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「続武家閑談」から那須家について、その1

2023年03月17日 20:03

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 23:44:52.92 ID:EK9u8NFn
https://news.yahoo.co.jp/articles/c83be0a1397225d3619b430d93954fd5e7e0ee46
烏山城についての記事があったので
「続武家閑談」から那須家について、その1

下野の那須資親には娘だけで男子がいなかったため、結城の子孫である白川義永の次男を養子とし、娘を嫁がせ資永となづけた。
しかし資久という実子が生まれたため、寵愛のあまりこちらを後継にしようと、家臣の大田原胤清・大田原資清の親子に
「資永を討ち、資久を後継に立てよ」と命じた。
このため大田原親子は資永の福原城を攻めようとした。
しかし資永は闇夜に甲士七、八人を黒羽城に忍ばせ、東出櫓に放火して注意をひき、そのすきに軍兵を忍び込ませて資久を生捕にして福原城に帰った。
ところが資永は敗北したため、資久を刺し殺し、自害した。
こうして上那須家は滅び、下那須家の那須資房が永正十三年(1516年)六月七日に上下那須を統一した。

岩城守隆は千余騎で資房の息子、那須政資の山田城を囲み、攻めた。
資房は後詰として永正十七年八月十二日に烏山城を出馬し宇都宮の援兵二百騎とともに山崎にかかった。
岩城は山田城攻めをやめ、山崎にむかったが、縄釣原で資房の伏兵二百騎にら突き立てられ、川岸に追い込まれ討ち取られていった。
岩城の羽翼である志賀備中・白土淡路は奮戦したが討ち死にした。
志賀の首を獲ったのは佐竹浪人の石沢五郎十七歳であった。
この時(1520年)、鉄砲というものがあり、岩城陣中に響き、天地を動かしたという。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 23:47:09.31 ID:EK9u8NFn
そののち宇都宮俊綱(宇都宮尚綱)は二千ばかりで喜連川五月乙女坂に陣を敷き、旗下の那須を滅ぼそうとした。
政資の後継の那須高資は三百余で烏山城を出馬し、天文十五年(1546年)五月十日、俊綱と矢合わせののち乱軍となった。
俊綱は伊王野(那須七騎の一人)配下の鮎ヶ瀬助右衛門(弥五郎とも)に射殺され敗軍した。
笠間の家人は主人に暇を告げ
「俊綱がすでに討たれなさったが、このまま爪痕も残さず手ぶらで退却するのは後代までの恥辱です。
わたし一人戦死をとげ、永く笠間の家名を高めましょう」
とと那須の陣中に駆け入り、敵三騎と力戦し、一騎を斬り落とし、討ち死にして名を万世に残した。(本人の名前は書かれていない)
戦後、五月乙女坂に俊綱の石塔を建てた。
(五月女坂は現在、俊綱を討った鮎ヶ瀬弥五郎の名前から弥五郎坂と呼ばれている)
宇都宮国綱(国綱は尚綱の孫、尚綱の息子の宇都宮広綱(当時7歳)の誤り)は俊綱の仇を討とうと、千本常陸介(千本資俊、那須七騎の一人)を調略して那須高資を殺そうとした。
那須高資は老母の元へ行き、千本の方へ行くことを告げたが
高資の老母は「昨日、千本親子がここに来ましたが、異心が見て取れました。千本へは行かぬように」と高資を止めた。
しかし運の尽きか高資は「裏切られる覚えなど関八州にもございません。お気遣いなさらぬよう」
と天文二十年正月二十三日、千本の城へ行き、常陸介に殺された。
嗣子がなかったため弟の那須資胤が遺領を継いだ。
千本は譜代の主を弑逆したにも関わらず、文谷・市花輪を領したため、諸人はこれを爪弾きし憎んだ。



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完璧すぎた城

2011年12月19日 22:00

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 22:03:58.89 ID:d4f0VdIO
完璧すぎた城


2つに分裂していた下野の那須家が併合されて初の当主となった那須政資が悪戦苦闘しながらも何とか
国衆の調整をし、ようやく家政も安定し始めた頃の話。
政資にとって懸念材料だったのは権限が肥大化しすぎた重臣、大関宗増の存在であった。
宗増は資房の嫡子、那須高資の傅役として早くも次期当主一の腹心といった立場をキープしており、
高資に家督を譲れば今以上の権力を握るのは明白であった。

天文8年(1538年)の軍議でついに政房と高資と宗増の対立が表面化する。
「宇都宮尚綱と同盟すべき」という政房と「宇都宮を叩き、小山高朝・結城政勝兄弟と同盟すべきだ」という
高資の主張は真っ向から対立した。
結局の所、大御所那須政房(政資父)や伊王野資勝らが現当主政資の意見に賛同し政資が押し切った形となったが
高資と宗増は大いに不満を持った。
そこで大関宗増は政資を当主の座から引き釣り下ろす策を考えて高資を唆し、高資もまたその策に乗った。

天文9年(1539年)9月、政資が留守にした隙に白旗城の大関宗増が挙兵。高資が
その兵を那須家の本拠である烏山城内に引き入れ、立て籠もった。
この反逆に政房は怒り、直ちに討伐軍を編成。宇都宮尚綱・佐竹義篤・小田政治らにも援軍を頼み烏山城を攻めた。
一方で高資に味方した軍勢はごく僅か。頼みにする所は難攻不落の烏山城の防御力のみといった感じであった。

だがこの烏山城の防御力が並大抵ではなかった。6ヶ月間攻めたが城内に兵が入ることすらない鉄壁ぶりで
連合軍も途方にくれた。
ついには高資が同盟した小山・結城軍が宇都宮・佐竹・小田の領地を荒らし始めたのでたまらない。
佐竹義篤は「もう和睦した方がいい」と政資に告げると帰ってしまい、宇都宮や小田もまた領国へ引き上げていった。

連合しても落ちなかった城が政資の用意できる兵で落ちる訳も無く、業腹ではあるが政資の方から和議を申し入れた。
応じた宗増はといえば強気に「那須政資が高資に家督を譲る事」に加えて
ついでに政敵である「伊王野資勝の引退」を和睦の条件に出した。
烏山城を占拠されたままではどうしようもなく、那須政資は高資に家督を移譲し、
伊王野資勝も息子に家督を譲って隠居せざるを得なかった。




424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 22:21:15.37 ID:SW5zeGpP
資清「城が堅いなら謀略を使えばいいじゃない」

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 22:28:08.58 ID:a1PAMBG4
高増さんに乗っ取られる前から大関は汚いな

烏山城は城下が燃えた事ぐらいは有るが城内に侵入された事は一度(一人が潜入したが即斬られる)しかないらしい。

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/18(日) 23:37:22.96 ID:GHi1UU0G
>>428
那須家が好きでよく調べてるのはわかるけど、逸話としては余計な情報が多すぎ


427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 00:06:06.60 ID:HbYKTJs1
>>425
m9(´・ω・`)次から気を付けろよ

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 00:07:10.27 ID:COksL3Od
おまえら安価間違えすぎだろ

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 11:01:59.41 ID:538nwExj
なんだ汚い人の話じゃないのか

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 11:15:07.36 ID:nYm2ctlh
>>425
那須家中で最も汚い人間が大関家の当主になるルールがあったんじゃないかと思えてくるな