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大久保忠隣改易

2019年07月22日 15:51

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 19:06:48.78 ID:ARl2F+J7
一、翌年2月4日(1614)、大久保相模守(忠隣)江戸発足。上方筋で切支丹が起こったので
  仕置きのために上京。宗門の者どもを成敗して後、板倉伊賀守(勝重)をもって相模守の改易
  を仰せ付けられ、井伊掃部頭(直孝)に御預けなされた。

  この節、里見安房守(忠義)と佐野修理大夫(信吉)に改易を仰せ付けられた。ただ大久保相
  州の縁者たるによってこの如し。

  一族家来まで御咎めあり。相模守の子供の大久保右京(教隆)・同主膳(幸信)・同内記(石
  川成堯)、いずれも津軽・南部へ御預けなされた。大久保加賀守(忠常)はそれ以前に相果て
  られた故、孫(大久保忠職)が家督を致していたが、これは家康様の御息女・加納様(亀姫)
  と申す方の御婿である故、江戸の屋敷に閉門致した。

  森川内膳(重俊)は相模守の姪婿なので、酒井左衛門尉(家次)に御預けなされた。日下部河
  内守(正冬)、これは茂助(村越直吉。道伴の父)の娘を相模守の娘分に致して婿に致し、こ
  れによって館林の榊原遠江守(康勝)に御預けなされた。山口但馬守(重政)は縁者たるによ
  り御改易。

  谷六右衛門は相模守が取り分けて目を掛けられた故、松平将監に御預けなされた。石川主殿頭
  (忠総)は相模守の次男であるが、他名を継いだので知行の大垣に閉門致した。その他に摂津
  半兵衛は、その時は江戸奉行だったが当座の出仕を留め申した。

一、富田信濃守(信高)に改易を仰せ付けられた。もっとも罪科は相州とは別罪である。家康様は
  常々、御慈悲をもっぱら要に遊ばされたところ、御老年に及び厳しく御仕置きを仰せ出された
  と、世人は唱え奉ったという(家康様常々御慈悲を専要に遊ばされ候所、御老年に及び稠しく
  御仕置仰出され候と、世人之を唱ひ奉り候由)。

――『村越道伴物語留書』



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異郷の地にて

2018年04月19日 18:27

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 13:12:40.81 ID:vWQ9chld
異郷の地にて

安房里見家九代目当主、里見忠義は突然先祖代々の地を離れることとなった。
大久保忠隣の失脚への連座、城郭の無断改築や浪人召抱えの咎とされる。
転封先の伯耆国倉吉で失意の日々を送る忠義は神仏にもすがる思いであったのだろうか、
山田八幡宮へ以下の棟札を奉納している。


社殿の倒壊と言うのは全く思いがけず、不思議なことです。
安房一国の太守であったのに、徳川の御威光によって
西国の地に住む私の命運もまた奇妙と言えるでしょう。

里見は代々、神社仏閣の建立復興に尽力してきましたが、
世の中の移り変わりによって今では斜陽の日々を送っております。
しかしながら、太陽や月が大地に墜ちでもしない限り、必ず東の空から明日はやって来るのです。
領主の立場は奪われてしまいましたが、どんなに時を経ても里見代々の気風が
安房の人々の心に残ることは明らかでしょう。

この度は梁や柱、どんな小さな部分にも
領主・領民の楽しみ、子孫の繁栄、国家の安寧、神仏への信心不滅の願いを込めて
八幡神社を建立させました。
君主というものは忠孝・武運の道を以て朋友と付き合い、仁義礼智信の五つの徳を専ら行い、
剣を握って悪魔どもを打ち払ってこそ功徳が積まれ、天を輝かし地を照らすと言います。
それらを心がけつつ、君臣皆が世の平和を誇り、罪は消え、神仏の教えが子々孫々に伝えられ、
国家が安泰であることを願います。


安房の地を懐かしみ徳川の仕打ちを嘆きつつも、旧領復帰の望みを失っていない忠義の心情が残されている。
しかしこの翌年、与えられていた僅かながらの知行も召上げとなり、
やがて病床に就いた忠義は郷里の土を踏むことなくこの世を去った。
享年二十七歳であった。



681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 14:41:35.60 ID:iLYECfx3
おめでたい頭してんな忠義
つーか奇妙とか言ってるけど政争に巻き込まれた自覚すらないのかよ…