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前田利長の事

2015年05月14日 17:56

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/13(水) 19:26:24.15 ID:Xi86n1fY
関ヶ原の一乱の時、石田治部少輔(三成)より、吉光の脇差に書状を添えて、前田利長を頼むという旨を
申しきた時、利長はこれを報告するため、徳川家康に家臣の野村治兵衛という者を使いとして派遣した。

家康は治兵衛に尋ねた
「三成は何事を、利長に頼むと言ってきたのか?」
治兵衛答える
「それを知る人は居りません。三成の使者は書状すら奉らず、すべて口上のみで伝えたのです。」

家康は治兵衛を側近くに召して密談し、また、夜もこの者を御寝所の次の間で寝させ、終夜
鷹狩の話をした。治兵衛も素より、鷹狩を好む人物であった。

翌日、家康は治兵衛に、金三十枚の価値がある腰の物と、馬を一疋下し置き、帰国することを許した。
この野村治兵衛は利長の無二の寵臣であった。彼が江戸から帰国する時、越前では西軍による関所が
作られ通行が遮られていたが、治兵衛は様々に申し開きをして無事加賀へと帰った。
これより、前田利長は家康に味方したのだという。

ある秘説に、利長からの口上は『それがし一生の内、家康公が秀頼公に如才あるまじきにおいては、
この度御味方申す。』というもので、家康は『その事、相違あるまじ』と返事したため、事済んだともいう。

前田利長が死んだのは、5月20日であった。その事は駿府に注進あったが、ただし、前田家よりも先に、
その家老であった本多安房守(政重)から本多正信への連絡のほうが早かったという。
このことは何か仔細が在ると、当時の世の人々は語り合ったそうである。

この注進が届いた時、徳川家康は碁を囲んでいたが、前田利長の逝去という事を聞くと
「さてさて、惜しき事かな。気の毒なことだ。」
そう言ってそのまま奥へと入ったいう。
そしてその翌月、家康は片桐且元らを召して、大阪に2,3箇条の仰せを遣わした。
関東のお心は国替えであるとした片桐且元は、淀殿を人質として江戸に下ることが第一であると
考えたが、大阪ではこれを拒絶したため、ついに事破れとなった。

大阪では太閤旧恩の諸侯の内、前田利長、加藤清正といった人々の病死は誠に力を失ったという。
そのためこの時は、それ以外の大名の中にも、5人か3人は自分たちに味方する者が
居ないということは無いだろうと、諸侯に頼み込んだのだという。

(明良洪範)



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