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「続武家閑談」から那須家について、その3

2023年03月19日 16:25

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 21:12:48.31 ID:hUZBJPjA
続武家閑談」から那須家について、その3
全体的にはいい話だけど、1,2がこちらのスレだったので

那須家は勝利したとはいえ、上那須衆が日夜、烏山の北城にまで攻めてきた。
このように親類や友人が名を惜しんで戦うことを、大田原の金剛寿院住職の尊瑜は大いに悲しみ、那須氏と大関氏に戦をやめるよう説いた。
こうして永禄十一年(1568年)九月上旬、資胤の長子の那須修理大夫資時(当時十二歳の那須資晴?)十三才が従士十七人で大関高増の居城に入り、主従和睦がなった。
この戦いの間、大関高増は譜代の衆と干戈を交えたことを恥じ、剃髪して味庵(未庵)と名乗っていた。

資晴はたびたび佐竹・宇都宮と戦い、勝ちに勝った。
特に、天正十三年(1585年)三月二十五日、宇都宮国綱と壬生下総守(壬生義雄)があわせて二千五百騎で那須の薄場の原(薄葉ヶ原)に出陣した。
(天正三年説もあるがその場合は父の宇都宮広綱となる。
天正十三年説の場合、壬生義雄は宇都宮配下ではないはずだが)
資晴は先立って烏山城を出、沢村に駐屯して敵陣を望見した。
すると彦星が朝日に輝き、宇都宮方の鎧の袖をひるがえすこと、雲の如く、露の如くであった。
一方で味方勢は合わせて三百余であった。
敵は鯨波(とき)の声を揚げること三度であったが、味方は静まり返っていた。
この時、味方の馬廻り衆が駆け出した。
大関高増は「軍においては法があり、抜け駆けをするならば思いがけず敵に討たれるであろう」と制した。
すると予想通り、宇都宮勢が先に川を渡った。
味方の野伏ども百ばかりが川端にひしと立ち並んでおり、宇都宮勢を射た。
味方の大将の塩谷安房守(塩谷孝信)の手勢五十余騎は川中に駆け込み、敵の見廻り平塚十郎を射落とした。
こうして指揮が混乱した敵軍は進むことができなくなった。
味方の蘆野意教斎、蘆野日向は「先駆けを討たすな」と川中にさっと乗り入れた。
これを見た敵方は川から上がり、引き返した。
味方は勝ちに乗じて、射手を前に進め、騎兵は鉾先を揃え、一同に川を渡り魚鱗となって叫びながら切り立てた。
敵はたちまちに敗北し、坂東道十五里を振り向きもせずに逃げた。

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 21:14:59.82 ID:hUZBJPjA
宇都宮領との境まで来たところで壬生下総守の手勢二百余は東方に一町ほど退いたが、陣形はまんまるになっていた。
この様子を大関高増はじっと見て
「壬生衆の逃げる方向が誤っているにも関わらず、陣形が整っている。若武者ども、気をつけよ」
しばらく追いかけると案の定、壬生衆は鬨を挙げて反転して攻めてきた。
その間に宇都宮勢は熊下山を通り自領へ落ち延びた。
また大関高増の弟である福原安芸守(福原資孝)は、敵方の岡本右京亮(岡本氏宗?)が死を覚悟している姿を見て
「人手にかけるな」と駆け寄って討ち取った。
安芸守の鉾に当たった者はすべて命を落とした。
また牧野顕高(資晴の弟)の嫡子八郎は十八歳で熊下の麓に逃げる敵に槍を合わせ、組み打ちの功を挙げた。
もちろん牧野顕高自身もあまたの戦功があり、松野に大勢の敵が控えていたために味方は誰一人続こうとしなかったが、単騎で駆け入った。
敵を四方に追い散らし、太刀が折れたため引き返し、味方の軍勢に馳せ帰った。
「大空に塞がるほどの餅もがな 生ける一期にかぶり喰はん 蘆野の被官、藤田九右衛門」
と矢鞍の前輪に書きつけた侍は首を五つ持ち帰った。
そのほかの那須勢も、首を一つ二つ取らぬ者はいなかった。
資晴は「熊下山を越し宇都宮領に攻め込もう」と言ったが
大関高増は「宇都宮氏が今後も当家を付け狙うようなことは避けるべきです。
またこの度の戦いは味方が悪所で待ち、攻めてきた敵と戦ったために勝利を得たのです。
もし佐竹や宇都宮がこれに気づき、今度は平地で戦うようなら多勢に無勢となりましょう。まずは凱旋なさるべきです」
と諌めたため、資晴は我意を通さず帰城した。
翌日、蘆野意教斎は資晴に謁見し、昨日の功を賞された。
意教斎は「日頃の念仏を忘れ、六人斬り殺しました」と答えたそうだ。

そののち資晴は千本常陸介(千本資俊)が祖父の高資(高資は資晴の伯父)を殺したことを聞き、その仇を報ずるため
同年の十二月八日、大関高増、大田原綱清、大田原資則(福原資孝)の兄弟ら十四人と密談し、
千本常陸介とその子十郎(千本資政)を滝寺へ呼び出し、誅殺するよう命じた。
こうして千本家の跡目は茂木氏の次男が継ぎ、大和守とされた。
このほか、資晴が宇都宮氏と塩谷・喜連川・小幡にて小競り合いをしたことは数えきれないくらいである。

天正十八年(1590年)以降は豊臣の殿下に出仕したため、競り合いもなくなった。



722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/19(日) 08:52:03.01 ID:E5SxN48I
以前投稿された一連の那須家関連の話と比較すると
・上那須家滅亡:以前の話では那須資親の遺言となっていたため、大田原が偽造したのでは?と取れなくもなかった
・小田倉の戦い:以前の話では大関高増の助言によって那須資胤が切腹寸前まで追い込まれていた
・大崖山の戦い:以前の話では殿軍争いとはしていなかったため大関勢が適当な理由をつけてさっさと逃げたように見える
・千本親子誅殺:以前の話では大関高増の恨みから、としていた
続武家閑談は大田原や大関高増の汚さを抑えている印象
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「続武家閑談」から那須家について、その2

2023年03月18日 18:25

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 11:08:49.65 ID:AlcKgmcq
続武家閑談」から那須家について、その2


会津盛氏(蘆名盛氏)・白川義近(小峰義親?)が三千の兵で、白河・那須の境の小田倉に遠征してきた。
那須資胤と資胤の弟である弾正左衛門(那須資郡、この頃は福原氏)は烏山城を立って、両荘(上那須・下那須)の勢五百余騎を引率し、
永禄二年(1559年)三月二十六日、敵陣に寄せて鬨の声をあげ、巳から未の刻まで戦ったが、劣勢となった。
特に上那須衆は敗北した。
資胤と資経(資郡)は敷皮に座し、
資胤「わしはここで切腹する。お前は那須に帰り家を継げ」
資郡「私がここで代官として自裁するので、御帰城なさってください」
と互いに言い合っているうちに、味方の柏原勢、三百余騎が隊列を乱しながら駆けつけてきた。
三輪村の野伏五十余人も率いていたが、その中に「岡源三郎、十七歳!」と名乗り、味方の中から駆け出した者がいた。
源三郎は敵の首魁の、会津四天王随一と言われた佐野源十郎の馬の首を射て、屏風を返すが如く倒した。
そこへ内藤右衛門が走りかかり、佐野の首を獲った。
これを見た資胤はみずから太鼓を鳴らし、下知した。
こうして騎兵百余騎が一同に敵に突入していったので、会津・白河勢は大勢討たれ、見向きもせず白河の関前の道を十五里も逃げ帰った。
那須勢は勝ちに乗じて白河まで侵入し、放火した。
翌日早朝に資胤は岡源三郎を召し出し、五郎左衛門という名を与えた。
この度の戦いで勝利したといっても上那須衆は敗北し、那須資郡のみが高名をあらわしたため、上那須衆を率いていた大関高増(大田原資清の息子)は嫉妬した。
これを推察した資胤は、大関の家臣の松本某に高増を殺すよう命じた。
松本は了承した風を装い、黒羽城の高増にそのまま語ったため、大関高増は大いに憤った。
そこで高増は佐竹義昭に属し、資胤・資郡兄弟を滅ぼし、佐竹の男子を那須の当主にしようと考えた。

永禄六年(1563年)三月二十三日、大関高増は兵を発して数度合戦におよんだ。
一方で主君に弓を引くわけには行かないと、上那須衆から烏山城勢に加わった者どもも千人余いた。

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 11:15:25.66 ID:ECgsNwLa
永禄九年(1566年)八月二十四日、佐竹軍将の東将監(佐竹義堅)勢・宇都宮勢・上那須勢が烏山城の西方の神長村の治部内山に遠征してきた。
烏山城から二百余騎が駆け出し、宇都宮・上那須勢を追い散らし、東将監を籠の中の鳥のように取り囲んだ。
千本常陸介(千本資俊)が使者となり、将監に降伏を勧めると、将監は降伏した。
こうして治部内山は「降参が峰」と呼ばれるようになった。
この度、敵の目には烏山城内に千人ばかり籠っているように見えたという。神力かと言い合ったそうだ。

翌、永禄十年(1567年)二月十七日、佐竹義昭父子は東将監が降参したと聞きたいへん怒り、上那須衆と合わせ二千余騎で烏山城より三十四町東の下境大河井山(下境大崖山)の麓まで押し寄せ、駐屯した。
ここは(佐竹勢から見て)後ろは大山、前は大河(那珂川)であった。
河を渡り船を捨てる故事は多いとはいえ、烏山勢が先に河を渡ったのは不覚であった。
とはいえ烏山勢二百騎は、一所懸命の地を捨てた者、那須家の重恩に報いようとする者、義を感じる者、と
野伏の中間に至るまで、名を後世に残そうと思うこと切なるものばかりなので、一歩でも退却する心持ちはなかった。
烏山勢は時を移さずうって出た。
佐竹勢は優勢であったが、ついに切り立てられ、大山に追い込まれ、若干討ち取られた。
佐竹側の上那須衆と長倉勢は互いに殿軍を争った。
そこで上那須衆の金丸肥前守は「こちらは烏山からは遠く地理に不案内である。
長倉勢は他国(常陸)の者であるが近辺なので地理も詳しいだろう」
ということで長倉勢に殿軍を任せ、上那須衆は先に退却した。
那須資胤は「上那須の者は一人も討つな、逃げるに任せよ。佐竹勢を討ち取れ!」
と陣中を駆け回り下知を下した。
この時、長倉勢はことごとく命を落としたという。
大将の佐竹義昭も草摺の端を射られたという。
この合戦で大崖の谷水が四、五日の間、朱に染まったそうだ。

またある時、那珂川が大洪水となったため、佐竹衆が国境に押し寄せ、放火しようとした。
しかし烏山方の五十余騎が河をさっと渡った。
中でも大久保民部、秋元豊後、森源左衛門の四騎が先陣し、民部が帰依している宗蔵坊という僧とともに河に飛び込んだ。
民部の馬がみなぎる波にさらわれ溺れるところを、(宗蔵坊が?)馬の両脚をとらえて突き上げ、民部が向こう岸に駆け上がったところ、
その勢いにおそれたのか、一矢も射ずに佐竹勢は退いたという。
こうしてその年は昨年と合わせて二年間、敵も味方も手負も死者も一人も出なかったという。



大関高増の逆心

2019年10月11日 16:11

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 13:55:59.33 ID:ODWSD4PY
下野国那須家には、党七騎(那須七党)と称する旗本が有った。いわゆる大関、大田原、芦野、福原、
千本、医王野、岡本である。中でも大関右衛門佐高増は智謀に優れ、七党の中でも抜きん出て、那須家の
柱石とも成っていた。しかし先年の小田倉原の合戦に先陣を切って手柄を立てて以来、党の他の輩からの
高増に対する妬みが増し、一方の福原弾正左衛門資経(那須資郡那須資胤の弟)の功のみを吹聴するので、
高増はそれが面白くなく、病と称して出仕しなくなった。

那須資胤はこれを怒り、また出る杭は打つに限ると思ったのか、大関の家人・松本美作守を呼び、
密かに高増を殺すように命じた。松本はやむなく了承して黒羽城へ戻ったが、その一部始終を高増へ語り、
御屋形様の命であり、これを断っては即座に誅せられると思い引き受けた、と言った。

大関高増はこれを聞くと
「罪なくして亡ぼされるのは無念である。そもそも殺す理由が不確かででたらめである。」
そう憤り、逆心を起こした。
彼はすぐに常州の佐竹義重に援軍を頼み、鳥山の那須資胤を攻撃することにした。この時佐竹と、
那須資胤を殺し、その二男である三郎義宗を迎えて那須家を継がせる内約を取っていた。

以後、黒羽の城に立て籠もって三年間、すなわち永禄六年の三月下旬より永禄九年夏まで、鳥山と
何度も繰り返し戦った。

(関八州古戦録)

大関高増の逆心について



506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 23:41:31.19 ID:TJDlXupl
黒羽城の芭蕉の館(奥の細道の際に芭蕉が黒羽に逗留したためこの名前)
の黒羽藩や大関氏一族の展示を見たら
外様にも関わらず江戸時代を通じて黒羽藩をずっと大関氏が支配していたからか
大関高増についてもここで言われてるほど黒くない印象だった。

展示されていた高増の伝記
・高増は大関弥五郎増次の養子であるが実は大田原資清の嫡男であった。
増次が戦死し、ほかに子供がいなかったため増次の父親の宗増は資清と和議して高増を大関氏の後継とした。
大関高増は資清が死んだ後は那須氏の重臣として政治的・軍事的に活躍した。
・>>503同様、活躍を妬んだ那須資胤により殺されそうになったため佐竹と組んで対抗。数年後資胤と和睦。
・和睦後、高増は未庵と号し、高僧・大蟲宗岑と問答。
自分自身を運命に翻弄されそうな存在とし、人生のあり方の悩みを宗岑に吐露したところ
「大切なのは過去ではなく今現在である」と諭される。
・主君の那須資晴に千本資俊・資政親子の討伐を命じられる。
高増は、資政に嫁がせていた娘を離縁されていたため、これ幸いと千本氏を殺害。
・小田原合戦の際、主君那須資晴に秀吉の元に参陣するよう説くが聞き入れられず、息子の晴増とともに秀吉のもとに出仕し、大関氏の所領安堵。

高増暗躍

2011年05月03日 00:00

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 23:18:30.15 ID:8RyvYDu7
高増暗躍

那須家分裂
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5047.html
↑に関する話。


主君那須資胤に処断されそうになった高増は佐竹義重に助けを求めた・・・というのが大筋の流れであるが、
それ以降の高増は驚くほどの迅速さで資胤陣営の調略による切り崩しにかかった。


まずは那須七騎の内、大関・大田原に工作の必要はない。
福原家はかつて資胤の弟である資郷が入っていたが、資胤の那須家督相続時に資郷が
森田氏に入嗣したので、高増の弟資孝を滑り込ませる事に成功しており、
まだ日が浅く資郷派も残っていたので掌握は完全ではなかったが、福原家はこの戦いで資郷派と資孝派に分裂した。
そして、伊王野家であるが当主資宗の母は大田原資清の娘であり、また前当主伊王野資直
大田原資清と懇意だった事もあってこちらの調略にも成功している。

続いて蘆野家であるが、こちらは那須資胤の妹婿であったものの地理的に那須家に味方しにくく、
去就を決めかねていたが
高増はそれを知るやすぐに駆けつけ、資泰の嫡男に娘を嫁がせることを約束して味方に引き込んだ。
これによって那須七騎で完全に資胤陣営に残ったのは那須を除けば千本家のみで、
あとは割れた福原や、大関家を乗っ取った高増を憎む大関家の古参ぐらいであった。

そして、七騎以外では稲沢家という小さな家があったがこちらは伊王野家とよく行動を共にしていたので
芋づる式に引き込みに成功し、
金丸家も当主義直が資胤に味方する事を決めたが、一門の金丸資満は大関高増の娘を娶っており、
高増が資満に働きかけて金丸家中を混乱させ、結局金丸家も高増に与すものが出始め分裂状態となった。


こうして佐竹家の進行前に那須家は徳俵に足がかかったような状態になってしまっていたのであったというお話。




977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 23:39:52.22 ID:sLafjqqG
ぱっと見の感想:高増汚いな高増汚い。

じっくり読んだ感想:伏線何重も張ってる資清汚な過ぎる。

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 05:48:18.45 ID:I7m/e0oK
資清も高増もあれだけ好き放題やって、長寿を全うしてるのが恐ろしい

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 05:53:10.55 ID:xVeB86Yo
そりゃ保身に成功したんだから当たり前っちゃ当たり前だ

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 07:32:59.94 ID:A4LePwAi
「俺がちょっと怒るとこれぐらい出来るんだぞ^^」って事か。

後々、何事もなかったかのように重臣に戻れたのはこれも理由にあるのかも。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 14:42:03.39 ID:P/RwscX3
この状態でも防衛戦には勝てる那須家

那須家の分裂

2011年01月18日 00:00

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/16(日) 22:52:39 ID:SsqYAh33
那須家の分裂(1)

小田倉の戦い(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4685.html)は大関高増の活躍によって那須・佐竹の
勝利に終わったが、
那須家当主資胤の高増への拭い難い不審感を生んだ。
また、他の那須七党たち(一部除く)も高増を恨んで福原弾正左衛門資郡(資胤の弟)の戦功ばかりを言い立てたため、
高増は怒って出仕を止めてしまった。

これを好機と捉えた資胤は、高増の家人松本美作守を密かに呼び出し、高増を誅殺するよう命じた。
仕方なく了承した松本だが、黒羽城に帰ると当然高増に打ち明ける。
「罪もなく殺されるのは納得いかないだろ^^;」
と、高増は逆心し、佐竹義昭に助けを求めた。

義昭の次男義宗を那須家の当主として迎えるという約束のもと、佐竹家重臣東左近将監政義率いる
宇都宮・大関合わせて三千余騎が烏山西方二十余町に布陣、
それに対し那須側は資胤兄弟をはじめとする一千二百余騎で迎え撃った。
数に劣る那須家であったが、千本秋縄斎・蘆野意教斎・秋元越前守らの奮戦により宇都宮・大関勢を押し込め、
那須勢を大軍と見誤った政義は降伏して常陸へ逃げ帰った。
(義政が那須勢を大軍と見誤ったのは那須八幡大菩薩が那須家を守護するために霊験を現わしたのだと
人々は噂した)

その後那須勢は高増の籠る黒羽城に攻め寄せたが、高増の指揮のもと城兵が奮戦し、さらに高増の弟
大田原綱清が高増救援に駆け付けたため、那須勢は囲みを解いて撤退した。


那須家の分裂(2)

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/16(日) 22:55:07 ID:SsqYAh33
那須家の分裂(2)

先の戦いの翌年、大関側の要請によって佐竹義重の陣代長倉遠江守当は茂竹左馬介・川井甲斐守・助川周防守ら
常州兵を率いて烏山東方三十余町のところに出陣した。
佐竹勢は川を前に陣取っていたが、那須の者たちにとってはよく知る川、難無く渡り佐竹・大関の間に割って入った。
那須勢は重代の家臣から野伏・一揆衆まで命を捨てて動き回ったので佐竹勢は壊乱し逃げ出した。

この時大関勢は「地元だけど在所から遠いから地形がわからない。長倉殿は攻めの案内者なのだから
殿よろしく^^」といって先に引いてしまった。
これを見た資胤は
「大関の連中は元々那須家の家来、最後には降参してくる。そのまま逃がしてやれ。常州の連中は
一人も打ち漏らすな!」
と息もつがず攻め続けたので、佐竹勢の大半は討死、長倉も負傷して引いた。
大河井の流れは四・五日も血に染まり、紅の楯を並べたように見えたという。

那須家の内乱は永禄六年(1563年)より足掛け6ヵ年も続き、討死・負傷した者は数を知れない。
永禄十一年(1568年)、金剛寿院の住職尊瑜法印が仲介に入り、和議が成った。
資胤の嫡男資晴が使者として黒羽城に入り、高増もこれ以上主家に弓を引くわけにはいくまいと、
正式に和睦を結んだ。
ここに周辺勢力を巻き込んだ那須家の内乱は一応終結した。





424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/16(日) 23:15:49 ID:hXEvT0hD
烏山中心に守りに入った那須家のしぶとさは異常

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/16(日) 23:40:38 ID:JElKcTQC
政治的に失脚したと思ったら復活するのが大田原党

この後も何事も無く重臣

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 00:36:25 ID:qkQrjqxi
北関東の戦いはいつも相手の止めを刺さないで政治決着で終わるな

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 00:53:26 ID:gWIIiGjx
>>426
洞中社会というのはそういうものだからな。
逆に言えばそういう社会の中で近隣をガンガン潰し回った政宗がどれだけ
異常な存在だったかと言うこともw

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 01:00:32 ID:c+m7gPcR
政宗はフナとかコイしかいない池に放たれたブラックバス

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 09:20:36 ID:UGRJdrcA
ドロリとした独特な味のドラマが生まれやすいので嫌いではないよ、洞の中の大名たちの逸話。

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 09:24:32 ID:DEOvGZBc
那須の当主は戦上手いの揃ってるしなぁ。
策謀上手いの揃ってる一族も抱えてるが…むしろ抱えられてるのか?

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 21:34:53 ID:+uZPg+Gn
千本や伊王野は思っただろうな

「あの時滅ぼしておけば良かった」と



関連
高増暗躍
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5377.html

小田倉の戦い

2010年09月29日 00:00

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 23:54:14 ID:iU4/z8Gg
小田倉の戦い


1560年、関東に勢力を伸ばし始めていた上杉景虎に恭順の意を示さなかった那須家は上杉家の同盟相手である
蘆名・白河結城家の侵攻を受けた。
これに対し那須家当主、那須資胤は徹底抗戦を決意し先立って兵を進め白河領内に布陣した。

しかしながら兵は蘆名・白河連合3000に対して那須家はわずか600・・・まともにやりあって勝ち目はないので
那須資胤は佐竹からの援軍を頼むことにした。
当時の佐竹家との交渉役は大関高増。高増は交渉を見事に成功させ、荒巻為秀率いる1000の軍勢、
加えて高増とその弟の大田原綱清率いる100の軍勢が本隊に合流した。
しかしながらまだ圧倒的に不利である。ここで高増は資胤に『佐竹義昭からの言付け』と前置きし策を話した。

高増「地形的には小田倉原に本陣を置き、進軍してきた敵の隊列が伸びきったところを
側面から伏せていた兵が動けば必勝であるとのことです。」
資胤「皮籠原の方が良いのではないか?」
高増「白河城から近すぎます故に側面の兵が崩したとてすぐに後詰めが来るでしょう。」
資胤「なるほど・・・それで行こう。」

こうして資胤率いる600は小田倉に本陣を置き、夜闇にまぎれて大関・大田原・荒巻1100はそれぞれ
側方に展開し伏せるという布陣を取った。
そして翌日、その布陣を見た蘆名・白河連合は動いた。まず、連合軍の内1000が那須本陣に襲いかかる。
那須家も戦には強いので数では劣るが負けてはいない、戦況は互角であった。痺れを切らした連合軍は
更に1000を那須本陣の攻撃に当たらせた。
こうなると流石に那須本陣も苦しくなってくる、しかしまだ側方に伏せた軍勢は動かない。
ついには資胤本人も負傷するほどの大乱戦となり、弟の森田資郡が辛うじて支えているという有様であった。

資胤「おのれ・・・謀ったな高増!わしでここで自害する、あとは頼むぞ資郡!」
資郡「おやめ下さい!ここで兄上が自害すれば総崩れですぞ!」

こんなやり取りまでされる絶体絶命の窮地に本陣が追い込まれたところでようやく大関・大田原・荒巻が動いた。
すっかり隊列が伸びきっていた連合軍は崩れ始めるが、蘆名にはまだ動いていない本隊の兵がある。
そこで遅れていた千本資俊率いる100の軍勢が怒涛の勢いで蘆名の本隊に迫った。

蘆名「なに・・・まだ伏兵が?これは迂闊には兵を進ませれぬ、退けー!」

実はただ千本の軍勢は遅れてやってきただけであったのだが警戒した蘆名勢は進軍出来ず撤退を始めた。
こうして小田倉の戦いは那須軍の勝利に終わったのである。しかしながら資胤は納得がいかない。

資胤「高増!あの動きの遅さ・・・貴様一体どういうつもりだ!」
すると高増はいささか呆れた様子でこう答えた。
高増「遅れた?遅れたのは資俊殿でございましょう。私は那須家の勝利のために時期を待っただけです。
それによく引き付けねば作戦の意味がございませぬ。」
資胤「抜け抜けと・・・わしが討たれるのを待っていただろう!」
高増「何をおっしゃいます・・・被害も最小限で奥州勢を破ったでございましょう?那須家の勝利でございますぞ。」
資胤「何故蘆名を追わぬか!」
高増「それは無理です。蘆名の本隊が無傷なので深追いは危険でございましょう」
資胤「・・・」


正論といえば正論であるが資胤のこの時感じた高増・・・ひいては佐竹家への不信感は拭われることはなかった。




326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 23:59:01 ID:72ZG448q
さすがは冷血動物の大関さん

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/28(火) 00:41:28 ID:JRAHBZqz
大関高増ってやっぱり人を見下してるよね。