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本当の合戦両度ながら、信玄公御勝利なり。

2019年05月19日 12:30

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 17:20:23.05 ID:WLVYKXLa
百年以来、本当の合戦はさほどない。ただし両度の本当の合戦があるというのは永禄4年酉(1561)の
信州川中島合戦と遠州三方ヶ原合戦、この両度合戦である。

北条氏康公は河越で上杉管領8万余りの大軍に8千で勝ち給うといえども(河越城の戦い)夜軍であるから
敵は油断した故である。そうでなければ8万余りの人数に8千の北条家がどうして争って負け申すだろうか。

下総国府台で氏康公は安房の義広(里見義弘)に勝ち給えども(第二次国府台の戦い)、義広は初めは打ち
勝ち油断したところへ、氏康が掛かって利運になされたのである。

このように出し抜き、あるいは二股(節操がない)で小身な敵に勝ち、あるいは堀を掘って柵を付け打ち、
自分が逆心をし、または旗下の侍が合戦で突然裏返って敵となり、無理な勝ちを負けたとしても、負けとは
あまり心に意地を張るのをやめないのである。世間でも本当の勝負と批判はしないのである。

国持ち達が敵味方ともに2,3万の人数で白昼に合戦参るべしと、両方ともに他国の加勢はあるとしても、
大将が1人ずついて川も柵も裏切りも無く打ち合い、手勢ごとに槍を合わせ勝負をして実否を付けたのを、
本当の合戦と申すのである。これをどれかと分別で見申すと、川中島合戦と三方ヶ原合戦になるのである。
両度ながら、信玄公御勝利なり。

敵味方ともに2千,3千での勝負は諸国にそれこそいかほどもあるだろうが、それは大合戦とは申さない。
大合戦ではないから世間で取沙汰されないのである。信玄公が御勝利された相州みませ合戦(三増峠の戦い)
も氏康公・氏政公父子が到着されない以前に、北条家の先衆ばかり切り崩しなされたので、本当の合戦とは
申しがたい。

北条陸奥守(氏照)・阿波守助五郎(北条氏邦)の各々一類衆がいらしたといえども、大将の氏康父子は到
着なさらなかった。その以前、馬場美濃(信春)方へ向かった武士の中で金の制札と金の提灯を指物にした
2人の武士がいて、これもまた権を争い稼ぐところを、治部と市之尉が見て治部は金の制札を、市之尉は金
の提灯をと目標に致し「討ち申す!」と申して、その如く治部も市之尉もその武士を討って高名仕った。

指物を添えて自分の備の侍大将である馬場美濃守には見せずに、市之尉は治部を訪ね治部は市之尉を訪ねて、
互いに大口を叩くようであった。これは古今でもさほど無き働きである。

(後略。>>926

――『甲陽軍鑑』



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片手綱を達者に覚えてこそ

2019年05月14日 17:30

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 02:46:49.63 ID:fYL2tmxB
安房・上総両国の府君である里見義弘公、その一家の正木大膳という者は12,3歳の頃から馬を習う時
に片手綱で乗ることを好んだ。馬を教える者は怒って言う。

「片手綱というのはよくよく馬を乗り覚えて功者になってからのこと。片手綱で御乗りになろうとされる
ならば、未だ鍛錬もなさらずに左様になさるとその身なりも悪くなられます。絶対に片手綱は無用ですぞ」

そのように制すると大膳の申しようは「侍の将たる者は馬から降りて槍を合わせて高名するということは
多くはあるまい。馬上で下知してそのまま勝負を決するならば、片手綱を達者に覚えてこそである」と。

幼心に申したように、大膳は度々馬上で勝負を決した。とりわけ国府台で里見義弘の子息・義高(義堯。
義弘の父)が北条氏康と合戦し、義高は負け給う。この後れ口の時、件の正木大膳は良き侍を一所で8人、
また一所で9人、また一所で4人、日中に以上21人を馬上で切り落として退いたのだという。

――『甲陽軍鑑』



故に私は法体となるべし

2018年12月30日 16:40

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/30(日) 00:31:04.83 ID:iDiiY0TM
義堯公(里見義堯)が御法体となられるにつき、御一門や御家老中が申し上げたことには、

「昔から大将が法体となることは色々とありますが、大方は不吉でした。平清盛や北条高時のように
侍の行儀を苦しく思って法体となり、悪行をなす者もいました。また常人では大将の威勢がないので、
法体となる者もおりました。主君はどのように思し召されますか」

義堯公はこれを聞こし召すと、

「私が義豊を討ったのは父の仇である故で、是非なく討ったものである。それなのに私は嫡子の方を
殺して自分が大将と誇ることを喜ばぬのだ。故に私は法体となるべし。しかしながら、両国を他人に
取られることは、なおもって不孝である。今より以後は義弘を大将として、各々は忠を励まし給われ」

と涙を流して宣った。このため皆々これを感動し、涙を流して御前を罷り立った。その後の合戦では
義堯公は後見のために出陣されるといえども、大将は義弘公と御定めになったのである。

――『里見九代記』


なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか!

2018年12月15日 19:39

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 01:11:20.41 ID:wQqzwCcr
武蔵江戸の住人に太田源六資高(康資。父子の混同)という者がいた。大力武勇の誉れは関東8ヶ国に並ぶ者
なし。およそ30人でも動かし難き大石を、軽く持ってしまうほどの剛の者である。その弟に源三郎と源四郎
という者がいて、共に大力の兵どもであった。

ある時に3人が集まって言うには、「そもそも兵は剛強だけでは末代までの高名にはなり難し。それは何故か
といえば、今武蔵の中に我ら兄弟の上を越える力量の者はおるまい。如何なる鬼神であるとも3人で従えよう
として従わせられないということがあろうはずもない。

しかしながら(北条家からの)賞翫にも預からず、未だ一城の主にもなっていない。先祖の道灌(太田道灌)
は無力でも武功を顕し、末代までも名を揚げたものだ。我らは武勇を励んで氏綱父子二代に型の如く奉公した。
とりわけ過ぎ去りし大永3年(1523)、江戸城へ氏綱を引き入れて管領(上杉朝興)を追い落としたが、
城には遠山を置かれて、万事が我らの心に叶わない。

いざ同苗の美濃守入道三楽斎と相談し、安房の里見義弘と引き合わせ江戸城を攻め落とし、長く豊島郡を知行
して、言うまでもなく道灌の跡を継いで江戸城を取るべきと思うが、どうだ」

これに2人の弟どもは「もっともしかるべし!」と勇む。それから「これほどの大事を無造作には言うまい」
と、かの源六郎の菩提寺である法音寺という法華寺の番神堂に集まり、神水を飲んで、「この事を思い定めた
ならば二度と変じてはならない」と謹んで申し、その後に太田三楽の方へこの旨を言い遣わした。三楽は大い
に喜んで安房へ使者を立てて里見義弘を招けば、義弘は安房一国の勢と上総の軍兵を催し、下総国の国府台に
出張した。

そのようなところに法音寺の住持の僧は、かの太田兄弟の密談を聞き、日頃の誼を忘れて小田原へ注進して、
自身の檀那兄弟が謀反との旨を告げたのである。これによって遠山丹波守(綱景)に太田誅伐の討手を賜り、
すでにこれが押し寄せたので、太田兄弟は案に相違して夜に紛れて岩槻へと落ちて行った。これによって氏康
父子は日を置かずに打ち立ち、国府台へ発向された。

(中略。第二次国府台の戦い開戦)

ここに今回敵となった太田源六・同源三郎・同源四郎・黒川権右衛門・長南七郎などといった大力の若者ども
は一面に打って掛かった。志水太郎左衛門という大力無双の聞こえありし者は源六と渡り合ったが、志水の樫
の棒で源六は太刀を打ち折られ、力無く逃げたのである。源六はあまりに無念だったので「また太刀で打てば
折れるかもしれない」と、常に秘蔵していた長さ8尺の鉄の棒を取り寄せて軽々と引っ下げ、「なんとしても
志水めを打ち落とす!」と打ち振り打ち振り馳せ巡ったが、ついに見付からなかった。

源六はいよいよ腹を立てて、冑の鉢や胴中を構わず当たるを幸いに打って廻ると、多くの人馬が打ち殺された。
太田下野守という人は小田原勢の先手であったが、源六の有様を見て、「これは我が婿の源六なり!」と思い、
乗り寄せてくると源六に声を掛けて、

「おい源六、無益な謀反を致したものだな! 私は味方であるから、なんとしても先非を悔いて降参せよ!
命だけは助けよう! それにしても今日の振舞いは厳めしいものよ。しかしながら馬は何の咎によって打た
れたというのだ。人こそ打つだろうが、多くの馬を打ち倒すことは罪作りであろうぞ。どうなんだ源六!」

これを聞いた源六は「殊勝なことを宣うものですな。それならば人だけを打ちましょう。受けてみなされ!」
(いしくも宣ふものかな、人計り打つべし、受けて見給へ)と言うや否や、舅の下野守を開き打ちに丁と打つ。
下野守も太刀で打ち返さんとするが、大力で打たれてはどうして耐えられよう、前方の深田へ打ち落とされて
見るにしのびない有様であった。

(中略)

国府台の戦いが散じて後、太田源六は宿所に帰って妻女に向かって「私主の父の下野殿はこの度、戦場で某に
向かって言葉を掛けられたので、棒で頭を打ったのだ。必ずや痛んでおられよう」(某に向て言葉を掛け給ひ
し程に、棒にて頭を打ちぬ、定めて痛み給ふらん)と語った。

女房は大いに驚いて「なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか! 探し参らせよ!」と下人
どもを遣わすと、案の定下野守は深田の泥にまみれ、頭を打ち砕かれていたのを探し出した。女房は下野守の
葬礼を懇ろに営み、髪を剃り落として父の後世菩提を祈ったことは哀れである。武蔵神田の浄心寺はこの尼の
建立であるという。

――『小田原北条記』

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527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 17:01:55.03 ID:6Uin1sXO
>>526
リアル戦国無双でワロタw

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 19:13:40.40 ID:S5q0Xu8o
>志水太郎左衛門
清水だよね
足の力で馬を絞め殺せる人

「万年君」

2018年04月13日 16:51

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:06:14.87 ID:bVtCrpO+
1560年頃、安房・上総の西沿岸部は舟に乗って東京湾を渡ってきた盗賊たちが跋扈しており、夜中に民家や寺院に押し入り、放火や略奪、強姦など狼藉すること限りなかった。
盗賊と言えど身を立派な武具甲冑で固めた者たちなので、恐らく北条氏の水軍衆だったのだろう。
当時既に家督を嫡男義弘に譲って隠居の身となっていた里見義堯は領民の惨状を聞いて驚き、洲の岬、滝山、明ケ根の三か所に物見櫓を建てると、昼夜問わず湾に近づく船を片っ端から改めることとした。
しかしそれでも闇夜に紛れて小舟で乗り込んでは、民家を襲う者が絶えなかった。物見櫓から賊を見つけても、里見の武士団が到着した頃には小舟でさっさと逃げ帰ってしまうのである。
これには房州中の武士たちが怒り、岡本城という湾に面した小城を大改修し、賊に備えることとなった。

岡本城が完成するとここに里見義弘が入った。そして先に築いていた物見櫓と狼煙を使って連携し、賊が現れようものなら城より番士組という警備隊が出動、これを撃退することに成功した。
元亀年間(1570年代)にはかつての乱暴の煩いは嘘のように消え、房総の人々は戸閉まりを忘れるほどだったという。
盗賊を一掃した主君の恩を想い、民は万年君と称えた。


「万年君」と言えば里見義堯というイメージですが、元ネタの一つである『房総里見誌』を読むと里見義弘(あるいは里見親子)を指しているようにも読み取れます。
この逸話ではやられる側の里見氏も当然水軍衆を率いており、度々北条領(時には鎌倉まで)攻め入っていますので、
東京側・千葉側を問わず東京湾沿岸の人々は保安のために北条・里見の両方にミカジメを払わなければならない状況が続きました。
天正年間に里見義弘と北条氏政が和睦し相房御和睦が成りますと、房総の人々は歓喜したと言います。里見氏が尊崇すること止むない妙本寺日我も、
湾の向こう側が「味方」となったことで平和となり、二重賦課や乱暴狼藉が無くなり流通が盛んになったので、この和睦を大変高く評価しました。
父以来の因縁であった北条氏に事実上屈服することとなった里見義弘は大変悔しがった苦渋の選択でしたが、東京湾の平和は多くの人々から歓迎されたようです。



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:22:00.82 ID:ipnwiLT3
里見が無駄な抵抗を続けたせいで民が被害を被った悪い話では

里見八犬伝と資料捏造の影響かメジャーじゃないけど、
里見家って北条への裏切り、上杉から武田への寝返り、家督簒奪だのお家騒動だのが頻発するろくでもない一族だしな…

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:42:32.29 ID:R36Ud/OQ
>>761
安西や丸さんですか?

そんな家は日本中にごろごろしてるやん?
北隣の千葉もそうだし、鹿島、長尾、結城、由良・・・
内紛、鞍替えなんて珍しくもない

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 19:03:34.40 ID:R36Ud/OQ
>>760
結局、江戸湾の奥まで北条が進出してきたから小弓やそのあとを襲った里見とぶつかってるんだよね
早々に小弓が千葉を従えて武蔵や古河を狙う状況になっていたら、その後の関東の戦国時代が変わっていたかもしれない
まあ、あの脳筋さんではどんなに頑張っても北条とぶつかるだろうけど

この海賊って内房の正木一族なんじゃないかな
仲の悪かった内房正木が里見に帰ってくるのがこの頃(永録年間)だったし、手打ちで海賊行為を止めて復帰って感じだったりしないかな

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 21:57:15.40 ID:JVeO1YPB
>>761
家督簒奪は武田の方が有名だろ
もはやDNAレベル

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 08:16:17.93 ID:ucnig8gM
>>764
源氏の血筋が悪い

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 11:44:15.87 ID:TbCnxCmu
為義、義朝が悪いね

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 13:04:55.58 ID:gyi31u/K
>>760
領民の建前「里見最高!万年君!」
領民の本音「さっさと北条に降伏しろよ…税の二重取りも略奪もキツいわボケ」

こういうことか

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 14:22:04.29 ID:4Dlrdyb0
氏政の娘貰っておきながら死んだから変わり寄越せって氏政の妹ひったくって、また死んだから武田と結んで最後は豊臣と結んだ里見くん凄すぎー

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 14:46:39.00 ID:908VFRFc
同盟の大枠が変わるたびに出るありきたりの話だが、里見に親でも殺されたのだろうか?

氏康傷

2018年01月25日 11:34

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 10:42:23.28 ID:/wkT3dlw
永禄7年正月8日、下総国国府台において、北条氏康里見義弘の合戦の砌、敵味方入り乱れ
氏康の下知も聞こえぬほどとなった。

ここで氏康は「加美」と名付けた黒き馬に乗り、白柄の長刀を持ち駆け出した。
そして剛敵を三十騎斬り落として猛威を振るい、合戦に勝利を得た。

この時、彼は身に鑓刀の傷七ヶ所、頬先に太刀傷をうけた。
この事があってより、侍の顔の傷を、人は称して「氏康傷」と言うようになった。

(北條五代記)



595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 12:58:29.71 ID:vTmFWARm
てことは身体に残る傷を受けたのはこの時だけなのか

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 13:14:36.37 ID:aJgje1Yo
まとめの3410の「上杉龍若丸の処刑」
だと、風林火山では上杉憲政の息子と一騎討ちして氏康傷つけられた、てことにされたんだっけ
しかし自分の息子殺されてるのに氏康の息子を助けようとして
養子の養子に殺される元関東管領さんは憐れすぎる

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 10:47:43.77 ID:d6wQLa55
>>596
因縁ある上杉憲政がそれでも推せる人物だったんじゃねえの上杉景虎
越後衆でもないししがらみなく客観的に人物見られたと思う

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 11:01:12.86 ID:LvwdCRRO
越後での「お館様」は憲政で、結構生前の謙信にも抑えられないところはあったみたい

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:04:15.69 ID:WuemNIBu
山内上杉の憲政が屋形様って変な感じするけど

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:14:43.83 ID:LvwdCRRO
謙信も屋形号下された割には尊称が「御実城様」やし

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:23:34.13 ID:3Opyz5ir
>>599
謙信への宛名が山内殿だからなぁ
憲政は前当主として遇されてますわな

主人の馬を戦場で放つ時

2017年07月29日 16:43

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 13:46:06.13 ID:YqOeGAFB
城井の一揆の時、黒田長政の馬が深田に入りこんだのを、三浦六之助が自分の馬を奉り長政を退かせ、
長政の馬の尾を切り鐙を外してから長政を追いかけたという。
馬を奉って主人を撤退させたのは、沈勇かつ忠義ある行いであり、ことにこの時の作法が
勝れた心得と言うべきである。

古来より、主人の馬を戦場で放つ時、主人が討ち死にしたのではないことを示すため、
尾を切り鐙を外すのが礼であったという。
国府台の合戦の時、里見義弘に安西伊予守が自分の馬を奉って、自身は歩行して供をした。
しかし義弘の馬は鞍鐙をつけたまま陣中を駆け回ったため、これを見た兵たち
「さては義弘討ち死にか」と思い、これによって敗勢となり随兵の過半が討ち死にを遂げたという。

物事の究理薄いと、思わぬ失があるものなのだ。

(士談)


『土気古城再興伝来記』より、上総酒井氏の出世話

2010年11月22日 00:00

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 16:43:24 ID:2hWSh0ji

上総国に酒井小太郎定隆という男がいた。
元々は遠江国の土豪だったのだが、知行が少ない事を不満に思い、戦乱の続く関東
で一旗挙げようとわずか三人の従者のみを連れて下向。鎌倉公方・足利成氏に仕え
たのだと言う。
しかし、公方家は鎌倉を追われ古河に逃亡。出世が望みであった定隆はそれを期に
足利家を見限り、上総国に渡った。

当時の上総国は安房国の里見義豊の支配下にあった。
諸国を見聞した浪人として義豊に面会した定隆は、各国の軍法や見聞きした戦の詳
細、大名の評判等を余す事なく義豊に披露し、その功で家臣に取り立てられる。

その当時上総を制したばかりの里見家は、下総からの執拗な攻撃に悩まされていた。
新参の定隆はまず、下総勢との最前線に投入される事になる。
この戦で定隆は活躍。上総、下総の国境地帯を押さえ、これ以上の敵の侵入を防ぐ
事に成功した。

これに喜んだ里見義豊・義弘の両将は、定隆に上総国の三分の二を任せる事にし、
越中守の名乗りを許した。
定隆は当時寂れていた土気の古城を再興してそこを居城と定め、上総を治めたと言
う。

大永元年(1521年)八十七歳になった定隆は土気城を長男・左衛門佐定治に譲り、
出家&隠居。隠居城となった東金城は後に三男・孫五郎隆敏が相続する。
これにより上総には土気・東金の両酒井家が並立する事になるのである。


『土気古城再興伝来記』から上総酒井氏の出世話。
通説では定隆は美濃国出身で、幕府の軍に従って下向。幕府から鎌倉公方家に乗り
換えて、成氏の命によって上総北部を平定した、という事のようですね。

この『土気古城再興伝来記』、中々面白い逸話が載っているんですが、あまり長文
なのも、連投での大量投下も、ウザいと思いますので、一日一~二話位のペースで
投稿させていただきます。いい話、悪い話合わせて計六~八話位かと思われますが、
よろしかったらお付き合いください。

……一つだけ言わせて貰おう。里見義弘はあからさまに年代が違うだろ!




418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 19:10:52 ID:88qvFQ00
>里見義弘はあからさまに年代が違うだろ!

里見の謎だね

419 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/11/21(日) 19:14:35 ID:djmKJfZM
http://stat001.ameba.jp/user_images/11/13/10130880841.jpg

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 20:13:05 ID:SIiAnx3i
>>417
連載是非にお願いつかまつる。

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 21:33:46 ID:XveU73MM
同名の別人じゃなくて?
伊達政宗だって9代目と17代目と二人いるじゃん

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 21:35:48 ID:4a70b2O8
島津家久なんて、ほぼ同時期に二人いたりするから・・・別に困らない。片方は、悪久の方で定着してるから

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 21:36:04 ID:OW74PhoH
後年、義尭に味方する義豊の息子だったりして

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 00:51:11 ID:b16A/BfL
河野通直に死角はなかった。