された。
私も一度は四海を治めたいとの深い思いは止むことがない。
しかし秀吉公御在世の家は思い立たない。御他界ある上にて、旗を揚げんと思う。

御辺も景勝の逆心を勧め、旗を揚げさせ。天下を覆せば景勝を滅ぼし、御身が関東の管領と
なり給え、我等は将軍となり、京・鎌倉の如く、両人にて世を治めるべし。」

直江も大胆なる者であったので、この謀事を快く思い、

「左用思し召し立っているのならば、上杉家中のことは一向に私に任せ給え。
それについて、謀事を廻らして見るに、蒲生会津宰相氏郷は武道逞しき人であり、
御所公(徳川家康)に差し続く大将である。またこの人の子の藤三郎秀行は御所公の婿であり、
領分は奥州と下野に接している。これは御所公の後ろの強みであり、このため事なしである。

たとえ貴殿が思い立ったとしても、御所公、氏郷と指し続いていれば、中々退治するのは難しい。
先ず氏郷を殺し、そのあとに景勝を国替えさせ、東西より立ち挟んで討ち果たすことが然るべき」

と囁いた。これを三成は承引し、氏郷を毒害し、その後で藤三郎秀行の家老達をそそのかり、
蒲生家中に大いなる騒動を起こさせ、その咎にて秀行百二十万国を没収し、僅かに十八万石にて
野州宇都宮に所替させ、会津には上杉景勝を入れ替え、思いのままに謀を廻らせた。

近世軍記

石田三成の野望と陰謀について。まあ典型的な三成陰謀論みたいな話ですが、むしろこのくらいのほうが
魅力的な気もする。