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「中尾落草紙」から、後藤一族の最期

2022年11月17日 19:15

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:16:25.42 ID:h+gKGqTL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13720.html
の「笹子落草紙」の続編と思われる「中尾落草紙」から後藤一族の最期

後藤兵庫助(後藤信安)は首尾よく鶴見内匠(鶴見信仲?)を殺し安堵していた。
いっぽう武田信秋は「鶴見は我を頼ったにもかかわらず、むざむざ討たせてしまった。
かくなるうえは後藤を退治し、鶴見の恨みをすすごう」
里見義堯に申し出たところ、里見義堯は両正木(正木時茂・正木時忠兄弟)に仰せつけ、天文十三年(1544年)四月、一千余騎をひきつれ後藤の中尾城に押し寄せた。
折節、城には北条殿身内の足軽大将・福室帯刀左衛門七十三騎が籠っていた。
後藤は福室とともに櫓に登り、敵勢を知ろうと周囲を見渡したところ、
武田信秋(大学助):二百余騎、武田義信(大炊頭、信秋の息子):三百余騎、正木時茂(大膳)・正木時昌(将監)・正木時忠(十郎):七百余騎がそれぞれ陣取っていた。
福室は「合わせても千四百五百には過ぎぬだろう。
堀を越えてようとするときは弓矢で、木手までくるようであれば石弓で四方の堀に落とせばよい。
明日になれば嵐に遭った竜田川の紅葉のごとく散り散りに引くであろう。」と言った。
後藤は喜んで敵の陣中に「北条の方々、このわずかな堀など早く越えて攻めてこられよ。相手になろうぞ」と語り、櫓の板を叩いて愚弄した。
大将の里見義堯は北条鹿毛という駿足の馬に乗り陣を駆け巡り
「ものども、一枚板の盾を木戸に突き倒し、わき目も振らず攻め上れ。壁まで登ったならばそのまま盾を討ち捨てて攻め込め」
と下知すると、堀を渡った兵どもはわれもわれもと木戸に駆け上った。
後藤方も木戸から筒木を落としたが相手方の兵には当たらず、内側まで攻め込まれた。
覚悟を決めた後藤と福室は、ともに城内に戻って最後の戦をし、ひとところで死のうと誓った。
そのうち敵は四方から攻めてきたため、後藤の味方の兵はあるいは討ち死に、あるいは捕らえられだんだん薄くなっていった。
福室は、かつて父親が三浦の城を攻めた時に殿より拝領したという小薙刀を縦横無尽にふりまわし、力が尽きたのちは九寸五分をするりと抜き、腹を十文字に掻き切って、声高に題目を十遍ほど唱えて突っ伏した。
後藤も「福室と同じところで」と思ったものの「いや命あってこそ再起も図れようというもの」と女の衣を髪にかけ、堀を越えて抜け出そうとした。
それを見とがめた正木時忠は「怪しい者だ、とらえよ」と郎党に引き立てさせた。
後藤はつくり声で「後藤の身内のおふでと申す媼(おうな)でございます。助けたまえ」
と言ったが時忠は「おうでもこうでもつらをみせよ」と衣をはねのけてみると後藤であった。
時忠が「兵庫よ、わしが貴殿を見逃したとしてもおっつけほかのものが捕らえるだろう。
いっそ自らの手で菩提を問おうと思うが」と言うと、
後藤は「情けある人の言葉です。わたくしも城内で腹を切ろうと思いましたが、再起を図ろうとおもったために面目のないこととなりました。
平宗盛が源義経に捕らえられ鎌倉へ連行される途中、警固の武士があざけると宗盛は
「虎が深山にある時は百獣はこれを恐れるが、虎が穴に落ちるとその尾を引っ張って喰らおうとする」
と言ったそうです。その思いが今さらながらに知れました。
わたくしには五人の子供がいますが、一人でもあなたの軍勢により生け捕りにできるようであれば、どうかその子を僧にしてわたくしの菩提を弔わせてください」
と言うや、西を向かって手を合わせて念仏を唱えだした。
こうして後藤兵庫助信安は四十五の花盛りにして散り落ちた。

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:18:39.10 ID:h+gKGqTL
一方、後藤の末っ子の駒若丸であるが、乳母に抱かれて落ち延びるところ、「夏の虫」ではないが敵方の鶴見五郎(後藤に殺された鶴見信仲?の息子)の前に出てきてしまった。
乳母が「父は敵でしょうが、この子の母親はあなたの伯母、どうか命をお助けください」
と涙を流して言うと、五郎もともに涙を流した。
そこで武田信秋に助命嘆願したが「後藤の末裔はすべて滅ぼせ」とのことであり
五郎は「駒若よ、助けたいとは思うものの、ままならぬ世の習いである。覚悟を決めよ」と言うと
駒若丸も涙を流しながらも「南無阿・・・」と唱えたところで一閃。散った。
乳母は駒若丸の死骸に抱きつき「われもともに送ってください」と打ち嘆いたが、みな哀れとは思うものの希望をかなえるものはなかった。
こうして後藤方の首実検をしているところへ、北の方から黒雲が飛び来て陣の上を覆った。
その中から鶴見・後藤により殺された武田信茂の魂が歎恨鬼という鬼となり
「主に不忠のやつばらがこのようになり、今は心安いわ」と天地に響くばかりに叫び
笹子城・中尾城の両城に雷光を放ち、また北に向かって去っていった。
そののち主君に害をなした鶴見・後藤の両城を訪れるものはなく、草が茫々とおいしげっている。

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:39:32.43 ID:h+gKGqTL
義堯については、本文中には「里見」とは書かれず、あたかも「北条」であるように書かれていている。
また正木将監時昌(ときまさ)については不明。「図説 戦国里見氏」によれば正木時茂と正木時忠の間の兄弟は正木時義(大炊頭)。
ついでに正木時茂は前に出ていた後藤の婿である小田喜朝信(真里谷朝信)を天文十三年八月に討っている。
また「図説 戦国里見氏」によれば、北条・里見は武田信秋(全方)を支援していたが、信秋が亡くなったのちの天文十四年ごろ里見義堯が信秋の佐貫城を奪取。
不満に思った信秋の息子・武田義信は、天文十四年九月、北条・今川間の抗争時に里見が北条に援軍を出そうとしたおりに里見について北条に讒言。
天文十五年九月には北条氏と武田義信が佐貫城を大軍で包囲、というように情勢が目まぐるしく変わっている。
そんなこんなで紹介した両草紙がどこまで史実に沿っているかは不明。



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故に私は法体となるべし

2018年12月30日 16:40

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/30(日) 00:31:04.83 ID:iDiiY0TM
義堯公(里見義堯)が御法体となられるにつき、御一門や御家老中が申し上げたことには、

「昔から大将が法体となることは色々とありますが、大方は不吉でした。平清盛や北条高時のように
侍の行儀を苦しく思って法体となり、悪行をなす者もいました。また常人では大将の威勢がないので、
法体となる者もおりました。主君はどのように思し召されますか」

義堯公はこれを聞こし召すと、

「私が義豊を討ったのは父の仇である故で、是非なく討ったものである。それなのに私は嫡子の方を
殺して自分が大将と誇ることを喜ばぬのだ。故に私は法体となるべし。しかしながら、両国を他人に
取られることは、なおもって不孝である。今より以後は義弘を大将として、各々は忠を励まし給われ」

と涙を流して宣った。このため皆々これを感動し、涙を流して御前を罷り立った。その後の合戦では
義堯公は後見のために出陣されるといえども、大将は義弘公と御定めになったのである。

――『里見九代記』


「万年君」

2018年04月13日 16:51

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:06:14.87 ID:bVtCrpO+
1560年頃、安房・上総の西沿岸部は舟に乗って東京湾を渡ってきた盗賊たちが跋扈しており、夜中に民家や寺院に押し入り、放火や略奪、強姦など狼藉すること限りなかった。
盗賊と言えど身を立派な武具甲冑で固めた者たちなので、恐らく北条氏の水軍衆だったのだろう。
当時既に家督を嫡男義弘に譲って隠居の身となっていた里見義堯は領民の惨状を聞いて驚き、洲の岬、滝山、明ケ根の三か所に物見櫓を建てると、昼夜問わず湾に近づく船を片っ端から改めることとした。
しかしそれでも闇夜に紛れて小舟で乗り込んでは、民家を襲う者が絶えなかった。物見櫓から賊を見つけても、里見の武士団が到着した頃には小舟でさっさと逃げ帰ってしまうのである。
これには房州中の武士たちが怒り、岡本城という湾に面した小城を大改修し、賊に備えることとなった。

岡本城が完成するとここに里見義弘が入った。そして先に築いていた物見櫓と狼煙を使って連携し、賊が現れようものなら城より番士組という警備隊が出動、これを撃退することに成功した。
元亀年間(1570年代)にはかつての乱暴の煩いは嘘のように消え、房総の人々は戸閉まりを忘れるほどだったという。
盗賊を一掃した主君の恩を想い、民は万年君と称えた。


「万年君」と言えば里見義堯というイメージですが、元ネタの一つである『房総里見誌』を読むと里見義弘(あるいは里見親子)を指しているようにも読み取れます。
この逸話ではやられる側の里見氏も当然水軍衆を率いており、度々北条領(時には鎌倉まで)攻め入っていますので、
東京側・千葉側を問わず東京湾沿岸の人々は保安のために北条・里見の両方にミカジメを払わなければならない状況が続きました。
天正年間に里見義弘と北条氏政が和睦し相房御和睦が成りますと、房総の人々は歓喜したと言います。里見氏が尊崇すること止むない妙本寺日我も、
湾の向こう側が「味方」となったことで平和となり、二重賦課や乱暴狼藉が無くなり流通が盛んになったので、この和睦を大変高く評価しました。
父以来の因縁であった北条氏に事実上屈服することとなった里見義弘は大変悔しがった苦渋の選択でしたが、東京湾の平和は多くの人々から歓迎されたようです。



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:22:00.82 ID:ipnwiLT3
里見が無駄な抵抗を続けたせいで民が被害を被った悪い話では

里見八犬伝と資料捏造の影響かメジャーじゃないけど、
里見家って北条への裏切り、上杉から武田への寝返り、家督簒奪だのお家騒動だのが頻発するろくでもない一族だしな…

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:42:32.29 ID:R36Ud/OQ
>>761
安西や丸さんですか?

そんな家は日本中にごろごろしてるやん?
北隣の千葉もそうだし、鹿島、長尾、結城、由良・・・
内紛、鞍替えなんて珍しくもない

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 19:03:34.40 ID:R36Ud/OQ
>>760
結局、江戸湾の奥まで北条が進出してきたから小弓やそのあとを襲った里見とぶつかってるんだよね
早々に小弓が千葉を従えて武蔵や古河を狙う状況になっていたら、その後の関東の戦国時代が変わっていたかもしれない
まあ、あの脳筋さんではどんなに頑張っても北条とぶつかるだろうけど

この海賊って内房の正木一族なんじゃないかな
仲の悪かった内房正木が里見に帰ってくるのがこの頃(永録年間)だったし、手打ちで海賊行為を止めて復帰って感じだったりしないかな

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 21:57:15.40 ID:JVeO1YPB
>>761
家督簒奪は武田の方が有名だろ
もはやDNAレベル

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 08:16:17.93 ID:ucnig8gM
>>764
源氏の血筋が悪い

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 11:44:15.87 ID:TbCnxCmu
為義、義朝が悪いね

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 13:04:55.58 ID:gyi31u/K
>>760
領民の建前「里見最高!万年君!」
領民の本音「さっさと北条に降伏しろよ…税の二重取りも略奪もキツいわボケ」

こういうことか

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 14:22:04.29 ID:4Dlrdyb0
氏政の娘貰っておきながら死んだから変わり寄越せって氏政の妹ひったくって、また死んだから武田と結んで最後は豊臣と結んだ里見くん凄すぎー

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 14:46:39.00 ID:908VFRFc
同盟の大枠が変わるたびに出るありきたりの話だが、里見に親でも殺されたのだろうか?

足利義明と止められなかった逸見忠次、里見義堯

2018年03月30日 18:04

634 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/29(木) 18:38:44.55 ID:Stb2uth1
1538年、10月。現在の千葉県松戸市にあたる地で、江戸川を挟み対峙する二つの軍勢があった。
片方の軍を率いるのは鎌倉を制して勢いに乗る北条氏綱
もう片方の軍を率いるのは武田氏・里見氏を従属させ力を増しつつあった小弓公方足利義明であった。
世に言う第一次国府台合戦である。

里見や正木、酒井、土岐といった房総の諸将を従えたとは言え足利軍の総力は一万程度。
一方の北条率いる軍勢はは二万とその差は大きかった。
数の上での不利を補うべく、義明に従う里見義堯が進言した。

「敵の数は多けれど、太日川(江戸川)は流れも早いので渡河は困難。先手が川を渡りきる前に矢衾を作り、続く敵を討てば勝機も見えますぞ」

ところがこれを聞いた足利義明は大笑いした。

「儂は小弓公方義明ぞ。北条の雑兵共が儂に弓など向けられるものか。
 北条軍が川を渡り終えたところで氏綱の首級を取ってみせるわ」

自らの武勇と威光に自信満々の義明と対照的に、慌てたのは義明の重臣、逸見忠次たち。

「公方様、いけませぬ。敵はおよそ我らの倍、地の利を活かさねば活路はございません」

しかし義明はこれを聞き入れない。忠次の必死の説得も空しく、結局房総連合軍は北条の渡河を待ってから攻撃をかけることとなった。
すると里見義堯が再び進言した。

「公方様、敵はその数に物を言わせ市川方面から別動隊を繰り出す可能性がございます。
 公方様が敵の主力を叩く間、某が邪魔者を追い払って参りましょうぞ」

これに対し義明、

「頼もしい限りよ!」

と義堯を前線から外してしまい、義明率いる軍勢は更に少なくなってしまった。

やがて北条勢が次々に江戸川を渡ってきた。しかし足利軍は動かない。
とうとう渡河が終わったところで、ようやく両軍は激突した。
義明はその自信に違わぬ武勇で敵兵を蹴散らすものの、所詮は多勢に無勢。
次第に押され始めた義明軍は、義明の嫡男義純までもが討たれた。

「おのれ、北条め!」

激怒し刀を振るう義明に対し

「公方様、ここはお退き下さい!某殿となり、公方様の御命をお守りいたす!」

義明に懸命に訴える忠次だが、またしても義明は聞き入れない。

「かくなる上は氏綱と刺し違えてくれるわ!」

義明は北条軍へ突撃し、呆気なく射殺されてしまった。
それを見た忠次、自軍の将兵達に大音声で呼ばわった。

「者共は義純様(義明次男)を守り、義堯殿を頼って安房へ落ちのびよ!」

殿となった忠次は奮戦するものの、山中修理亮に討たれ義明の後を追うこととなった。
一方北条の挟撃に備えると称して戦場から離れていた里見義堯は、義明戦死の報を聞くとすぐさま本拠地の安房へと引き返す。
そして軍勢を整え、味方のはずの旧小弓公方領を火事場泥棒的に次々と攻略し、小弓公方に代わる勢力となったのは皆様ご存知の通り。

足利義明の暴走を止められなかった(止めなかった?)逸見忠次里見義堯、二人の対照的なお話(『房總里見軍記』より)。



635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 19:19:32.36 ID:YqWh7fXG
義堯にしてみれば、我が儘な義明にうんざりしてたんじゃないかな
義明方に誘ってきた真里谷武田との仲も芳しくなくなっていたし、国府台での義明戦死はもっけの幸いだったろうね
事実、義明を助けるそぶりすら見せないで退いたし

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 21:32:21.21 ID:1MeYh122
そもそも義堯が懇意だった北条と手を切る原因になったのが義明の真理谷家(武田家)への介入だからね
目の上の瘤な上に無茶をする義明には遅かれ早かれ見切りをつけるつもりだったのかも知れん
で、思いの外簡単に上総に進出できたから北条と戦い続けることにした、と

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 21:36:11.78 ID:irORd9HY
>>635
小笠原長時をさらに弱くした感じ

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 01:12:21.44 ID:Z/Xh5N+q
小田氏治「忠臣の進言無視は敗北フラグだぞ」

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 14:25:56.13 ID:r8DQgxnY
譜代の逸見君と違って足利家臣でもない足利の旗に集まった地方領主の里見君を比較しちゃだめだよ
見限って退却するのは当然の判断、それに倣ったのが真田昌幸な

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 15:07:43.43 ID:D15gAl9j
逸見も姓からして元真理谷武田家臣じゃないの?
と言うか小弓公方に譜代家臣なんかロクにいないんじゃ…

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 19:00:08.19 ID:xOGpPgXm
>>640
逸見は甲斐武田か真里谷の一族とされてる
ただ古河から移ってきた家臣もいたはず

642 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/30(金) 19:10:02.92 ID:UvmHsxPi
逸見と書いてへんみと読むらしいな

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 19:39:50.61 ID:DJSp8WgA
>>637
小笠原長時は戦いに冠しては評価がわりと高い
人心掌握がへた

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/31(土) 01:17:23.11 ID:baFuhFEn
>>642
読みでいつみの方が認知度高いのは故政孝の関係だな
若狭にもいた同族のおかげで戦国時代はへんみでいける

南総の友情

2018年03月19日 17:27

707 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/19(月) 15:09:10.97 ID:pGLzIasn
有名な話だけどまとめサイトの方に地元の話題があまりなかったので。
初投稿なので作法がなっていないかも知れません。ご容赦ください。

南総の友情

天文二年(1533)、一人の若き僧が安房の保田妙本寺にやって来た。
僧の名は日我。日向に生まれ六歳にして三河阿闍梨に教えを受け、二十代の若さで妙本寺の代官に任じられた秀才であった。

やがて日我は日蓮崇拝の気風が強い安房にて深い尊崇を受けるようになり、ついには妙本寺を継いだ。
そして同じ頃、安房ににて頭角を現した者がもう一人いた。天文の内訌の勝利者となり安房里見氏を掌握した里見義堯である。
二人は出会うと互いに感銘を受け、尊敬し合う仲となった。
当時義堯は三十歳、日我は二十九歳であったと言われる。

古の義舜の治世を夢見たとも言われる義堯は学徳深い日我を謂わば政治顧問の様に頼り、その助言によく耳を傾けたという。
また日我は寺領を前線基地として里見氏に貸し出すなど、二人は二人三脚でその勢力を拡大していった。
だがたった一度、日我の進言を義堯が退けたことがあった。相模の北条氏康が日我を通して義堯に和睦を持ちかけたのだ。
「日我上人の申し出でもそれだけは受け入れられぬ」
義堯はそう言って断ったが、その後も二人の交流は途切れなかった。

月日は流れ天正二年(1574)六月一日。その半生を北条との戦いに投じた安房の狼、里見義堯は泉下の人となった。
日我と義堯の出会いから四十年近く経っていた。
里見氏の門派は曹洞宗であり、当然義堯も日蓮宗に帰依はしていなかったが、日我は願い出て義堯の百日法要を行った。
百日間の読経の後、日我は友の為に歌を詠んだ。

隔つとも 心の空に 照る月の 光は同じ 眺めなるらん

二人の眺めた光とは房総の安寧か尽きることなき野心だったか。
幾度北条に大敗しても立ち上がり続けた義堯を日我は「関東無双の大将」と述懐したという。



708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 15:34:31.80 ID:3GoBRh6O
古の義舜って佐竹義舜のことか?
また里見らしい中途半端な目標だなw

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 15:42:38.16 ID:dxw5TKgB
「堯舜の治世」の間違いじゃないの?

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 16:38:47.11 ID:DgvlYfoX
>>708
いや君の洞察力もなかなか中途半端w

主人の馬を戦場で放つ時

2017年07月29日 16:43

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 13:46:06.13 ID:YqOeGAFB
城井の一揆の時、黒田長政の馬が深田に入りこんだのを、三浦六之助が自分の馬を奉り長政を退かせ、
長政の馬の尾を切り鐙を外してから長政を追いかけたという。
馬を奉って主人を撤退させたのは、沈勇かつ忠義ある行いであり、ことにこの時の作法が
勝れた心得と言うべきである。

古来より、主人の馬を戦場で放つ時、主人が討ち死にしたのではないことを示すため、
尾を切り鐙を外すのが礼であったという。
国府台の合戦の時、里見義弘に安西伊予守が自分の馬を奉って、自身は歩行して供をした。
しかし義弘の馬は鞍鐙をつけたまま陣中を駆け回ったため、これを見た兵たち
「さては義弘討ち死にか」と思い、これによって敗勢となり随兵の過半が討ち死にを遂げたという。

物事の究理薄いと、思わぬ失があるものなのだ。

(士談)


正木信茂、牛の角を

2013年09月08日 19:08

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/07(土) 21:08:11.86 ID:I0PrKMFi
ある時、里見義堯は家中の者たちを集めて宴を行ったが、その中で古今の豪傑の話となった。
義堯が

「昔、異国の孟賁という豪傑は、牛の角を握って捻り潰したというが、本朝には未だ、
そのような武者はおらんなあ。」

と言うと、そこに正木大膳亮(信茂)が進み出て

「私がやってみます」

と言い出した。里見義堯は宴会の良い余興だと面白く思い、庭に出て大きな牛を連れてこさせた。

すると、大膳亮は牛の角を左右の手に握り、まるで五月雨の頃に草を抜くように、
いともたやすく牛から二本の角を引き抜いた。

これには里見義堯以下、驚き肝をつぶさぬものはいなかったという。
(関八州古戦録)




58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/07(土) 21:32:27.95 ID:er6/6ZjN
坂東武者って…

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 05:25:15.57 ID:ttDeX7al
牛が可哀想だ

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 06:07:17.64 ID:pUDhCi6C
ホモ・サピエンス以外の何か

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 06:23:25.36 ID:blsv0fNV
戦国の宴会芸は血なまぐさいのお

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 06:37:00.04 ID:YYChAss4
>>57
牛「モーやだこんな国」

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 07:53:44.59 ID:OlnOaeaz
H川F孝「どれ、拙者がひとつチャレンジをば…」

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 10:44:06.44 ID:bK/qCks7
親父の大膳ばかり注目されて息子の大膳はほとんど無視されていたから名前が出てくるのはうれしいね

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 18:47:31.26 ID:CRrfZWGO
(´・ω・`)「力自慢がいると聞いてきますた」

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/08(日) 19:03:12.03 ID:7jINFss/
>>63
寝ながら考えたけど、H川F孝って誰か分からん。
てか、F行ってことは「ふぁ・ふぃ・ふ・ふぇ・ふぉ」のどれかだよな。
一体誰だ?w

「矢切りの渡し」由来

2011年07月29日 23:00

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 11:37:06.66 ID:ksYWSRUg
地名にまつわる小話を一つ(ソースは葛飾区が出してる郷土資料の本)

矢切りの渡しで有名な「矢切」の地名の由来はいくつかあるらしいのだが、その中のいくつかを御紹介。
いづれも国府台合戦がらみ。

①里見軍、北条軍双方の「矢が切れるまで激しい戦闘だった」
②里見方の「矢が切れて負けた」から矢きり→矢ぎり
③もう「弓矢の必要ない平和な世の中を願って」地元住民が名付けた。
…などなど。

あと矢切りの渡しの付近(現在の江戸川)の浅い場所を「からめきの瀬」というんだが、
どうやら「からめての瀬」の訛りらしい。浅くて渡りやすい場所を城の「搦め手」に例えたらしい。

巻き込まれる農民にとっちゃ悪い話なので、こっちに投下。
乱文失礼いたしました。




221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 12:01:43.83 ID:swGyjQ3y
>>220
からめきの瀬には一説には、
がらめきの瀬ともいってそこにある石ががらがらと音を立てるから、
みたいな話もあったね

だから第二次国府台合戦で北条の大群が夜飲に紛れて渡河しても、
渡河の音がその音にかき消されて気づけなかったとか。

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 12:11:22.99 ID:ksYWSRUg
>>221

今はあり得ないほどのどかな場所なんだけどね。
完璧に余談ですが、うちの近所に里見氏の御子孫が住んでいらっしゃるそうな…