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Wikipediaの津田秀政の項目一部抜粋

2021年02月10日 18:25

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/10(水) 00:35:27.60 ID:dCK4U9vQ
Wikipediaの津田秀政の項目一部抜粋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E7%A7%80%E6%94%BF


慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)、家康に従い会津征伐、関ヶ原の戦いで功を挙げ、3,000石を
与えられて計4,010石余の大身旗本となった[1]。この時、名物唐物茶入の「安国寺肩衝(あんこくじかたつき)」を拝領したが、後に細川忠興に持ち去られた。
細川忠興に持ち去られた「安国寺肩衝」(現:五島美術館蔵)は、寛永3年(1626
年)の旱魃の際に細川忠利から金1,800枚で庄内藩主・酒井忠勝に売却され、領民救済の資金となったと伝わる。

参考
細川忠興と『有明の茶入』


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丹羽山城、池田勝入討死の様子を語る

2020年12月16日 17:32

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/16(水) 00:15:38.93 ID:12ezX11T
丹羽山城、池田勝入討死の様子を語る

池田家家老の丹羽山城は、四男の兵部を幼少から幕府に証人(人質)として詰めさせていた。
ところが寛永元年(1624年)兵部が18才になったので、76才の山城は江戸に下って
酒井雅楽頭(忠勝)にそのことについて色々嘆いたのでそれが将軍・家光の上聞に達した。

山城には登城とお目見えが仰せつけられて、御前で雅楽頭から
「勝入様(池田恒興)の御討死の様子をくわしく言上するように」
と言い渡されたので、山城は
「慎んで申し上げますが、即座に委細の義を申し上げるのは難しいので考えて言上します」
としばらく考えてから、物覚えの通り有り体に言上した。

そうしたところ、前々から聞いていたことと少しの相違もないので(家光が)神妙にお思いになり
山城は上意で御紋付きの御羽織を拝領した上、証人も御免になったので
兵部を鳥取へ連れ帰ることが出来たという。

――『吉備温故秘録



この吟味を三四郎に仰せつけられたのは

2019年06月28日 18:52

48 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/28(金) 18:19:00.29 ID:dyezkOlD
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8784.html
これの若干異なるバージョン

(酒井)忠勝様から伊達政宗様へ送られた書状を右筆が封じ違えており、他へ送る書状であったため政宗様は添え書きをなされお返しになった。
忠勝様は立腹され、役人を召し「すぐに吟味するように。右筆の糾明は北条三四郎に申し付けるように」とお命じになり、この書状を居間に置かれてご登城になった。
三四郎は筆跡を吟味する体を装いこの書状を焼却した。
ご退出の後忠勝様は吟味の様子をお尋ねになった。
三四郎は「筆跡の吟味をすれば筆者が誰か分かるでしょうが、(右筆のミスは)誤ってのことなので無益の吟味だと思い、書状は焼却しました」と申し上げた。
忠勝様は「軽率なことだ。しかしあの書状がないのなら吟味する手がかりもない」と仰って事が済んだ。
この筆跡の吟味を三四郎に仰せつけられたのはお考えがあってのことに違いないとご家中は感心した。

(仰景録)



池田光政、お見舞いのお菓子を作る

2018年12月29日 17:15

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/29(土) 16:10:06.29 ID:0XdPBbAf
池田光政、お見舞いのお菓子を作る


御大老の酒井雅楽頭(忠勝)が(病気で)御不食のとき、御大名方が珍味を贈り物に
していたので、公(光政)も何か(雅楽頭に)差しあげたいと思われた。
御膳奉行を呼んで相談したところ、浮麩*がよいということになったので、赤小豆をすり
米粉を取り寄せて、御自身で拵えて小さい重箱に入れられた。
(光政は)御留守居役を使者として遣わしたが、余りにも少ししかないので(雅楽頭が)
気分を害されるかもしれないと使者は思いながら参った。

御口上を申し入れると、御使者へ逢われるそうなので待つようにと言われ暫くして
奥へと段々通され居間の襖障子が開くと、そこに(雅楽頭が)いらしゃった。
「新太郎殿(光政)の御使者に、懇意の贈り物のお礼を申せそうにありません。
 最近は何も食べられなかったのですが、御親切のお礼に食べてみせますよ」
と仰せられ、快く一つ分を召し上がった。

このことを帰ったら申し上げるように伝えられていたので、(光政は)殊の外お喜びに
なり、御使者も存外の首尾で帰ってくることが出来た。


ーー『率章録』


この私が継いだことは冥利の程にも恐ろしい

2018年09月09日 18:20

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/09(日) 18:04:43.89 ID:jrybM0LQ
これまで天下のことは権現様(家康)が骨を折られて、矛先において天下を納められ、
沈毅である台徳院殿(秀忠)が御跡を継がれられここまで天下を治められてきた。
このことは唐にも日本にも稀なことであり、
その後を不肖の身であるこの私が継いだことは冥利の程にも恐ろしいことである。
これまでどうにか天下が治まるようにと朝に夕にと工夫してきたが、
あまつさえ近年は病気がちで天下の政事もうまく務められてはいない。
このことについて両御所(家康・秀忠)はどのように御思いになっているだろうかと心配になっている
だから昨日も其方(酒井忠勝)へこの思いを詳しく語って聞かせたのだ。

(小浜酒井家文書)
寛永18年(1641年)8月5日付酒井忠勝徳川家光御内書


古びて見苦しいからと言って、

2017年12月29日 16:42

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:10:25.04 ID:/1erROHT
大津の代官である小野半之助が、酒井讃岐守忠勝に申し上げた。
「勢多は海道往来の橋であり、殊に古代よりの名橋でありますが、現在では殊の外古く、見苦しく
なっております。ここ2,3年のうちに架け変えられるべきであると考えます。」

忠勝はこれを聞くと
「その橋が破損して、往来の人々が怪我や事故の危険があるのなら、どうして2,3年など待とうか、
早速に架け直すべきである。しかし修復によって持ち怺えられるのならば、修復で済ませるべきだ。

総じて橋というものは、『御代静謐久しく、この橋は何代にわたって伝わっている。』などと
言われるものであってこそ、兵乱の無い、天下静謐の印となる。

古びて見苦しいからと言って、改め造るべきではない。」

(武野燭談)



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:28:05.56 ID:/LKuYwzf
>>544
毎年年度末になると大して痛んでもない道路を舗装して予算を消費する現代の政治家に見習って欲しい。

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:30:41.94 ID:LnqXQjAm
政治家はドカタのバイトでもしてるのか?

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:43:31.79 ID:QiWPbY9p
>>545
それは舗装が目的じゃなくて水道、ガス、下水などのメンテだ。

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 17:58:27.71 ID:hSRdluK6
>>545
電線を埋める工事もやってるぞ

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 21:05:12.09 ID:aDvRL7jL
勢多の橋というと織部の擬宝珠の話が思い出される

第一の善政

2017年12月28日 11:09

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/28(木) 09:43:56.19 ID:SVRKQu46
品川・川崎の間を流れる川を六郷といい、その上流は玉川であり、江戸の南第一の大河である。
また江戸と本所との間に流れる川は隅田川の末にして、これも又城東の大河である。
みな要害第一の設と見える。であるが、この両川の往来、渡し船を待つ旅人、行客の
難儀を計り、酒井讃岐守忠勝は推して申し上げ、大橋を架けた。

「御用心向き如何か」
そう言う人があったのを、讃岐守は笑った

「天下の将軍は、人を以って城とし、人を以って垣とする。
その人を難儀させてしまっては、城にも垣にもならず、何の用にも立たない。
そもそも川を以って敵を防ぐような政道に成り下っては、江城は一日も守れないであろう。
ただ諸人が迷惑しないように仰せ付けられるこそ、第一の善政である。」

(武野燭談)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/28(木) 11:16:09.20 ID:TGrYJby2
大井川はいいのか?

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/28(木) 16:14:17.67 ID:iZWLj2wC
江戸川も

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 00:44:05.29 ID:rMgdWzCk
大井川に架橋って防衛目的もあったろうけど、技術的に大変そう
蓬莱橋なんか平成に入ってからも何度もぶっ壊れてるし

“井伊家の一本槍”

2017年06月18日 16:11

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 04:52:56.99 ID:jFVDgUyD
台徳公(徳川秀忠)御上洛の時、彦根城を御旅館になさるとの由を御沙汰につき、
井伊直孝は将軍家を敬うあまり、家中の妻子家族を皆近郷へ立ち退かせた。

この事を台徳公は御聞きになり、彦根城へ御立ち寄りもなく、直に大津へと御出に
なったので直孝は大いに驚き、そのまま彦根に閉門して御沙汰を待った。

その後、台徳公は「旅館になる城は屋敷内へ小屋を建てて、そこへ家中の妻子を
入れるのが然るべきというのに、直孝はいかなる所存で家中の妻子を近郷へ立ち
退かせたのか。実に不審である」と、仰せになった。

それから御下向なさるという時、直孝は、「このまま京都に閉門して慎んだほうが
良いだろうか?」と、酒井忠勝へ内々に問うた。

忠勝は答えて「そのまま彦根にいても然るべきではない。供を少し連れて槍一本を
持たせ、密かに御後から下り申されるべきでしょう」と、言った。

直孝はその通りにして慎んで下った。台徳公は三島を御通行の折に仰せになって、
「直孝は下ったか?」と御尋ねになった。忠勝は答えて、

「供に3人を召し連れて慎んで御後に付き、供奉仕っております」と申し上げたので、
台徳公はやがて直孝を召し出され、御言葉を御掛けなさったということである。

“井伊家の一本槍”はこの時より家例となったのだとか。

――『明良洪範』


44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:17:19.00 ID:5kXMhSIL
>>42
今思ったけど井伊って織田家中での明智みたいな立場なのか?
外様だし京までの道筋にある場所を任されるって

〔若州〕小浜城の旧地、泣珠明神之こと

2017年05月28日 15:59

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/27(土) 21:31:23.71 ID:zH6PkXyL
〔若州〕小浜城の旧地、泣珠明神之こと

 天祥寺の僧によると、今の酒井修理大夫の若狭小浜城は以前は別の所にあり山城であったが、猷廟(徳川家光)の御時になにか訳があって今の地に移された。
今は平城であるという。
ところでその山城の中腹に古墳があり今は神を祀っている。泣珠(ナキタマ)明神と号している。
祠も大きいとおもわれその額は後水尾帝の宸翰であるという。
(小浜の山城は昔は名を白雲城といったそうだ。今の城地はなんというのだろうか。
また古城は白雲というのだからその山はさぞ高いのであろう。
山腹の古墳という言葉と合点がゆく。その地を見たいものだ。)

この神は、昔神功皇后の御時三韓退治の御軍に従った臣であったが、
何か策謀を漏らした罪により韓土からそのまま今の地へ配流され、小浜が墓所となったとか。
〔この神功皇后の韓征の従臣というのはこの神に限らない。
予(松浦静山)の城下(平戸城)で崇拝されている神社に『せ郎権現』と号すものがある。
小さい神社であるが、同じく韓軍従行から帰った臣の葬地であるとか。
きっと、諸所にこの類の遺跡があるのであろう。〕

神を泣珠と号すことは土俗に伝わっている。
往古の干珠満珠と称す軍略があり、これを言い漏らしたため流された事が碑文に見えるそうだ。
〔この碑は、祠の前に在るとか。僧が語ったまま記した。〕

泣珠神は俗体となった後の子孫が十家あり、今も連綿として能入(ヲニフ)村という所に居住している。
しかし言い伝えのみで、系譜等は有らずとか。

 この能入村にもまた泣珠の祠が在って、毎年六月十五日に祭礼がある。神功皇后も祭っている。
神官がかの神前につき、泣珠の神の御許しを申し湯立を行う。
そうして、湯が沸き昇ってほとばしり飛ぶときは神功皇后が御怒であるといい、
神官が御許しがないと唱えるとか。

こういことがあったが、近頃京都所司代となった若狭守〔小浜侯〕(酒井忠進?)が幸い領分のことなので、
この神のことを禁裏へ告げて御赦免を乞い願った。
罪を赦す勅定が下ったので、今は神の怒りのことは止んだとか。
あやしいことどもである。

(甲子夜話三篇)


大人・公子の御身として、幽霊女の真似など

2017年03月14日 17:39

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 17:34:44.98 ID:T6KbAzrH
ある年のこと、尾張大納言徳川義直の元に酒井讃岐守忠勝が訪問した時、馳走にと
嫡男五郎太殿(後の徳川光友)による能興行があった。
この時、五郎太の手の舞い、足の踏む所、自らの拍子を、『讃岐守はきっと感賞するであろう』と、
義直は自慢げに見せるのを、忠勝は一切褒めず

「勿体なき大事の御身でございます。どうぞ余人に仰せ付けてください。すでにご器用なのはよく解りました」
(勿体なき大事の御身にて候。只余人に仰せ付けられ候へ。最早御器用の程は見え申したり)

と、しきりに止めようとした。立ち返ってから

「武家は何度も武を賞賛されることこそ本意である。大人・公子の御身として、幽霊女の真似など、
全く益がないではないか。」
故に全く感心できなかったのでやめるよう言ったのだと、成瀬隼人正正成に語ったそうである。

(武野燭談)


666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 21:27:44.11 ID:BQ1j7HGy
でも武を見せつけると謀叛の疑いをかけらるんだろ

人にとっては、一言であっても

2017年03月07日 21:37

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 00:36:04.14 ID:sUTcU+gp
寛永14年、肥前島原にて切支丹宗門の一揆が起こった時。江戸より総軍令を遣わされることと成り、
将軍家光のお側に伺候していた板倉内膳正重昌が選ばれた。
ところが、その頃内膳正は病を患っており、老臣以下このことを聞くと

「別にこの役儀に相応しい器量のものを選ばれ、内膳正は御免あるべきではないだろうか。」

そう内々に相談し、何れも尤もであると賛同し、この趣を将軍家に申し上げることに定まった。
そこで大老である酒井讃岐守忠勝まで話を上げると、忠勝は聞くやいなや

「あなた方は内膳正という人間を解っていない。彼がこの度の御使を承りながら、病気のため
御免となったと仰せになれば、忝しとはよもや思わないだろう。
殊に、別人に代わりの軍監を仰せ付けられたと承れば、忽ち自害するような人物である。
ただそのままに、島原に遣わされるべきである。
仮に道中にて病死したなら、その時こそ代わりの人を使わさせるべきだ。」


「そのような事になれば、何かと日数を経る内に、一揆の蜂起はますます広がって
しまうのではないだろうか?そのことをどう思われるのか?」

この反論に讃岐守は笑って
「あれは土民の一気に過ぎない。一体誰が彼らに味方するというのだろう。
もしまた、この混乱を幸いに、幕府に対して反抗の色を立てる者が居れば、それこそ
我々にとって良き対応を試みる、良い機会となるだろう。
尚以て、板倉こそ遣わされるべきだ。」

内膳はこのことを聞き伝え、大いに喜んで早速準備をし、嫡子である後の内膳正重矩、
当時16歳であったのを同行させ、命を受けた即日出陣した。


しかしその冬の軍は思いの外手間取り、その事は将軍家まで聞き及び、重ねて松平伊豆守信綱を
差し向けられるべしとの事となった。

これを大久保彦左衛門忠教が聞いて、心易い同輩にこう囁いた
「あたら内膳正は討ち死にするだろう。不憫な事だ。」

彦左衛門察しの如く、松平伊豆守が発向したとの情報を聞くと同時に、板倉内膳正は一揆に猛攻を
仕掛け、深入りして討ち死にをし、息子重矩も深手を負った。

内膳正はこの日を討ち死にと覚悟し、出立の時、息子重矩に向かい
「私は今回、酒井讃州の一言によって、忝なくも総軍の支配を承った。
お前は相構えて、讃岐守の子孫に対し、無沙汰をしてはならない。」

そう重矩に、くれぐれもと言い含め打ち出たのだという。
人にとっては、一言であっても大事になる事もあるのだ。

(武野燭談)


御当家からの御恩賞

2017年03月04日 18:25

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/03(金) 19:14:23.15 ID:thma4rS3
出雲少将・京極若狭守忠高が死去した時、実子がなければ領国を改易するのがその当時の決まりで
あったため、忠高の領地は召し上げられるという事となったが、かの京極家は数代の名家であったため、
将軍家光も惜しく思われ、忠高の甥である刑部大輔高知にかの家を相続させ、京極家の本領である
大津六万石を所領させるように、との沙汰があった。

これについての評議の場で、幕府重臣たる井伊掃部頭直孝は反対した
「京極家と鳥居家は、双方慶長五年の関ヶ原にて籠城した人々です。その上で一人は城を守って
討ち死にし、一人は城を開いて立ち退きました。

そして、京極家は百年を重ねた名家であるからと、その子孫には出雲・隠岐二十四万石を与えられました。
鳥居家は当家御譜代であり、その節死もあり、それら忠義を思し召し、元和八年羽州最上にて、
二十四万石を与えられました。

ところが、鳥居伊賀守忠恒が早世して子無き故に、去る寛永十三年でしたか、その苗字ばかりを残され、
忠恒の弟である主膳正忠春に三万二千石を下されました。
それなのに、京極刑部に六万石は多すぎるのではありませんか!?」

人々、直孝の理に納得したが、これを聞いた酒井讃岐守忠勝は
「掃部頭の申される通り、大津・伏見の籠城の功、鳥居が討ち死にしたのも、京極が城を開き
渡したのも、その功に勝劣はない。何故ならば、京極が大津城に立て籠もったために、上方勢2万余りが
関ヶ原に向かうことが出来なかった。すなわち二万の敵を京極高次一人が支えていたのだ。

また、それぞれの家について吟味するなら、鳥居は三河侍譜代、京極は御当家同列の大名であった。
我々のような譜代は、子孫が如何様に召し使われ、領地残らず召し上げられ、御扶持米で
召し使われることと成っても、どうして不満を申し上げるであろうか?
そのような異議を申し上げない所が、御譜代の第一の慎みである。

また将軍家も、父祖の功を思し召されたが故に、鳥居彦右衛門(元忠)の本領(下総国矢作領)と
同程度の石高を与えられたのだ。

京極家も一旦御味方申して、終始志を翻さなかった。
これらから考えれば、大津の禄六万石はかの家の本領であり、御当家の御恩ではない。
しかし本領と同程度の石高を以って京極家を存立させるのは、御当家からの御恩賞となる。
御譜代と諸侯との違いを、誰が批判するであろうか。」

これに、人々はまた尤もであると評議一同して、上達の上にて讃岐守が言ったように
京極高知には六万石が与えられ、大津ではなく播州龍野の領主に仰せ付けられた。
その後彼は、萬治年中に讃州丸亀に転封した。

(武野燭談)



690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/03(金) 20:44:08.53 ID:Au4U/eJZ
>>689
名裁き!

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 22:00:26.04 ID:x2xTiC3w
>>689
そういえば関ヶ原は近江勢vs尾張勢の戦いとかいう話があるけど
近江守護だった京極氏の京極高次籠る大津城の戦いと、
尾張守護代だった織田氏の織田秀信籠る岐阜城の戦いが
大勢を決した、と言ってもいいかも
問題はそれぞれどっち側で戦ったか、だけど

この八十島は

2017年02月11日 17:06

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 03:22:48.92 ID:9KjJhSaN
藤堂和泉守(高虎)一代の事を書いた巻物を大献院様(徳川家光)の御前で誰に
読ませなさるべきかとのことになった時、

酒井讃州(忠勝)は「ここに道春(林羅山)がおります」との事だったが、和泉守は、

「私めの一代の大事のことを書いた物ですから、道春などは如何なものでしょうか。
始終を存じている者に、読ませたく存じます。私の家来の八十島助左衛門を召し
連れておりますが、如何でしょうか?」

とのことであった。そこで阿部豊州(忠秋)が挨拶して、八十島を御前へ召し出し、
巻物を読ませなさったのであった。

この八十島は石田治部少輔(三成)の右筆だった。太閤逝去のことを石田方から
源君(徳川家康)へ申し上げた時、そのために遣わした者である。

後に和泉守の家来となり、法体の後に道壽と願い申した。その子もまた助左衛門
と称した。

――『武功雑記』



615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 10:10:50.18 ID:C0rHEjqo
関ヶ原であの鬼島津を激怒させた人物だな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 21:09:17.19 ID:Ef6mH3qv
>>614
俺が家光だったら、三成に身近に仕えた奴が来たら
僅か佐和山19万石の身分で西軍を取り仕切ってた
石田三成はどのような人物だったか直接聞きたいわ
高虎の出世自慢話なんかよりもな

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:12:11.42 ID:nMor2Kps
>>618
真面目な話、当時は正軍首脳部に参画していた人間もまだ生きていたのだから、石田三成
どういう立場だったかなんて、自明の理だったと思うぞ。

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:25:57.30 ID:24fLrA8I
七将に狙われて家康に匿ってもらったヘタレです

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 11:35:04.27 ID:vMpwbjHL
それデマだってな

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 13:09:17.50 ID:PNwm5RpP
伏見の徳川屋敷に逃げ込んだ話の出典がわかれば、このスレに収録してもいいかもね

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 16:32:28.50 ID:V4JJPw4p
結果的には圧勝で終わったように思われてる関ケ原だが
秀忠遅参で内心かなり焦ってたろ糞漏らし

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 21:02:48.98 ID:WwSHWUY/
>>623
昨今は関ヶ原の決戦に関しては、もう何がどうなっても東軍の勝ち、といった感じだな。

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:35.16 ID:PNwm5RpP
関ヶ原って、小松山に立てこもった小早川秀秋救援のための後詰決戦だったんじゃないの?

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:57.03 ID:eMYpu3XQ
いくらなんでも楽勝って事はないという感じで改めて研究した結果
以前よりも西軍がどうしようもなかった事が判明してより可能性がなくなるというオチ
悲しいなぁ

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:23:30.24 ID:1F6Bnp81
>>626
吉川の位置が悪い

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 14:49:27.23 ID:6cpqPOvC
>>628
今では毛利の東軍への寝返りは、毛利輝元自身の指示だったという
説まで出ている。

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 15:23:18.87 ID:JiWMRDCO
岐阜城陥落の時点で負けを見越して生き残る為に動いてるしな

小浜の八幡祭の人形

2016年12月12日 21:00

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 21:20:52.56 ID:xOdljRep
小浜の八幡祭の人形

 若狭の小浜侯〔空印居士(酒井忠勝)か〕が初めて封を賜った年(寛永十一年、1634年)、
城下の大津町に八幡祠では城内外の鎮守として、例年八月十五日に祭礼がある。
 そのときに練り物が多く出る中に、太刀脇にはさんでいる武将の体をした物があった。
侯はその人形は何の将を模しているのか問われた。
地元の者が頼朝卿であると答えると、侯はすぐに桟敷を降りて拝まれたという。
 今では古例として、祭礼にはその侯は必ず旧に従われるという。
〔たいしたことではないが、聞くままこれを記した。〕


(甲子夜話続編)


これは放生祭のことですかね



自分ひとりの潔さに走るべきではない

2015年07月02日 15:40

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 23:46:00.43 ID:JLPxzHuv
島原で切支丹の乱が起きたとき、板倉重昌石谷貞清を差し向けられたが、
なかなか落城の報せが来ないので、酒井忠朝が出陣を仰せつけられた。
するとその後すぐ、松平信綱が御前へとまかり出て、

「此度の件、酒井殿に島原への出陣を御命じになられましたが、結果は出ないと思われます。
何故かと言えば、酒井殿はいまだに屋敷で準備し、出発しておりません。
このことが、もはや、将軍さまのお心に叶わぬふるまいでございます。
もし、私に御命じくださるならば、ただちに出発し、即座に一揆ばらを踏み潰してみせましょう。」

と申し上げたので、これを伊豆守(松平信綱)に仰せつけられ、彼は即座に出発した。
同時に酒井忠朝には、島原には行かずともよし、というお達しが届いた。
備後守(酒井忠朝)はこれを聞くやいなや、

「知恵伊豆の仕業に決まっている。討ち手の先を越されては人前に出す顔もない。
こうなれば、追いついて伊豆守を討ち果たすより他にない。
すぐに馬を出せ」

と言いつけ屋敷を飛び出した。(1/2)

281 名前:278続き[] 投稿日:2015/07/02(木) 12:25:51.40 ID:l3ekoU/Z
すると、父の酒井忠勝が、

「待て」

と声を掛け、

「はやまるな。仕損じるぞ。まず落ち着いてよく聞け。
土井利勝が最期、私に向かい、
『伊豆守に気をつけろ』
と遺言された。
伊豆守が小細工をすることはかねてから私も知っている。
追いかけ伊豆守を討ち果たしたなら、お前は本望で、
世間の者たちもお前を剛の者よと称えるだろう。
しかしながら忠節のところは微塵もない。
あの程度の伊豆守だが、あれでひとかどの器量を持った男だ。
幕府のお役に立つことも多い。
その伊豆守を討ち果たせば、まずは幕府に御迷惑をおかけすることになり、
さらには、
『幕府の指図が雑だから、酒井殿が鬱憤を晴らしたのだ』
などと日本中で噂されるようになれば、主君に悪名を着せることになり、
重ね重ねの不忠である。
いま、お前が耐え忍び生きながらえるのはとても苦しく難しいことだろう。
しかし、我が身の難儀や恥までも耐え忍び、
主君を支えていくような者が、誠の忠臣なのだ。
自分ひとりの潔さに走るべきではない。」

と諭したので、忠朝もたちまち納得した。
そのうえで、忠勝は、

「理解したなら、隠居せよ。世の人々が嘲るだろう。」

と忠朝に奉公を退かせた。
家督は二男の忠直が継いだとのこと 【葉隠】(2/2)



282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 18:16:07.22 ID:Q3aqugVa
DQN目竜「敵もろとも伊豆守も殺して手柄を奪うが良い」

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 18:27:09.63 ID:TWKN05ff
じんぼぅ失っても知らんぞ

入道辨切

2015年06月26日 11:57

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/25(木) 19:40:52.60 ID:k5vFKm05
入道辨切

ある時黒田長政が、酒井讃岐守忠勝の許を訪ねて
「これは家に秘蔵する、『入道辨切』と名付ける刀ですが、あなたに進上致す。」
と、これを酒井忠勝に贈った。しかし忠勝は差料にもせず、そのまま保存していた。

さて、忠勝の孫の遠江守忠隆の時に、この刀の格好甚だ良しとして、差し替えの刀に拵え、
一つ試してみよと役人に語った所、役人は

「この刀は左文字ということです。しかも『辨切』という異名がありますから、斬れぬはずはありません。」
と答えた。しかし忠隆

「いやいや、黒田家にて切れたというのみで、我家にて試さぬ刀は差料にならず」と
罪人に試してみると、一の胴を見事に斬って土壇を払ったという。

(刀剣談)

黒田で斬れる刀は酒井でも斬れるのだ。



酒井忠勝、丸め込む

2015年05月30日 14:15

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 19:59:52.97 ID:Ltjm8IJj
徳川家光の時代のこと。

ある年の正月、具足餅の祝の時、大久保彦左衛門忠教、今村九兵衛の両人は未明から出仕したが、
山吹の間に用があってそこに出ている間、本席に両人の姿が見えず、このため両人は遅参したと思われた。

既に御祝いの儀式が始まった中、目付け衆は席を見廻り両人を見つけ、「御祝いはもう始まっています。
早々に御着座して下さい。」と言った。

当然彦左衛門は激怒した
「我々は今朝未明よりこちらに詰めていたのに、何の御沙汰もなく御祝いが始まっているとは意味がわからぬ!
神君の御代より、こういう事に御失念は無かったのに、今日忘れられたということが、我々が年老い、
もはや御用に立たずとの思し召しであるなら、もはや退出すべし!」

この大騒ぎで御祝いの進行が止まり、老中始め役人たちは大いに当惑した。それでも
『大久保彦左衛門は神君よりの旧臣にて今日の御祝いでも第一の人だから。』と役人たちが様々に挨拶し
機嫌を直してもらおうとしたが聞き入れず、ついに老中松平伊豆守信綱が出てきて
「完全にこちらの失念であったからこそ、役人たちも言葉を尽くしているのです。早く席について下さい。」
と説得した

しかし彦左衛門
「我々は御旗本頭である!であれば軍礼に、御旗本失念ということが有るだろうか!?
もはや一番座も済んだようだ。我々は洗い膳にて食うようなことはしない!
まったく長生きすれば、珍しきことを聞くものかな。」
そう嘲った。

これには伊豆守もさすがに腹を立て「彦左衛門殿、舌の和らぐまま言いたい放題にも程がありますぞ!
将軍家の御祝いに洗い膳などと言うことはありえない!」

彦左衛門からからと笑い
「伊豆守はずっと畳の上で、戦場は見たことも無い故に軍の言葉を知らぬと見えた。
二番座に出るのを洗い膳と言って、まことの武士は嫌うことなのだ。よく聞いて置かれよ!」

伊豆守、心中さらに怒りが増したが、これ以上言い返す事もせず、周りは伊豆守を甚だ気の毒に見ていた。

この時、酒井忠勝がふらりと出てきて、彦左衛門の手を取ると
「老人のお言葉、尤もです。ですが今日は格別の御祝いの事ですから、あまり時間が過ぎてしまうのは
いかがでしょうか?さあ、席に付きましょう。この忠勝が相伴いたします。」

すると彦左衛門も
「さてさて、讃岐守殿は天下の老中であるのに相伴するとは忝い。ならばいただき申そう。」

コロリと機嫌も直り着座した。こうして御祝いは滞り無く相済んだ。

(明良洪範)

伊達政宗さえ丸め込める酒井忠勝にとっては、大久保彦左衛門もこのとおりなのである。




850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 22:33:36.74 ID:Bt6VT78J
>周りは伊豆守を甚だ気の毒に見ていた。
この件で笑った

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 00:53:26.19 ID:W2vUN1nO
これならいい話ではござりませぬか

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 04:20:58.49 ID:3+oxdFGQ
一体両者の対応のどこに差異があったのか

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 04:31:28.55 ID:hAvvsUPh
>>852
知恵伊豆は知恵伊豆ってだけで叩かれる

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 05:37:41.51 ID:2wUbbVLP
三河者相手に真っ向からぶつかるのはよくない

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 10:04:48.21 ID:Hn2rc8Nn
最後の、そして最も面倒くさい人物だな

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 10:44:24.64 ID:JyBUmMSN
>>855
まあ、彦左衛門なんて大した武勲もない、ただ理不尽でうるさいだけのジジイだけどね。
でも、この時期になるとモノホンの武勲のある武功派はほぼいなくなっているからなぁ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 15:58:22.86 ID:RileblEf
二大DQNがいるじゃないか

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 18:00:56.86 ID:1OZzOB6C
>>856
岡部元信を打ち取った武功があるだろ

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 19:53:34.38 ID:4LSw/tvs
酒井忠勝がかっこいい話

北条三四郎の仁義忠信

2014年09月22日 19:18

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 19:30:32.98 ID:Lpg/YPD5
北条三四郎は酒井忠勝の祐筆であり、常にその居間へも立ち入ることを許されていた。

ある時、伊達政宗より自筆の書状が届いた。その内容は、
『今朝そちらから遣わされた書状についてだが、宛名は私になっているが、その文面は、
他の人に遣わされるものであった。これは書いた者の誤りだと推察したので、この書状は
返信いたす。』

これを読んで忠勝は激怒し、家司を呼ぶとこの事を話し
「この書状を書いた者に切腹を申し付ける!」
そう大声で言いつけ、そのまま江戸城に登城した。

その後、家司衆は評議した上で、先ず祐筆頭である北条三四郎を呼び、今度の事態を聞かせ、
これを書いた者を糾明するようにと伝えた。

三四郎はこれを聞くと
「御存知の通り我々祐筆の者達は毎日数十通の書状を分担して書いています。ですので、伊達殿への書状を
誰が書いたのかは解りません。筆跡を引きあわせて、その上で判断したいと思います。」

そう申して退出した。この時、三四郎はこう思ったのだ
『今朝、主人である忠勝様が声高に切腹のことを言われたのは、深慮せねばならないことだ。
だいたい人を罰するのに、どうして声高に申し渡すのだ。』

そのようなことを考えつつ密かに忠勝の居間に入って見ると、政宗から返されてきた書状が
床の上にあった。「これか」と取って見たところ、紛れも無く同役の某の筆跡であった。
そこで三四郎は、すぐさまこの書状を引き破り、更に焼き捨てて、そのまま知らぬ顔をしていた。

程なく酒井忠勝が帰宅し、家司衆に「今朝申した書状の事はどうした」と尋ねた。

「その件についてですが。北条三四郎に尋ねた所、数十通を数人で書いているため、
誰の書いたものだとすぐには解りかね、そのため筆跡を引きあわせて書いた者を認定したい、
と申していました。」

「それは尤もの事である。ならば、あの書状をここに持ってくるように。」

そう命じたが、どれほど探しても書状は見つからなかった。そのことを申し上げると

「詮議があるのを知って紛失させたか!不埒者め。」と言ったが、この事はそれで相済んだ。
伊達政宗には、忠勝が自筆で返答をした。

「人の志も立て、また人命を失うこと無く事済んだのは、北条三四郎の仁義忠信の為す所である。
君臣合体とはああ言う事を言うのだ。」
これは酒井忠勝が死去した後、ある人が語った言葉である。
(明良洪範)

参考
この吟味を三四郎に仰せつけられたのは


854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 21:02:58.32 ID:qjRlHk5I
>>850
切腹が軽すぎてもやっとする話

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 23:13:03.90 ID:kGGh35yq
>>850
誰かが見ていたか、三四郎が喋ったんか

草履を温めて

2014年09月13日 18:54

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 02:00:46.84 ID:1PjHXP8J
徳川家光がまだ若干の頃は怖いもの知らずで、内々に微行(こっそり城の外にでること)も
多くあった。

その頃、寒夜に俄に出かけた時、いつも草履が温かいことに家光は気がついた。
家光はこれを怪しみ、何故なのか注意していた所、酒井讃岐守忠勝がいつも草履を懐中に入れて、
肌で温めていることを知った。
そこで家光は悟った

「これは讃岐守が私の微行を危ぶみ、密かに付き従って私のために心を尽くしているのだ。」

この事があって家光は反省し、絶えて夜行を行うことはなくなった。

(空印言行録)

草履を温めていたのは秀吉だけじゃなかったというお話。というかどっちが先に出来たお話なんでしょうね?



775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 04:24:34.17 ID:hBVyp+A0
M宗「秀吉だろJK」

酒田三十六人衆

2014年08月29日 18:53

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 01:23:04.92 ID:tayKb6Jk
酒田三十六人衆

元和8(1622)年最上氏が改易となり、庄内には酒井忠勝が入部した
忠勝は酒田湊を取り締まる有力商人である三十六人衆を城に呼び
「そなたらを酒井家の御家人として召し抱よう」と伝えた
しかし彼らの中から鐙屋の池田惣左衛門や本間・二木某らといった者たちが立て続けに
「二君仕えずと古くからの言葉にございます
一合の米も酒井家から貰う筋合いはございません
また我々は暮らしに困る程飢えている訳ではなく、地所も株も田地も持っております
だからあなた様のお世話になる必要はありません」と答えた」と答えた
『夢宅年代記』

三河武士以上にめんどくさそうな、酒田の自治に誇りを持っていた商人衆たちのお話




638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 03:31:03.06 ID:m+Yjh9js
株……?

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 04:07:21.43 ID:tayKb6Jk
>>638
職業上・営業上の特権
「相撲の年寄の-」
江戸時代に売買の対象とされた名跡や役職など
「御家人-」
独自の流通網

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/30(土) 09:17:20.16 ID:ojhfRzwC
>>639
へぇ~、そうだったのか