FC2ブログ

安国寺肩衝

2019年07月09日 13:25

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:25:24.04 ID:0PpH8yMY
三斎公(細川忠興)は、父幽斎より譲られた肩衝(茶入)を、心にかなわないと安国寺恵瓊へ一千貫で売られた。
その後、安国寺恵瓊が処刑された折、この肩衝は徳川家康公の元に献上された。

ところで安国寺恵瓊の処刑の原因と成った石田三成の乱(関ヶ原の戦い)の時、津田平左衛門(正しくは小平次、
秀政)が家康公に
「天下がお手に入ること必定でしょう、その仕置の際、多数の肩衝が献上されると思います。その中から
必ず拝領をいたしたく思います。」
と申し上げた所、家康公は非常に機嫌よく「そのこと、そのこと」と申された。

合戦後、予想した通りに1日だけで肩衝が16も献上された。この時津田にも新たに領地を与えるとの
上意であった所、「忝ない事ですが、青野ヶ原(関ヶ原)で申し上げましたように、御加増よりも
御茶入を拝領いたしたいのです。」と重ねて言上したため、「尤もである」と、この安国寺肩衝を拝領した。

その後これを三斎公が一万貫で買い取り、中山と銘をつけた。
(筆者注:この時忠興は安国寺肩衝を黙って懐に入れ持ち帰り、後で代銀を届けたという)

この肩衝を見た時、三斎公はこのように詠まれた

 年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山

これは西行法師が関東での修行から帰る時に詠まれたもので、「下るときはまた越えねばならないとは
思っていなかったのだが、今越えることとなった。命が有ればこの佐夜鹿峠のような難所を越えるという
憂鬱な目にも逢うものだ。」という意味である。

この茶入は子息の越中守(忠利)に譲られましたが、後に越中守は金子1600枚で酒井宮内少輔(忠勝)に
売却されたという。

(三斎伝書)

関連
細川忠興と『有明の茶入』
安国寺肩衝・異聞


スポンサーサイト