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皆もこのざまを見ろ

2019年10月18日 17:06

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/18(金) 13:57:46.00 ID:mXMwVoJ5
信濃国安曇郡吉田の城主である木曽左馬頭義昌は、武田信玄の妹婿であり(実際には娘婿)、
信玄の無二の幕下であった。しかし信玄亡きあと、その後を継いだ勝頼と不和に成った。
そこで勝頼はこれを攻め滅ぼさんと、武田逍遥軒(信廉)に小山田備中守昌行、横田十郎兵衛守昌などの
部将を付けて出陣させた。もちろん木曽義昌にも油断はなかった。

天正十年正月二十八日、敵味方の激しい戦いが始まった。木曽方で奈川の城主・木曽兵部丞仲親、および
今井丹波守などの働きで、武田方は一旦退かざるを得なかった。

この間に木曽義昌は岐阜の織田信長に助勢を請うた。それについて、甲州乱入のための手引をしても良いと
伝えた。信長は大いに喜び、嫡子秋田城介信忠に先陣を命じた。
信忠は五万余騎を率いて二月十二日に岐阜を出発し、信州伊那郡高遠へ押し出した。
加勢の徳川家康も、三万騎を率いて二月十八日に遠州浜松を出た。案内役は穴山陸奥守入道梅雪庵で、
富士の麓の川内通りから市川口へと押し出した。
これらに続き信長も、三月五日に七万余騎を率いて安土を出た。

武田家は新羅三郎義光以来の甲斐源氏の頭領として、現在数ヵ国を領している名高き大名である。
それをただ退治するという事では名目が立たぬと思ったのか、信長は前関白である近衛前久公を
担ぎ出した。一見朝敵征伐に見えるからである。人の口を塞ぐ信長の策であった。

三月十三日、信長の軍は信州根羽駅に着陣、翌十四日波合へ軍を進めた。十日には既に、城介信忠の名で
関喜平治、桑原助六郎の二人を降伏を促す使いとして出していた。
織田方の先陣は滝川左近将監一益、川尻肥後守秀隆であった。

そして甲州田野郷天目山に頼る所もなく彷徨っていた武田大膳大夫勝頼とその子太郎信勝は、
織田方に捕えられる前に自害した。

彼等の首実検の時、信長はこのように言った。
「そなたの父信玄は、平生言葉に表裏があり、無礼無道であったため、その天罰が子孫に当たったのであろう。
こうして数代の領民を失い、かような仕儀となった。お主も思い知ったであろう。
皆もこのざまを見ろ。快いことではないか。」

(関八州古戦録)

関八州古戦録における、武田家滅亡についての記事。



521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:06:09.16 ID:A+Lsgv+W
>>520
このあとすぐに本能寺の変が起きるんだから皮肉というか面白いというか

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:29:00.86 ID:YAAZcgX4
文章から信長の絶頂点を感じる
強すぎて誰もかなわない感覚

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 11:23:30.95 ID:meTP904Y
5万3万7万で15万か
絶望しか無いな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:26:36.49 ID:gY8uFqPv
「お前の父親は京入りが念願だったそうだから、お前に父親の願いを叶えてやろう」
と言った話も。なんて優しい信長

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:39:26.70 ID:Dc3TRckH
>>520
これだけで得々と先導する穴山梅雪って印象が出るのは何なんだろ
ああゆう末路になるわなあって感じの

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 14:11:28.28 ID:rHW680I5
そういえば、平清盛の絶頂期だった安徳天皇の即位から平氏滅亡も早かったよなぁ。
都落ちまでは3年、壇ノ浦まででもたったの5年。
執権北条氏も元弘の乱までは絶頂期で、それから2年で滅亡。

それを考えれば豊臣家は長生きしたほうなのかもしれない。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 09:16:13.25 ID:OKDUeII+
江戸幕府に比べるとスカスカの体制でよくあれだけ保ったなと
石田とか増田やらの奉行衆がよっぽど有能だったんかね

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 19:17:00.09 ID:CFGmSaJm
秀吉存命中に力を見せつけたおかげで、豊臣による秩序が生まれたから。

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 15:14:52.67 ID:nRo1POF0
石田三成に人望さえあれば…
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水谷勝隆ノ乳母勝隆ヲ護シ難ヲ逃ル

2018年07月16日 16:53

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/16(月) 16:13:14.19 ID:sF4DeMO/
水谷勝隆ノ乳母勝隆ヲ護シ難ヲ逃ル

慶長5年(1600)、関ケ原御陣の時、水谷勝俊は関東におり、その子・勝隆は4歳で
京都にいた。この時、石田三成は勝隆を捜索したので、その乳母は勝隆を背負って

摂津国山崎辺りへ逃れた。しかし訴人により小野木縫殿助(重勝)と川勝備後守(秀氏か)
が勝隆を捕らえようとかの地にやって来ると聞き、乳母はまた夜中に勝隆をだき抱えて

山崎のやのうらから小舟に取り乗って八幡の松坊へとやって来た。ところがここにもまた
島津の家人が尋ね来ると風聞したので、東山の麓にある近衛殿(近衛前久)の

龍山の幽居に赴いた。乳母は泣き告げて「これは水谷の児子でございます。君(前久)は
久しく彼の父を御存じでありましょう。どうかこの子の命を御助けください」と言った。

この時、近衛殿は憐れんで20日間、小風呂の中に勝隆を匿いなさった。その後、関ケ原
の凶賊等が敗北したので、勝隆は危険を免れることができたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(寛永諸家系図伝)』


【ねこ大好き】島津義弘、近衛前久に猫を贈る

2015年05月08日 18:55

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:26:10.43 ID:Igh/VUP+
【ねこ大好き】島津義弘近衛前久に猫を贈る

慶長年間の事と推定されるが、島津義弘近衛前久に猫を贈った事があった。
その結果近衛前久から礼状が贈られてきたのであるが、その内容は
「本望の至り、年来待っていたところ、ことさら美しく見事で、一段満足している」
という前置きを置いて「さらに猫を頂きたい。」との要求であった。
その理由は
「その猫は夫人に取られてしまい、自分の手元にはいないから、もう一匹送ってもらえないか。決して他人に譲るのではない。娘も懇望しているけれど、それは無視していい。まず自分の分を一匹ほしい」
ということであった。
(「旧記雑録附録二」二七〇号)


まとめサイトのコメント欄で紹介して頂いた逸話なのですが
シャイな※主様が他の人に投稿頼むと仰ってた&猫好き魂を鷲掴みにされましたので
僭越ながら※主様ご紹介の南日本新聞の「さつま人国誌」(2015年5月4日付)を
出典として要約し投稿させて頂きました。
元記事には他にも犬に関する逸話等が記載されております。



953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:29:37.28 ID:B0Sjzqyc
関白のくせに、ペットをねだる調子のいい話?w

954 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/07(木) 20:48:37.66 ID:hya75fci
やはり島津家はNNNの支部だったのか

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:54:43.78 ID:xD7IsRlR
>>952
娘の分も暗にねだってるw

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:58:46.83 ID:UFTPDb99
なぜかプリンのコピペ思い出した

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 22:42:31.46 ID:jkzHWnJt
薩摩はネコの産地だったのか?朝鮮にも連れて行ってたし

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 00:29:10.45 ID:xc36Xewg
三斎様も忠利に猫クレクレしてたけど、
この時代の猫って貴重で探して捕まえてたんだっけかな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 02:13:42.34 ID:Y5kEKSGr
ここの猫ってのはペルシャ猫のことかな?
それとも日本には元々猫がいなかったとか

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 06:13:58.72 ID:ARjUb34o
井伊直孝「猫と聞いて」

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:02:21.04 ID:Np3grdNi
猫って鼠が殖えるまでは紐に繋がれて飼われてたよね

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:21:15.93 ID:HjLXgSyq
板倉勝重「ワシが猫を開放した」

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:35:37.68 ID:MvSWJ74j
最上義光「ぬこ…」
天庵さま「うちの子だって!」

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:48:17.67 ID:MvSWJ74j
これは近衛卿側の逸話になるのかな?

それと鶴が逃げても動じなかった秀吉が、猫が逃げて衰弱してるからおそらく秀吉も猫好き。

検索したら猫好きの人の性格が出て来た。

「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」な傾向とか。

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:01:11.95 ID:MvSWJ74j
日本猫(和猫)は、8世紀頃に大陸から経典を鼠から保護するために日本に伝わったとされるが、長崎の弥生時代の遺跡からも古来の猫の骨が見つかっている。
889年(昌泰2年)宇多天皇の唐の黒猫の飼育日記があったり、花山天皇が皇太后に愛玩動物として猫を贈った話もある。

東南アジアや琉球から貿易を経由して日本に都度都度猫が入り、日本に家猫や野良猫が定着したのは江戸時代頃とも言われる。
日本猫で代表的なものは、「白猫」「黒猫」「サビ猫」「トラネコ」「ブチネコ」「三毛猫」の6種類。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:17:09.22 ID:0PPEkGvE
(⌒▽⌒)

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:20:18.99 ID:9cl0PIMM
鍋島直茂「ネコなんて大嫌いだあああっ!!」

968 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/08(金) 10:28:05.42 ID:At7WWQV/
天久院「猫程度にうろたえるとは軟弱な」

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 12:25:01.99 ID:MvSWJ74j
>>952
犬の話も気になる

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:28:01.94 ID:MvSWJ74j
「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」

猫ブロガー宇多天皇、豊臣秀吉、近衛前久、伊達政宗、最上義光、小田氏治、井伊直孝…

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:31:42.47 ID:MvSWJ74j
A=B=C、つまりA=Cである

A=伊達政宗
B=猫好き
C=細川忠興

つまりまーくんは三才様だったんだ(違います)

豊臣姓のこと。および九条稙通について

2015年05月02日 14:05

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 22:54:58.29 ID:uLNeMyLn
豊臣秀吉がある時、近臣に語った。

「わたしは尾州の民間より出たのであるから、草刈りをするすべは知っていても筆を取ることは知らない。
それが今、不慮に雲の上の交わりをなす身と成ってしまった。
しかし我が母が若き時に、内裏の御厨子の下女であったが、それが玉体(天皇)に近付き奉った事があった。
その夜、母は夢に、御祓箱が伊勢から播磨へ、隙間もなく空を飛行するのを見、また

『ちはやぶふる 神のみてくら 手に取りて (ちはやふる神に奉納する物を手にとった)』

という歌を夢の中で感じ取って、私を懐妊されたのだ。
この夢は災いを予知したものではないと見えて、私は信長公より許され播州に出陣し、即時に平らげ
それから中国に掛かって毛利と先陣する時に、明智の乱を告げ来る故、時日を移さず討って上がり、
主君の怨敵たる明智を滅ぼし紫野において信長公の葬儀を執り行い、朝廷に請うて御贈官をなし奉り、
一宇を建立して御位牌を崇めた。

こういった事の冥加であろうか、いま、私は図らずも貴き身となったが、土民であるから氏姓がない。
草刈りの成り上がりたる身であるので、いにしえの鎌足大臣の御名をよすがに、藤原氏を免されん。

この殊に、近衛(前久)殿より「いと易きことである。」とはからいがあった所、九条禅閤稙通公が
お聞き及びに成って、「摂家は何れも隔たり無いと言っても、長者は当家の事であるから、近衛殿の
思うままには成るべからず。」と主張したのだ。私はこれに

『物知りである九条禅閤公が仰るのだから、何か仔細があるのだろう』

そう思い、徳善院(前田玄以)に命じて近衛殿、九条殿を大徳寺に招いて、その相論を聞いた所、
『嫡流庶流の事、旧記、伝来の重器である近衛家の鎌、九条家の大識冠の真影(藤原鎌足の肖像)、
恵亮の法華経、狐丸の太刀、および三代の名記』等々、みずからの家が摂家の長者で有ることを示す
様々な証拠を提示して互いに争った。

この有り様に私は、このように耳遠き争いのある、難しい藤原の蔓葉になるよりも、思い切って今までにない
氏になったほうが良いと考え、右大臣(今出川晴季)と密かに議して上奏し、豊臣朝臣という新姓を
勅許されたのだ。」

その後、秀吉に関白宣下があったのを九条稙通は聞くと
「この職は他家が任じられる謂れはない。八百万の神、並びに春日の社の御罰かしこし」
と言われたが、はたして秀次事件の時に、近衛殿は薩摩坊津に、菊亭殿(今出川晴季)は信濃国に配流された。
その上、御女の一の台殿をも大路を渡し参らせた事など、古今に例無きことであった。
その頃建仁寺の十如院永誰和尚が詠んだ『道するに 車にあらで大臣を のするがごとしになふ棒の津』
というものも、この事を表しており、秀吉の世がその一世のみで、秀頼は滅びその幼子は河原者の手に
誅せられたのも浅ましいことである。

かの九条稙通殿は正しき御振舞のある人物であると、世に云い伝えられている。
織田信長公が上洛された時、洛中洛外まで、どのような身分の人々も我先にと馳せ参って
見参しへりくだっている所に、この公だけは立ったまま差し向かって「上総殿、御入洛大儀」
とだけ言って帰られた。これに信長も不快になり、「九条殿は私に礼を言わせるために来たのか!」と、
甚だ立腹したが、公は少しも恐れず「仮に一命を失っても家の恥を残すまじ」と語ったという。
これはその当時、間違いなく近くでそれを見ていた人の記録の中に見える。

(明良洪範)



726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 23:19:34.90 ID:Egezbr7G
上総って私称じゃなく正式に貰ったものだっけ?

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/02(土) 12:04:01.04 ID:E+o/sl1c
上総守名乗っちゃった

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/03(日) 09:59:16.53 ID:pKqmrBc2
>>728
守では無い!神だ!

734 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/03(日) 22:18:07.93 ID:tfj3Fdu4
>我が母が若き時に、内裏の御厨子の下女であったが

これはよっぽど出自コンプがあったのかな?
聞いてる方も辛いと思うわw


信長公には、王という事御存じなく

2011年12月01日 22:00

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/30(水) 22:55:39.05 ID:zWP3HEla
まとめサイトで検索かけたけど、探しきれなかったので一応あげます 既出だったらごめん

『明良洪範』より

信長公には若年の頃、王という事御存じなく、その頃、村井七郎右衛門(貞勝)
後に長門長春と申せし人、今日の所司を勤めし者なり
この人に申され候は、王というものはいかよう成るものにて候哉、厨子などに入れて置きたるものか
または人にて候やと尋ねられ候時、長門申し上ぐるは
今も人間にて、位高きものにて御座候と申す

その頃近衛龍山公(前久)、村井に御目を掛けられ候故に、まず龍山公を信長公へ知る人になし
それより度々の御出会もこれ有り、ようやく王という事御存知候由

ある時、尾張大根の見事なるを龍山公へ進上せられ、後にいかが料理成し候やと尋ねられける
龍山公御返事に、おろし大根の汁に料理候由仰せられ候えば、
信長公、さてさてうつけたる人かな、おろし大根には小さくても成る事なり、とて笑い給いし
されどもこの龍山公をば、もし敵軍と和談などの時、扱いにはしかるべき人なりと申されける


最後の文の通り、前久は信長と争う石山本願寺との講和や
耳川合戦以後の大友・島津間の講和斡旋などに奔走している




818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/01(木) 19:03:12.62 ID:cT4bqJGN
>>805
おろし大根なら小さくてもいいじゃねぇか! と突っ込まれたということは
この時の尾張大根てでかかったのかなぁ
と検索してみたらでけぇ! カブみたいのまである

織田信長と近衛前久の約束

2011年06月24日 23:02

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 02:08:06.44 ID:toclH5O3
>>331
こんな話あったんだ

近衛前久の話で、武田征伐の帰り道、三河の聖徳太子由来の寺に泊まったら
そこで太子由来の話だか物品だかを見聞きして、後日そのことを信長に話したら
「天下が落ち着いたら二人で見に行こう」と約束した。しかし本能寺の変であの
約束は二度と適えられなくなってしまった、と嘆いたという

細かいところうろ覚えなんだけど、こんな話が前久の日記だか手紙だかにあるそうだ




334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 09:18:11.06 ID:mCcEOogm
近衛さんと信長の話は心暖まる話が多いね
当時、友人になり得たのは立場が違う人だけだろうからねぇ

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 09:55:00.50 ID:sEXZdTcG
近衛さんは天然っぽいからな~
天然系には信長さんは割と甘いっていう印象www

信長、泣いている老婆を見て

2011年03月11日 00:04

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 07:52:18.49 ID:DRaMbnj4
信長のいい話

行軍中、道端でお婆さんがうずくまって泣いてるので、信長が『どうしたんだ?』と尋ねると
『村長と対立し、嫌がらせで家を壊されてしまった。どこに住めばいいのか』というので信長は激怒。
そのまま村に行き『老婆をいじめて家を壊すとは何事か!』と。
村長に家を建てなおさせた。
信長が将軍義昭と対立したとき、近衛前久
『自ら立てた将軍を自ら滅ぼさねばならないとは・・・運命は数奇なものだ。後の世の人は
俺を「将軍を追放した悪者」と謗るだらうか。』
と落ち込んだという。
織田信長の意外な一面。

婆さんが一向一揆の信者だったらどうなっていたことやら・・・




144 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/10(木) 08:02:07.76 ID:NtDD0gAS
お婆さんは信長の足止めに成功した

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 08:13:05.31 ID:23/T0wvM
信長って部下以外には意外と優しい逸話が結構残ってるね
部下の家族とかのが多いけど結構思いやってる逸話も多い


146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 09:45:37.51 ID:iS7fQI7P
寄せ集め(戦国大名は大抵そうだが)を使ってそこまで勢力をのばしたのだから
面倒見がよくなきゃあ成り立たないでしょ

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 10:22:47.48 ID:vZROiVyl
普通は世間の正義が判断基準になるけれど、信長の場合は自分の正義が基準だから仕える方は大変なのだよな。

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 10:44:46.92 ID:bhxQwN9w
信長って、かなり世評というか世論ってものを気にしてるけどね
残った記録が多いだけなのかもしれないが、宣伝工作も大規模にやってるし
ただし、世論を気にして行動を変えるということはしないのだが

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 10:46:09.75 ID:mauyQIj2
本物の任侠は情に厚く堅気には優しいもんだ

150 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/10(木) 11:12:40.68 ID:S956SWOB
>>149
そんな任侠、映画にしかいない

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 11:28:40.34 ID:6h7z2PWj
>>149
老婆「と武蔵様と被官の方々がおっしゃりながらこの橋を行ったのでございます」

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 12:41:15.37 ID:yMicKBbw
ああ、もしばあ様や、後ろに槍が…

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 12:51:02.10 ID:FUdD551Z
>>151
鬼武蔵なら仕(以下略)