317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/16(水) 22:16:02.06 ID:i5spjsh6
宇喜多秀家の家臣に進藤三左衛門正次という者があった。
彼はかねてよりよく知られた武士であり、関ヶ原の合戦の後、秀家とともに逃亡したが、
やがて捕らえられ、家康より秀家の行方を尋問された。
正次は「私は秀家が敗走して後3日ばかり付き従いましたが、その後は主従別れ別れに隠れ忍んで
行方知れずと成りました。」と答えた。
家康はこれを聞くと「正次は君臣の義を重んじるが故に、その隠れる所を申さない事に疑いない。」と
却ってその忠義の志に感じ入り、金10枚を与え自分の元に留めおいた。
この時「秀家が秘蔵していた鵜飼國次の脇差しはどうなったか?」と尋ねたが、これに関しては
正次は関ヶ原の辺りで探し当て、家康に献上した。
さて、慶長8年8月、宇喜多秀家は潜伏していた薩摩から召し上げられた。
この時、本多正純、徳山則秀が彼を尋問したが、進藤正次に関して、彼は伊吹山中にて、
秀家を50日間に渡り深く隠し忍ばせたと、秀家は答えた。
先に正次は3日秀家に付き従ったと証言しており、その言葉と一致しない内容に、家康は
「その主を思うこと厚きが故に、己の美を殊更言い揚げなかったのだ」
と深く感じ入り、正次に500石を与え御家人に加えた。
(徳川実記)
徳川家康、宇喜多秀家の旧臣に感じ入る、というお話し。
関連
進藤三左衛門正次の節義・別バージョン
宇喜多秀家の家臣に進藤三左衛門正次という者があった。
彼はかねてよりよく知られた武士であり、関ヶ原の合戦の後、秀家とともに逃亡したが、
やがて捕らえられ、家康より秀家の行方を尋問された。
正次は「私は秀家が敗走して後3日ばかり付き従いましたが、その後は主従別れ別れに隠れ忍んで
行方知れずと成りました。」と答えた。
家康はこれを聞くと「正次は君臣の義を重んじるが故に、その隠れる所を申さない事に疑いない。」と
却ってその忠義の志に感じ入り、金10枚を与え自分の元に留めおいた。
この時「秀家が秘蔵していた鵜飼國次の脇差しはどうなったか?」と尋ねたが、これに関しては
正次は関ヶ原の辺りで探し当て、家康に献上した。
さて、慶長8年8月、宇喜多秀家は潜伏していた薩摩から召し上げられた。
この時、本多正純、徳山則秀が彼を尋問したが、進藤正次に関して、彼は伊吹山中にて、
秀家を50日間に渡り深く隠し忍ばせたと、秀家は答えた。
先に正次は3日秀家に付き従ったと証言しており、その言葉と一致しない内容に、家康は
「その主を思うこと厚きが故に、己の美を殊更言い揚げなかったのだ」
と深く感じ入り、正次に500石を与え御家人に加えた。
(徳川実記)
徳川家康、宇喜多秀家の旧臣に感じ入る、というお話し。
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進藤三左衛門正次の節義・別バージョン
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