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「続武家閑談」から那須家について、その3

2023年03月19日 16:25

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 21:12:48.31 ID:hUZBJPjA
続武家閑談」から那須家について、その3
全体的にはいい話だけど、1,2がこちらのスレだったので

那須家は勝利したとはいえ、上那須衆が日夜、烏山の北城にまで攻めてきた。
このように親類や友人が名を惜しんで戦うことを、大田原の金剛寿院住職の尊瑜は大いに悲しみ、那須氏と大関氏に戦をやめるよう説いた。
こうして永禄十一年(1568年)九月上旬、資胤の長子の那須修理大夫資時(当時十二歳の那須資晴?)十三才が従士十七人で大関高増の居城に入り、主従和睦がなった。
この戦いの間、大関高増は譜代の衆と干戈を交えたことを恥じ、剃髪して味庵(未庵)と名乗っていた。

資晴はたびたび佐竹・宇都宮と戦い、勝ちに勝った。
特に、天正十三年(1585年)三月二十五日、宇都宮国綱と壬生下総守(壬生義雄)があわせて二千五百騎で那須の薄場の原(薄葉ヶ原)に出陣した。
(天正三年説もあるがその場合は父の宇都宮広綱となる。
天正十三年説の場合、壬生義雄は宇都宮配下ではないはずだが)
資晴は先立って烏山城を出、沢村に駐屯して敵陣を望見した。
すると彦星が朝日に輝き、宇都宮方の鎧の袖をひるがえすこと、雲の如く、露の如くであった。
一方で味方勢は合わせて三百余であった。
敵は鯨波(とき)の声を揚げること三度であったが、味方は静まり返っていた。
この時、味方の馬廻り衆が駆け出した。
大関高増は「軍においては法があり、抜け駆けをするならば思いがけず敵に討たれるであろう」と制した。
すると予想通り、宇都宮勢が先に川を渡った。
味方の野伏ども百ばかりが川端にひしと立ち並んでおり、宇都宮勢を射た。
味方の大将の塩谷安房守(塩谷孝信)の手勢五十余騎は川中に駆け込み、敵の見廻り平塚十郎を射落とした。
こうして指揮が混乱した敵軍は進むことができなくなった。
味方の蘆野意教斎、蘆野日向は「先駆けを討たすな」と川中にさっと乗り入れた。
これを見た敵方は川から上がり、引き返した。
味方は勝ちに乗じて、射手を前に進め、騎兵は鉾先を揃え、一同に川を渡り魚鱗となって叫びながら切り立てた。
敵はたちまちに敗北し、坂東道十五里を振り向きもせずに逃げた。

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 21:14:59.82 ID:hUZBJPjA
宇都宮領との境まで来たところで壬生下総守の手勢二百余は東方に一町ほど退いたが、陣形はまんまるになっていた。
この様子を大関高増はじっと見て
「壬生衆の逃げる方向が誤っているにも関わらず、陣形が整っている。若武者ども、気をつけよ」
しばらく追いかけると案の定、壬生衆は鬨を挙げて反転して攻めてきた。
その間に宇都宮勢は熊下山を通り自領へ落ち延びた。
また大関高増の弟である福原安芸守(福原資孝)は、敵方の岡本右京亮(岡本氏宗?)が死を覚悟している姿を見て
「人手にかけるな」と駆け寄って討ち取った。
安芸守の鉾に当たった者はすべて命を落とした。
また牧野顕高(資晴の弟)の嫡子八郎は十八歳で熊下の麓に逃げる敵に槍を合わせ、組み打ちの功を挙げた。
もちろん牧野顕高自身もあまたの戦功があり、松野に大勢の敵が控えていたために味方は誰一人続こうとしなかったが、単騎で駆け入った。
敵を四方に追い散らし、太刀が折れたため引き返し、味方の軍勢に馳せ帰った。
「大空に塞がるほどの餅もがな 生ける一期にかぶり喰はん 蘆野の被官、藤田九右衛門」
と矢鞍の前輪に書きつけた侍は首を五つ持ち帰った。
そのほかの那須勢も、首を一つ二つ取らぬ者はいなかった。
資晴は「熊下山を越し宇都宮領に攻め込もう」と言ったが
大関高増は「宇都宮氏が今後も当家を付け狙うようなことは避けるべきです。
またこの度の戦いは味方が悪所で待ち、攻めてきた敵と戦ったために勝利を得たのです。
もし佐竹や宇都宮がこれに気づき、今度は平地で戦うようなら多勢に無勢となりましょう。まずは凱旋なさるべきです」
と諌めたため、資晴は我意を通さず帰城した。
翌日、蘆野意教斎は資晴に謁見し、昨日の功を賞された。
意教斎は「日頃の念仏を忘れ、六人斬り殺しました」と答えたそうだ。

そののち資晴は千本常陸介(千本資俊)が祖父の高資(高資は資晴の伯父)を殺したことを聞き、その仇を報ずるため
同年の十二月八日、大関高増、大田原綱清、大田原資則(福原資孝)の兄弟ら十四人と密談し、
千本常陸介とその子十郎(千本資政)を滝寺へ呼び出し、誅殺するよう命じた。
こうして千本家の跡目は茂木氏の次男が継ぎ、大和守とされた。
このほか、資晴が宇都宮氏と塩谷・喜連川・小幡にて小競り合いをしたことは数えきれないくらいである。

天正十八年(1590年)以降は豊臣の殿下に出仕したため、競り合いもなくなった。



722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/19(日) 08:52:03.01 ID:E5SxN48I
以前投稿された一連の那須家関連の話と比較すると
・上那須家滅亡:以前の話では那須資親の遺言となっていたため、大田原が偽造したのでは?と取れなくもなかった
・小田倉の戦い:以前の話では大関高増の助言によって那須資胤が切腹寸前まで追い込まれていた
・大崖山の戦い:以前の話では殿軍争いとはしていなかったため大関勢が適当な理由をつけてさっさと逃げたように見える
・千本親子誅殺:以前の話では大関高増の恨みから、としていた
続武家閑談は大田原や大関高増の汚さを抑えている印象
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大関氏の城、那須氏の城

2018年09月10日 21:08

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 09:46:44.12 ID:DXJY70FD
天正四年(1576年)、那須家中の重臣大関高増は、大関氏の居城であった白旗城を出ると、那須宗家の居城烏山城の北方に黒羽城を築きここに入った。
この時期の那須氏は白河氏を支援して佐竹と戦う構えを見せていたが、高増は長男の晴増を白河義親の婿養子として送り込むなど
那須氏の対外政策の主導権を握っていた。
その高増が築いた黒羽城は東西を那珂川・松葉川に囲まれた丘陵の上にあり、本丸を中の丸・北の丸・三の丸にぐるりと守られた鉄壁の構えを見せており、
家中における大関氏の存在感を存分に見せつける威容を誇った…と言うか、主家の居城を遥かに凌ぐ那須最大の縄張りを持つ堅城であった。

後に大関氏は主家を出し抜いて近世大名として名を残すことになるのは周知の通りだが、
居城を見るとこの頃には既にどっちが那須の支配者なんだか分からない状態となっていた。
大関と佐竹という内患・外患に挟まれた那須資晴もたまったものではなかっただろう、という意味で悪い話。

なお黒羽藩は関東では数少ない外様大名による支配が明治まで続き、黒羽城は大関氏のシンボルとして廃藩置県まで鎮座し続けた。
一方の烏山城は天保元年(1681年)に那須氏の旧領復帰がなされたが、わずか6年後に改易されて以降二度と那須氏の手に戻ることはなかった。



117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 10:42:39.65 ID:5szqQKC0
那須って大名に復帰できたのか…
そして改易されたのか…

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 21:04:15.45 ID:v1E6D+e4
>>116
大関高増の名前が出た時点中身見る前にこりゃ酷い話なんだろうな
と思ったら思ったより酷くない?と思ったのは毒されてるのかな
しかし1576時点でコレじゃ関東仕置きより前に秀吉に謁見した時の
大関一党は独立領主ですよって説明にも説得力ありすぎだな



118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 21:04:15.45 ID:v1E6D+e4
>>116
大関高増の名前が出た時点中身見る前にこりゃ酷い話なんだろうな
と思ったら思ったより酷くない?と思ったのは毒されてるのかな
しかし1576時点でコレじゃ関東仕置きより前に秀吉に謁見した時の
大関一党は独立領主ですよって説明にも説得力ありすぎだな

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 03:45:31.02 ID:nRue5DhT
大関家って高増の息子たちの歴代当主がことごとく短命なんだよなぁ。
その下の代でも、嫡男がいなかったり幼少だったりして兄弟で家督継承する例も多いし。

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 06:37:35.62 ID:sJg15PM7
呪いだよ

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 07:41:58.05 ID:l2BXtzEA
大関さんくらいで呪われるならもっと呪われてそうな家系いくらでもありそう

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 11:28:39.24 ID:oZ7p8Ouo
近世大名なんて江戸時代に血筋絶えてる家は幾らでもあるだろ
養子で家が存続してる方が多いんじゃね?

123 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/11(火) 15:25:01.66 ID:LBisfZrC
女系でも分家でも血が繋がってるとこはいいよ
完全に他家の養子の血筋になってる有力大名もよくあるじゃん
家老や家臣の方が本来の家系の血筋だったりとか

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 16:23:30.26 ID:ucgBqjD7
繋がっていたら繋がっていたで伊達順之助のような、らしい子孫も出てくるし
たしか繋がってるよね

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 23:26:22.73 ID:CQSDdH6X
血筋を守るために近親相姦を繰り返してると子供が障害児ばかりになって血筋絶えるってのは生物学的によくあること。
ホモ接合型が増えて劣性遺伝(昨今では潜性遺伝と言うらしいが)の遺伝病が顕在化しやすくなる。
まあ江戸期の大名達がそうだったかは知らんが。

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 01:19:48.46 ID:wTVa8PRY
>>121
広域はともかく那須地方での呪われ度は高そうだがな>大関家
まぁ大関さん那須家中で好き放題してるけど外敵に対しては心強いから
単に排除すればいいかって訳にもいかないのが困りどころか
ただ大関にとって邪魔者扱いされると外敵との戦闘中に謀殺されそうなのが怖いが

天正三年(1575)、薄葉原の戦い

2011年05月09日 00:05

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:10:34.78 ID:2t9a0UkF
抗争を繰り返してきた那須家と宇都宮家であったが、天正三年(1575)、那須資晴宇都宮広綱は薄葉原で激突した。

両軍は川を挟んで対峙したが、那須家の若者たちは戦が始まるのを待ち切れず駆け出した。
これを見た大関高増は大いに怒り、
「戦場において軍法が重大であることは常識であり、皆も知っているはずだ。
抜け駆けは無駄であり戦に負けるもとだ。不忠なことをするな。」
と固く制した為、那須勢は留まった。

対して宇都宮勢の先手は我慢できずに渡河を始めたところ、那須方の野伏は矢衾を作り、散々に射かけた。
宇都宮勢に動揺が走ったところに、那須勢は川を渡り宇都宮陣営に切り込んだ為、宇都宮勢は悉く逃げ出した。
しかし、逃げ惑う宇都宮勢にあって、壬生義雄だけは手勢三百余騎で備えを作っていた。
高増はこれを見つけると
「壬生の動きがわからん。皆、油断するな。」
と留まるよう下知をした。
案の定、壬生は逃げずに那須勢に突撃し、その隙に広綱は退却することができた。

壬生の奮戦は、那須・宇都宮両軍に影響を与えた。
壬生の姿を見て引き返してきた岡本右京亮は、ここが最期と決め、那須勢を相手に一歩も引かず戦った。
岡本の様子に触発された高増の弟、福原資孝はこれに負けまいと前進した。
資孝の太刀の前に出た敵こそ不運であり、彼に次々と斬られ生きて帰る者は無かった。

この合戦の勝利によって、塩谷郡は那須家の勢力下となった。



補足…出典『関東古戦録』の通りの年数・人物にしましたが、内容的に天正十三年(1585)の
薄葉原の戦いのことだと思います
(しかも、元の逸話では千本資俊誅殺と同年とされているので)。なので宇都宮家当主も広綱ではなく
国綱だと思われます。

特に落ちの無い話ですが、格好いい高増兄弟がなんか新鮮だったので…




467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:14:27.53 ID:95KYMaqM
なんとなく那須家強い理由が分かる気がするな
策が目立つあの兄弟でもきっちり戦の何たるかをわきまえてると…。

あれ?大関さんたち文武両道じゃね?

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:20:46.97 ID:cPSN1PUw
>不忠なことをするな。


あんたがそれを言うのかw

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:27:09.34 ID:PRMhrxEs
対外戦で余分な負けをつけるのは大関たちにとっても何の利もないどころか身の危険にもつながるわけで。

要らんところで軍法違反して敗因つくるのは奸臣から見ようと忠臣からの視点だろうと不忠だろさw

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:36:45.22 ID:hRh8kYHF
まあ残念ながら下野国の覇権争いって、佐竹と北条の動き次第で領国を蹂躙されてオシマイっていう危うさでもある…。

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:41:10.38 ID:TKVBR2+K
那須は辺鄙だからあんま攻められないけどな。

攻めてくる物好きは宇都宮と佐竹ぐらいのもんだが毎度火傷するし。

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 22:58:58.37 ID:voUUrQ8Z
>壬生の姿を見て引き返してきた岡本右京亮は、ここが最期と決め、那須勢を相手に一歩も引かず戦った。
>岡本の様子に触発された高増の弟、福原資孝はこれに負けまいと前進した。

ここがいかにも坂東武者らしくて好きだな
古い鎌倉武者のような異様な負けん気の強さと利害計算から離れた勇猛さが伝わってくる

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:01:38.31 ID:Pk0uFdOn
やっぱり有能な人物だったんだよな

いい方にも悪い方にも

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:02:47.97 ID:4w+ddfVk
那須が強かったのは火山灰の貧しい土壌と洪水の多い土地で貧乏だったから

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:31:40.12 ID:8i1yk1jZ
薩摩隼人がこっちを見ている