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『土気古城再興伝来記』より、上総酒井氏の出世話

2010年11月22日 00:00

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 16:43:24 ID:2hWSh0ji

上総国に酒井小太郎定隆という男がいた。
元々は遠江国の土豪だったのだが、知行が少ない事を不満に思い、戦乱の続く関東
で一旗挙げようとわずか三人の従者のみを連れて下向。鎌倉公方・足利成氏に仕え
たのだと言う。
しかし、公方家は鎌倉を追われ古河に逃亡。出世が望みであった定隆はそれを期に
足利家を見限り、上総国に渡った。

当時の上総国は安房国の里見義豊の支配下にあった。
諸国を見聞した浪人として義豊に面会した定隆は、各国の軍法や見聞きした戦の詳
細、大名の評判等を余す事なく義豊に披露し、その功で家臣に取り立てられる。

その当時上総を制したばかりの里見家は、下総からの執拗な攻撃に悩まされていた。
新参の定隆はまず、下総勢との最前線に投入される事になる。
この戦で定隆は活躍。上総、下総の国境地帯を押さえ、これ以上の敵の侵入を防ぐ
事に成功した。

これに喜んだ里見義豊・義弘の両将は、定隆に上総国の三分の二を任せる事にし、
越中守の名乗りを許した。
定隆は当時寂れていた土気の古城を再興してそこを居城と定め、上総を治めたと言
う。

大永元年(1521年)八十七歳になった定隆は土気城を長男・左衛門佐定治に譲り、
出家&隠居。隠居城となった東金城は後に三男・孫五郎隆敏が相続する。
これにより上総には土気・東金の両酒井家が並立する事になるのである。


『土気古城再興伝来記』から上総酒井氏の出世話。
通説では定隆は美濃国出身で、幕府の軍に従って下向。幕府から鎌倉公方家に乗り
換えて、成氏の命によって上総北部を平定した、という事のようですね。

この『土気古城再興伝来記』、中々面白い逸話が載っているんですが、あまり長文
なのも、連投での大量投下も、ウザいと思いますので、一日一~二話位のペースで
投稿させていただきます。いい話、悪い話合わせて計六~八話位かと思われますが、
よろしかったらお付き合いください。

……一つだけ言わせて貰おう。里見義弘はあからさまに年代が違うだろ!




418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 19:10:52 ID:88qvFQ00
>里見義弘はあからさまに年代が違うだろ!

里見の謎だね

419 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/11/21(日) 19:14:35 ID:djmKJfZM
http://stat001.ameba.jp/user_images/11/13/10130880841.jpg

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 20:13:05 ID:SIiAnx3i
>>417
連載是非にお願いつかまつる。

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 21:33:46 ID:XveU73MM
同名の別人じゃなくて?
伊達政宗だって9代目と17代目と二人いるじゃん

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 21:35:48 ID:4a70b2O8
島津家久なんて、ほぼ同時期に二人いたりするから・・・別に困らない。片方は、悪久の方で定着してるから

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 21:36:04 ID:OW74PhoH
後年、義尭に味方する義豊の息子だったりして

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 00:51:11 ID:b16A/BfL
河野通直に死角はなかった。
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