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洛中、洛外の境を、末代まであい定めるべし

2019年04月14日 17:38

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/14(日) 17:23:05.14 ID:zOGc5a2g
豊臣秀吉公に六拾扶桑(日本全国)悉く属し、(天下)一同の御代、四海静謐に治まっていたある時、
秀吉公は法橋紹巴、(前田)玄以法印を召して、密かに洛中、洛外の境を視察した所、東は高倉より
先は鴨川であり、はるかに見渡すと、平々と東山まで取り続き耕作の地となっており、西は大宮より先、
嵯峨、太秦まで見渡す限り田畠であった。南北の際も、何れとも境なく、ただ田舎の在郷のようであった。
秀吉公はつくづくと目を留められて、その後細川幽斎を召してお尋ねに成った

「花の都とは昔より言い伝えられていたが、京都の今の有様は、言語道断、この上もなく衰え廃れているように
見える。洛中、洛外と言っても、どこからどちらだという境もない。その上、内野の上、北野の右近馬場
という森は、興のある面白い場所である。右近が有るなら左近も有るべきことなのに、どうして無いのか。

北はいずれより、南はこれまでという洛中、洛外の境を、末代まであい定めるべし。そのためにも都の
旧起を聞きたい。」

これに幽斎「畏まって候」とあらましを説明した
「そもそも桓武天皇が、延暦三年十月二日、奈良京春日の里より長岡の京に遷りたまひて、
その後十年にして正月中旬に、大納言藤原小黒麿、紀古佐美、大僧都玄珍をつかわし給いて、
葛野郡宇多村を視察させられた所、『つくづく土地の様子を見るに、四神相応の地であります』と
申すにより、愛宕郡にお出でになり、同十三年十一月廿一日に、皇帝(原文ママ)は長岡より
今の京へ遷られました。

されば、四神相応とは朱玄竜虎が守護しているという事で、油小路を中に立てて条里を割られました。
東は京極まで、西は朱雀まで、北は賀茂口、南は九条まで、ただし北は一条から九条までを九重の都と
号します。油小路より東を左近、西を右近と申します。右京は長安、左京は洛陽と名付けられました。
であれば、禁殿(皇居)は代々に場所は少しずつ変わりましたが、先に定め置かれた境目は、些かも違う
事は無かったと見えます。この京へ諸国より一切の貴賤集まり、事を調え、又は帝を守護しました。

そうでありましたが、(足利)尊氏卿の御末、常徳院(足利義尚)、法住院(足利義澄)の時代より
この京はいつとなく衰え始めました。その理由は、山名奥州(氏清)の謀反(明徳の乱)以降、
ややもすれば都が合戦に巻き込まれ修羅の巷と成るようになり、一切の商人たちの、都鄙の往来が
妨げられ、自ずから零落したのだと言われています。都が衰え、政道も廃れたため、田舎はなお一層
恣に我意をふるまって、近代になり国土が穏やかでなくなったのだと言われています。」

この話を秀吉公はつくづくお聞きになり「なるほどそういう事であったのか」と、事の始終をよくよく
お考えになり、「であれば、先ず洛中、洛外の境を定めるべき」と仰せ出され、諸大名に命じて、
東西に土手を築かせ、それから、当時洛中に、民家とともに混在していた諸寺々が、所々に満ちて
立ち並んでいたため、徳善院(前田玄以)に命じて、諸寺共は京極から一町ばかり東へ移転させ、
北は賀茂口より南は六条まで、道の片側に並べて敷地を与えた。

さて賀茂川、堀川は所々に橋を掛けられ、往来の旅人のわずらいも無くなった。
その後禁裏の改修を行い、王法の政が廃れていたのを起こし、また洛中の地子米、公方米などを
悉く御赦免された。
そして秀吉公自身は伏見、大坂に、函谷関よりも固く城塞を拵えられ、諸国の大名、小名を詰めさせ、
都を守護された。

「『万民豊穣の下に住み、七徳の化を得る』とは、今この御代の事である」と、身分卑しい
賤の女や樵のような者たちまで、起きて寝るまで拝み奉らない者はなかった。

(室町殿物語)



801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 16:05:59.24 ID:oj79od0Z
ここで、御土居が出来たのか
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里村紹巴と秀次事件+α

2019年02月17日 16:37

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/17(日) 16:25:23.15 ID:QBNyGuoi
里村紹巴と秀次事件+α


世に定めとはないものである。良きことも悪しきことになってしまうのだ。

秀次関白殿は少し連歌の御稽古をされていたので、喜んで紹巴は毎日登城されていた。
かの御謀反の御談合をしていたとみなされたのか、(紹巴の)百石の知行や家財屋敷に至るまで
昌叱(紹巴の娘婿)に太閤御所(秀吉)が(紹巴から取り上げて)下されることになってしまった。
呆れるほどひどい身の上になってしまわれたので、気の毒に思いその年(文禄4年)の師走に
雪をかきわけて、丸(松永貞徳)一人隠れ忍んで(紹巴の所に)参った。

法橋(紹巴)は丸の名を聞きつけて懐かしく思われたのか、十間ほど(家から)出てこられて
丸の手を引いて、奥の住家へ引き入れられた。
道すがら(紹巴は)
「上手に遅くに来る者だ。春のころ、照光院殿(聖護院道澄)などから御見舞いの使者があったが
 (詮議が厳しく見つかると困るので)私の首を斬らせようとしたのかと思ったものだ」
と仰った。


――『戴恩記』
紹巴と貞徳の父は知り合いで、貞徳が12才の頃には月例の連歌の会に誘ってくれたらしい。

貞徳は里村紹巴の容姿や性格についても書いていて

「顔おほきにして眉なく、明なるひとかは目(一重まぶた)にて、鼻大きにあざやかに
 所々少くろみて、耳輪あつく、こゑ大きにきつきひびきありて、ざれごと申さるるも
 いかるるやうに侍り」

と記している。(戴恩記)


汝らの功を以って我が功とすべし

2017年12月05日 17:48

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 09:31:48.31 ID:ziSpxjee
豊臣秀吉は細川玄旨(幽斎)、法橋(里村)紹巴らを傍において、時々興ある歌、連歌などを行い
或いは五山十刹の長老出世の者たちを集め、詩連句の会なども主催した。

しかし、こういう場においては、秀吉の作意に合わせて他の者の作った歌・連歌を以って、
これを秀吉の作とした。

秀吉はこう命じたのだという
「詩歌は武家が必ず身につける物ではないと言っても、無下に卑しいのも又、大丈夫の本意
ではない。だからといって心にそまぬ事をやるのは、甚だしい労役の至りである。

武将というものは自らは手を下さず、兵卒の功を集め、その功が将に帰す。
詩歌もまた、汝らの功を以って我が功とすべし。」

(士談)



387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 12:49:25.25 ID:AZbvB/wH
ジャイアン秀吉…

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 17:30:27.23 ID:6CWRDPf1
秀吉、幽斎、連歌といえば過去に2回ほど出ている(まとめの5166555
秀吉が連歌の会で「奥山に紅葉踏み分け鳴く蛍」と詠んで一堂が笑ったところ
幽斎がとっさに「蛍よりほか鳴く虫もなし」と古歌にあります、とでっちあげてフォローした話
なお江戸時代の太田錦城の随筆「梧窓漫筆三編巻下」では

太閤が歌の知識がないためにこんなバカげた句を良んだと思ったのはむしろ一堂が愚かだったのだ。
田夫野人といえどもホタルが鳴かないのを知らないはずはない、わざとおかしな句を読んで一堂を試し
しかも自分の威勢なら鳴かない蛍も鳴かせてみよう、という気宇壮大な句だったのだ。

とか書いてた。>>386と合わせると
「秀吉がまた馬鹿な歌を作らないように前もって幽斎たちに任せた」てことになりそうだけど

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 19:45:02.81 ID:+Hd9QwO3
>>386
俺は良い話と受け取ったw

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 07:20:45.72 ID:eOR5xfuh
下々のものにアイディア出させてゴーストに書かせて、結局プロデューサーの手柄にしちゃうっていうのなら、今のプロダクションと一緒だわな…

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 07:38:03.90 ID:6zYKbT+/
それが本業ならそうだろうが

今朝とあけて 麓は柳桜哉

2017年09月24日 16:36

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 14:39:42.65 ID:4xTwE4Xq
織田信長が岐阜に在城していた時、城内に桜の馬場を取り立て、その祝いとして連歌師の里村紹巴
発句をするよう命じた。そこで紹巴は

『今朝とあけて 麓は柳桜哉』

そう連歌したところ、これを聞いた信長は

「城に”あくる”と言う事は禁忌である!時と場合によってはこの城を調伏する言葉であり、
遠島に配すべし!」

と、命じたという。

(士談)



145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 15:34:24.41 ID:WJQIg07t
信長が言うととんちとか禅問答をしているようにもとれる

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 19:37:19.83 ID:Tjttvdh3
里村紹巴っていろいろ不運な目に会いつつもギリギリ許されることが多くて運が良いのか悪いのかよくわからん奴だな

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 04:01:35.13 ID:OzTAV6SS
生き残ってる以上死ぬ話を作るにはいかんからな

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 08:02:54.28 ID:cqcIMXVs
>>147
天庵様は生き残ってるけど、軍記物では死んでるよ

無用な御心づけであった

2017年04月03日 14:20

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/03(月) 00:00:53.97 ID:3cglSWb1
 紹巴の所へ、九州から連歌に執心の人が上洛した。
ある時紹巴へ

「国元への外聞もありますので、三条西殿へ御礼申し上げたいです。」

と言った。紹巴はお易い事だ、とすぐ彼に同道して行かれた。
その道中で紹巴は九州の者に忠告した。

「御公家衆は物事に御念が入り、根問いをなされるものだ。
貴所の宿は三条にあるので、左様の気遣いが肝要ですぞ。」

「まことに御心づけかたじけない。その事はまかせてください。」

さて二人は三条西殿と御対面した。
三条西殿は御杯を下されるたり、

「今後、上洛の折節には待っております。」

等と仰せられたりなどして、九州の者に様々に御懇ろにされた。

 さて、案の如く「ここでの宿は」と御尋ねられた。
かの人は何と心得たのか、

「二条のしも」

と申した。

「二条の下、とは」

と仰せられると、また

「四条のかみ」

と申す。

「四条のかみ、とは」

と仰せられると、その時かの人はうろたえて、

「三条の西のつらの、きたない家におりまする」

と申し上げてしまった。帰る途中で紹巴に叱られて、

「無用な御心づけであったな」

とかえって恨む結果となってしまった。

(昨日は今日の物語)



721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/03(月) 01:35:46.26 ID:uQG10uOK
九州の御方とは何方の事で?

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/03(月) 07:42:49.52 ID:McgHQoUK
島津家久だろうな

せめて連歌ならば

2017年03月02日 18:54

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/01(水) 23:11:11.96 ID:kLBlArxO
 ある人、紹巴の所へ行き

「我はあまりに無能でしたので、何か心掛けたいと存じています。
医者か連歌を望んでいます。
御相談の上、あなたの御意見次第にいたすつもりです。」

と言った。紹巴は聞き、

「それはよい心掛けでございます。二つの内では、連歌がましでありましょうか」

と言われた。それから、かの者は連歌を好むようになった。
 その後に、ある人が紹巴の所へ行き、

「さてさて、井原屋の無心は貴老と御相談して連歌をするようになったと申していましたが、
どういった理由からそうおっしゃられたのですか?」

と尋ねた。紹巴が言うに

「そのことでございますか。
あれほど出来が悪いのに医者になりましたら、
人の種がなくなってしまうでしょう。
せめて連歌ならば、人を殺すまいと思ったからです。」

(昨日は今日の物語)



631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/01(水) 23:29:52.99 ID:ahPZfOIy
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6056.html
曲直瀬道三を相手に紹巴で似たような話があったな

光秀の連歌、今愛宕になき事

2016年08月30日 17:23

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/30(火) 02:43:42.84 ID:6yQcpp99
光秀の連歌、今愛宕になき事

愛宕山で明智光秀連歌のことは、世にあまねく知るところであるが、
そのときの懐紙、伝わってかの山房にあるという。

予は今年阪昌成に〔連歌師〕にこれを問うと、

「寛政の末に、かの山で火事があったとき、このものも消失ました。」

とのことであった。貴むに足りるものではないが、旧物なので惜しいものだ。

そのときの百韻は今に伝写のものがあるという。

(甲子夜話)

燃えちゃったので、里村紹巴の書き換えも分からないままとなってしまいました



光秀愛宕山にて連歌の事

2015年12月20日 17:19

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/20(日) 01:23:27.55 ID:F6TkZ+8c
光秀愛宕山にて連歌の事

天正十年五月二十八日、光秀は愛宕山の西坊で百韻の連歌をした。

ときは今あめが下しる五月かな  光秀
水上まさる庭のなつ山      西坊
花おつるながれの末をせきとめて 紹巴

明智の本姓は土岐氏なので、時と土岐と読めて、天下を取るの意味を含んでいた。

 秀吉が光秀を討った後、連歌を聞き大いに怒って紹巴を呼び、
「『天が下しるといふ時』は天下を奪うの心が表れていた。お前は知らなかったのか。」
と責められた。
その発句は『天が下なる』でございます。」
と紹巴は申した。
それならば懐紙を見ましょう、と愛宕山より取りよせて見ると、『天が下しる』と書いてあった。
紹巴は涙を流して、
「これを見てください。懐紙を削って『天が下しる』と書き換えた跡が明らかであります。」
と申す。確かに書き換えてある、と秀吉は罪を許された。

 江村鶴松が筆をとって『あめが下しる』と書いたけれども、光秀討たれて後
紹巴は密かに西坊に心を合わせて、削ってまた始めのごとく『あめが下しる』と書いたという。
(常山紀談)

紹巴もなかなかずるがしこいですね



“天下無上の大なる歌”

2015年11月11日 08:33

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 21:24:19.14 ID:pcLi2wWH
ある時、豊臣秀吉里村紹巴を呼んで“天下無上の大なる歌”を詠吟した。
秀吉は「これより上の歌があるか?」と言って、

「須弥山に 腰打ちかけて 大空を ぐっと呑めども 喉に障らず」

と詠み、「どうだどうだ」と言った。その言下に、紹巴はこう詠んだ。

「須弥山に 腰打ちかけて 呑む人を 睫毛の先で 突き転かしけり」

――『半日閑話』



974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 21:29:51.65 ID:Rde+QCUb
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-588.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4249.html
落語「狂歌合わせ」の原型かな

里村紹巴と九条稙通

2015年04月24日 18:38

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/24(金) 16:13:20.38 ID:4P9hbfME
里村紹巴九条稙通

前(さき)の関白九条稙通は朽ちた庵に隠棲していた
さる日連歌仲間の里村紹巴が彼を尋ね、挨拶もそこそこに世間話となった

紹巴「近頃はどの様な書物を読まれていますか?」
稙通「源氏物語ですね。名作ですよ」
紹巴「そうですか。ところで歌に関する書物を探しているのですが、なにか参考になりそうな本はありますか?」
稙通は再び源氏物語と答えた
紹巴「…ときにこの庵で淋しくはありませんか?お心をお慰めするものでもあるのでしょうか?」
これにも稙通は源氏物語と答えた

稙通「60年ほど読んでますがまったく飽きません。むしろ延喜の世界に住んでいる心地になりますのでこの書ほど興味深いものはありません」

底抜けに源氏物語が大好きな九条稙通の話

義光と守棟と連歌

2014年09月04日 18:52

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 20:36:21.99 ID:9YxrKypW
義光と守棟と連歌

文禄2(1593)年2月、最上義光は朝鮮出兵の後陣として肥前名護屋にいた

その頃の京都
里村紹巴最上義光に文を綴った
「義光殿も遠方でなにかと気苦労なされている事でしょう。気分直しに当方主催の連歌会の発句を
頂戴できませんか?」

義光(´・ω・`)「!お師匠さまから重要な役割をもらったんよ!これは責任重大なんよ!」

義光「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし(梅の清々しい匂いが溢れている)」

氏家守棟「幾重霞のかこふ垣内(ここは霞のかかった屋敷内)」

(´・ω・`)「守棟、なに脇句作ってるの?」

守棟「拙者とて歌を書いていけない道理はありますまい?」

江口道連が京都の紹巴に義光の発句を届けた

里村紹巴「ほぅ、これは良い発句です。では私も続けて『春深きかげの山畑道見えで
(春霞に山道も溶けていく)』」

紹巴は義光の発句が気に入ったのか、夏に義光が帰京した時に最上屋敷を訪れ、改めて自らが脇句を添えて
歌衆を揃えて、百韻に仕立てた

義光にとっては連歌が評価された良い話

守棟にとっては「これはちょっと…」と暗にダメ出しをされた悪い話

氏家守棟は1591年頃に政治文書の減少から死亡したと考えられていたが、脇句から1593年の初頭までは
生存が再確認されたという意味では良い話?




693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 06:53:17.95 ID:u2I46lAI
>>682
発句一首目・義光「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし」
(梅の清々しい匂いが溢れている)

脇句二首目・守棟「幾重(いくかさね)霞のかこふ垣内(かきのうち)」
(ここは霞のかかった屋敷内)

続句三首目・紹巴「春深きかげの山畑道見えで」
(春霞に山道も溶けていく)

この江口さん、義光の発句と守棟の脇句(発句に続く二句目)を届けるついでにちゃっかり紹巴の連歌会にそのまま参加して、五首ほどが選ばれている

本能寺の変・証言

2014年04月21日 18:55

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 09:21:00.35 ID:6h/K3DlS
明智光秀の謀反の時、光秀は家老にはその謀反の意図を知らせたが、諸卒には知らせなかった。
そのため西国に出立するのだと皆心得ていた。亀山より樫木原まで出て、西国に向かうのだと思っていたところ
直に京に向けて武者を押した。故に人々はみな不審に思った。
桂川を渡って、初めて信長を攻めるという触れが出された。

未明に信長の居た本能寺に押し寄せると、信長は切腹し火をかけた。京中では何事があったのか
何も知らなかった。何故なら本能寺のあった新在家は他所とは違い、四方に掻き上げの堀があり、
土居を築き木戸もある構えの内であったためである。

土居に上がってこの騒動を見た者の中には、これは明智の謀反だと推量する者もあった。
里村紹巴は光秀の内意を知っていたが、「どうしてそんな事があるだろうか。」と、人がそのように言うのを
制した。里村昌叱は「思い当たることがある。」と言った。

さて、明智勢は本能寺に火をかけた後、城介殿(織田信忠)の宿所である妙覚寺へと押し寄せた。
当時、その辺りは京の中でも町家は所々にわずかにある程度で、視界の妨げにならなかったので、土居の上から
はっきりと、水色の旗の軍勢が妙覚寺に進んでいるのが見えた。そのため『さては明智が謀反したのか!』と、
たしかに皆が知ることになった。

妙覚寺は、現在の室町薬師町にあった。しかし構が無いため敵に対応することは出来ないと、信忠は
南都の陽光院殿(誠仁親王)が御座されていた小池の御所(二条御所)に移った。
誠仁親王は禁中に退去された。
親王は烏丸の方の門から出られたが、肩輿も無かったので人に背負われて行った。

また公家の正親町殿(正親町季秀)はこの騒ぎの中、誠仁親王への見舞いに参上し、室町の方から
小池の御所に入ったが、その時はすでに退出した後であった。そこに明智勢が急に攻めてきたので、
御所から出ることも出来ず信忠勢と共に中に籠もるはめになった。

正親町殿はこの時の様子をよく観察しており、後で人々に語った所によると、信忠の士卒は皆、大庭に
集合していた。正親町殿は菓子として昆布を持っていたのを出して、これを諸士に与えられた。
この時、顔色が変ってしおれていた者達は、皆家に功の有る歴々であり、意気揚々としていたのは
皆新参であった。
この後の明智勢との戦闘で、顔色の変わっていた者達は皆、勇敢に戦い討ち死にし、意気揚々の者達は皆、
狭間をくぐって逃げ出したとの事である。

さて、正親町殿には室町の町家に、知人である楽人の家があった。そこで御所の壁を乗り越えて
その楽人の家に入り、公家の正装を着て烏帽子をかぶってそこから出た。これにより、彼は公家であると
明智勢からも通行を許された。そのため、逃れることが出来たのだという。

(老人雑話)

老人雑話より、本能寺の変の時に、現場に居た人々の証言である。





里村紹巴、足利義昭を取り成す

2013年02月20日 19:52

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 19:01:16.37 ID:ozj3vlf9
里村紹巴足利義昭が都にいた頃には懇志な間柄で、詩連句や和歌の御伽をして
一日中傍を離れなかったほどだが、いまは秀吉のもとで和歌の指南を務めていた。

心に義昭のことをどうしたらよいかと折々思ってはいたが、公儀に忙しく疎遠になっていた。
しかし、秀吉の機嫌をうかがって義昭のことを取り成して度々申し上げるので、
秀吉もどうにかしたいものだと思ってはいたが、天下の大将軍にして数代相続の的流なので、
並々の武士に申し付けては恐れ多いと思慮を巡らして、兎角の計らいもなかった。

ある時、秀吉は紹巴を呼んで「義昭公のもてなしを誰に任せようかと案じ続けたのだが、
尋常の大名には差し障りもあろう。毛利輝元ならば、名誉累代にして現在無双の大身だから、
これに預けることにしよう」と言ったので、紹巴は「義昭公は大慶にお思いになることでしょう」
と大いに喜んだ。

かくして義昭は移され、輝元は畏まって請待し様々に饗応した。また備後深津に御館を造り、
五千石の知行を附けた。秀吉はこれを聞いて大いに感心し「これで身上を安心なさることであろう。
だが田舎では物足りなく、退屈で暮らし難いことだろう」ということで秘蔵の御局を義昭のもとへ
参らせた。義昭は秀吉の懇志を来世までも忘れ難く思った。

――『室町殿物語』





465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 20:51:46.97 ID:K0B673KS
>>461
現在無双のTERU△

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 21:32:27.81 ID:otbWvL4y
>名誉累代にして現在無双の大身

TERU個人の能力には全然触れてない褒め言葉でワロタ

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:07:35.09 ID:UCrLU+aF
と、ゆーかTERUの所にいたのを当人の希望で京へ戻したんだよなぁ

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:32:10.87 ID:ETjR6Mv2
>毛利輝元ならば、名誉累代にして現在無双の大身だから、

島津や佐竹なら累代の大身ってのも分かるけど、
毛利なんてTERUが実質2代目じゃないかw

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:43:38.91 ID:Y9dVhO/Q
まぁ義昭は鞆にいたんだし、輝元起用は出来レースだったんじゃね?

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:46:40.06 ID:nPgpkKPp
>>461
秘蔵の御局

絶対に秘蔵されてないだろ(´・ω・`)

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 23:15:15.85 ID:e6ubEhM2
ラスボスは将軍様と穴兄弟になりたかったんだよ。。。

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 23:38:25.79 ID:bdBW1f2C
>>468
「名誉累代」は所領のことじゃなくて、先祖代々の名誉、ってことだから、
大江広元嫡流の毛利家の家名をたたえた言葉だと思うよ?

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 01:48:52.29 ID:od810Ey9
では殿下秘蔵の姉上を…

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 03:56:06.96 ID:DRwA7j4S
文化の香のなさそうなド田舎に流されてどんな気分だったんだろう

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 07:38:34.97 ID:M2m4REjN
体よく厄介者をTERUに押し付けただけのような・・・

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 10:18:17.60 ID:7hBVIyPC
>>472
流石に嫡流ではないよ

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 10:23:56.04 ID:ZV5H+s/J
>475
でも信長に京都を追い出されてから、ずっと世話になってから適任じゃね?

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 12:40:11.22 ID:EsH3EX8N
ラスボスの中古払い下げとか公方様涙目

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 13:19:43.15 ID:79ozRLbH
薄口だと帰って塩分多いんだっけ?
・・・中古品でもタヌキとか伊達のタネ宗あたりなら気にしないかもしれん。
大内の遺産で多少は残ってないかな

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 13:44:49.25 ID:MT/ovAuy
田舎の落ち目に下げ渡されちゃった御局さん気の毒・・・
と思ったが、こーいうのって渡されちゃう人にもメリットあったんだっけ?

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 17:10:41.05 ID:8DfXhC16
仮にも前の公方様だから非常に名誉なことではあるんだよね
厄介払いって側面は否定できないけど

そういえば昔戦国大名ってボードゲームで将軍様(義輝or義昭)を引くと
強制雇用&給料馬鹿高いかわりに威信ってステータスが1上がるってあったのを思い出した

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 20:39:11.29 ID:FU/FH/Wt
>>481
公方なんぞ飾り物と申すかッ


里村紹巴は奈良の住人であったが、

2012年12月02日 19:04

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/02(日) 15:41:22.50 ID:SgTb1Jl2
里村紹巴は奈良の住人であったが、

「人は三十歳までに名を起こせなければ立身できない。つくづくと
世の中の有様を見てみると、連歌師は易い道のようだ。職人も町人も
貴人の御座に連なるくらいだからな。もしそれが無理なら百万遍の長老より
推挙状をもらって関東へ下り、大岩寺で談義を説いて世を渡ろう」

と思い立って上洛し、里村昌休をたのんで連歌を稽古した。
しかし度々退屈しては袋をかたげて「関東へ下る」と言い出したが、
小川の連歌師たちに押し止められた。その内にしばしば人に知られ、

称名院殿(三条西公条)に源氏物語を聞き、三好殿(長慶)の仰せによって
宗養と両吟を仕った。辛労の功がつもり、冥加が有ったのであろうか。

やがて宗養が亡くなって紹巴は天下の上手と呼ばれるようになった。

――『日本史伝文選(戴恩記)』



九条稙通の教養

2012年09月22日 20:30

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 22:01:54.76 ID:LqlbWoBI
九条稙通といえば山科言継、近衛前久らと並ぶ戦国時代を代表する公家だが
いかんせんどんな人物だったか、まではよく知られていない
ウィキペディアですらわずか2行(ほとんど1行といってもいい)ほどしか記述がない
そんな稙通だが戴恩記にこんな話がある

あるとき稙通に色々物を習っていた松永貞徳が、4、5日出かけて戻ってきたときに
稙通が「どんなことがありましたか?」と聞いてきたので貞徳が
「いやあ聚楽第の毛利の屋敷で連歌の会がありまして
このとき里村紹巴殿(明智光秀の連歌の会の件でも有名な人)
が庭に咲いている梅花を見て
『梅の花 神代もきかぬ 色香かな』
(この梅の花の色や香りは 不思議なことだらけだったっていう神話の時代にも聞いたことないぜ!)
と呼んだのでみんな喝采の拍手でした」
と言ったらここで稙通
「おやおや、紹巴殿は連歌の腕は確かのようですが
いかんせん古歌には精通していないようですなあ」とご立腹だった
どうしてかと貞徳がわけをきくと
「いいですが、神話の時代にも聞いたことがないとは
在原業平がかつて
『ちはやぶる 神代もきかず たつたがわ からくれないに 水くくるとは』
(竜田川がまるで真っ赤に絞り染めしたように一面紅葉だらけで美しいぜ!
こんなのは不思議なことだらけだったっていう神話の時代も聞いたことがない!!)
と詠んだように具体的に竜田川の見たこともない美しい光景をとって
神話の時代にも聞いたことがないと言っております
同じように夢庵も
『冬咲くは神代も聞かぬ桜かな』
(冬に咲く桜なんて、不思議なことだらけだったていう神話(以下略))
と詠んでいます、これは冬に桜が咲く珍しさと、場所も伊勢ということもあって
神話の時代にも聞いたことがないと言うに相応しい
それにつけて紹巴殿は大して珍しくもない梅の花につけて「神話の時代にも聞いたことがない」
とおっしゃっています、一体何の根拠があってそんなことを言うのでしょう」

これには貞徳も「俺のような若輩者にもなんて分かりやすくて最もな説明……!!」
と感心したそうだ

九条稙通の教養のほどがうかがい知れる話






566 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/22(土) 00:09:56.87 ID:EB2SNDHC
時期が時期だけに戦国武将みたいな名前だな

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 02:21:26.19 ID:OMEEsOQL
幕末には「○麿」と名乗る武士が増えたらしいから時代ってあるかも(司馬ソース)。
でも基本、公家と武士って名前そんな違わないでしょ?

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 11:02:12.04 ID:hBrVEyEn
名前が何を指しているかにもよるけれど、
諱の場合は好んで使われる使われる漢字(含む通字)に差があるな
言継とか雅庸とか実条とか武士ではなかなかお目にかからない

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 11:12:38.65 ID:Rak/zI8J
五摂家の当主でも将軍から偏諱を受ける感じなので武士っぽさも増すんだよな

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 11:23:18.44 ID:qRdHmeZi
>>569
それは二条さんのとこだろ

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 11:49:15.02 ID:xhLZRFUp
>>566
義稙の偏諱だし

細川幽斎という人は高ぶる気性のない人であった

2012年07月24日 20:53

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 16:25:49.16 ID:Chx9nd01
細川幽斎という人は高ぶる気性のない人であった。

ある時、連歌師の里村紹巴が、他人より常に優れようとする病を持っていると見て取って、

「人というものは心より、形、言葉に至るまで全てへりくだるべきものであるぞ。
お主は能くその心に立ち返らねばならない。」

と、懇ろに教訓した。

またある時、蒲生氏郷がこ幽斎に出会ってこんな事を言った

「貴殿は芸能の誉れがあるためか、あなたの武功について語る人は少ないですね。
であれば、武士にとって多芸に長ずるというのは要らざることではありませんか?」

これを聞いた幽斎、うち笑って

「私は確かに芸を嗜みますが、みな口すさび手遊びばかりで、しかも他人より優れたものなどありません。
いわんや武士としての働きにおいては、一体誰が私に劣るでしょうか?」

そう、返事をしたそうだ。これは、この場面を側にいて聞いた人の物語ったものである。
(関原軍記大成)

細川幽斎の謙譲
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2928.html


氏郷への返事、いかにも京都人らしい、真綿に棘がしっかり入っている言葉ですねw
そんな幽斎様の人格についてのお話

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 17:14:25.44 ID:IbZESrud
武功の事で蒲生氏郷ごときに言われたら、そりゃ腹も立つわな。

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 17:16:32.10 ID:ZhMUpG1o
こりゃうまく刺しかえしたな、さすが幽斎様

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 17:56:12.38 ID:aMTTgEaO
京の風流人の皮肉オソロシス(´・ω・`)

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 18:03:39.86 ID:+1NTIAmg
氏郷に幽斎をくさすつもりはなかったんだろうけどねえ。
有力者に可愛がられて育ってきたエリートの世間知らずのようなものを感じるな。

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 19:05:16.84 ID:+siyYB5f
>>582
言ってるそばから上から目線で説教してるやん
同じ穴の狢っすよ幽斎さん

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 19:09:24.97 ID:gthLpY0h
>>587
いやいや、説教なんてヒトコトも言ってないだろ?
文字通りものすごくへりくだってるだけで。

これはへりくだるというのがどれだけ恐ろしい技術かを言ってるんだよw

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 19:22:57.54 ID:+siyYB5f
>>588
前者の逸話のこといってるんですけど・・・。

まあ後者の逸話も言葉でへりくだっても心が全くへりくだってないので台無しっす。

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 19:32:58.06 ID:gthLpY0h
>>589
ああ、そのへんは、里村紹巴は同じ京都の古くからの教養人仲間という”ミウチ”で、
蒲生氏郷はミウチではない、という部分を感じないとわかりにくいかもしれないな。
ミウチにはちゃんと本音を言うのさw

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 19:38:59.19 ID:GW9DHHV3
工場長言うても幽斎様からすりゃ倅のダチ程度のもんだからなぁ

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 19:46:38.20 ID:yOkWmfnc
>>591
社長の娘婿だけどな(´・ω・`)

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 21:22:05.01 ID:+Hk6Ulcz
忠興があんな風に育っちゃったのがわかった気がする。

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 22:24:58.52 ID:cK+S3Ghl
三歳さんは幼少期に幽斎さんの薫陶をあまり受けてないんだっけ?

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/24(火) 22:31:17.50 ID:i8gfB5xJ
三斎様は礼儀正しくて人付き合いも丁寧だよ
ただ感情の振幅が大きすぎるだけで

「蛍の鳴き声」・別バージョン

2012年06月28日 21:02

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 22:46:43.28 ID:ZTilXqH+
既出の話だが(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-516.html)、別バージョンを見つけたので初投稿。

ある日、連歌を学び始めたばかりの秀吉がこんな歌を詠んだ。

『奥山に 紅葉を分けて 鳴く蛍』

百人一首にも収録されている『奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の…』という歌をふまえたものだったが、
夏の「蛍」と秋の「紅葉」を組み合わせるのはおかしく、何より蛍は鳴いたりしない。
単に秀吉が知らなかったのかもしれないし、奇抜な歌を詠んでみたかっただけかもしれない。
その場には里村紹巴と細川幽斎がおり、紹巴は「蛍は鳴きません」と秀吉の間違いを指摘した。

不機嫌になりかけた秀吉だったが、そこへ幽斎がこう言って場をおさめた。
「蛍というものも、場所によっては鳴くことがあるようです。何という歌集だったか、
『武蔵野の 篠をつかねて 降る雨に 蛍よりほか 鳴く虫もなし』という歌がありました」

後で紹巴は、「あれは何という歌集に載っている歌なのか」と幽斎に尋ねた。すると幽斎は、
「あなたの首をつなげるために、私が創作したのです。以後はむやみに殿下に逆らわぬよう」と紹巴を諭した。


後日、秀吉は紹巴の前で

『谷かげに 鬼百合咲きて 首ぐなり』

と詠んだが、紹巴は「神妙な句です」と誉めたという。秀吉は、
「蛍は鳴かぬが、鬼百合は“ぐなり”とするか?」と紹巴に聞いた(やはり蛍の歌は知っていて詠んだのかも)。
紹巴は、「慈鎮和尚が『まくずが原に 風騒ぐなり』と詠んでいます」と答えた。
「騒ぐ」+「なり」なので「ぐなり」ではないのだが、秀吉が機嫌を損ねることはなかったという。

相変わらず抜け目ない幽斎さんと、反省した紹巴さんのいい(?)話。

「戦国武将の歌」という本で読んだ話で、出典は『続近世畸人伝』とのこと。
しかし、秀吉の歌のセンスは江戸時代の川柳や狂歌を先取りしているような気がしてならない…




171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 23:09:15.84 ID:n7KUUKt0
本能寺の後に謀反を疑われたり、秀次事件で連座されたりして
何となく紹巴と秀吉は反りが合わなさそう

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 23:12:41.05 ID:HK80yfd3
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2974.html
この落語だと、公家の間で歌を詠むことになった秀吉が
「奥山に紅葉ふみわけなく蛍」
と詠んでしまい、貴族から笑われるが、曽呂利新左衛門に幽斎と同じアドバイスを貰い、
(万葉集に載っているってことされている)
「しかともみえず、須磨の関守」と呼んで公家から賞賛された、てことに



173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 23:43:20.38 ID:3mbelIJx
>>170
「首ぐなり」ってどんな意味?

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 23:50:51.37 ID:pYkxG7xv
正解は三条河原で!

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 01:14:31.20 ID:w2Mmfbqh
> 「首ぐなり」ってどんな意味?

もし訪ねていたら

秀吉「お前の首をそうしてやろう」...

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 01:22:56.49 ID:DFjGMWq7
蛍って鳴かないんだ…

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 01:31:00.59 ID:1kIJMIjL
恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす~

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 08:42:16.81 ID:VthakbDF
>ぐなり
ぐにゃり?

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 11:24:02.60 ID:FiPbTtRk
>>176
蛍鳴かないよ!
鳴かないから、ぴかぴか光って
アピールに務めるんだよ!

それにつけても幽斎先生は如才ねえなあ

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 18:01:56.10 ID:0E5TL1ZN
紹巴懲りて、首繋ぐなり

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 18:11:16.25 ID:to5ZHlta
歌詠みなら風物だけではなくて人物の機微にも敏くなくては

三傑とホトトギス

2011年03月28日 00:00

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/26(土) 21:35:25.29 ID:L9tlkcyw
古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、
信長、秀吉、恐れながら神君御参会の時、卯月(4月)のころ、いまだ郭公(ホトトギス)を聞かずと
物語いでけるに、信長、

 鳴かずんば 殺してしまえ時鳥

とありしに秀吉、

 なかずとも なかせて聞こう時鳥

とありしに、

 なかぬなら なく時聞こう時鳥

とあそばれしは神君の由。自然とその御徳化の温順なる、又残忍、広量なる所、その自然をあらわしたるが、
紹巴(里村紹巴)もその席にありて

 なかぬなら 鳴かぬのもよし郭公

と吟じけるとや。

『耳袋』巻ノ八より




549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 00:00:48.45 ID:mbuKpDg2
>>547
そういやホトトギスっていろんな漢字表記があるんだけど、違いはなんだろうね

里村紹巴と烏丸卿・いい話

2008年10月16日 10:31

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/20(日) 12:17:23 ID:JYeJ6fnx
明智光秀の「愛宕百韻」でも有名な、連歌師の里村紹巴の屋敷に、烏丸卿をはじめ多くの公家が
連歌会をしに集まった。先に庭をぶらぶらしていると、桃や柿の木の下に、弓矢を持たせた人形が
いくつも置いてある。公家たちが「これは何ぞや?」と尋ねると、紹巴は「成った実を荒らす、トンビ除けでございます」
と言う。

それを聞いた、連歌の腕前では紹巴のライバルの烏丸卿

「いやいや、トンビではなく、カラス除けではないのかな?」

紹巴師匠、一本取られる。




525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/20(日) 12:49:16 ID:E75Eeo1K
むう、どこがいいのか解らんのが
悔しいぜ

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/20(日) 12:56:18 ID:c7QmXgz3
>>525
からすま卿

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/20(日) 13:03:08 ID:E75Eeo1K
>>526
それだと嫌味か皮肉を言ったようにしか
見えんのだわ


528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/20(日) 14:09:16 ID:f9+sE7vw
自虐ギャグの一種じゃね?
連歌会に顔出すぐらいだから決定的なほど仲が悪いわけでもなかろうし