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酒井忠次「踊って紛らわせればよいのじゃ!」

2012年06月26日 21:00

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/26(火) 00:40:49.65 ID:fS2uzXJp
長篠の戦の時、鳶ヶ巣山砦を奇襲する一軍は疲れていた。
そこで、酒井忠次は考えた末、

「踊って紛らわせればよいのじゃ!」

ということになり、松平又七、松平又八の二人とともに「井杭」の狂言を演じて兵の疲れを紛らわしたそうだ。

なお、この松平×2はどちらも「松平家忠」という名前である。
又七が形原松平氏、又八が深溝松平氏で、日記職人は深溝の方。

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/26(火) 00:42:54.95 ID:fS2uzXJp
ちなみに又八家忠はこれが初陣で、父伊忠とともに武田勢に突撃しようとしたが、
「お前も一緒に死んでは家が残らない。それでは忠義にならない。生命を全うして主家に尽くせ」
と言い残し、武田勢に突撃して討ち死にしたそうだ。

長篠の戦いにおける松平家忠の話でした。

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/26(火) 00:50:22.57 ID:fS2uzXJp
↑訂正。言い残したのは伊忠。申し訳ないorz




126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/26(火) 00:59:24.00 ID:EPc2kKnn
お前は生き残れって言って実際死んじゃうのか

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/26(火) 01:23:19.10 ID:pr+8WZq9
踊るって言うからてっきりebisukuiかと

『卒啄』

2012年05月22日 21:01

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 12:29:39.61 ID:6KNQfxU4
永禄11年、武田信玄は下條弾正に命じて酒井忠次に書簡を送り、
「これからは両家ともに仲良くしていきましょう」と伝えてきた。

その書には『卒啄』の2字が書かれていたのだが、誰一人として
その意味が分からなかった。

ちょうどその頃、伊勢の江南和尚が東国に向かう途中で岡崎にいたので
石川家成が字の意味を尋ねたところ江南

「鳥の卵殻を破るにその時節あり。早ければ水になり。遅ければ腐る」
と答えた。この事を耳にした家康は

「すべて万事に時を失わざるをもって肝要とす。主将ならばこのことを
忘れてはいけない」と言った。




293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 12:31:27.40 ID:AH8VRl2d
名探偵だな、その江南って和尚

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 12:43:34.04 ID:XfqFYeXL
禅語の教養があっただけだろ

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 12:45:38.46 ID:AH8VRl2d
今ググって禅の用語だと知った

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 13:37:58.32 ID:Sso/Rx7Y
三河者は一向宗ばっかだから仕方ないね(諦め)

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 13:43:39.80 ID:5gWc94pq
本多忠勝「三河者に文弱は不要! 政治なんぞ殿のやることを見ておれば自ずと分かるわ!」

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 13:49:23.19 ID:WA0wg0Ny
永禄11年っていつかと思えば武田が駿河に侵攻するあたりか。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 16:08:44.14 ID:H/mT/ZGw
『卒啄』…? 寝起きの頭だと、豚キムチが何?って勝手に脳内変換した

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 20:48:26.14 ID:Tfjf9koH
松平家忠は禅宗だよ

忠次は豪気とか豪胆とかがお嫌い?

2012年05月18日 21:04

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 01:56:30.73 ID:fqzEgpTZ
酒井忠次の娘は見目麗しいと評判であった。
その娘を牧野康成が妻にしたがっているという話を聞いた忠次であったが

「右馬允は元来大胆な男だから、機に乗じて謀叛の志を抱くやもしれぬ。
そのような穏やかならぬ者に、最愛の娘をやることはできぬ!」
とまったく娘を嫁に出す気はなかった。

しかし、家康に「牧野が如き才幹ある者にお前の娘を嫁がせれば、
後々になって家臣とした時に、少しは力になるかもしれんぞ?」
と諭されると、忠次も心を決めて娘を嫁がせたという。

佐々との逸話といい、忠次は豪気とか豪胆とかがお嫌い?




250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 09:11:19.24 ID:NO73EV1b
>>247
忠次「娘は公務員と結婚させたい」

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/18(金) 09:33:20.27 ID:sYI315Vu
??「もう戦なんて嫌だから娘は医者と結婚させてあげたい(キリッ」

徳川家康と佐々成政

2012年05月13日 21:03

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 14:55:58.88 ID:mQAiqYTz
長久手の戦いの後、佐々成政は越路の雪を踏み分けて
はるばる浜松までやってきた。世にいう『さらさら越』である。
成政が徳川家康と面会したところ、家康は成政を丁重にもてなした。

「この度は信雄様をお援け頂き感謝にたえません。
これからもどうか織田家興隆のためにお力添えをお願いいたします。」

「よくぞ深冬風雪をかえりみずに参られましたな。私は秀吉と遺恨が
あったわけではありませんが、信雄殿の窮状を見て忍びなく、
また亡き織田殿との旧好を忘れられなかったので、およばずながら
お援けした次第です。

しかし、信雄殿は秀吉と和議を結んだそうですから、私の信義も
詮なきこととなりました。ですが、成政殿が主のために義兵を起こす
おつもりであれば私も援兵を送りましょう。」

成政は家康の言葉に感謝した。その後、会話の中で成政は、
家康を武田信玄、自らを上杉謙信に例えて、己の自負を語ったという。

次に成政は織田信雄とも面会した。成政は信雄に上洛を勧めたが、
信雄は秀吉と和議を結んだことを理由に勧めを拒否した。
とうとう、どうしようもなくなった成政は後に秀吉に降伏した。

家康は成政が訪ねてきた時、高力正長に「佐々は人傑である。
あのような者とは知人になって、その様を見習うがよい。」と言い、
成政を評価した。

しかし、老臣の酒井忠次は成政の自負に不快感をあらわにし、
「あのような者に御加勢は無用でありましょう。あの者は
大剛の士なれば、その勇気に任せて失言するのも道理である。
関わらないほうがよろしい。」と批判した。




162 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/05/13(日) 14:58:01.65 ID:ZJGf6pn7
大剛自体は三河者にも認められるレベルだったのだな

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 15:01:37.70 ID:60Eo2k8l
忠次の場合、お前が言うなって話のような

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 15:29:25.23 ID:wk3JHOPB
三河武士は、本音の暴言は吐いても失言はしない(キリッ

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 17:58:20.11 ID:zXq2moZZ
というかタヌキをお屋形様になぞらえていいのか?

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/13(日) 18:17:10.82 ID:So+1BAHS
家康はこの時期すでに、全盛期の信玄を超える勢力を持っているわけだが

酒井忠次・隠居後

2012年05月06日 21:10

42 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/05/06(日) 01:42:16.55 ID:8qz04Afk
酒井忠次は主君である徳川家康豊臣秀吉に臣従してからは、寺社の復興に尽力し、眼病を患うと
家督を嫡男の家次に譲り、秀吉からかねてより

「若者の師になって欲しい。」

と求められた為、京都の屋敷で隠居生活を送った。秀吉からはそれまでの武功を評価され、朝鮮出兵に
おける前線基地である肥前の名護屋城が完成した際の、場内に続く橋を初めて渡る役を諸大名を差し置いて
抜擢される栄誉を得ている。一方で家康に対する忠義心は全く衰えておらず、ある時、家康に対面すると

「目が見えないのでござる。久しく様子を伺えておりませんが、お元気ですか。」

とその手を押し頂いたという。そして、晩年は浄土宗への信仰に打ち込んだ忠次は、わずかな身内に
看取られながらその生涯を閉じたという。





本能寺の変の一報が徳川家一行に届いた時のお話

2012年01月03日 22:01

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 18:14:25.37 ID:KEOch0MY
本能寺の変の一報が徳川家一行に届いた時のお話


天正10年(1582年)6月2日深夜、織田信長・信忠親子に謁見するべく堺から京へと向かう最中の飯盛山で徳川一行が休息を取っていると、
先に京へと向かわせていた本多忠勝茶屋四郎次郎が慌てて引き返してきた。

ただならぬ様子に家康は井伊、榊原、酒井、石川、大久保等の重臣たち以外を遠ざけ、
加えて織田家からの案内役である長谷川秀一のみが本多と茶屋からの報告を聞いた。
本能寺の変の仔細を聞いて一番動揺したのは他ならぬ家康であった。


家康「我はこのとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深い。もし今少し手兵がいたならば、光秀を討って織田殿の仇を討つべきなのだが、
   この無勢ではそれも叶うまい。
    生半な事をして恥をかくよりは、急いで京に上って知恩院で腹を切って織田殿と死を共にする。」

と言い出した。
すると長谷川秀一も「家康殿さえかく仰るならば、まして私は年来の主君。一番に腹を切ってこの程の如く
御道しるべとなります。」と言う。

という訳で本多忠勝茶屋四郎次郎の二人がまた先に掛けて京を目指したのだが、20町ほど進んだ所で忠勝は引き返してくると
石川数正らに言った。

忠勝「我、君(家康)の御大事が今日に極まったので、若輩の身を顧みず思うところを申させて頂きたい。
   君が年頃の信義を守り、織田殿と死を共にするという事が
   義のあたる所としてどうして適切と言えようか。織田殿の為に年頃の芳志に報じようというなら、
   本国に戻り軍勢を催して光秀を追討し、
   その首を切って手向けとすれば織田殿の幽魂も祝着し給うでしょう。」

するとこれを聞いた石川数正酒井忠次ら老臣達もこう述べた。

「年長けたる我々もここに心付したい。返すべすも恥ずかしいと思い由を聞いていたが、君はつくづくと聞き召されよ。
我ら本国に帰って軍勢を催促し、光秀を誅殺する事は元より望むところである。しかしながら主従共にここに来るのは初めてである。
だが、知らぬ野山に彷徨って山賊一揆の為にここかしこで討たれる口惜しさに、都にて腹を切るべきとは思わない」

これを聞いて家康も冷静になって三河に帰る事を考えたようだ。すると長谷川秀一は怒りに涙を流しながらこう言った。

秀一「我ら悔しくも此度、家康殿の道案内に参りて主君の最期の共もせず、また
   賊軍一人も切り捨てずにこのまま腹を切って死ねば冥土黄泉の下までも恨みなお深く残るでしょう。
   家康殿がご帰国して光秀を誅伐する軍を挙げた時は、その先手に参じて討ち死にする所は本望です。
   ただし、帰路の事を危うく思うのであれば、
    この辺りの国士どもは殿に参謁する時は、皆私が取り次ぐ事になっているので、私の申事に背くものは無いでしょう。
    それ故にこそ、今度の道しるべの役にも参じさせていただきたい。」

どうやら長谷川も内心悔しく思いながらも十分に冷静さを取り戻しているようだ。
彼の言い分を聞いた酒井や石川や忠勝も「御道のことは長谷川殿に任せるべき」という事でまとまり、
こうして伊賀越えへの旅が始まったのであった。




233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 19:36:07.27 ID:+xcGHnOJ
>生半な事をして恥をかくよりは、急いで京に上って知恩院で腹を切って織田殿と死を共にする。

前から疑問だったんだが、
信長は京(本能寺)で襲われたのに京(知恩院)に行こうって発想はどうなんだろうか?
厳戒態勢だろうし捕まったりした方が「生半な事」になると思うんだが。

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 19:43:21.23 ID:TNzX3LXj
>>233
創作ないし社交辞令だと思うが、
明智軍に捕まっても武士の情けとかいえば明智の将立ち会いのもと切腹はできたんじゃないかな。

伊賀越えは奇跡だったけど、もし家康が数百の精鋭を率いて信孝、丹羽長秀に合流して
山崎の戦いに加わっていたら面白そうだな。

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 19:54:27.65 ID:mrCHm2pM
伊賀越えの功労者として長谷川の名が挙がる事って殆どないよね。

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 20:01:58.14 ID:ce7aIi/9
>233
家康って浄土宗だから、浄土宗の寺で腹切ろうって意味なのかと思ってたわ

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 20:59:14.11 ID:FtSiNovc
家康の心底を疑って別行動を取った穴山信君が気の毒だ

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 21:53:43.99 ID:r9bTckOE
>>237
当然の報いじゃあ

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 21:54:11.27 ID:bHbVWmrv
武田を裏切った後の穴山は散々なイメージしかないし
最近になってもそれを覆す様な話が出てきた記憶もないな

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 21:54:59.48 ID:XjxWbxf4
>>236
それで合ってるんじゃない?
浄土宗の総本山で切腹しようという発想は自然だと思う
もちろん、無事に知恩院までたどり着けるかは疑問だけど

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/03(火) 23:40:34.26 ID:TNzX3LXj
>>239
穴山は落ち目の武田存続も兼ねて寝返ったんだろうし気の毒。

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 00:05:24.61 ID:ZqQOCizz
後の保科正之を保護したという功績

・・・奥方の話だけど

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 09:05:17.05 ID:U9zUCjWA
血縁者が敵味方に分かれて家を残そうとするのってこの時代じゃ当然のことなのか?
それとも、そこまでして家を残したいのかと蔑まれるのか?

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 09:08:10.41 ID:4AXx5oKx
当然だったんじゃない?
そんなことは源平の昔からあった事。

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 09:11:59.39 ID:DqY5eRaL
というか家を残すのが最優先課題じゃないかな、家さえ残ればぶっちゃけ血縁すらどうでもいいレベル

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/04(水) 15:45:09.44 ID:KqhVrGjC
>>252
まったく血筋ない養子とかな。
徳川だと平岩さんや石川家成さん。

老いてなおダジャレ

2011年11月06日 22:00

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/06(日) 15:32:28.60 ID:ZbnuNQB2
恵比寿も酒井忠次とは関係ないらしい
てっきり海老すくい関連だと思ったのに



422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/06(日) 17:22:23.98 ID:HhREQzJx
>>419
ではそんなまとめで後輩の榊原康政と並んでしまった忠次さんのお話。
忠次の逸話の中に1つ酒井忠世の逸話が紛れてるからこれで並ぶのかな。


酒井忠次は晩年京で自由気ままな隠遁生活を送っていた。
ちなみに年甲斐もなく子供も作っていたそうな。
そんな折、秀吉は唐入り(朝鮮出兵)のため名護屋城を築城した。
そこで秀吉は、城の橋の渡り初めという名誉ある勤めをすでに隠居していた忠次に命じた。

家康「忠次の最後の晴れ舞台となろう(´;ω;`)」
と家康は手づから忠次の装束を繕ったそうな。
しかしこのとき忠次はすでに失明しており、小姓とともに超スローペースで橋を渡っていく。
諸大名の軍勢も彼に合わせてスローペースで進んだ。
そして忠次は失明しているはずなのに堀や橋について褒めたという。

さらに、彼は小姓に門の彫り物について尋ね、小姓が「鳳凰です。」というと、
「なるほど、’唐の鳥’ゆえ、殿下は’唐取り’をされるわけですな。」
とダジャレを言った。
これに大笑した秀吉は、忠次を褒め讃えた。

老いてもなお彼の頭の速さとダジャレセンスは衰えることはありませんでしたとさ。
※ダジャレセンス
→http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4963.html




428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/06(日) 20:41:21.92 ID:ZbnuNQB2
>>422
家康も、晩年の忠次に対しては冷たかったのに、ここでは優しいんだね
しかし、忠次もウィットが効いてるなあ
こういうときも、彼特有のポーカーフェースで言うんだろうか

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/06(日) 21:19:42.78 ID:9F6jTtsx
>>428
イヤミかましちゃったとはいえ、基本「公」の立場での冷遇だからなぁ。
(息子さんは後々は加増もらってるし)

公に情無し、を実践できるってのが最終勝者の資格であったんだろうな。

三河者たち、緊急の大ピンチで

2011年03月26日 00:00

503 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 22:52:31.85 ID:bmRiC4wc
さあみんな、めんどくさい三河者劇場が始まるよー!

天正10年(1582)8月、いわゆる天正壬午の乱の真っ最中である。
信濃乙事(おっこと)には徳川軍甲斐・信州入りの先鋒と言うべき七手衆、酒井忠次大久保忠世岡部正綱
石川康道大須賀康高本多広隆・康重親子、そして穴山衆が軍を集結させていた。
いずれ劣らぬ歴戦の勇者、徳川軍の誇る戦争のベテランたちであった。

と、その夜、徳川方の信州国人、依田信蕃より知らせが入る

「北条氏直の軍4万3千が、この乙事から1里(4キロ)しか離れていない柏原に集結しています!」

驚いた七手衆から大久保忠世は偵察を出すと、たしかに北条軍の存在を確認、しかも乙事に向かって
進軍している。明朝にはここに押し寄せるであろう。対して七手衆はわずか3千!しかも乙事は
防備に向いた地形ではない

「直ぐに徳川勢力圏である甲斐に撤退するしか無い!」

誰もがそう思った。が、この三河者共が先ず始めたのは喧嘩であった
大久保忠世が吠える!

「左衛門尉(酒井忠次)のジジイ!あんたが諏訪頼忠をちゃんと味方に出来ないからこの有様になったんじゃ!」

諏訪頼忠の抱き込みに失敗した酒井忠次を罵った!これに忠次も

「なんだと新十郎(忠世)!?お前も北条軍の接近に気づかなかったくせに!」
「ジジイが信濃任されて張り切り過ぎて、信濃は俺が支配するとかいい気な事言ってるから信濃国人を
離反させ、そのせいで情報が入らなかったんだろうが!」

売り言葉に買い言葉。七手衆のトップ格である酒井大久保、頭に血がのぼり口論をヒートアップさせる。しかし

他の人々「あ、あの、それは後でいいのでそろそろ撤退しませんか?」

ごもっとも。罵り合っている間にも北条軍は近づいてくるのである。喧嘩している場合では全くもってないのである。
そこで酒井忠次

「お主達先に撤退せよ!わしは全員が撤退するまで、ここに残る!」

そうは言っても責任を感じていた忠次は、皆を逃がすため自分がここに最後まで踏みとどまる!と言ったのだ。
老武者(55歳)の感動的な決意ではないか。が、残念ながら三河者はそんな事に感動するほど、甘くない

504 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 22:54:39.44 ID:bmRiC4wc
大久保「なんだとジジイ!まさかそれで今回の責任チャラにする気か!?そんな事絶対にさせんぞ!
     先ずジジイから撤退しろ!」
酒井「なんだとこのクソガキ(50歳)!わしが殿軍するって言ってるんだから素直に先に撤退しろと言っておるのだ!」
大久保「馬鹿言うな、ジジイこそ先に撤退しろ!あんたが撤退するまで俺は絶対に撤退しないからな!」
酒井「ンだとこいつめ!わしだってお前が撤退するまで撤退などするものか!」

バトル再燃。もう子供の喧嘩レベルの意地の張りあいで収拾のつかない状況である。そうしているうち

偵察「あの~、北条軍の先鋒が沢を越えて、もう目と鼻の先に来ちゃいました」

岡部・石川・大須賀・本多親子・穴山衆「お前らいいかげんにしろ!!」

さすがにこれ以上はまずいと二人は無理やり引き離され、酒井忠次はいろんな意味で責任を取らされ
彼の部隊が最初に撤退することになった。
しかし忠次、これに腹の虫が収まらない

「なんと不名誉な。なんでわしが最初に撤退せねばならんのだ…。そうだ!おい、撤退するときわしの陣に火をかけろ!」
部下「え?そう言うのは全員の撤退が終わってからやるものでは…?」
酒井「いいからやれ!」

と、自分の撤退と同時に陣屋に火をかけた。夜である。その火は接近中の北条方からもバッチリ見える

北条方A「ややっ!徳川の陣屋の方から火の手が上がったぞ!」
北条方B「さては我々に気づいて撤退したか!急ぎ追うぞ!」

北条軍、火の手を目印に殺到し始めた!

酒井「やあみんな、北条軍が急接近してるみたいだよ?君たちも早く撤退してね。じゃ!」
と、酒井忠次さっそうと駆け去る。これには大久保忠世はじめ一同「あのキ○ガイジジイ!後で絶対殺す!」と
怒り心頭だが、とにかく他の者達も大急ぎで撤退を始めた。
この時の撤退は、殿が岡部正綱、二の手に穴山衆、三の手に大久保忠世、四の手に本多広隆・康重親子、
五の手に石川康道、六の手に大須賀康高、最後七の手が酒井忠次という陣容であった。


…で、何が恐ろしいってこの戦場生まれ戦場育ちのベテランウォーマシンどもはこの撤退で、大喧嘩した
酒井大久保も含めて、北条軍が攻勢に出れば各自連携してこれを防ぎ、北条軍が一旦下がれば各自に
威嚇を行い、あたかも一個の有機生命体のように、予めの打ち合わせがなくとも連動して行動し、
なんと、遂に甲斐までほぼ無傷での撤退に成功したのである!(史実)
あんな喧嘩してたのに!グダグダで滅茶苦茶な撤退開始だったのに!

三河者、緊急の大ピンチで通常営業の巻。




505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:03:59.76 ID:w5Q318qD
梅雪が死んだあとの穴山衆って徳川直参扱いだったの?

しかし、真田さんとこはよくこんな奴ら相手に勝てるなー。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:07:15.83 ID:10g3/AbD
平山優の「天正壬午の乱」から引用したのか。
あの本『三河物語』を史実として扱ってるからなぁ。

史料的価値が高いとされる『家忠日記』では、諏訪撤退のくだりは
普通に軍を引いたようにしか書いてないけどね。
『三河物語』では三河衆が切った張ったの大活躍して北条を振り回して撤退したように書いてあるけどさ。

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 23:14:20.86 ID:f5x4eJ3r
なんか読んだことがあるようなないような・・・

「ソギ」由来

2010年12月16日 00:01

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 21:58:32 ID:SPZySiTH
アバウトすぎて誰を調べたらいいのか解らないので既出だったらゴメンナサイね~
あと悪い話でもないのでこちらに・・・

正月の門松の竹の先端を斜めに切り落としてるのと平らに切ってあるのがありますよね?
斜めの切り口は「ソギ」と呼び、平に切られた切り口は「寸胴(ずんどう)」と呼ぶそうです。

「寸胴」は節が詰まっていて漏れないと縁起を担いで金融関係で使われるそうです。
元々は「寸胴」だけでしたが「ソギ」の門松を広めたのが徳川家という説があるそうです。

ある年の大晦日に、武田家から松平家(後の徳川家)へ次の一句が送られました。

「松枯れて 竹類なき 明日かな」


これを見て松平から武田に返句が送られる。

松枯れで 武田首なき 明日かな」

松平家では、こう詠みながら門松の竹の上部を斜めに切り落としたといいます。
この時を境に、松平家の門松の竹の頭は「斜め切り」となり、
江戸開幕後、関東に「ソギ」が広がってたそうです

返句を酒井忠次さんが詠んだという話もあるそうですよ~


門松に「ソギ」と「寸胴」の二種類あるのか不思議だったのでググってみたらこんな話にぶち当たった次第。




855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/15(水) 22:25:18 ID:gGh/wb+j
>>850
やっぱり、刀ですっぱり切り落としたのかね?

荘内神社と徳川信康

2010年12月16日 00:00

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/15(水) 11:49:40 ID:63XqE5/V
酒井忠次の子孫、旧出羽庄内藩の山形県鶴岡市では、忠次以下の藩主4人を祀った荘内神社がある。
毎年の例大祭では、まず最初に徳川信康公慰霊祭を行ってから、藩主たちの番となるのであった。

いい話ですねー。でも400年も気にし続けなくちゃならないのは大変だ。



854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/15(水) 12:05:02 ID:PDEQAXpe
酒井忠次は信康・石川数正の岡崎派とは対立してたからね。
俗説の12ヶ条の逸話などを別にしても後暗い所はあったんだろう。