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一致団結してこの義光に命を預けてくれるのなら

2015年03月02日 18:25

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 16:49:49.41 ID:SOa/h9Hp
上杉相手に取り残される形になった最上義光

延沢光昌鮭延秀綱里見義近らの最上の重臣たちは山形に参集した諸将たちが続々と自国に引き上げて行くのを見て最上義光に詰め寄り
「加勢の諸将たちが起請文の連判に違約し逃げて行くとは、誓約に背くだけでなく、かつまた家康公に対しての不義、裏切りにございます!
味方の士気も下がります由、追いかけてなんとしても引き留めるべきです!」と訴え、すぐに追手や使者を出そうとした

しかし最上義光は頭を横に振り深く是を制止なされた
(´・ω・`)「確かにみなの言う事はもっともであるが、今追いかけて無理に引き留めようとすれば同士討ちになりいくさになるだろう。
それでは敵(上杉軍)に隙を与える事になる
また余り強く引き留め様とすれば敵方(上杉軍)に味方し、最上とは刃を交わす者も現れよう
そうなったら家康公に大きな不忠ではないか?
仮に自分の領内で問題が起これば自領が不安になるのは人間みな同じである
自分(義光)は最初から家康公のために一命を差し上げ様としていたので覚悟は出来ている
諸将の加勢が無くなったのは残念であるが仕方のない事だ
しかし味方の各々が別心なく今まで通り一致団結してこの義光に命を預けてくれるのなら、一心の覚悟をもって上杉相手に奮戦し、
敵がいかに強大であってもそうそう敗れはいないだろう」
と道理をもって答えられた

これを聞いて延沢、鮭延、里見らは「血気に任せてつまらぬ事を申し上げてしまいました」と赤面してしまった

「山形軍談」

いくさ場で無ければ結構冷静な面のある鮭様の話




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里見の謎

2014年08月30日 19:25

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 17:48:47.34 ID:tayKb6Jk
里見の謎

1603年櫛引で最上義康が暗殺されると、最上義光は側衆の斎藤光則を使い、事件の首謀者の洗い出しにかかった

義康一向を襲撃した慶長出羽合戦の後に最上家に降った実行犯の旧上杉家臣・土肥半左衛門は大山の屋敷から兼山の関を越え、南部領へと逃走を試みたが盛岡城下で追手に囲まれ斬り死に

旧上杉降将を纏める下吉忠と吉忠の相談役である新関久正にも暗殺共謀の嫌疑が掛かったが、証拠となるものは出て来なかった

義光は義康暗殺の元となった親子不和の原因をつくった里見権兵衛(正光。里見義近の孫、里見民部の子)に腹を召す様に命じたが、
これを不服に思った上山城の里見義近・民部親子は2万1000石の知行を捨て、一族の主だった者を連れ加賀前田利長を頼り、突如として出奔した

暗殺事件の首謀者も挙げられず、また里見一族に体面を汚されたと義光の怒りは収まらず
大領の前田利長に
「山形から逃げた問題のある者を匿わずに、すぐに捕らえて山形に送り返してほしい
返還に応じられないとしてもせめて放逐して頂きたい」との回状を送った

利長は慶長の役での里見民部の勇名を聞き及んでいたので、民部を3万石で雇う試算ではあったが義光からは続けて
「民部一族を家来として召し抱える等もっての他である。払願(奉公構)を切望する」と重ねて回状が送り届けられた

奉公構の倣いに従い民部が前田領に居られなくなると、福井宰相松平忠直から民部に2万石での仕官話が出たが、義光は福井をはじめ幕府と各大名家に奉公構を拡散

民部は高野山に窮鳥居場所を求めた

高野山にも最上家からは「里見一族を山形に返して頂けます様」「山には置かぬ様」と執拗に文が届き
高野山は義光に「里見一族を弑さぬ事」を約定に
里見一族を山形へと還した

里見一族は出羽各城に数人ずつお預けの身となり、義近と民部は大山の下吉忠の下へと送られた



1614年、義光が死の床で「吾死後七日以内に里見一族を誅せ」と遺言したと伝わる

義光の死後数日の内に最上義康の暗殺された場所のそばで
里見義近・民部一族20余名の処刑が執り行われた

※里見一族の処刑は
最上家内での権力争いの貧乏くじや、家親による絶対制確保のための儀式といった説もある


関連:戦国ちょっと悪い話 里見の謎(異)「死人に口なし」



里見民部小咄

2011年11月05日 22:01

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/05(土) 06:02:54.72 ID:50OUwyLN
里見民部小咄

父・里見義近(里見越後)が最上義光と結んだ事により、
次男・里見民部は主君・上山(里見)満兼と兄・里見内蔵を殺害し上山城を乗っ取ったと史書には記されている。

天童八楯としては残り七家が山形の北に位置していたが、里見だけは山形の南方に位置していた。
(東根景佐の旧姓も里見だが、古い時代に分流したものと思われる)

伊達との国境にある門でたびたび伊達家臣鮎貝・石母田などの侵攻も受けている。

慶長出羽合戦では800という寡兵で上杉の別働隊3000を引き止めたが
父越後は山形城に人質として取られていた。

1600年、論功で加増されるも、父祖伝来の上山から長崎へと移封されている。

家臣には下吉忠らと共に最上に降った上杉衆原八右衛門らが与力として多く付けられた。

加増されても旧領は召し上げされ、山形には直臣らがいる為に強い政治力もない
鬱憤が溜まっていたのでしょうな

義康暗殺は清水家に養子に入った三男義親(豊臣家の元小姓)の誅殺ともセットで語られる事が少なくない






因果は巡り

2011年11月03日 22:02

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/02(水) 20:23:01.20 ID:CByWOhZ5
因果は巡り

里見越前守義近は出羽上山口の城代だった。
天童八楯に属するもののたびたび長井の伊達氏から攻撃を受け、互いの利益のために八楯と敵対する
山形にも次男の民部をして繋がりをもっていた。

山形で最上義光が父義守を隠居させると
ある日谷柏直家と氏家尾張といった最上の重臣が義光の書状を義近に差し出した。

・上山(里見)満兼を消さば、上山里見本家の総領の地位と上山城を安堵する

義近の長男里見内蔵は上山満兼に重用されていたが、これを手討ちにすると義近は上山城を一族衆を動員して
乗っ取った。

つづく
728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/02(水) 20:36:40.75 ID:CByWOhZ5
つづき

義近の息子の民部は義光に重用され、
慶長出羽合戦でも直江方の別働隊大将本村造酒親盛を討ち取るなど、更に加増があった。

しかし最上家内での発言力を強化しようと
里見民部と民部の息子権兵衛正光が義光の長男義康を櫛引で暗殺してしまう。

最上義光はこれに怒り、正光を切腹させようとするが、里見一族は加賀前田家を頼り出奔する。

1614年
義光の死後、最上家親が「遺恨は水に流し里見一族を赦す」と前田家から里見一族を引き取った。

しかしこれは義光の「なにがあっても里見一族を絶て」といった遺言を実行するための策。

家親の兄義康が殺害された櫛引で
里見義近・民部・正光は切腹
加賀から山形に一緒に戻ってきた一族の者も全て斬られた

諸説が伝わり
正光だけが山形から逃げた、民部親子は片目・片足・片腕を斬られ野垂れ死にした、切腹は許されず
皆斬り殺されたといった話も伝わる。




734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/02(水) 22:48:16.05 ID:QlcrUh6H
廃嫡されたとはいえ落ち度もない主君の息子を家臣の一存で殺せるもんなの?

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/03(木) 05:35:10.85 ID:hbtXZmd+
>>734
だから里見民部の息子が最初に生贄に選ばれたんだよ。
主命なら特に憚る必要はない。

里見民部「廃嫡の上追放って事は殺っちまいな、って理解していいんか」といった雰囲気でもあったんだろうね。