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島津家由緒

2022年03月15日 19:12

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/15(火) 13:42:55.32 ID:Zb4IE7Az
近衛殿の御家令である、近藤兵部大輔が物語したことである。

島津家の事について、かつて、近衛殿に仕えた豊後の局という女性が、関東に下って源頼朝に仕えたが、
二位殿(北条政子)が彼女に嫉妬し、梶原景時に対し、「由比ヶ浜に沈めよ。」と命じた。
梶原はこれを請けて局を捕えた所、局はこのように訴えた

「私は京都に在った時、近衛殿の御憐れみを受けて既に懐妊しております。我が身がいかように成っても、
この子までを空しく成されることの悲しさよ。」

これには梶原も、佐殿(頼朝)がどのように思われるかも恐れ、殊に懐妊している事も憐れに覚えたため、
二位殿には「沈めました」と報告し、密かに鎌倉から落とした。そして摂津国難波のほとりの石の上にて
出産した。それは男子であった。この事を近衛殿に申し出ると、近衛殿は男子を慈しみ育て給った。

男子成長の後、関東にこの由が聞こえたため、頼朝は呼び迎え給うた。そして折節、薩州の島津に
継子が無かったため、この子を与えられた。
これにより島津は頼朝の御子の血筋とも申すが、実は近衛殿の御子の血筋なのである。
この男子出生の時の石のほとりには一社の産土の神が祝われ、今も島津家の上下共に、往来の度毎に
参詣しているという。

慶長・関ケ原の役で、島津家の人々を近衛殿は密かに家に隠された。その人々を隠し置かれた
土蔵は近年まで「島津蔵」と伝えていたのだが、現在では焼失したという。

紳書抄

島津家の由緒について



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朝山日乗について

2020年11月05日 18:18

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/05(木) 16:42:15.50 ID:rOtplAZH
朝山日乗は、『禁中の御殿が破壊したことの、御修理の営みを勤めよ』との夢のお告げに任せ、重大の知行、
相伝の家人をも打ち捨てて、出雲国より侘びしき体にて上京し、近衛龍山(前久)公に対し、その旨を
望んだ所、正親町天皇の勅によって参内し、御修理の営みを催した。

この話を織田信長公お聞きになり、その志の妙なるを感じられ、召し出され一両年も試みに使われた所、
美しい心映えであり、何事につけてもはかどって行う者であるとして、旧功の村井長門同然に、禁中方の
御修理を仰せ付けになった。そして万事、流れる水のように仕事が進んだ事で、山城国西院にて、
三千貫の地を下された。これは小泉という者は、勘当を蒙り牢人と成った跡職であったのを、その小泉の
家人たちも含めて恩賜されたのである。

甫庵太閤記

朝山日乗について



680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 07:32:35.54 ID:8HRlh5Fr
いかに口上手でもデウスの前では無意味である

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 07:47:17.39 ID:ipTx84SS
フロイス「日乗は日本のアンチキリスト、又は肉体に宿りたるルシフェル」

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 09:51:10.17 ID:8HRlh5Fr
サタンではなくルシフェルと言ってるのが最高の賛辞だね


※管理人注

この投稿は、早稲田大学・松本和也氏の論文『イエズス会宣教師が見た中近世移行期日本の国王と国家』内、
『第一部 第五章 日乗の後半生』の抜粋と成っています。
内容は早稲田大学リポジトリより読むことが出来ます。内容をしっかり確かめたい方はこちらをご覧下さい
PDF注意
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=10862&file_id=20&file_no=10


443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 01:41:21.26 ID:fCwnJg7j
はじめに永禄・元亀年間の畿内情勢を考察する際、必ずといってよいほど登場する人物が日乗である。
日乗の活躍する時期は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄一一年から、義昭を追放する天正元年頃までである。その間、禁裏修理奉行や毛利への使者として活躍している。
また、信長は義昭との関係が悪化すると、永禄一三年に条書を発して義昭を詰問しているが、その宛所に日乗の名が登場する。
この条書は極めて重要な文書であるだけに、当時日乗がいかに重用されていたかが読み取れるだろう。このことは、同時期の畿内キリシタン史にも当てはまる。
永禄八年に伴天連追放の女房奉書が出され、イエズス会宣教師は京都退去を余儀なくされた。
永禄一二年、和田惟政の仲介によって京都復帰が実現したものの、以後も反キリシタン一派による執拗な妨害を受けている。その中心人物が日乗であった。
日乗は信長の面前でフロイスと宗論を行い、また信長や義昭に宣教師の追放を進言した。結局両者からはその許可は得られなかったが、天皇からは伴天連追放の綸旨を獲得している。
この事柄をとってみても、永禄一二年頃の畿内キリシタン史を考える際、日乗抜きで語ることはできないのである。


しくじり日乗上人の巻

〇元亀元年一一月四日付、ルイス・フロイス書翰
和田殿が信長からの勘当が解けてから五、六日後、彼に対して虚偽の訴えを行った、かの仏僧日乗は神の正当なる裁きにより、他の人々から彼が犯した重大な罪について訴えられました。
信長はこれを知って激怒し、多くの領主の前で彼を罵った後、足蹴にして追い出すよう命じました。彼は青ざめ、すぐさまその場から立ち去りました。
彼はそれまで有していた役職を奪われ、その後、縁故や懇願により、また、特に内裏の宮殿を再建するため彼に託した多額の金銭に関する報告がない間は、彼が逃げないように、信長は彼に対して素知らぬふりをしました。
彼は今も宮廷内におりますが、気にも留められておりません。

〇『言継卿記』永禄一三年三月二一日条
禁中御作事見舞了、日乗上人信長之勘気之由風聞有之如何、尚可尋之

公家衆の中でもとりわけ日乗と昵懇の仲であった山科言継は、日乗が信長から処罰されるかどうか気に掛けている。
「風聞有之」の文言が、信長が多くの家臣等の面前で日乗を叱責したというフロイスの記事に信憑性を持たせる。

天正元年に入って間もない頃は、義昭への使者として活躍するが、義昭追放後は毛利への使者や丹波国山国荘の入部に日乗の名が登場するに留まる。

※信長の寵を失って失脚したというのは誤りである。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 01:41:50.04 ID:fCwnJg7j
上人じゃなくなるの巻

〇『御湯殿上日記』天正三年三月二五日条
信長より日乗きようてうをしよくするほとに、てんさいといふへきと申入候

〇『宣教卿記』同日条
廿五日子天晴一、信長三大・勧大へ日乗上人ト云義イハレヌヨシ在之、各儀アラタメテ典済可然之由信長被申也、各尤之由申也、
使者始祐閑、後ニハ明知・五郎左衛門・塙九・祐閑四人 ニテ 三大へ被申也

※三大は三条西実枝、勧大は勧修寺晴右

〇『言経卿記』天正四年正月五日条
「典斎 日乗事也、」

〇『宣教卿記』天正三年三月二八日条
廿八日卯雨下、従七時分大雨也、一、二条殿へ御樽進上スル也、幡磨ノタチノムスメヲサゴノ御方、前ハ公方ノ上臈也、
今度信長ムスメ ニシテ、 二条殿御方御所へ進上也、警固ノ衆村井民部・日乗御供也、三献参也、御はいせんスル也、夜也

関白二条晴良の息昭実の嫁娶の記事である。 「ヲサゴノ御方」が信長の養女として嫁ぐことになり、その嫁入の警固として村井貞勝と日乗の名が挙げられている。

天正三年三月二五日に日乗は信長から「典済」と改めるように指示される。
三月二五日まで表記のほとんどが「日乗上人」とあり、「上人」という文言が必ずといってよいほど記されていた。しかし、それ以降は「上人」が全く用いられてない。
その後「朝山三位法印日乗」「典 三位法印 斎日乗」(『言継卿記』)・「日乗三位」(『宣教卿記』)と書かれている。
『宣教卿記』天正三年七月二〇日条の「日乗三位」が初見であるが、いつ三位法印となったかは不明である。
天正三年七月三日に信長が正親町天皇の官位昇叙の勧めを辞退し、家臣の任官を奏請しているので、このときに賜ったか?
※松井友閑が宮内卿法印、武井夕庵が二位法印


いつの間にか死んでたの巻

〇天正六年三月二日付、オルガンティーノ書翰
都地方のキリシタン教界の諸事はよく進展しており、今年約二千人をキリシタンにしました。すでにキリシタンとなった者は大いに利益を得ております。
コンスタンチィノや他のキリシタン達が強くせがむため、私は今尾張国に向かう道中にあります。私はかの国のキリシタンが利益を得ることを主(なるデウス)に期待しております。
もし美濃国で説教する機会があれば、私達は必ず主の御名において網を投じるでしょう。尊師フロイスが信長の前で宗論を行った日乗上人は先日死去しました 。

※『朝山家系図』によると没年月日は天正五年九月一五日となっている。


総括
元亀元年一一月四日付、ルイス・フロイス書翰の日乗追放として理解されてきた記事は、後半部分にその後も禁裏に出入りしていることが記されており、信長から追放されたのではなかった。
日乗が信長のもとから追放されたかのように記されているのは、フロイスが日乗に敵意をもっていたからであり、フロイスの誇張癖の範疇と捉えるべきである。



685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/06(金) 19:46:27.34 ID:FyEF9E1t
>>679
怪しい男だよなこいつも
尼子家臣だったのに京に逃げて近衛に気に入られるとかどういうことなんだか

伝左衛門に小荷駄を預けたのは、某一代の不覚

2020年02月01日 16:35

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 01:13:51.72 ID:7C4kLm0Z
(最初の越山の小田原包囲の後)近衛(前久)殿は小田原より鎌倉へ御輿を寄せられ、鶴岡に御社参され、
謙信公はこれを守護された。これに対し宇佐美駿河守(定満)は、「事終われば速やかに去るべきだと
申し伝えられています。この度の御社参は参るべきではありません。」と申し上げた。然しながら謙信公は
「何程の事が有るものか。」とこの意見を用いられなかった。

鎌倉に於いて半日人馬を休め、瀧山という閑道にかかり、その世は関山の広野に御宿陣された。諸軍は
小田原より平井へ帰され、御供には加治内匠、柴田大学、宇佐美駿河、直江山城、本庄清七、河田豊前、
長尾小四郎、中條五郎右衛門、大田三楽、かれこれ八千に過ぎなかった。これに対し三月末の二日間に
夜半ころより敵が幾重ともなく取り巻き、その松明は峰の形に光り、晴れた夜の星よりも繁く鉄砲を
放ち掛け、襲おうとした。

さて、この鎌倉八幡宮にて東国の諸将は近衛公方へ御礼を遂げる時、忍の成田長康(泰)という者が
酒に酔い、言語が些か尾籠であったのを、謙信公は怒り給い、扇子を以て忍の頭を二つまでしたたかに
打たれた。この遺恨によって、成田長泰は一門家族を催し、武州の千葉・清党(清原氏)を語らい、
謙信公が幸いにも小勢の折節であるのを覗い、足軽をけしかけ夜軍にして討って恨みを報ぜんと企てた。

しかし謙信公はこれを察知した。「成田めが野伏を仕掛けるとは。しかし暗夜でもあり切所でもあり、
これより彼らを追い詰め討ち果たすのは叶いがたし。太田殿と直江は公方(近衛前久)を警護されよ、
中條は戦場を見計らって宇佐美と策をめぐらせ敵を近づけ一戦を遂げ、少しであっても打ち取るように。
本庄清七、加治内匠は後陣に下がり、小四郎と協力して小荷駄を守護仕れ。」と下知を成し、自身は
柴田大学と河田豊前を前後として、平塚という小さき尾に陣を張り、夜を明かされた。

敵は次第に近づき、矢石を雨のごとく飛ばしてきた。中條五郎右衛門、宇佐美駿河は足並みを見せ
敵を広野へおびき出し、伏兵を起こして鑓を入れて追い崩し、敵四十余人を討ち取った。

しかし後陣に付けておいた小荷駄両陣の内、長尾小四郎はこれを守ることが出来ず、同名伝左衛門は
敗軍に及んだ。これによって小荷駄は残らず奪われた。

これに対して謙信は大いに怒り、翌日早朝に長尾伝左衛門の首を切り関山に掛けさせ、そうして家来たち
二十四人、歴々の者達と一所にて残る敵を一人も残さず討ち捨てにした。その敵の中でも特に働きの有った
兵士を、自ら鑓を以て突き伏せられた。

夜既に暁天に及び、敵は残らず引き退いたため、日が出て後軍を発し、古路にかかり、大田三楽が先陣を打ち、
直江山城が後陣へ下り、九里の山中も難なく押し通り、その夜には葛見に宿した。そこで酒飯を備え危軍を
労り、三楽を客位に請し物語暁天に及んだ。ここで謙信は諸士に語った

「関東諸州の面々、皆弱兵であると思い侮って、伝左衛門に昨日小荷駄を預けたのは、某一代の不覚であった。
そうでなければ、どうして成田長泰ごときの敵にこれを奪われるだろうか。私は常々、甲州の武田信玄には
私が及ばない長所があると思っているが、それはこの事なのだ。あの法師は、弱敵と見ても猶弓矢を大事に
取り、このような卒爾の無い人物である。大事の場であると思えば誰であっても迂闊なことはしないものだ。
しかしそう考えない場所では、動くときも慎みが無く敵に対して疎略な対応をしてしまう。
信州更科の村上義清などは、軍の場にいどみ相対する時は、武き事も賢き事も、信玄に勝りこそすれ
劣るものではない。しかし愚に正直なる男であるので、常々細かい配慮がなく、そのため度々遅れを取るのだ。」
と申された。

松隣夜話

例の鶴岡八幡宮での謙信と成田長泰のお話ですが、こちらは退去どころか即座に謙信に夜討をしかけるという
アグレッシブな話になってますね。



774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 21:03:01.30 ID:2CcDwnar
>>768
>言語が些か尾籠であったのを、謙信公は怒り給い、扇子を以て忍の頭を二つまでしたたかに
打たれた。

成田「おこなの?(´・ω・`)」
謙信「o(`ω´*)o」
小四郎&伝左衛門「小荷駄を任されたぞ!」

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 00:30:47.35 ID:ZMW/EJLp
謙信、結構短気な逸話多い気が
いやまぁ実際書状でとにかく馬鹿って言葉使いまくる人だから切れやすいかもしれないけども
短気で悪口のボキャ貧な謙信公が腹筋に候なんてパワーワード生んだのが面白い

皆もこのざまを見ろ

2019年10月18日 17:06

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/18(金) 13:57:46.00 ID:mXMwVoJ5
信濃国安曇郡吉田の城主である木曽左馬頭義昌は、武田信玄の妹婿であり(実際には娘婿)、
信玄の無二の幕下であった。しかし信玄亡きあと、その後を継いだ勝頼と不和に成った。
そこで勝頼はこれを攻め滅ぼさんと、武田逍遥軒(信廉)に小山田備中守昌行、横田十郎兵衛守昌などの
部将を付けて出陣させた。もちろん木曽義昌にも油断はなかった。

天正十年正月二十八日、敵味方の激しい戦いが始まった。木曽方で奈川の城主・木曽兵部丞仲親、および
今井丹波守などの働きで、武田方は一旦退かざるを得なかった。

この間に木曽義昌は岐阜の織田信長に助勢を請うた。それについて、甲州乱入のための手引をしても良いと
伝えた。信長は大いに喜び、嫡子秋田城介信忠に先陣を命じた。
信忠は五万余騎を率いて二月十二日に岐阜を出発し、信州伊那郡高遠へ押し出した。
加勢の徳川家康も、三万騎を率いて二月十八日に遠州浜松を出た。案内役は穴山陸奥守入道梅雪庵で、
富士の麓の川内通りから市川口へと押し出した。
これらに続き信長も、三月五日に七万余騎を率いて安土を出た。

武田家は新羅三郎義光以来の甲斐源氏の頭領として、現在数ヵ国を領している名高き大名である。
それをただ退治するという事では名目が立たぬと思ったのか、信長は前関白である近衛前久公を
担ぎ出した。一見朝敵征伐に見えるからである。人の口を塞ぐ信長の策であった。

三月十三日、信長の軍は信州根羽駅に着陣、翌十四日波合へ軍を進めた。十日には既に、城介信忠の名で
関喜平治、桑原助六郎の二人を降伏を促す使いとして出していた。
織田方の先陣は滝川左近将監一益、川尻肥後守秀隆であった。

そして甲州田野郷天目山に頼る所もなく彷徨っていた武田大膳大夫勝頼とその子太郎信勝は、
織田方に捕えられる前に自害した。

彼等の首実検の時、信長はこのように言った。
「そなたの父信玄は、平生言葉に表裏があり、無礼無道であったため、その天罰が子孫に当たったのであろう。
こうして数代の領民を失い、かような仕儀となった。お主も思い知ったであろう。
皆もこのざまを見ろ。快いことではないか。」

(関八州古戦録)

関八州古戦録における、武田家滅亡についての記事。



521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:06:09.16 ID:A+Lsgv+W
>>520
このあとすぐに本能寺の変が起きるんだから皮肉というか面白いというか

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:29:00.86 ID:YAAZcgX4
文章から信長の絶頂点を感じる
強すぎて誰もかなわない感覚

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 11:23:30.95 ID:meTP904Y
5万3万7万で15万か
絶望しか無いな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:26:36.49 ID:gY8uFqPv
「お前の父親は京入りが念願だったそうだから、お前に父親の願いを叶えてやろう」
と言った話も。なんて優しい信長

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:39:26.70 ID:Dc3TRckH
>>520
これだけで得々と先導する穴山梅雪って印象が出るのは何なんだろ
ああゆう末路になるわなあって感じの

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 14:11:28.28 ID:rHW680I5
そういえば、平清盛の絶頂期だった安徳天皇の即位から平氏滅亡も早かったよなぁ。
都落ちまでは3年、壇ノ浦まででもたったの5年。
執権北条氏も元弘の乱までは絶頂期で、それから2年で滅亡。

それを考えれば豊臣家は長生きしたほうなのかもしれない。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 09:16:13.25 ID:OKDUeII+
江戸幕府に比べるとスカスカの体制でよくあれだけ保ったなと
石田とか増田やらの奉行衆がよっぽど有能だったんかね

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 19:17:00.09 ID:CFGmSaJm
秀吉存命中に力を見せつけたおかげで、豊臣による秩序が生まれたから。

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 15:14:52.67 ID:nRo1POF0
石田三成に人望さえあれば…

水谷勝隆ノ乳母勝隆ヲ護シ難ヲ逃ル

2018年07月16日 16:53

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/16(月) 16:13:14.19 ID:sF4DeMO/
水谷勝隆ノ乳母勝隆ヲ護シ難ヲ逃ル

慶長5年(1600)、関ケ原御陣の時、水谷勝俊は関東におり、その子・勝隆は4歳で
京都にいた。この時、石田三成は勝隆を捜索したので、その乳母は勝隆を背負って

摂津国山崎辺りへ逃れた。しかし訴人により小野木縫殿助(重勝)と川勝備後守(秀氏か)
が勝隆を捕らえようとかの地にやって来ると聞き、乳母はまた夜中に勝隆をだき抱えて

山崎のやのうらから小舟に取り乗って八幡の松坊へとやって来た。ところがここにもまた
島津の家人が尋ね来ると風聞したので、東山の麓にある近衛殿(近衛前久)の

龍山の幽居に赴いた。乳母は泣き告げて「これは水谷の児子でございます。君(前久)は
久しく彼の父を御存じでありましょう。どうかこの子の命を御助けください」と言った。

この時、近衛殿は憐れんで20日間、小風呂の中に勝隆を匿いなさった。その後、関ケ原
の凶賊等が敗北したので、勝隆は危険を免れることができたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(寛永諸家系図伝)』


【ねこ大好き】島津義弘、近衛前久に猫を贈る

2015年05月08日 18:55

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:26:10.43 ID:Igh/VUP+
【ねこ大好き】島津義弘近衛前久に猫を贈る

慶長年間の事と推定されるが、島津義弘近衛前久に猫を贈った事があった。
その結果近衛前久から礼状が贈られてきたのであるが、その内容は
「本望の至り、年来待っていたところ、ことさら美しく見事で、一段満足している」
という前置きを置いて「さらに猫を頂きたい。」との要求であった。
その理由は
「その猫は夫人に取られてしまい、自分の手元にはいないから、もう一匹送ってもらえないか。決して他人に譲るのではない。娘も懇望しているけれど、それは無視していい。まず自分の分を一匹ほしい」
ということであった。
(「旧記雑録附録二」二七〇号)


まとめサイトのコメント欄で紹介して頂いた逸話なのですが
シャイな※主様が他の人に投稿頼むと仰ってた&猫好き魂を鷲掴みにされましたので
僭越ながら※主様ご紹介の南日本新聞の「さつま人国誌」(2015年5月4日付)を
出典として要約し投稿させて頂きました。
元記事には他にも犬に関する逸話等が記載されております。



953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:29:37.28 ID:B0Sjzqyc
関白のくせに、ペットをねだる調子のいい話?w

954 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/07(木) 20:48:37.66 ID:hya75fci
やはり島津家はNNNの支部だったのか

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:54:43.78 ID:xD7IsRlR
>>952
娘の分も暗にねだってるw

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 20:58:46.83 ID:UFTPDb99
なぜかプリンのコピペ思い出した

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 22:42:31.46 ID:jkzHWnJt
薩摩はネコの産地だったのか?朝鮮にも連れて行ってたし

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 00:29:10.45 ID:xc36Xewg
三斎様も忠利に猫クレクレしてたけど、
この時代の猫って貴重で探して捕まえてたんだっけかな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 02:13:42.34 ID:Y5kEKSGr
ここの猫ってのはペルシャ猫のことかな?
それとも日本には元々猫がいなかったとか

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 06:13:58.72 ID:ARjUb34o
井伊直孝「猫と聞いて」

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:02:21.04 ID:Np3grdNi
猫って鼠が殖えるまでは紐に繋がれて飼われてたよね

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 07:21:15.93 ID:HjLXgSyq
板倉勝重「ワシが猫を開放した」

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:35:37.68 ID:MvSWJ74j
最上義光「ぬこ…」
天庵さま「うちの子だって!」

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:48:17.67 ID:MvSWJ74j
これは近衛卿側の逸話になるのかな?

それと鶴が逃げても動じなかった秀吉が、猫が逃げて衰弱してるからおそらく秀吉も猫好き。

検索したら猫好きの人の性格が出て来た。

「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」な傾向とか。

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:01:11.95 ID:MvSWJ74j
日本猫(和猫)は、8世紀頃に大陸から経典を鼠から保護するために日本に伝わったとされるが、長崎の弥生時代の遺跡からも古来の猫の骨が見つかっている。
889年(昌泰2年)宇多天皇の唐の黒猫の飼育日記があったり、花山天皇が皇太后に愛玩動物として猫を贈った話もある。

東南アジアや琉球から貿易を経由して日本に都度都度猫が入り、日本に家猫や野良猫が定着したのは江戸時代頃とも言われる。
日本猫で代表的なものは、「白猫」「黒猫」「サビ猫」「トラネコ」「ブチネコ」「三毛猫」の6種類。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:17:09.22 ID:0PPEkGvE
(⌒▽⌒)

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:20:18.99 ID:9cl0PIMM
鍋島直茂「ネコなんて大嫌いだあああっ!!」

968 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/08(金) 10:28:05.42 ID:At7WWQV/
天久院「猫程度にうろたえるとは軟弱な」

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 12:25:01.99 ID:MvSWJ74j
>>952
犬の話も気になる

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:28:01.94 ID:MvSWJ74j
「さみしがりや、自由気まま、気まぐれ、マイペース、束縛を嫌う、
自分勝手、ワガママ、甘えん坊、団体行動は嫌い、気分屋」

猫ブロガー宇多天皇、豊臣秀吉、近衛前久、伊達政宗、最上義光、小田氏治、井伊直孝…

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 13:31:42.47 ID:MvSWJ74j
A=B=C、つまりA=Cである

A=伊達政宗
B=猫好き
C=細川忠興

つまりまーくんは三才様だったんだ(違います)

豊臣姓のこと。および九条稙通について

2015年05月02日 14:05

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 22:54:58.29 ID:uLNeMyLn
豊臣秀吉がある時、近臣に語った。

「わたしは尾州の民間より出たのであるから、草刈りをするすべは知っていても筆を取ることは知らない。
それが今、不慮に雲の上の交わりをなす身と成ってしまった。
しかし我が母が若き時に、内裏の御厨子の下女であったが、それが玉体(天皇)に近付き奉った事があった。
その夜、母は夢に、御祓箱が伊勢から播磨へ、隙間もなく空を飛行するのを見、また

『ちはやぶふる 神のみてくら 手に取りて (ちはやふる神に奉納する物を手にとった)』

という歌を夢の中で感じ取って、私を懐妊されたのだ。
この夢は災いを予知したものではないと見えて、私は信長公より許され播州に出陣し、即時に平らげ
それから中国に掛かって毛利と先陣する時に、明智の乱を告げ来る故、時日を移さず討って上がり、
主君の怨敵たる明智を滅ぼし紫野において信長公の葬儀を執り行い、朝廷に請うて御贈官をなし奉り、
一宇を建立して御位牌を崇めた。

こういった事の冥加であろうか、いま、私は図らずも貴き身となったが、土民であるから氏姓がない。
草刈りの成り上がりたる身であるので、いにしえの鎌足大臣の御名をよすがに、藤原氏を免されん。

この殊に、近衛(前久)殿より「いと易きことである。」とはからいがあった所、九条禅閤稙通公が
お聞き及びに成って、「摂家は何れも隔たり無いと言っても、長者は当家の事であるから、近衛殿の
思うままには成るべからず。」と主張したのだ。私はこれに

『物知りである九条禅閤公が仰るのだから、何か仔細があるのだろう』

そう思い、徳善院(前田玄以)に命じて近衛殿、九条殿を大徳寺に招いて、その相論を聞いた所、
『嫡流庶流の事、旧記、伝来の重器である近衛家の鎌、九条家の大識冠の真影(藤原鎌足の肖像)、
恵亮の法華経、狐丸の太刀、および三代の名記』等々、みずからの家が摂家の長者で有ることを示す
様々な証拠を提示して互いに争った。

この有り様に私は、このように耳遠き争いのある、難しい藤原の蔓葉になるよりも、思い切って今までにない
氏になったほうが良いと考え、右大臣(今出川晴季)と密かに議して上奏し、豊臣朝臣という新姓を
勅許されたのだ。」

その後、秀吉に関白宣下があったのを九条稙通は聞くと
「この職は他家が任じられる謂れはない。八百万の神、並びに春日の社の御罰かしこし」
と言われたが、はたして秀次事件の時に、近衛殿は薩摩坊津に、菊亭殿(今出川晴季)は信濃国に配流された。
その上、御女の一の台殿をも大路を渡し参らせた事など、古今に例無きことであった。
その頃建仁寺の十如院永誰和尚が詠んだ『道するに 車にあらで大臣を のするがごとしになふ棒の津』
というものも、この事を表しており、秀吉の世がその一世のみで、秀頼は滅びその幼子は河原者の手に
誅せられたのも浅ましいことである。

かの九条稙通殿は正しき御振舞のある人物であると、世に云い伝えられている。
織田信長公が上洛された時、洛中洛外まで、どのような身分の人々も我先にと馳せ参って
見参しへりくだっている所に、この公だけは立ったまま差し向かって「上総殿、御入洛大儀」
とだけ言って帰られた。これに信長も不快になり、「九条殿は私に礼を言わせるために来たのか!」と、
甚だ立腹したが、公は少しも恐れず「仮に一命を失っても家の恥を残すまじ」と語ったという。
これはその当時、間違いなく近くでそれを見ていた人の記録の中に見える。

(明良洪範)



726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 23:19:34.90 ID:Egezbr7G
上総って私称じゃなく正式に貰ったものだっけ?

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/02(土) 12:04:01.04 ID:E+o/sl1c
上総守名乗っちゃった

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/03(日) 09:59:16.53 ID:pKqmrBc2
>>728
守では無い!神だ!

734 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/03(日) 22:18:07.93 ID:tfj3Fdu4
>我が母が若き時に、内裏の御厨子の下女であったが

これはよっぽど出自コンプがあったのかな?
聞いてる方も辛いと思うわw


信長公には、王という事御存じなく

2011年12月01日 22:00

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/30(水) 22:55:39.05 ID:zWP3HEla
まとめサイトで検索かけたけど、探しきれなかったので一応あげます 既出だったらごめん

『明良洪範』より

信長公には若年の頃、王という事御存じなく、その頃、村井七郎右衛門(貞勝)
後に長門長春と申せし人、今日の所司を勤めし者なり
この人に申され候は、王というものはいかよう成るものにて候哉、厨子などに入れて置きたるものか
または人にて候やと尋ねられ候時、長門申し上ぐるは
今も人間にて、位高きものにて御座候と申す

その頃近衛龍山公(前久)、村井に御目を掛けられ候故に、まず龍山公を信長公へ知る人になし
それより度々の御出会もこれ有り、ようやく王という事御存知候由

ある時、尾張大根の見事なるを龍山公へ進上せられ、後にいかが料理成し候やと尋ねられける
龍山公御返事に、おろし大根の汁に料理候由仰せられ候えば、
信長公、さてさてうつけたる人かな、おろし大根には小さくても成る事なり、とて笑い給いし
されどもこの龍山公をば、もし敵軍と和談などの時、扱いにはしかるべき人なりと申されける


最後の文の通り、前久は信長と争う石山本願寺との講和や
耳川合戦以後の大友・島津間の講和斡旋などに奔走している




818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/01(木) 19:03:12.62 ID:cT4bqJGN
>>805
おろし大根なら小さくてもいいじゃねぇか! と突っ込まれたということは
この時の尾張大根てでかかったのかなぁ
と検索してみたらでけぇ! カブみたいのまである

織田信長と近衛前久の約束

2011年06月24日 23:02

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 02:08:06.44 ID:toclH5O3
>>331
こんな話あったんだ

近衛前久の話で、武田征伐の帰り道、三河の聖徳太子由来の寺に泊まったら
そこで太子由来の話だか物品だかを見聞きして、後日そのことを信長に話したら
「天下が落ち着いたら二人で見に行こう」と約束した。しかし本能寺の変であの
約束は二度と適えられなくなってしまった、と嘆いたという

細かいところうろ覚えなんだけど、こんな話が前久の日記だか手紙だかにあるそうだ




334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 09:18:11.06 ID:mCcEOogm
近衛さんと信長の話は心暖まる話が多いね
当時、友人になり得たのは立場が違う人だけだろうからねぇ

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/24(金) 09:55:00.50 ID:sEXZdTcG
近衛さんは天然っぽいからな~
天然系には信長さんは割と甘いっていう印象www

信長、泣いている老婆を見て

2011年03月11日 00:04

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 07:52:18.49 ID:DRaMbnj4
信長のいい話

行軍中、道端でお婆さんがうずくまって泣いてるので、信長が『どうしたんだ?』と尋ねると
『村長と対立し、嫌がらせで家を壊されてしまった。どこに住めばいいのか』というので信長は激怒。
そのまま村に行き『老婆をいじめて家を壊すとは何事か!』と。
村長に家を建てなおさせた。
信長が将軍義昭と対立したとき、近衛前久
『自ら立てた将軍を自ら滅ぼさねばならないとは・・・運命は数奇なものだ。後の世の人は
俺を「将軍を追放した悪者」と謗るだらうか。』
と落ち込んだという。
織田信長の意外な一面。

婆さんが一向一揆の信者だったらどうなっていたことやら・・・




144 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/10(木) 08:02:07.76 ID:NtDD0gAS
お婆さんは信長の足止めに成功した

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 08:13:05.31 ID:23/T0wvM
信長って部下以外には意外と優しい逸話が結構残ってるね
部下の家族とかのが多いけど結構思いやってる逸話も多い


146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 09:45:37.51 ID:iS7fQI7P
寄せ集め(戦国大名は大抵そうだが)を使ってそこまで勢力をのばしたのだから
面倒見がよくなきゃあ成り立たないでしょ

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 10:22:47.48 ID:vZROiVyl
普通は世間の正義が判断基準になるけれど、信長の場合は自分の正義が基準だから仕える方は大変なのだよな。

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 10:44:46.92 ID:bhxQwN9w
信長って、かなり世評というか世論ってものを気にしてるけどね
残った記録が多いだけなのかもしれないが、宣伝工作も大規模にやってるし
ただし、世論を気にして行動を変えるということはしないのだが

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 10:46:09.75 ID:mauyQIj2
本物の任侠は情に厚く堅気には優しいもんだ

150 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/10(木) 11:12:40.68 ID:S956SWOB
>>149
そんな任侠、映画にしかいない

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 11:28:40.34 ID:6h7z2PWj
>>149
老婆「と武蔵様と被官の方々がおっしゃりながらこの橋を行ったのでございます」

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 12:41:15.37 ID:yMicKBbw
ああ、もしばあ様や、後ろに槍が…

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 12:51:02.10 ID:FUdD551Z
>>151
鬼武蔵なら仕(以下略)